2012年05月09日

和宇慶朝伝先生にコーヒー栽培を教えた方がいた

戦後の沖縄でのコーヒー栽培は、
具志川市(現・うるま市、1968年6月までは中城郡具志川村)の
兼箇段(かねかだん)のご自宅の庭約500坪で
和宇慶(わうけ)朝伝先生が始めたのが最初で、
恩納村の山城武徳先生が後継したと私は思い込んでいたのですが、
最近、和宇慶先生にコーヒー栽培を教えた方がいたことを知り、
現在それを調べ始めました。

なにしろ、もう50年くらいも昔のことなので、
その経緯を知っている方々がいたとしても高齢になっているために、
どこまで解明されるかは判りませんが、
時間がかかってもいいので、
出来る限り情報を集めてみようと思っています。

バナナ園のコーヒー20120506.JPG
 我が家のバナナ園は海から直線距離で約1kmなので
 塩害のあるエリアですが、
 苗木定植3年目を迎え、順調に生育しています。
 昨年初めて開花したのですが、3度の台風で実を落としてしまいました。
 今年も開花、結実していますが、
 昨秋から補強した防風対策で、どの程度守られるのかが課題です。



今年の3月に、
親しくさせていただいている方の奥様が
クモ膜下出血で突然亡くなられました。
名前はシズさんといい、享年73歳でした。

シズさんが中部農林高校の生徒だったころの恩師が
和宇慶先生にコーヒー栽培を教えたというのです。

その話は、シズさんが亡くなられてから
ご主人から最近になって初めて聞きましたので、
シズさんに生前、直接お話を伺えなかったのが悔やまれます。

故人を偲(しの)び、和宇慶先生がコーヒー栽培を、
おそらく教わったと思われる時代を、今日は懐古してみたいと思います。

再生中のコーヒー苗木20120506.JPG
 コーヒー山をお借りするまでに
 ケンガイ鉢で栽培中のコーヒー苗木が成長してしまい、
 根が鉢の中でグルグル巻きになってしまった苗木は
 一部を自宅でリハビリ再生させています。
 画像の苗木は台所の前に置いてあります。
 一時は苦しがって葉を全部落としていたのですが、
 2年かかって再生してきました。
 白い花を咲かせ始めました。
 コーヒーはデリケートな植物ですが、強い部分もあります。



沖縄は、薩摩や明治以降の日本政府やアメリカに翻弄され現在に至っていますが、
明治以降でも不平等と貧困の歴史から、
沖縄は海外移民が早くから行われてきました。

海外移民といっても、永住目的ではなく、
3年契約の期限付き出稼ぎ労働が基本で、
契約終了後に帰沖した方々もいれば、
そのままハワイなどの現地に残ったり、
あるいは親族を呼び寄せたりしていますから、
明治後期以降、太平洋戦争の時期を除くと
移民先の親族との交流があったことで、
沖縄はコーヒーも含めていろいろな熱帯植物が入る環境にありました。

オランダが東インド会社を設立したのが1602年、
インド南西部のマラバル海岸から、
オランダ領東インド諸島(インドネシア)のジャワ島に
コーヒー苗木が海路運ばれたのが1696年ですが、
(この時は地震と洪水で失敗し、1699年に2回目を搬送して栽培に成功し
 オランダ領東インド諸島のすべてのアラビカ種コーヒーノキの先祖となる)
江戸幕府は鎖国中もオランダと清とは長崎出島で交易をして、
那覇は貿易船が寄港する国際貿易港でしたから、
江戸時代にもジャワ方面からコーヒーのタネが入手したことだって
あったのかもしれません。


歴史的に、あちこちからコーヒー苗木やタネの入手の可能性があるために、
私が本島で確認できていない品種が、
沖縄のどこかでまだ栽培されている可能性は否定できないどころか
大いにその可能性がありそうです。

私が確認できているのは、
品種が判明しているのが4種類、品種不明のが3種類ありますから、
実態はもっと多いはずです。

ヤンバルクイナ20120506.JPG
 国の天然記念物ヤンバルクイナです。
 綺麗な模様があるのでオスです。
 4〜7月はヒナが孵(かえ)る時期なので
 メスは巣を守っているのか、ほとんど見かけません。
 画像は我が家の前の軽トラックの横で撮影しました。
 もう保護は必要無いと思うくらいよく見かけますが、
 数秒で草むらに入り込むので、なかなか撮影は出来ません。



1945年(昭和20年)に終戦になりましたが、
当時はシズさんは6歳でした。
参考までに和宇慶先生は40歳、山城先生は16歳でした。
名桜大学理事長の嘉数先生から
「古稀になり退職し、理事長職を後進に委ねる」
旨のメールを先日戴きましたが、
嘉数先生は当時3歳だったのですね。

沖縄戦では昭和20年3月の国民勤労動員令公布で
沖縄県の15歳から45歳までの男女が根こそぎ動員され
(実際には15歳未満の子供から65歳以上の高齢者まで徴兵された)
日本軍の指揮下にありましたから、
和宇慶先生の40歳は年齢的に部隊に入隊させられていたはずですし、
山城先生は防衛隊員として伝令役を務めていたと本人から伺っています。
伝令といっても、上陸して民間人も容赦なく射殺する許可が出ていた米軍を突破するのですから、
日本軍は同じ文書を3人に持たせ、そのうち1人だけがたどり着くような任務だったようです。

昭和20年8月15日に昭和天皇による玉音放送がラジオで流され、
無条件降伏をしたその日が終戦とされていますが、
沖縄では9月7日に南西諸島の日本軍が降伏文書に調印しているのです。

第32軍を指揮していた牛島満陸軍中将と無能な参謀・長勇中将が
糸満市摩文仁洞窟に置かれた司令部壕で自決して
第32軍司令部消滅後は軍組織が壊滅して統制を失い、
沖縄島南部に追い詰められた民間人は逃げ惑い、
死の彷徨の果て、死者数が増大するのですが、
補給が途絶えた日本軍は、
第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)や
同連隊指揮下の2個大隊など
食糧を住民から強制的に強奪しながら、
8月15日の終戦後もゲリラ的局地戦や切り込みを続けていました。

北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが
米軍に投降したのは8月29日です。

8月15日のポツダム宣言後も、
陸軍の航空機が8月15日に鹿児島県の知覧基地から、
海軍の航空機は8月19日に同県の鹿屋基地から
沖縄へ向けて出撃しています。

神風特別特攻隊は、沖縄戦では、
4月6日〜6月22日まで延べ10次にわたって行われましたが、
南九州を飛び立った特攻機は、沖縄島北端の伊平屋島あたりにくると、
米艦隊と米空軍機グラマンの攻撃を受けて9割ほどが撃墜されたといわれています。

ポツダム宣言受諾後、
日本政府は敗戦処理に取り掛かりましたが、
沖縄ではなお戦闘状態が続いていて、
8月26日には、
沖縄攻略部隊の米軍第10軍司令部は、
連合国総司令部から
「9月2日以降に南西諸島の全日本軍の降伏に応じさせるように」
という命令を受けています。

9月7日になって、琉球列島守備軍第28師団長の納見敏郎中将が宮古島から
奄美大島から高田利貞陸軍中将
、加藤唯男海軍少将らが降伏調印のために嘉手納基地に召還されました。

沖縄守備隊の三将軍は、
米第10軍司令官スティルウェル大将に対し、
「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」
を申し入れ、
6通の降伏文書に署名して正式に降伏しましたが、
この終戦の伝達も連絡が遮断されて孤立しているゲリラ部隊に行き届くはずもなく、
9月半ばを過ぎてもなお、
沖縄の各地で敗残兵や住民が山中や自然壕に隠れていたそうです。

そういう意味では、沖縄での慰霊の日は
第32軍の牛島中将が自決した6月23日ではなく、
最終的に沖縄守備軍が正式に降伏調印した
9月7日がふさわしいような気が私はします。

双葉のコーヒー苗20120506.JPG
 昨秋いただいたタネを、師走の12月13日にタネ植えしました。
 もともと熱帯果樹ですから、冬には弱く、
 苗木や成木でも冬場の成長はありません。
 そのために3月下旬になって発芽してきました。
 画像は、発芽後約1カ月を経過して双葉になった状態です。
 この品種は今まで沖縄にはなかったものですが、
 発芽した時から「かなり沖縄向き」と期待させる品種で、
 今後の生育過程が楽しみになりました。



アメリカが沖縄を占領した直後、
本島は沖縄戦による荒廃で、通貨での取引より、
主に物々交換で行われていたようです。

愚連隊などが仕切る闇市の他、
那覇には那覇公設市場や若松公設市場、
宇栄原公設市場といった公設市場や、
マチグァーとよばれる出店が集まった商業地区なども
数多く点在していたようです。

鉄道もなく、また移動も困難なことから
日々の生活物資を調達する場として、
字(集落)ごとに相互扶助組織の共同売店形式の売店も発展して
現在でも、主に集落の高齢者の買い物やゆんたくの場として利用されています。

那覇市安里の栄町市場も闇市から発展した市場ですが、
このあたりは真和志町間切安里村(現・那覇市)で、
学徒動員により、学徒隊として従軍していたひめゆり部隊の
沖縄県立第一高等女学校(一高女)と
沖縄師範学校女子部があった地域のはずです。
沖縄戦で焦土と化したあと、栄町市場が出来たようです。

ちなみに、ひめゆり学徒隊は、
県立第一女子高等女学校の校誌名が「乙姫」、
沖縄師範学校女子部の校誌名が「白百合」なので、
これを組み合わせた造語が「ひめゆり」なのです。

沖縄戦当時は、沖縄には21の男女中等学校があり、
沖縄戦ではすべてが戦場に動員され、
全学徒のうち2千名余りが戦場で尊い命を落としました。
男子学徒は、4,5年の上級生が鉄血勤皇隊、下級生が通信隊に編成されました。
山城先生は“伝令”と言われていましたから、当時は下級生だったのかもしれません。
女子学徒は看護にあたりました。
ひめゆり部隊が南風原町の陸軍病院に向かったのは、そのためです。
男女の若い学徒は、爆雷を背負って米軍戦車に体当たりしたり、
あるいは、国民学校児童でも手りゅう弾を握って敵陣に突入するなど、
今の時代からすると、とても考えられませんが、
沖縄にはそういう悲しい歴史があるのです。

ひめゆり部隊はあまりにも有名ですが、
・沖縄師範学校男子部
 (師範鉄血勤皇隊、386名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、224名が戦死)
・沖縄県立第一中学校
 (一中鉄血勤皇隊、371名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、210名が戦死)
・沖縄県立第二中学校
 (二中鉄血勤皇隊、144名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、127名が戦死)
・沖縄県立第三中学校
 (三中鉄血勤皇隊、363名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、37名が戦死)
・沖縄県立農林高校
 (農林鉄血勤皇隊、173名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、41名が戦死)
・沖縄県立水産学校
 (水産鉄血勤皇隊、49名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、23名が戦死)
・沖縄県立工業学校
 (工業鉄血勤皇隊、94名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、85名が戦死)
・沖縄県立商工学校
 (商工鉄血勤皇隊、99名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、72名が戦死)
・開南中学校
 (開南鉄血勤皇隊、81名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、70名が戦死)
・沖縄師範学校女子部
 (ひめゆり学徒隊、一高女と併せて222名の女子生徒と引率教師18名の合計240名が
  沖縄陸軍病院(南風原陸軍病院)に看護要員として動員され、136名が戦死)
・沖縄県立第一高等女学校
 (ひめゆり学徒隊、同上)
・沖縄県立第二高等女学校
 (白梅学徒隊として4年生56名が八重瀬岳中腹にある第24師団第一野戦病院に動員、22名が戦死)
・沖縄県立第三高等女学校
 (現・県立名護高校、なごらん学徒隊として4年生10名が八重岳(現本部町)の
  沖縄陸軍病院名護分院に動員、2名が戦死)
・沖縄県立首里高等女学校
 (瑞泉学徒隊として4年生61名が第六十二師団の野戦病院(南風原町新川のナゲーラ壕)に動員、
  33名が戦死)
・積徳高等女学校
 (那覇、積徳学徒隊として4年生56人が第二十四師団第二野戦病院(豊見城城址)に動員、
  3名が戦死)
・昭和高等女学校
 (梯梧学徒隊として、4年生17名が第六十二師団の野戦病院(南風原町新川のナゲーラ壕)に動員、
  9名が戦死)
・沖縄県立宮古高等女学校
 (宮古高女学徒隊、動員数など不明)
・沖縄県立宮古中学校
 (宮古中鉄血勤皇隊、動員数不明、戦死者0)
・沖縄県立八重山高等女学校
 (八重山高女学徒隊、動員数など不明)
・沖縄県立八重山中学校
 (八重山中鉄血勤皇隊、20名が戦闘要員として動員され、1名が戦死)
・沖縄八重山農学校
 (八重鉄血勤皇隊、八重農女子学徒隊、動員数など不明)
以上の21の学校では、
特に本島では学徒として動員されなかった生徒も多くの犠牲者を出しました。

私が住んでいた糸満市や南風原町などの那覇近郊では
戦後、野菜が作られ、野菜を入れた籠(かご)を女性が頭に載せて
徒歩で那覇に売りに行きました。
南風原町で隣に住んでいたおばぁの話では、
「戦争で主人が亡くなり、3人の子供を育てるのに大変で、野菜作りをした」
「真和志(まわし、那覇と南風原の境)あたりで、よく
愚連隊に野菜を格安で買い取られた」
「その後は開南の農連市場で対面販売をした」
と言われていました。

牧志公設市場や栄町市場は戦後闇市から発展したものです。

終戦直後の沖縄県や奄美群島においては、
戦後の闇市などでは旧日本円や、
久米島紙幣(沖縄戦末期の1945年に久米島を占領したアメリカ軍によって設置された
 米軍久米島軍政府が発行した謄写版の代用紙幣)、
米ドルなどの地域通貨が混同して若干流通していたのですが、
1946年(昭和21年)4月15日、アメリカ軍は自らが発行するB円を公式通貨としました。
B円というのはB型軍票(Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yen)のことです。

「B」というのですから、「A」という“A円”もあって、
これは南朝鮮(現在の韓国)の法定通貨
(終戦まで日本円と等価の朝鮮銀行券)とされていたのですが、
米軍基地内だけで使われていたようで、
一般には流通しなかったようです。

コーヒーの発芽20120506.JPG
 前の双葉の画像と同じ品種です。
 私は時期をずらしてタネ植えをしているので、
 この発芽苗は今年に入ってからタネ植えをしたものです。
 発芽率を調べるのに、多めのタネを入れてしまったのですが、
 9割前後が発芽してしまいました。
 こうなると、この後黒ポリポットに移植させる作業がとても面倒になります。
 この後のタネ植えは、1つのプランターで48個にしました。
 発芽した茎は、今まで栽培した品種がデリケートで弱々しいのに対し、
 今回の栽培品種は茎も太いしとても力強く、
 この段階でも、かなりの沖縄向きを期待させるものです。



米軍が沖縄や奄美群島を恒久的に統治を考えるようになると、
1948年(昭和23年)7月21日に新旧日本円の流通は禁止され、
B円が流通する唯一の通貨となりました。
7月16日から21日の6日間にかけて、
日本円とB円の交換が行われました。

通貨をB円に統一することにより、
米国民政府は、通貨の流通量を統制することができることと、
レートを意識的に3倍に設定し、
米軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払いや
日本本土から安価で資材を調達することが出来るという思惑があったからです。

1950年(昭和25年)のレート変更は物価の上昇を招き、
奄美群島の本土復帰運動を加速させることにつながります。
また、経済が空洞化したことが、
本土系企業の進出をも遅らせる理由に至りました。

また1950年(昭和25年)6月には、
第2次世界大戦後、米・ソの対立を背景として
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)が戦争を始め(朝鮮戦争)、
日本本土や沖縄の米軍基地からも直接出撃しました。

韓国ドラマの「ロードナンバーワン」は朝鮮戦争を題材にしたもので、
5月6日までBS11で放映されていましたね。
途中まで興味深かったのですが、
後半から面白くなくなり、最終回はガッカリでした。

1950年(昭和25年)には、連合国最高司令官覚書により
北緯29度以北が日本に返還されました。
具体的には、トカラ列島の十島村十島村(じっとうそん)
・上三島(竹島、黒島、硫黄島)
・下七島(口之島、中之島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、臥蛇島、小宝島、宝島)
のうち、
下七島が返還されました。
(昭和28年、北緯27度線から北の与論島以北の奄美群島が返還)

1952年(昭和27年)4月1日に奄美群島政府が廃止され、
沖縄に琉球政府が発足します。
同年4月28日には、戦後、アメリカの占領下にあった日本は
サンフランシスコ平和条約で、ようやく主権を回復し、
独立国家・日本として再スタートが切れることになりました。
朝鮮戦争により冷戦構造が緊迫化したことで、
アメリカはアジアの共産化を恐れ、ソ連と対立したまま、
日本との講和条約の締結を急いだからです。
戦後廃虚と化した国土と、
外地引揚げ及び復員約630万人を含む過剰人口を抱え、
苦難期を迎えていたことで、連合国との国交回復を機に
日本政府は農業政策移民を再開させます。
同年8月には、アマゾン移住5,000家族と、
中部ブラジル移住4,000家族がブラジル政府により受入を許可され、
戦後の海外移住が始まりました。

シズさんは当時13歳でした。
ご家族はブラジル移住を決意して渡航準備をしていたようですが、
その渡航費を仲介者に持ち逃げされて、
沖縄に留まることになったのだと、ご主人から伺いました。
こういう移民に関する詐欺事件は当時多かったようです。

国頭村の集落でも、ブラジルやボリビアなど
南米方面へ移住した家族は多かったようです。

コーヒー山の地主に
「ボリビアはひどかったらしいですね」
と言うと、
「ドミニカよりはよほどマシだったようだよ」
と楽天的に答えていましたが、
日本政府は移住地を詳細に調べず、
また問題があっても移民者を引き揚げさせることもほとんどなく
受け入れ先があれば、募集をして送り出すという、
ある意味“棄民”政策とも捉えられる政策を進めていました。

1953年(昭和28年)7月に朝鮮戦争が終わり(休戦)、
北緯38度線で南北に分断され、
以降現在に至るまで韓国と北朝鮮両国間に平和条約は結ばれていません。
また、同年3月23日には民政府布令第109号「土地収用令」が発令されました。

地主との賃貸借契約が不調に終わった場合には、
強制的に使用権を取得することができるほか、
緊急の場合には、使用権取得前にも立退き命令を発することができるという、
米軍に都合のよい一方的な内容です。

これだけだとよく意味がわかりにくいと思いますが、
要するに、沖縄での米軍の軍用地使用については、
原則的には土地の賃貸借契約は行うものの、
それがもしトラブルになったときは、米軍は地主に対し収用の告知を行ない、
もし地主が拒否したとしても、米軍は一方的に収用宣告書を発することによって、
その使用権原を確保することが出来る、
という、まったく一方的な不平等な内容なのです。

この布令は新規接収のみに適用され、
それまでの既接収地は、依然として一方的な不法使用が続けられました。
なにしろアメリカにとっての沖縄は統治という植民地としか考えていないのですから。

元沖縄県知事・太田昌秀氏は、
沖縄沖縄師範学校男子部に在学中の1945年年3月に鉄血勤皇隊に動員され、
九死に一生を得た、反軍反戦反基地姿勢の気骨ある方ですが、
「戦後沖縄の最大の問題は、軍事基地化のため、農民の土地を強制的に収用したことだ」
と、著書に書かれています。

「土地収用令」は、形式上は“租借”ですが、
有無をいわせず、武装兵とブルトーザーで次々と軍用地を収用していく、という
実態は“強奪”なのです。
反対する住民に対しては、米軍は軍用地の買い上げを示唆したり、
借地料の166年分を「一括払い」して、
その土地の永代借地権を得ようとしました。
米軍が提示した地代は、坪当たり1円8銭といい極端に安いもので、
当時の人々は「コカコーラ地代」と呼んだそうです。

「土地収用令」の最初の収用通告は、
同年4月10日、那覇市銘苅、安謝、天久3区にわたる地域に発令し、
翌11日に武装兵とブルドーザーを投入して約15万坪収用したのですが、
これが現在の普天間基地です。

同年8月には読谷村渡具知などに発令(約30万坪)、
11月には小禄村具志に発令(約2.4万坪)されました。
その後も、あちこちに発令され、
現在の沖縄の米軍基地はすべてそれによって占拠され
現在に至っているのです。

琉球列島米国民政府は、アメリカ統治を批判していた沖縄人民党を
共産主義政党として度々弾圧を加えていたのですが、
1954年(昭和29年)沖縄の偉人・瀬長亀次郎を検挙、投獄(懲役2年)してしまいます。
瀬長は1952年に琉球立法院に当選し、
就任式では、ただ1人アメリカへの宣誓を拒否したり、
米軍の土地強奪と人権じゅうりんに、断固として反対し、
相次ぐ圧力にも屈せずに、
「土地代金を払え」
「水代を払え」
と叫んだり、
自分の信念をとことん貫き通した不屈の人物ですから、
アメリカにとっては煙たい存在だったのです。

同年7月に、米国民政府は前年に日本復帰した奄美群島出身の人民党員2人に
域外退去命令を出したのですが、その2人は官憲の目をかいくぐって逃亡しました。
(後に1人は逮捕、もう1人は島外に脱出した)
米国民政府は、この2人を匿(かくま)っていたとして、
当時の党委員長で立法院議員だった瀬長亀次郎ら幹部2人と党員28人を逮捕し、
弁護士なしの裁判にかけ、瀬長に懲役2年の実刑判決を下したのです。
沖縄は瀬長亀次郎がいたからこそ復帰運動が盛り上がり、
やがて屋良朝苗(やら ちょうびょう、当時琉球政府行政主席)が米軍統治下で、
不屈の精神で悲願の祖国復帰を実現させるのです。
(1972年5月の沖縄返還の過程で1965年に佐藤栄作総理が沖縄を訪問したのですが、
 当時26歳のシズさんは米軍基地の総務課主任で、
 佐藤首相の接待に出られたそうです)

シズさんは1954年当時は15歳、
中部農林高校に通学されていた時期です。
この頃のシズさんの恩師が、
やはり同校教員だった和宇慶先生に
コーヒー栽培を教えた、というのです。

和宇慶先生は当時49歳でしたから、
コーヒー栽培を教えた、という先生は、
もう少し年齢が上なのかもしれませんが、
そのあたりは今のところまったくわかりません。
戦前は名護市の親川仁吉さんがコーヒー栽培をされていたようですが、
親川さんと、その先生がどういう関係だったのかも興味深いですが、
こっちはもう調べようがないかもしれません。

山城先生は1954年当時は25歳ですが、当時はまだ教員ではなかったはずです。
山城先生は1969年(昭和44年)10月の
第一次琉球政府文教局公務員試験
(沖縄教員採用試験、1次は那覇と東京で試験、
 翌年3月末の時点で沖縄に本籍を有すること、が条件)
で教員になり、中部農林高校で物理の担当になられた、
とご本人から伺っていますので。
そうだとすると、シズさんは山城先生とは面識はないのかもしれません。

リュウキュウメジロ20120506.JPG
 今日のヤンバルクイナの画像を撮影中に飛んできたリュウキュウメジロです。
 リュウキュウメジロの特長は本土のに比べて
 少し口ばしが大きいのでしょうか、違いはよく判りません。
 撮影場所は自宅前の雑草放任栽培地(野菜栽培予定地)で、
 ヤンバルクイナの大好きな隠れ場所でもあります。
 草むらなのでハブもいますから、不用意には入れません。
 セキレイなども飛び廻っていますが、これは速すぎて撮影が難しいです。
 リュウキュウメジロはツガイで仲良く飛んでよく鳴いています。



翌年の1955年(昭和30年)には、
米兵による、悲惨な由美子ちゃん事件がありました。
シズさんは当時16歳ですから、
中部農林高校に在学中のはずです。

石川市(現・うるま市)内の幼稚園に通っていた6歳の永山由美子ちゃんが、
夕方1人で映画を観に行ったまま、行方不明となり、
翌日嘉手納海岸で惨殺された遺体が発見され、犯人は米軍人、
軍法裁判で死刑の判決を受けるものの、
実際は米国に帰還し、責任の所在はうやむや、
という植民地特有の住民軽視の事件です。

1955年9月4日付「沖縄タイムス」夕刊は以下のように報じています。
「嘉手納海岸近くの部隊塵捨て場に身元不明の少女が暴行を受け、
 殺されているのが発見された。
 4日朝、嘉手納村旧兼久部落俗称カラシ浜の部隊塵捨場近くの原野で、
 8才から10才位と思われる少女死体が、 
 あお向けになったまま捨てられてあるのを警ら中の米兵2名が発見、
 MP隊(military police=米軍憲兵隊)を通じ嘉手納派出所へ届出た。
 少女は暴行を受けた形跡がありシミーズは左腕のところまで垂れ下がり、
 口をかみしめたまま死んでいた」

犯人は事件から1週間後に逮捕されたのですが、
由美子ちゃんを車で拉致して、嘉手納基地に連れ込み、
軍の施設内で何度も何度もレイプし、最後には殺し、
その遺体を嘉手納の米軍部隊のゴミ捨て場に捨てた。
由美子ちゃんは、唇をかみしめて、
右手に数本の雑草を握りしめているように死んでいた。
そういう悲惨な事件でした。

由美子ちゃん事件以前でも、新聞報道されたものだけでも
・1947年 17歳(強姦)
     18歳(強姦)
・1948年 18歳(輪姦)
     17歳(拉致、強姦)
     18歳(拉致、強姦)
     17歳(拉致、強姦)
・1949年 14歳(強姦)
     16歳(強姦未遂、傷害)
     生後9ヶ月(強姦)
     18歳(強姦)
     15歳(拉致、強姦)
     17歳基地内のメイド(強姦)
・1950年 女子高校生(強姦)
・1951年 16歳(強姦)
・1952年 18歳(性交拒否で傷害)
などがあり、
泣き寝入り被害者はもっと多かったでしょうから
米兵の事件は常態化されていたようです。


沖縄では60代後半以降の方々は
沖縄戦や、米軍統治での植民地扱いなど
筆舌に尽くしがたい激動の時代を生き抜いて来られた方々なのです。

和宇慶先生や山城先生は数年前に亡くなられましたが、
そういう大変な時代の中で、
沖縄でコーヒー栽培を普及拡大させようとした想いは
引き継がなければいけないのです。

シズさんのご冥福をお祈り申し上げます。

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2012年04月21日

タゴールのボライから光量を考える

やがて若芽は、すべての生物に先立って大木に成長し、
両手を合わすようにして、太陽にこう語りかけるのだった。
「私は存在しなくてはならないし、生きなければならないのだ。
私は孤独な永遠の旅人である。
陽が照ろうが翳(かげ)ろうが、昼だろうが夜だろうが、
次々に襲いかかる死をのりこえ、
無限の生命が開花する聖地に向かってひたすら巡礼を続ける旅人なのだ」
このような樹木の呟(つぶや)きは、
今でも林や山や村のいたるところで聞かれるのだ。
梢から葉から大地の生命の声は響いてくる。
「私は存在しなくてはならない。私はこの地上で生きなければならないのだ」
宇宙の声明を無言のうちに支えているこの大樹は、
絶えることなく天上から甘露(かんろ)を絞りとっている。
大地の甘露の貯蔵庫の中に、
生命の輝き、潤(うるお)い、美しさを貯えている。
そして不安に充ちた生命の言葉を天空に向かって叫び続ける。
「私は生きるんだ」
と。
この宇宙の生命の呟きを、
なぜかボライは、自分の血の中に聞くことが出来るのだった。


以上は、タゴールの「ボライ」という短編の一部です。

タゴールとはラビーンドラナート・タゴール、
アジアで初めてノーベル文学賞を受賞した近代インドの最高峰の詩人、思想家です。
インド国歌やバングラデシュ国歌の作詞・作曲者でもあり、
また日本人の自然を愛する美意識を高く評価して岡倉天心らとの親交があり、
日本には5回も訪日されています。

「ボライ」という短編は、簡単にいえば
草木の栄枯盛衰を観て、植物から知ることの大切さを学び、
愛を持つことによって人間愛を養いなさい、同時に人生を学びなさい、
という短編小説です。

ボライというのは、甥(おい)の名前で兄の子ですが、
義姉が亡くなり、兄は失意のあまり英国へ留学したことで、
ボライが赤ん坊の頃から預かっていたのです。
ボライは生まれつき、植物の旋律を感じ取れる特殊な繊細な才能を持っていました。
ボライはどんな植物にも敬意を表し、愛情を持って接し、細々と観察しするのですが、
やがて歩道上に生えてきたシムールの木を、
自身のもうひとつの命のごとく大切に丹精込めて育てるようになります。
ボライは英国から突然帰国した父から英国留学を命じられるのですが、
シムールの木がジャマでいまいましかった“私”が
シムールの木を切り倒してしまった直後に
ボライから「シムールの木の写真を送ってほしい」という手紙が届く、
という哀しい結末で終わる短編小説です。

牧野財士氏の和訳もすばらしく、
冒頭に転載した文面は何度も何度も暗記するくらい読み返してしまいました。


「ボライ」を読んで、コーヒー山を想うと、判ってきたことがあります。

「過疎の小学校に、都会の過保護な生徒が転校してくると、すぐには溶け込めない」
「日本の、ふつうの公立小学校に、日本語の話せない外国人が転校してきた」
という情景を思い描いたとき、
コーヒー山に定植されたコーヒー苗木たちが
過酷な試練を乗り越えようと、日々奮闘しているのが判ってきたのです。

在来種の群雄割拠のやんばるの森林に、
デリケートで繊細な外来種のコーヒーが入ってきても、
すぐには仲間に入れてもらえないどころか、
在来種の植物たちからすると、
むしろ淘汰というか排除しようとするはずです。

コーヒー山の在来種のフィトンチッドやアレロパシーなどが
コーヒーの生育自体に若干阻害の影響を与えているはずですから。

私の
「健康に生育した木は、元気な実をつけるはずだ」
という考えはまったく変わりませんが
「森林栽培は、路地栽培より倍以上の時間がかかる」
「たとえ時間がかかっても森林で栽培した方が良い実をつけるはず」
ということが、
今回「ボライ」を読んだことで、
目から鱗(うろこ)が落ちたように思えたのです。

コーヒー山では生育速度は路地栽培当時と比較すると確かに遅いのですが、
ひと冬というか1シーズンをコーヒー山で経験したコーヒー苗木たちや移植した木は
路地栽培当時より元気といえます。

さて、そうなると、今度は「光量」です。
スダジイやイジュなどの、陽を浴びたい中高木は森林の外側を覆いますから
森林内の中低木の草木は木陰が多くなります。

頭上の樹勢120419-1.JPG
 昨年8月の、本島全体が45時間暴風雨圏にさらされた台風で
 やんばるの森林もすっかり疲弊してしまったのですが、
 その後、雨量が多く、最近のやんばるは新緑がまぶしくなってきました。
 画像はコーヒー山の中から頭上を見上げたところです。
 「光量の適度がどのくらいか」
 が新たな悩みのタネです。


今までは
「コーヒーは陰樹」
なので、
「森林内の木陰で、木漏れ日が入るならOK」
とアバウトに考えていたのですが、
「コーヒーを植える環境に適した在来種の中高木を植えて、
 コーヒーと伴植する樹木をシェードツリーとする」

というのが、コーヒーとシェードツリーの考え方ですから、
現在のコーヒー山のように、
「在来種の森林内の中低木を一部伐採して、
 そこにコーヒーを定植し、自然な木陰の中でコーヒーを栽培する」

のに、
シェードの役割は、
「適度な日陰を作ることで、強い日照からコーヒーノキを守る」
ということですから、
この“適度”というのが微妙ですよね。

ブルーベリー栽培の指導者・西園寺さんから、3月に
「もっと光量を入れた方がいいんじゃないか」
というアドバイスをいただき、
「適度とは具体的にどの程度をいうのか」
というのが、今度は気になるようになりました。

「光量が少なければ光合成がしにくくなり不健康化、光量が多ければ葉焼けして短命化」
ということになるわけです。

頭上の樹勢120419-2.JPG
 ここもコーヒー山です。
 私としては、ここは光が入りすぎと思うのですが…。
 コーヒーは発芽以降、幼苗、苗木時代の環境でも
 コーヒー山に定植後に微妙に変化を見せてしまうので、
 その点ではなかなかデリケートですね。
 赤ちゃんの育児のように、コーヒーは初期は
 特に人の介在が不可欠ですが、
 主役はコーヒーで、私はあくまで黒衣なのです。


植物は自分が生きて行くためのエネルギーを、
日照による光合成という方法で自ら作り出しているのですが、
松のように、芽生えからより多くの日照を浴びて、
他の樹木よりも早く高く生長することで日照を独占して、
森林内で少しでも優位に立ちたいという「陽樹」に対し、
水分や栄養分が豊富で
森林内の弱々しい光の中でも着実に成長して、
いつか明るい光を浴びる日を夢見て
虎視眈々とCHANCEを伺う「陰樹」があり、
コーヒーの木は、クスノキ、カシノキ、ブナ、シイ、
タブ、ツガなどとともに後者の「陰樹」になります。

陽樹が成長して繁茂すると、その木の下は当然日陰になるので、
松などの次世代の芽生えは光が不足するためこの陽樹の下では育たずに、
薄暗い光量下でも幼苗が育つ陰樹が育ち、
陽樹林は陰樹林へと変遷(へんせん)していくのです。

アバウトにいえば、
「日陰であっても成長可能なのが陰樹」
という意味で、
「陰樹だから光が少ない方が良い」
というわけではないし、
「光量も多ければいいのではない」
のです。

濃霧のコーヒー山120421.JPG
 一昨日は午後から天気が崩れました。
 帰る途中に観たコーヒー山です。



コーヒーの実の果肉は甘いのですが、
この糖度と品質の関係も少し考えてみましょう。
横浜の中村さんからこのお話をいただき、私も気になったのです。

糖度は
「日照時間に比例する」
といわれますが、
糖度が上がるためには、光だけでなく、
“寒さ”という厳しさも必要になります。

コーヒーが
「昼夜の温度差があるほど良い品質の実が出来る」
といわれているのは、そのためですが、同時に
「昼夜の温度差があるほど、果肉は美味しい甘さになる」
と考えられます。

光合成を行わない夜間の温度が低いと、
寒さに耐えるために、消費する炭水化物の量が少なくし、
自らの樹液濃度を高める、その濃縮作用が、
果肉の美味しい甘さを作り出すのではないかと思うからです。

そう考えると、
「森林栽培は路地栽培より倍の時間がかかるが、
 時間がかかることで日照時間の積算量自体は多くなる」

という、
「時間をかけて育てる」
ことは、あながち間違いではないように思います。
問題は光量のバランス調整だと思います。

ヤンバルクイナ120420-1.JPG
 コーヒー山の地主によると、
 国の天然記念物ヤンバルクイナは
 10年前は「月に数回見かけるくらい」だったのが、
 最近は「見ない日は無い。多い時は1日に何羽も見る」と言って
 「増えすぎて、もう保護なんか必要ないんじゃないの」
 と言われています。
 その正否はともかく、我が家の庭や、バナナ園などにも多数出没しています。
 この画像は我が家から20mくらいのところで昨日撮影しました。
 これは模様が綺麗なのでオスです。


ヤンバルクイナ120420-2.JPG
 彼らを見て「あっ」と思うと、ほんの数秒で、
 こうして草地に入ってしまうので、
 出会いは多いのですが、なかなか撮影出来ないのです。
 一度草地に入ってしまうと、そこからは二度と出てきません。
 彼らを多く見れるのは4〜7月、特に4月中旬〜6月は、
 雛を連れ歩く時期でもあり、エサを探しているのか
 朝でも日中でも夕方でも、よく出てきます。


現状では
「沖縄でのコーヒー栽培では、光量はこのくらい必要」
というのは結論を出せずに、
暗中模索から抜け出せないのですが、
「原産地の栽培環境を再現させたい」
という私の考えでは、
コーヒー山は、まさに理想的な栽培環境だと改めて思い直しています。

沖縄のコーヒー栽培では、標高が最も高く、昼夜の寒暖差も激しく、
冬の寒さも沖縄随一ですから、コーヒー山の環境に時間がかかっても馴染めれば
きっと良い実を付けるはずだと確信しています。


バナナ園のコーヒーの開花.JPG
 自宅に隣接するバナナ園の東側に植えたコーヒー苗木がようやく開花しました。
 昨年の台風では、かなり潮を浴びて、放任していましたが、
 どうやら潮にも耐性があるようですね。


posted by COFFEE CHERRY at 18:53| 沖縄 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月01日

コーヒー苗木の定植基準

コーヒーの苗木を、
「いつ植えるのか」
あるいは
「どの程度の大きさになったら植えるのか」
など、
いろいろな方法を試行錯誤しているのですが、
「苗木がこういう状態になったら植える」
という、私なりの基準をご披露しましょう。

コーヒー苗木20120401-1.JPG
 定植を待つコーヒー苗木です。
 コーヒー山でも2回の冬を経験して、
 山の環境にはすっかり慣れ親しんでたくましく生育しています。


コーヒー苗木20120401-2.JPG
 これも定植の出番を待つコーヒー苗木です。
 日本には口径が小さくて深いポットがありませんが、
 出来ればメーカーではそういう深型のポットも作ってほしいところです。
 根がポット内をグルグル回るのは避けたいし、
 直根も真っ直ぐの状態で、植えたいからです。


コーヒー苗木20120401-3.JPG
 これも定植の出番を待つコーヒー苗木ですが、
 最初の頃は“高さ”を基準にして定植していました。
 昨秋から新たな基準に変えました。


コーヒー苗木20120401-4.JPG
 これは、苗木の高さが充分でも、
 「まだ定植しない苗木」です。
 次の画像と比較してください。


コーヒー苗木20120401-5.JPG
 こちらの苗木は「定植する苗木」です。
 前の画像と比較して、違いが判りますか?
 新しい基準は「枝が出ているかどうか」にしています。
 前の画像は、まだ葉が出ている状態ですが、
 こちらの画像は枝が出てきていますよね。
 高さが同じようでも、苗木の生育が違うわけです。
 昨秋からは、「高さが30〜40cm」で、
 さらに「主幹の上の方に枝が出た苗木」を優先して定植しています。



この基準は、経験を基にした私なりの判断なので、
コーヒーの栽培学的に正しいのかどうかは判りませんが、
昨秋から約半年間、定植した苗木の経過を見ていても異常がなく、元気なので、
当面はこの方法で行うつもりです。

「いつ植えるのか」
は、また次の機会にご紹介しましょう。
posted by COFFEE CHERRY at 22:20| 沖縄 晴れ| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月31日

半栽培を考える

コーヒー山では、リュウキュウイノシシがあちこち掘り返していて
まるで耕耘機が暴走したような光景が目立っています。

沖縄本島は昨年3度の台風襲来があり、
コーヒー山でも、森林内では空がよく見えないほどの
鬱蒼(うっそう)とした森林だったのが、
台風でシイの木が枝葉をずいぶん飛ばされて、
イノシシの大好物のドングリが激減してしまったことで
ミミズを捕食するためにあちこち掘り返しているのです。

ヤンバルオオフトミミズ120319.JPG
 ふつうのシマミミズやフトミミズを超越して
 ヘビみたいな巨大なヤンバルオオフトミミズ。
 リュウキュウイノシシは、好物のドングリが激減したので
 この巨大ミミズを捕食するために、
 あちこち掘り返しているのです。



台風の影響でコーヒー山では上空を見上げても、
空が見えるようになってしまいました。
ということは、陽が入ることを意味しています。
やんばるは新緑が目立ってきましたが、
元通りの、鬱蒼(うっそう)とした森林に戻るには
まだ1〜2年はかかりそうです。

イノシシがあちこち掘り返してもコーヒーには無関心、
というよりコーヒーは避けています。
イノシシはバナナの株やテッポウユリの球根などは大好きですが、
コーヒーのカフェインが嫌いなのです。
植物のアルカロイドは、多くが他の生物に対して毒性があります。
これは植物が自己防衛のために作り出した物質なんですね。

チョコレートのテオブロミンとか、
コーヒーやお茶のカフェインのようなアルカロイド類は
人類は数千年も前から、熱帯雨林で
様々なアルカロイドに富んだ熱帯植物を食べてきた歴史があり、
人類は体内で簡単に解毒できるようになっています。
カフェインは人間にとっては神経を良い意味で刺激することで
リラックス効果をもたらすのですが、
イノシシにとってはアルカロイドは“毒”というわけです。

イノシシが掘り返す事態はコーヒー山だけでなく、
やんばる全体に及んでいます。

「やんばる(山原)」
とは、
「山々が連なり森の広がる地域」
を意味する言葉で、
ブナ科のスダジイ(沖縄ではイタジイ)やオキナワウラジロガシが優先する
常緑の照葉樹林の森で、
自然性の高い亜熱帯性常緑広葉樹林が広がり、
多様性に富む生物相を保持しています。
そのため、コーヒー山でも固有種とよく出会うのです。


森で木が倒れると、森に光が入るようになります。
光が入ることによって、これまで高い木の下で成長できなかった種類の植物や
照葉樹たちが先を争って成長するようになり、
太陽の光をめぐる競争が激化し、そこには新しい形の生態系が生まれます。

これも長い時間の経過とともに、また元のような高い照葉樹に覆われ、
このプロセスを
「遷移(せんい)」
といい、
遷移の結果至った安定した生態系を
「極相」
といいます。

森では永遠に極相が保たれることはなく、
攪乱を受けて、遷移になり、極相に至ることを繰り返しているのです。

広い自然界の中では、どこもがすべて極相ではなく、
あるエリアは極相を保ち、あるエリアは遷移の初期段階、
またあるエリアでは遷移の中期段階、
といったような状態になっています。
極相エリアと遷移エリアでは、それぞれの段階ごとに生態系が違いますが、
広い自然界では、全体として生物多様性を維持している、
ということになります。

イノシシがミミズ捕食のために掘り返したところや
陽が射し込む森林を見ていても、
遷移の中にいる私が、森と共生しているような一体感が得られて
それはそれで趣があり、またすべてがいとおしく、
作業も一層楽しく感じられます。

コーヒー山20120330.JPG
 標高約300mのコーヒー山は照葉樹林に覆われています。
 台風などで倒壊してしまう木もあります。
 コーヒーは森林内に定植していますが、
 光をどの程度入れたらいいのかを試行錯誤しています。



「固有種の多い、やんばるの自然を守ろう」
という
「環境保全」
を考える方々がいるように、もちろんその趣旨には私も同感です。

環境保全の概念では
「人間が手をつけていない、手つかずの自然こそが最も望むべき自然の姿」
とか
「鬱蒼(うっそう)とした森林形態が、ひとつの理想的な自然な姿」
と考えがちで、
実際に少し前の生態学では、
「人間の活動は生態系を壊す」
という位置づけをされていました。
人間のかかわりは自然界には否定的だというとらえ方をされていたわけです。

ところが近年の生態系では、特に保全生態系の分野では、
「適度な人間とのかかわりがあった方が、むしろ生物多様性に寄与することが多い」
というとらえ方になっていて、
人間と自然との関係では、
 ・ 野生なのか栽培なのか
 ・ 自然なのか人工なのか

といった二分法を考えがちですが
「攪乱の程度によっては自然を壊さず、むしろ保全する」
という考え方が出てきているのです。

これは私にとって、とても興味深く、また嬉しい考え方でした。
私の森林栽培は、
「在来種の森林の照葉樹は優先して残して、
 低木などを少し伐採してコーヒーを定植する」

というものですから、
「それでも、やんばるの生態系を微妙に変えてしまっている」
という、少しnegativeな気持ちもあったからです。


約35年ごろ前に、
ちょうどコーヒー山が丸裸に伐採された頃ですが、
(コーヒー山はその後放置されて森林が復元しました)
民族植物学者の中尾佐助先生が
「人間が狩猟採集生活から、どうやって農耕に移行したのか、
 移行には“半栽培”段階があったのではないか」

という提起をされました。

「人類がどうやって生物を栽培化していったのか」
という歴史的な関心に基づいた考え方です。

その後、「半栽培」は
「人間と自然との相互関係のあり方を考える概念」
として研究され、
半栽培は以下の3つの類型に分類されているようです。
 ・自然生態系の中から特定の野生種を利用する
 ・畑地の雑草から特定の植物を利用し、保護、栽培する
 ・栽培化されたが、そこから野生化したもの



我が家はやんばるの過疎にあるために、
地デジ難視対策衛星放送といって
要するに衛星で東京の番組やBSチャンネルの一部を視聴しています。
そのため荒天の日はテレビがまったく映らないこともあるし、
台風などの情報も、沖縄の番組が見れないのでネットやラジオで得るしかありません。
先日、BS(TBS)の番組で
地球の誕生を1月1日、現在を12月31日とした1年間のカレンダーを作ったときに、
「生命が誕生したのは何月頃か」
とか
「恐竜が活躍したのはいつごろか」
とか説明されていたのですが、
「人類が誕生したのは12月31日の夜11時37分」
つまり、偏向報道のNHKが紅白歌合戦で
歌手たちが紅白の玉を会場に投げて
「そんなのどっちが勝ったって、どうでもいいよ」
と思っている頃に人類が誕生した、
ということは、
ヒトの誕生は「ゆく年くる年」で
雪が深々と降る寒そうな寺院で除夜の鐘が突かれている頃になるのですが、
自然人類学におけるアフリカ単一起源説、
「地球上のヒトの祖先はアフリカで約20万年前に誕生し、
 その後世界中に伝播していった」

「植物は動けないので、人間が植物を選び、タネを持って旅をすることによって、
 植物もアフリカから地中海沿岸、東アジア、東南アジア、
 アメリカ大陸など地球上に広がっていった」

という説ですが、
それなら人類がいつから植物を栽培するようになったのか?
「地中海あたりで見つかった大麦、小麦を栽培するようになってから」
とか
「中国など東アジアで米や雑穀を栽培するようになってから」
など、またいろいろな説もあり、まだ特定はされていません。

“半栽培”の概念からすると、
やんばるでのコーヒー栽培は、
「コーヒーは野生種ではなくて外来種なんだから“半栽培”ではない」
ということになるのですが、
私の試みは、
「在来種の森林に、外来種のコーヒーを仲間に入れてあげてね」
というもので、
どうしても在来種の方が強いですから
コーヒーの補助を私が行うような栽培管理を心掛けているのです。

沖縄では、
パパイヤ、バンジロウ、アセロラ、島バナナ、イペー、カエンボク、
モクマオウ、ゲットウ、ギンネムなど帰化植物あるいは外来種が多く、
ハイビスカスだって江戸時代前に中国から持ち込まれたものですし、
デイゴも帰化植物なんじゃないかな。
とにかく沖縄は渡来植物が多いのですが、
コーヒーも今は肩身が狭くても、永い時間がかかってもいいから
森の仲間に入れてもらいたいのです。

「コーヒーは自生して、生態系に影響を及ぼすのでは?」
という声もありますが、
少なくともコーヒー山では現段階では人が介在しないと生育出来ませんから
生態系に悪影響を及ぼすことはありません。
特に発芽から苗木移植の時期までは、甲斐甲斐しくお手伝いが必要です。
コーヒーが歌舞伎役者であれば、
私は黒衣(くろご)のような相互関係が必要なのです。

定植3年目のコーヒー20120330.JPG
 コーヒー山ではなく、自宅に隣接するバナナ園の北東側に植えたコーヒーです。
 3年目を迎え、ついに花芽が出てきました。
 コーヒー山の木たちも一部花芽が出てきています。
 このバナナ園は昨年8月の45時間40m以上の暴風雨にさらされた時は
 このコーヒーの木も塩害を心配しましたが(海まで直線距離で約1kmと近いため)
 その後の雨で塩も流されたようで、元気を取り戻してきました。



アグロフォレストリー(Agroforestry)は
「農業(Aguriculture)」と「林業(Forestry)」を合わせた造語で
「森林破壊をせず、森を作りながら、作物を生産する農業」
で、
「森をつくる農業」
といわれています。

また、パーマカルチャー(Permaculture)は、
「永続的、永久的(permanent)」と「文化(culture)」を合わせた合成語で
農園にさまざまな樹木や果樹などを植えて
野菜やハーブを栽培したり、家畜なども組み合わせた
「永続的な農業」と同時に「永続的な文化」といった意味合いの
自然農業的な考え方ですが
アグロフォレストリー(Agroforestry)とパーマカルチャー(Permaculture)は
広義では同じようなものでしょう。

そういう意味ではコーヒー山もアグロフォレストリー(Agroforestry)、
あるいはパーマカルチャー(Permaculture)に入るのだと思いますが
最近はあまりそういった難義な定義にとらわれずに
私は
コーヒーだけでなく、多くの果樹も植えて
「森と共生・共存する農業」
「人間が自然と共生共存しあう農業」
を目指すようになりました。

中南米の中小零細規模のコーヒー農園では
多くの果樹を植えるアグロフォレストリーをしていると聞いています。
「多くの果樹の誘因効果で、
 生物多様性は増加する可能性こそあれ、減少することはない」

というとらえ方をされているようですが、
私もまったく同感なので、
自信を持って微力前進していきたいと考えています。

posted by COFFEE CHERRY at 13:30| 沖縄 曇り| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月01日

コーヒー山のイボイモリから考える

沖縄本島の冬は曇りや雨が多く、
コーヒー山の黒ポット苗木の排水が悪いものは
水があふれて浸水ポットになっていて、
ポットの底の排水用の穴に、枯れ枝などを差し込んだりして
水抜きをするのが、雨上りの作業のひとつになっています。

昨日は水浸しポットを持ち上げたときに
地面にイボイモリが居るのを見つけました。

イボイモリ120229-1.JPG
 全長18cm前後で、ほとんど動かず、
 ゴム製のおもちゃのようです。
 食性は動物食で、ミミズや小昆虫、ムカデ、陸生貝類などを
 捕食しているようです。



イボイモリは、
奄美大島から沖縄本島まで生息する固有種で
(那覇から約32km離れた渡嘉敷島にも生息しているようです)
1978年(昭和53年)に沖縄県の天然記念物に指定され
2003年(平成15年)には鹿児島県でも天然記念物に指定されたように
環境省レッドリストの絶滅危惧種に指定されている珍しいイモリです。


生物学的には、
「動物界 脊索(せきさく)動物門 両生綱 有尾目 イモリ科 イボイモリ属」
に分類されているようです。
ちなみに“人間”は、
「動物界 後生動物亜界 脊索動物門 羊膜亜門 
 哺乳綱真獣亜綱 正獣下綱霊長目 真猿亜目 
 狭鼻猿下目 ヒト上科 ヒト科 ヒト下科 ホモ属
 サピエンス種 サピエンス亜種」

に属する種のようですが、
専門家でなければ、こんなの知る必要性がなさそうですね。

イボイモリ120229-2.JPG
 イボイモリは日本に分布する「イモリ科」では最大種らしいです。
 たしかに同じイモリ科のシリケンイモリ(イモリ属)は15cm程度ですから
 イボイモリの方がはるかに大きいです。
 シリケンイモリの「シリケン」は“尻剣”という意味で
 「尾が剣のような形のイモリ」
 というらしいのですが、
 私の見た目では“尻剣”にはどうも思えません。
 シリケンイモリは、
 「沖縄本島や渡嘉敷島などでしか生息していない固有種」
 というものの本島では南部でもやんばるでもよく遭遇しますし、
 絶滅危惧種にも指定されていません。



イボイモリはとても原始的なイモリで、
第三紀に繁栄した種の遺存種とされていて
シーラカンスほどではないにしても
「生きている化石」
と呼ばれることもあるそうです。

地質学的には「第三紀」というのは
中世代の次の新生代の時期のことをいいます。

2億2500年以前の古生代のあと、
6500万年以前の、恐竜が活躍したジェラ紀や白亜紀などの中生代になり、
6500万円以降、現在までが新生代で、
新生代は6500万年前から約200年前までを第三紀、
(163万年、175万年、260万年など研究者によって微妙に違います)
それ以降、現在までを第四紀と分類されています。

白亜紀は地殻変動が激しく、
ゴンドワナ大陸が移動、分裂して、各大陸がほぼ現在と同じ形になり、
その間にできた大きな隔たりを海が満たすようになる時代で
気候の寒冷化とともに巨大恐竜が減少し、
ティラノサウルス、イグアノドン、トリケラトプスなどの全盛期や、
生物の色や形が激しく変化したのも、この時代です。

白亜紀の陸地では顕花(けんか)植物が見渡す限りに広がり、
まもなく絶滅する恐竜の後釜として
哺乳類がその勢力を拡大しつつあり、
そのため肉食恐竜が活躍していたのですが、
後にユカタン半島と呼ばれるようになる地域には、
この白亜紀に巨大なクレーターが出現しています。

大繁栄していた大型爬虫類やアンモナイトなどが突如、
しかも根こそぎ絶滅したのもこの時期で、
大型の隕石衝突説は有名ですよね。

「顕花(けんか)植物」
とは、
「花を咲かせ、実を結び、種子によって繁殖する高等植物」
つまり、コーヒーなどの種子植物のことですが、
コーヒーの原種も、最強ティラノサウルスが
獲物を追いかけるときにコーヒーを踏み潰していたのかもしれません。

あるいは火山活動の溶岩流出でコーヒー原種が燃えた時に
実が焼けて、あたりにはコーヒーの香りがただよっていたのかもしれません。

白亜紀が劇的に終わる理由として、
大型の隕石衝突説なのか地球規模の気候変動説なのか諸説ありますが、
大陸の移動や海岸線の増大、海洋の拡大が気候の寒冷化と湿潤化をもたらし、
地球上の植物相と動物相が劇的に変化したことだけは間違いないようです。

カエル、サンショウウオ、カメ、ワニ、ヘビといった生物は、
拡大した沿岸地域で繁殖していたと考えられています。
森ではネズミに似た哺乳類が忙しく走り回り、
上空では現段階で世界最大とされる翼竜が滑空していたものの、
鳥類が急速に種を増やしていたため、
翼竜と鳥類とで、空の生存競争が厳しさを増していたようです。
現生鵜(ウ)、ペリカン、シギなどの祖先は白亜紀に姿を現した、とされています。

白亜紀に誕生したサンショウウオは「両生綱・有尾目」、
イボイモリも、この“目(もく)”までは同じですから
白亜紀にも似たような種がいたのかもしれませんね。

白亜紀が劇的に終わり、新生代の「第三紀」に入ると、
地球には恐竜も翼竜も、また海の巨大爬虫類もすっかりいなくなっていました。
それまで肉食竜から逃げ回り、夜間にしか活動できなかった小型の哺乳類が
ついに日の当たる表舞台に進出し、
哺乳類は大きさ、数、多様性、すべての面で成長し繁栄していったのです。

またこの時代に人類が進化しました。
白亜紀後期のプルガトリウスから原猿類(キツネザルのようなサルで、まだ4足歩行に近い)、
真猿類(狭尾類と広尾類に分けられ、狭尾類がヒトの祖先霊長類に続く)を経て、
やがて類人猿へと進化します。

最も古い、猿の先祖プルガトリウスは白亜紀後半には
最強ティラノサウルスから逃げ回っていたのでしょう。

ヒトはオランウータンと約1500万年前に、ゴリラと約1200万年前に、
チンパンジーとは約600万年前に別々の道を歩み始めました。
約400万年前にアフリカは乾燥し、熱帯雨林がサバンナに変わるのですが、
これにより森を出て地上で暮らし始めたサルが、ヒトの祖先となるのです。

イボイモリ120229-3.JPG
 イボイモリの体色は真っ黒というより、やや暗褐色っぽく、
 形状としては、頭はヒメハブのように三角形型で
 将棋の王将や飛車の駒のように角ばっています。
 また、頭部や胴体は全体的に扁平で、
 背骨や肋骨、イボが隆起して浮かび上がり、
 見た目はかなりグロテスクで触りたくない感じですが、
 毒はなくおとなしいイモリです。
 また、イボは隆起した骨らしいです。
 今日の画像撮影は、それぞれ時間差があるのですが、
 ほとんど動いていないように見えますね。



また、第三紀は今から2500万年前を境に
古第三紀と新第三紀に分けられます。
古第三紀には森に住み葉を食べる哺乳類が繁栄しましたが、
新第三紀には現在のような気候帯になり
草原に住み草を食べる哺乳類が繁栄したようです。

古第三紀の始まり頃にスタートした哺乳類は、
霊長類、ウマ、コウモリ、ブタ、ネコ、イヌなど、
そのすべてが、古代三紀が終わる2300万年前までに登場しています。

植物は既に被子植物優勢で、
第三紀には双子葉類からより進化した
イネ、ムギ、トウモロコシ、ネギ、ユリなどの単子葉類が出現するのですが、
コーヒーは双子葉類ですから、
コーヒーの原種登場は第三紀より前、
つまりティラノサウルスのいた白亜紀だと考えられるのですが、
詳しい方がいましたら教えて下さい。
posted by COFFEE CHERRY at 22:27| 沖縄 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒー山の動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月22日

天然記念物のクロイワトカゲモドキと遭遇

我が家を起点にすると半径15kmには信号もありませんし、
もちろんコンビニも郵便局もありません。
また、隣家まで500m以上は離れている自然過多の環境のために、
国の天然記念物ヤンバルクイナが安心して庭に入り込んだり
ブロック塀を歩いたりするのは、
すっかり見慣れた光景になりました。


昨年と2年前の台風で倒壊したモクマオウなどをノコギリで切り
雨が降りそうな日はコーヒー山での作業がしにくいので
そういう日はバナナ園の防風林を手作りで作り上げたり
雑草刈りやタネ植えなどをしています。

バナナ園111213.JPG
 朽木を担いだり、一輪車で土を運んだりという手作りの土方作業です。
 この画像は昨年12月中旬の東側で、
 現在はすでに土塀は高さ約1mに完成してあり、
 現在は北側に同様な土塀を構築中です。


バナナ園の防風対策は、
東側と北側に高さ1m程度の土塀を築き、その土塀の上に
ハイビスカスやカボックなどを植えようと計画しています。
土塀の両側を丸太で補強し、土を固め
さらに雨水で土が流れないようにすると同時に
丸太はやがて朽ちて土に還りますから、
ナイスアイデアだと思っているのですが、
問題は暴風下での防風林の強度ですね。
もし倒壊してしまうようであれば、
またもう少し工夫すればいいと思っています。

昨日は、ブロック塀の外側に、
倒壊してそのままになったモクマオウの残骸を切って運んだり
雑草を刈ったりする作業の中で、
朽ちたトタンを捨てようと持ち上げたら
クロイワトカゲモドキを見つけたのです。

クロイワトカゲモドキ120221-1.jpg
 撮影技術が未熟なうえに夕方撮影したので、
 実際の色と少し違います。
 ホンモノは黒や赤、白色がはっきりしていました。
 全長20cm前後とトカゲ並みの大きさです。


グロテスクでシッポに毒がありそうな小さい恐竜に見えますが、
よく見ると「トカゲモドキ」という名の通り
トカゲではなくてヤモリの姿をしています。

彼(彼女かも)は、奄美諸島から沖縄諸島までにしか
生息していない珍しいヤモリで
1978年(昭和53年)に沖縄県の天然記念物に指定されています。

沖縄の家の中に居る薄茶色のヤモリは手足に吸盤が付いているので、
垂直な壁やガラス戸でも自由に移動できるのですが
クロイワトカゲモドキには吸盤がないので、
木登りはおそらくムリで、夜行性なので夜に地面を徘徊して
昆虫やミミズ、ムカデ、地クモなどを捕食しているようです。

ヤモリとイモリは外見は似ているので
「同じようなものでしょ?」
と思いがちですが、
ヤモリの“ヤ”は「家」を、
イモリの“イ”は「井」(=井戸、つまり水)を指していて、
ヤモリは
「家を守る、爬虫類の益虫」
イモリは
「水を守る両生類の益虫」
なのです。

「イモリが益虫」
という意味は、
イモリは清水で生息したい動物ですから、
「イモリが居る=自然がある=自然を残しイモリの生息環境を増やしてあげたい」
という考えで、
益虫や害虫という区別は人間の勝手な都合で
自然界では、益虫も害虫もありません。
そういう意味で“益虫”にセレクトしておきました。

クロイワトカゲモドキ120221-2.jpg
 危険を感じると尻尾を持ち上げて揺り動かして威嚇するので
 「尾の先に毒がある」サソリのようですが、
 「無毒でおとなしい」というものの、触る勇気はありません。
 トカゲのように瞼(まぶた)があるようです。
posted by COFFEE CHERRY at 13:39| 沖縄 雨| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒー山の動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月16日

戦前の沖縄ハワイ移民―8

日清戦争で日本が清国に勝ち
1895年(明治28年)に下関で講和条約が結ばれ、
清は日本に朝鮮の独立を認め、
日本は遼東(リャオトン)半島と台湾などとともに
2億両の賠償金を得ます。

2億両というのは
当時の日本の国家予算の約3.6倍に相当した巨額なもので
その後の日本の工業化や軍事力の強化などへの基金となりました。

ちなみに、
後の1937年(昭和12年)7月に、
北京の西の盧溝橋(ろこうきょう)で日中両軍の衝突が起こり(北支事変)、
日中戦争につながりましたが、
(東条英機は当時関東軍参謀長)
この時、日本軍がなぜ盧溝橋近くに駐屯していたのかが
教科書などでは書かれていません。
日本軍が駐屯していた理由は、
1899年(明治32年)中国の山東省で義和団が起こした北清事変で
日本が勝利に貢献したことで得た駐留権によるものでした。
義和団は義和拳という武術をもとにした武装集団で
独自の呪文を唱えてこの拳法を使えば
刀、槍、銃弾などをはじき飛ばせるという
不死身の拳法と信じられていたのは不思議ですが
日清戦争に負けた清国は列強に重要な拠点を
租借という形で土地と権利を奪われていたために、
清国民からすると怒りが爆発しない方が不自然で
中国版の尊王攘夷(王を敬い外圧・外敵を排する思想)として
義和団を起因に勃発した、というわけです。

盧溝橋付近に駐留する日本軍に、
「国に居座る外国人は即刻出て行け」
という不満や怒りは、
中国国民革命軍でも共産党軍であっても
当然のことですが充満していたのです。

さて、日清戦争当時の沖縄は
「清国から攻められる」
というウワサも
日本が黄海海戦で日本海軍が勝利を収めて大勢を決して杞憂に終わり、
清国は琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなり、
これを期して実質的な琉球処分が完了します。

沖縄の親清派が描いていた、
「清国による琉球救援」
といういちるの望みも絶たれ、
・和装、洋装の奨励普及
・標準語の励行
・男子の断髪、結髪の禁止
・裸足の禁止
・ユタ(巫女)やジュリ(遊女)の統制
・火葬奨励
・モーアシビ(「モー」は野原、「アシビ」は遊び。
「毛遊び」ともいって部落の若い男女の出会いのグループ交際の場、
夜三線を弾いて歌ったり踊ったりして遊ぶこと)の禁止
・1899年(明治32年)入れ墨禁止令
(沖縄の成人女性の手の甲などに入れたハジチ(針突)で
地域ごとに入れ方が違う琉球独特の伝統文化)

など、
多くの伝統的な風習や習慣が、野蛮でジャマななものとして
政府から禁止や規制され、
日本の同一国民として標準化された生活様式を強要されるようになり、
日本全国が金太郎飴になって
人だけでなく個性のない市町村を生み出していったのです。

ハジチ(針突)は成人女性が手指、甲、肘にかけて、
魔除けや願いごとなどを込め、入れ墨を施す
沖縄、奄美の島々の伝統的な風習で、
入れ墨の模様一つ一つに意味があり、
また地域、身分、時代によっても模様が違う伝統風習でした。

こういった入れ墨文化は
琉球以外でも、台湾の高砂族、東南アジアの少数民族、
あるいはアイヌ人やアメリカインディアン、マヤ人でも
それらの民族の女性たちは、結婚前に入れ墨をする習慣があり、
その場所も指先から手の甲にかけて同じ箇所に彫られ、
文様も何となく似ているようですし、
ヒトの遺伝子まで共通だという研究まであります。
ハジチ(針突)は重要無形文化財級の風習だったのに
廃止されてしまったことは残念なことだと思います。


また脱線したので、話をもとに戻します。
日清戦争に勝利したことで、明治政府は沖縄に対し、
清国に対する気がねがなくなり、
また旧支配者層に対する配慮も不要になり、
合理的な沖縄統治のためには、
旧慣諸制度の改革は必要不可欠になりました。

「清国に対する気がね」
というと
「1609年に島津が琉球侵略以降、琉球は日本では?」
と思う方もいるかもしれませんが、
薩摩統治下の琉球国は江戸時代に清朝へ朝貢していたことなどから、
清朝は琉球の領有権を主張していたのです、特に維新後に。
明治政府は、琉球を日本の領有権として確定するために、
1879年(明治12年)に琉球王国最後の王であった尚泰(しょうたい)を
東京へ移住させ琉球藩主の座から去らせるとともに
内務官僚・警察官・陸軍部隊を琉球に派遣し、
琉球を一時的に鹿児島県へ編入した後、
同年中に沖縄県を成立させたのですが、(第二次琉球処分)
清朝は明治政府の動きに反発していたのです。
「空白の一日」の読売巨人軍の江川事件のようなものです。

日清戦争のきっかけは、前にも書いたように
朝鮮の全羅道(ぜんらどう)で起こった農民たちの反乱(東学党の乱)ですが、
日本と清国は日清修好条規で協調関係にあったというものの、
琉球の領有権問題では日清両国間の緊張は続いていたのです。
それが日清戦争で日本が勝ったことで、
沖縄の領有権問題は一気に解決し、
ついでに台湾も占有することが出来たのです。

1896年(明治29年)に沖縄行政区域を
「2区5郡」
とする沖縄県区制、および沖縄県郡編成の勅令が交付され、
沖縄全域が
2区
・首里
・那覇

5郡
・島尻(しまじり)
・中頭(なかがみ)
・国頭(くにがみ)
・宮古
・八重山

に分けられ、
1908年(明治41年)の特別町村制の実施で
・間切、島soon町村
・村soon

に改められました。

沖縄の土地制度の改革は「土地整理」といわれ
本土で行われた「地租(ちそ)改正」に相当します。
「士地整理」は、簡単に言えば、
・土地所有を個人の私的なものとする法的整備
・租税を物納から金納へ転換

などを企図して行われたのです。

明治維新後、
政府が1873年(明治6年)から1879年(明治12年)ごろにかけて
沖縄を除く本土で地租改正事業が行われていましたが、
沖縄は琉球国として400年の歴史と伝統があり、
政府は一気に改革を行うと
旧士族層や県民の反発があるかもしれないことを危惧し、
しばらく現状維持路線を敷きながら頃合いを伺い、
廃藩置県後20年近く経ってようやく土地整理に着手したのです。

琉球王朝時代の土地制度は
・百姓地
・地頭地(首里や那覇の上級役人でもある地頭に与えられた土地)
・オエカ地(地頭代や首里大屋子など、間切の上級役人に与えられた役地)
・ノロクモイ地(方女神官ノロクモイに役俸として百姓地から交付した土地)
・仕明地(しあけち、士族や農民が薩摩藩の許可を得て新たに開墾・埋め立てした土地)

などの耕地区分があり、
百姓はその土地を耕して米や麦、イモ、大豆、サトウキビなどを作り
農産物を税として物納していました。
よくいう年貢といわれるものです。
土地は形式上は国王のものですから個人所有ではなく
間切(町村)に対して与えられていたので
土地の売買は当然出来ず、税は各地の間切ごとに課されていました。

琉球王朝時代では地割(じわり)制度があって、
農地を村人の人数や家の数で割って各自に農地を与えて
・人頭割
・貧富割
・貧富
・耕耘(こううん)力割
・貧富
・勲功割

などの割替えがあって、
数年〜数十年経つと、村人が平等になるようにとの計らいで
また割り当てをやりかえしていましたが、
これに対する租税も、士族層は免税特権が与えられ、
農民だけが税を負担するという矛盾に満ちた不公平なもので
近世沖縄の農村を貧窮、疲弊させてしまったのは、
この地割制度という土地制度そのものにありました。

戦前の沖縄はそのほとんどの集落が純農村地域であり、
市街地を形成していたのはわずかに首里市と那覇市だけだったようです。
琉球王朝末期には、貢祖や食料の関係上、
水田も多く米作が重視されていましたが、
1879年(明治12)の廃藩置県以後、貢祖の代納が認められるようになり、
1888年(明治21)の「甘庶作付け制限令の解除」により
水田の多くが甘庶畑に代わっていきました。

本土が米作中心であるのに対し、
沖縄農業は甘蔗(かんしょ、サトウキビ)と
甘藷(かんしょ、サツマイモ)が中心となってゆくのです。

1899年(明治32)から1903年(明治36)にかけての
地割制の崩壊と土地私有制の施行により、
吉幾三さんの「オラ、こんな村イヤだぁ〜」ではないですが、
それまで「村から出たい」という意思があっても
コルホーズのような伝統的な共同社会体制下ではほとんどムリだったのが、
土地の私有権が確立して、土地の売買や交換が自由になり、
村を出る意思があれば自由に出られる条件が社会的に作り出されました。

土地の売買や交換が自由になったことで耕地の集中化も可能になり、
貧しい農民の放棄した土地を買い上げて地主へ成長する階層と
土地を手放して他の職業に転じたり、あるいは小作人になったり、
本土への出稼ぎや海外移民として流出する階層とに
二極分化が進んでいきました。

土地整理事業で納税の義務としての金納制が実施され、
貨幣経済が島社会に浸透することにより
農家でも現金収入を得なければ、
生活の維持が困難な状況に追い込まれることになり
さらに市場に大きく左右される安価な黒糖を生業とする農家も多い沖縄では
台風や干ばつなどの自然的要因も影響し、
農家の生活は借金を重ねますます困窮していきます。
また当時は全国平均の4分の1しかない労働賃金の低水準もその背景にあり、
貧困農家が急増していきました。

そういう貧困農業からの脱却策の数少ない選択肢として
海外移民が出てきたのです。
沖縄県内各地において、移民を希望する者は土地を売却して金を捻出し、
これを渡航費に充てることが出来るようになり、
あるいは土地を処分しなくても
土地を抵当にして親戚や金持ち層から金を借りることもできたわけです。

沖縄本島の典型的な移民母村は、
沖縄本島の
・羽地
・金武
・勝連
・中城
・西原
・大里

の6カ村ですが、
これらの地域は土地を集団で共有するという地割制が
早くから崩壊した地域でもありました。

以上のように、沖縄における土地整理事業は、
海外に出稼ぎに出る大きな要因となりました。




以下は、新聞記事です。


ハワイと沖縄の物価
1900年(明治33年)におけるハワイの物価相場…やまと新聞
白米百斤   4ドル以上
砂糖一斤   4セント16分の1
珈琲一斤   粉50セント内外
番茶一斤   15セント
浴衣地一反  1ドル
野菜小把一つ 5セント
魚類少許   25セント
牛肉一斤   ハワイ産10セント
家賃一月   5ドル
診療日本医 1ドル以上
手術料    5ドル以上
薬品一日分 75セント
入院料クイン病院 下1ドル
料理代1食  25セント
理髪      15セント
電話1カ月  3ドル
電灯1カ月  1ドル
牛乳      1クォト10セント
労働服上下  1ドル50セント
耕地月給   15ドル
大工石工日給 2ドル内外
料理人月給  9ドル以上
洗濯1枚5セント 月1ドル
日本人商店員   7ドル以上
巡査月給     30ドル内外
小学教員月給  20ドル内外



那覇小売相場(壱升又は壱斤につき)1900年(琉球新報)
地上白米    18銭
肥後上白米   18銭
蘭国米     13銭
島米上     18銭
小麦      12銭
大麦       9銭
朝鮮大豆    11銭
青肥後大豆   10銭5厘
島大豆     20銭
鶏卵(拾個に付)  10銭
鰹節(壱斤に付)  60銭
島醤油       25銭
泡盛        22銭
食塩         7銭
素麺金龍      11銭
同友白髪      9銭
神白髪       8銭
石油松印    24銭
薪木拾把並   50銭
木炭十貫目   80銭
昆布壱斤ニ付  6銭
豚同      16銭
牛同      14銭
山羊同     16銭
上味噌     30銭
同中      24銭
同並      16銭
大和醤油    24銭
黒糖壱斤ニ付  6銭



重さとしての「1斤」は600グラム、
「1升」は10合、1.8リットル



そういえば、
移民の父「當山 久三」のことを書き忘れていますね。
コーヒー山などの画像も次回には。


posted by COFFEE CHERRY at 14:00| 沖縄 雨| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月13日

戦前の沖縄ハワイ移民−7

今や日本だけではなく、世界の、特に先進国が
経済危機や多くの試練に直面しています。
日本でも放射能汚染、財政破綻の危機、政官の腐敗、
経済衰退など、先行きは暗いことばかりです。

「このまま日本に居たくない」
という人が出てきたとしても、ちっとも不思議ではありませんが、
いざ海外移住となると、
・ 治安
・ 衛生面
・ 医療水準
・ 物価水準
・ 教育水準
・ 税制
・ 言葉
・ 気候
・ 食料自給率
・ 仕事はあるのか
・ 親日的かどうか
・ 食生活はどうか
・ 生活費がどのくらいかかるのか


多岐にわたる具体的な問題点をいろいろと考えてシミュレーションしたり、
慎重な方は一時的に候補予定の現地に行って実地テストもするかもしれません。

でも、現代より情報がかなり少ない明治時代に、
海外移民を決断するのは相当な勇気だけではなく、
・出稼ぎ、金儲けといった経済的要因
・移民会社の斡旋、移民指導者の存在、徴兵忌避、
地縁血縁関係などの社会的要因

など、貧困要素が相まって
沖縄の先人たちは、必死の思いで決断をして
渡航していったのだと思います。


今日は社会的要因として、徴兵制を考えてみたいと思います。
1871年(明治4年)の廃藩置県で、藩の軍事力も解体されたのですが、
当時の政府軍はわずか1 万の規模しかありませんでした。
鎖国政策で国を閉ざす朝鮮に対し、
約200万人の、失業して不満いっぱいの武士の武力を利用して
朝鮮を開国させようとする征韓論の高まりと共に,
1873年(明治6年)政府は徴兵制によって
それまで旧来の武士が独占専業としていた武事を士族より奪い、
兵役による国民皆兵の実現、四民平等などの義務にもとづいて
国軍を充実させようと
「徴兵免除の者を除いて、
 満17歳から40歳までの男子全員を国民兵役の兵籍に登録し,
 満20歳の男子を徴兵検査と抽選によって3年の兵役に就かせる」

という徴兵令を出しました。

ところが、徴兵免除の特例があったり、
北海道開拓使は、日清戦争が終わる1896年(明治29年)まで、
沖縄は1998年(明治31年)までは徴兵制が施行されず,
北海道開拓使に本籍を移動して兵役を免れたりする者や
戸籍の売買、改ざんもあったりして
1873 年の徴兵令では,適齢人口の8 割が徴兵免除になって
初期の徴兵制は機能しませんでした。
また、徴兵令が出されてからは、
人手を取られると困る農村を中心に反発も多くなり、
「懲役免役心得」
という合法的徴兵忌避マニュアルのような本が
ベストセラーになったようです。
そのため政府はその後何度か改正されて公平化を図っていきます。

明治22 年(1889)にベルギーやプロイセンに強く影響を受けた
大日本帝国憲法が発布され,
兵役が国民の義務として明記されました。
また、憲法発布の直前に「徴兵令」が大改正され、
勅令ではなく、法律第1号の形式で出されました。

この改正徴兵令の特長は
免役が大きく制限されたことです。
それまでの平時徴集猶予制は全廃され、
徴集延期制が導入されました。

該当者は
 ・官公立師範学校以上の学生生徒(卒業まで徴集延期,但し26歳まで)
 ・留学生(帰国するまで、但し26歳まで)
 ・身長がまだ基準に達していない者(翌年度再検査)
 ・病中病後でまだ現役に耐えない者(翌年度再検査)
 ・公権停止など拘留中の者(事故やむまで)
 ・徴集すれば家族が自活できない者(3年以上続くときは免役)


海外に出向いた留学生や出稼ぎ労働者で、
帰国した時に27歳であった場合、
あるいは貧困者の場合は免役となっています。

徴兵から逃れることも、
海外に出稼ぎに行った理由のひとつと言えそうですね。


新聞記事は以下の通りです。

1900年(明治33年)4月19日
移民募集に応じ布哇(※ハワイの漢字)国へ渡行したる
我が県の同胞兄弟等の状況に就いては
其消息ある毎に本紙上に掲載して報道を怠らざりしが、
聞く所に依れば近来同国に於いては
ペスト病流行せるが為め
該病に罹(かか)れる移住民の家屋を焼いたる由にて、
此惨聞の本邦に伝わるや時に
広運社長護得久朝惟氏は恰(あたか)も在京中なりしかば之を聞き
大に驚き吾が同胞移民の安否如何を気遣い
早速横浜なる移民会社へ馳せ赴(おもむ)きて状況如何を探索したるに、
幸い沖縄の移民にしてペストに罹(かか)りたる者は一人もなく
布哇(ハワイ)国に於いては特別に日本人一名を附して
沖縄移民を監督せしめ衛星其他の事に注意怠りなしとの事なり、
又沖縄の移住民は勤勉と正直の故を以て
大に西洋人の信用を得て
他の移民よりは特別の優遇を受け居れりとぞ実に喜ばしき次第にあらずや。

(琉球新報)


「1900年(明治33年)に琉球新報ってもうあったの?」
と思われるかもしれませんが、
琉球新報の創刊は1893年(明治26年)で、
1906年から日刊紙になっているのです。
(それまでは隔日刊)

最近手を抜いて画像を出さずに済みません。
次回からコーヒー山などの画像も入れるようにします。
posted by COFFEE CHERRY at 21:57| 沖縄 曇り| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーオーナーの募集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月12日

戦前の沖縄ハワイ移民−6

明治時代に沖縄からハワイに渡った移民のことを書くのに
「時代背景が必要だ」
といって、
そればかり書いているのでさぞ面白くないことと思います。

テレビで〇十周年記念特番とかいうと、
さんざん予告編やCMで焦らされることが多々ありますが、
それと同等以上かもしれません。
今日は後半になりますが1回目の記事まで書きます。

今までダラダラと時代背景を書いてきましたが、
1885年(明治18)、日本政府とハワイ王国政府間で
日布移民条約が結ばれてハワイ官約移民が開始され、
ハワイ王国が滅亡する1894年(明治27)まで
延べ29,000人がハワイに渡り、
その約9年間が官約移民時代と呼ばれています。


1893年(明治26年)ハワイ革命以降はハワイの政情が不安定になり
日本政府はハワイ王国を信頼していたこともあって
日本政府が介在せずに
日本の民間会社による斡旋(私約移民)が行われるようになります。

移民事業を行う会社は全国に30社以上設立され、
特に
・広島海外渡航会社
・森岡商会(京浜銀行頭取森岡真氏の経営する会社)
・熊本移民会社
・東京移民会社
・日本移民合資会社(神戸)

は五大移民会社と呼ばれたようです。

これらの話をすると、またズルズルと長くなるので
まず新聞記事に沿って、補足的に追記を書くことにしましょう。

記事の原典は当然旧漢字、歴史的カナ遣いですが、
本は読みやすいように親切に当用漢字、新カナ遣いに改められています。
私は記事の漢数字を算数字に変えた以外は、本の原文をそのまま記載します。



1900年(明治33年)

第1回移民氏名と契約書

沖縄県の第1回海外移民30人は1899年(明治32年)12月5日に那覇港を出帆、
大阪で1人、横浜で2人が不合格、27人が同年12月30日横浜出帆。

1900年(明治33年)1月8日ホノルル港着、
移民小屋での身体検査に1人不合格日本へ送還、
26人は1月16日に契約地エワ入耕。
上原団長以下26名の氏名、年齢、本籍地は左の如し。
 @ 上原九八郎(32)団長、島尻郡兼城間切糸満村678
 A 宜野座牧助(32)国頭郡金武間切金武村346
 B 仲間藤助(32)同郡同間切同村538
 C 仲間藤八(31)同郡同間切同村251
 D 与那城久次郎(29)同郡同間切同村322
 E 仲田安七(27)同郡同間切同村492
 F 当山又助(24)同郡同間切同村526
 G 仲間孫八(23)同郡同間切同村528
 H 小橋川半吉(23)同郡同間切同村277
 I 安富祖利八(23)同郡同間切同村358
 J 仲田仙吉(21)同郡同間切同村398
 K 阿波連樽(35)那覇区字西78
 L 野原辰助(35)那覇区若狭町139
 M 喜納正俊(30)那覇区字西58
 N 与儀達通(29)那覇区若狭町255
 O 新垣松(28)那覇区字西116
 P 金城珍善(28)那覇区東133
 Q 真栄城朝和(27)首里区字山川88
 R 松島良智(24)首里区真和志38
 S 島袋太良(21)首里区字寒水川105
 ㉑ 富名腰三郎(34)島尻郡小録間切儀間村98
 ㉒ 宮里松(34)同郡同間切湖城村27
 ㉓ 平良樽(29)同郡同間切同村56
 ㉔ 金城亀(32)同郡南風原間切津嘉山35
 ㉕ 屋次郎(25)中頭郡西原間切呉屋村18
 ㉖ 与那嶺加那(24)島尻郡渡嘉敷間切渡嘉敷村26

第1回ハワイ沖縄移民の契約書は大要次の如くである。
第1…日本移民教会の指示に従うこと
第2…1カ月26日、1日10時間、製糖工場では12時間、昼は休み夜働くことがある。
第3…賃金は男1カ月15弗(※ドル)、女10弗、
   30分以上のオーバータイムは1時間に付き男は10仙、女は7仙の増賃を支払う。
第4…日本出帆から耕地に着くまでの全費用はフリー。
第5…不正行為でなく正しい上陸不合格の費用は取扱い人が払う。
第6…契約中は家賃、水、燃料、医者と薬、人頭税は雇主が支払う。
第7…契約期間中、男は毎月2弗50仙を銀行に預け、契約満期の時に元利を払い渡す。
第8…銀行預金は移民取扱人が取扱う。
第9…渡航周旋料20円を取扱人に支払うこと。
第10…移民は書面契約担保として5円を取扱人に渡し、
   契約認可の時に周旋料の中に入れる。破約の時は取扱人の収入となる。
第11…病気その他により生活出来ない時は取扱人が移民を助け、
   或は帰国の取り計らいをなす。
第12…日本政府の保証で帰国した時は取扱人が一切の費用を払う。
第13…契約違反者は男は35弗、女は30弗、
   および消毒所の費用一切12弗を移民又は保証人が弁償する。
第14…保証人は移民一身上の責任や金額の償還義務あり。
第15…契約期間中は生命保険に入るべし。
第16…この契約は3か年有効とす。

移民の旅費はほとんどが移民周旋屋と結託した高利賃によるもので
その金利は月利三分という高利のものであった。
又移民に行くには厳重な身体検査を受けなければいけない。
特に寄生虫(十二指腸虫、蛔虫)保持者やトラホーム患者は絶対に受け付けないから、
当時としてはこれの治療に大変苦労したものである。

中には神戸や横浜での予備検査に合格しながら、
ホノルルでの第二次検査を受けるまでは戦々恐々たるものであった。

さていよいよ職業の従事であるが、当時の移民は契約移民であるから、
着いた翌日から蔗作(※しょさく、サトウキビ作業)の重労働にかりたてられるが、
時間概念のうすい沖縄人には時間を守るのもまたひとつの苦労であった。
時たま遅刻でもするとその1日は就労できなくなり、
結局は賃金がカットされてしまう。
監督の白人はまるで奴隷に対する態度である。
(石川市誌)


1899年(明治32年)12月5日那覇港を出帆し、鹿児島、神戸を経由して、
同年12月30日にチャイナ号(5900トン)に乗船して横浜港を出航したのです。
翌年1月8日にオアフ島のホノルル港に到着し、上陸を許可されました。

このハワイへの移民送り出しにあたっては、
沖縄県で「沖縄移民の父」と称される
金武村出身の當山久三に負うところが大きかったのですが、
彼の足跡は次回に。

posted by COFFEE CHERRY at 22:12| 沖縄 晴れ| Comment(1) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月10日

戦前の沖縄ハワイ移民−5

久々なので、今日は官約移民が廃止されるまでになりそうです。


1894年(明治27年)5月1日、
韓国の全羅道(ぜんらどう)というところで
農民たちの反乱が起こり、東学党の乱に発展します。
東学とは、韓国で起こった宗教団体で、
西洋のキリスト教を西学と呼び、
これと対極的に、東洋人であることを意識して、
その教えを“東学”と呼んだのです。
東学党とは、これを結成した農民たちの心の支えになっていました。

東学党の乱は、しだいに広がりを見せ、
当時の韓国の皇帝である高宗(こうそう)は、
反乱が韓国全土に及ぶのを恐れ、
隣国である清国に軍隊の要請をし、
清の袁世凱(えんせいがい)は出兵を約束します。

当時、清国と日本は協調関係にあり、
清国がどこかに派兵する時は、
日本にも事前に知らせるという条約があり、
袁世凱は、韓国派兵を日本に知らせました。

当時の明治政府の首相は、
長州藩の足軽から立身出世した伊藤博文でした。
当時の内閣は、その年の3月に行われた総選挙(衆議院)で
伊藤の与党が野党に第一党を奪われ、身動きできない状態にあり、
総辞職か内閣解散かに追い込まれていました。

そういう苦しい状況下での清国軍の派兵の知らせは朗報となりました。
国内がもめている時は、国民や政治家の関心を国外に向けるというのは
昔から政治の常とう手段です。
現在の中国の反日もまったく同様です。
「朝鮮半島は日本の生命線であり、
絶対に清国やロシアの支配下に置いてはならない」

という外務大臣・陸奥(むつ)宗光と、
「清国と戦争をしても日本に充分勝算がある」
という陸軍大将・川上操六の韓国出兵策を取り入れ、
伊藤内閣は、「日本も東学党の乱を鎮圧させる」という名目で
韓国に7千人を出兵することにしたのです。

陸奥の真意は
「朝鮮半島の中立化、つまり韓国に主体的な政権があればよい」
という考えだったらしいのですが、
日本と清国が韓国に派兵した頃は、
東学党の勢いが衰えて
反乱軍と韓国政府の和解が成立してしまっていました。
つまり日本と清国の出兵は無意味なものになってしまったのです。

それでも日本軍の出兵は継続され、
このままでは日本が韓国を支配下に置くのではないかと警戒した韓国だけでなく、
イギリス、フランス、ロシアなど列強も強い警戒感を抱きます。
全権大使として韓国に駐留していた大鳥圭介は、陸奥外相に
「至急撤退の必要あり」
と打電しますが、
陸奥外相は
「撤退せず、外交上多少の紛争があっても滞陣せよ」
と命じます。

東学党の反乱鎮圧の名目はすでに使えないので、
滞陣が必要な理由として
「日清両国の軍隊が協力して内乱を鎮圧すること」
「内乱を抑えたうえで、韓国の内政を改革し、財政を健全化させること」
「官僚組織を改善させること」
といった、へ理屈をこねて
清国に、
「日本と共同で韓国の改善をしよう」
と提案したのですが、
清国は、
「清日両軍の速やかなる撤退が先決」
「韓国の内政は韓国自身に任せるべき」
という正論を主張しながら、
実は
「日本軍が撤退したら、韓国とのつながりは圧倒的に清の方が強く優位に立てる」
「小国日本が清に戦争を仕掛けられるはずはない」
という目算があったことを陸奥外相は見抜いていたのです。

当時の清は、海軍力が弱く、
早急に戦艦3隻つくる予算を計上していたのですが、
悪名高い西太后が、広大な別荘や湖のような池を持つ庭園改修に使い込んでしまい、
海軍力は弱いままだったことを、陸奥外相は熟知していました。

日本は韓国の高宗に
「清国がやらないなら、日本が単独で韓国の内政改革を行いたい」
と提案しますが、
高宗からすれば、日本より清国を信頼しているのですから、
日本の提案など受け入れるわけがありません。
そこで、日本側は高宗と、高宗の実父・大院君(たいいんくん)との不仲を利用し
権力の座を奪われ隠居させられていながら権力の座に返り咲きたい大院君に
「日本は韓国を支配下に置くことはなく、独立国同士としての関係を保つ」
といって納得させ、
高宗と王妃・閔妃(びんひ)のソウルの王宮を攻撃し、
大院君を権力の座に就かせ
「清国軍を追い払うために日本軍に依頼する」
と言わせて、
日本は清国と戦う大義名分を作り上げてしまったのです。

当時の先進国は
「途上国を侵略し、植民地にする」
というのが常識でしたから、
開国間がなく、世界から遅れを取り、
一人前の国として扱われていない日本にとっては
列強に植民地にされるか、日本がどこかに植民地を作るか、
という選択肢しかなかったのです。
かといって当時の日本が途上国を攻めて植民地に出来るはずもなく、
韓国を親日政権にして日本を守ることで精一杯だったのだと思います。

そうして日清戦争が起こった1894年(明治27年)、
1885(明治18)年以降9年間、26回、約2万9千人を
横浜港から送り出した官約移民は廃止されました。

日清戦争勃発の経緯を冒頭で長々と書いたのは、
官約移民が廃止された年のイメージを印象付けたかったからです。

なぜ官約移民が廃止されたのかというと、
ハワイ革命で王国が共和国化して
米国系白人がハワイの主導権を握ってしまい、
それまでの王国政府との信頼関係で移民を送り出してきたのに
ハワイのアメリカの属領化で、
日系移民は渡航条約という保護を失い、
アメリカの移民法が適用されることになり官約移民は中止せざるを得なくなり、
移民事業は明治政府の手から離れ、
政府に代わって移民事業会社が
1894年(明治27年)から続々と設立されていくことになるのです。

スーパーで売られている“Dole”のバナナが
フィリピンのミンダナオ島で栽培されていることや
ホノルルから約30分のドール・パイナップルプランテーションは、
Dole Food Company, Inc.
というアメリカ合衆国の多国籍農業・食品企業ということは
誰でも知っていることですが、
この巨大企業の創業者の従兄サンフォード・ドールは
1887年(明治20年)43歳の頃、
ハワイ在住のアメリカ白人系経済人、政治家、
サトウキビ農場主などの富裕層で結成された政治組織
「ハワイ連盟」の武装蜂起に参加し、
白人市民たちで組織される準軍隊組織
「ホノルル・ライフル連隊」の後ろ盾を得て、
白人至上主義によるハワイ統治をもくろみ、
カラカウア王(7世)に退位もしくは王政自体の廃止と
アメリカ合衆国への併合を求めたのです。
王は当然拒否しましたが、武力で威嚇して
「銃剣憲法」と呼ばれる新憲法にサインさせられてしまうのです。

この新憲法はアジア系移民や貧しいハワイアンから投票権がはく奪され
ハワイ人エリートや富裕な欧米系移民の政治力が劇的に強まり
ハワイ王室が有名無実化してしまい、
白人農場主たちを中心とする共和派が王国の実権を手中に収めてしまいました。

サンフォード・ドールはカラカウア王より
ハワイ王国最高裁判所の判事に任命され、
失意の王はアルコール依存症になり
静養のためにサンフランシスコに向かう途上で風邪をこじらせ
亡くなってしまい(享年55歳)、
妹のリリウオカラニが53歳で王位を後継し、
サンフォード・ドールは、女王の法律顧問に就任してしまうのです。
まるで遠山の金さんや大岡越前に登場する悪徳商人のようですね。

悪徳商人や悪徳家臣に周りを固められた
リリウオカラニ女王は毅然として共和派と対立し、
王権を取り戻す新憲法を起案するなど王国政治は混乱するのですが、
米国大使が海兵隊に出動を要請し、イオラニ宮殿を包囲させて
サンフォード・ドールらの共和派が政庁舎を占拠し、
王政廃止と臨時政府樹立を宣言してしまい(ハワイ革命)、
なんとドールが、臨時政府の大統領に就任してしまうのです。
なんだか今の日本の卑しい為政者たちのようで
正義が勝つとは限らないわけでイヤですね。

ドールの臨時政府は米国への併合を求めてハワイ共和国を樹立してしまい
王政復古の運動はあったものの、その都度武力で鎮圧され、
リリウオカラニは女王廃位の署名を強制されて
ハワイ王国は滅亡してしまったのです。
琉球国が琉球藩になり沖縄県に至る琉球処分のようなものです。

サンフォード・ドールは白人プロテスタント宣教師の子供として、
ホノルルに生まれているのですが、
キリスト教の信者の方には申し訳ないのですが
宣教師は途上国の征服のために送り込まれた
KGBやCIAに思えるように感じる時があります。
ハワイ王国を滅亡させ私物化したドールは
「宣教師は敵情視察の尖兵として送り込まれ、
 信者と情報を集めた後に軍隊を送って征服し、
 ついには植民地化するという政策だ」

として、
「伴天連(ばてれん)追放令」
を出した豊臣秀吉に賛成票を投じたくなります。

なぜ在ハワイの白人富裕層たちが
白人至上主義によるハワイ統治をもくろんで
カラカウア王(7世)に退位もしくは王政自体の廃止と
アメリカ合衆国への併合を求めて
「ハワイ連盟」という政治組織を武装蜂起したのかというと、
南北戦争後、全米規模で産業化の時代を迎えたアメリカでは、
企業の巨大化にともなう富の集中が起こり
その結果として19世紀末にアメリカ史上未曾有の恐慌が起こっていたのです。
多くの企業や銀行が倒産して、街には失業者があふれ、
失業率は20%に上ったといわれていますから、
実に労働人口の5人に1人が失業していたことになります。
米国南部でも綿や麦の価格が暴落し、西部の銀鉱山の多数は閉まり、
アジア系移民よりも、世界中で一番優れていると思い込んでいる一部の白人たちが
自分たちの保守を目指そうとしていた殺伐とした時代だったのです。

後のハワイのパイナップル王ジェームズ・ドールは
サンフォード・ドールの従弟に当たり、やはり宣教師の息子ですが、
マサチューセッツからサンフォードを追ってハワイに移住してくるのです。

1898年(明治31年)には米国にハワイ編入が宣言され、
ハワイ王国の国旗が降ろされ、星条旗が掲揚されてしまうのですが、
1900年(明治33年)の「ハワイ基本法」で準州になると
ジェームズ・ドールは準州知事に就任してしまい、
ハワイは、ジェームズ・ドールを代表とする、
サトウキビ農園主を中心とした富裕層に支配されてしまいました。

1901年(明治34年)ジェームズ・ドールがオアフ島に
ハワイアン・パイナップル社を設立し、
オアフ島の60エーカーの土地(約24ha、東京ディズニーシーの約半分の面積)に
にパイナップル を栽培し、パイナップル王となって、
現在の多国籍大企業に躍進していくわけです。
要するにハワイを食いものにして成り上がったわけです。


そういう欧米の大不況時代の中で
ハワイ王国が滅亡したことが官約移民中止の理由ですが、
もう一つ理由があるのです。
官約移民制度の具体的な交渉は、
アーウィン在日ハワイ総領事に一任されていたことで、
彼が、遠山の金さんや大岡越前に登場する
悪徳商人のように変ぼうしてしまったことも、
理由の一つなのです。
利権が思うがままになれば、そうなるのも世間では良くあることです。

アーウィンは外務卿・井上馨と親交があり、
移民は日本政府の支援策という安心感もあって、
財閥化する三井物産会社が
日本各地から大勢の出稼ぎ労働者を集めましたが、
アーウィンは契約移民者からだけでなく、
移民受け入れ先のサトウキビプランテーション経営者からも
法外な仲介手数料を徴収し、莫大な稼ぎを得ていたのですが、
守銭奴はどこまでも貪欲なようで
アーウィンの仲介料がこじれて、
ついに官約移民制度は廃止されてしまったのです。


どうも文面が長くなり、読みづらいと思いますが、
次回には新聞記事が書けるはずです。
posted by COFFEE CHERRY at 19:40| 沖縄 晴れ| Comment(2) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする