2006年06月30日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その5

今までのおさらいになりますが、
幕末の日本は、
1854年にペリー提督が艦隊7隻を率いて、
2度目の来日をしますが、
アメリカ大統領の親書を携えて、日本に開国を迫り、
大砲(空砲)で脅しをかけながら、
日米和親条約(神奈川条約)を締結させたことで、
日本は長い鎖国から、一気に開国へと向かうことになります。

ハワイ王国と日本の関係は、
ペリー来航の4年後の1860年に
日本の外交使節団が咸臨丸でワシントンに
日米修好条約調印のために渡米した帰路、
ハワイに修理のため寄港した時が原点になります。

日本側代表である
・ 勝海舟(船長)
・ 福沢諭吉
・ 中浜万次郎(ジョン万次郎、ガイド兼通訳兼航海士)
など、
幕末〜明治維新の歴史に登場する有名な一行ですが、
彼らはハワイに14日間滞し、
その間カメハメハ4世に謁見、
日布修交条約の締結を要望されました。

3年後の1863年には、
カメハメハ五世が日本と通商条約を結びたい旨の親書を
幕府あてに送ってくるのですが、
当時の日本は、
前年の1862年の生麦事件を契機に薩摩藩とイギリスが
戦争状態(薩英戦争)に入ったり、
テロリスト軍団・新撰組の結成や、
長州藩がアメリカ商船やフランス軍艦に発砲・襲撃をしたり、
大混乱の最中にありましたから、
ハワイ王国の通商条約どころの騒ぎではなかったのです。


ハワイ王国は、アメリカと密接な関係がありましたので、
アメリカの時代背景も見ておきましょう。

1861〜1865年は
アメリカでは南北戦争(American Civil War)がありました。

北部のイギリス系新興工業地域と
南部のフランス系大規模農業地域の対立という構図の内戦で、
約62万人もの多くの犠牲を出した、
米国版「天下分け目の関が原の戦い」です。

アメリカの農業は、当時
既に工業化が発達しているイギリスへ、
原料となる綿等の原料農産物供給をすることにより発達しました。

南北戦争以前から、
南部ではイギリスへの輸出のための
綿花栽培のプランテーションが大規模に行われていました。

南部の大規模農業は奴隷制に支えられ、
非常に生産性が高く、安価な農産物を大量に生産できました。

競争力ある南部の農業は自由に輸出したいですから
当然のように自由貿易を望み、
南部独自のの独立国家構想も考えるようになっていました。

ところが新興工業地域の北部にとっては、
まだ生産性や技術力が低い自国製品では
1歩も2歩も先を行く英国製工業製品には太刀打ち出来ません。

イギリスからの輸入品との競争に弱い北部工業地域は、
保護貿易を主張していました。

南北戦争とは
・ 貿易政策の対立
・ 奴隷労働力の確保
・ 南北間の地域格差
・ イギリス系やフランス系といった民族対立
など国内産業のあり方、対外政策のあり方を巡る、
複合的に絡まった南部独立の動きを阻止するための戦争で、
単なる黒人奴隷の解放や取り合いではありませんでした。

戦争中の1863年1月1日に
第16代アメリカ合衆国大統領
エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)が行った
「奴隷解放宣言」は、
北部は南部に打撃を与えるための政策戦術に過ぎなかったようです。

同年(1863年)7月、
南北戦争最大の激戦・ペンシルバニア州ゲティスバーグの戦いで、
合衆国軍(北軍)が勝利し、ここから北軍が優勢となり、
この2年後に北軍の勝利で終戦し、
北部主導で国内産業保護的な政策を取ることが出来るようになり、
これを背景としてアメリカ国内における工業が
飛躍的に発展するわけです。

いわばアメリカ版産業革命です。

ゲティスバーグの戦いの4ヵ月後に、リンカーンは
 "government of the people, 
   by the people, for the people"

   「人民による人民のための人民統治」
という有名な演説を行いました。

リンカーンは、奴隷解放宣言によって
黒人奴隷を解放したことで賞賛されていますが、
1862年の奴隷解放宣言の目的は、
主に連邦の分断を防ぐ為に、
政府の道義性を強調する牽制的な戦略であって、
リンカーン自身は奴隷解放に
強い関心があったわけではなかったようです。

リンカーンは、
事実上合衆国の統一を達成完成した大統領であって、
特別の偉人ではなさそうですね。

当時は、「奴隷制度からの解放」は、
必ずしも人種差別の禁止を意味していません。

解放された黒人が、
白人と少なくとも名目上の平等を獲得するのは、
はるか遠く第2次世界大戦後の話になるのですから。

勝海舟や福沢諭吉一行は、
運よく南北戦争の始まる1年前(1860年)に
咸臨丸で帰国していたことになりますね。


ここで、咸臨丸に通訳や航海士として乗船した
ジョン万次郎にも、少し触れておきましょう。

ジョン万次郎は1827年に、
四国の小さい村(中浜)で漁師の子として生まれ、
1841年(当時14歳)で暴風雨のために船が漂流、
鳥島まで流され、
ロビンソン・クルーソーのように救助を待っていました。

約5ヶ月後、アメリカの捕鯨船に救助され、
乗組員として懸命に働き、船長に認められて、
1843年にアメリカに帰着後、
船長は、万次郎を小学校に通わせました。

万次郎はその後、英語の他に、
航海術や数学など様々な学科を勉強して、優秀な成績を収めます。

当時のアメリカは、南北戦争の前で
黒人を奴隷として使う習慣があった時代ですから、
黄色人種である万次郎も、
教会や学校で大人や子供達に黒人同様差別され、
不快な思いを何度も味わったようですが、
生まれつきの負けん気と努力で困難を打破してゆきました。

学校で航海術や天文学を学んだ万次郎は、
いつかその技術を使って、
また海に戻りたいと思っていたのですが、
1846年に学校を卒業した時に
再度捕鯨船でアジアに行く航海に出る機会を得ます。

英語が上達していた万次郎は、
有能な船員として船長を助けて3年以上捕鯨船で仕事をしました。

万次郎がアメリカに戻って来た時は、
ちょうど西部でゴールドラッシュが始まった頃でした。

万次郎は望郷の念にかられるのですが、
肝心の資金がないため、
カリフォルニア近郊で金を見つけて
日本へ帰る資金を得ようと決心して
西海岸へと向かうことになります。

万次郎は、ゴールドラッシュ期のカリフォルニアに
金を採りに来た、おそらく唯一の日本人なのです。

約2ヶ月半金を探し回って、
日本に帰るのに十分な資金を得て、
24才の時(1851年)に日本に戻りました。

当時の日本はまだ鎖国中で、
正当な理由がなく外国に出た者は死刑になるのが普通でした。

万次郎は沖縄と長崎でいろいろ調べられるのですが、
当時沖縄を支配していた薩摩藩の藩主が、
「日本は開国して国力を強めなくてはいけない」
という先進的な考えの人で、
また土佐藩の藩主も進歩的な考えを持っていたので、
万次郎は取調べを受けても殺されることがなく、
翌年故郷の四国に帰ることが出来たのです。

万次郎は2人の藩主に
アメリカの事情について詳しく説明していました。

1853年ペリ−提督が黒船で日本にやって来て、
徳川幕府に開国を求めた時、
アメリカの事情に詳しい人物は
幕府には永い鎖国のせいで皆無でした。

そのため徳川幕府は、
アメリカで10年間過ごした万次郎を臨時幕臣にして、
アメリカに関する情報を得ることが出来ました。

万次郎は幕府の重臣達に、
アメリカ事情を詳しく説明して聞かせたり、
当時アメリカで流行していた航海術の本を日本語に翻訳したり、
英会話の本を出版したりしています。

漁師の息子が、
臨時であっても幕臣に抜擢されるというのは
当時としては異例中の異例の人事でした。

また、1860年に、徳川幕府が、
咸臨丸で日米修好条約調印のための使節を
アメリカに派遣した時、
通訳として大活躍しただけでなく、
得意の航海術を使って咸臨丸の操縦も手伝ったのでした。

万次郎の欧米の豊富な知識を吸収したいと思ったのは
江戸幕府だけにとどまらず、
薩摩藩や土佐藩でも万次郎を招き、
万次郎は英語や航海術、天文学などを教えています。

1868年に明治維新になり、
新しい近代国家作りが始まりますが、
万次郎は開成学校という今の東京大学になる学校で
英語の教授になって、若い学生を指導しました。

この明治元年に、
第1回目の日本人移民153人がホノルルに着き、
ハワイでの日本人移民の歴史が始まるわけです。

また、1870年に
万次郎は欧米視察団の英語の通訳として派遣されて
再度アメリカに渡っています。

江戸時代末期に漂流、言葉の壁というハンディを乗り越えて、
当時日本人が全く知らなかったアメリカという国を
日本に紹介して、
当時の日米関係に重要な役割を果たしたジョン万次郎は
日米関係のパイオニアの1人なのです。


次回へ続きます。

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2006年06月29日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その4

コナ・コーヒーは、
特に日本人移民が多く関わっていますので、
背景や経緯についての話が長くなることをご容赦下さい。


ハーマン・メルヴィル原作の『白鯨』の映画では、
グレゴリー・ペックが主演を怪演し、
エイハブ船長が宿敵モビー・ディックにモリを打ち込み、
そのままモビー・ディックと共に海に消えてしまうという
衝撃的なラストシーンが印象的でした。

この物語には、
巨大な人食い鯨モビー・ディックを
執念で追い続けるエイハブ船長の独断専行を
必死にいさめるコーヒー好きの一等航海士
スターバックも登場しています。

これが、
「スターバックス」の名前の語源になっていることは
有名な話ですね。

「白鯨」モビー・ディックはマッコウクジラでした。

“捕鯨”は、
主に食用・油用にクジラを捕獲することをいいますが、
その歴史は古く、
日本でも縄文時代の三内丸山遺跡から
クジラの骨が出土しています。

鯨の蝋(ろう)は、
蝋燭(ろうそく)や化粧品、クリーム、絵の具、
石鹸の原料、灯油、機械油、潤滑油など
多用途に利用出来て、
1970年代まで需要がありました。

ペリー提督が1853年に浦賀に来航し、
久里浜でアメリカ大統領フィルモアからの親書を手渡し、
幕府が返事を出さないことにいらだって、
翌1854年に再び来日し、
空砲で威嚇して日米和親条約を締結することになるのですが、
米国が日本に開国を迫った理由のひとつに、
「捕鯨船の中継基地の設置」
がありました。

当時のアメリカの捕鯨は、
アメリカ大陸近海のマッコウクジラをすでに捕り尽くしていて、
日本に近い西太平洋地域に
マッコウクジラの大規模な群れがあるのを発見したことで、
米国の捕鯨船は
「日本近海を有力な捕鯨の漁場にしたい」
という思惑があったのです。


1778年にオアフ・カウアイ島を発見した
英国の探検家ジェームス・クックは、
翌年ハワイ島を発見しました。

以降、
宣教師団やハワイで一旗揚げよう、と目論んで渡ってきた
商人や船乗りなどの白人だけでなく、
多くの捕鯨船が
オアフ島ホノルルとマウイ島ラハイナを
主要な中継基地として寄港していました。

最盛期の1855年頃には
年間400隻もの捕鯨船が来航したようです。

1850年までのハワイ王国の首都は、
マウイ島ラハイナでしたが、
同年オアフ島ホノルルへと遷都されています。

当時のハワイ王国政府は、
捕鯨産業そのものには関心が薄かったようですが、
捕鯨船団への艤装(ぎそう)と食糧の供給、
さらには捕鯨船員そのものの供給をまかなうことで、
莫大な収入源になっていました。

その後、
・ 米国〜ハワイ近海海域での
   マッコウクジラの乱獲による資源の枯渇
・ 1859年に米国ペンシルベニア州で
   機械掘りの油田採掘による鯨油需要の低迷
・ 南北戦争(1861〜1865年)
などの要因が重なって、
捕鯨産業そのものは衰退してゆくことになります。


ハワイの原住民を教化するためにやってきた宣教師団の一部は、
聖職を放棄してビジネスマンとなり、
あるものはハワイの王族に取り入りながら土地を入手して、
徐々に経済力や権力をつけてゆきました。

捕鯨業の寄港地ビジネスは、大きな収入源ではあっても、
季節格差が大きく、年間でみると安定してはいないので、
島には「産業」が必要でした。

1835年に、カウアイ島コロアで、
初めてサトウキビプランテーションの事業化が成功します。
このプランテーションでは、
・ 広大な土地
・ 粗糖1kg当たり2トンといわれる水
・ 安価で大量の労働力

が必要になりました。

これらが、
・ ハワイの土地所有問題
・ 移民受入の問題
・ 伝統的なタロ芋水田の衰退
という社会問題と深く結びついてくるのです。

1848年には、
マヘレ法(マヘレは分配の意味)が施行され、
それまで事実上全てハワイ王家の所有であったハワイの土地が
一般人にも所有できるようになり、
その結果、やがて
「白人支配階級による土地独占」
という事態に陥ってゆくことになるのです。

白人がハワイにもたらした様々な疫病によって
ハワイの人口は激減しつつあり、
プランテーションの(安価な)労働力不足を補うために、
1852年に中国の福建省と広東省から
初の移民受け入れ開始することになります。

中国人移民は、ハワイに天然痘やライ病だけでなく、
アヘンを吸う習慣まで持ち込みましたし、
ハワイの島民にとけこむこともなく集団化していて、
耕地契約が終るとすぐ耕地を離れて町へ出て
商売をする者が多い傾向にあったので、
ハワイでは
「中国人移民は耕地労働者としては期待外れ」
と考えられるようになりました。

1881年に中国からの出国禁止令が出るまでに
延べ1万8千人の中国人移民がハワイに渡来してきました。

ハワイ王国政府では、期待外れの中国人移民から、
日本人移民の導入を考えるようになり、
1868年(明治元年)に日本から
「元年者」と言われる第1回移民153名が
来航して来ることに至りました。

1876年には、米国−ハワイ互恵条約が締結され、
ハワイの砂糖は無関税でアメリカに輸出できることとなり、
サトウキビ産業は飛躍的に増大することになります。

しかし、見返りに
オアフ島真珠湾の軍事利用を米国に許したため、
これが「ハワイの軍事基地化の原点」となってしまいます。

1885年にカラカウア国王が訪日し、
明治天皇への要請に応えて、
日本からの「官約移民」がハワイに渡航してきます。

1893年までに合計26回、
延べ約3万人が移住
してきました。

1900年までにハワイ人口の約40%を
日本人移民が占めるようになる
のです。

また、移民はアジアからだけでなく、
マデイラとアゾレス諸島からポルトガル移民が1万2千人、
またスカンジナビア、ドイツ、ロシア、プエルトリコ等からの
移民もあったようです。

20世紀以降は移民はフィリピン・ベトナムなどの
アジア系やサモアなどの南太平洋系にシフトしてゆきました。

サトウキビプランテーションでの労働は、
11時間にも及ぶことがあり、
また格安な賃金であったこと等から、
日本人移民の一部が“脱走”して、
コーヒー栽培に従事することになるわけです。

サトウキビプランテーション産業によって莫大な富を築き、
少なくとも太平洋戦争まではハワイの隅々までを支配したのが、
「BIG5」
と呼ばれる5大財閥でした。

・ キャッスル&クック社  (現:ドール・フード)
・ C・ブリューア社    (現:ブリューア・アギノミックス)
・ セオ・H・デイヴィーズ社(現:ジャーディン・マセソン)
・ アムファック社     (現:アムファック・JMB)
・ アレクサンダー・アンド・ボールドウィン社(現:CALIF)

サトウキビプランテーションは
大量の灌漑用水を必要としましたが、
対照的にパイナップルは
わずかな水で栽培できるメリットがあったことから、
1882年には南米からパイナップルの苗が輸入されて
プランテーションが開始しました。

1901年には、
オアフ島ワヒアワでジェームズ・ドールが
ハワイアン・パイナップル社(ドール社の起源)を創設します。

ジェームス・ドールは
ハワイ共和国大統領となったスタンフォード・ドールの甥です。

ハワイアン・パイナップル社の初収穫は
設立2年後の1903年で、
1,893ケースだったようですが、
これが20年後には、280万ケースとなり、
1940年頃には同社のパイナップルは
「全世界の生産量の80%のシェア」
を占有していたようです。

このパイナップルプランテーションにも、
多くの日本人移民が過酷な労働に耐えて、
産業を下支えしていました。


次回へ続きます。

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2006年06月28日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その3

ハワイ島のコナには、
1828年に導入されたことは、昨日までに書きました。

コナでは、ククイ(kukui)という、
現在の“ハワイ州の木”の下に
コーヒーを植えていったのだそうです。


1850年〜1890年に至る40年間のコナでは、
ハワイアンは、漁やタロ芋栽培などの生活必需品のかたわら、
現金収入獲得の一方法としてコーヒー栽培を拡大していました。

1868年(明治元年)に
ホノルルに着いた最初の日本人移民(元年者)の一部が、
1890年頃から1910年にかけて、
サトウキビ耕地の過酷な労働に耐え切れず、
脱走してコナに入り、
白人の経営者のもとでコーヒーの栽培に従事していた、
と言われています。

以下、1890年〜1910年までの主な出来事を記します。

この頃は、日清・日露戦争で日本が大国相手に勝ち、
ますます軍備増強をして、
日本が世界から孤立してゆく激動の時代です。

長くなりますが、
「こんな時代の中で、
 ハワイで過酷な労働に耐えていた日本人移民がいた」

という、
異国の地で懸命に生き抜いた先人たちをしのび、
敬意を表してのものだとご理解下さい。

・1890年(明治23年)
  同志社の設立者・新島襄が48歳で亡くなる
  慶應義塾大学部が設置され、文学、法律、理財の3科が置かれる
  ストローガーが自動電話機の特許を取得する
  ヘレン・ケラーが発声訓練を始める
  唐人お吉(斎藤きち。50際)が、
   不遇のうち稲生沢川角栗の淵に身を投じる
  ゴッホがピストルで自分の胸を撃って自殺を図り、
   2日後に死亡する
  東京―横浜両市内と両市間で電話交換が始まる
   (加入者数は東京155、横浜42)

・1891年(明治24年)
  ロンドン−パリ間に電話が開通する
  盛岡〜青森間の開通で、上野〜青森間の東北本線が全通となる
  明治政府が小笠原南方の無人島を
   「硫黄島」と命名し日本領土とする
  エジソンがラジオの特許を得る

・1892年(明治25年)
  日本初の水力発電所が京都に完成する

・1893年(明治26年)
  ハワイ王国でアメリカ人のクーデターによる政変が起こり、
   女王リリウオカラニ(当時55歳)が退位させられる
  エジソン(当時46歳)が活動写真のキネトスコープを製作する
  アメリカ・ハワイの併合調印が行われる
  山本長五郎(清水次郎長、74歳)が死去する
  ウォール街の株価が突然暴落する(経済恐慌が始まる)
  チャイコフスキーが53歳で亡くなる
  ドヴォルザークの交響曲第9番ホ短調「新世界より」が
   カーネギーホールで初演される

・1894年(明治27年)
  ロンドンのタワーブリッジが完成する
  ハワイで、サンフォード・ドール判事が大統領に選出され、
   ハワイは共和国となる
  日本が清国に戦宣布告し、日清戦争が始まる
  アメリカがハワイ共和国を承認する
  北里柴三郎がペスト菌を発見する

・1895年(明治28年)
  日清講和条約に調印

・1896年(明治29年)
  アテネで第1回オリンピックが開催され、13ヵ国が参加する
  樋口一葉が25歳で亡くなる

・1897年(明治30年)
  ハワイへの移民665人中463人が
   手続き不備などの理由で上陸を拒否される

・1898年(明治31年)
  アメリカがハワイを併合する
  アメリカ軍がグアム島を占領する
  ジョン・中浜万次郎が72歳で亡くなる

・1899年(明治32年)
  勝海舟が脳溢血で77歳で亡くなる
  東京〜大阪間の長距離電話が開通する
  アイヌに対する北海道旧土人保護法が公布される

・1900年(明治33年)
  ガソリン自動車を発明したダイムラーが65歳で亡くなる
  ハワイの日本人労働者2千人が、
   雇い主の労働者斬殺に抗議してストに突入する
  パリ万国博覧会が開幕する
  ハワイ共和国がアメリカの準州になる
  ハワイがアメリカに合併される
  ツェッペリン飛行船がボーデン湖畔で試験飛行を行い、
   20分間飛ぶ
  第2回オリンピック・パリ大会が開幕し、
   20ヵ国から1,066人が参加する
  津田梅子により、麹町に女子英学塾(後の津田塾大学)が
   開校する‘生徒10人)

・1901年(明治34年)
  福澤諭吉が脳溢血再発のため、68歳で亡くなる
  ライト兄弟設計、バイスコプフ製作の
   エンジン付き飛行機が初飛行し、900メートル飛行する

・1902年(明治35年)
  八甲田山雪中行軍中の陸軍第8師団青森歩兵第5連帯の
   将兵210名のうち、199名が凍死する
  正岡子規が脊椎カリエスのため36歳で亡くなる

・1903年(明治36年)
  アメリカで新移民法が施行される
  ハワイ日本人会が設立される
  ライト兄弟の飛行実験が成功する
  ライト兄弟が人類初の動力機公開飛行を行う(複葉機)

・1904年(明治37年)
  日本軍が仁川、旅順を攻撃し、日露戦争が開始
  ハワイ移民350人、アメリカ移民80人が横浜を出発する
  日露戦争、第1・2・4軍がロシア軍との激闘の末、
   遼陽を占領する(遼陽の会戦)、
   日本軍の死傷は2万3,533人
  日露戦争、児玉源太郎が指揮する第3軍が
   旅順203高地を占領する

・1905年(明治38年)
  乃木大将とロシアのステッセル将軍が水師営で会見する
  日本軍が奉天でロシア軍を破り占領するが、死者7万人を出す
  東郷平八郎指揮の日本連合艦隊が、
   バルチック艦隊発見の報を受け
   「敵艦見ゆとの警報に接し連合艦隊は直ちに出動・・・、
    本日天気晴朗なれども波高し」
   と打電する
  日露戦争での日本海海戦で日本連合艦隊がロシアの
   バルチック艦隊の戦艦4隻を撃破する
  アインシュタインの特殊相対性理論の論文が初めて発表される
  ポーツマスで第1回日露講和会議が開催される
  アメリカ大統領が、日露交渉の打開を図るため、
   日本には賠償金要求の放棄を、
   ロシアには早期妥結を勧告する
  日露講和会議が決裂寸前で合意が成立するが、
   日本国内では抗議の大論争になる

・1907年(明治40年)
  アメリカが日本に再び移民禁止協約を提議する
  初めての外国野球団がハワイから来日し慶應義塾と初戦、
   その後早稲田と対戦する

・1908年(明治41年)
  外務省が、ハワイ移民の停止を移民会社に通告する
  国木田独歩が肺結核のため38歳で亡くなる
  慶應義塾大学野球部がハワイに遠征する(7勝7敗1取消し)
  第4回オリンピックのロンドン大会が開催され
   初めて水泳競技が行われる
  アメリカ海軍がハワイの真珠湾に
   世界最大の軍港建設を開始する

・1909年(明治42年)
  ハワイ・オアフ島の日本人労働者約2千人が、
   給料値上げを要求してストライキを行う
  浅間山が大噴火する
  ツェッペリン号が1,000キロを飛び、
   耐空時間38時間の飛行記録を達成する
  伊藤博文がハルピン駅頭で韓国人の安重根に
   狙撃され死亡する(69歳)
  竹久夢二が「夢二画集」春の巻を出版する

・1910年(明治43年)
  中国が奴隷制度を廃止し、人身売買は禁止される
  武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎らが「白樺」を創刊する
  ハレー彗星が地球に大接近する
  アメリカで人口調査が行われる
   (総人口は9,197万2,266人)
  白瀬中尉以下28人が開南丸で南極探検に出発
  ロシアの文豪トルストイが82歳で亡くなる

次回へ続きます。

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2006年06月27日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その2

コーヒーの木が、観賞植物として
ハワイ諸島に紹介されたのは1813年
のことで、
カメハメハ大王のスペイン人通訳官と
後にコナの経済大臣となった
ドン・フランシスコ・デ・パウラ・イ・マリン医師によって
リオデジャネイロから持ち込まれたコーヒー苗木を
ホノルルに植樹されたのが、
ハワイでのコーヒー栽培の始め、といわれています。

当時は、産業革命の初期、
ナポレオンの全盛期を過ぎたあたりの頃で、
こんな時代でした。

・ 1804年 蒸気機関車の発明(トレビシック)
・ 1807年 蒸気船の発明(フルトン)
・ 1811年 イギリス軍がジャワ島を占領
        国後島で、ロシア艦長ゴローニンを逮捕
・ 1812年 ナポレオンがモスクワに遠征
        アメリカがイギリスに宣戦布告
        間宮林蔵が幕府の命で蝦夷地の測量に出発
        択捉島の水産物を積んだ高田屋嘉兵衛の
        商船観世丸がロシア戦艦にだ捕される
        (逮捕者は、翌年ゴローニンと
          交換することになった)
・ 1813年 ベートーヴェンの交響曲第7番が
        ウィーン大学講堂で初演される
・ 1814年 ナポレオンが服毒自殺をはかる
・ 1815年 ナポレオンがエルバ島を脱出し
        南フランスのカンヌに上陸したことで、
        ルイ18世がパリから逃亡、
        ナポレオンがパリに入る(百日天下の始り)
        ワーテルローの戦いでナポレオンは
        イギリス・プロシア連合軍に敗退し、
        百日天下が終結、セント・ヘレナ島に流刑となる
・ 1816年 アルゼンチンがスペインから独立
・ 1817年 チリがスペインから独立
・ 1819年 大コロンビアがスペインから独立
        初代カメハメハ大王が亡くなる


ハワイのホノルルに初めてコーヒーが導入されてから16年後、
1828年に、ホノルルに植えられたコーヒーの接ぎ木が、
サムエル・ラグルズ牧師によって
ハワイ島のコナ地区に移植された、

と伝えられ、
コナ・コーヒーの歴史は、この時から始まるわけです。

・ 1825年 ブラジルがアルゼンチンに宣戦布告する
        ベートーヴェンが56歳で亡くなる
        シューベルトが31歳で亡くなる
        小林一茶が65歳で亡くなる
        西郷隆盛が誕生する
        長崎奉行所が、ドイツ人医師シーボルトの
        帰国時の所持品の中に、
        日本地図などの禁制品を発見する
        (シーボルト事件)
・ 1830年 リバプールとマンチェスター間の
        鉄道が正式に開通する


嗜好飲料としての、コナ・コーヒーの名が
記録に表れるのは1840年、
コナにコーヒーが植えられてから12年後のことですから、
コナでのコーヒー栽培の急速な普及が目に浮かぶようですね。

実際にはコナ地区だけではなく、
ハワイ島各地にコーヒーの苗木が移植されましたが、
コナ産コーヒー豆の質と風味が、
飲料として最も優れていたことから、
入植者や栽培面積が自然発生的に増えていったのです。

この辺りの火山培地は豊穣で水はけが良く、
コーヒーの木に必要な土壌成分条件が全て揃っているようです。

熱帯特有の日光と適度の雨、日中の暖かな風、
夜の涼しい風など、コーヒーの生育に申し分ない環境で、
強すぎる直射日光は雲が遮り、
激しすぎる風は周囲の森が防いでくれる等、
コナ地域の気候や風土全てが
コーヒー栽培に理想的な条件におかれているようです。

植樹から収穫まで一貫して手作業で行われるコーヒー裁培には
多大な労力が必要とされます。

1800年代中頃から後期にかけての時代に
白人所有の大型農園でコーヒー栽培に従事していたのは、
ハワイ人と中国系移住者が主でした。

日系移民がコナ・コーヒーの栽培に従事するようになるのは
1880年代初期から
1890年代前半にかけてのことになります。

・ 1853年 徳川家定が江戸幕府第14代将軍となる
        ペリー提督が浦賀に来航し、日本は開国へ
         (日米和親条約1854年)
・ 1859年 スエズ運河の建設はじまる(1869年開通)
・ 1861年 アメリカ、南北戦争(〜1865年)
        徳川慶喜が江戸幕府第15代将軍となる
・ 1868年 朝廷、王政復古を宣言
        明治維新、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争起こる)
        新政府は王政復古を各国公使に通告、
        江戸を東京と改称し、天皇即位式を上げる
        明治と改元し、一世一代の制を定める
        会津藩降伏
        江戸城を皇居とし東京城と改称
        榎本武揚ら蝦夷地を占領、五稜郭を本営とする
・ 1871年 廃藩置県実施
・ 1885年 内閣制度発足、伊藤博文総理就任
        日本に最初の外国の元首が来日する
        (ハワイのカラカウア国王)

・ 1889年 大日本帝国憲法発布(2月11日)
        市町村制施行
・ 1894年 日清戦争(〜1895年)


19世紀後半のハワイを治めていたのはカラカウア国王でした。

ハワイ王国が欧米諸国に脅かされる前に、
同じ太平洋の島国である日本と絆を深めようと、
そんな政治的な思惑を胸にカラカウア国王自らが来日して、
赤坂離宮で明治天皇と会談し、
・ 日本・ハワイの連邦化
・ 日本主導によるアジア連邦の創設
・ 日本〜ハワイ間の海底電線敷設
・ カイウラニ王女と山階宮定麿王の縁談
・ 移民の要請
などの提案をしているのです。

カイウラニ女王はカラカウア国王の姪で、
当時わずか5歳でしたが、
イギリス留学も経験しているインテリの皇族、東伏見宮依仁親王
  (ひがしふしみのみやよりひとしんのう、
    当時は18歳で山階宮定麿親王と名乗っていた)

との政略結婚の申し出まで提案していたのですね。

これが成立していれば面白かったのですが、
残念ながら破談になってしまうんですね。

カラカウア国王は、日本とハワイとの連携により、
優秀な労働力を確保して、
欧米諸国に対抗してゆくことを望んでいたのですが、
当時の日本は、
日清戦争前で富国強兵というスローガンを掲げていて、
欧米の武力や産業技術に追いつくことを主眼としていました。

カイウラニ女王は、
やがてロンドンに留学した頃にこの縁談話を知り、
断りの手紙を書くのですが、これより早く、
日本側がアメリカを気にして
カラカウア国王に破談の手紙を出していました。

それでも、今日、
ハワイで日系人がハワイ社会の中枢を担っているのは、
もともとこのカラカウア国王の
明治天皇への申し出に端を発しているのです。

ハワイにおける最初の組織的移民は、
昨日の記述のように中国から行われました。

しかし、労働者の質が悪く、
またクーリーとよばれた低賃金の中国人労働者の流入を阻止する
中国人排斥法が、1882年にアメリカで成立した影響で、
ハワイでも1886年には、
契約労働による中国人の流入はほとんど停止されてしまいます。

中国人労働者移入の禁止で
手薄となったプランテーションの労働力を次に支えたのが
日本人だったのです。

次回へ続きます。

コーヒーの若木.jpg


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2006年06月26日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その1

コナ・コーヒーは、
「1828年に。
  リオデジャネイロから持ち込まれた苗木から始まった」

といわれており、
カイルア・コナの街から山手に上がったフアラライ山中腹の、
わずか南北40Kmが、コナ・コーヒー・ベルト地帯
に、
大小500を越えるコーヒー農家が集中しているのですが、
コナ・コーヒーの歴史には、日本からの移民が関わっていますので、
それについて書きたいと思います。


今日は、日本人移民が、ハワイにやってくるまでの経過です。

英国の探検家ジェームスクックが、
1778年にハワイ諸島を発見した当時は、
「ポリネシアの一環として原始的な石器時代にあった」
といいます。

当時は、天才音楽家モーツァルトの全盛時代でしたが、
他にもこんなことがあった時代でした。
・ 1769年 ジェームズ・ワットが蒸気機関を発明
・ 1774年 杉田玄白、前野良沢らが解体新書を出版
        (11代将軍・徳川家斉の徳川後半の鎖国時代)
・ 1775年 アメリカ独立戦争
・ 1776年 アメリカ合衆国独立宣言
・ 1782年(〜1787年) 天明の大飢饉
・ 1783年 浅間山の噴火
・ 1786年 モーツァルトがオペラ「フィガロの結婚」を初演
・ 1789年 ジョージ・ワシントンが
        アメリカ合衆国初代大統領に就任

ハワイでは、1795年にカメカメハ1世が統一し、
以降、
・ サトウキビ
・ コーヒー
・ バナナ
・ タロイモ
など、
農産物を主体とした輸出に依存していましたが、
1840年、カメカメハ3世のときに、
「ハワイ王国」として独立し、
1852年以降は、多くの中国人移民がハワイにやって来ました。

中国人移民は、ハワイに天然痘やライ病だけでなく、
アヘンを吸う習慣まで持ち込みました。

また、中国人移民はハワイの島民にとけこむこともなく、
集団化していて、
耕地契約が終るとすぐ耕地を離れて町へ出て
商売をする者が多い傾向にあったので、
耕地労働者としては適当でないと考えられるようになりました。

そこでハワイ政府では、
日本の政府に移民の導入を働きかけることを
考えるようになったのです。

幕末の日本は、
1854年にペリー提督が艦隊7隻を率いて、
2度目の来日をしますが、
アメリカ大統領の親書を携えて、日本に開国を迫り、
大砲(空砲)で脅しをかけながら、
日米和親条約(神奈川条約)を締結させたことで、
日本は長い鎖国から、一気に開国へと向かいます。

ハワイ王国と日本の関係は、
ペリー来航の4年後の1860年に
日本の外交使節団が咸臨丸でワシントンに
日米修好条約調印のために渡米した帰路、
ハワイに修理のため寄港した時が原点になります。

日本側代表である
・ 新見豊前守正典
・ 村垣淡路守範正
・ 勝海舟(船長)
・ 福沢諭吉
・ 中浜万次郎(ジョン万次郎、ガイド兼通訳)
など、幕末〜明治維新の歴史に登場する一行ですが、
彼らはハワイに14日間滞し、
その間カメハメハ4世に謁見、
日布修交条約の締結を希望されました。

1863年には、
カメハメハ五世が日本と通商条約を結びたい旨の親書を
送ってくるのですが、
当時の日本は、
前年の1862年の生麦事件を契機に薩摩藩とイギリスが
戦争状態(薩英戦争)に入ったり、
テロリスト軍団・新撰組の結成や、
長州藩がアメリカ商船やフランス軍艦に発砲・襲撃をしたり、
大混乱の最中にありましたから、
ハワイ王国の通商条約どころの騒ぎではなかったのです。
(なお、同年1863年1月1日に
  米国ではリンカーン大統領が「奴隷解放宣言」をしています)

1867年に入って、徳川慶喜が15代将軍に就任した幕府は、
「暫定的でいかなる拘束もしない」
という条件で、日布臨時親善協定を締結しました。
(同年、パリで万国博覧会が開催され、
  江戸幕府も、陶器、武具などを携えて公式参加しています)

この条約に基づいて、
日本在中のオランダ系アメリカ人実業家
ユージン・ヴァン・リードをハワイ駐日総領事に任命し、
早速、甘蔗耕地の日本人労働者募集を行わせました。

この第1回の日本人移民153人は
1868年(明治元年)にホノルルに着いたので、
「元年者」と呼ばれています。

この第1回移民募集をした時期は徳川幕府でしたが、
移民者が渡航する時期には、明治新政府が誕生していました。

明治新政府は、
徳川幕府とハワイ政府間の日布臨時親善協定を
認めなかったのですが、
ヴァン・リードは新政府の正式の承認のないまま
第1回移民を横浜からハワイに送り出してしまいます。

第1回移民の一団は、
横浜を中心に募集された少数の武士や職人、髪結、料理人等で
構成されていたようですが、
ハワイ入植直後から耕地での苛酷な取扱いに対する不満や
低賃金、高い生活物資などへの不平不満を訴えるようになり、
翌1869年、
日本政府は情況視察の目的で特別全権公使・上野景範を
ハワイに派遣しました。

その結果1870年に、
第1回入植者153人のうち40人を
日本政府の費用負担で送還し、
ハワイに留まった108人の“元年者”の大部分は
ハワイ人と結婚して同化してゆきました。
(入植者153人のうち5人は、現地で亡くなっていました)


次回へ続きます。

posted by COFFEE CHERRY at 17:41| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月25日

フィリピンのコーヒー事情〜その4

“幻”というと、
入手が難しい限定モノなど
希少性があるものを定義しますが、
“幻”だからといって、
必ずしも高品質かどうかはわかりません。

やみくもに、“幻”だからという理由で確保するのではなく、
どうして“幻”なのかexclamation&question
を良く吟味する必要性があるでしょう。

そういう意味では、
現在の沖縄コーヒーも“幻のコーヒー”なのです。

半数以上は、
「さしたる“こだわり”もなく、ただ栽培しているだけ」
なのが現状なのです。

そう考えると、
フィリピンの“幻のコーヒー”だって、
本当に凄いのかどうかは分かりませんが、
ご紹介だけしておきましょう。

 パームシベット.jpg
東南アジアに分布するジャコウネコ科の
「パームシベット」という夜行性の動物がいます。

野生での詳しい生態は未だによく分かっていないようですが、
雑食性で、小動物や昆虫を捕らえるほか、
果実や植物の種子なども好んで食べる“害獣”のようです。

英名の「Palm civet」は、
ヤシ(=Palm)の樹液を好んで食べることから
命名されたようです。

このパームシベットは、
コーヒーの実も好んで食べるのですが、
排泄したコーヒーの実が
“幻のコーヒー”の正体なのです。

 パームシベット2.jpg

パームシベットは、
リベリカ種、ロブスタ種、アラビカ種の種類に関係なく
食べるようですが、
消化器系で分解発酵されて、
豆の姿のまま排泄されるのだそうです。

コーヒー栽培農家は、
コーヒー収穫時期に、
赤い実だけでなく、
地面に落ちたパームシベットの糞も集めているようです。

パームシベットの名前にちなんで、
「civet coffee(シベット・コーヒー)」
と言われ、
年間500s程度しか取れない希少性が売りで、
焙煎されたコーヒーは、
1kg当たり100US$以上しているそうです。

肝心の味は、
「チョコレートのフレーバー」風らしいですが、
どうなのでしょうかexclamation&question


実は、このスタイルは、インドネシアのパクリなのです。

 ハクビシン.jpg
インドネシアで
「KOPI LUWAK(コピ・ルアック)」
と呼ばれるコーヒーがあります。

東南アジアには、
上記のパームシベットの親戚(マングースも親戚)で、
同じジャコウネコ科の「ハクビシン」という、
SARSで有名になった動物がいます。

ハクビシンは、パームシベットと同様に、
夜行性で果樹の実を食べるのですが、
ハクビシンがコーヒーの実を食べて、
排泄される過程で、
体内で特殊な酵素で自然処理されるために
特別なアロマを持つといわれて珍重されているのです。

インドネシアを中心に、
東南アジア全域でも約1,200s程度しか
生産されない希少性が売りで、
米国では1kg当たり130US$以上しているそうです。

このスタイルを、フィリピンが真似たわけです。

いっそのこと、ハクビシンやパームシベットを、
コーヒー農園で放し飼いにしたら、どうなのでしょうかexclamation&question


また、リベリカ種の“バラコ”には、
堆積脂肪除去の性質があるらしく、
「バラコ コーヒービーン スクラブ
  (Barako Coffee Bean Scrab)」

という、
ボディセラピーのスクラブも、
現地では行われているようです。

コーヒーは、
「嗜好品として飲む」
というだけでなく、
こういった考え方は参考にしなければいけませんね。


posted by COFFEE CHERRY at 12:52| 沖縄 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | フィリピンのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月24日

フィリピンのコーヒー事情〜その3

フィリピンのコーヒー生産が
リベリカ種に変わりつつあるのは、
ロブスタ種の買い取り価格の低下にあります。

コーヒーのアラビカ種はニューヨーク市場、
ロブスタ種はロンドン市場で価格が決められるのですが、
世界のコーヒー消費量が減少傾向にあって、
コーヒー相場はここ数年、値下がりしています。

コーヒー農家には1kg当たり1ドル必要ですが、
現在のコーヒー価格では、
コーヒー農家の手取りはその半値くらいなのです。

そのために、コーヒー農家の暮らしは成り立ちません。

“安全・安心”がキャッチフレーズ化して、
宣伝コピーとしても使われるようになりましたが、
“フェアトレード”も実は同様で、
一部の善良な業者以外は、
チラシコピー感覚で使っているのです。

「世界のコーヒー市場を攪乱しているのは、
 ベトナムコーヒーにある」

という考え方もあるのですが、
そのお話はまた後日にさせて戴きましょう。

コーヒーの値下がりの結果、
生産農家は肥料や苗木を買うことができず、
農民の生産意欲はなくなり、
品質の低下と共にコーヒーの味が落ちている、
とも言われています。

特に安いベトナム産コーヒーを使うインスタントコーヒーなど、
「安いコーヒーほど味が落ちた」
と言われています。

フィリピンは、
沖縄以上に経済的な自立基盤が出来ていない、
貧困な国です。

フィリピンのバナナは、
米国資本の
・ ドール
・ チキータ
・ デルモンテ
・ 日本(住友)資本のバナンボ
の4社がバナナプランテーションを支配していて、
主として日本向けに生産・輸出しているのは
ご存知の通りですが、
フィリピン人は農薬まみれになって、
低賃金で奴隷状態で現場で雇用されています。

「品質を良くしてコーヒー価格を上げよう」
という試みも、
コーヒー生産国の一部でありましたが、
結果的には徒労に終わっています。

こういう背景の中でのコーヒーの価格破壊ですから、
フィリピンが、その歴史に着目して、
フィリピンらしい独自のコーヒー(リベリカ)を生産する、
という考え方は、
私は的を得ていると思っています。


「バラコ」コーヒー復活の取り組み
・ ルソン島南部のカビテ州にあるタガイタイで
  布教活動を行っているカトリックの神父が
  「バラコは、かつて中東にも輸出されていた伝統的な製品で
   もっと売れるはず。
   バラコを育てることは農家の収入増にもつながるはずだ」
  
  と、バラコの復活を唱えていました。

・ タガイタイは標高400mほどの高地にあって、
  コーヒー農家が集まっている地域です。

・ 神父は布教活動のかたわらに、
  コーヒー農家への農業教育や支援を続けていて、
  バラコの復活をコーヒー農家にも働きかけていました。

・ 神父の活動を知ったマニラの有名コーヒー・チェーン店
  「フィガロ」の経営者や
  フィリピンのコーヒー財団、行政が、
  バラコ復活の後押しに乗り出ししました。

・ 自国の味に誇りを持ち、
  国内航空会社(フィリピン航空)やマニラのホテルなどで、
  フィリピン産コーヒーを出し、
  世界にバラコの味を広げたい、と意気込んでいるのです。


「バラコ」コーヒーの課題
今後、「バラコ」コーヒーを
輸出の柱にしたい意向はあるようですが、
・ リベリカ種自体が、
  世界的に認知されていないという状況下で、
  どこまで商品価値を高めていけるのか
・ “個性的な味”が好まれるのかどうか
・ ターゲットをどこに絞っているのか
・ 高いレベルでの栽培管理や品質管理が出来るのかどうか
・ 販売ルートを巨大資本を外して、独自に出来るのかどうか
など、課題も山積みですが、
これを克服してゆくことで、面白い展開も見えてきそうで、
私はとても楽しみにしています。

明日は、フィリピンの“幻のコーヒー”について
書きたいと思います。

posted by COFFEE CHERRY at 21:00| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | フィリピンのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月23日

フィリピンのコーヒー事情〜その2

フィリピンのコーヒー生産量(JETRO資料より)
・ 1890年 14万1千トン
・ 2001年 13万2千トン
・ 2002年 13万2千トン
アラビカ種、ロブスタ種の比率や栽培面積などは
フィリピンの農業省の統計資料では分かりにくいし、
いろいろな資料によって、数字が違うのですが、
 「コーヒーの巨大資本企業(ネスレ、フィリップモリス等)が、
  インスタントコーヒー用に、
  ロブスタ種を買い叩いているので、
  フィリピンで生産されているコーヒーはロブスタ種が多い」

という説が現実に近そうです。

日本には、
毎年約600トンのインスタントコーヒー(中間製品)が
フィリピンから輸入されていますが、
これは生豆に換算すると
約1万5,600トンに相当する数量になります。

  フィリピン.png  
フィリピンは大小7千もの島々からなり、
インドネシアに次いで世界で2番目に島の数が多い国です。

フィリピンの主なコーヒー産地
・ ルソン島 カヴィテ州、
・ ルソン島 ベンゲット州
・ ルソン島 バタンガス州(主にロブスタ種、リベリカ種)
・ ミンダナオ島 ブキノドン州
・ パラワン島(主にロブスタ種)

ルソン島バタンガス州のすぐ西側にルバング島があり、
この島で1974年(昭和49年)3月
小野田寛郎元少尉が救出されました。

フィリピンのアラビカ種は、
1868年頃にサビ病による大被害に遭い、
それ以降に、
病害虫や悪環境に強く生産量も多いロブスタ種が導入され、
19席末にアメリカがリベリカ種を持ち込んだ、
とされています。

リベリカ種は、
アフリカ大陸のリベリアが原産地のコーヒーなので、
そう命名されているようですが、
世界のコーヒー生産量の数%を占めるだけの少量品種ですし、
そのほとんどが欧州に輸出されているようですから、
日本ではまず目にすることがない品種なのです。

「アラビカ種やロブスタ種とは違う独特の風味があり、
 飲んだ後には強い苦味が残る」
という個性の強いコーヒーのようですが、
フィリピンでは、栽培が途切れることなく続いていましたし、
「このリベリカ種が一番美味しい」
という現地人もいるようですから、
“個性派コーヒー”であることは間違いないようなので、
ぜひ飲んでみたいです。

那覇からマニラまでの距離は、
大阪から那覇までの距離とほぼ同じで、近いですからね。

このリベリカ種は、
ルソン島南部にあるバタンガス(Batangas)州にちなんで
『Baracos(バラコ)』
と命名されているようです。

フィリピンのコーヒー栽培には、
約8万人が従事しているようですが、
ロブスタ種の価格破壊で
リベリカ種の『バラコ』栽培に切り替える農家が
増加しているようです。

明日は、
「バラコ」コーヒー復活の取り組みについて書きたいと思います。

posted by COFFEE CHERRY at 21:18| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | フィリピンのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月22日

フィリピンのコーヒー事情〜その1

日本で、フィリピン産というと
「バナナ」のことをイメージするはずです。

フィリピンのコーヒー生豆が、
日本にはほとんど入ってきていないのですから、
認知されていないのも当然のことです。

それでも、
インスタントコーヒー(中間製品)としては、
ここ数年約600トン
(全輸入の約8%弱、平均単価約700円/s)
が日本に入っている
のです。

昨日の「インドの歴史」での記述のように、
1700年には、
ジャワ島でコーヒーの大量生産に成功しているようですし、
18世紀には
 「ヨーロッパ人のコーヒー・プランテーションは
  西インド、中南米に広まる」

と文献で出てきますから、
1740年に
「スペインの修道士がフィリピンにコーヒーを伝来した」
という文献は、キリスト教の布教活動の一環とも考えられ、
18世紀初頭には、
フィリピンでもアラビカ種が広域に栽培されていた、
と考えるのが自然でしょう。

1868年のセイロンでのサビ病被害を契機に、
東南アジアのコーヒー栽培地に大打撃を与えますから、
この後に、
ロブスタ種の栽培が始まってきたものと考えられます。

「フィリピン産コーヒーは、
 かつて世界第4位を誇るコーヒーの生産国」

という記述も文献に出てきますが、
それがいつごろの話なのかは出てきません。

それでも、
フィリピン産コーヒーの生産量が
その昔は多かったことは充分考えられ、
「フィリピン産コーヒーが珍重された時代もあった」
ということもあったのでしょう。

フィリピンでも、
輸出の約8割が巨大多国籍企業に支配されていて、
「生かさず、殺さず」
という奴隷に近い状態で
バナナやコーヒーは買い叩かれているのですが、
そうした中で、
フィリピンは“リベリカ種”の生産で、
特長を出そうとしています。

続きは明日書きます。

posted by COFFEE CHERRY at 15:42| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | フィリピンのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月21日

インドのコーヒー事情〜その2

インドのコーヒー生産量は
1890年度 16万8千トン
2001年度 30万1千トン
2003年度 31万7千トン

2004年度 27万5千トン
2005年度 27万8千トン

と、近2年の生産が落ち込んでいますが、
・ ロブスタ・コーヒーを生産する地域の大半で
  過度な降雨でコーヒーの実が大量に落ちたこと
・ アラビカ・コーヒーは、
  害虫のニカメイガの一種であるwhite stem borerの
  被害があったこと
などが、その理由のようです。

また、
アラビカ種を生産している農園の一部では、
害虫被害の拡大を防ぐために木を燃やす必要があるようで、
今後4年間は生産量も減少するようです。

インド国内でのコーヒー消費量は、
約6万トンと推定されていて、
コーヒー生産量の減少によって、
輸出数量が引き下げられることになりそうです。

インドコーヒーの輸出先は、
・ 欧州
・ 米国
が中心で、
日本には5千トン程度しか入って来ないのですが、
ロシアや中国からも引き合いが来ているようです。


インドコーヒーの特徴
大航海時代、インドで栽培されたコーヒー豆は
南西の貿易風(モンスーン)を利用して
約半年もかかって欧州に搬送されましたが、
モンスーン気候独特の高温多湿が
コーヒー生豆を茶褐色に変色させ、
味も香りも変質してしまい、
それがインドコーヒー独特の風味として
欧州で定着していたようです。

スエズ運河の開通で、
インドからヨーロッパまでの航海日数は
大幅に短縮されたことで、
鮮度の良いコーヒーが
「それまでの風味と違う」
と、逆に嫌われたことで、
インドではモンスーンの吹き込む海岸倉庫での
大航海時代のコーヒーを“再現”した熟成方法を取り入れ、
独特の香味を持つ「モンスーン化」したコーヒーを
“擬似復活”させたことで、
欧州では根強い人気があるようです。


インドにおけるゴムと茶を含む農園面積は、
全体で約151万ヘクタール、
雇用者は約340万人と言われていますが、
コーヒーだけの栽培面積や、
雇用者数などの統計は発表されていないようです。


インドのコーヒー栽培の状況
・ 開花時期 主に3〜4月ごろ
・ 収穫時期 主に11〜4月ごろ
・ 中南部のゴーツ山脈山麓近辺に農園は多い
・ 農園の標高 1,000〜2,000m
・ 木の種類
  ケント種
  ティピカ種&ケント種の交配種
  SLN9
  SLN795
  などが中心のようです。
  ロブスタ種やアラビカ種などの比率は分かりません。


インドコーヒーの歴史
コーヒーの原産地は諸説ありますが、
エチオピアのアビシニア高原というのが
主流を占めているようです。

ここからイエメンにコーヒーが持ち込まれたのは、
1470年頃と伝えられています。

・ 1467年(〜1477年) 応仁の乱で室町幕府が衰退
・ 1474〜1480年    越前一向一揆
・ 1498年  南アメリカ大陸発見
         ヴァスコ・ダ・ガマが前年に喜望峰を通過し、
         インド南西のカリカットに到着した年
というような大航海の始まりのあたりの年代ですね。

17世紀頃までは、
自生していたコーヒーを摘んでいたようなもので、
農園やプランテーションなど栽培管理されたような
農業手法とは程遠かったようです。

17世紀に入って、
ヨーロッパ各国にコーヒーが普及し始めると、
イギリス・フランス・オランダの東インド会社が、
こぞってイエメンからの輸入取引を始めます。

コーヒーの積み出しが行われたイエメンの小さな港の
「モカ」が最初のコーヒーブランドにもなったのは、
ご承知の通りですね。

一部の文献では、1600年に
「アラビア人がインド西岸にコーヒーの木を伝える」
というのもありますが、
当時のイエメンでは、
コーヒーの苗木や実、生豆の持ち出しを
厳重に監視していたようですから、
「17世紀にインド人のババ・ブーダンが、
 メッカ巡礼の際にコーヒーの実を盗み出し、
 南インドのマイソールに植えた」

という説の方が信憑性がありそうです。

これが、インドのコーヒーの原点ではないでしょうか。

1658年には、
「オランダがセイロンへコーヒーの苗木を持ち込み、
 少量の栽培に成功した」

というのもありますが、
当時の「セイロン」は
現在のインドとスリランカを併せた言い方を
していたはずですから、
マイソール以外の場所のはずで、
前述のババ・ブーダンによる苗木の持込が
早いように思われます。

どちらにしても、徳川幕府の初期の頃の時代です。

NHKテレビの「功名が辻」の
主人公・山内一豊が亡くなるのが1605年、
千代が亡くなるのが1617年、
三代将軍徳川家光の即位が1623年〜1651年ですから、
時代背景的にはその頃が、
インドやセイロンでコーヒーを栽培し始めていたことになります。

1700年には、ジャワで大量生産に成功しているようですし、
18世紀に
 「ヨーロッパ人のコーヒー・プランテーションは
  西インド、中南米に広まる」

と文献で出てきますから、
インドやセイロンでは、
コーヒー栽培が急速に拡大していったように思えます。

それまでエチオピアやアラビアでしか採れないことで
高価だったコーヒー豆が、
大航海時代を通じて
東南アジア、中南米、中央アフリカなどでも
産出されるようになったわけです。

オランダ東インド会社は、
セイロンやジャワで生産したコーヒーを、
イエメンに持ち込みました。

ここで当時の大ブランドのモカの価格を調査して、
それより安い値段でヨーロッパに持ち込む
低価格戦略をとりました。

この戦略が功を奏し、
オランダは欧州のコーヒーマーケットを独占するに至ります。

1861年アフリカのウガンダとエチオピアで
大発生した“サビ病”が、
1868年にはセイロン(現在のスリランカとインド)に伝染し、
「2週間でコーヒー農園が全滅した」
と文献には記述されています。

そのために、
インドやスリランカでは
コーヒーから茶や紅茶に切り替えてゆきました。

その後インドでは、
病害虫に強いロブスタ種を中心にコーヒー栽培が復活し、
病害虫対策として
地力をUPさせる有機農業を取り入れた農園が多く、
アラビカ種栽培も増加してきたようです。


posted by COFFEE CHERRY at 17:56| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | インドのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月20日

インドのコーヒー事情〜その1

インドというと、
コーヒーより紅茶のイメージが強いのですが、
世界第5位(東南アジアでは3番目)の
コーヒー生産国でもあります。

2005年度のコーヒー生産量
1. ブラジル  216万6千トン
2. ベトナム   74万トン
3. コロンビア  69万3千トン
4. インドネシア 40万5千トン
5. インド    27万8千トン
6. エチオピア  27万トン
7. メキシコ   25万2千トン
8. グアテマラ  22万1千トン
9. ホンジュラス 17万9千トン
10.タンザニア   4万5千トン
(フィリピンは、約14万トンくらいの生産量があるようですが、
 ICO統計には出ていません)

インドによるコーヒー生産高は5位とはいうものの、
世界生産高の5%弱程度しか占めていませんし、
またインドではその生産高のうち、
70%〜80%を輸出しています。

ただし、日本には5千トン程度しか入っていません。

日本のコーヒー生豆の国別輸入量(2005年)
1. ブラジル    11万2,653トン
2. コロンビア    9万4,244トン
3. インドネシア   5万6,851トン
4. グアテマラ    3万3,152トン
5. エチオピア    3万  462トン
6. ベトナム     2万8,210トン
7. タンザニア    1万4,000トン
8. コスタリカ     7,261トン
9. メキシコ      6,254トン
10.ホンジュラス    5,694トン
11.パプアニューギニア 5,572トン
12.エルサルバドル   5,489トン
13.インド       4,652トン
14.中華人民共和国   4,003トン
15.ペルー       2,159トン
16.ニカラグア     1,088トン

インド産の生豆は、日本の生豆輸入量の約1%と、
日本ではインド産コーヒーが評価されていないのが現状です。

そのため、
インド産のコーヒーを見かけないので、
インドコーヒーの認知度合いが低いのです。


インドと沖縄は、ほぼ同緯度にありますから、
インドで栽培できるものは、沖縄でも栽培できます。

沖縄産ウコンは少なくなりましたが、
ウコンはネパールが原産とも言われていますし、
インドの僧の袈裟のオレンジ色はウコン染めで、
カレーの原料にもターメリックとして使われていますし、
紅茶も沖縄で栽培されています。

続きは、明日書きます。

posted by COFFEE CHERRY at 21:03| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | インドのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月19日

やっかいな“地割れ”

沖縄は、先週までの集中豪雨で土砂災害がテレビ報道されました。

5月下旬〜6月中旬までの短期間で見ると、
降水量は平年の10倍もありました。

沖縄本島南部の土壌は、
「ジャーカル(クチャ)」
という、粒子の細かい粘土状の土です。

雨が降ると、粘土状になるのですが、
「ジャーカル(クチャ)」は、
乾季になると“地割れ”になります。

昨年は、
沖縄本島には不思議に台風が来ませんでしたが、
夏場は1ヶ月以上も雨がない日照り状態が続きました。

    地割れ.jpg
この“地割れ”が問題なのは、
土壌の弱い部分で最初に小規模で発生し、
地中に深く、また亀裂が入りやすい部分に向かって
ジワジワと伸びて行きます。

コーヒーの木は、
風や低温を除くと、わりと強い果樹ですが、
成長に時間がかかる果樹でもありますから、
移植をすると、根付くまで2年近くかかるのです。

大きな木ほど、活着まで時間がかかります。

“地割れ”は、
コーヒーの木を移植した方向に向かって亀裂が伸びてきます。

移植の「穴掘り」をしてあるために、
強度の関係だと思われます。

“地割れ”の亀裂が、
コーヒーの根を切ってしまうことが困るのです。

微生物は、
有機肥料をよく分解して吸収しやすいように
してくれる役目をしています。

リン酸やカリウム、ミネラルも吸いやすくしてくれるので、
新しい根の毛根のまわりには、
微生物がたくさんすみ着いているのですが、
この毛根を“地割れ”の亀裂が
引きちぎってしまうことになりますから、
コーヒーは水不足だけではなく、
一時期栄養失調状態になり、
葉を落として延命するように指令してしまうのです。

そのため、露地栽培においては、
コーヒーは特に水やりには注意しなければなりません。

また、土中の水分が蒸発しないように、
土の表面には“マルチ”対策も必要です。

粉砕したバガス(サトウキビの搾りカス)を撒いたり、
雑草を刈って撒いたり、
クローバーによる葉っぱマルチもしています。
 クローバーマルチ.jpg
私はパーマカルチャー的な考えで栽培していますから、
雑草は少しくらい生えていても
“共生”している、と捉えています。

posted by COFFEE CHERRY at 17:58| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーの栽培日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月18日

やっかいなマイマイ

マイマイ1.jpg
詳しく調べていないのですが、
沖縄の“マイマイ”は、
本土で言うデンデンムシ(カタツムリ)とは、
少し違うのではないかと思います。

早朝や雨の日に出没し、
軟らかい新芽や葉を食べてしまいます。

そのため、
一時的に木の成長点が止まってしまうこともあるのです。

 マイマイ2.jpg
発見次第、手で取って牛乳パックに入れるのですが、
1本の木に10個近く付いていることもあって、
とてもやっかいな仕事になります。

島唐辛子や月桃の実の泡盛漬けを希釈して、
葉面散布すると効果的なのですが、
雨で流されてしまいますと、
効果性が薄れてきます。

マイマイも含めて、
沖縄でのコーヒー栽培に関連するムシの生態を
一度徹底的に調べてみないといけません。

ニーム(インドセンダン)の効果性や月の動きと併せて、
ぜひ実験したいと思っています。


 マイマイ3.jpg
幹のように見えるのは「支柱」です。

沖縄での露地植えでのコーヒー栽培は、
“風”がネックになりますから、
幹の近くに支柱を立て、幹を結びつけるようにしています。

直径16mmの鉄筋を3mに切断して、
約1mを地中に入れていましたが、
夏場には、鉄筋がヤケドするくらい高温になり、
それに幹や葉が接触すると、
さすがにコーヒーの木でも傷むものですから、
現在は、「支柱」を鉄筋から木に変更しています。
posted by COFFEE CHERRY at 19:45| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーの害虫・益虫・タダの虫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月17日

タイのコーヒー事情

アユタヤ王朝(1351〜1767年)の大交易時代に
伝来したといわれるタイのコーヒーは、
タイ語では“カーフェー”と発音するようです。

徳川家康が関が原で勝利し、
全国統一を果たしたのが1600年ですが、
その頃には日本人町がすでに出来ていて、
頭領(町長)もいたようです。

当時のアユタヤでは、
コーヒーやスパイスを栽培をして、
東インド会社を経由して欧州へ輸出していたはずですが、
今のところ文献では、そのあたりの記述が見つかりません。

最近のタイでは、
首都バンコックなど都市部を中心に、
スターバックスや、ドトール等のコーヒー専門店や
スタンドショップ、ベーカリーカフェも増え、
「カフェ・ソット」
(ソット=生、新鮮の意味で“本物のコーヒー”のこと)
が広まりつつあるようです。

約10年前は、
一流ホテルや高級レストラン、お洒落なカフェテラスでなければ、
「カフェ・ソット」は飲めなかったようですから、
ここ10年の間にずいぶんと洋風化してきたようです。

レギュラーコーヒー1杯も、
現在は20バーツ(約60円)で飲めるようになり、
以前の3分の一以下までになったようです。

それでも、大衆的なレストランでは、
今でもコーヒーと言えば
“ネスカフェ”(インスタントコーヒー)のことを指すようです。

また、路地角や市場などの屋台では、
1杯10バーツ(約30円)の
「カフェ・ボラン」(ボラン=古い、昔のという意味)という、
甲子園のカチワリのような
ビニール袋に入れる低グレードコーヒーもあるようです。


アジア産のコーヒー豆は、
インドネシアのジャワやマンデリン、
ベトナムのロブスタなどが有名ですが、
タイの北部でもコーヒー(アラビカ種)が栽培されています。

代表的なブランドは、
最北のチェンラーイ県にある山の名をとった
「Doi Tung Coffee(ドイトゥン・コーヒー)」です。

タイ北部の山岳地域は、
黄金の三角地帯の一角を占め、
かつてはアヘンの生産や流通で悪名を馳せていました。

ケシ畑のための無謀な伐採や焼畑によって山々は荒廃し、
人身売買、売春、エイズ、児童労働など、
貧困に根ざした問題が山積みする危険地帯でした。

環境保護、持続的発展、就業、公衆衛生、
麻薬患者のリハビリ、教育など、
問題解決に向けた各種活動の中、
山岳民族が収入を得るための作物の一つとして、
要するにケシ栽培に代わるものとして
選ばれたのがコーヒーで、
1970年代にアラビカ種の苗木の栽培導入を始めたようです。

その後、皇太后が、
「ドイトゥンに森を」
と、
1988年にプロジェクトを立ち上げられて、
現在では、国連によって、
世界で最も成功した代替作物プロジェクトの一つと
賞されているようですから、
タイ産コーヒーが今後認知されてくる可能性はあるはずです。

北部では、
5生産グループ(49の農家)が
年間約15トンという、少量を生産しているそうです。



少し古いデータですが、
主要作物の収穫面積で見ると、
コーヒーが重要視されていないことが分かります。

主要作物の収穫面積(1997〜98年)
・米        1,023万2千ヘクタール
・天然ゴム       183万3千ヘクタール
・メイズ(トウモロコシ)138万6千ヘクタール
・キャッサバ      111万9千ヘクタール
・サトウキビ       98万8千ヘクタール
・マングビーン(緑豆)  31万1千ヘクタール
・大豆          27万5千ヘクタール
・油やし         17万6千ヘクタール
・パイナップル       8万5千ヘクタール
・コーヒー         6万7千ヘクタール

北部での年間15トンというのは、
栽培面積6万7千ヘクタールからすると、
桁違いなくらい異常に少ない数字です。

15トンを生産するには、
成木1本から5sの生豆が取れると仮定しますと、
15トン ÷ 5s = 3,000本
          =坪当たり1本定植+道路など
          =約4,500坪の耕作面積
          =1.5ヘクタール
と、考えられますから、
15トンではなくて、
15万トンの間違いか、
栽培面積が6万7千ヘクタールもないのか、
栽培環境的な問題が考えられます。

また、農民のコーヒー売却代金の受け取りは、
1kg当たり約276円とすると、
1kg当たり約276円 × 15トン = 414万円

これを49農家で、平均に分配したとすると、
414万円 ÷ 49農家 = 約7万5千円
となります。

タイ人の現地給与の相場は、
工場勤務で5千バーツ(約1万5千円)ですから、
この国の物価水準を考えても、少ないような気がします。

コーヒー同様に、
国際商品相場の天然ゴムや大豆の方が、
コーヒーより断然多いのも疑問ですし、
何よりサトウキビの1割にも満たないことを考えると、
タイのコーヒー栽培は、
・ 管理栽培がされずに、放任栽培化されている
・ 品質が低下し、低価格になっている
・ 高木の樹間を利用したり、傾斜地などでの栽培になり、
  生産効率が劣悪
などが予想されます。

日本にも、一部の輸入業者を除いて、
タイ産コーヒー生豆やインスタントコーヒーとしての
輸入データには出てきません。


タイ産コーヒー豆の買取価格についても、1kg当たり
・ 33B〜35B(約100円)
・ 70〜85B(約210〜255円)1999年実績
・ 120B(約360円、A級品、B級品、1999年実績)
   のうち、農民の受け取りは90B(約270円)
など、
いろいろな説があり、はっきりしていません。

コーヒー豆は、
東南アジアや中南米、アフリカの生産者の多くは、
1kg当たり1US$以下ですから、
高品質とは思えないタイ国産コーヒーが、
1US$以上で、しかも300円前後とは
とても考えにくいです。

タイ国内のコーヒー会社が、
ラオスからコーヒー豆を調達し、
タイ資本のパッケージ工場で最終加工
(調整済みインスタント・コーヒー)していますが、
これは「ラオス産コーヒー」と
正しく表示してタイ国内で販売されているようです。

タイのコーヒー栽培に関しては、
以上のようにイマイチよく分からないところがあります。

posted by COFFEE CHERRY at 23:25| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(2) | タイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月16日

コーヒーの双葉

6月2日に記載した「コーヒーの発芽」の、
同じ播種発芽プレートでの“その後”です。


文献では、
「発芽後20〜30日で双葉が出る」
と書いてありますが、
これは中南米のコーヒー大生産地の事例です。

 0616コーヒーの発芽1.jpg

6月2日を“発芽”としたときに、
その後先週一杯、沖縄は豪雨続きで撮影出来なかったのですが、
その最中にすでに双葉になっていましたから、
沖縄では、
「発芽後1〜2週間で双葉になる」
と考えても良さそうです。

 0616コーヒーの発芽2.jpg

発芽〜双葉になり、
その後「本葉」が出てきます。

播種発芽プレートでなくても、
プランターや発砲スチロールの箱でも
播種は可能ですが、
この頼りない状態の中で怖いのは、
“マイマイ”による軟らかい双葉の食い荒らしと
“ネコ”による踏み荒らしです。

 0616コーヒーの発芽3.jpg
左奥に見えるのは、恐怖の「アフリカマイマイ」です。
(アフリカマイマイについては後日書く予定です)


posted by COFFEE CHERRY at 17:25| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーの栽培日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月15日

ラオスのコーヒー事情

大河メコンが流れ、
豊かな森に覆われたインドシナ半島ラオスは、
国民1人当たり1日約1US$で暮らす貧国でもあります。

太平洋戦争後、1953年にフランスから独立し、
内戦や政治的混乱を経て、
1997年にASEANに加盟した途上国です。

何しろ、貧国ライン以下人口が
国民の40%を占め(2001年度推定)、
・ ラジオがある家庭 52%(2000年度)
・ テレビがある家庭 30%(2000年度)
・ 水道・井戸・安全な飲み水あり 56%(2000年度)
・ 車がある4%(2000年度)
・ 自宅出産率86%(2000年度)
・ 平均寿命55.8歳(2005年度)
で、
ベトナム、タイに挟まれた国にしては、復興が遅れています。

この主因は、約30年間に及んだ内戦や政治的混乱ですが、
国土の8割は山岳地帯で、
耕地及び耕作適地は、国土面積の約4%しかなく、
道路や水も充分に普及されておらず、
国内の村が孤立して自給自足的生産を強いられていること
などもあって、
隣国カンボジアと並んで
東南アジアに取り残された貧国となっているようです。

ラオスは、地形的に細長く、
北部のシュンクァン高原では畜産や野菜が主体で、
南部のボロベン高原ではコーヒーを主体に
野菜、果樹が生産されています。

ラオスのコーヒー生産量
・ 1996年 1万トン
・ 1997年 1万2千トン
・ 1998年 1万7千トン
・ 1999年 1万8千トン
・ 2000年 2万3千トン
と、
ラオスでもコーヒー生産を国策として力を入れつつあるようです。

2005年度のコーヒー栽培面積は
35〜40万ヘクタールと言われていて、
・ ロブスタ種90%
・ アラビカ種10%
の割合のようです。

昨年度の販売価格は
1トン当たり500〜600US$
(1kg当たり約65円前後)のようです。

ボロベン高原のタイ側国境付近のチャンパサック県だけで、
年間1万3千トンのコーヒーが栽培されているようです。

生産の85%を、
フランス・ドイツ・オランダの欧州先進国と
隣国タイに輸出しているようです。

2年前の2004年から日本へも輸出が始まりました。

日本の規格が厳しいため、というより品質管理上の問題で、
この年は約7トンが輸出されたようです。

315ヘクタールの農園を所有するルアン・リッダンさんは、
自ら資金を出してUCCに人材を派遣し、
生豆の検査方法を学ばせ、品質向上に努め、
昨年度は200トンの輸出契約が成約したそうです。

315ヘクタールに約8万本のコーヒーの木を栽培し、
1本の木から約5sの生豆を生産した、
と大ざっぱに仮定しますと、
この農園の生産量は、

約8万本の木 × 約5sの生豆 = 約400トンの生豆生産

ということになりますから、
数字的にはおかしなものではありませんね。

“フェアトレード”という言葉は、
実際には装飾後として使われているようで、
世界的に見ると、
途上国のコーヒー生産者は1kg1US$を
はるかに下回る価格しか手に入らず、
生産意欲が低下し、それが品質低下につながっています。

近江商人の
「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」
という教えは、
「取引は、当事者だけでなく、
 世間の為にもなるものでなければならない」

ことを、今一度考えなければいけないと思います。

生産者は、
まず「良いもの」を作らないといけないし、
また「良いもの」を作らせるような環境も必要だと思うのです。

「三方よし」の原典は、
1754年(宝暦4年)の中村治兵衛宗岸の
書置に出てきますから、もう250年も昔の思想なのですが。


2年前のテレビ番組「世界の知られざる大富豪」で、
ラオスコーヒーの女性オーナーが
取り上げられたことがありました。

断片的な記憶ですが、
・ コーヒー農園の経営で年収4億円
  (日本の貨幣価値に換算すると400億円?)
・ 十数年前は雑貨屋の売り子だった
・ ラオスの国策としての市場経済導入を機に、
  「個人でも輸出入の商取引ができる。
   欧米に対して輸出できるラオス産のものは何かないか」
  と考えた結果、
  まったく未経験だったコーヒー栽培に乗り出した
・ 不慣れなコーヒー栽培に当初は失敗の連続で、
  初年度は1,600万円の損失を出したが、
  研究を重ねてついに成功した
というようなサクセス・ストーリーでしたが、
ラオスで1,600万円の損失は、
この番組での日本の貨幣価値換算では100倍ですから
実に16億円になります。

ただのオバさんが16億円もの損害を出せるものなのでしょうかexclamation&question

年収4億円、とすると、
この農園の売上げ規模では20億円前後が必要ですから、
20億円 ÷ 1kg当たり約65円 = 約7万1千トン
約7万1千トン÷1本の木から約5sの生豆 =1,420万本
ということは、最低1,500万坪=約5,000ヘクタール
の農場が必要になりそうですが、
一介のオバさんに、
そんな広大な農地が確保できるものなのでしょうかexclamation&question

まあ、面白おかしく肉付けされた内容でしょうから、
実話とは程遠いと思われますよね。

posted by COFFEE CHERRY at 15:18| 沖縄 ☔| Comment(9) | TrackBack(0) | ラオスのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月14日

徳島県のコーヒー栽培

徳島県板野郡の「コーヒー豆の豆工房」という、
焙煎豆と生豆を販売されているお店の
店主・佐賀俊太(としお)さんが、
ハウスでのコーヒー栽培に取組まれています。


HPを拝見しますと、
コーヒー栽培に真摯に情熱的に取組まれている様子が
伝わってきます。

こういう情熱的な方や熱帯農業理論に詳しい方が、
国内のコーヒー栽培に
もっともっと増えてくることを願ってやみません。

佐賀さんは、アラビカ種だけでなく、
ロブスタ種まで栽培実験をされていますが、
国内でのロブスタ種の栽培は、
沖縄でも例がないはずですから、
国内では佐賀さんだけが取組んでいる可能性が高いと思われます。

私は、本島北部に拠点を移しますが、
そこでは世界の著名なコーヒーの苗木を栽培するつもりでいます。
(栽培の環境が変わることで、
 “味”も若干変わる可能性があると思っています)

もちろん、
ロブスタ種やリベリカ種も栽培するつもりですが、
現在は私のところでもロブスタ種の苗木は1本もありません。
(後日、「フィリピンのコーヒー栽培」を書きますが、
 フィリピンでのコーヒー栽培の復活はリベリカ種ですから、
 リベリカ種の種の入手も今後は可能になりそうです)


本土でのコーヒー栽培での問題は、主に
・ 気温(外気温と土の温度)
・ 日照
が上げられますが、
本土のハウスでコーヒーを栽培するときは、厳密に考えると、
・ 冬場に温度を上げるのに、重油を焚いたとき、
  ハウス内に発生した二酸化炭素が作物の内部に深く浸透し、
  それが人体にどういう影響が出るのかが解明されていない
・ 外気温は管理できても、土中温度の管理はどうするのか
・ 水やりをスプリンクラーに頼ると、
  根付きがしっかりしない可能性がある
・ 熱帯植物なので、本土では日照不足になる
などの問題がありますし、
何より、木が“病弱”になるのではないかと危惧しています。

バナナは北海道の植物園でも房がなりますが、
その味は、沖縄産とは比較になりません。

観賞用であれば、
コーヒーでもバナナでも本土で栽培可能ですが、
品質的な観点で見た場合では、
はたして問題はないのでしょうか。

「日本のリンゴの木を、
 ケニアのキリマンジャロやハワイ島のマウナケア、
 ニュージーランドのマウントクックで栽培する」

という発想をしたときに、
単純に気温や気候的な問題だけではないように思えるのです。

posted by COFFEE CHERRY at 12:30| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月13日

コーヒー栽培と月の関係

昨夜は家の中でゴキブリが多数出没しました。
「さてはexclamation&question
と思い、“潮汐表”を見ると、
「6月12日(月曜)、旧暦の5月17日、大潮、満月」
となっていました。

 満月.jpg

新月と満月の時は、
地球に及ぼす月の引力が最も大きくなるため、
「大潮」と呼ばれ、干満の差も最大になります。

ウミガメや魚、カニ、珊瑚などが大潮の満潮時に産卵することは、
テレビ番組等で紹介されてよく知られるところですが、
これは人間にも言えること(自然分娩の場合)で
「満月や新月の上げ潮時〜満潮時の出産が多い」
のです。
もちろん犬でも猫でも動物は自然分娩なら同じことが言えます。

それとは反対に
「引き潮時〜干潮時にかけて臨終をお迎えする」
と言われています。

満潮時と月は生命の誕生に関係があるようですが、
詳しいデータがあるわけではないので、
はっきりとした因果関係は不明ですが
実際多くの場合、
動物の生死は潮の干満という引力に
少なからず影響しているようです。

産婦人科医院や助産院では、
外来や分娩室に大概
「潮汐表(ちょうせきひょう)」
が貼られています。
・ 「潮」はあさしお
・ 「汐」はゆうしお
つまり、潮の満ち引き表のことです。

海の水は太陽や月の引力で満ち引きし、
普通1日に2回の干満があります。

満潮から次の満潮までに要する時間は約半日です。

1日の干満の差は月齢によってほぼ半月の周期で変化し、
陰暦の1日(新月)と15日(満月)の頃に大潮となり、
半月の頃に小潮になります。

人間や犬の体は6割が水で出来ています。

妊娠すると体の中にお水の入った袋を抱えるので、
きっといつもより自然の力を受けやすいのかもしれません。

昨夜のゴキブリも生物である以上、
潮の干満という引力に影響していると考えると、
潮の満ち引きとコーヒーの栽培との関係や、
同時に病害虫に対しての関係についても知りたくなります。

実際に、
コーヒーの木の害虫
(マイマイ、ワタムシ、カイガラムシ、アリなど)の
種類や生態について、
具体的に観察しなければならないのですが、
夜はハブの活動時期に重なることもあって、
まだ、出来ていないのです。


お茶畑での事例は「現代農業」に出ていました。

「害虫が活発に動いているのは、
 日没の3時間後から日の出の3時間後
 (夜9時〜朝10時)までで、
 害虫の防除もこの時間帯がベスト」

という内容でした。

これによると、
虫の発生(孵化)時期が必ず大潮の時期と合致していて、
防除の効果が上がりやすい発生初期の孵化直後を防除適期とすると、
「大潮の最後から3日間が防除適期」
というのです。

また、気孔がいちばん開く時期、
葉の表面に付着した液肥がいちばん浸透しやすい時期も
大潮の時期だそうです。

液肥が葉の生長を促進させるような作用は、
特に満月の大潮のときに効果がはっきり現れる、
というのです。

「根の生長を促進させたいときは、
 新月に葉面散布をするほうが良い」
とも書いてありました。


「旧暦」と呼ばれる「太陰暦」は、
月齢とは新月の日から数えた日数の事で、
約29日半で一周することを用いた暦ですが、
月が動植物に影響する事例だけを見ていても、
私の無知さや不勉強さが思い知らされて、
まだまだ勉強しなければならないことがたくさんありますが、
同時に、昔の人の、
月とともに生きた感覚や偉大さを尊敬してしまいます。

奈良県吉野地方では、
旧暦の1日、つまり
「新月の日前後の闇夜の日に倒した木は持ちがいい」
という「闇伐り」の伝統が残っているそうです。

世界最古の木造建築、法隆寺の柱にも
この地方の木が使われているそうです。


現代農業での「月と農業」に関する特集では、
以下のようなものがありました。
・ 不思議とよく効く! 大潮を目安にお茶の防除
・ 月のリズムでピーマンに葉面散布
  満月にはチッソを、新月にはリン酸を
・ 若潮でイチゴを定植すると、大潮で大玉になる
・ サツマイモ 新月の五日前に定植するとよく育つ
・ 旧暦は月と生きもののかかわりを感じるための暦
・ 「わたしの畑」の旧暦七十二候 作成中
・ 江戸時代の農家も月をよく見ていた 『日本農書全集』より
・ 実証! 新月に伐採した木は割れにくい、カビにくい
・ 月・太陽・地球 自然の大きな力と農業
・ 月に合わせて塩を振り、トガリ竿で宇宙エネルギーを取り込む
・ スイカは若潮から1週間のあいだに交配する
・ ブドウは大潮・小潮から生育予測をする
など、
作物の生育が月の動きと密接な関係があると書かれています。

昔「新月の数日前に種まきするとよい」と言われていたことも
思い出しました。

コーヒーやハイビスカスでも、
月の動きと密接な関係があるに違いありませんから、
・ 種まき
・ 移植
・ 剪定
・ 虫の種類と生態
・ 防除(葉面散布)
など、
具体的な関係をデータ化してみたいと考えています。

ちなみに、次回の「大潮」は、
6月26日(月曜)「新月」ですが、
はたして害虫やゴキブリは多数出没するでしょうかexclamation&question

posted by COFFEE CHERRY at 14:02| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒー栽培と月の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月12日

“地力”からみた沖縄のコーヒー栽培

「地力」を、ヨーロッパと日本で比較した場合、
ヨーロッパは、氷河が削り取った大地ですから、
基本的には地力がなく、
ヤセているために「輪作」が出来ません。

そのため、ローマ時代では三圃式農業が普及しました。

対して、日本は、
河川が運んできた肥よくな土壌で、基本的に連作が可能です。
もちろん中南米の土壌も同様です。


牧草の生産力で比較してみると、
1ヘクタール(約3千坪)あたり、
・ 米国    3トン
・ フランス  6トン
・ 日本  約50トン
と言われています。

これだけ、日本の土壌には“地力”があります。

沖縄は珊瑚礁が隆起した島ですが、
沖縄の土壌は大きく分けると下記の3種類で、
・ 島尻マージ
  島尻マージ.jpg
・ 国頭マージ
  国頭マージ.jpg
・ ジャーカル
  ジャーカル.jpg

本土の黒ボク土壌などに比べると、
腐植含量が3割程度しかないのが特徴的です。

堆肥や緑肥、米ぬかなどで土作りさえしっかりやれば
もともとミネラル分が豊富に含まれていますので、
コーヒー栽培にはまったく問題はありません。

posted by COFFEE CHERRY at 17:46| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月11日

大分県のコーヒー栽培

大分県では、
5〜6年前にビニールハウスでの栽培テストをしていたことを
ネットで見つけ、
九州の方からもその噂を聞いたことがありましたが、
いつしか聞かれなくなりました。

大分県といっても、
県庁の農水部や農業試験場、JAではなく、
農業法人か学校だったように記憶していますが、
定かではありません。

立ち消えかと思っていましたら、
昨年、知人を介して、
大分県から1万本のコーヒー苗
(双葉になったもの、1本200円)の発注オファーがあり、
発芽床が私の自宅に送られてきました。

大量注文ですと、前金を戴かないとなりませんし、
残金の支払い方法や納品方法が
はっきりしていないと不安ですから、
まだ着手出来ていないのです。

発注先が
5〜6年前の栽培テストをしていた方々かどうかは不明です。

コーヒー栽培への取り組み希望者がいることだけは
確かなようですが、
現況の栽培の実態についてはよくわかりません。


本土で、コーヒーをハウス栽培する場合は、
・ 土壌
・ 日照
・ 温度(外気温と土の温度)
に、
特に注意しなければいけないと思います。


「コーヒーが栽培できる地域=バナナが栽培できる地域」
と、考えると、
本土の温室バナナは、特に日照が不足していますので、
沖縄産の同品種と比較すると格段に味が落ちます。

コーヒーを“シェード・ツリー”と決めてかかると、
本土では特に、味が落ちるだけでなく、
木が病弱になるものと思います。

中南米の大生産地のコーヒーを基に書かれた“文献”は、
あくまでも参考にとどめて、
その地域の気候風土に合った栽培方法を
確立して行くべきだと考えています。

posted by COFFEE CHERRY at 00:35| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 国内のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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