2006年06月29日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その4

コナ・コーヒーは、
特に日本人移民が多く関わっていますので、
背景や経緯についての話が長くなることをご容赦下さい。


ハーマン・メルヴィル原作の『白鯨』の映画では、
グレゴリー・ペックが主演を怪演し、
エイハブ船長が宿敵モビー・ディックにモリを打ち込み、
そのままモビー・ディックと共に海に消えてしまうという
衝撃的なラストシーンが印象的でした。

この物語には、
巨大な人食い鯨モビー・ディックを
執念で追い続けるエイハブ船長の独断専行を
必死にいさめるコーヒー好きの一等航海士
スターバックも登場しています。

これが、
「スターバックス」の名前の語源になっていることは
有名な話ですね。

「白鯨」モビー・ディックはマッコウクジラでした。

“捕鯨”は、
主に食用・油用にクジラを捕獲することをいいますが、
その歴史は古く、
日本でも縄文時代の三内丸山遺跡から
クジラの骨が出土しています。

鯨の蝋(ろう)は、
蝋燭(ろうそく)や化粧品、クリーム、絵の具、
石鹸の原料、灯油、機械油、潤滑油など
多用途に利用出来て、
1970年代まで需要がありました。

ペリー提督が1853年に浦賀に来航し、
久里浜でアメリカ大統領フィルモアからの親書を手渡し、
幕府が返事を出さないことにいらだって、
翌1854年に再び来日し、
空砲で威嚇して日米和親条約を締結することになるのですが、
米国が日本に開国を迫った理由のひとつに、
「捕鯨船の中継基地の設置」
がありました。

当時のアメリカの捕鯨は、
アメリカ大陸近海のマッコウクジラをすでに捕り尽くしていて、
日本に近い西太平洋地域に
マッコウクジラの大規模な群れがあるのを発見したことで、
米国の捕鯨船は
「日本近海を有力な捕鯨の漁場にしたい」
という思惑があったのです。


1778年にオアフ・カウアイ島を発見した
英国の探検家ジェームス・クックは、
翌年ハワイ島を発見しました。

以降、
宣教師団やハワイで一旗揚げよう、と目論んで渡ってきた
商人や船乗りなどの白人だけでなく、
多くの捕鯨船が
オアフ島ホノルルとマウイ島ラハイナを
主要な中継基地として寄港していました。

最盛期の1855年頃には
年間400隻もの捕鯨船が来航したようです。

1850年までのハワイ王国の首都は、
マウイ島ラハイナでしたが、
同年オアフ島ホノルルへと遷都されています。

当時のハワイ王国政府は、
捕鯨産業そのものには関心が薄かったようですが、
捕鯨船団への艤装(ぎそう)と食糧の供給、
さらには捕鯨船員そのものの供給をまかなうことで、
莫大な収入源になっていました。

その後、
・ 米国〜ハワイ近海海域での
   マッコウクジラの乱獲による資源の枯渇
・ 1859年に米国ペンシルベニア州で
   機械掘りの油田採掘による鯨油需要の低迷
・ 南北戦争(1861〜1865年)
などの要因が重なって、
捕鯨産業そのものは衰退してゆくことになります。


ハワイの原住民を教化するためにやってきた宣教師団の一部は、
聖職を放棄してビジネスマンとなり、
あるものはハワイの王族に取り入りながら土地を入手して、
徐々に経済力や権力をつけてゆきました。

捕鯨業の寄港地ビジネスは、大きな収入源ではあっても、
季節格差が大きく、年間でみると安定してはいないので、
島には「産業」が必要でした。

1835年に、カウアイ島コロアで、
初めてサトウキビプランテーションの事業化が成功します。
このプランテーションでは、
・ 広大な土地
・ 粗糖1kg当たり2トンといわれる水
・ 安価で大量の労働力

が必要になりました。

これらが、
・ ハワイの土地所有問題
・ 移民受入の問題
・ 伝統的なタロ芋水田の衰退
という社会問題と深く結びついてくるのです。

1848年には、
マヘレ法(マヘレは分配の意味)が施行され、
それまで事実上全てハワイ王家の所有であったハワイの土地が
一般人にも所有できるようになり、
その結果、やがて
「白人支配階級による土地独占」
という事態に陥ってゆくことになるのです。

白人がハワイにもたらした様々な疫病によって
ハワイの人口は激減しつつあり、
プランテーションの(安価な)労働力不足を補うために、
1852年に中国の福建省と広東省から
初の移民受け入れ開始することになります。

中国人移民は、ハワイに天然痘やライ病だけでなく、
アヘンを吸う習慣まで持ち込みましたし、
ハワイの島民にとけこむこともなく集団化していて、
耕地契約が終るとすぐ耕地を離れて町へ出て
商売をする者が多い傾向にあったので、
ハワイでは
「中国人移民は耕地労働者としては期待外れ」
と考えられるようになりました。

1881年に中国からの出国禁止令が出るまでに
延べ1万8千人の中国人移民がハワイに渡来してきました。

ハワイ王国政府では、期待外れの中国人移民から、
日本人移民の導入を考えるようになり、
1868年(明治元年)に日本から
「元年者」と言われる第1回移民153名が
来航して来ることに至りました。

1876年には、米国−ハワイ互恵条約が締結され、
ハワイの砂糖は無関税でアメリカに輸出できることとなり、
サトウキビ産業は飛躍的に増大することになります。

しかし、見返りに
オアフ島真珠湾の軍事利用を米国に許したため、
これが「ハワイの軍事基地化の原点」となってしまいます。

1885年にカラカウア国王が訪日し、
明治天皇への要請に応えて、
日本からの「官約移民」がハワイに渡航してきます。

1893年までに合計26回、
延べ約3万人が移住
してきました。

1900年までにハワイ人口の約40%を
日本人移民が占めるようになる
のです。

また、移民はアジアからだけでなく、
マデイラとアゾレス諸島からポルトガル移民が1万2千人、
またスカンジナビア、ドイツ、ロシア、プエルトリコ等からの
移民もあったようです。

20世紀以降は移民はフィリピン・ベトナムなどの
アジア系やサモアなどの南太平洋系にシフトしてゆきました。

サトウキビプランテーションでの労働は、
11時間にも及ぶことがあり、
また格安な賃金であったこと等から、
日本人移民の一部が“脱走”して、
コーヒー栽培に従事することになるわけです。

サトウキビプランテーション産業によって莫大な富を築き、
少なくとも太平洋戦争まではハワイの隅々までを支配したのが、
「BIG5」
と呼ばれる5大財閥でした。

・ キャッスル&クック社  (現:ドール・フード)
・ C・ブリューア社    (現:ブリューア・アギノミックス)
・ セオ・H・デイヴィーズ社(現:ジャーディン・マセソン)
・ アムファック社     (現:アムファック・JMB)
・ アレクサンダー・アンド・ボールドウィン社(現:CALIF)

サトウキビプランテーションは
大量の灌漑用水を必要としましたが、
対照的にパイナップルは
わずかな水で栽培できるメリットがあったことから、
1882年には南米からパイナップルの苗が輸入されて
プランテーションが開始しました。

1901年には、
オアフ島ワヒアワでジェームズ・ドールが
ハワイアン・パイナップル社(ドール社の起源)を創設します。

ジェームス・ドールは
ハワイ共和国大統領となったスタンフォード・ドールの甥です。

ハワイアン・パイナップル社の初収穫は
設立2年後の1903年で、
1,893ケースだったようですが、
これが20年後には、280万ケースとなり、
1940年頃には同社のパイナップルは
「全世界の生産量の80%のシェア」
を占有していたようです。

このパイナップルプランテーションにも、
多くの日本人移民が過酷な労働に耐えて、
産業を下支えしていました。


次回へ続きます。

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posted by COFFEE CHERRY at 22:02| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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