2006年06月30日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その5

今までのおさらいになりますが、
幕末の日本は、
1854年にペリー提督が艦隊7隻を率いて、
2度目の来日をしますが、
アメリカ大統領の親書を携えて、日本に開国を迫り、
大砲(空砲)で脅しをかけながら、
日米和親条約(神奈川条約)を締結させたことで、
日本は長い鎖国から、一気に開国へと向かうことになります。

ハワイ王国と日本の関係は、
ペリー来航の4年後の1860年に
日本の外交使節団が咸臨丸でワシントンに
日米修好条約調印のために渡米した帰路、
ハワイに修理のため寄港した時が原点になります。

日本側代表である
・ 勝海舟(船長)
・ 福沢諭吉
・ 中浜万次郎(ジョン万次郎、ガイド兼通訳兼航海士)
など、
幕末〜明治維新の歴史に登場する有名な一行ですが、
彼らはハワイに14日間滞し、
その間カメハメハ4世に謁見、
日布修交条約の締結を要望されました。

3年後の1863年には、
カメハメハ五世が日本と通商条約を結びたい旨の親書を
幕府あてに送ってくるのですが、
当時の日本は、
前年の1862年の生麦事件を契機に薩摩藩とイギリスが
戦争状態(薩英戦争)に入ったり、
テロリスト軍団・新撰組の結成や、
長州藩がアメリカ商船やフランス軍艦に発砲・襲撃をしたり、
大混乱の最中にありましたから、
ハワイ王国の通商条約どころの騒ぎではなかったのです。


ハワイ王国は、アメリカと密接な関係がありましたので、
アメリカの時代背景も見ておきましょう。

1861〜1865年は
アメリカでは南北戦争(American Civil War)がありました。

北部のイギリス系新興工業地域と
南部のフランス系大規模農業地域の対立という構図の内戦で、
約62万人もの多くの犠牲を出した、
米国版「天下分け目の関が原の戦い」です。

アメリカの農業は、当時
既に工業化が発達しているイギリスへ、
原料となる綿等の原料農産物供給をすることにより発達しました。

南北戦争以前から、
南部ではイギリスへの輸出のための
綿花栽培のプランテーションが大規模に行われていました。

南部の大規模農業は奴隷制に支えられ、
非常に生産性が高く、安価な農産物を大量に生産できました。

競争力ある南部の農業は自由に輸出したいですから
当然のように自由貿易を望み、
南部独自のの独立国家構想も考えるようになっていました。

ところが新興工業地域の北部にとっては、
まだ生産性や技術力が低い自国製品では
1歩も2歩も先を行く英国製工業製品には太刀打ち出来ません。

イギリスからの輸入品との競争に弱い北部工業地域は、
保護貿易を主張していました。

南北戦争とは
・ 貿易政策の対立
・ 奴隷労働力の確保
・ 南北間の地域格差
・ イギリス系やフランス系といった民族対立
など国内産業のあり方、対外政策のあり方を巡る、
複合的に絡まった南部独立の動きを阻止するための戦争で、
単なる黒人奴隷の解放や取り合いではありませんでした。

戦争中の1863年1月1日に
第16代アメリカ合衆国大統領
エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)が行った
「奴隷解放宣言」は、
北部は南部に打撃を与えるための政策戦術に過ぎなかったようです。

同年(1863年)7月、
南北戦争最大の激戦・ペンシルバニア州ゲティスバーグの戦いで、
合衆国軍(北軍)が勝利し、ここから北軍が優勢となり、
この2年後に北軍の勝利で終戦し、
北部主導で国内産業保護的な政策を取ることが出来るようになり、
これを背景としてアメリカ国内における工業が
飛躍的に発展するわけです。

いわばアメリカ版産業革命です。

ゲティスバーグの戦いの4ヵ月後に、リンカーンは
 "government of the people, 
   by the people, for the people"

   「人民による人民のための人民統治」
という有名な演説を行いました。

リンカーンは、奴隷解放宣言によって
黒人奴隷を解放したことで賞賛されていますが、
1862年の奴隷解放宣言の目的は、
主に連邦の分断を防ぐ為に、
政府の道義性を強調する牽制的な戦略であって、
リンカーン自身は奴隷解放に
強い関心があったわけではなかったようです。

リンカーンは、
事実上合衆国の統一を達成完成した大統領であって、
特別の偉人ではなさそうですね。

当時は、「奴隷制度からの解放」は、
必ずしも人種差別の禁止を意味していません。

解放された黒人が、
白人と少なくとも名目上の平等を獲得するのは、
はるか遠く第2次世界大戦後の話になるのですから。

勝海舟や福沢諭吉一行は、
運よく南北戦争の始まる1年前(1860年)に
咸臨丸で帰国していたことになりますね。


ここで、咸臨丸に通訳や航海士として乗船した
ジョン万次郎にも、少し触れておきましょう。

ジョン万次郎は1827年に、
四国の小さい村(中浜)で漁師の子として生まれ、
1841年(当時14歳)で暴風雨のために船が漂流、
鳥島まで流され、
ロビンソン・クルーソーのように救助を待っていました。

約5ヶ月後、アメリカの捕鯨船に救助され、
乗組員として懸命に働き、船長に認められて、
1843年にアメリカに帰着後、
船長は、万次郎を小学校に通わせました。

万次郎はその後、英語の他に、
航海術や数学など様々な学科を勉強して、優秀な成績を収めます。

当時のアメリカは、南北戦争の前で
黒人を奴隷として使う習慣があった時代ですから、
黄色人種である万次郎も、
教会や学校で大人や子供達に黒人同様差別され、
不快な思いを何度も味わったようですが、
生まれつきの負けん気と努力で困難を打破してゆきました。

学校で航海術や天文学を学んだ万次郎は、
いつかその技術を使って、
また海に戻りたいと思っていたのですが、
1846年に学校を卒業した時に
再度捕鯨船でアジアに行く航海に出る機会を得ます。

英語が上達していた万次郎は、
有能な船員として船長を助けて3年以上捕鯨船で仕事をしました。

万次郎がアメリカに戻って来た時は、
ちょうど西部でゴールドラッシュが始まった頃でした。

万次郎は望郷の念にかられるのですが、
肝心の資金がないため、
カリフォルニア近郊で金を見つけて
日本へ帰る資金を得ようと決心して
西海岸へと向かうことになります。

万次郎は、ゴールドラッシュ期のカリフォルニアに
金を採りに来た、おそらく唯一の日本人なのです。

約2ヶ月半金を探し回って、
日本に帰るのに十分な資金を得て、
24才の時(1851年)に日本に戻りました。

当時の日本はまだ鎖国中で、
正当な理由がなく外国に出た者は死刑になるのが普通でした。

万次郎は沖縄と長崎でいろいろ調べられるのですが、
当時沖縄を支配していた薩摩藩の藩主が、
「日本は開国して国力を強めなくてはいけない」
という先進的な考えの人で、
また土佐藩の藩主も進歩的な考えを持っていたので、
万次郎は取調べを受けても殺されることがなく、
翌年故郷の四国に帰ることが出来たのです。

万次郎は2人の藩主に
アメリカの事情について詳しく説明していました。

1853年ペリ−提督が黒船で日本にやって来て、
徳川幕府に開国を求めた時、
アメリカの事情に詳しい人物は
幕府には永い鎖国のせいで皆無でした。

そのため徳川幕府は、
アメリカで10年間過ごした万次郎を臨時幕臣にして、
アメリカに関する情報を得ることが出来ました。

万次郎は幕府の重臣達に、
アメリカ事情を詳しく説明して聞かせたり、
当時アメリカで流行していた航海術の本を日本語に翻訳したり、
英会話の本を出版したりしています。

漁師の息子が、
臨時であっても幕臣に抜擢されるというのは
当時としては異例中の異例の人事でした。

また、1860年に、徳川幕府が、
咸臨丸で日米修好条約調印のための使節を
アメリカに派遣した時、
通訳として大活躍しただけでなく、
得意の航海術を使って咸臨丸の操縦も手伝ったのでした。

万次郎の欧米の豊富な知識を吸収したいと思ったのは
江戸幕府だけにとどまらず、
薩摩藩や土佐藩でも万次郎を招き、
万次郎は英語や航海術、天文学などを教えています。

1868年に明治維新になり、
新しい近代国家作りが始まりますが、
万次郎は開成学校という今の東京大学になる学校で
英語の教授になって、若い学生を指導しました。

この明治元年に、
第1回目の日本人移民153人がホノルルに着き、
ハワイでの日本人移民の歴史が始まるわけです。

また、1870年に
万次郎は欧米視察団の英語の通訳として派遣されて
再度アメリカに渡っています。

江戸時代末期に漂流、言葉の壁というハンディを乗り越えて、
当時日本人が全く知らなかったアメリカという国を
日本に紹介して、
当時の日米関係に重要な役割を果たしたジョン万次郎は
日米関係のパイオニアの1人なのです。


次回へ続きます。

 コーヒーの木0606.jpg

posted by COFFEE CHERRY at 18:49| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。