2006年07月07日

屋久島のコーヒー栽培

農薬や除草剤、化学肥料を使用しない栽培方法は、
割合「安全」なのですが、“安心”ではないのです。

有機の“認証”を「安心マーク」として、
消費者との“信頼”が得られるような
システムになっているからです。

零細農家が、“認証”を取得しようとすると、
その煩雑な手続きや土壌検査などの認証費用の負担が
重くのしかかってきます。

沖縄でも、3千坪程度の農家が“認証”を取得しようとすると、
20〜30万円も費用がかかり、
それが全額、取得しようとする農家が負担することになっていて、
そのために尻込みする農家が多いのが現状です。

“認証”マークは、確かに「信頼の証(あかし)」ですが、
認証審査機関でも、審査が厳しいところや甘いところがあり、
また、“認証”シールを「偽造」する業者もいて、
必ずしも、消費者が思っているような“安心”ではない、
と個人的に思っています。

「“認証”マークがあるから安心、なければ心配」
というより、
私が目指しているのは、
「〇〇さんが作った農産物は安心」
という、
至極単純なものです。

この方法は
理解して戴くまでは、時間がかかりますが、
理解さえして戴ければ
“認証”マークの有無は関係ないはずだと、
考えています。

エクアドルで認証を得ていない
“有機栽培”コーヒーの小農家が、
数年前に日本にやってきて、
販路拡大のため九州地区で
「フィエスタ・エクアドル」
を行ったそうです。

このイベントで、
コーヒー生産者が屋久島にも行ったのですが、
イベントに参加した屋久島の有機マンゴー生産者グループは、
エクアドルのコーヒー生産者が持参した
インタグコーヒーの種を屋久島で栽培し、
このコーヒーがうまく育ったら、
エクアドルのインタグコーヒーとブレンドして、
屋久島特産「エコヴィレッジ・ブレンドコーヒー」として
売り出すことを思い立ったのだそうです。

約1kgのコーヒーの種を、
マンゴーハウスと露地でテストしたようですが、
「コーヒーの種が悪かったのか、
  どちらもうまく栽培出来なかった」
と、
結果だけを先日お聞きしました。

「種を発芽させ、それをポットに移し、
  高さ30cm程度になったら移植する」
という方法であれば、
・ 移植の時期が冬場だった
・ シェードツリーにこだわって、陰で栽培して日照をさえぎった
・ 生豆だった
・ 水やりを充分しなかった
などが原因でしょうかexclamation&question

「種が悪かったのかも」
というのは発酵・腐敗しかけていたのでしょうかexclamation&question

本土でも、ハウスではコーヒーの栽培が可能ですから、
屋久島で栽培できないはずはありません。

うまくゆかなかった原因は、私は
「原因は栽培工程か栽培環境にある」
と想像しているのですが、
真相はどうだったのでしょうか。


台風3号が、ゆっくりと沖縄本島に接近しています。

コーヒー園やバナナ園などに行って、
支柱を立てたりネットを張ったりして、
準備に手間取っています。

そのため、コナ・コーヒーの続編は
明日に延期させて戴きました。

 昨年12月のコーヒーのタ.jpg

posted by COFFEE CHERRY at 20:40| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 国内のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月06日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その11

トム・ソーヤーの冒険(1876年、41歳)
王子と乞食(1881年、46歳)
ハックルベリー・フィンの冒険(1885年、50歳)
などを書いたのは、
最初のアメリカ人作家、
マーク・トウェイン(Mark Twain)です。

マーク・トウェインはペンネームで、
本名ではありません。

「マーク・トウェイン」とは、
蒸気船が安全に通行できる限界の浅さを測定する
PILOT(水先人)の合図
“by the mark, twain(2ファゾム=約3.6m)”
から採ったものらしいです。

ディズニーランドでも、
トムソーヤのいかだや
ハックルベリーの沼などがありますよね。

アラモ砦で、メキシコ軍と勇敢に戦い、
テキサス独立の立役者となった
ディビー・クロケットもそうですが、
ディズニーランドはアメリカ史を凝縮してありますから、
これらを理解しているかいないかでは、
面白みの深さも違ってきます。

なぜ、マーク・トウェインが出てくるのか、
というと、
彼は1866年(31歳)の3月に、
当時サクラメント・ユニオン紙の記者をしていたのですが、
特派員として、
当時サンドイッチ島と呼ばれたハワイ諸島に渡って
約4ヶ月滞在し、
7月に帰社してから
「ハワイからの手紙」
という見聞記を書いて好評を博しますが、
この中でコナ・コーヒーを絶賛したことで、
一気にハワイのコナ・コーヒーが全米中に知れ渡ったのです。

言い換えれば、コナ・コーヒーを宣伝し認知させたのは
マーク・トウェインなのです。

「コナからケアラケクア湾までの道のりで、
 有名なコナ・コーヒーに出会った。
 この香り高いコーヒーは、
 他のどのコーヒーにも勝るすばらしい1品だ」

と見聞記には書かれているようです。


また、彼は多くの格言も残しているのですが、
その一部をご紹介しましょう。

・ アダムがリンゴを欲しがったのは、
  そのリンゴが食べたかったからではない。
  ただそれが禁じられていたから、というだけのことだ。

・ 人間が善悪の別を知っているという事実は、
  人間が他の動物より知的に優れていることの証拠だ。
  しかし人間が悪事を働くことができるという事実は、
  それができない他の動物よりも
  道徳的に劣っていることの証拠だ。

・ 生まれた時が80歳で、
  それからだんだん18歳になっていくのだったら、
  人生は果てしなく楽しいことだろう。

・ 48歳にもならぬのに世をはかなむ人間は、
  ものを知りすぎている。
  48歳を過ぎても楽天家だったら、
  そいつはものを知らなさすぎる。

・ 自分を励ます最上の方法。
  それは誰かを励まそうとすること。

・ やむを得なければ服装には無頓着だっていい。
  しかし、いつでも心はきちんとすべきだ。

・ 多数派は常に間違っている。
  自分が多数派にまわったと知ったら、
  それは必ず行いを改めるか、一息入れて反省する時だ。

・ 世の中には地位を崇拝する人間もいるし、
   英雄を崇拝する人間もいる。
  また、権力を崇拝する人間もいるし、
   神を崇拝する人間もいる。
  そしてこうした架空のものをめぐって、
   彼らは議論をたたかわせている。
  しかし彼らの誰もが一様に崇拝しているのは――金だ。

次回へ続きます。

 沖縄コーヒーのタ0512−2.jpg
 台風3号が北上中で、
  沖縄本島も明日には強風域に入りそうです。

posted by COFFEE CHERRY at 15:49| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月05日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その10

ハワイのコーヒー史では、
リオデジャネイロから持ち込まれたコーヒー苗木を
ホノルルに植樹された1813年が最初で、
観賞用での導入、と記録されています。

ハワイのホノルルに初めてコーヒーが導入されてから13年後、
1825年に、ホノルルに植えられたコーヒーの接ぎ木が、
ハワイ島のコオラウ山脈の麓にあたる
マキキ渓谷とマノア渓谷を始め、
島内のあちこちに移植されるのですが、
良い結果が出なかったようです。

この3年後の、1828年に
コナ地区に移植されたコーヒーの木が、
島内で最も順調に生育し、高品質で安定することが確認され、
コナ・コーヒーの歴史は、この時から始まるわけです。

1800年代中頃、
米国とカリブ海諸国の奴隷制の廃止により、
ハワイを基点とする砂糖プランテーションの経営者たちは、
世界中の砂糖に対する渇望を満足させるために、
安い労働力を所望することになるのですが、
最初に砂糖プランテーションにやってきたのは、
砂糖精製に多少の経験技術のある中国人でした。

1852年に最初の中国人移民が訪れ、
1884年までに、2万525人がハワイの地を踏みました。

中国人移民は、
自分たちだけでコミュニティを形成する傾向があり、
集団で脱走・離脱したり、アヘンを吸う者がいたり、
また独立心も強かったため、
契約期間が終了すると彼らの多くは自作農になって、
町に住み出しました。

そのため、耕地主(白人企業家)には歓迎されませんでしたし、
1882年にアメリカで中国人は排斥法が成立した影響もあって、
1886年には、ハワイでも中国人移民は激減してしまいます。

次に招致されたのがポルトガル人でした。

しかしヨーロッパとハワイの距離があまりにも離れているため、
定着しなかったようです。

1868年(明治元年)に、
日本から153人が最初にハワイに渡りますが、
砂糖プランテーションでの労働が、
環境や待遇面などがあまりにも劣悪だったために、
1885年まで17年間、
ハワイへの移民は止められていました。

1885年(明治18年)には、
ハワイのカラカウア国王が自ら来日して、
明治天皇と会談して移民の再要請をしたことで、
同年1885年から
1924年までの実質な移民の廃止に至るまで、
39年間で約21万人の日本人が
ハワイへ渡ることになりました。

そのため、1885年(明治18年)が、
ハワイへの本格的な移民の始まりと言ってもよいでしょう。

1885年(明治18年)〜1894年(明治27年)までの
9年間で、ハワイに渡った日本人は約2万9千人で、
政府主導での移民でした。

1828年がコナ・コーヒーの起源ですが、
1800年代中頃から後期にかけての時代に
白人所有の大型農園でコーヒー栽培に従事していたのは、
ハワイ人と中国系移住者が主でした。

日系移民がコナ・コーヒーの栽培に従事するようになるのは
1880年代初期から
1890年代前半にかけてのことになります。

1850年〜1890年に至る40年間のコナでは、
ハワイアンは、漁やタロ芋栽培などの生活必需品のかたわら、
現金収入獲得の一方法としてコーヒー栽培を拡大していました。

1868年(明治元年)に
ホノルルに着いた最初の日本人移民(元年者)の一部が、
1890年頃から1910年にかけて、
サトウキビ耕地の過酷な労働に耐え切れず、
脱走してコナに入り、
白人の経営者のもとでコーヒーの栽培に従事していた、
と言われています。

順調に生産量を増やしていったコーヒー産業でしたが、
サトウキビやパイナップルと同じように、
国際競争のなかで価格は下落し、
経営はしだいに困難になっていったようです。

1899年(明治32年)にコーヒーの世界市揚が暴落すると、
多くの耕地主(白人企業家)がコーヒー産業を見離し、
大規模の農園は3エーカー(約3,600坪)から
5エーカー(約6,000坪)の区画に細分化されて、
大半が勤勉で評判の良い日系労働者に
賃貨されるようになりました。

ハワイ島における日系移民所有の
家族経営コーヒー農園が誕生したのは、
この1899年(明治32年)でした。

コーヒー産業経営は次第に回復し、
20世紀初頭にはコーヒー園の、
実に80%が日系人の手によるものになった、

と言われています。

次回へ続きます。

沖縄コーヒーのタ0512.jpg
posted by COFFEE CHERRY at 12:57| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月04日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その9

1800年代中頃、
米国とカリブ海諸国の奴隷制の廃止により、
ハワイを基点とする砂糖プランテーションの経営者たちは、
世界中の砂糖に対する渇望を満足させるために、
中国を手始めに、日本、フィリピンなどから
安い労働力を輸入しました。

移住労働者の流入は、
島のデリケートな生態系だけでなく、
ハワイの社会に対しても深刻な影響を与えました。

プランテーションの経営者たちが、
砂糖を植えるために低地の多雨林を伐採した一方で、
移住労働者たちは、
新しい土地で自分たちが必要とする食糧と薬を維持するために、
新しい穀物を導入してゆきました。

その中でも特にサトウキビ産業は、
1850年代にアメリカ本土からの需要が増大し、
ハワイ経済を支える第一産業にまで発展を遂げました。

しかしその一方で、外国人のもたらした伝染病により、
ハワイ原住民の人口が急激に減少してしまいました。

そのためプランテーションのオーナーは、
安い賃金で働く労働者を
外国に求めなければならなくなったのです。

これが、ハワイが多民族社会となった要因であり、
移民の始まる原因なのです。


次回に続きます。

  コーヒー苗とヒマワリ.JPG
posted by COFFEE CHERRY at 17:36| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月03日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その8

1492年に、コロンブスがアメリカに到着するより
500年も早い時期に、
「北欧のヴァイキングがアメリカ大陸に辿り着いていた」
という北米大陸発見説もありますが、
北米大陸植民化の先頭を切ったのはスペインで,
1521年にメキシコ中央部に栄えていた
アステカ帝国を征服すると,
一方では南米への探検と征服をすすめながら,
他方北米各地への探検を始め,
1565年にはフロリダ半島にセントオーガスティンを,
1609年にはロッキー山脈の南端地方に
サンタフェなどの町を建設しました。

アメリカ合衆国が1776年にイギリスから独立して、
西部開拓者が進んでくるころ,
現在のテキサスに当たる広大な地域は
依然スペインの勢力圏内にあり,
そのためアメリカ人開拓者は
スペイン当局の許可を得て入植していました。

メキシコにしたらテキサスは辺境の地で、
何しろ広大ですから、
アメリカ人開拓者の入植の管理も甘くなり、
次第に無許可で勝手にテキサスに入りこむ人たちが増えて、
テキサスの人口が、
メキシコ人よりアメリカ人の方が多くなってしまいます。

これを危惧したメキシコの指導著サンタ・アナは,
アメリカ人のテキサス入植を禁止してしまうのです。

テキサスに入植しているアメリカ人は1835年に、
テキサスをメキシコから独立させるための反乱を起こし、
劣勢となったアメリカ義勇兵たちは翌年、
187人がサンアントニオのアラモ砦に立てこもって
13日間死闘を繰り広げた後
“全滅”してしまいます(1836年3月)。

このなかには西部のヒーロー,ディビー・クロケットや
ジム・ボーウィなども含まれていたので,
「Remember the Alamo」の合い言葉で、
アメリカは復讐に燃えて総力戦を展開、
テキサス共和国として独立を勝ち取り、
1846年にアメリカ合衆国に併合して
テキサス州となりました。

これに納得しないメキシコに宣戦布告して勝利し、
当時のメキシコ領のおよそ半分にもなる膨大な領土を
アメリカは手中に収めました。

この時、奪取したのが現在の
・ カリフォルニア
・ アリゾナ
・ ニューメキシコ
・ コロラド
・ ネバダ
・ ユタ
・ ワイオミング
の各州で、
アラモ砦のアメリカ義勇兵は、
合衆国政府と連絡を取り合っていたと書いてある本もあり、
「メキシコ侵略の囮だった」
とも言われています。


ディビー・クロケットは、
日本ではディズニー・ランドくらいでしか見聞きしませんが、
アメリカ人では知らない人がいない、
テキサス独立の伝説のヒーローです。

クロケットは、メキシコ軍の銃弾を全身に浴びて
最期を遂げたことにされていて、
アラモ砦に立てこもったアメリカ人と、
それを包囲攻撃するメキシコ軍との壮絶な戦いを、
史実に基づいて描いた映画「アラモ」も作られています。


実際のクロケットは、
アメリカの田舎から出てきた農民兼猟師上がりの素人政治家で、
成功を夢見て西部に行き、
粗野な開拓者を代表する領土拡大主義者として、
反乱に巻き込まれたらしいのですが、
一人自由を求めて西へ去り、
自由の為に玉砕したことにされて
神話化した英雄に祭り上げられています。

メキシコ軍は、アラモ砦が陥落後、
非戦闘員は全員解放して、クロケットや
ボウイ・ナイフの発明者でもあるジェームズ・ボウイ大佐、
アラモ砦の指揮官トラビス大佐などの
生存した男性捕虜を全員処刑にしたようです。

映画も、
「アメリカ人は正義で、その他は“悪”」
という、
アメリカ映画らしい図式になっています。


「Remember the Alamo」に味をしめたアメリカ政府は
19世紀末にも同じ手口を使い、
スペインを相手に侵略を企てます。

スペイン領キューバで起こった独立運動に乗じて
ハバナ港に派遣した戦艦「メイン号」が
何者かによって爆破され乗組員260名の犠牲者が出ました。

この爆破事件をスペインの陰謀と断じたアメリカは、
「Remember the Maine」
の合い言葉でアメリカ国民の闘志に火をつけ、
1898年にスペインに宣戦布告して
米西戦争に突入し快勝し、
キューバ、フィリピン、グァム、プエルトリコを奪いました。

この時のメーン号の爆破も、
アメリカが画策したものだと言われています。

そして、
「Remember pearl horbor」。

これも伝統の手法による仕組まれた陰謀です。

12月1日にルーズベルトは
各地の軍司令部に戦争準備の指令を出していますが、
ハワイの軍司令部だけは除かれました。

そして肝心な2隻の空母と新鋭艦19隻は
あらかじめ外洋に移動させ、
老朽艦16隻だけを残して、日本の先制攻撃を誘導しました。

戦争を仕掛けるためには、自国民の命さえをも生贄にする。

これがアメリカが国民を鼓舞し、
戦争へと誘う時の常套(じょうとう)手段です。


アメリカ・メキシコ戦争(1846〜48年)によって
メキシコから獲得したカリフォルニアの
サクラメントの近くで1848年に金鉱が発見されると、
世界中から金鉱脈目当ての山師や開拓者が殺到し、
翌1849年だけでも
10万人以上の人々がカリフォルニアに押しかけました。

彼らは、1849年に移住してきたので
"forty-niner"(49er)と呼ばれ、
この言葉は、現在では、
サンフランシスコを本拠地とする
アメリカンフットボール・チームの名前として残っています。


3年後の1852年には
カリフォルニアの人口は約20万人まで急増し、
西部の開拓が急進展することになりました。

「ゴールドラッシュにより、
 金を求めてヨーロッパ中から人がいなくなった」

という記述があるほど、
ヨーロッパからでも、
農民や労働者、商人、乞食や牧師までもが、
一攫千金を夢見て、新大陸を目指したようです。

このニュースが東海岸まで伝わると、昔のことですから
「西部にはいくらでも金が埋まっているらしい」
という話に誇張されてしまい、
「それだったら自分も金を発見するぞ」
という『山師』たちが
大挙してカリフォルニアに押しかけてきました。

ジョン万次郎も、
日本に帰国するための旅費を稼ぐために
カリフォルニアに行ったのでした。

それはやがて、白人たちとインディアンたちの
不幸な闘争を引き起こしてゆくことになるわけです。


ゴールドラッシュは、
ジョン万次郎などのように、
成功した人はほんの一握りだけだったようです。

平均年収の10倍近い収入を得ても、
生活必需物質が暴騰し、
全米平均の数十倍にまでなって、
多くの人が破綻していったようです。

1852年になると、地表の金はほぼ採取されてしまい、
「愛しのクレメンタイン」(Clementine)には、
当時の悲惨さが歌われているのだそうです。

In  a  cavern,  in  a  canyon,
Excavating  for  a  mine
Dwelt  a  miner  forty  niner,
And  his  daughter  Clementine.


洞窟で、峡谷で、
金脈を求めて採掘する一人の鉱夫、
フォーティナイナーがいた。
彼の娘はクレメンタインといった


この歌は、日本では「雪山賛歌」として
元気な山男たちの歌になっていますが、
原曲ではフォーティーナイナーズの娘が
川に落ちて死んだ話なのだそうです。

一攫千金の夢にとりつかれ、
辺境の地まで娘を連れてきたものの、
苦しい生活を強いることになり、
挙げ句の果てには死なせてしまった、
という話のようです。

1859年にはネバダで銀鉱が発見され、
今度は人々はネバダに殺到して行きました。

こうして、
11年間にわたるカリフォルニアのゴールドラッシュは
幕を閉じたのでした。

1860年代〜1890年代にかけて、
未開拓地域(フロンティア)が消滅してゆき、
西部開拓時代は終わりを告げます。


「本題から外れている」というお叱りもありますが、
コナ・コーヒーの日本人移民の背景の時代が、
アメリカ史のようになっていますが、
ようやく、次回は本題に入れそうです。

posted by COFFEE CHERRY at 23:43| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月02日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その7

1865年に南北戦争(American Civil War)が終わり、
翌1866年には、アメリカ大陸横断鉄道が完成します。

この翌年の1867年の日本では、
薩長同盟の倒幕の動きが強まったことで、
衰えの目立つ江戸幕府は
第15代将軍徳川慶喜*が政権を朝廷に返上する
「大政奉還」を行い、
このあと,薩長倒幕派は王政復古*のク−デターを断行し,
1868年に明治維新となって、
この年に第1回目の日本人移民153人がハワイに渡りました。

第1回移民の一団は、
横浜を中心に募集された少数の武士や職人、髪結、料理人等で
構成され、
何しろ先例がありませんので、
移民者自体の資質にも問題があったのかもしれませんが、
ハワイ入植直後から耕地での苛酷な取扱いに対する不満や
低賃金、高い生活物資などへの不平不満を訴えるようになり、
翌1869年、
明治新政府は情況視察の目的で特別全権公使・上野景範を
ハワイに派遣しました。

その結果1870年に、
第1回入植者153人のうち40人を
明治政府の費用負担で送還しました。

第1回移民の過酷な労働が明治新政府内で問題視され、
これから15年間、
1885年までは、移民が中止になってしまいます。

ハワイに留まった108人の“元年者”たちは、
過酷な労働に耐え、
ハワイ人と結婚して同化してゆきました。
(入植者153人のうち5人は、
 入植1年以内に現地で亡くなっていました)


19世紀初頭のアメリカには約115万人いた、
と言われるインディアンは、
1870年当時は、
2万5千人程度まで減っていたようです。

1871年(明治4年)、
明治新政府が廃藩置県を行ったこの年に、
アメリカではインディアン保護地が設定されました。

1874年には、
インディアン居留地に設定されている
ブラック・ヒルズにゴールド・ラッシュが訪れ、
一獲千金を夢見る大勢の白人達が、
インディアンとの不可侵条約もお構いなしで
押しかけたことなどを契機に、
インディアンとのトラブルが一層激しくなり、
スー族の酋長シッティング・ブル(Sitting Bull)や
クレイジー・ホース(Crazy Horse)たち数千人が、
第七騎兵隊(260人)を率いるカスター将軍(当時中佐)を
全滅させてしまいました。

映画では、
・ 黄色いリボン
・ 幌馬車
などが、参考に作られています。

1876年には、米国−ハワイ互恵条約が締結され、
ハワイの砂糖は無関税でアメリカに輸出できることとなり、
サトウキビ産業は飛躍的に増大することになります。

1881年には、
アリゾナ州トゥームストーンで
西部開拓史上もっとも有名な決闘が、
OKコラール(家畜置き場)の裏の空き地で起こりました。

この時の決闘は、
1分もかからない一瞬の出来事らしいですが、
その後、何ヶ月にもわたって
アープ兄弟(ワイアット、モーガン、バージル)と
クラントン一家の間で執念深い銃撃戦が繰り返されたようです。
 OK牧場の決闘.jpg
ワイアット・アープ(Wyatt Earp)に味方した
ドク・ホリディ(Doc Holliday)も、実在した人物です。
   OK牧場の決闘2.jpg
これが、
「OK牧場の決闘」と言われ、
「荒野の決闘」も、これを題材にして映画化されています。

名作「シェーン」は史実ではありませんが、
ワイオミング州の開拓農民と牧畜業者といった
新旧の敵対関係を背景に作られた作品です。
 シェーン.jpg

また、この1881年には、
無法者のガンマン、ビリー・ザ・キッド(Billy the Kid)が、
保安官で友人でもあったパット・ギャレットに
射殺されています(享年22)。


1868年から17年間も日本から移民が途絶え、
1885年にハワイのカラカウア国王が訪日し、
明治天皇への移民要請に応えるように、
日本からの「官約移民」がハワイに渡航してきます。

1885〜1893年までの8年間で合計26回、
延べ約3万人がハワイに移住しました。

1900年までにハワイ人口の約40%を
日本人移民が占めるようになるのです。

1868年(明治元年)に
ホノルルに着いた最初の日本人移民(元年者)の一部が、
1890年頃から1910年にかけて、
サトウキビ耕地の過酷な労働に耐え切れず、
脱走してコナに入り、
白人の経営者のもとでコーヒーの栽培に従事したのが、
コナ・コーヒーと日本人移民の最初の関わり、
と言われています。


1886年には、
アリゾナ州南部を恐怖に陥れたアパッチ族のジェロニモが
降伏しました(当時60歳)。

“ジェロニモ”はメキシコ軍のつけたスペイン語のあだ名で、
アパッチ語の本名は
「あくびをする人」を意味する“ゴヤスレイ”というそうです。

ジェロニモを題材にした映画
・ 駅馬車
・ アパッチ
・ アパッチ砦
・ ジェロニモ


日本では1889年に、大日本帝国憲法が発布(2月11日)され、
市町村制も施行されました。

1894年には日清戦争(〜1895年)がありました。

日清戦争が終わった1895年あたりにも、
アメリカでは有名な事件がありました。

ブッチ・キャッシディとサンダンス・キッドが
“ワイルドバンチ”という強盗団を結成します。

映画「明日に向かって撃て!」は、
これを題材にした映画で、
ポール・ニューマンやロバート・レッドフォードが
主演していましたね。
 明日に向かって撃て.jpg

実話では、
最後に軍隊に追い詰められたとき(1908年ごろ)に、
攻撃される直前に、ピストル自殺をしたそうです。
 明日に向かって撃てのポスター.jpg

また、壁の穴強盗団(Hole-in-the-Wall gang)」の“壁の穴”は、
銃弾による穴ではなく、
彼らが3カ所持っていた牙城の内の1つである
ワイオミング州の地名なのだそうです。

なお、イタリアレストランの「壁の穴」の語源は、
シェイクスピアの戯曲「真夏の夜の夢」に出てくる言葉
「ホール・イン・ザ・ウォール(壁の穴)」
からとったものだそうです。

映画「明日に向かって撃て!」の冒頭、
無声映画で始まる列車強盗シーンと
さらにもう一度行われるダイナマイトによる
大胆で乱暴な列車強盗のシーンは、
映画による誇張ではなく、
1899年に実際に行われた強奪事件でした。

西部劇の映画では、他にも
・ 真昼の決闘
・ エル・ドラド
・ 荒野の七人
・ ネバダ・スミス
・ リオ・ブラボー
・ 荒野の1ドル銀貨
などがありますし、
テレビ番組でも
・ 名犬リンチンチン
・ ローン・レンジャー
・ ローハイド
・ ララミー牧場
・ ライフルマン
・ ガンスモーク
などがありましたね。

この西部劇の頃には、
日本人移民が、
サトウキビプランテーションでの
過酷な労働に耐えていたのです。

次回に続きます。

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2006年07月01日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その6

1861年、アメリカ南部ジョージア州タラの大地主
オハラ家の長女スカーレットは
その光輝くような美しさで社交界の男達を虜にしていましたが、
彼女が一途に思いをよせているのは
ウィルクス家の御曹司アシュレーでした。

アシュレーは情熱的なスカーレットに惹かれながらも、
穏やかで優しい従姉妹のメラニーと婚約してしまいます。

そこへ戦争が始まり、
大きな世の中の動きがスカーレットの運命を変えてしまいます…

ポスター.jpg
名作「風と共に去りぬ」は、
1861〜1865年の
南北戦争(American Civil War)が背景で、
南側から見た南北戦争がリアルに描かれていました。

原作は、史実ではありませんが、
当時の黒人解放やKKKという差別社会も描かれていました。

主人公スカーレット・オハラは
アイルランド移民の娘で、
土地に執着し、自分の相続地に
古代アイルランドの聖地と同じ「タラ」と名付けていました。

ラストシーンでは、
戦争で荒廃した故郷タラの木の下で、
燃えるような夕陽の中で、スカーレットが
「今は考えるのはやめよう。明日、考えることにしよう」
と言うシーンも印象深かったです。
  ラストシーン.jpg

南北戦争が終了した1865年は、
江戸幕府(14代将軍・家茂)が
第1回長州征伐を取りやめた年でした。
(長州藩の降伏のため)

この前年(1864年)の7月8日(旧暦6月5日)には、
長州藩を中心とする尊王攘夷派の30人ほどの志士が集まる
京都・三条小橋の旅館・池田屋を、
近藤勇が率いる新選組30人が急襲するという
「池田屋事件」が起き、
志士は7人が死亡、23人が捕らえられました。

日本でも大政奉還が3年後に迫っていた“開国前夜”という、
大きなうねりのなかにありました。

また、新撰組が池田屋を襲撃した1864年には、
アメリカ西部のコロラド準州東南部では、
西部開拓史に限らず人類史上稀にみる大虐殺事件
(「サンド・クリークの大虐殺」)が勃発しました。

東部ではまだ南北戦争の最中で、
大勢では北軍の勝利が明らかになり
南部に侵攻したウィリアム・シャーマン将軍が
アトランタを焼き払い(映画「風と共に去りぬ」で有名)
大西洋岸のサバンナ目指して進軍していた頃の出来事です。

合衆国軍(北軍)は、
一方では南部連盟と戦いながら、
他方では、
人口希薄でまだ州に昇格していなかったコロラド大高原の一角で、
開拓者の前進を妨害するインディアン部族を
一挙に壊滅させようと目論んでいたのです。

リンカーンの「奴隷解放宣言」は、この前年ですから、
「奴隷解放」は本意ではなく政策戦術だったわけです。

もともとこの地方は、
シャイアン族とアラパホ族の2つの部族の
インディアンネイションだったのが、
1858年頃にパイクス・ピークと名付けられた山の周辺で
金鉱が発見されたことで、
一攫千金を狙う開拓者達がここへ入り込む為には
途中の高原地帯でインディアンとの
トラブルが多くなったのは当然の事でした。

若く怒れるインディアン達は
鉱山のキャンプや駅馬車等を襲撃する様になりました。

インディアンは冬の期間は戦いをしない習慣らしく、
シャイアン族酋長のブラック・ケテルは、
デンバーにいるコロラド準州知事やライアン砦の司令官に
休戦協定の申し入れを行った帰りの途中で、
数百人のシャイアン戦闘部隊で
サンド・クリークという小川のホトリに
テントを張って休んでいたのですが、
主力部隊が留守中のシャイアン族のキャンプに、
700人以上の陸軍騎兵部隊が一斉に襲いかかったのです。

シャイアン族のキャンプには
80〜100のテントに非戦闘員の女性や子供達ばかりの
約500人がいましたが、
このうちのほとんどが惨殺されてしまいます。

しかも、子供の手足をナタで切断したり、
頭の皮を剥いだりするような残酷な殺りくをしたようです。

シャイアン族酋長のブラック・ケテルは、
この事件後でも白人との和平の望みを捨てなかったので、
それに不満を持つ者が離反して、
シャイアンの戦闘集団“ドッグソルジャー”が組織化され、
白人との争いが増幅してゆくことになります。

この「サンド・クリークの大虐殺」事件をテーマに、
インディアン側の視点で史実に忠実に構成された映画
『ソルジャーブルー』が作られています。
 ルジャーブルー.gif

今日は中途半端になりましたが、次回に続きます。

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