2006年07月14日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その14

1868年(明治元年)に、
最初の日本人移民(元年者)がホノルルに到着してから
26年後の1894年(明治27年)、
日清戦争が勃発したこの年に、ハワイ王国は消滅しています。

その4年後の1898年(明治31年)には、
米国がハワイを併合してしまいます。

翌年1899年(明治32年)にはコーヒーの生産過剰で、
コーヒー価格が暴落してしまいます。

同時に砂糖の価格が急騰したことで、
投資家たちはコーヒーから砂糖への投資に移行しますが、
コナ地区の傾斜の地形と水分に乏しい土地は
大規模なサトウキビ栽培には不適でした。

大規模なコーヒー農場は閉鎖を余儀なくされ、
多くの耕地主(白人企業家)がコーヒー産業を見離し、
大規模の農園は3エーカー(約3,600坪)から
5エーカー(約6,000坪)の区画に細分化されて、
大半が勤勉で評判の良い日系労働者に
賃貨されるようになり、
ハワイ島における日系移民所有の
家族経営コーヒー農園が次々に誕生してゆきました。

コーヒー農園は、主に不況や飢きんなどで生活が困窮していた
山口県、広島県、福島県、熊本県、沖縄県出身の農家の
次男や三男などが従事したといわれています。

農園の賃貨料は、
その年のコーヒー豆収穫量の半分だったそうです。

日系移民は家族総出で
マウナ・ロア、フアラライの丘麓の密林を開墾し、
栽培面積を拡張しました。

1900年(明治33年)には、ハワイが米国領になり、
米国本土の契約移民禁止法がハワイにも適用されます。

この年のハワイ総人口に占める日系人は、
40%ほどになっていて、
ハワイ社会にも大きな影響力を持つようになっていました。

1904年(明治37年)日露戦争勃発の前後の、
1905(明治38年)〜1908年(明治41年)は、
出稼ぎの在米日本人労働者のピークでした。

コーヒー産業経営は次第に回復し、
20世紀初頭にはコーヒー園の、
実に80%が日系人の手によるものになった、
と言われています。

1914年(大正3年)には、第1次世界大戦が勃発し、
米軍が兵士の携帯食糧の一部としてコーヒーを大量に買いあげ、
これによってコーヒーの需要が再び高まり、
世界のコーヒー市場価格が高騰し、コナ地域では、
住民の新改築やコーヒー豆の加工工場の設備改善が
盛んにに行われたりして、
ちょっとした建築・設備投貿ブームが起こるほどの
バブル景気に見舞われました。

日系2世は、好景気を背景に、
大学に進学しコナ地区から出て行ったために、
日系人社会の空洞化が進んだことや、
当時世界的なペストの流行によって
ハワイアン人口が激減したことで、
コーヒー労働者の減少という問題が発生し、
フィリピン系移民をコーヒー収穫時に雇うようになりました。

フィリピン系移民は、
コーヒーの収穫の季節だけコナ地区でコーヒーの収穫を手伝い、
それ以外の季節はサトウキビプランテーションで働く
“季節労働者”としての意味合いを持っていました。

1918年(大正7年)には第1次世界大戦が終わり、
排日運動が盛んになります。

1920年(大正9年)には、
日本人の土地所有権と借地権を完全禁止する
「排日土地法」が施行されてしまいます。

1923年(大正12年)関東大震災の翌年
1924年(大正13年)には、
日本人の移民を全面的に禁止する「排日移民法」が施行され、
時代はますます緊迫化してゆきます。

コーヒー相場の高値は1928年(昭和3年)まで続き、
コーヒー農家にとっては、最盛期を迎えていました。

次回へ続きます。

 ハイビスカスの花.jpg 
posted by COFFEE CHERRY at 18:29| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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