2009年09月16日

台湾コーヒーの最新事情2009-1

私のコーヒーのproject partnerが先月台湾に行き、
雲林県古坑(クーカン)郷のコーヒー農園を視察してきて、
しかも貴重な台湾コーヒーの種も入手することが出来たので、
これは後日コーヒー山で大切に発芽させるとして、
台湾コーヒーの歴史や現状、
彼の視察のレポートをご紹介する前に
「台湾コーヒーが日本とどう関わっているか」
も、
流れとして知っておかなければいけないことなので、
日本のコーヒー栽培の歴史も再検証しながら、
数回に分けて書くことにしました。

台湾スターバックス0908.JPG
 台湾スターバックスは日本の1995年設立の3年後、
 1998年に「統一星巴克(股)有限公司」として
 台湾1の大手食品メーカー・統一グループと提携して
 店舗展開を進めていて、
 2009年3月現在では台湾に223店舗があるそうです。
 (同時期の日本は842店舗)
 2005年3月のデータでは、
 ・アメリカ 9,010店舗
 ・カナダ   725店舗
 ・日本    666店舗
 ・イギリス  528店舗
 ・中国    213店舗
 ・台湾    189店舗
 ・韓国    187店舗
 で、中国、台湾、韓国でのコーヒーの認知度は
 イマイチのようです。
 それなのに沖縄よりも台湾の方が
 コーヒー栽培ははるかに進んでいて
 私も負けられないところです。


米国で、まだ南北戦争が行われている中の大統領選挙で
リンカーンが当選し、
北軍が南部のアトランタを陥落させた
1864年(元治元年)の日本では、
京都で新撰組が長州藩を中心とする尊皇攘夷派が
潜伏する池田屋を襲撃し、
横浜では、山手外国人居留地に
コーヒーハウスが次々に開店したのですが、
その2年後の1866年(慶応2年)には
イギリス・フランス・アメリカ・オランダの
4国の強い要望によって
江戸幕府が「改税約書」を締結させられたことで
輸入関税が大幅に引き下げられて
以降日本国内でも徐々に
コーヒーが認知されてくることになるのですが、
それでも明治政府の通関記録に
輸入量が現れる明治10年(1877年)当時の物価では、
平均米価が1斗(約15kg)55銭5厘に対し、
コーヒー1kgの輸入価格は32銭6厘となっていますから、
当時のコーヒー1kg = 米約8.8kg(5.9升)
に相当し、
これは、現在の標準的な精米価格を
5kg2,000円として換算すると
当時のコーヒー1kg = 現在のお米換算3.520円
コーヒーカップ1杯の焙煎豆を10gとすると、
コーヒーカップ1杯分の輸入価格は35.2円になり
これに流通経費や利益がのるわけですから、
当時のコーヒーは
かなり高価な飲物だったことが解かります。

明治10年以降明治45年(1912年)までは、
日本のコーヒー生豆の輸入量は微増するものの
年間100トンを超えていません。
 ・明治10年(1877年)の生豆輸入量 18トン
 ・明治元年(1868年)の日本の人口が約3,400万人
 ・当時の国民1人あたりのコーヒー輸入量は約0.4g
  (生豆輸入量を100トンとしても2.2g)


 ・2008年10月1日の日本の人口 1億2,777万人
 ・2008年度のコーヒー生豆換算輸入量 42万3千トン
 ・2008年度の国民1人あたりのコーヒー輸入量は約3.3kg


以上の比較からしても
「いくらコーヒーが文明開化的な
 ハイカラな飲物であったとしても、
 明治時代では高価なことがネックで
 国民にはコーヒーはほとんど浸透していなかった」

ということはいえそうですね。

台湾のCAFE8.JPG
 台北市から西南約80kmに位置する新竹市(しんちくし)は、
 台北と台中のほぼ中間の台湾海峡の海岸沿いの
 台湾のシリコンバレーといわれる町ですが、
 この町にあるcafe8新竹林森店です。
 cafe8は台北市内にも内湖店、開封店、漢生西店、
 圓山店などがあるように
 台湾のお洒落な若者ご用達の店のようです。


日本のコーヒー伝来は、
1569年(永録12年)、日本にキリスト教布教のために
ポルトガルからやってきた宣教師ルイス・フロイスが、
時の権力者、織田信長に布教許可をもらうため、
ポルトガルから持ってきた
金平糖(こんぺいとう)を献上したり、
同時に
「信長にコーヒーを飲ませた」
という説や
ガリレオ・ガリレイが望遠鏡(10倍)を作成して
天体観測をした1609年(慶長14年)、
同年は薩摩島津軍が奄美・琉球を侵略した年ですが、
この年に長崎・平戸ではオランダ商館が開設されて、
「ここからコーヒーが入ってきた」
という全日本コーヒー協会の説などがあり、
それぞれ興味深いのですが、
今日のテーマの「台湾コーヒー」の始まりは
1884年(明治17年)ともいわれていて、
日本のコーヒー栽培はそれより前の
1878(明治11年)〜1879年(明治12年)ごろに
小笠原で始まっていることを考えると、
「小笠原 → 沖縄 → 台湾」
という栽培地の流れに着目したいのです。

キリスト教の布教を貿易の条件として求める
ポルトガルとスペイン2国の来航を禁じた江戸時代に
長崎・平戸にあるオランダ商館では、
一部の日本人がコーヒーを飲んだのは間違いないでしょうし、
幕末の幕府軍から明治政府の要職に就いた
榎本武揚(たけあき)は、
日本のコーヒー栽培への思い入れが強く、
日本のコーヒー栽培でも深く関わっているようです。

台湾のコーヒー飲料.JPG
 台湾で売られているコーヒー飲料です。
 これらの評価のレポートがないことを考えると…


戊辰戦争で敗戦となった東北諸藩の藩士や
廃藩置県(明治4年)、地租改正(明治6年)によって
財政的基盤を失った旧藩の士族の救済をメインの目的に
北海道開拓の移住が行われたのに対して、
明治元年以降に行われた海外移民は、
ほとんどが資本も教育もない
貧困にあえぐ職人を中心とした一般国民が、
出稼ぎ目的で鉱山や農場の過酷な労働に携わる形式の移住で、
ハワイのコーヒー農園でも、
もちろん初期移民団は
過酷な労働に明け暮れていたのですが、
1887年(明治20年)には、
福沢諭吉の弟子・井上角五郎が
米国のカリフォルニア州シエラネバダに土地を購入して
広島県人30余人を連れて入植した農業が失敗したり、
1889年(明治22年)には荒井達爾(たつじ)が
熊本県人50人を連れて米国ワシントン州に入植して
失敗したことを受けて、
1892年(明治24)に外務大臣に就任した榎本武揚は、
従来の出稼ぎ目的の移民の送り出しではなく、
日本の資本による国策として外国で土地を購入または借用し、
移民を入植・開墾・定住させる「殖民論」を唱えて、
それを実現するために外務省に移民課を設置し、
移住適地調査といった施策を実施しようとするのですが、
彼の後任大臣が、この政策を引き継がなかったために、
彼は内閣総辞職による外相辞任後の
1893年(明治26年)58歳の時に、
自らの理想を実現するためメキシコ殖産協会を設立して
メキシコ合衆国に植民地(榎本植民地)を
建設する事業を計画し、
日墨拓殖会社を設立し
チアバス州エスクイントラに土地を年賦で購入し、
1897年(明治30年)には35人が渡航するのですが、
この事業も不毛の大地と資金不足のために、
この翌年には早々と挫折してしまうのです。
この事業がコーヒー栽培だったのです。

次回に続く…

生豆を撒く0909.JPG
 コーヒー山に植えた苗木の生育は、
 特に林床地では移植してから1年経っていないのに
 よほど栽培環境が合っているのか
 予想以上に元気に成長しています。
 この林床地のあちこちに海外の生豆を撒いてみました。
 もちろんパーチメントやシルバースキンが無い
 純然たる“生豆”ですし、
 しかも数年前の古いものですから
 まず発芽しないと思いますが、
 捨てるのも可哀そうだし、一応山に撒いてみたのです。
 1本でも奇跡的に発芽してくれないかな。
 これはグアテマラ産の小粒の生豆です。

posted by COFFEE CHERRY at 18:31| 沖縄 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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