2009年10月30日

コーヒー山のクロイワツクツク

今週末には11月に入り、
本土では晩秋の時期になると思いますが、
コーヒー山では、まだセミの合唱が聞こえます。

クロイワツクツク091013.JPG
 ツクツクボウシの仲間なので
 名前に「ツクツク」と付いています。
 頭の「クロイワ」は、沖縄の生物研究に貢献された
 黒岩恒(ひさし)氏の名前で、
 クロイワゼミなども同様です。
 黒地に緑色の紋様がある体長約3.5cmの
 南西諸島のセミです。
 アダンの葉で休んでいるところを撮影しました。


抜け殻091027.JPG
 クロイワツクツクの抜け殻です。

沖縄では、さすがに冬にはセミはいないのですが、
初春から晩秋までは、いろいろな種類のセミが
季節を知らせるように登場するのです。

オオジョロウグモ091027.JPG
 夕方、林床地のオオジョロウグモの巣に
 クロイワツクツクがかかってしまいました。
 もう少し早く見つけていれば救出出来たのですが…


例えば、
イワサキクサゼミがサトウキビ畑に現れると春の始まりで
シーミーというお墓参りの頃にはクロイワニイニイが、
5月中旬になるとオキナワヒメハルゼミが登場し、
初夏になるとクロイワゼミ、
梅雨明けにはリュウキュウアブラゼミが出てきて、
盛夏にはクマゼミの声が暑さを助長して、
秋の今ごろは、オオシマゼミとクロイワツクツクが
今年のセミシーズンの終わりを知らせてくれているのです。


林床地のコーヒー091027.JPG
 林床地に、適度に木漏れ日が入り、
 コーヒーは気持ち良さそうに生育しています。



流木091013.JPG
 与那海岸に漂着した流木です。
 有史以来、森から送り出された流木が海岸にたどり着き、
 その豊かな恵みを享受してきた時代が長く続きましたが、
 産業革命以降生活様式が一変したことで、
 自然の恩恵や脅威を生活の中で実感する機会が少なくなり、
 自然に対する畏敬の念も失われつつあります。
 流木は長い時間海をただよい、
 ミネラル分も充分に吸収しているはずで、
 コーヒー山のあちこちのコーヒーの根元近くに置いて
 雨降りの時に、
 「少しずつミネラル分が溶解してくれればいいな」
 と考えています。



posted by COFFEE CHERRY at 12:51| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒー山の動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月28日

昨日のコーヒー山の様子(10月27日)

台風20号台風は黒潮に乗って北東方面に進みましたから
沖縄本島では大雨雨だけが降りました。

昨日の晴天晴れのコーヒー山では、
雨水貯水槽はどれも水量が一杯で満水状態でした。

林床ダム091027.JPG
 コーヒー山の雨水貯水槽(=林床ダム)は
 どれも満水状態のために
 8月上旬の台風8号接近の際に外した
 ブルーシート貼りの再開は延期にしました。


バナナロードは舗装こそされていませんが、
山のオーナーが30年ほど前に山を重機で削った土に、
石を入れながら踏み固めた思い入れの道ですから
もちろん車を乗り入れても
まったく問題がない頑強な道路ですが、
車を転回させる場所の裏側に新たな平坦な林床地を発見し、
昨日はここの竹や細い雑木を伐採して
「新・コーヒー苗木置場」
を造りました。

新・苗木置場091027−1.JPG
 バナナロードは南北の風が吹きぬけることは有るのですが、
 この中は風が通りにくく、
 またキノコが多く木漏れ日も入る程度で
 コーヒーには良い環境です。

 
軽トラや2トン車で苗木や成木を運んできて
降ろしてから移動させる距離が少ないので
まだ自宅に残っている約200個の黒ポット苗木と
テスト圃場の苗木や成木を
ここに置く予定です。

新・苗木置場091027−2.JPG
 今までは発芽ポットや苗木ポットを置くだけでも
 その置場に難儀したことがありましたが
 現在は栽培環境の良い広大な森林を貸して頂いていることで
 コーヒー苗木たちの生育環境も見違えるほど向上していて
 国頭村の特産品として貢献出来るように
 改めて頑張りたいと決意して取組む覚悟です。



10月下旬のコーヒー山でも、
さすがに秋の気配がただよい
特に北山ではドングリがたくさん落ちています。

イノシシが食べに来る前に
来春ドングリを発芽させるのに拾い集めてみましたが、
5分程度で袋いっぱいに集まりました。

ドングリ091027.JPG
 コーヒー山のドングリは何種類かあるようですが、
 常緑樹のマテバシイの実が一番多いようですね。


重機の道091027.JPG
 重機の道のコーヒー苗木も
 先週の恵みの大雨のおかげもあって
 葉の大きさもひと回りもふた回りも大きくなってきて
 元気さをアピールしています。
 木漏れ日を気持ち良さそうに浴びています。


アマレロ苗木091027.JPG
 半年ほど前に黒ポットに移植したアマレロ苗木も
 元気に生育中なのですが、
 コーヒーは発芽してから1年目は、
 他の樹木と比べても成長度合いが低いので、
 「半年前と大差ないんじゃないの?」
 と思う方もいると思いますが、
 これでもコーヒーとしては
  ・徒長していない元気そうな苗に育っている
  ・葉の大きく成長している
  ・葉が緑みどりした色合いでピカピカしている
 など、だいぶ元気に成長していると言えるのです。



私の最近の作業着では、マンガ倉庫で2千円で買った
赤いツナギを着ることが多いのですが、
蝶や昆虫が赤い色が好みなのか
無警戒で私に近寄ってくることが多く、
半月ほど前にはアオウバタマムシが貼り付いてきました。

アオウバタマムシ091013.JPG
 ウバタマムシの奄美・沖縄亜種の「アオウバタマムシ」は
 リュウキュウマツが好みのようで、
 幼虫はマツの倒木で生息することが多く、
 マツを多く伐採したコーヒー山では
 生息域は相当広そうです。
 体を重そうに、カナブンのように飛行します。



また、絶滅危惧種のホントウアカヒゲは
コーヒー山に多く生息していて
ツガイごとにエリアが決められていて
どこでも人には無警戒で興味深く近寄って来るのですが、
特に林床地に入ったエリアを縄張りにしているツガイは
休憩地でスイカやバナナの残りをあげていたこともあって
特に慣れていて、エリア内では朝から近寄ってきます。
コーヒー苗木の穴掘りで出てきた昆虫の幼虫を
彼らに空中に投げると、
そのまま空中でキャッチするほど慣れてきたので、
昨日は、昆虫の幼虫を手のひらに乗せて
それを取りに来るかどうか実験をしてみました。

昆虫の幼虫091027.JPG
 コーヒー苗木移植での穴掘りでは
 ミミズ系や幼虫系、ヤスデ系など
 いろいろな虫が出てくるのですが
 昨日はこの幼虫2匹で実験しました。
 (動くと気持ち悪いので、画像は1匹です)


ホントウアカヒゲ091027.JPG
 実際には、オス・メス用として2回実験し、
 2回ともオスが取りに来ました。
 メスは1mくらいまでは近寄るのですが、
 最後の勇気を踏み出せずにためらっていました。
 コーヒー苗木移植の穴掘りで出てきたものでは
 ミミズ系や幼虫類などはお好みのようですが
 ヤスデ系は食べませんでした。
 15cm程度のヤンバルオオフトミミズも
 持って行きましたから、
 ヒナがいるのかもしれませんね。


野生動物は本来、森林の中で食べ物を探し回って、
厳しい生存競争の中で生活をしていますから、
餌付けをすると人に食べ物をもらうことに慣れてしまい、
食べ物を探せなくなったり、住宅地に出てきたりと、
生態系を破壊することになるので、
もちろん
「“餌付け”をして名前をつける」
ようなことはしませんよ。
ターザンとチータの関係くらいになれるかな、
と思っている程度です。

与那海岸091027.JPG
 昨日夕方の与那海岸は、
 とっくに過ぎ去った台風20号の余波なのか
 ふだんはさざなみ程度の海が
 波が音をたてていて海岸に打ち寄せていました。
 本土ではこの程度は当たり前だと思いますが、
 沖縄本島の西海岸では強風でもない限り、
 なかなか見れない光景なので、
 思わず見入ってしまいました。

posted by COFFEE CHERRY at 19:36| 沖縄 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒー山の動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月22日

コーヒー山のリョクモンエダシャク?

やんばるのコーヒー山では
翅の裏面が枯れ葉のように見える
コノハチョウ(木の葉蝶)との出会いを
いつも期待しているのですが、
今週19日(月曜)にコーヒー山に行ったときに
米空軍のステルス戦闘機F22ラプタ−を
イメージさせるような蛾が
大事なコーヒーの葉に貼り付いているのを見つけました。

リョクモンエダシャク091019−1.JPG
 ちょうど目線の高さの葉の上に
 見事に擬態した蛾が静止してました。
 どこにいるか判りますか?



こういうステルス戦闘機のような蛾は
シャクガ科エダシャク亜科の蛾の静止した姿が特長で、
「エダシャク」
とは、
「枝尺」
つまり
 ・「枝」は幼虫は樹木の枝などに擬態
 ・「尺」は尺取虫のこと
で、
エダシャク亜科の蛾の幼虫(=尺取虫)は
広葉樹の葉を好んで食べるようです。


リョクモンエダシャク091019-2.JPG
 山のふもとには柑橘系の果樹園が多くあるので
 最初はミカンコエダシャクかと思ったのですが
 大きさがミカンコの2倍以上あり、
 翅のデザインも違うので
 「リョクモンエダシャク」と思われます。


リョクモンエダシャク091019-3.JPG
 翅の裏側がどうなっているのか、
 枝を揺さぶって蛾を飛ばしてみようかとも思いましたが
 予想に反して私に向かってくることもあるので止めました。
 葉に同化しているつもりのようで
 近づいても微動だにしませんでした。



「リョクモンエダシャク」
は、
ふつう翅のデザインが
枯れかけた葉のような模様をしていて
回りが淡褐色、中が緑色の大きな斑紋があるのですが、
色や斑紋の変異が大きいことや
幼虫は、南西諸島から台湾に分布する
シロミミズの葉を食べるらしく、
シロミミズとコーヒーノキは同じアカネ科ですし、
擬態に適した葉を選んでペッタリと止まって
ほとんど動かないという特長も同じなので
「リョクモンエダシャク」
じゃないかな、と判断しました。


伊江島090920.JPG
 コーヒー山から、
 東シナ海側(西側)を見た風景です。
 右のリュウキュウマツの根元に
 バナナロードが南北(画像では左右)に走っています。
 水平線の方に見える突起物は
 伊江島のシンボル・城山(ぐすくやま)です。


コーヒー090920.JPG
 テスト圃場のコーヒーの成木には
 たくさんの実を付けています。
 この画像を撮影したのは先月の9月20日ですから
 現在はもっと膨らんでいます。


posted by COFFEE CHERRY at 17:10| 沖縄 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒー山の動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月21日

台湾コーヒーの最新事情2009-2

人類の歴史の中でも重要な著作の1つといわれる
「種の起原」
を書いたチャールズ・ダーウィンの最初の本は
「ビーグル号航海記」
で、
これは彼が22歳から5年間、
世界一周をしたときの旅行記ですが、
この旅で彼は生物進化論についての着想をしたようです。

スケールの違いはありますが、
榎本武揚(たけあき)は
幕末の1862年(文久2年)に27歳でオランダに留学し、
5年後の1867年(慶応3年)、
32歳で帰国しましたが、
留学先のオランダでコーヒーを飲んで
コーヒー栽培に興味を持ったのだと思います。

林床地の雨水槽091019.JPG
 台風18号台風の接近以降、
 沖縄本島でも時々雨が降るようになり、
 先週の16日(金曜)には
 国頭(くにがみ)で61.5mmの降雨があり、
 コーヒー山でも雨水槽が7〜8割まで
 雨水が溜まりひと安心です。



豊臣秀吉や徳川家康は
キリスト教宣教師の領土的野心と
教徒の団結を警戒していたのですが、
ポルトガルやスペインが貿易の条件として
キリスト教の布教を求めていたのに対して
オランダとイギリスは布教を求めないことから
大阪冬の陣の前年の1613年に
第2代将軍徳川秀忠が禁教令を発令してキリスト教を禁止し
平戸(ひらど)藩平戸にオランダとイギリスが商館を建て
ポルトガルやスペインとの国交を断絶していたのですが、
平戸の商館(後に出島に移る)内では
当然コーヒーも出されていたでしょうし、
役人や商人、遊女の出島の出入りは認められていましたから
その中ではコーヒーを飲んだ人もいたことでしょうし、
幕府は日本人の海外渡航を禁じていたものの
幕府公認の海外交易船の朱印船が東南アジアに出向き、
シャム(現タイ)で活躍した山田長政を始めとして
実際には朱印船の渡航先であるベトナムやタイ、
カンボジア、フィリピン、台湾などで
長期滞在した日本人が多くいたり、
またオランダ領東インド(現インドネシア)で
雇用された日本人もいて
ジャワではコーヒーやサトウキビ、タバコなどが
強制栽培されていましたから
こういう情報も出島から入ってきていたのでしょう。

林床地091019-1.JPG
 先週金曜の大雨のおかげで、
 コーヒー山の森林もすっかりすがすがしさを取り戻し、
 木々が活き活きとしてきました。
 19日(月曜)の林床地の地面にも充分な潤いがあり、
 コーヒーは予想以上に元気に成育しています。

 
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが
強硬な態度で幕府に開国を迫ったことで
幕府は日米和親(わしん)条約を結んで開国することになり、
その4年後の1858年には日米修好通商条約が結ばれて
神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港場に
外国人居留地を開設することや
外国人の治外法権を認めたのですが、
翌年から始まった貿易では、主にイギリスに生糸と茶を輸出し、
繊維製品や武器を輸入していましたが、
貿易が始まったことで輸出品が国内で品薄になり、
それに連動して諸物価も上がり、庶民生活が圧迫されて、
貿易に対する反感から、
外国人を排斥する攘夷(じょうい)運動が高まり
激動の幕末に突入してゆくのですが、
ペリー提督が4席の黒船で最初に浦賀に来航した1853年に
当時18歳の榎本武揚はジョン万次郎の私塾で英語を学び、
1862年、幕府は先進国の軍事技術・学問修得のために
長崎海軍伝習所の卒業生の中から優秀な者5人を選抜し
さらに法律や医学の4名、
大工、鋳物師、鍛冶職、水夫等の技術職人6人を加えた15人を、
当初はアメリカに派遣留学させる予定が
南北戦争勃発の影響で
留学先が急にオランダに変更されるのですが、
当時27歳の榎本武揚は
船具、運用、砲術、機関学を学ぶために
このメンバーに抜擢されているのです。

林床地091019-2.JPG
 林床地の落ち葉の心地よいクッションを感じながら歩くと、
 オオシマゼミやクロイワツクツクの秋のセミの声や、
 ホントウアカヒゲやリュウキュウアカショウビンなどの
 野鳥の声、カエルたちの声がやさしく響き、
 また時おり不思議な静寂さもあり、
 すがすがしい木や大地の香りを胸いっぱいに吸い込むと、
 元気が湧き出してくるのです。



幕府の第1回留学生の渡航の1ヶ月前には
生麦事件がありました。
1858年の日米修好通商条約や
イギリス、フランス、オランダ、ロシアと修好条約も結び
横浜港は1859年に開港し、
「山下居留地は1863年に完成した」
といわれていますから
まだ幕府が日本風の造りで造成中の1862年にも
米国や英国、フランス、オランダ、ロシアから
貿易や観光目的で居留地に住む外国人がいて、
その人口も急増して、
やがて1865年に日本で最初のコーヒーハウスが
横浜居留地に開店することになるのですが、
その1862年には薩摩藩主の父・島津久光
(篤姫の養父・島津斉彬の弟)が
文久の改革提案要請のために
800人の大行列で江戸に出向いた帰りに、
東海道の生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)で
島津久光の大行列に横浜居留地の英国人4人が
乗馬のまま大行列に逆流して、
久光の乗る駕籠(かご)のすぐ近くまで迫ったことで
供回りの藩主たちが抜刀して騎乗の英国人に切りかかり
3人の死傷者が出た事件が生麦事件なのですが
この事件の賠償責任問題から
翌年には薩英戦争に発展し、
その後薩摩藩が攘夷が不可能であることを理解し
英国は幕府支持から薩摩藩支持に変更して
相互に理解を深めることになるのです。

キノボリトカゲ091013.JPG
 台風18号台風通過後の沖縄は、
 すっかり秋の気配に包まれてきました。
 コーヒー山でもきのこやドングリが
 目に付くようになっています。
 小さな恐竜のようなキノボリトカゲは
 1日に何度も出会いますが、
 画像の彼は北山のリュウキュウマツの切り株で
 私を注視していました。


幕臣の榎本武揚は
国家公務員1種に採用されたようなキャリア・エリートで
18歳の頃に江川太郎左衛門の塾でオランダ語、
ジョン万次郎から英語も学び
長崎海軍伝習所では勝海舟と共に
オランダ人教師によって
西洋技術・航海術・蘭学・化学などを学び、
伝習所に隣接する出島で
交易しているオランダ船から
最新の世界情勢なども聞いていたはずで
榎本武揚はオランダ留学前から
コーヒー栽培に思い入れがあったことは間違いなさそうです。

榎本武揚は、オランダ留学中に
単に国際法や軍事知識、造船・船舶に関する
知識習得だけに留まらず
プロイセン王国とオーストリア帝国との
戦争(普墺戦争)も体験し
「国はどうあるべきなのか」
を憂慮しながら、
留学5年後の1867年(慶応3年)4月に
幕府がオランダに発注して完成直後の
軍艦・開陽丸で帰国し(当時32歳)、
幕府軍艦組頭取(艦長)に任命されて
大阪湾を警護することになるのですが、
同年10月には、
15代将軍徳川慶喜は起死回生の策として
朝廷に対し恭順の意を表し、
新しく成立するであろう新政府において重要な地位に立って、
大名連合政権の上に立とうとする考えで
幕府の政権を朝廷に返上する表明(大政奉還)を実行し
徳川の政治的生き残りを図るのですが、
11月には京都・近江屋で
坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺され、
12月には薩長の倒幕派が太政官制度を復活させ、
天皇を中心とした新政府を樹立し、
徳川から朝廷への政権交代を宣言するに至り
その後、徳川を盟主とする旧幕府勢力と
薩長を主体とする新政府が対立して、
鳥羽・伏見の戦いを機に戊辰(ぼしん)戦争が勃発、
新政府に敗れ去った慶喜は、
江戸城無血開城を経て降伏するのですが、
慶喜降伏後も一部の旧幕府勢力が東北などで抵抗し、
幕臣を従えた榎本武揚を総裁とした五稜郭の
箱館戦争を最後に新政府が勝利し、
戊辰戦争は終結してこうして明治維新が始まり、
日本も本格的に近代化の時代を向かえることになるのですが、
降伏して投獄された榎本武揚は
才能を高く評価されて1872年(明治5年)
勝海舟とともに新政府に登用され、
1879年(明治12年)に外務大臣に就任し、
同年、小笠原でコーヒー栽培を始めています。

与那の売り物件0909.JPG
 58号線の与那トンネルを出て右側が与那集落ですが、
 珍しく売り物件が出ていました。
 先祖崇拝の沖縄では
 仏壇がとても重要な意味がありますから、
 一軒家を貸すとか売るとかはなかなか少ないのですが、
 近年「売り家」看板を
 あちこちで見かけるようになりましたね。

 

オランダ東インド会社の
コーヒー農園(インドネシアのジャワ)では
日本人労働者もいましたし、
オランダとは江戸時代から国交があり、
また榎本武揚自身も留学していた関係で、
ジャワからコーヒー苗木を
小笠原に運んだものと思われます。

小笠原ではコーヒー苗木は順調に生育し、
数年後には収穫出来たらしいのですが、
当時はコーヒーよりもサトウキビの方が収益性が高く、
またサトウキビは植え付け後の管理はなく、
収穫も人手さえあれば特別な加工もなく
単純作業で済みますから、
小笠原ではコーヒー栽培農家は自然消滅したようです。
その後、明治時代後半に
「沖縄でコーヒー栽培をしたが台風で全滅し、
        台湾で栽培することになった」

といわれているのですが、
具体的に何の文献に、
どう記載されているのかが不明なので、
これはいずれ私が沖縄県公文書館で
直接調べたいと思っていますが、
日本ルートでは、
小笠原〜沖縄の後に「台湾」でコーヒー栽培が始まりました。
“日本ルート”とは別に、
「中国(当時は清)ルート」
でもコーヒー栽培が導入されているようで、
どちらが先なのかはよく判りません。

次回はいよいよ最終回です。
自宅の引越し準備やリフォームなどが重なり、
またパソコンの調子が悪い時があって、
ブログに書きたい材料は豊富にあるのですが、
なかなか更新出来ないでいます。
コーヒー山での作業は順調に進んでいますし、
コーヒーやバニラなどの生育も予想以上に元気で
“適地”だと確信しています。


オオヒキガエル091013.JPG
 林床地内の雨水貯水槽の中に
 ヒキガエル科の最大種「オオヒキガエル」のつがいが
 入っているのを見つけました。
 体長は約15cmはある大型のカエルで、
 サバンナや熱帯雨林に棲息していて
 沖縄にはもともといないカエルでしたが、
 約30年前にサトウキビ畑の害虫駆除の目的で、
 南米から石垣島にテスト導入され、
 以降爆発的に繁殖して、
 近年では石垣島で「捕獲作戦」も何度も行われているのに、
 今や島の人口より多くなっているようです。
 2005年には外来生物法により特定外来生物に指定されて、
 すっかりvillainになりましたが、
 これがコーヒー山にいたとは…。
 オオヒキガエルは大型で
 有毒種のために天敵もいないようで、
 多くの小昆虫が食べられたり、
 間違ってオオヒキガエルを食べた動物が毒で死んだり、
 やんばるの生態系に悪影響を及ぼすのは
 マングースや捨て猫、捨て犬、
 人間だけではないようですね。
 この水槽には卵が数万個も
 産みつけられているはずですから、
 貴重な雨水ですが、次回捨てないといけませんね。


posted by COFFEE CHERRY at 18:34| 沖縄 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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