2009年10月21日

台湾コーヒーの最新事情2009-2

人類の歴史の中でも重要な著作の1つといわれる
「種の起原」
を書いたチャールズ・ダーウィンの最初の本は
「ビーグル号航海記」
で、
これは彼が22歳から5年間、
世界一周をしたときの旅行記ですが、
この旅で彼は生物進化論についての着想をしたようです。

スケールの違いはありますが、
榎本武揚(たけあき)は
幕末の1862年(文久2年)に27歳でオランダに留学し、
5年後の1867年(慶応3年)、
32歳で帰国しましたが、
留学先のオランダでコーヒーを飲んで
コーヒー栽培に興味を持ったのだと思います。

林床地の雨水槽091019.JPG
 台風18号台風の接近以降、
 沖縄本島でも時々雨が降るようになり、
 先週の16日(金曜)には
 国頭(くにがみ)で61.5mmの降雨があり、
 コーヒー山でも雨水槽が7〜8割まで
 雨水が溜まりひと安心です。



豊臣秀吉や徳川家康は
キリスト教宣教師の領土的野心と
教徒の団結を警戒していたのですが、
ポルトガルやスペインが貿易の条件として
キリスト教の布教を求めていたのに対して
オランダとイギリスは布教を求めないことから
大阪冬の陣の前年の1613年に
第2代将軍徳川秀忠が禁教令を発令してキリスト教を禁止し
平戸(ひらど)藩平戸にオランダとイギリスが商館を建て
ポルトガルやスペインとの国交を断絶していたのですが、
平戸の商館(後に出島に移る)内では
当然コーヒーも出されていたでしょうし、
役人や商人、遊女の出島の出入りは認められていましたから
その中ではコーヒーを飲んだ人もいたことでしょうし、
幕府は日本人の海外渡航を禁じていたものの
幕府公認の海外交易船の朱印船が東南アジアに出向き、
シャム(現タイ)で活躍した山田長政を始めとして
実際には朱印船の渡航先であるベトナムやタイ、
カンボジア、フィリピン、台湾などで
長期滞在した日本人が多くいたり、
またオランダ領東インド(現インドネシア)で
雇用された日本人もいて
ジャワではコーヒーやサトウキビ、タバコなどが
強制栽培されていましたから
こういう情報も出島から入ってきていたのでしょう。

林床地091019-1.JPG
 先週金曜の大雨のおかげで、
 コーヒー山の森林もすっかりすがすがしさを取り戻し、
 木々が活き活きとしてきました。
 19日(月曜)の林床地の地面にも充分な潤いがあり、
 コーヒーは予想以上に元気に成育しています。

 
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが
強硬な態度で幕府に開国を迫ったことで
幕府は日米和親(わしん)条約を結んで開国することになり、
その4年後の1858年には日米修好通商条約が結ばれて
神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港場に
外国人居留地を開設することや
外国人の治外法権を認めたのですが、
翌年から始まった貿易では、主にイギリスに生糸と茶を輸出し、
繊維製品や武器を輸入していましたが、
貿易が始まったことで輸出品が国内で品薄になり、
それに連動して諸物価も上がり、庶民生活が圧迫されて、
貿易に対する反感から、
外国人を排斥する攘夷(じょうい)運動が高まり
激動の幕末に突入してゆくのですが、
ペリー提督が4席の黒船で最初に浦賀に来航した1853年に
当時18歳の榎本武揚はジョン万次郎の私塾で英語を学び、
1862年、幕府は先進国の軍事技術・学問修得のために
長崎海軍伝習所の卒業生の中から優秀な者5人を選抜し
さらに法律や医学の4名、
大工、鋳物師、鍛冶職、水夫等の技術職人6人を加えた15人を、
当初はアメリカに派遣留学させる予定が
南北戦争勃発の影響で
留学先が急にオランダに変更されるのですが、
当時27歳の榎本武揚は
船具、運用、砲術、機関学を学ぶために
このメンバーに抜擢されているのです。

林床地091019-2.JPG
 林床地の落ち葉の心地よいクッションを感じながら歩くと、
 オオシマゼミやクロイワツクツクの秋のセミの声や、
 ホントウアカヒゲやリュウキュウアカショウビンなどの
 野鳥の声、カエルたちの声がやさしく響き、
 また時おり不思議な静寂さもあり、
 すがすがしい木や大地の香りを胸いっぱいに吸い込むと、
 元気が湧き出してくるのです。



幕府の第1回留学生の渡航の1ヶ月前には
生麦事件がありました。
1858年の日米修好通商条約や
イギリス、フランス、オランダ、ロシアと修好条約も結び
横浜港は1859年に開港し、
「山下居留地は1863年に完成した」
といわれていますから
まだ幕府が日本風の造りで造成中の1862年にも
米国や英国、フランス、オランダ、ロシアから
貿易や観光目的で居留地に住む外国人がいて、
その人口も急増して、
やがて1865年に日本で最初のコーヒーハウスが
横浜居留地に開店することになるのですが、
その1862年には薩摩藩主の父・島津久光
(篤姫の養父・島津斉彬の弟)が
文久の改革提案要請のために
800人の大行列で江戸に出向いた帰りに、
東海道の生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)で
島津久光の大行列に横浜居留地の英国人4人が
乗馬のまま大行列に逆流して、
久光の乗る駕籠(かご)のすぐ近くまで迫ったことで
供回りの藩主たちが抜刀して騎乗の英国人に切りかかり
3人の死傷者が出た事件が生麦事件なのですが
この事件の賠償責任問題から
翌年には薩英戦争に発展し、
その後薩摩藩が攘夷が不可能であることを理解し
英国は幕府支持から薩摩藩支持に変更して
相互に理解を深めることになるのです。

キノボリトカゲ091013.JPG
 台風18号台風通過後の沖縄は、
 すっかり秋の気配に包まれてきました。
 コーヒー山でもきのこやドングリが
 目に付くようになっています。
 小さな恐竜のようなキノボリトカゲは
 1日に何度も出会いますが、
 画像の彼は北山のリュウキュウマツの切り株で
 私を注視していました。


幕臣の榎本武揚は
国家公務員1種に採用されたようなキャリア・エリートで
18歳の頃に江川太郎左衛門の塾でオランダ語、
ジョン万次郎から英語も学び
長崎海軍伝習所では勝海舟と共に
オランダ人教師によって
西洋技術・航海術・蘭学・化学などを学び、
伝習所に隣接する出島で
交易しているオランダ船から
最新の世界情勢なども聞いていたはずで
榎本武揚はオランダ留学前から
コーヒー栽培に思い入れがあったことは間違いなさそうです。

榎本武揚は、オランダ留学中に
単に国際法や軍事知識、造船・船舶に関する
知識習得だけに留まらず
プロイセン王国とオーストリア帝国との
戦争(普墺戦争)も体験し
「国はどうあるべきなのか」
を憂慮しながら、
留学5年後の1867年(慶応3年)4月に
幕府がオランダに発注して完成直後の
軍艦・開陽丸で帰国し(当時32歳)、
幕府軍艦組頭取(艦長)に任命されて
大阪湾を警護することになるのですが、
同年10月には、
15代将軍徳川慶喜は起死回生の策として
朝廷に対し恭順の意を表し、
新しく成立するであろう新政府において重要な地位に立って、
大名連合政権の上に立とうとする考えで
幕府の政権を朝廷に返上する表明(大政奉還)を実行し
徳川の政治的生き残りを図るのですが、
11月には京都・近江屋で
坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺され、
12月には薩長の倒幕派が太政官制度を復活させ、
天皇を中心とした新政府を樹立し、
徳川から朝廷への政権交代を宣言するに至り
その後、徳川を盟主とする旧幕府勢力と
薩長を主体とする新政府が対立して、
鳥羽・伏見の戦いを機に戊辰(ぼしん)戦争が勃発、
新政府に敗れ去った慶喜は、
江戸城無血開城を経て降伏するのですが、
慶喜降伏後も一部の旧幕府勢力が東北などで抵抗し、
幕臣を従えた榎本武揚を総裁とした五稜郭の
箱館戦争を最後に新政府が勝利し、
戊辰戦争は終結してこうして明治維新が始まり、
日本も本格的に近代化の時代を向かえることになるのですが、
降伏して投獄された榎本武揚は
才能を高く評価されて1872年(明治5年)
勝海舟とともに新政府に登用され、
1879年(明治12年)に外務大臣に就任し、
同年、小笠原でコーヒー栽培を始めています。

与那の売り物件0909.JPG
 58号線の与那トンネルを出て右側が与那集落ですが、
 珍しく売り物件が出ていました。
 先祖崇拝の沖縄では
 仏壇がとても重要な意味がありますから、
 一軒家を貸すとか売るとかはなかなか少ないのですが、
 近年「売り家」看板を
 あちこちで見かけるようになりましたね。

 

オランダ東インド会社の
コーヒー農園(インドネシアのジャワ)では
日本人労働者もいましたし、
オランダとは江戸時代から国交があり、
また榎本武揚自身も留学していた関係で、
ジャワからコーヒー苗木を
小笠原に運んだものと思われます。

小笠原ではコーヒー苗木は順調に生育し、
数年後には収穫出来たらしいのですが、
当時はコーヒーよりもサトウキビの方が収益性が高く、
またサトウキビは植え付け後の管理はなく、
収穫も人手さえあれば特別な加工もなく
単純作業で済みますから、
小笠原ではコーヒー栽培農家は自然消滅したようです。
その後、明治時代後半に
「沖縄でコーヒー栽培をしたが台風で全滅し、
        台湾で栽培することになった」

といわれているのですが、
具体的に何の文献に、
どう記載されているのかが不明なので、
これはいずれ私が沖縄県公文書館で
直接調べたいと思っていますが、
日本ルートでは、
小笠原〜沖縄の後に「台湾」でコーヒー栽培が始まりました。
“日本ルート”とは別に、
「中国(当時は清)ルート」
でもコーヒー栽培が導入されているようで、
どちらが先なのかはよく判りません。

次回はいよいよ最終回です。
自宅の引越し準備やリフォームなどが重なり、
またパソコンの調子が悪い時があって、
ブログに書きたい材料は豊富にあるのですが、
なかなか更新出来ないでいます。
コーヒー山での作業は順調に進んでいますし、
コーヒーやバニラなどの生育も予想以上に元気で
“適地”だと確信しています。


オオヒキガエル091013.JPG
 林床地内の雨水貯水槽の中に
 ヒキガエル科の最大種「オオヒキガエル」のつがいが
 入っているのを見つけました。
 体長は約15cmはある大型のカエルで、
 サバンナや熱帯雨林に棲息していて
 沖縄にはもともといないカエルでしたが、
 約30年前にサトウキビ畑の害虫駆除の目的で、
 南米から石垣島にテスト導入され、
 以降爆発的に繁殖して、
 近年では石垣島で「捕獲作戦」も何度も行われているのに、
 今や島の人口より多くなっているようです。
 2005年には外来生物法により特定外来生物に指定されて、
 すっかりvillainになりましたが、
 これがコーヒー山にいたとは…。
 オオヒキガエルは大型で
 有毒種のために天敵もいないようで、
 多くの小昆虫が食べられたり、
 間違ってオオヒキガエルを食べた動物が毒で死んだり、
 やんばるの生態系に悪影響を及ぼすのは
 マングースや捨て猫、捨て犬、
 人間だけではないようですね。
 この水槽には卵が数万個も
 産みつけられているはずですから、
 貴重な雨水ですが、次回捨てないといけませんね。


posted by COFFEE CHERRY at 18:34| 沖縄 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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