2010年08月04日

沖縄に向くコーヒーの品種を再考するB

沖縄で戦後コーヒー栽培に取り組んだ故・和宇慶朝伝先生の圃場は、
ご自宅の庭約500坪で、周囲を黒木などの防風林で囲っていましたが、
十数年前の台風で壊滅的な打撃を受けてからは、
またこの頃から体調を崩されたこともあって、
コーヒー栽培の教授はして頂けるものの、
ご自身で栽培をされることはありませんでした。

ここ数年の沖縄本島は不思議と台風が来ないのですが、
以前は「台風の通り道」として、
フィリピン沖から北上した熱帯低気圧が台風となって、
台湾付近から琉球弧に沿って台風が北東に向かっていましたから、
和宇慶先生や山城先生からは、くどいように
「台風対策=防風林」の必要性を強調され
「防風対策を怠った人はみんな失敗して止めた」
と聞いていました。

沖縄に台風が上陸すると、
鉢や瓦、道路工事の看板などが吹き飛び、
ビニールハウスはアルミパイプが潰されてしまうので、
農家では台風前に、ハウス内の農作物は天に任せて、
ビニールを取り外してしまうくらい、
風雨が叩きつけるように猛威をふるうので、
主幹が細く強風に弱いコーヒーは
防風対策とセットで考えないといけないのです。

東側から見たコーヒー山.JPG
 東側から見たコーヒー山の様子。
 ひょっこりひょうたん島のようです。


標高300m級のやんばる中央あたりで南北に長いコーヒー山では、
樹高15〜20mの松やスダジイなどが堅固な防風林となっていますので、
大型台風がやってきても一部は被災しても、
全滅は避けられるはずですが、
出来る限り圃場をあちこちに分散させる
リスク分散的な考え方も取り入れています。

恩納村の山城先生の圃場は、
恩納村のムーンビーチ近くの丘にあり、
約3千坪のやや斜地に、
ハイビスカスとホンコンカボックの高さ2.5mの防風林を
7mおきに整然と並列に並べ、
その間に、コーヒーを2列で植えていく方式を取られていて、
山城先生の想いを込めた集大成ともいうべき壮観な農園でしたが、
近年
「コーヒーの木の一部が枯れ出して、どうも原因不明らしい」
という話を聞き、
最近では
「農園を売られたらしい」
という噂も耳にしました。
山城先生のコーヒーは樹齢20年程度と思います。

山城コーヒー農園2002−2.jpg
 8年前に山城コーヒー農園で撮影した画像です。
 左の見事な防風林はホンコンカボックです。
 防風林は高さ2.5m、幅70〜80cmもあり、
 コーヒーの樹高約2mを堅固していて、
 実際に台風の被災も一部だけで、
 当時は山城方式を理想に考えていました。


コーヒーが枯れる理由としては、
 ・台風などで倒壊した
 ・日照りなどの水不足
 ・除草剤(人為的)
 ・水の与えすぎや排水不良
 ・根腐れ
 ・カミキリムシが主幹に入りこむ
 ・サビ病などの菌やウィルス性の病気

など、いろいろ考えられます。

人為的なものを除けば、
一般論ですが
木が元気に育つには、
「根から吸い上げる水分量と葉から蒸散する水分量のバランス」
が重要で、
このバランスが崩れると木は枯れてしまうのですが、
山城先生の農園では、
プールのような入口の貯水池に10トン以上の雨水があり、
これをポンプで水道やスプリンクラー用に使用していましたから
水が原因とは考えられません。

となると、
“寿命”という仮説を考えた場合、
和宇慶先生はブルボン種、
山城先生はブルボン種を改良したムンド・ノーボ種と
ブルボン種の突然変異種のアマレロ種という3品種は、
いずれも
「地球の反対側のブラジルから持ってきたタネや苗木」
で、
それが数十年程度では沖縄に充分馴染めていないとするなら、
「もっと沖縄に近い諸国、
 あるいは気候条件が似ている島の品種の方が
 沖縄での栽培には向いている」

という可能性も否定出来ないと思います。

「いや、沖縄ではコーヒー栽培はムリさ」
というのは、
すでに沖縄では実際にコーヒーが開花し、収穫も出来ているので
ムリではなく、
「沖縄に向いた品種は何なのか?」
という考え方が重要だと思うのです。

山城コーヒー農園2002−1.jpg
 これも8年前の山城コーヒー農園の様子です。
 行くたびに感嘆していましたが、
 また行くたびに疑問が出てきたのも事実です。


沖縄のコーヒー栽培の現状は
「何となく植えて、実が取れればいいさ」
といったてーげー的感覚で、
「ジューサーでパーチメントや銀皮をむき、深鍋で焙煎できる」
とか
「収量が少なければ海外産を足してごまかせばいい」
とか、品質には無頓着な
“ただ沖縄で生産したというだけのコーヒー”
という、
いわば“お土産コーヒー”の低レベルが
残念ながら伝統なのですが、
沖縄の土壌や気象といった栽培条件に則して
植物学や生態学的な見方を研究し
コーヒーの“匠”の方々の協力を仰ぎながら
 ・品種ごとの樹齢と収量の関係
 ・品種ごとの単位面積あたりの収量
 ・品種ごとの病虫害、塩害、風水害
 ・品種ごとの欠点豆の発生比率

などを今後検証して
高品質化を目指してゆきたいと考えています。

コーヒー山で発芽したハワイ島のモッカ種は
緑みどりして、明らかに元気ですし、
沖縄本島南部でモッカ種の栽培地でも
成木の元気さ、苗木を植えてからの発育や
実が取れるまでの早さも見ていましたので、
現段階では、単純な目視ですが
沖縄に合いそうなのはモッカ種が筆頭なのかな、
とも思っています。
フィリピンや台湾、インドなどでの栽培品種も気になり
いつか現地に行ってみたいと考えています。

台所で発見したアカマタ.JPG
 昨日の朝、自宅台所に入り込んでいたアカマタというヘビです。
 体長約80cmの子供ヘビでしたが、
 大人になると1.8〜2.0mに成長し、毒はないもののどう猛な性格なので
 可哀想ですが殺処分にせざるを得ませんでした。
 納戸には大きな抜け殻もあったし、
 荷物の隙間に入り込む尻尾部分も見ましたから、
 まだ家族が居るようです。
 自宅周辺にはネズミやカエルがたくさん居るので、
 食物連鎖でヘビが寄ってくるのですね。


なお、故・和宇慶先生から
「戦後すぐにぶらじる丸で
 コーヒーのタネと苗木を着物の裾に隠して持ってきた」
と伺っていましたが、
ぶらじる丸は帝国海軍に徴用されて
日本で空母に改装されるために本土に回航中、
1942年(昭和17年)8月西太平洋のトラック島北方で
米国潜水艦に撃沈されていて、
日本が国として主権を回復した1952年(昭和27年)から南米移住が再開され、
1954年(昭和29年)7月にぶらじる丸2世が
神戸の三菱重工造船所で竣工され、
戦後の大型移民船として活躍したようですから、
和宇慶先生が戦後ぶらじる丸でブラジルから帰られたのは
1954年以降であり、私の聞き間違いなのかもしれません。

また、ぶらじる丸などの南米航路は、
日本からホノルル、サンフランシスコ、
ロスアンジェルス、パナマ運河、カリブ海を経て
リオデジャネイロ、ブエノスアイレスなど
南米諸港まで約1カ月余りの航海で、
大学新卒の月給が約2万円の1959年(昭和34年)当時の船賃は、
南米への移住者が乗る3等船客でも10万円もしたそうです。
(移住者の渡航費用は当然ですが全額国が負担)
posted by COFFEE CHERRY at 19:28| 沖縄 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月02日

沖縄に向くコーヒーの品種を再考するA

吉永小百合さん主演の
「キューポラのある街」
という映画は、
埼玉県川口市の鋳物工場地帯の
貧困や差別、北朝鮮帰国事業などを描いていました。

北朝鮮帰国事業では
「地上の楽園」
をうたい文句にして1959年から1984年まで、
在日朝鮮人を主体に延べ10万人近くの人たちが北朝鮮へ渡り、
現地では思想統制集会で集中攻撃されたり、
過酷な労働を強いられたり、
囚人や奴隷と変わらない辛酸な生活を強いられたのですが、
悲惨な移民政策はこの事業だけではありませんでした。

明治元年(慶応4年)は、
その前年に坂本竜馬が近江屋で暗殺されていて、
年初の旧幕府軍と新政府軍による鳥羽伏見の戦いを皮切りに
戊辰戦争が始まった革命の年が明治元年ですが、
同年4月には江戸城が無血開城されてもなお
江戸上野では彰義隊が死闘を展開し、
新撰組の近藤勇が板橋で斬首されるその前日に
横浜から「元年者」と呼ばれる
最初の移民団(約150名)がハワイに出航しているのです。
以降、移民団はハワイやオーストラリア、
ニューカレドニアなどへ渡り、
1908年(明治41年)4月28日には
ブラジルのコーヒー農園での就労を目的とする移民団が出航し
明治元年から日米開戦までの70年余りで
推定100万人が移住したといわれていますが
満州などの植民移住は除いた数字ですから、
実際には数百万人が海外移住していたものと思われます。

太平洋戦争の敗戦で、
日本は朝鮮半島、台湾、北マリアナ諸島、
千島列島、樺太など領土の46%を失い、
満州や東南アジアなど外地から
復員軍人を始め約600万人が焦土と化した祖国に引き上げてきて
人口が急増し失業者が溢れたことで
吉田茂〜池田勇人首相が打ち出したのが移民政策なのです。

1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ平和条約で
日本が日本国としての主権を回復するのですが、
戦後GHQ支配下の米価はヤミ米が流通する関係で高騰し続けていて
1950年(昭和25年)12月の衆議院予算委員会の質疑で
第3次吉田茂内閣の大蔵大臣・池田勇人が
「所得に応じて、所得の少ない人は麦を多く食う、
所得の多い人は米を食うというような、
経済の原則に沿った方へ持って行きたいというのが、
私の念願であります」と言った
「貧乏人は麦を食え」発言が象徴しているように
人口急増で食糧不足、さらに冷害も追い打ちをかけていて
「人口削減政策=移民政策」
は、国に好都合で手っ取り早い施策だったのでしょう。

1952年(昭和27年)から1974年(昭和49年)までの移民数は
外務省の資料では6万3,666人に上りますが、
「夢の楽園」
を信じて、
南米(ブラジル、ボリビア、パラグアイ、ドミニカなど)を中心に
渡っていて、
当時の沖縄でも、農業高校では
移民対策を目的にしたスペイン語や
ポルトガル語の授業が行われていて
当時は移民という選択肢が身近にあったことを聞いています。

ボリビアやドミニカなどでは
「開墾後は広大な農地を無償譲渡」
という約束がデタラメで、
国は“棄民”政策を批判されてもしょうがない立場にありますが、
多くの移民たちは想像以上の努力の末に
現地に定住しているのですから
コーヒーに関わってきた移民の方々の想いや歴史を考えると
「されどコーヒー」
という思いを大切にすることが必然的に湧いてくるのです。

林床地のコーヒー苗木
 コーヒー山の林床地内の画像です。
 引っ越し後、コーヒー山までは
 片道25分で来られるようになりました。
 これは午前10時半くらいに撮影しました。
 林床地内のコーヒーの木は樹高が伸び、葉も大きく
 一様に元気に生育しています。


また「琉球」の大交易時代ではアジアのハブ港であって
中国と友好的な関係を保ち、
西欧〜インド〜東南アジア〜中国〜琉球〜種子島〜九州という
海上交易ルートが確立されていたことも
コーヒーを始めとした熱帯果樹が入って来ているルートと
想定できるのですが、
1854年2月13日、ペリー提督が2度目の浦賀来航する10日前に
香港から琉球を訪問していて、
この時に琉球内の農業や地質、植物などの調査をしていて、
米国帰国後に
「大琉球踏査の報告」
をしているのですが、
この中の約120の植物にはコーヒーがないことから
「幕末の琉球王国時代まではコーヒーの自生や栽培はなかった」
「沖縄におけるコーヒー栽培は明治時代以降」

と捉えるのが自然だと思います。

ただ、琉球王朝の桃原(とうばる)農園という
呉我山(ごがやま・今帰仁村)の植物園では
戦後、北部農業高校生徒の見学時に
「コーヒーノキを見たような気がする」
と言う人もいて、
沖縄のコーヒーのルーツ探しは
なかなか難しく、また楽しいのです。


次回に続く
posted by COFFEE CHERRY at 16:56| 沖縄 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月01日

沖縄に向くコーヒーの品種を再考する@

沖縄で栽培されているコーヒーの品種は、
昨年104歳で亡くなられた和宇慶朝伝先生が
ブラジルに移住していた親族から
戦後ブルボン種のタネと苗木を沖縄に持ち込んで
約200人に行ったコーヒー(栽培)教室を経由して広まった、
というルートのブルボン種と、
そのコーヒー教室で習った方々が次々に失敗して行く中で、
ただ一人残った恩納村の山城武徳先生が
最初は和宇慶先生から譲渡されたブルボン種を植えていたものの
「収穫が少ない」
ことから、山城先生の親戚が
やはりブラジルでコーヒー農園を経営している関係で
ムンド・ノーボ種とアマレロ種のタネを送ってもらい、
それを発芽させて生育させて自身の農園と
コーヒー苗木が欲しい方々に譲渡したというルートの
ムンド・ノーボ種とアマレロ種の3品種が主流になっていて、
私も和宇慶先生と山城先生から
それぞれ譲渡していただいたので、
上記の3品種はすでにコーヒー山に植えてあります。

なお、山城先生は、
 ・ニューワールド1号
 ・ニューワールド2号

というユニークな言い方を沖縄で命名し、
それが沖縄で広まっているのですが、
コーヒーのどんな文献を探しても
「ニューワールド」という品種名は出てきませんから
「ニューワールド(New World)」
は、
ブラジルの母国語であるポルトガル語の
“Um mundo novo(新世界)”
を指していて、
「2号は実が黄色い」
ことから
・ニューワールド1号=ムンド・ノーボ種
・ニューワールド2号=アマレロ種
だと私は確信しています。

また、ハワイ島のコナ地区で栽培されている品種の中に
「モッカ種」という品種があり、
これを栽培している方が沖縄本島南部にいるのを知りました。
その方からモッカ種の苗木やタネを大量に譲渡していただき、
すでにコーヒー山では植え付けの準備に入っていますが、
コーヒー山では、昨秋
台湾コーヒー(品種不明)のタネも植えてあります。

国頭村では、品種は判りませんが
極小粒のコーヒー豆を栽培している農家もあり、
沖縄県内のコーヒー栽培の全容解明は
なかなか難しいところがあるのです。


次回に続く
posted by COFFEE CHERRY at 20:24| 沖縄 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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