2011年04月24日

フィリピン産カカオのタネ植えが終わりました

前回の中米・ベリーズからのカカオフルーツが届く前(3月中旬)に
フィリピンの知人から、フィリピン産カカオのタネ391個が届き、
このタネ植えも昨日までに完了しました。

フィリピンのカカオ10個1103.jpg
 フィリピンの知人宅で撮影して頂いたカカオフルーツ10個です。
 ベリーズ産カカオと比較すると、フルーツはかなり似ていますね。
 カカオ同士だから当然なのかな?
 知人宅でタネを取りだして頂き、タネだけを送って頂いたのです。


フィリピンの知人には、
画像の通り10個のカカオフルーツのタネをお願いしたところ、
特に美味しかったというマンゴーのタネ5個と、
リベリカ種バラコの焙煎豆500gをご好意で同封して頂けました。 

フィリピン産カカオなど1103.JPG
 フィリピンから届いた荷物を開封すると、
 カカオのタネ391個と、マンゴーのタネ5個、
 リベリカ種バラコの焙煎豆500gが入っていました。


ベリーズ産のカカオフルーツには平均45個のタネが入っていましたが、
フィリピン産は、10個分が391個だとすると、
フィリピン産は1フルーツで平均40個弱になり、
また、タネの大きさもベリーズ産の方がひと回り大きいことから、
カカオフルーツ同士の比較は出来ていませんが、
どうやらフィリピン産の方がフルーツは小さいようです。

また、ベリーズ産のカカオフルーツから取り出したタネの香りは、
クチナシの花の香りとそっくりなのです。
「この香りは何だっかな、どこかでかいだ香りだけどな…」
と思っていたのですが、やっと思いだしました!

カカオのタネ1103.JPG
 フィリピン産カカオのタネは、
 乾燥してアーモンド状になっていますが、
 これはタネの表面の繊維層がそのまま付いているからです。


また、タネの表面の繊維層を、
1日水に漬けてフヤけさせてからむいてみると、
 ・ベリーズ産は真っ黒のツヤツヤ
 ・フィリピン産はツヤ消しの、ますますアーモンド状

でしたから、
ベリーズ産とフィリピン産は品種が違うのだと思います。

大航海時代にヴァスコ・ダ・ガマが
アフリカ南端の喜望峰ルート(東周り)でインド洋航路を発見し、
スペインのマゼランは
南米南端のマゼラン海峡ルート(西周り)でフィリピンに到達し
世界一周を果たしています。
カカオ原産地の中米から、カカオは南米からアフリカに渡り、
その後インドや東南アジアなどに移入されていますから、
ヴァスコ・ダ・ガマの東周りルートでフィリピンに到達した、
フォラステロ種(Foraster)の可能性が高いと思います。
いずれ現地に行って、フルーツを見てみたいです。

フィリピン産カカオのプランタータネ植え110423.JPG
 100円SHOPで買ったプランター7個などに
 フィリピン産カカオのタネ植えを行いました。
 カカオのタネ植えは初めてなので、
 自宅の庭に置いて、毎日様子を見ることにしていますが
 はたして無事に発芽するでしょうか?
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2011年04月22日

台湾のコーヒー事情U(2011-4)日本統治時代の興味ある資料を発見@

現在の台北市の総統府の建物は、
日本統治時代に台湾を統治するために設置した
台湾総督府本庁舎をそのまま継続して使っています。

明治時代の建物は、国内では
栃木県の山縣有朋記念館や
京都の竜谷大学本館といった洋風木造建築や
日光田母沢御用邸や箱根の富士屋ホテルなどの和風木造建築なども
“明治浪漫”の情緒や風情が感じられて良いのですが、
私は個人的には、
レンガ造りで建てられた威厳と風格を備えた重厚な建物が
西洋の列強に追いつこうと西洋化を推し進めるための文明開化としての
「明治時代らしい建物」
と思っています。

ネオ・バロック洋式による
 ・厳格な左右対称
 ・角型ドーム
 ・マンサード屋根
 ・付け柱

などが特長的で
帝国主義的な威厳に満ち溢れていて
現在でも、
 ・北海道庁旧本庁舎
 ・旧富岡製糸場
 ・東京駅丸の内口駅舎
 ・東京都中央区の日銀本店
 ・三井本館
 ・赤坂離宮
 ・横浜開港記念会館
 ・横浜赤レンガ倉庫
 ・舞鶴赤レンガ倉庫群
 ・旧第一銀行京都支店(みずほ銀行)
 ・京都ダマシンカンパニー
 ・元日本銀行京都支店(現・京都府京都文化博物館)
 ・同志社大学
 ・大阪市の泉布観(せんぶかん)
 ・神戸文学館
 ・福岡市文学館(旧日本生命九州支店)
 ・旧福岡県公会堂貴賓館

など、
関東大震災や戦災をくぐりぬけている建物もあります。
そういった歴史ある建造物に入ると
時空を超えてタイムスリップしたような感じになり
当時この廊下を歩いていた人や世相や文学、音楽などを
想像したりするのが私は好きです。


「台湾総督府」
という京都大学農学部図書館編集のPDFファイル(全44ページ)には、

日本統治時代に、
主に台湾に関係する調査・研究資料が
“台湾関係雑誌目録”
というタイトルで記載されていて、
大ざっぱに目を通した範囲では、
コーヒーやバナナなどに関する興味深い資料もありました。

19ページには以下の3冊
・「珈琲 」 桜井芳次郎著 台湾総督府殖産局
  東部台湾開発研究資料1輯 昭和4年 162p 台湾-I-1


・「珈琲及珈琲樹害虫調査報告(1) 」 三輪勇四郎著
  昭和11年 33p 台湾総督府中央研究所農業部彙報126号


・「珈琲園経営方式と珈琲「コロノ」段階論」 根岸勉治著
  台湾農事報 8巻4号別刷 昭和12年 45p 台湾-X-56


35ページには、
・「台湾に於ける芎蕉(バナナ) 」 芳賀鍬五郎著
  台湾総督府殖産局 162p 大正5年 台湾-I-66


・「台湾に於ける茶樹栽培法」  井上房邦著
 台湾総督府殖産局 昭和12年 426p 台湾-I-58


36ページには
・「台湾のバナナ産業」  台湾総督府殖産局編
  昭和10年 74p 台湾-I-82


41ページには
・「台湾在来の「甕に依るバナナ追熟法」に関する研究 」
  台湾総督府中央研究所農業部編 大正15年 74p
  台湾総督府中央研究所農業部彙報40号


PDFファイルの1ページ目には「分類コード」が書かれていて
・I 殖産局(=農林水産担当局)
・X その他
となっています。
いつかお金と時間に余裕があれば、
これらの興味深い資料を調べてみたいと思います。

riu110422.JPG
 我が家の家族のRIUです。
 ラブラドールレトリーバーの8歳(牡)です。
 家族なので室内で寝起きを共にしています。
 首をこの角度で曲げているのは
 「なに?どうしたの?」といっているのですが、
 本当に解からない場面では首を90度に曲げます。
 引越し前から股関節形成不全症で歩行できなくなりましたが
 9カ月経って、2週間前から奇跡的に歩けるようになりました。
 そのためコーヒー山デビューまではもう少しです。
posted by COFFEE CHERRY at 19:35| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月20日

台湾のコーヒー事情U(2011-3)伊藤博文とコーヒー

「1910年(明治43年)に台湾総督府が台湾でコーヒー栽培を始めた」
ということを調べると、
どうも伊藤博文が気になってきます。

明治維新後、函館の五稜郭で旧幕府軍を率いて新政府に敗北した榎本武揚は、
投獄2年半後に明治新政府高官の黒田清隆や大久保利通らの尽力で釈放され、
以降明治政府を支える重鎮として初代逓信大臣を務め、
その後文部大臣・外務大臣・農商務大臣を歴任し、
日清戦争で日本が勝利し台湾を領有した2年後、
榎本が62歳の1897年(明治30年)に、
「榎本殖民団」というコーヒー栽培を目的とした約30人の移民団を
メキシコ南部のチアパス州エスクイントゥラに入植させるのですが、
・日本の環境とまるで違う猛暑での生活
・コーヒー栽培の未経験でコーヒーの植物特製などが判らない
・移民後の支援が皆無で移民団は孤立してたちまち資金難に

などの悪条件が重なって、
コーヒー農園での成功を夢見た殖民地構想も
早々と3ヶ月で実質崩壊してしまうのですが、
台湾総督府が台湾でコーヒー栽培を始める1910年(明治43年)までには
東京や大阪には以下のようにカフェが続々と開店し、
「一般大衆にもコーヒーが浸透しつつあった」
ことも台湾でのコーヒー栽培に至った理由と思われます。

・1884年(明治17年)伊藤博文の2番目の妻・梅子が中心となって行われた
 鹿鳴館婦人慈善会バザーで
 「コーヒー、茶、レモナード」などを売る臨時店舗が2カ所作られた
・1888年(明治21年)「可否茶館」 東京府下谷区上野
・1890年(明治23年)「ダイヤモンド珈琲店」 東京市浅草区浅草公園
・1893年(明治26年)「風月堂喫茶店」 東京市麻布区
・1896年(明治29年)「木村屋(現・木村屋総本店)」東京市京橋区銀座煉瓦街
・1905年(明治38年)「台湾喫茶店・ウーロン亭」 東京市京橋区銀座8丁目
・1910年(明治43年)「メイゾン鴻の巣」 東京市日本橋区日本橋小網町
・1910年(明治43年)「キサラギ」 大阪市西区旧大阪川口居留地の近く


松園珈琲1008-1.JPG
 台湾の花蓮県、松園珈琲の看板です。
 昨年伊佐さんが視察に行った時の画像です。


一方、
西南戦争で西郷隆盛が自刃した翌年、
大久保利通が暗殺された1878年(明治11年)に
インドネシアのジャワ島からコーヒー苗が
小笠原の父島の試験場に移植され
コーヒーの栽培テストが行われています。

明治11年の明治政府は、
明治天皇を主権者として
その下に政府の総責任者である太政大臣が設置され、
それと並行して、
明治維新に功績のあった「参議」が設置されていて、
太政大臣と右大臣、左大臣、
それと参議で、後年の内閣のような役割を担っていたようです。

明治11年の布陣は
太政大臣・三条実美 元公家
その下の右大臣が岩倉具視(左大臣は空白)
その下に実務部門の
 ・大蔵卿 大隈重信 元佐賀藩士
 ・外務卿 寺島宗則 元薩摩藩士
 ・陸軍卿 山形有朋 元長州藩士
 ・海軍卿 空白
 ・司法卿 大木喬任(たかとう) 元佐賀藩士
 ・宮内卿 大徳寺実則 元公家
 ・工部卿 伊藤博文(この下に鉄道局、電信局) 元長州藩士、といっても足軽
 ・文部卿 空白

 ・内務卿 大久保利通  元薩摩藩士 
      5月14日暗殺後の後任は伊藤博文が工部卿と兼務

 ・北海道開拓使 黒田清隆 元薩摩藩士
なお、明治維新に功績のあった「参議」は
 ・大久保利通 元薩摩藩士
 ・大隈重信 元佐賀藩士
 ・大木喬任 元佐賀藩士
 ・伊藤博文 元長州藩士
 ・寺島宗則 元薩摩藩士
 ・山形有朋 元長州藩士
 ・黒田清隆 元薩摩藩士
 ・西郷従道 元薩摩藩士
 ・川村純義 元薩摩藩士
 ・山田顕義(あきよし)元・長州藩士


農業は“内務卿”の担当部署ですが、
小笠原の父島にコーヒー苗が持ち込まれた1878年(明治11年)当時の内務卿は
大久保利通か、大久保暗殺後の後任は伊藤博文ですから
彼らのどちらかが日本国内で最初のコーヒー栽培に関わっていたことになります。

伊藤博文は奥さんがありながら芸者の梅子を妊娠させてしまい、
奥さんを追い出して再婚するのですが、
その2番目の妻・梅子が中心となって
1884年(明治17年)に行われた鹿鳴館婦人慈善会バザーで
「コーヒー、茶、レモナード」などを売る臨時店舗が2カ所作られたというのですから
硬派の大久保利通と軟派な伊藤博文ではどちらかというと
伊藤博文が小笠原でのコーヒー栽培試験の決裁書に
判を押した可能性が高いと思われますが、
決裁したのが伊藤博文だとすれば、
彼はコーヒーについてどんな想いが去来していたのでしょうか。

松園珈琲1008-2.JPG
 これも台湾の花蓮県、松園珈琲の看板で
 前の画像と並んで置いてあったものらしいです。
 店長お奨めの有機コーヒーを飲んでみたいですね。
 200元というと570円くらいかな…。
 昨年伊佐さんが視察に行った時の画像です。


自由党総理の板垣退助が
岐阜県での演説終了後に刺客に襲われ
重傷を負いながら
「板垣死すとも自由は死せず」
と言った1882年(明治15年)、
小笠原にコーヒー苗木が移植された4年後のことですが、
コーヒーが開花し初めての収穫があったようですが、
小笠原でのコーヒー栽培は定着しなかったようです。

小笠原島史によると、
コーヒー導入後28年後の1906年(明治39年)には
「収益面でサトウキビに劣ることから
  コーヒー栽培をする者はなく、放置されている」

と記録されているようですが、
小笠原にジャワからコーヒー苗木が持ち込まれた頃は
幕末から明治時代を迎え、海外諸国と不平等条約を結び
価格の安い海外の砂糖(白糖)が国内に流入し、
もともと南西諸島や小笠原を始めとした一部地域を除き
サトウキビそのものの栽培に不向きな日本では
コストも高く、品質も劣る国産の白砂糖は競争力がなく、
一部西洋型の製糖工場が建設されたものの、
1900年前後には、国内の製糖業は壊滅してしまいますが
日清戦争で勝利して台湾を領有し、
前5千円札肖像画の新渡戸(にとべ)稲造の尽力で
台湾経済の中心に据え置いた製糖業が
今日の近代的製糖業の基礎を築くのですが
小笠原のコーヒーが放置された背景には、
そうした国産糖業のあおりを受けてしまったのです。

台湾アラビカ1008-1.JPG
 台湾ではアラビカ種の中の「何という品種なのか?」
 ということはあまり問題ではないらしく
 「台湾アラビカ」というだけの、かなり大まかでアバウトですが、
 このタネもコーヒー山に撒いて発芽させています。


台湾総督府が台湾でコーヒー栽培を始める1910年(明治43年)は
日本が韓国を併合して領有した年ですが、
その前年、伊藤博文が中国吉林省哈爾濱(ハルビン)駅で
韓国の独立運動家・安重根(あんじゅうこん)に暗殺されてしまいます。

伊藤博文は日本の偉人ですが、
安重根は韓国の英雄です。
1984年までの日本の紙幣の肖像画は
 ・板垣退助
 ・岩倉具視
 ・伊藤博文

など、
幕末から明治時代の革新的な戦った偉人でしたが、
1984年の紙幣改定では、
 ・夏目漱石
 ・新渡戸稲造
 ・福沢諭吉

といった、同じ明治時代でも軍人や政治家は一掃されて、
ソフトな文学者や農学者などになりました。
これは1981年に五輪開催都市がソウルに決定し
1988年にソウル五輪が開催されたことと無関係ではなさそうですね。

大久保利通が暗殺された1878年(明治11年)に
インドネシアのジャワ島からコーヒー苗が
小笠原の父島の試験場に移植されコーヒーの栽培テストが行われましたが、
それをおそらく決裁したのが伊藤博文で
その伊藤博文が暗殺された翌年の1910年(明治43年)に
台湾でコーヒーが栽培されたというのも、
因縁めいているように思えてなりません。

台湾アラビカ1008-2.JPG
 現在沖縄県内で栽培されているコーヒーの品種は
 ブラジル産のものがほとんどですが、
 私は「ハワイやフィリピン、台湾、インドで栽培されている品種の方が
 沖縄の気候環境や土壌に向いている」と考えるようになり、
 近隣諸国からコーヒーのタネを取り寄せてタネ植えを始めています。
 ブラジル産は、断定出来ませんが、沖縄ではどうも生育期間が短いようで
 15年を過ぎると枯れ出す傾向にあるような感じがしています。
 そのため当初は出来る限り多くの品種を栽培しますが
 生育状況を見ながら、将来的に栽培品種を換えていくことも考慮しています。

posted by COFFEE CHERRY at 23:43| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月19日

カカオの品種について

日曜夜から今朝まで、約1週間ぶりの降雨があり、
乾燥しきった地面は久々に潤い、植物も活気を取り戻しました。
水たまりが貴重に見えるほどです。

ミミズ110418.JPG
 コーヒー山でも5cm程度の雨量はあったようで、
 カサカサで乾燥しきっていた森林内は
 しっとりとした湿潤環境に変ぼうして
 植物が生き生きしていました。
 表土にはミミズの団粒土があちこちにあり、
 地面の中にトンネルを迷路のように
 掘ってくれているようです。


タネ植えに最適な満月直前の先週15日(金曜)に
ベリーズ産カカオのタネ植えを行いましたが、
コーヒーにアラビカ種やロブスタ種、リベリカ種などの品種があるように
カカオにも以下の3〜4品種があるようです。

@クリオロ種(Criollo)
 古代に栽培されていた原生種カカオは“クリオロ種”で、
 主にメソアメリカ文明の栄えた地域
( メキシコ、グァテマラ、ホンジュラス、ベリーズ、エル・サルバドルなど)
 で栽培され、
 「もともと土着していた植物」という意味から、
 スペイン語の「その土地産まれ」つまり「中南米産まれ」という意味で、
 本国産まれのスペイン人に対して、
 植民地産まれのスペイン人のことを意味しているらしく、
 以下のAフォラステロ(Foraster)については
 「よそ者」を意味する言葉なのだそうです。
 アステカ帝国のモクテソマ王が飲んでいたという
 本家門元のカカオだということもあって
 「The prince of cocoas」とも呼ばれているようです。
 他の品種よりやや苦いものの香りが良いことで、
 ブラック系チョコレートには無くてはならないブレンド豆として
 ヨーロッパの伝統的なチョコレートでは重宝されてきたものの、
 生産量が減少傾向で幻のカカオになりつつあるようです。
 群を抜いてマイルドで上品な味わいのために、
 「コーヒーでいえばアラビカ種」と例えられている最良品種です。

Aフォラステロ種(Foraster)
 上記@クリオロ種に比べて、病害虫に強く生産性が高いことで、
 現在のカカオ産業の最も重要な品種
 (世界のカカオ収穫高の約80%)のようです。
 苦みが強いのが特長で、クリオロ種よりも脂肪分、抗酸化物質とも
 多く含まれているようです。
 「コーヒーでいえばロブスタ種」と例えられている品種です。

Bトリニタリオ種(Trinitario) トリニダードで上記2種を交配させた品種です。
 生産地域によって味にバラつきがあるものの、
 香りが良いのが特長といった品種です。

以上が「カカオの3品種」といわれるものですが、
文献によっては以下も付け加えて
「4品種」とされているものもありました。

Cナシオナル種(Nacional)
 エクアドルだけで栽培されていて、
 「arriba」(フローラル&スパイシー)の香りが特長の品種のようです。

輸入業者は「大実 イエローカカオ」というだけで
「品種はわからない」というので、
今回届いたカカオの品種は自分で調べることになりました。
カカオの実を割ると、中のタネの色が
 ・白っぽくて薄い色がクリオロ種
 ・濃褐色がフォラステロ種
という特長や、
もともと中米が原産地としたクリオロ種ということからしても、
今回ベリーズから、はるばる沖縄の我が家まで送られてきたカカオは、
“クリオロ種(Criollo)”
で間違いないようです。
もし実が出来た時は、
ココアやチョコレートにする前に
アステカ帝国のモクテソマ王が飲んでいたという
カカオ飲料を作って飲んでみたいと思います。

コーヒー山の東側110418.JPG
 コーヒー山の東側は大きな谷になっていて
 東側からの風はこの谷を駆け上がってくるように吹くので
 コーヒー山での風は、特に東側からの風が要注意なのです。


チョコレートが現在のような“食べ物”になったのは
まだ200年も経っていない、
チョコレートは意外と新しい食べ物で、
それまでは永く飲料の歴史だったようです。

紀元前2000年くらい、といいますから
今から4千年も前に、
「カカオはメキシコを中心とするメソアメリカで栽培されていた」
とされています。
地球が誕生したのは約46億年前、
生物が現われたのは40億年前といわれていますが、
5億年前に生物が海から陸に上がり、
この最近の5億年の間に地球環境が大きく変わりました。
地表を緑でおおい、森林をつくり、餌となって他の生物を養う
生態系を構築したのが、この5億年なのです。
そして、植物の花や種子の誕生は、
花粉や種子を運ぶ動物との共進化現象を通して、
地球生命の多様化に大きな役割を果たして現在に至っているのですが、
人類誕生が600万年前だとか800万年前だとかいうのは、
人間の歴史は地球や植物から見ると、
まだまだ産まれたての乳児のようなものなのです。
カカオやコーヒーがいつごろ現在のような木になったのか、
ということは、「近5億年内」というだけで、詳細は判りませんが、
人類誕生よりはるかに前のことだけは確かで
4千年前のメソアメリカでカカオ栽培がされていた、とすると
最初は鳥や猿しか食べなかったカカオの実が
いつしか人類がカカオの実を割ってタネを食べたり、
中のタネをすりつぶして飲むドリンクになっていったのです。

大航海時代のコロンブスがアメリカを発見する前には、
カカオはマヤ、アステカの王侯の飲料であり
カカオの実は貨幣として使われていたようです。
当時の飲料は甘みがなく、
むしろトウガラシやトウモロコシを混ぜたスパイシードリンクとして
貴重な飲み物だったようです。

コーヒー山の東斜面110418.JPG
 コーヒー山の東側斜面です。
 コーヒーは幹が細く強風が苦手なので
 初期に東側へ移植した苗木は葉を落したりして、
 一部掘り起こして自宅に持って行きリハビリ再生中です。
 東側の風が吹き抜けるエリアは、
 成長の早い在来植物やイスノキなどの堅くて防風林になる木々を
 植え始めています。


カカオは
「お金の成る木」
であり、
そのためにカカオの神様までいたようです。
なにしろカカオの正式名テオブロマ(Theobroma)は
アステカの神話に由来して
「神々の食べ物」という意味の神聖な名前ですから。
マヤ文明が栄えた7、8世紀頃には
各地に多くのカカオの石彫も作られています。

コロンブスが4回目の最後の航海に出た1502年は
ボロ船4隻、船員140人しか支援されなかったので
ほとんど成果を挙げられなかったのですが、
現在のホンジュラスからスペインにカカオのタネを持ち帰り
その後メキシコに植民したスペイン人などの工夫によって
チョコレートは甘い飲料になり、
やがてヨーロッパ人の嗜好に合うようになります。

当初は、疲労回復剤としてなど薬効が注目され
僧侶、貴族などを中心に広まり始め、
その後大衆に広まるのは17世紀後半くらいからになります。
ほぼ同時期にお茶やコーヒーがヨーロッパに登場し
食文化などに合わせて定着していき、
ドロっとした濃くて甘い飲料のチョコレートは
飲料としてはお茶やコーヒーとの競争に完敗し
マイナーになっていきます。

19世紀に入り、産業革命の技術革新の波は
チョコレートにも波及し、
飲料として飲みやすくするために搾油技術が発明されます。
搾油されたココアバターを利用して
食べるチョコレートが19世紀後半にイギリスで発明されました。
1847年にイギリス人のジョセフ・フライが
ココアに砂糖とココアバターを加えて板チョコの成型法を発明したのです。
その後、イギリス国内にチョコレート製造業が盛んになり、
1867年にはアンリ・ネストレがスイスに
チョコレート工場を創業(現在のネッスル社)しています。

林床地北西側110418.JPG
 コーヒー山の北西部(林床地)です。
 画像の左側が西、右側が東で
 東側が尾根で高い地形になっていて西に下がっていますから、
 西側ほど、風が当たらないのです。
 画像の黒いのは生地をハサミで切ったもので、
 これを支柱代わりに主幹を張っています。
 以前は鉄筋の支柱を主幹近くに打って
 鉄筋支柱と主幹をヒモで結んで風対策にしていましたが、
 出来る限り自然に近い栽培方法を取り入れたいので
 “過保護”は止めて、自立を促しています。
 実際に支柱無しでも、コーヒーはしなるだけでなかなか折れません。


食べるカカオ・板チョコは、まだ164年しか経っていない
意外と新しい食べ物なのです。

カカオの生産地も
起源地の中南米からアフリカへ広がり
世界の需要に応じられるようになっています。


世界のカカオ豆生産量(単位1000トン)2007/2008推定
世界  3,740(=374万トン)
@ アフリカ     2,608
A アメリカ      455
B アジア・オセアニア 677


@ アフリカ 2,608
 ・カメルーン      195
 ・コートジボアール  1,385
 ・ガーナ        690
 ・ナイジェリア     200
 ・その他のアフリカ地域 138

A アメリカ 455
 ・ブラジル       160
 ・エクアドル      115
 ・その他のアメリカ地域 180


B アジア・オセアニア 677
 ・インドネシア   570
 ・マレーシア     34
 ・その他のアジア地域 73


沖縄では「ロイズ」ブランドのチョコレートを販売する
ロイズコンフェクトが石垣島でカカオ栽培に取り組んでいて
1,300本の成木から1,500個の実を付けるところまで
こぎ着けたそうです。


「5棟でのハウス栽培」
とか
「ドミニカから苗木を取り寄せた」とか
資金力がうらやましいところですが、
私は
「タネ植えでのアグロフォレストリー(森林自然栽培)」
にこだわっています。

偉そうな言い方ですが、
カカオフルーツの現物を見たのは3日前が初めてですし、
タネ植えも3日前が初めてのことで、
「うまく発芽するかな」
という、
お金も経験も何も無い段階からのスタートなのです。

cacaoタネ植え110415.JPG
 カカオのタネ植えは生まれて初めてなので、
 タネ40個を、1個ずつ黒ポリポットにあてがう
 特別扱いで様子をみてみます。
 「発芽は1週間」と聞いているのですがどうでしょうか?
 黒ポリポットには、国頭マージに、やんばる特性腐葉土を敷いて
 その上にカカオのタネを置いた画像です。
 ポットの中央あたりの白っぽいのがカカオのタネです。
 この後この上に薄く腐葉土をかけました。



ココア豆の成分
 ・ココアバター 54%
 ・ポリフェノール 8〜13%
 ・たんぱく質 11.5%
 ・食物繊維 9%
 ・デンプン 7.5%
 ・水分 5%
 ・ミネラル 2.6%
 ・有機酸 2%
 ・テオブロミン 1.6〜2.7%
 ・糖類 1%

 ・カフェイン 0.2%

コーヒー同様にカカオには“カフェイン”が含まれています。
植物でいう
「外敵から身を守る」
ためのアルカロイド(毒)としてですが、
これがコーヒー山の3大脅威
・台風
・ドロボー
・イノシシ

の中で、
「イノシシがカフェイン(アルカロイド)を嫌がり、
 コーヒーに傷を付けたことがない

のです。
そういう意味ではカカオもコーヒー山では安心なわけです。
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2011年04月15日

カカオフルーツが到着しました

カカオフルーツが到着しました

中米のユカタン半島のカリブ海に面した東南部、
北はメキシコ、西と南はグァテマラに接した
“ベリーズ(Belize)”という国から
昨年末に発注した待望のカカオフルーツが到着しました。

ベリーズ輸出前のカカオ1.JPG
 ベリーズから発送前のカカオフルーツの画像です。
 今回はこの中から5個送って頂きました。
 もちろん密輸ではなく、植物検疫証明書付きの
 正規の輸入手続きをしています。


ベリーズは、
もともと「イギリス領ホンジュラス(British Honduras)」だったのが、
1973年に国名を「ベリーズ」と改称し、
1981年に独立国家となりイギリス連邦の一員になったようです。

cacao110415-1.JPG
 3月上旬に現地を発送して頂き、
 メキシコ・米国を経由して届きましたが
 発送後1カ月半を経過しているために
 到着時のカカオフルーツの外見は
 すっかり黒ずんでしまいました。


ベリーズの面積は22,966平方km、
といってもピンときませんが、
2府5県の近畿地方から和歌山県と三重県を除いた
 ・大阪府
 ・京都府
 ・兵庫県
 ・滋賀県
 ・奈良県
の合計面積(22,614)と同等というか、
四国(18,300)の2割増し(22,875)くらいの面積の小さな国です。

cacao110415-2.JPG
 カカオフルーツの大きさは、20cm前後で
 ラグビーボール状をしています。
 こんな実が枝に垂れさがるのではなく、
 ジャボチカバやパパイヤのように
 幹に直接付いた状態で成るのです。
 ジャボチカバというのは、ぶどうの巨蜂の紫の実にそっくりの
 甘くて美味しい実が、幹に直接付く果樹です。
 我が家にも1本ありますが生育が悪いです。


ベリーズの人口は約30万7千人、
というと、
 ・東京都新宿区   30万5,716人(2011.1.1)
 ・福岡県久留米市  30万6,434人(2010.9.1)
 ・東京都中野区   31万627人 (2011.1.1)
 ・青森県青森市   31万1,508人(2010.12.1)
 ・沖縄県那覇市   31万2,393人(2011.1.1)

といった市区と同等の人口ですから、
人口密度的に考えると
 30万7千人÷22,966平方km=13.4
つまり1平方km当たり13.4人が住んでいるというので、
これはもう過疎は間違いないですが、
どのくらいの過疎なのかというと、
私の住んでいる国頭(くにがみ)村も
相当の過疎地なはずですが、
それでも人口密度は26.89とベリーズよりかはるかに多く、
隣の東村の方が国頭村より21.75で過疎のようです。

沖縄県で最も人口密度が低いのは
石垣島の南西の島々、
イリオモテヤマネコの西表島や
NHKの朝番組でお馴染みのちゅらさんの小浜島などの
大小16の島々で構成される広域の竹富町で、
この武富町の人口密度が12.26ですから、
ベリーズは広域の竹富町の人口密度と同等のようです。

cacao110415-3.JPG
 カカオフルーツの外見が黒ずんだとしても
 入手目的は食べるためではなくてタネ植えのためですから
 外見はどうでも鮮度の高いタネが取り出せればいいわけです。
 最初にカッターナイフで中心部分を
 真横で切断しようと刃を1周入れたのですがビクともしないので、
 鉛筆をナイフで削る要領で削ぐことにしました。
 エイヤっと切ったりハンマーで力いっぱい叩いても実は割れるでしょうが
 何より中身のタネを傷付けたくないし、
 表皮の厚みも判らないので、原始的ですが削り式を選択したのです。


「全国市町村人口密度ランキング」
で調べると、
 ・北海道 雨竜郡  沼田町  13.10
 ・北海道 虻田郡  喜茂別町 13.27
 ・長野県 北安曇郡 小谷村  13.36
 ・北海道 河西郡  中札内村 13.54
 ・北海道 上川郡  愛別町  13.65
 ・北海道 雨竜郡  北竜町  13.74

このあたりの地域の人口密度がベリーズと同等のようです。

cacao110415-4.JPG
 カカオの表皮が想像以上に厚いことが判ってきたので
 削り式は中のタネを傷付けない方策としては安全なものの
 面倒で時間がかかるだけですから途中で止めて、
 最初の外周に刃を入れた部分を、さらに深く再度刃を入れ
 無理やり穴を開けて表皮の厚みを確認し
 それから横で切断する、という方法で何とか成功しました。
 硬い表皮の厚みはなんと2cm近くありました。
 タネはぶどうの房のように付いていました。


なお、日本での人口密度の低い地域は、
 ・福島県 南会津郡 檜枝岐村 1.73
 ・北海道 雨竜郡  幌加内町 2.32
 ・奈良県 吉野郡  上北山村 2.59
 ・北海道 勇払郡  占冠村  2.67
 ・長野県 木曽郡  玉滝村  3.13

だそうですから、
私は国頭村は過疎中の過疎だと思いこんでいましたから、
上には上がいるものです。

cacao110415-5.JPG
 煮豆というかアーモンドのようなカカオのタネが
 ぶどうの房のように付いています。
 このタネを焙煎して挽くとココアになるのでしょうが、
 コーヒーのように脱穀したりするのかな?
 そういうことはずっと後のことだし、
 ブラジルから沖縄に移住したアキ・ファームの曽木さんに
 教えて頂くことにして、今は発芽させることが大目標です。


ベリーズはカリブ海に面して、
沿岸部は湿地帯でマングローブの森があり
国土の大半は未開発の熱帯雨林の原生林で、
標高の最も高い地点がビクトリア・ピーク(1120m)、
平均気温は26℃(沖縄県那覇市は22℃)だそうです。
カカオフルーツは西部から南部にかけての
山岳地帯で栽培されているようです。

cacao110415-6.JPG
 カカオは他の文献でもアグロフォレストリー(森林栽培)で
 栽培されているようですから、
 コーヒー山では栽培環境としては大丈夫と思います。
 タネの大きさは2cm程度で、43個ありましたが
 右隅の上の2個は不具合な感じなので
 今日のタネ植えは41個で行ってみます。
 今回入手したカカオフルーツは5個なので、
 タネは180〜200個くらいでしょうか。

posted by COFFEE CHERRY at 16:35| 沖縄 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | カカオの栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月05日

“恵みの雨”を考える

昨日はやんばるでは13日ぶりに“恵みの雨”が降りました。

コーヒー山をお借りして1年ちょっとまでは
山の数カ所にブルーシートを張って
雨水を貯めていましたが、
その後はホームセンターで、大きめの樹脂製の黒バケツを買い
それを山のあちこちに分散させて置くように至っています。

黒バケツ110401.JPG
 ホームセンターで1,980円で買った黒バケツ、
 直径1mくらいある大きさにしては安価です。
 これが山のあちこちに数十個置いてあり、雨水を貯めています。
 この中にはオタマジャクシがたくさんいますが
 カエルに成った頃には、ほとんどがヘビのエサになる運命なのです


アカマタ110405.JPG
 過疎の我が家では、今日もアカマタという無毒ですが凶暴なヘビが
 カエルを捕まえていました。
 庭にはアカマタ以外に、昨日はリュウキュウアオヘビを見ましたが
 そういえば昨年は台所にアカマタの子供や
 ガラスヒバァも入りこんでいましたね。
 引越し時はハブの子供や、
 つちのこに似ているけど動きの鈍いヒメハブも居たので
 草むらなどは要注意なのです。


山をお借りした当初は
雨が1週間以上降らないと、
雨乞い祈祷をオリジナルで念じるだけの
「お天気任せ」
でしたが、
今は雨水貯水バケツがあちこちにあって
ずいぶん楽になりました。

伊佐ダム110401.JPG
 コーヒー山のゲートを入ったバナナロード脇に
 伊佐さんがスコップとノコギリという手掘りで掘った
 リトルダムがあります。
 ここだけでも雨水が15トンはありそうです。


2週間にわたる日照り続きにたまりかねて
私が水やりを始めると、
「翌日か、近日には雨が降る」
というガッカリなジンクスがあるのですが、
先週土曜まで3日間にわたって
ポリポット苗などを中心に私が水やりをしたら
昨日(月曜)の雨ですから、
悪しき慣習はまた伝統化しつつあるようです。

恵みの雨を眺めながら“雨”について考えてみました。

「持ち家住宅敷地面積の県別ランキング(2008年)」
では、
持ち家住宅面積の全国平均が
121.03u(=36.6坪)というらしいのですが、
この住宅の建ぺい率が60%とすると、
 121.03u×60%=72.6u
が建屋の屋根の面積で、
 121.03u−72.6u=48.4u
が庭の面積になります。

この住宅に50mmの雨が降った場合、
建屋を含めた敷地に降った雨の60%は
屋根から地面に流れ落ちますから、
 @もともと庭に降った50mm
 A屋根に降った雨量
 (60%÷40%)×50mm=75mm
の合計の雨量が庭に溜まることになり、
48.4uの庭には
 50+75=125mm
の水深の雨が溜まったことになります。
また、1uに1cmの雨が降った時の容量は
 10,000cc=10リットル=10kg
ですから、
この敷地の雨の重さは、
 121.03u×10kg=1210kg
にもなるのです。

庭に駐車場屋根や玄関までの舗装された通路など、
土以外のものもあると考えると
地面の庭の面積はさら狭くなり、
水深200mm以上になることだってあり得るかもしれません。
もちろん排水や下水溝などが無いことが前提の机上計算で、
実際には“水はけ”を考えた設計がされているはずですから
雨は下水や道路を流れることになります。

こういう現象が、雨が降った地域全体で起こると
その水量は膨大な量になり、
下水管や側溝などの最大流量を超えてしまうことも充分考えられますから
集中豪雨になると排水が追いつかなくなって
マンホールが持ち上がったり、道路が冠水したり、
濁流になったりで、人が住みよい環境のはずの都市が、
以外と自然には無防備にさらされてしまうようです。

重機の道の手前の通路110329.JPG
 画像の奥(南)が重機の道で高くなっています。
 画像手前(北)は低く、手前の方から奥に向かって
 南北の一本道なので、
 北風が吹くと、まともに風が重機の道に入ってくるために
 この通路を画像のように丸太の右側を迂回するように
 丸太の三角の中は植栽をしようと考えていて、
 この通路は画像の部分と、もう一カ所
 こういう要領で迂回路を作りました。


都市の水道の蛇口では、
水圧や水道管の口径などにもよりますが、
一般的には
「1分間に10〜12リットルの水が出る」
のですが、
これは重量に換算すると10〜12kgのことで、
1uに1cmの雨が降ると10kgですから、
これと同等なわけですが、
例えば
「農地5千坪に1cmの雨が降った」
とすると、
 3.30579u×5,000坪×10kg=165289.5kg=165.3トン
もの雨量が降ることになり、
また、これを水道の蛇口からホースで水を撒いたと仮定すると、
 165289.5kg÷10kg=16528.95分=275時間28分57秒
つまり
11日11時間28分57秒
という、
わずか1cmの雨が降っただけでも、
面積が広くなると、とてつもない数字になるのですから
コーヒー山でのスプリンクラーなんて文明開化的思考は夢のまた夢のことで
広大な山での雨水は、雨ばかりでも困りますが、
まさに
“恵み”
そのものなのです。

当たり前のことですが、
「降った雨は低い方に流れて
  狭いところで流れが速くなる」

という、
誰でも知っていることですが、
今さらながらの“雨対策”をコーヒー山で昨年末から実験しています。

コーヒー山は、当たり前ですが“山”ですから
高い地点から低い方へ雨が流れされますが、
コーヒー山の南山や中山などの山頂は、
土壌がどうしても乾燥しがちになっていて地力が少なく、
また山の傾斜地は、急な斜面ほど、
雨水の流れる溝がリトル渓谷のように掘られていますし、
コーヒー山の入口のゲートには、
山から流された雨水が、栄養分あふれた貴重な土壌と共に
流れ出ていますから、
それは以前から
「もったいないことだなあ」
と、気になっていて、
昨年末から
“堤防”
を設置するようになりました。

丸太せき止め策110325.JPG
 撮影時は曇りだったので写りが悪いですが
 左上は重機の道です。
 右下に斜面になっていて、段々畑のように丸太を置いて、
 上(重機の道の上は中山)から流れてくる雨水を
 せき止めようという考えです。
 こういった丸太せき止め作戦は、
 コーヒー山のあちこちで展開し始めていますが
 なにしろ広いのでなかなか進みません。
 梅雨入り前の5月のGWあたりには完成させないといけませんが
 どこまで出来るかな…。


山をお借りした当初は
通路やコーヒー苗木を植える場所を確保するために
森林の中の木を間引くような伐採を行ない
山には切り倒した木が丸太のようになってあちこちにあり
それを置くことで、
「高い位置から流れる雨水を止める」
という考え方で、
「木が腐食したらどうするか」
とか
「丸太などで雨水が予想通り遮断できたとしても、
 それまでの雨水の流れが変わってしまい、
 それがどうなるのか?」

ということは、また後の問題だと
楽観的に取り組んでいます。

「今は恵みの雨で流される雨水を
 出来うる限り山でとどめて、貴重な雨水をムダに流したくない」

という単純な思いを最優先にしたテスト段階なのです。

中国の三国志より前、
春秋戦国時代初期の斉(せい)という国の
政治家・管仲(かんちゅう)が
「善(よ)く国を治める者は、必ずまず水を治める」
つまり
「水を治める者は国を治める」
という
2,600年以上も昔の人が言ったことを、
今になって私もほんの少しだけ理解できたような気持ちで、
まだまだ私は修行が足りないようです。
posted by COFFEE CHERRY at 21:20| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月04日

台湾のコーヒー事情U(2011-2)

「東インド会社から清国に届いたコーヒー苗木を
 台湾最南端の恒春(こうしゅん)の山林地帯に植えたのが、
 台湾コーヒーの起源らしい」

というように前回は結論付けましたが、
今回は日本統治時代の1910年(明治43年)に
日本の意向でコーヒー栽培を始めるに至る時代背景を
考えてみたいと思います。

また、1910年というのは、
私には「非常に“意味”がある」と思っていますので、
それは次回に書きたいと思います。

戦後の紙幣(日本銀行券)は、
・百円札  聖徳太子(1946〜1956年)
      板垣退助(1953〜1974年)
・五百円札 岩倉具視(1951〜1971年)
      岩倉具視(1969〜1994年)
・千円札  日本武尊(1945〜1946年)
      聖徳太子(1950〜1965年)
      伊藤博文(1963〜1986年)
      夏目漱石(1984〜2007年)
      野口英世(2004年〜)
・二千円札 首里城の守礼の門(裏面は源氏物語絵巻、2000年〜)
・五千円札 聖徳太子(1957〜1986年)
      新渡戸稲造(1984〜2007年)
      樋口一葉(2004年〜)
・一万円札 聖徳太子(1958〜1986年)
      福沢諭吉(1984年〜2007年)
      福沢諭吉(2004年〜)
というように、
戦後の荒廃の時期から高度成長期にかけての紙幣は
日本の建国や政治に関わった
聖徳太子や伊藤博文、岩倉具視などの人物でしたが、
1984年以降では(二千円札は例外)政治家が消え
作家や教育者、文学者、農学者などの文化人に一新されています。
もちろん、単にデザインが変わっただけではなく
高度な印刷技術で最新の偽札防止の対策も施されているようです。

大国林道110402.JPG
 大宜味村塩屋から国頭村与那の県道2号線までの
 全長35.5km、幅員5mの広域基幹林道、
 大国(おおぐに)林道です。
 1977年に着工され1994年に17年と50億円弱をかけて完成。
 絶滅危惧種が多い生態系の森林帯の中を全面舗装されていて、
 とても野生動物保護には思えない立派な道路を
 毎日コーヒー山に行くために通行していますが、
 小さなカーブが多く、ほとんど出会わない車にまれに出会うと、
 危ない場面が多いです。
 ヤンバルクイナやリュウキュウイノシシが横断したり
 リュウキュウヤマガメが歩行していたりします。
 大金をかけて通行量がほとんど無い立派な林道を作る目的は
 与那覇岳付近の山水をもらうためか、
 知事や県議が土建業者に何か弱みを握られているのか、
 県には実はお金が余っているのか、よくわかりません。


台湾を日本が統治するのは
日本と清国による日清戦争で日本が勝利し、
その結果、下関条約によって
 ・朝鮮の独立
 ・台湾、澎湖諸島の割譲
 ・中国遼東半島の割譲

などを日本が得るのですが、
台湾は、それ以降、
第二次世界大戦敗戦後のポツダム宣言によって
台湾が大日本から中華民国に編入されるまでの50年間を
“日本統治時代”といわれています。

日本は幕末から明治時代に入り、
産業が急速に発達し、商品が大量生産化されるのですが、
国内需要に対し供給過多に陥り、国内で消費がはけない分、
武力を後ろだてにして朝鮮に進出して、
綿製品や雑貨などをどんどん輸出するようになるのですが、
以前から朝鮮を属国と捉えていた清国も朝鮮に
織物や紡績製品などを盛んに輸出していたことで
日本と清国の軋轢(あつれき)が高まり
李朝政府の悪政と清国の侵略に対する農民の内乱(甲午農民戦争)を契機に
清国軍がその鎮圧のために出兵し、
また日本も出兵し、その解決策を巡って争い
ついに日清戦争が始まってしまいます。

黄海で日本海軍の連合艦隊が
清国の北洋艦隊に撃破して序盤で制海権を奪い、
陸上戦(北朝鮮)に対する清国軍の海上補給路を断つことで
戦争を圧倒的に有利に進めた日本は
17ヶ月に及んだ戦いに勝利し、
上記の下関条約で、
日本が求めた台湾地域(台湾島と澎湖諸島)を得ることに至ったのです。

ヒカゲヘゴ110402-1.JPG
 三葉虫の全盛期・古生代の
 約3億6千年前から存在しているといわれる
 日本で最大のシダ植物ヒカゲヘゴです。
 日陰という名前のわりには直射日光が当たる場所にも
 生えています。
 沖縄の、とくに森林一帯では、ふつうに見れて
 珍しくはありません。


日本統治の初期段階は、
 ・初代 樺山資紀(かばやま すけのり 元薩摩藩士)陸軍大将
  (在任1985年5月〜1896年6月、13か月)
 ・2代 桂 太郎(元長州藩士)海軍大将
  (在任1896年6月〜1896年10月、5カ月)
 ・3代 乃木希典(のぎ まれすけ 元長州藩士)陸軍中将
  (在任 1896年10月〜1898年2月、1年4カ月)
   愚将か名将かは別にして、日露戦争では第三軍司令官として
   激戦の末、旅順を陥落させ“軍神”化、NHK「坂の上の雲」では柄本明が出演
 ・4代 児玉 源太郎(元長州藩士)陸軍中将
  (在任 1898年2月〜1906年4月、8年3カ月)
など、
薩摩長州出身の一流の人材を投入し
武力による強硬な植民地政策を打ち出したことで抗日運動が激化し、
児玉源太郎が4代台湾総督に任命されると、
それまでの、
台湾を食料の供給と資本蓄積の基地として位置づけした
「人種・文化が類似する台湾は日本との同化が可能」
「台湾は内地の一部なので内地法を適用させるべき」
という、
日本の経済構造にそのまま取り組む考え方から
「内地の外の植民地だから同化は困難と考えるべきで
 内地法を適用せず、独立した特殊な政策で統治するべき」

と主張する、
当時内務省の官僚だった後藤新平を民生長官に抜擢して
台湾の社会風俗や伝統文化などを調査、政策に加味して
徐々に同化の方法を模索する特別統治主義で
台湾統治を進めました。

後藤新平は医師でもあり、
日清戦争の帰還兵に対する検疫業務の事務長官として
その行政手腕の巧みさから、
当時直属上司だった児玉源太郎が女房役に抜擢したといわれています。

台湾総督府民生局(その後民生部に)は、
台湾総督部に置かれた“行政・司法”の担当部局で、
他に
 ・陸軍局
 ・海軍局
が設置されていました。

総督は、もちろん政務・軍務を統括する役職ですが
軍人総督は内地も兼務していて多忙でしたから
実際の統治は、現場の指揮官として民生長官が行っていたようです。

この民政局の中に、
「台湾総督府殖産(しょくさん)局」
があり、
ここでは
 ・農業
 ・工業
 ・水産業
 ・林業
 ・鉱業
などを担当し、
台湾領有した1895年に
台北市内に試作用の田圃が
台湾初の農業試験施設といわれ、
その後、台北・台中、台南に
台湾農業の研究や改良を目的に
台湾総統府農事試験場が設けられ、
これらは台湾省農業試験所に移管され
現在に至っています。

後藤新平は
「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」
「社会の習慣や制度は、生物と同様で
 相応の理由と必要性から発生したものであり、
 無理に変更すれば、当然大きな反発を招く。
 よって現地を知悉し、状況に合わせた施政を
 行っていくべきである」

という、自らの
“生物学の原則”
で、
徹底した現地調査を行い、
経済改革と道路、鉄道、上下水道、港湾などのインフラ(社会基盤)整備、
農業改革、教育、医療・衛生環境の大改善などに尽力します。

1895年の下関条約締結当時、
清国の全権大使・李鴻章(り こうしょう)は
伊藤博文首相に対し、
「台湾には四害あり、統治は不可能」
として、
日本に台湾割譲をあきらめさせようとしたのですが、
この“四害”とは、
 ・アヘン
 ・土匪(どひ、=追いはぎ、というか
     黒澤明監督の映画「七人の侍」の野武士軍団のような
     悪党集団のような)
 ・生蕃(せいばん、抗日の山地原住民)
 ・瘴癘(しょうれい、=風土病)
のことです。
1874年(明治7年)に、
琉球島民殺害の罪を問うために
明治政府と日本軍が初めて海外派兵した台湾出兵では、
日本軍3,600人のうち、8割近い2,800人が
「台湾熱」マラリアにかかり525人が死亡しています。
(7人に1人が風土病で死んでいる高率)
また、下関条約締結後の台湾平定時でさえも
「日本軍戦死者164人に対し、4,642人の病死者が出た」
といわれています。

当時の台湾では、
 ・ペスト
 ・コレラ
 ・マラリア
 ・ジフテリア
 ・チフス
 ・赤痢
 ・発疹

など
当時は伝染病のデパートのようなありようで、
「漢人の移民でも生存率3割、
 平均寿命30歳前後」

という恐ろしい土地でしたから、
台湾統治でまずやらなければならないのが
衛生事業でした。

台湾領有当初16万9千人もいたというアヘン吸引者には、
アヘンに効率の税金をかけることで吸引者を激減させ
その税収を衛生改善に充てたり、
(50年後の終戦時にはアヘン吸引者は皆無)
悪疫予防のために、台北市などの都市では
公園道路や上下水道を完備させ
主要道路は舗装して道路脇に側溝を作り
汚水雨水の排出を速やかにさせるなどを行っています。

また、伝染病を抑えるために
台湾医学校を設立し、ここから多くの台湾人医師が育ちました。
内地から100人を超える医師を台湾に連れて来て全島各地に配置し、
近代的衛生教育を徹底させる公医制度をはじめ、
病院、予防消毒事業団の設立など
次々と衛生改善策も講じています。

そんな児玉源太郎と後藤新平の
八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍コンビが
台湾農業振興のために三顧の礼で迎えたのが
日本で最初の農学博士・新渡戸稲造(にとべ いなぞう)です。
そうです、4年前まで使われていた5千円札の肖像画の人です。

新渡戸(にとべ)の祖父は盛岡藩の勘定奉行でしたが、
盛岡藩は、戊辰(ぼしん)戦争中に
 ・陸奥国(奥州)
 ・出羽国(羽州)
 ・越後国(越州)
の各藩の同盟で新政府に対抗する
奥羽越(おおうえつ)列藩(れっぱん)同盟に属していたことで、
新渡戸(いとべ)も、廃藩置県の行われた明治5年に
「これからは新しい時代だから懸命に勉強して
家名を上げなくてはならない」
として上京し、やがて米国やドイツに留学するのですが、
当時の岩手県から上京する若者の多くは
「賊軍の汚名を晴らすには天下の権を握らなければならない」
という強い志を持ち、政治家を志望したようです。
また、
「新渡戸(にとべ)が行くなら」
と後を追うように上京したのが
後に総理大臣として暗殺される原 敬(はら たかし)であり、
それ以前に上京していたのが後藤新平でした。

現在の千円札の野口英世も、会津藩(福島県)という
賊軍中の賊軍の出身ですから
大病院や大学病院は薩摩藩や長州藩出身者が占有しているために
海外留学せざるを得ない背景があったわけで、
東北人は気骨ある偉人が多いですね。

新渡戸(にとべ)は米国留学から帰国後に
台湾総督府民生局長の後藤新平から台湾に呼ばれ、
殖産局長(=農林水産部長)に任命されます。

新渡戸(にとべ)は着任から台湾全土を巡り
サトウキビの製糖産業に着眼し、
2ヶ月後には砂糖の研究のために
ジャワ(当時はオランダ領東インド)に行って
「台湾は砂糖を作ることによって農業を生かしてゆくべきだ」
という
「糖業改良意見書」
を書きあげ、
台湾総督府は台湾の砂糖きび栽培を大規模で進めます。

この意見書の初めには
「一、糖業奨励法の発布
   機関の発動は法令の拠るべきものなくんばあらず、
   依て律令を以て糖業奨励法を発布せられ、
   奨励の方法特典の付与監督制裁等に関する諸件を
   規定せらるるの必要あり、即ち別紙に草按を附せり。」

とあって、
要するに
「台湾糖業は明治政府の保護育成が必要」
ということが説かれているのですが、
以下の主な内容は、
 ・品種の改良 在来種より生産性の高い品種に変更すること
 ・沖縄やハワイから外国種を入手すること
 ・ショ糖の栽培方法の改良
 ・灌漑を行なうこと
 ・水利の不便な田畑を砂糖栽培に転換する
 ・精製糖での技術改良を計る
 ・地域によっては大型圧搾機は設置できないので小型圧搾機を開発する
 ・日本に入る輸入外国糖に関税を引き上げにより、戻し税を行う
 ・交通路の整備及び輸送費の補助政策を打ち出す
 ・砂糖販売網の拡充を図る
 ・ショ糖の公定価格の安定を図る
 ・糖業教育の充実を図る
 ・産業組合の整備(現在の農業協同組合のような組織)を行う
 ・事業計画書を作成し糖業への投資や起業の参考にすること
 ・出版物による糖業の啓蒙をする
 ・甘蔗保険の充実させる
 ・副産物の奨励(アルコールの製造)を行う
など、
新渡戸(にとべ)の台湾農業振興政策は
すぐれた内容になっています。

1900年には3万トンだった台湾製糖は
1940年には50倍以上の160万トンになり
世界の砂糖生産において
第2位(1位はハワイ)にまで躍進することになり
台湾糖業の振興が台湾財政の独立に大きく貢献しました。

新渡戸(にとべ)が、台湾着任後に
なぜハワイではなくてジャワに行ったのか?
という部分も、興味深いところで本当は書きたいのですが
長くなるので、また機会があれば書くことにしましょう。

台湾の東部中央の花蓮県には
「ニトベカズラ」という植物があって、
これは日本語読みでも同じらしいですが、
これは「新渡戸(にとべ)葛(かずら)」への親しみから
住民が名付けたらしいといわれるくらい
新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は
台湾では高い評価を得ているのですが
日本では
「新渡戸稲造って誰?」
とか
「なんて読むの?」
という人が多くて…。

台湾統治の児玉源太郎、後藤新平のコンビに
新たに新渡戸稲造が加わったことで最強トリオになり
農事試験場は台湾近代農学研究を押し進める
主要機関に成長していきます。

台湾総督府は
 ・1899 年 台北、台中、台南に農事試験場を設置
 ・1903 年 この三つの試験場を合併して台湾総督府農事試験場になる
これは台湾最初の近代農学研究機関であり、
その後、
 ・1905 年 種畜場
 ・1906 年 糖業試験場
 ・1908 年 園芸試験場
 ・1910 年 茶樹栽培試験場
を設立するのですが、
台湾雲林省古坑郷の華山休聞産業促進会に伊佐が出向いて、
そこの理事から直接聞いた話で
「台湾のコーヒーは1910年 日本統治時代に日本人が始めた」
ということから推察すると
 ・新渡戸稲造は台湾総督府で殖産局長に就任する前に
  米国やドイツに留学して、すでにコーヒーを飲む習慣があった
  (奥さんは米国人で台湾赴任前にフィラデルフィアで結婚している)
 ・またハワイの製糖技術も米国留学中に学習していたはず
 ・台湾での糖業政策のためにジャワに視察に行っているが、
  当時のジャワはオランダ領でコーヒープランテーションもあった
 ・日本でのコーヒー栽培は、小笠原で成功しながら
  収益面で製糖に押されたことで放置され、その後沖縄の東村で
  大規模に栽培されたが、台風で農園が壊滅し、
  その後「台湾で成功した」といわれている
 ・台湾総督府の殖産局長といっても、新渡戸以外は
  農学に精通している人物がいない
  新渡戸稲造の後任・祝辰巳(いわい たつみ 1904年6月〜1906年11月)は
  帝国大学法科を卒業し大蔵省入りした官僚で農学にはうといし、
  その次の竹島慶四郎(1906年11月〜1907年3月)も
  帝国大学法科の明治29年卒業で内務省の官僚だし、
  さらにその次の宮尾舜治(みやお しゅんじ 1907年3月〜1910年9月)も
  帝大法科卒業で大蔵省入りした官僚で、専門は税務だし、
  その後の高田元治郎(1910年9月〜1919年8月)も帝大法科卒の官僚と
  新渡戸稲造以降の殖産局長は帝大法科卒の官僚ばかりで
  農学に秀でる人が不在

となると、
「新渡戸稲造が台湾コーヒーに関わっている可能性が高い」
という仮説を考えるのがふつうだと思います。

ヒカゲヘゴ110402-2.JPG
 通勤する県道2号線や大国林道沿いにも
 ヒカゲヘゴが多く生えていて、
 亜熱帯らしい環境をかもしだしています。
 ヒカゲヘゴが成長して幹が太くなると、
 この黒い下の方の部分を切り取ってホームセンターなどに売りに行く
 野蛮人がいるようで、林道から少し入ったところには
 切られたヒカリヘゴが倒されている光景を時々見かけます。
 「怪しい人を見かけたら110番通報」
 といっても、怪しい人だらけのような気もするし、
 学者が生態研究をしに山に入っているようにも見えますし、
 私も他から見れば怪しいかもしれませんし…。


台湾では、高価な烏龍(ウーロン)茶が有名で
今でこそ中国茶の名産国ですが、
台湾における茶栽培の歴史は、実はそれほど古くはありません。

台湾の学者・連雅堂の「台湾通史」(1962年発刊、全36巻)によれば
清朝の1796年に
「福建省の武夷山から台湾北部に茶樹が持ち込まれた」
というのが始まりとされています。
当時の日本は徳川幕府第11代将軍家斉(いえなり)の寛政時代で
この2年前には浮世絵界に東洲斎写楽が出現し
10か月の活動後に姿を消しています。
フランスではナポレオンがジョセフィーヌと結婚して
イタリア遠征の司令官に抜擢された年で英雄化の道を歩み始める頃ですから、
お茶の歴史的には、意外と思うほど新しいのです。

それから69年後の1865年、
日本は慶応元年という幕末のあわただしい中で、
井伊直弼は5年前に桜田門外で暗殺されていて、
この年は神戸海軍操練所が廃止され、亀山社中が設立、
坂本龍馬や高杉晋作、小松帯刀、中岡新太郎、桂小五郎らが暗躍し、
武市半平太が獄中切腹、岡田以蔵らが斬首された年です。
米国では南北戦争の真っただ中でリンカーンが暗殺された年でもあります。
この1865年に、台湾が82トンの烏龍茶を
初めてアモイ(福建省廈門市)に輸出しています。

それからさらに19年後の1884年、
日本はすでに明治(17年)に入り、
廃藩置県や琉球処分(琉球国を琉球藩として強制的に沖縄県として併合されてしまう)も
10年以上前に終わって
大日本帝国憲法(明治憲法)が制定される4年前、
欧風文化を真似た文明開化の象徴、
貴族社会の社交界・鹿鳴館時代が始まり上流婦人の洋装が流行した年ですが、
この1884年に、台湾の烏龍茶輸出量は約6千トンに達しています。
19年前の、実に約73倍もの数量ですから
当時の清朝にとって茶は輸出品として
非常に重要な地位を占めていたと思われます。

中国(=清国)では、
インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対し、
清が越南(ベトナム)宗主権を維持しようとして対抗し、
清仏戦争(1884〜1885年)が起きますが、
清仏天津条約によって冊封国・越南を失い、
さらに1886年には緬甸(ビルマ、後のミャンマー)は
イギリスにより英緬戦争で併合され、
清国は東アジアの覇者の地位が危うくなる時期にある頃の1885 年、
清国は台湾に劉銘傳(学者・軍略家)を派遣し、
茶産業重視政策によって烏龍茶製造技術の改良、生産区域の拡大、
同業者組合の整理など多大な効果を発揮させ
量産化を進めています。

徳川幕府が強大な戦力を有するペリー艦隊に開国させられ
欧米列強に対応出来ないと気づいた諸藩が
勤皇志士と呼ばれる若者の台頭を許し、
長州は尊王攘夷から倒幕に傾き、
1858年(安政8年)、アメリカ、オランダ、イギリス、
フランス、ポルトガルの
5カ国と通商条約を結び、
長崎・神戸・横浜・新潟・函館の港を開いたことで、
日本の生糸が欧米で知られるようになりました。
当時生糸生産国のフランスやイタリアでは
カイコに粒状の斑点が出来る伝染病が猛威を奮っていたことで
日本の生糸輸出が伸びたものの、
欧米での伝染病の鎮静化と共に日本の生糸の評価は低下してしまいます。
そこで明治政府がフランスの製糸機械を導入し
国策で富岡製糸場が創業され
1893年(明治26年)に民間に払い下げられますが、
この頃は全国各地に民営製糸工場が乱立し
富岡の若い工女たちの多くは、士族の誇り高い女性たちだったようで、
当時の全国の若い女性たちの哀史が戦前の日本を支えていたのです。
その1893年という明治中期に
台湾の烏龍茶輸出量は9,800トンにも上っています。

その2年後の1895年、日本が台湾を領有することになりましたが、
日本政府は引き続き、台湾の“茶産業”の基盤を受け継ぎ、
 ・製茶機械の導入
 ・茶の検査機構の設立
など茶産業の近代化を図って茶の品質を向上させ、
産出量、製造量、輸出量も飛躍的に上昇することとなりました。
この時期の茶園面積は46,406ヘクタール、
年間総生産量は17,000トンにまで増加しています。

前5千円札の新渡戸稲造が台湾総督府の
殖産局長在任中の1903年、
茶製造試験場が台湾北西部の桃園県に設立され
(現在の台湾の茶業における国立試験研究機関である
 行政院農業委員会茶業改良場で、現在台湾桃園国際空港がある県)
本格的な茶樹の研究や製品の運搬技術など
様々な研究が行われ
大きな成果を現代にも残しています。

また当時の日本の緑茶生産地でも台湾茶業振興への協力がみられ
「台湾の茶業」
という本には、
「製茶器械を利用して品質の改良及生産費の節減(中略)等
斯業の発展を企図するは急務中の急務なり、
故に総督は各所に茶樹栽培試験所を設け(中略)
器械製茶の利益を示し人民を啓発するに努め
漸次人工製茶を脱して民業器械製茶場設立の域に達せんとす」

と書かれています。

1910 年には日本の実業家によって、日本台湾製茶株式会社が設立され
1911年には台湾総督府殖産局が、
日本商人に対して台湾茶の従業者を養成する茶業講習会を開催しています。

日本の製茶機械として手動式のながら高性能の“望月式”が、
台湾を領有した翌年の1896年には
台湾に導入、普及されたことで、
それまでの台湾茶が
「台湾は其の地理的関係から見、又歴史的関係から見ても、
 其處に生産せられる茶は対岸支那福州の茶に似て居る」

という低評価だったものが、
品質の安定した上等品に変ぼうしたのだそうです。

太平洋戦争後、台湾の茶産業は一時的に衰退したようですが
かたくなに味を変えないことで現在の地位があるのですが、
一方日本では大量生産化したことで日本茶本来の味を見失い
停滞下降した現状に至っています。
やはりお茶は作り手の技と誇り、伝統というのが大事なような気がしますね。

台湾は215年前の1796年、烏龍茶に始まり
1881年には包種茶(発酵度が低く緑茶に近い烏龍茶で花のような香りのある茶)
1903 年には紅茶も栽培され、
戦後の1949年には緑茶も生産され始めています。

こういう歴史を振り返ると
台湾でのコーヒー栽培が正確に1910年かは
証拠になる文献を見ていないので何とも言えませんが
「農学者・新渡戸稲造が関わっている可能性が相当高い」
というように思えるのですがいかがでしょうか?

posted by COFFEE CHERRY at 18:02| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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