2011年04月20日

台湾のコーヒー事情U(2011-3)伊藤博文とコーヒー

「1910年(明治43年)に台湾総督府が台湾でコーヒー栽培を始めた」
ということを調べると、
どうも伊藤博文が気になってきます。

明治維新後、函館の五稜郭で旧幕府軍を率いて新政府に敗北した榎本武揚は、
投獄2年半後に明治新政府高官の黒田清隆や大久保利通らの尽力で釈放され、
以降明治政府を支える重鎮として初代逓信大臣を務め、
その後文部大臣・外務大臣・農商務大臣を歴任し、
日清戦争で日本が勝利し台湾を領有した2年後、
榎本が62歳の1897年(明治30年)に、
「榎本殖民団」というコーヒー栽培を目的とした約30人の移民団を
メキシコ南部のチアパス州エスクイントゥラに入植させるのですが、
・日本の環境とまるで違う猛暑での生活
・コーヒー栽培の未経験でコーヒーの植物特製などが判らない
・移民後の支援が皆無で移民団は孤立してたちまち資金難に

などの悪条件が重なって、
コーヒー農園での成功を夢見た殖民地構想も
早々と3ヶ月で実質崩壊してしまうのですが、
台湾総督府が台湾でコーヒー栽培を始める1910年(明治43年)までには
東京や大阪には以下のようにカフェが続々と開店し、
「一般大衆にもコーヒーが浸透しつつあった」
ことも台湾でのコーヒー栽培に至った理由と思われます。

・1884年(明治17年)伊藤博文の2番目の妻・梅子が中心となって行われた
 鹿鳴館婦人慈善会バザーで
 「コーヒー、茶、レモナード」などを売る臨時店舗が2カ所作られた
・1888年(明治21年)「可否茶館」 東京府下谷区上野
・1890年(明治23年)「ダイヤモンド珈琲店」 東京市浅草区浅草公園
・1893年(明治26年)「風月堂喫茶店」 東京市麻布区
・1896年(明治29年)「木村屋(現・木村屋総本店)」東京市京橋区銀座煉瓦街
・1905年(明治38年)「台湾喫茶店・ウーロン亭」 東京市京橋区銀座8丁目
・1910年(明治43年)「メイゾン鴻の巣」 東京市日本橋区日本橋小網町
・1910年(明治43年)「キサラギ」 大阪市西区旧大阪川口居留地の近く


松園珈琲1008-1.JPG
 台湾の花蓮県、松園珈琲の看板です。
 昨年伊佐さんが視察に行った時の画像です。


一方、
西南戦争で西郷隆盛が自刃した翌年、
大久保利通が暗殺された1878年(明治11年)に
インドネシアのジャワ島からコーヒー苗が
小笠原の父島の試験場に移植され
コーヒーの栽培テストが行われています。

明治11年の明治政府は、
明治天皇を主権者として
その下に政府の総責任者である太政大臣が設置され、
それと並行して、
明治維新に功績のあった「参議」が設置されていて、
太政大臣と右大臣、左大臣、
それと参議で、後年の内閣のような役割を担っていたようです。

明治11年の布陣は
太政大臣・三条実美 元公家
その下の右大臣が岩倉具視(左大臣は空白)
その下に実務部門の
 ・大蔵卿 大隈重信 元佐賀藩士
 ・外務卿 寺島宗則 元薩摩藩士
 ・陸軍卿 山形有朋 元長州藩士
 ・海軍卿 空白
 ・司法卿 大木喬任(たかとう) 元佐賀藩士
 ・宮内卿 大徳寺実則 元公家
 ・工部卿 伊藤博文(この下に鉄道局、電信局) 元長州藩士、といっても足軽
 ・文部卿 空白

 ・内務卿 大久保利通  元薩摩藩士 
      5月14日暗殺後の後任は伊藤博文が工部卿と兼務

 ・北海道開拓使 黒田清隆 元薩摩藩士
なお、明治維新に功績のあった「参議」は
 ・大久保利通 元薩摩藩士
 ・大隈重信 元佐賀藩士
 ・大木喬任 元佐賀藩士
 ・伊藤博文 元長州藩士
 ・寺島宗則 元薩摩藩士
 ・山形有朋 元長州藩士
 ・黒田清隆 元薩摩藩士
 ・西郷従道 元薩摩藩士
 ・川村純義 元薩摩藩士
 ・山田顕義(あきよし)元・長州藩士


農業は“内務卿”の担当部署ですが、
小笠原の父島にコーヒー苗が持ち込まれた1878年(明治11年)当時の内務卿は
大久保利通か、大久保暗殺後の後任は伊藤博文ですから
彼らのどちらかが日本国内で最初のコーヒー栽培に関わっていたことになります。

伊藤博文は奥さんがありながら芸者の梅子を妊娠させてしまい、
奥さんを追い出して再婚するのですが、
その2番目の妻・梅子が中心となって
1884年(明治17年)に行われた鹿鳴館婦人慈善会バザーで
「コーヒー、茶、レモナード」などを売る臨時店舗が2カ所作られたというのですから
硬派の大久保利通と軟派な伊藤博文ではどちらかというと
伊藤博文が小笠原でのコーヒー栽培試験の決裁書に
判を押した可能性が高いと思われますが、
決裁したのが伊藤博文だとすれば、
彼はコーヒーについてどんな想いが去来していたのでしょうか。

松園珈琲1008-2.JPG
 これも台湾の花蓮県、松園珈琲の看板で
 前の画像と並んで置いてあったものらしいです。
 店長お奨めの有機コーヒーを飲んでみたいですね。
 200元というと570円くらいかな…。
 昨年伊佐さんが視察に行った時の画像です。


自由党総理の板垣退助が
岐阜県での演説終了後に刺客に襲われ
重傷を負いながら
「板垣死すとも自由は死せず」
と言った1882年(明治15年)、
小笠原にコーヒー苗木が移植された4年後のことですが、
コーヒーが開花し初めての収穫があったようですが、
小笠原でのコーヒー栽培は定着しなかったようです。

小笠原島史によると、
コーヒー導入後28年後の1906年(明治39年)には
「収益面でサトウキビに劣ることから
  コーヒー栽培をする者はなく、放置されている」

と記録されているようですが、
小笠原にジャワからコーヒー苗木が持ち込まれた頃は
幕末から明治時代を迎え、海外諸国と不平等条約を結び
価格の安い海外の砂糖(白糖)が国内に流入し、
もともと南西諸島や小笠原を始めとした一部地域を除き
サトウキビそのものの栽培に不向きな日本では
コストも高く、品質も劣る国産の白砂糖は競争力がなく、
一部西洋型の製糖工場が建設されたものの、
1900年前後には、国内の製糖業は壊滅してしまいますが
日清戦争で勝利して台湾を領有し、
前5千円札肖像画の新渡戸(にとべ)稲造の尽力で
台湾経済の中心に据え置いた製糖業が
今日の近代的製糖業の基礎を築くのですが
小笠原のコーヒーが放置された背景には、
そうした国産糖業のあおりを受けてしまったのです。

台湾アラビカ1008-1.JPG
 台湾ではアラビカ種の中の「何という品種なのか?」
 ということはあまり問題ではないらしく
 「台湾アラビカ」というだけの、かなり大まかでアバウトですが、
 このタネもコーヒー山に撒いて発芽させています。


台湾総督府が台湾でコーヒー栽培を始める1910年(明治43年)は
日本が韓国を併合して領有した年ですが、
その前年、伊藤博文が中国吉林省哈爾濱(ハルビン)駅で
韓国の独立運動家・安重根(あんじゅうこん)に暗殺されてしまいます。

伊藤博文は日本の偉人ですが、
安重根は韓国の英雄です。
1984年までの日本の紙幣の肖像画は
 ・板垣退助
 ・岩倉具視
 ・伊藤博文

など、
幕末から明治時代の革新的な戦った偉人でしたが、
1984年の紙幣改定では、
 ・夏目漱石
 ・新渡戸稲造
 ・福沢諭吉

といった、同じ明治時代でも軍人や政治家は一掃されて、
ソフトな文学者や農学者などになりました。
これは1981年に五輪開催都市がソウルに決定し
1988年にソウル五輪が開催されたことと無関係ではなさそうですね。

大久保利通が暗殺された1878年(明治11年)に
インドネシアのジャワ島からコーヒー苗が
小笠原の父島の試験場に移植されコーヒーの栽培テストが行われましたが、
それをおそらく決裁したのが伊藤博文で
その伊藤博文が暗殺された翌年の1910年(明治43年)に
台湾でコーヒーが栽培されたというのも、
因縁めいているように思えてなりません。

台湾アラビカ1008-2.JPG
 現在沖縄県内で栽培されているコーヒーの品種は
 ブラジル産のものがほとんどですが、
 私は「ハワイやフィリピン、台湾、インドで栽培されている品種の方が
 沖縄の気候環境や土壌に向いている」と考えるようになり、
 近隣諸国からコーヒーのタネを取り寄せてタネ植えを始めています。
 ブラジル産は、断定出来ませんが、沖縄ではどうも生育期間が短いようで
 15年を過ぎると枯れ出す傾向にあるような感じがしています。
 そのため当初は出来る限り多くの品種を栽培しますが
 生育状況を見ながら、将来的に栽培品種を換えていくことも考慮しています。

posted by COFFEE CHERRY at 23:43| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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