2011年05月26日

コーヒー山の益虫・シマササグモ

コーヒーの葉の上に居る小さなシマササグモを見つけました。

ふつう、クモ(蜘蛛)というと、
“網”を張り巡らして
昆虫や蝶、蛾などを捕獲して
腹部後端から出す糸で
虫をグルグル巻きにする造網性のクモをイメージしますが、
ササグモやユウレイグモ、ハエトリグモなどは
網を張らないで徘徊して虫を捕食する徘徊性のタイプもいるのです。

シマササグモ110526-1.JPG
 ササグモ科ササグモ属ササグモ(笹蜘蛛)種の
 南西諸島に生息する「シマササグモ」です。
 腹部からするとメスのようですね。
 眼を左右2個ずつ、4個も持って
 獲物を見張っているのです。
 卵から孵化し幼虫から子グモになると
 以降兄弟姉妹はバラバラで単独行動し
 肉食性で自分とほぼ同じ大きさの虫まで
 捕食することが出来るようです。


画像の彼女の大きさは全長約10mmと
ミニモニsizeですから、
アブラムシやハダニ、毛虫、ハエ、蚊、バッタの子供、アリ…
といった小型の虫を捕食するのでしょうが、
ミツバチ、テントウムシといった益虫まで
食べてしまうのが難点ですが、
造網性のクモに対して徘徊性のクモの方が
害虫の天敵としての効果は高いとされているようですし、
シマササグモはコーヒー山では立派な益虫なのです。

画像の彼女も、
ふだんは草や樹木の枝や葉の上などを歩き回って獲物を探していて、
ひとたび目標を定めると、
サバンナのチーターがガゼルやインパラを捕獲するように、
というより、スパイダーマンのように
彼女も敏捷で、跳躍も巧みに
獲物に飛びつくように捕獲するのでしょう。

シマササグモ110526-2.JPG
 彼女の鋭い針状の毛が多数ある、
 たくましい足を見ていると、
 「九州は熊本人吉、姓は矢野、名は竜子。
   人呼んで緋牡丹のお竜と発します」
 というセリフで有名な
 昔の藤純子( 現・富司純子)主演による
 「緋牡丹博徒」シリーズ映画を思い出しました。
 明治の中期頃に時代設定をしていて、
 父を殺した犯人を捜しに、
 お竜さんが渡世修行の旅を続けて、
 正義のために活躍する姿が描かれている
 水戸黄門や遠山の金さんと同じような
 悪因悪果、勧善懲悪の映画でしたね。


最大瞬間風速が75mの猛烈な台風2号は
どうやら2週間前にやってきた台風1号と同様な進路で
沖縄本島の西沿岸部を北西の九州南部に向かって進むようです。
コーヒー山は自然の要塞なので大丈夫と思いますが
昨年8月末の台風7号の襲来では
ヤンバル一帯が2日半も停電になりましたから、
そっちの方が怖いかも。
posted by COFFEE CHERRY at 23:29| 沖縄 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーの害虫・益虫・タダの虫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月25日

ヤンバルのコンロンカはコーヒーの親戚

沖縄の梅雨は
「那覇ハーリーに始まり、糸満ハーレーで終わる」
といわれていて、
那覇ハーリーは観光化されて例年5月のGW中に行われ、
今年は5月3〜5日に行われました。
今年の沖縄地方の梅雨入りは平年より早く
4月30日でしたから、まあだいたい合っていますよね。

糸満ハーレーは例年、旧暦の5月4日に行われますが、
今年は6月5日(日曜)のようですから、
平年に比べて雨量が多い今年の沖縄の梅雨も
来月上旬には明けるのでしょうか。

国頭(くにがみ)村の東西の横断道路(県道2号線)や
太平洋側の県道70号線には、
「沖縄の梅雨の花」
として知られる
イジュやコンロンカが咲き乱れています。

イジュ110521-1.JPG
 沖縄本島では金武町より北の酸性土壌
 国頭マージでしか生えない、
 照葉樹のツバキ科 ヒメツバキ属で、
 沖縄では西表島にもイジュの原生林があるそうです。


イジュ110521-2.JPG
 ジメジメ・ジトジトの何かとマイナスイメージの多い梅雨でも
 イジュの白い花はひときわ明るく目立っています。
 梅雨の見かたを変えれば、雨で綺麗に洗われた新緑や
 新芽を出して成長する森林の息吹といった
 自然の恵みを感じることが出来る時期ですし、
 何より肌に優しい湿度も豊富な時期ともいえるわけです。


イジュ110521-3.JPG
 「綺麗な花には毒がある」、「綺麗なバラにはトゲがある」
 あるいは「毒ある花は美しい」など、いろいろ言い方はあるように、
 イジュにも“毒”があります。
 サポニンという毒で、この樹皮を袋に入れて
 叩いて樹液を出して川の上流に漬けると
 川下の魚が浮かび上がってくるそうで、
 昔はこういった使い方をしていたようです。


イジュ110521-4.JPG
 イジュは花には毒性はないようで、
 蝶やミツバチを始めとした虫たちが集まってきます。
 本島北部の養蜂農家では貴重な蜜源として
 「イジュのハチミツ」も販売されています。
 画像は林床地にバタバタと落ちている
 イジュの花です。


コンロンカは、
南西諸島から台湾にかけて自生していて、
「常緑半蔓性低木」
という、
直立性またはつる性の低木で、
「白い葉」
が最初に目に入り、とにかく目立ちます。

コンロンカ110521-1.JPG
 コーヒーやジャスミンなど、白い花はよくありますが、
 黄色い花の周りの「白い葉?」も綺麗です。


「白い葉」に見えるのは
葉ではなく、“苞(ほう)”という
花やつぼみの基部にあり
それらを保護するための葉っぱ状のもので
本当の花は、黄色い綺麗な星形の筒状花です。

コンロンカ110521-2.JPG
 白い葉っぱのような“苞(ほう)”は、
 花部の周りに5枚つくようです。


コンロンカ110521-3.JPG
 コンロンカの白い苞を見ていると、
 クリスマスのポインセチアの赤い葉を思い出してしまいます。


コンロンカは
「アカネ科コンロンカ属」
ですから
コーヒーやクチナシ、ノニ(ヤエヤマアオキ)の親戚なのです。

コーヒーノキは
「アカネ科コーヒーノキ属」
クチナシは
「アカネ科クチナシ属」
で、
ともに「アカネ科」の仲間になります。
コーヒー山にはクチナシも自生しています。

アカネ科植物は
熱帯系の草本や低木で、
アルカロイドを含む種が多いのが特長で
コーヒーノキのカフェインはアルカロイドという
一種の“毒”なのです。
そのためにイノシシ被害もありません。
鳥害が少ないのもそのせいかもしれません。

アカネ科キナ属のキナの樹皮には
マラリヤ特効薬キニーネというアルカロイドを含んでいます。

植物図鑑や百科事典、ネットのWikipediaなどで花名を調べると
分類(科、属)や学名、和名などが書いてありますが、
地球上の全ての生物の種は、永い時間の経過とともに
増えたり減ったり、絶滅したりを繰りかえして現在に至っています。

すべての生物は、
1種類の生物から順々に
樹木の幹からたくさんの枝が次々に分かれていくように
枝分かれ的に進化してきたと考えられていますが、
生物の進化的関係を樹木的に表現した図を
「系統樹」
といい、
根本的な最初の大分類を“界”といっています。

アリストテレスから中世までの分類では、
 ・動物界
 ・植物界

の2種類に分けていましたが(二界説)、
その後、三界説、四界説と増えて
18世紀になって、スウェーデンの博物学者カール・リンネが
五界説
 ・動物界
 ・植物界
 ・菌界
 ・原生生物界
 ・モネラ界

 (細胞核を持たない原核生物の全てを含む生物界)
を提唱し、
「界・門・綱・目・科・属・種」
というような
今日の生物分類法の主流が創り出されました。

「コーヒーノキ」
でいえば、
 ・植物界
 ・被子植物門
 ・双子葉植物網
 ・アカネ目
 ・アカネ科
 ・コーヒーノキ属


私たち「人間」は、
 ・動物界
 ・脊椎動物門
 ・哺乳綱
 ・霊長目
 ・ヒト科
 ・ヒト属
 ・ヒト 
となっています。

中山110520.JPG
 コーヒー山の真ん中の山に
 昨年8月31日の台風7号で
 直角に折れた木がそのままになっていて
 (まだ生きているために切断できない)
 台風のすさまじさを物語っています。


そういうわけで、
「コンロンカやクチナシはコーヒーの親戚」
になるといっても、
「それでも、ちょっと違うでしょう」
という方には、
例えば、
「ナス科」
 ・唐辛子
 ・ピーマン
 ・パプリカ

はスパイス系で何となく似ていませんか?

あるいは、
「ユリ科」
 ・ネギ
 ・ニラ
 ・ラッキョウ
 ・ニンニク
 ・タマネギ

だって似ているでしょう。

「シソ科」
 ・バジル
 ・ミント
 ・タイム
 ・セージ
 ・バジリコ
 ・ローズマリー
 ・シソ

も何となくハーブの同類っぽいですよね。

でも
「バラ科」
 ・バラ
 ・リンゴ
 ・梨
 ・ビワ
 ・アンズ
 ・ピラカンサ
 ・桜
 ・梅
 ・桃

こうなってくると、科目といっても
さすがに幅広いことが判ってきますね。

重機の道110520.JPG
 コーヒー山の中腹を南北に走る平坦の道には
 ハワイコナのモッカ種の苗木ポットが
 1,000個ほど置いてあるかな、
 苗木たちは移植まで
 コーヒー山の環境に慣れ親しんでもらっています。


台風2号が沖縄に接近中です。
今のところ28日(土曜日)21時頃に
沖縄本島南端に到達する速度で進んでいますが…、
困ったものです。
posted by COFFEE CHERRY at 23:54| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月22日

コーヒー山のサツマニシキ

5月18日(水曜)、梅雨の中休みで久しぶりに雨が上がり、
コーヒー山を点検していると、何やら不思議な生物を発見!

サツマニシキ110518-1.JPG
 南山近くの風が吹き抜ける尾根に
 元気なコーヒー苗木がたくさんの花芽を出しているのですが、
 この近くで見つけました。
 トロピカル的なメタリックで、
 森林内に不似合いな浮き出た発色の生物です。


何しろ、初めて見たので
「新種発見か?」
とも思ったのですが、
帰宅して調べてみると
「サツマニシキ奄美・沖縄本島亜種」
という、
マダラガ科、ホタルガ亜科の“蛾”で
残念ながら「新種発見」ではありませんでした。

国や県のレッドデータブックにも記載されていないので
希少種ではないのですが、
コーヒー山でも初めて見ました。

サツマニシキというと、薩摩の焼酎の銘柄や
大相撲の力士の四股(しこ)名をイメージしてしまいますから
名前と合っていないような感じですね。

実際にコーヒー山で見た彼は
デジカメ画像とは比較にならないほど
綺麗で目立っていたのですが、
どうも撮影は難しいですね。


サツマニシキ110518-2.JPG
 ふつうの蛾は夜間に活動しますが、
 サツマニシキはド派手な体色を自慢したいのか
 これ見よがしに日中に活動するようです。
 この胴体はメスらしいです。


サツマニシキ110518-3.JPG
 「蛾の仲間では最も綺麗」とされているようですから、
 「美人すぎる蛾」ともいえますが、
 良くいえば“豪華絢爛(けんらん)”、
 悪くいえば“元代々木ゼミナールの金ぴか先生”
 といったところでしょうか。


ツマムラサキマダラ101104.JPG
 少しピンボケですが、
 昨秋11月4日にコーヒー山で撮影した
 「ツマムラサキマダラ」です。
 少し似ているようなデザインですが、
 こちらはマダラチョウ科の“蝶”で、
 日本最大の蝶・オオゴマダラの親戚にあたります。
 こちらの方が断然綺麗に見えますが、
 サツマニシキに失礼かな?

posted by COFFEE CHERRY at 12:04| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒー山の動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月14日

台湾のコーヒー事情U(2011-6)日本統治時代の興味ある資料を発見B

各国ニ於ケル茶・珈琲ノ消費ヲ論ズ [書写資料] / ジャパン・ヘラルド新聞
明治9年2月11日「大隈重信が書いた」とされる資料です。

西南戦争の前年である
1876年(明治9年)の2月11日という、
おそらく冬のどんより曇った寒い日に
あるいは雪がしんしんと降っている日かもしれませんが、
明治政府の重鎮となった
41歳の大隈重信が大蔵卿内の立派な部屋にこもって
デイリー・ジャパン・ヘラルド(Japan Daily Herald)新聞の
記事の数値をソロバンで、計算尺かな?
とにかく電卓は当時無いですから
面倒な計算をして、コーヒーを飲みながら思いを巡らせ
原稿用紙に筆を走らせていたのでしょうか。

台湾統治は日清戦争後なので1895年(明治28年)ですから、
この大隈資料の作成時期は、まだまだ新政府内の主導権争いの時期で
「台湾コーヒー」とは直接関係ありませんが、
台湾総督府に関する台湾コーヒーの資料を探している時に見つけたので
このカテゴリのファイルに入れてしまいましたが、
マズかったかな…。

この大隈資料の2〜3ページでは、
「各国のコーヒー消費量と人口の割合、1人1年の割合」
つまり
各国における1人当たりの年間消費量の比較」
が書かれています。
紙面の都合上、というより面倒くさいので
2,3ページ下欄の“茶”はカットして、
上欄のコーヒーだけを記しましょう。

重さ(量目)の単位「磅」は“ポンド”のことで、
Wikipediaによると、現在は
1ポンド=16オンス=7000グレーン=0.453 592 37kg
と定義されていて、
英国では1878年の度量衡法によって“帝国ポンド”
1ポンド=約0.453 592 338kg
が定義され、
明治初期は帝国ポンドと思いますが、
数字的にはほとんど大差ないので、
上記の現在の“常用ポンド”で計算しました。

・白耳義 ベルギー 16.875ポンド=7,655g
・和欄 オランダ 13.75ポンド=6,237g
・瑞西 スイス 10.375ポンド=4,706g
・日耳曼 ゲルマン 7.875ポンド=3,572g 
・佛欄西 フランス 4.625ポンド=2,098g 
・墺地利 オーストリア 2.75ポンド=1,247g
・貌列真 プロイセン? 1.875ポンド=851g
・伊太利 イタリア 1.75ポンド=794g
・西班牙 スペイン 0.5ポンド=227g
・露西亜 ロシア 0.333ポンド=151g


(プロイセンは当時のドイツ北部からポーランド西部の王国のことで、
 当時の欧州5大国は、イギリス、フランス、オーストリア、
 プロイセン、ロシアでしたから
「 貌列真」はプロイセンではないかと思うのですが、いかがでしょうか?)

参考までに、現在の
「各国における1人当たりの年間消費量」
は、全日本コーヒー協会の統計資料(PDF)に出ていますので
こちらをご覧下さい。


3ページ後半からの大隈の考察を要約すると、
・茶とコーヒー(を両方見比べると)の消費量が少ないのは
 墺地利(オーストリア)、西班牙(スペイン)、露西亜(ロシア)といった
 先進国(富国)ではない国々だ
・伊太利(イタリア)や佛欄西(フランス)の消費量が少ないのは
 食事でワインを飲むからだ
・諸外国ではビール瓶を数百万本も消費するが、ビールを区別してみると、
 ベルギー、オランダ、スイス、ゲルマン諸国では、
 軽いビールのためにコーヒーをガブ飲みし、
 濃厚なビールを飲むイギリス人は、茶をガブ飲みしている
・不肖私自身はビールを飲まなくなり、ワインを少しだけ飲むが、
 商法会議所の報告によると、輸入の茶は6千万ポンド(2万7,216トン)、
 コーヒーは10万トンという状況になっているものの、
 この一部はその後輸出もしている
・これを全量国内消費したと仮定すると、
 我が国人口4,400万人の老若男女の区別なく計算すると、
 年間国民1人当たり、コーヒーは4.625ポンド(2,098g)、
 茶は1.375ポンド(624g)に過ぎない。
・我が国の茶の消費量はオランダとだいたい同じだが、
 コーヒーは約3倍、ビールに至っては約56倍もの開きがある
・日本茶の消費量は各国と比べても高い部類になる
・日本のコーヒーの消費量はフランスと同等だが、
 フランスにはワインを飲む習慣があり、
 フランス人は年間1人当たり130リットル、つまり200本の瓶を飲んでいるし、
 またその他の果実酒(リンゴ酒)やビールまで換算すると、
 日本のコーヒー消費量はかなり少ないと言わざるを得ない
・そもそもアメリカ人はヨーロッパ各国の人々に比べるとワインを飲む習慣は少なく、
 またビールや茶、コーヒーなどもまだ浸透せず、
 現状は水や牛乳、ウィスキーが中心である
・水と牛乳は優れた飲み物で、
 寒暖差がある地域での労働者にとっては大事な飲み物には違いないが、
 日本では精神力で乗り越えられる
・精神力に効き目があるかどうかは判らないが、
 問題のない飲み物は茶とコーヒー以外にはない
・主旨としては、茶やコーヒーには物品税を課さない、
 また見かたを変えれば茶とコーヒーは
 倹約の徳を持つ人間にこそふさわしい飲料でもある
・最近、イギリスで、同国が輸入する茶についての調査で、
 輸入茶100ポンド(45.4kg)のうち、
 上ランクの茶を飲む人は17ポンド(7.7kg)、
 中ランクの茶を飲む人は38ポンド(17.2kg)、
 下ランクの茶を飲む人は45ポンド(20.4kg)
 といった割合だという

というようなことが書かれています。

また、この明治9年は、太政官布告で、
全国の道路を、その重要度によって
 ・国道
 ・県道
 ・里道

の3種に定められています。

さらに、
これを1〜3等といった級等を定めて、
例えば国道の1等は幅7間(約13m)、
県道は4.5間(約9m)としました。

@ 国道
 ・帝都である東京から各開港場に達するもの
 ・東京より伊勢神宮、及び二府(京都・大阪)各師団に達するもの
 ・東京より各県庁に達するもの、及び各県庁を連結するもの
 ・東京から各鎮守府に達するもの、及び各鎮守府と各師団とを連結するもの
A 県道
 ・各県を連結し、及び各師団より各分営に達するもの
 ・各県を連結し、及び各師団より各分営に達するもの
 ・各府県庁よりその支庁、郡役所に達するもの
 ・著名の区より都府(東京)に達し、
  或いはその辺りに位置すべき便宜の港湾等(鉄道停車場を含む)に達するもの
B 里道
 ・あれこれの数区、大字を貫通し、或いは甲区より乙区に達するもの
 ・用水、堤防、牧場、抗山、製造所などのため、
  設区人民の協議によって特に設けられたもの
 ・神社、仏閣及び田畑耕転のため設けるもの


以下、大隈重信が幕末から出世街道を昇りつめ、
上記の資料を作成するまでの過程を顧みてみましょう。
以下長くなるので興味がない方はここで終了して下さい。


大隈重信は7歳で佐賀(鍋島)藩の藩士子弟を
強制的に教育させるための藩校「弘道館」に入学しています。

一般的に藩校では、
 ・7〜8歳で入学して読み書きを習う
 ・その後武芸を学び
 ・14〜15歳から20歳くらいで卒業する

という、
いわば現在の慶応や立教、青山学院といった
エスカレーター式というか、
一種のキャリア教育のようなシステムで、
教育内容は、儒学の根本経典四書五経、
@ 四書
 ・大学
 ・中庸
 ・論語
 ・孟子
A 五経
 ・易経(周易)
 ・書経(尚書)
 ・詩経
 ・礼(儀礼)
 ・春秋

の素読と習字を中心として、
幕末には
 ・儒学、蘭学、朱子学
 ・武芸(剣術・槍術・柔術・射術・砲術・馬術など)
 ・医学
 ・化学
 ・物理学
 ・西洋兵学

などの専門学寮を併設する
事実上の総合大学にまで発展していたようですが、
大隈の7歳入学は、異例なことではなく、
当時としてはごく普通のことだったようです。

鎖国下、中国とオランダの商船の入港が認められた長崎出島に近い佐賀藩は、
幕府から福岡藩と1年交代での警備を命ぜられていたり、
度重なる台風や洪水、飢饉などの自然災害もあって、
藩財政が苦しかったところに、
幕末の頃には、
 ・イギリスのフリゲート艦が長崎へ侵入して
  オランダ商館の引渡しを要求したフェートン号事件
 ・黒船来航の前後にはプチャーチン率いるロシアの使節団が長崎に寄港
  といった騒動もあり、藩内の緊張は高まり始めて
  10代藩主・鍋島直正は藩政改革の柱として
 ・積極的な支出制限
 ・役人の削減(3割の420名をリストラ)による行政の簡素化、集中化
 ・参勤交代の人数を約100名減
 ・農村の立て直しによる安定した年貢の徴収

の他に
「少壮気鋭の優秀な人材育成」
を掲げます。

江戸時代中期に、
佐賀藩藩士・山本常朝(つねとも)の
武士としての心得や、古人の遺訓、
歴史伝説、実話物語、歴史人物評などについての見解を
“武士道”という用語で口述したものを、
同藩士・田代又左衛門陣基(つらもと)が聞き取り、
さらに田代がその後自身で調べた記録などを加えて巻別に整理し、
全11巻(約1,300章)という大作にまとめあげたのが
「葉隠(はがくれ)聞書(ききがき)」
で、
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」
という強烈なメッセージで有名な書ですが、
これが江戸中期以降「鍋島魂」の真髄とされ
佐賀藩の思想書、倫理書と位置付けられて
藩校「弘道館」で、この精神を受け継いできたのです。

ちなみに、旧5千円札肖像画の新渡戸(にとべ)稲造による著書「武士道」は、
日本固有の世界観・道徳観を西洋哲学やキリスト教と対比しながら解いた書で、
「鍋島魂」の「葉隠聞書」とはまったく違うものです。

武士道.JPG
 原本は約170ページの英語の本で、
 題名は「BUSHIDO」(武士道)、
 サブタイトルは「THE SOUL OF JAPAN」(日本の魂)
 著者は明治時代のクリスチャン、
 新渡戸稲造(にとべ いなぞう)です。
 名護市図書館から借りましたが
 3,000円もする高価な本です。


“鍋島魂”の「武士道」精神でも、
藩財政の悪化、役人の質的凋落は
現在の日本経済同様でどうにもならないところまできていて、
佐賀藩では“三病”
、つまり
 ・嫉妬
 ・優柔不断
 ・負け惜しみ

も問題視されるようになり、
幕末の10代藩主直正の側近で
藩校教官の古賀穀堂は、
藩政改革の「優秀な人材育成」のために
「学政管見(がくせいかんけん)」
という、
弘道館教育の本質と目標を述べ、
藩主として心がけるべき学政の
最も肝要な点についての意見や
藩政建直しの最重要点として弘道館教育の拡張が記され
有能人材の登用、江戸諸国への遊学の勧めなど
旧封建制の束縛を打開する言説を勧め、
「文武両道」の重要性を説いた思想を藩校教育に取り入れ、
さらに、これを具体化した
「済急封事(さいきゅう ふうじ)」
では、
「この病、高貴、高官の人に甚だしく、
これらの人、不学、文盲にして
自分の持ち前の才学を妬(ねた)み人に利を求める心なく、
道理に暗くただ今日の手数で何事も済む様に覚え、
学問の講究これなく、ただ単に一兵書を聞き覚えるだけで
天下の事はこれにて済む様に存知、
又「葉隠」一巻にて今日の事は事たる様に存知…
槍剣等の一つの小技を覚えただけで心地を試すと大言壮語し、
武事ただ一事一芸にて済む様に存じ、
兵道のこと、武備えの事は到(いた)って疎(うと)く、
御国初以来の合戦の事も聞き覚えぬ位にて、
一生を送る者多く、誠に浅ましい事と言うべき…」

と書かれていて、
 ・学問を軽視し、“武”ばかりが重視されている「葉隠」
 ・「葉隠」さえ読んでいれば事足りる

といった藩風が痛烈に批判されていて、
「視野を広げ、海外の知識や技術を吸収しなければ、
外国船が来ても対応できず、長崎警備の大役は果たせない…」

と、積極的に洋学を推奨し、
「これから新しい時代になる」
という時代の先を読み、先見の明があった古賀の提起を原点に
弘道館の教育方針は
精神論から実用の学問である洋学へ移っていき
副島(そえじま)種臣(たねおみ)や江藤新平、
大隈重信といった優秀な学生が感化されていくのです。

2度目のペリー来航で日米和親条約が締結させられ、
同年のペリー来航前後にはプチャーチン率いるロシアの使節団が
2度にわたって長崎に寄港して
日本中が大混乱になっている翌年の1855年(安政2年)
大隈重信が18歳のときに
弘道館の内生寮(現在の高校・大学に相当)で騒動が起こります。

幕府の弱腰外交で日本中が大混乱になっているさ中でも
内生寮の授業は旧態依然のままで、
ひたすら四書五経を読み、儒学を学ぶばかりなので、
古賀穀堂の「学政管見」や「済急封事」思想を熱烈指示する改革派と
従来の儒学に熱心な保守派とが激しく対立し、
内生寮の南北に分かれての大論争からついには殴り合いに発展し、
議論好きだった大隈は騒動の首謀者とみなされて
弘道館を退学処分になってしまうのです。

大隈はすぐに復学が許されたものの、
内生寮には戻らず同館内の蘭学寮に転入すると、
他の学生たちも大挙して蘭学寮への進学を希望したそうです。
藩校内の南北騒動も、大隈の影響で多くの学生たちの意識を洋学に向けさせ、
視野を広げる大きな契機にもなった出来事だったようですね。

弘道館を卒業した大隈は長崎に出て
英国議会制度や米国合衆国憲法など米英学を学ぶのですが、
ここで米国人宣教師フルベッキに出会い師事,
世界へ目を向け、政治家になることを志し、
1865年(慶応元年)大隈が28歳のときに
長崎に英学塾「致遠館」を設立し、
多くの青年たちを教育します。

その2年前の1863年(文久3年)には、
関門海峡を通過する米国商船を
長州藩は外圧・外敵を撃退する攘夷の攻撃を行いますが
大隈は長州藩援助を企て、
朝廷は長州藩を朝敵であると判断し、
幕府に対して翌年長州征伐の勅命を下すのですが、
大隈は10代佐賀藩主・鍋島直正をかついで
朝幕間に斡旋しようとするも失敗しています。

1867年(慶応3年)3月大隈(30歳)は
佐賀藩士・副島(そえじま)種臣(たねおみ)と共に脱藩し、
勤王の志士として京都に赴(おもむ)き、
徳川15代将軍慶喜に面会して政権奉還を訴えようとするのですが、
捕えられ、捕縛されて佐賀に送還され、1カ月の謹慎処分を受けています。
同年10月に大政奉還され、
同年12月には坂本龍馬が京都の近江屋で
中岡慎太郎と共に刺客に暗殺されますが、
大隈はもしかしたら長崎や京都で、
坂本龍馬とも面談したことがあるのではないでしょうか。

1868年(明治元年)、31歳の大隈は
薩摩藩家老・小松帯刀(たてわき、当時33歳)の推挙で
長崎の外国事務局判事となりますが、
この年、新政府を戦慄させる外交事件が起こります。
新政府は、旧幕時代からのキリスト教禁令の方針をそのまま踏襲し、
信者を弾圧したため各国の公使を憤慨させてしまいます。
英国公使のパークスが各国代表となり、
新政府にキリスト教禁令の撤廃を求めるのですが、
以下、司馬遼太郎の「歳月」によると、

歳月 司馬遼太郎.jpg
 肥前佐賀藩士・江藤新平は1867年(慶応3年、33歳)大政奉還を知るや
 「乱世こそ自分の待ちのぞんでいたときである」と、
 藩の国政への参画と自分の栄達をかけて、藩の外交を担い、上京し、
 卓抜な論理と事務能力で頭角を現します。
 明治維新の激動期を司法卿として敏腕をふるいながらも、
 1873年(明治6年、39歳)の征韓論争で反対派の大久保利通、岩倉具視らと対立し、
 西郷隆盛らと政界を去り、翌年故郷の佐賀で佐賀の乱を起こし、
 41歳の若さで亡くなるのですが、激動の中、その栄光と挫折を描いた歴史小説です。


政府はおどろき、この全権は、佐賀の大隈しかない、ということになった。
「長崎にいる大隈八太郎という佐賀ものは、
 およそ外国人というものを怖れず、かれらを煙に巻き、その前で大法螺をふく」
というのが当時京都まで鳴りひびいていた評判であった。
なにしろパークスは傲岸(こうがん)で怒りっぽい上に、
高圧的態度だけが極東における外交の唯一の手であると信じている男だけに、
それと渡り合う相手としては尋常一様の人物では間にあわず、
よほどの奇物を出す必要があろうというのが新政府の人選方針であった。
大隈はそれにえらばれた。
大隈にとって、かれが歴史の階段を駈けのぼるいわば最初の一段であったであろう。


また、Wikipediaの「大隈重信」の下欄“逸話”によると、  

イギリス公使ハリー・パークスは
「日本の行っている事は野蛮国のすることであり、
今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ。」
と抗議してきた。
その対応に手をこまねいていた明治政府は、交渉役に、
英語が話せ、キリスト教の知識もあった大隈を選び派遣した。
しかし当時大隈はまだ31歳だったため、
パークスは
「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ!」
と激怒したという。
しかし大隈は
「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、
抗議は全面撤回とみなす。
また、あなたの言うことは、
国際法で禁止されている内政干渉である。」
と言い返し、互角に渡った。
パークスは日本を極東の小さな島国ぐらいにしか思っていなかったため、
日本の若者の口から“国際法”や“内政干渉”という
単語が出てきた事に驚いたという。
さらに大隈は
「或る歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。
又或る宗教家は言う、欧州の歴史は即ちキリスト教の歴史なりと。
この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史は即ち戦乱の歴史なり。
キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。
キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、
世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは
是何者の所為なり。」
と続け、
今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとして、
パークスを説得した。


上記のように、海外渡航歴がない大隈は、
「海外の事情には誰よりも精通している」
という自負があり、
政府の期待に応えて英国公使パークスと堂々とわたり合い勇名をはせ,
岩倉使節団たちの度肝を抜いて外国官副知事に抜擢されます。
翌年会計官副知事,次いで大蔵大輔となり,
鉄道・電信の建設,工部省の開設などに尽くし,
1870年(明治3年、33歳)参議に昇進。
1873年(明治6年、36歳)に大蔵卿に就任してから
1881年(明治14年、44歳)10月の政変で辞任するまで,
地租改正,秩禄処分や殖産興業政策をすすめ,
大隈財政を展開して資本主義の基礎を築きました。

今日の大隈の資料は、
1876年(明治9年)2月11日付けですから
そういう出世街道に乗り出した時期のものなのです。


大隈重信の名言
諸君は必ず失敗する。ずいぶん失敗する。
成功があるかも知れませぬけれども、成功より失敗が多い。
失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たなければならぬ。
たびたび失敗すると、そこで大切な経験を得る。
この経験によって、もって成功を期さなければならぬのである。


この言葉は私にとってずいぶん勇気付けてくれるものです。
なにしろ私は失敗の積み重ねで今に至っているのですから。

「沖縄でコーヒー栽培を定着させるためには何が問題で、
 それをどう克服するか?」

という観点で試行錯誤しながら
今後も失敗をピラミッドのごとく積み重ねていかないといけませんね。

posted by COFFEE CHERRY at 20:38| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月11日

大震災から2カ月が経過しました

このたびの東北関東大震災から今日で2カ月が経過しました。
多数の尊い命が失われ、
亡くなられた方々に深く哀悼の意を捧げるとともに,
慣れない避難所生活を余儀なくされている13万人以上の方々が
これ以上の不幸がないように、
また被災地の方々全員に心からお見舞い申し上げます。

地震は自然界では繰り返し起こる地殻変動で
その予知も大事ですが、
必ず将来起こる事象としてとらえて、
その入念な準備と対策は
常日頃から考えておかなければいけません。

奥共同売店110508.JPG
 沖縄で最初にOPENした国頭村の奥共同売店。
 集落のコンビニみたいなもので、
 値段的には高く品揃え的には少ないのですが、
 車の運転が出来ない高齢者の買物はもちろん、
 ゆんたくコミュニティとしても欠かせない
 集落民出資による共同運営店舗なのです。
 沖縄には各集落ごとにあります。


鎌倉時代の随筆、鴨長明の「方丈記」は、
「ゆく河の流れ」
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。


で始まるエッセイで、
私が中学生時代の国語では強制的に丸暗記させられたものです。

石碑110508.JPG
 奥共同売店入口にある石碑です。
 これによると明治39年(1906年)、
 台湾総督府の第4代児玉源太郎・総督と
 後藤新平コンビの最終年度のこの年に
 糸満盛邦氏の尽力でOPENされたことが
 記されています。


先週名護市立図書館で借りた
「永井路子の方丈記、徒然草(集英社)」
は、現代語訳で読みやすくなっていて、
序文の「ゆく河の流れ」の永井路子さんの現代語訳では、

 絶えることのない、河の流れ。
行きて還(かえ)らぬ流れの水は、昨日のそれではない。
また、流れもせずにいるかに見える淀(よど)みに浮かぶ水の泡は、
消えては浮かび、浮かんでは消え、その命はたちまち尽き、
瞬時もこの世にとどまることのないはかなさだ。
 世の中の人々の命も、すみかもまたこれにひとしい。
絢爛(けんらん)たる都の中に、
競うがごとく並びたつ貴賎(きせん)の家は世々尽きもしないが、
よく見れば、昔からの家は数少ない。
あるいは去年焼けて今年は造り変えたとか、
あるいは大きい家がほろんで小さい家になるとか…。
住む人もこれに同じこと、所は同じ京の中、
人も同じく多いけれど、昔からの顔見知りは二、三十人のうち、
わずかに一人、二人である。
 生まれ、かつ死んでゆく人間たちよ。
どこから来て、どこへ去ってゆくのか。
たちまちうつろう仮のすみかのために、
何を悩んだり喜んだりして心を煩(わずら)わせているのか。
人とすみかと先を争って滅んでゆく姿は、
あたかも朝顔の花と露のようなもの。
あるいは露がこぼれて花のみ残るものもあるが、
それも朝日の前ではしおれて生気を失ってゆく。
あるいは花がしぼんで露が消えないこともあるが、
それも夕(ゆうべ)までの命は保ちはしない。


と書かれていて、とても読みやすいです。
無常な世の中にただ絶望するのではなく、
その現実を受け入れながらも
自分らしさを見失なわず、
淡々と生きることの大切さが説かれたエッセイで
約800年前の鎌倉時代中期でも、
文明は違っても、人間の本質はまったく変わらないようですね。

永井路子の方丈記.JPG

この方丈記には“大地震”のことも書かれています。

「元暦の大地震」  
また、同じころだったか、ひどい大地震があった。
その有り様は、並み大抵のものではなく、
山は崩れて河を埋め、
海が傾くような津波が陸地を浸した。
土が裂けて水が噴き出し、
岩石が崩れて谷に転落した。
岸部を漕(こ)ぐ船は波に翻弄(ほんろう)され、
道行く馬は足元定まらず、立ってもいられないという有り様。

都のあたりでは所々の堂塔が壊れ、
ひとつとして完全な姿を保つものはなかった。
あるいは崩れ、あるいは倒れ、
その塵挨(じんあい)がもうもうと煙のように立ち上がった。

大地が揺れ、家の壊れる音は雷鳴と変わりがない。
家の中に居れば、たちまちその下敷きになって押しつぶされそうになるし、
走り出れば足元の大地が地割れする恐ろしさ…。

羽根がないから空を飛ぶことも出来ないし、
竜なら雲にも乗れようがそれも出来ない。
恐ろしい中でも最も恐ろしいのはこの地震だと、
思い知ったことだった。

 これほどの激震はまもなくして止んだけれども、
余震はしばらくは止まず、
普通のときだったらびっくりするほどの地震が、
日に二、三十度ない日はなかった。
十日、二十日と過ぎてやっと間遠になり、
一日のうち四、五回、あるいは二、三度になり、
一日置き、また二、三日に一度というふうになったが、
こんなふうにして、余震は三か月も続いたろうか。

天地を構成する四大種(四要素=地、水、火、風)の中で、
水と火と風はいつも災害をもたらすが、
大地だけは常に動かず、
災いを起こさないと思っていたのに、
この有り様とは…。
昔、斉衡(さいこう)年間(854〜857年)とかに大地震があって、
東大寺の大仏の首が落ちるなど、
大変なこともあったけれども、
それでも今度の大異変には及びもつかない、
とか人々は言いあった。

 その災害の当時は、人々は、
しょせん世の中ははかないものだなと語りあって、
この世への執着や欲望も少しは薄らいだように見えたけれども、
歳月が過ぎればそういうことを口にする人さえいない。


この大地震は1185年(元暦2年7月)に起きた
「文治京都地震」
のことで、
同年3月の壇ノ浦の戦いで平氏は全滅したことから
当時“平家の怨霊”といわれた
マグニチュード7.4の大震災だったようです。

最近の大地震と比較しても
・1995年(平成7年) 淡路阪神大震災 M7.3
・2004年(平成16年)新潟県中越地震 M6.8
・2011年(平成23年)東北地方太平洋沖地震 M9.0

耐震設計ではない木造平屋建てが多かったはずですから
被害も相当大きかったはずです。

また、過去の地震を調べてみると、  
平安時代と現代に奇妙な一致があることが判ります。

@平安時代
 ・出羽地震 850年 震源:秋田県 M7.0
 ・越中・越後地震 863年 震源:富山県 
          M不明も直江津付近の小島が壊滅という伝承
 ・貞観三陸地震 869年 震源:岩手〜福島沖 M8.3〜8.6

A現代
 ・日本海中部地震 1983年 震源:秋田県 M7.7
 ・新潟県中越地震 2004年 震源:新潟県直下型 M6.8
 ・東北地方太平洋沖地震 2011年 震源:岩手〜茨城沖 M9.0

秋田県を震源とする地震が起こると、
約20年後に新潟県で地震があり、
それから10年以内に三陸沖に地震が起きています。
他の地域でも、そういう法則というか傾向があるのかもしれませんね。

私は地震の研究家ではないので、法則というのはおかしいですが。
予期しにくい地殻変動で起こる偶発的に起こるのが地震ですから、
地震列島の日本では、
どこに住んでいても備えだけは忘れてはいけない、
ということはいえると思います。

沖縄本島には、現在台風1号が接近していて
Weathernewsによると夕方には本島に直撃しそうな感じです。
地震の備えが必要だ、というわりには
“台風の備え”は実はほとんど出来ていません。
台風1号が発生して、沖縄に向かって来そうだと判ってからも、
暴風で飛びそうなモノを片づけたくらいで、
「バナナとか倒されなければいいな」
と自宅の中で心配しているくらいです。
自宅庭にはカカオのタネ植えの黒ポットやプランターがあちこちに置いてあり、
またバナナは島バナナ、台湾バナナ、イスラエルバナナ、調理バナナ、
ボリビアバナナなど多くの品種が
自宅庭や隣接するバナナ畑に植えてあるのですが、
昨年8月31日の台風7号の時に
バナナを守るために一部ロープで補強したら
まったく役に立たなかったこともあり、
バナナも台風の前では無防備状態なのです。
早く通過してほしいものです。

コーヒー山は自然の要塞ですから、
影響はほとんどないと安心しているのですが、
台風の後に、10m前後の上空からイタジイや松などの
枯れ枝が落下してくるので、
背丈くらいしかないコーヒーたちは
その直撃を受けると困るのですが、
それも対処のしようがないですよね。

トビズムカデ110510.JPG
 沖縄県にはオオムカデ、トビズムカデ、タイワンオオムカデ
 セスジアカムカデという4種類のムカデが生息していて、
 肉食性ですから昆虫などを食べているのですが、
 凶暴なので「咬みつかれるとハチに刺されたような痛みがある」
 といわれていますが、咬まれたくないです。
 画像は我が家の外の新聞入れBOXに居候している
 トビズムカデの青年で体長約12cmでしょうか。
 新聞や郵便物を取る時は、いつも要注意なのです。

posted by COFFEE CHERRY at 14:26| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 台風の被害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月10日

台湾コーヒーが日本で流通? 台湾コーヒーが日本で流通?

フジサンケイビジネスアイの
2004年(平成16年)6月26日付10面の
「フルーツとコーヒー豆 台湾が対日輸出拡大へ」
という7年前の記事を、
産経新聞社読者サービス室がご親切に探し出して頂き、
そのコピーを先日郵送して頂くことが出来ました。

フジサンケイビジネスアイの記事.JPG

読者サービス室によると、
「当時の台湾支局の河崎真澄記者が書かれた記事」
とのことで、
台湾産の露地マンゴーやコーヒーが日本向けに輸出され、
「スタバも注目している」
という内容になっています。

この記事は7年前のものですが、
その後“台湾コーヒー豆”が
消費者に浸透出来ているのかというと疑問ですよね。

供給量に問題がないとするなら、
こういう時に問題になるのは「品質」です。
私は生産者ですから、
「産地がどうこう」
という産地にこだわる意見も、もちろんあるでしょうが、
その前に
「消費者が満足出来うる品質なのか?」
ということを、
生産者が自ら自問自答して常々生産していないと
「レベルの高い消費者にとても相手にされない」
と考えて、毎日試行錯誤を続けています。

沖縄でも、少しずつコーヒー栽培をする方が増えていて、
私が掌握しているだけでも約40名に上ります。
それぞれがレベルの高い次元で
“高品質化”を目指して栽培研究しながら
お互いに切磋琢磨して刺激し合いたいところですが、
相変わらず海外産と混ぜながら国産とか沖縄産とかに偽装するとか
化学肥料や除草剤を撒きながら
自然栽培とか有機栽培を主張するとかなどの生産者が居て
「沖縄産コーヒー」の信用を落とす努力をしている人も
残念ながら居るのです。

「売れればいい」
とか
「お土産レベルで充分だ」
とか
「混ぜちゃえば判りっこないよ」
とか、
理念の違いといえばそれまでですが、
私は沖縄でのコーヒー栽培は、
カカオも同様ですが
「本土では出来ない(=露地栽培出来ない)特色ある農産物」
として、
もっともっと真面目に、高いハードルを設けて、
そこに到達する方法を考え抜き、
少しくらい失敗してもあきらめずに
取り組む生産者が増えてほしいと願っています。


アメリカの発明王、トーマス・エジソンも、
下記のような名言を残しています。

・なぜ成功しない人がいるかというと、
 それは考える努力をしないからだ。
・ほとんどすべての人間は、
 もうこれ以上アイデアを考えるのは
 不可能だというところまで行きつき、
 そこでやる気を無くしてしまう。
 勝負はそこからだというのに。
・人生における失敗者の多くは、
 あきらめた時にどれだけ成功に近づいていたかに
 気づかなかった人たちである。
・私たちの最大の弱点はあきらめることにある。
 成功するのに最も確実な方法は、
 常にもう1回だけ試してみることだ。
・失敗なんかしちゃいない。
 うまくいかない方法を700通り見つけただけだ。
・「失敗?」
 これはうまくいかないということを確認した成功だよ。


ということは、
私は失敗の積み重ねなので、
「微力ながら成功に近づきつつある」
のでしょうか?
沖縄の気候風土に最も合う品種もまだ見つけられないので、
まだまだ道は険しいのですが、
コーヒー山の土地所有者の
「何とか国頭村に雇用が出来るようにしてほしい、
 コーヒーが国頭村の特産物になればいいね。
 若者に仕事がなく、名護や那覇に見送るのはつらい。」

という切実な思いを
私が何とか叶えたい、というより
「何としても国頭村でコーヒー栽培を定着させて、高品質の豆を生産させる」
という、
不屈の闘志だけは絶対に曲げられない事情を
私は背負っているのです。

牧場の野鳥110510.JPG
 自宅の近くに牧場があり、
 通りすがりに珍しい野鳥を発見しました。
 海岸から直線距離で約1km、近くには沼もありますし、
 何より大きい、カラスの2〜3倍はあります。
 コウノトリ目サギ科サギ亜科アオサギ属「ムラサキサギ」でしょうか?
 だとすると八重山で繁殖して、
 沖縄本島ではなかなか見られない“迷鳥”扱いされている野鳥で、
 沖縄県のレッドデータブック(「鳥」63ページ下)でも
 絶滅危惧U類に指定されているのですが、
 どなたか詳しい方がいましたら何の鳥か教えて下さい。


放牧110510.JPG
 放牧中の黒牛に混じっている鳥はアマサギです。
 こちらはレッドデータブックに登録がない
 ふつうにどこでも見られる鳥ですが、
 牛に天敵のカラスから守ってもらう代わりに
 牛に付いたハエなどを食べたり、
 牛の背中に載せてもらったりと、
 仲良く共生していて、
 まさに自然のサファリランドですね。
posted by COFFEE CHERRY at 15:07| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月09日

台湾のコーヒー事情U(2011-5)日本統治時代の興味ある資料を発見A

前回「日本統治時代の興味ある資料を発見@」の、
日本統治下での
台湾における当時のコーヒー研究と調査活動状況が書かれている資料には、
 ・明治政府内の推進者とその取り組み
 ・小笠原や沖縄での試験栽培の経過及び結果
 ・当時の海外での現状
 ・当時の日本での需要と可能性
 ・台湾での課題と可能性

などが論じられている可能性があります。

特に沖縄は戦災で資料の多くが焼失して不明なことが多いので、
本島南部の、私の引越し前の住居があった
南風原町の沖縄県公文書館に行ったとしても、
沖縄での明治時代のコーヒー試験の資料が無い可能性が高いと思われますから、
台湾総督府時代のコーヒー関係の資料は
沖縄コーヒーも含めて小笠原も含めた国産コーヒーの歴史をひも解くための
非常に重要な鍵を握っているような気がして
いつか調べなければいけない資料だと考えています。

私のコーヒー栽培事業は、あいにく起業前の零細個人のレベルですから
現実的に黒バケツや黒ポリポット、プランターなど必要資材の購入を最優先すると
残念ながら研究費の余裕はまったく無いので、起業後に事業が安定してから
「台湾を含めた当時の日本のコーヒー栽培の取り組み」
を調べてみようと思います。

また、東洋文庫には以下のような資料があることが判りましたが、
これは東京ですね…。



 ・「雲南省事情」 糟谷廉二著 1924年台湾総督官房調査課編集
 ・「世界におけるカカオ」 芳賀鍬五郎著 1925年台湾総督官房調査課編集
 ・「蘭領東印度に於けるカカオの栽培」 ドクトル・ヴェー・ループケ述 
    台湾総督官房調査課(訳) 1925年台湾総督官房調査課出版



国頭村奥「鯉のぼり祭り」.JPG
 国頭村の奥(おく、という集落名です)で
 5月3〜8日にかけて行われた「奥ヤンバル鯉のぼり祭り」
 の会場です。
 沖縄地方は4月30日に梅雨入りして、5月5日までは
 豪雨状態でしたから500~600もの鯉のぼりも
 雨に取り忘れた洗濯物状態だったようです。
 撮影は昨日8日(日曜)で、曇りでしたが、
 閑散としていましたね。
 昔シンガポールの裏町で見た
 建物の各部屋からポールを外に出して洗濯物を干す姿を
 思い出しました。
posted by COFFEE CHERRY at 14:16| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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