2011年05月14日

台湾のコーヒー事情U(2011-6)日本統治時代の興味ある資料を発見B

各国ニ於ケル茶・珈琲ノ消費ヲ論ズ [書写資料] / ジャパン・ヘラルド新聞
明治9年2月11日「大隈重信が書いた」とされる資料です。

西南戦争の前年である
1876年(明治9年)の2月11日という、
おそらく冬のどんより曇った寒い日に
あるいは雪がしんしんと降っている日かもしれませんが、
明治政府の重鎮となった
41歳の大隈重信が大蔵卿内の立派な部屋にこもって
デイリー・ジャパン・ヘラルド(Japan Daily Herald)新聞の
記事の数値をソロバンで、計算尺かな?
とにかく電卓は当時無いですから
面倒な計算をして、コーヒーを飲みながら思いを巡らせ
原稿用紙に筆を走らせていたのでしょうか。

台湾統治は日清戦争後なので1895年(明治28年)ですから、
この大隈資料の作成時期は、まだまだ新政府内の主導権争いの時期で
「台湾コーヒー」とは直接関係ありませんが、
台湾総督府に関する台湾コーヒーの資料を探している時に見つけたので
このカテゴリのファイルに入れてしまいましたが、
マズかったかな…。

この大隈資料の2〜3ページでは、
「各国のコーヒー消費量と人口の割合、1人1年の割合」
つまり
各国における1人当たりの年間消費量の比較」
が書かれています。
紙面の都合上、というより面倒くさいので
2,3ページ下欄の“茶”はカットして、
上欄のコーヒーだけを記しましょう。

重さ(量目)の単位「磅」は“ポンド”のことで、
Wikipediaによると、現在は
1ポンド=16オンス=7000グレーン=0.453 592 37kg
と定義されていて、
英国では1878年の度量衡法によって“帝国ポンド”
1ポンド=約0.453 592 338kg
が定義され、
明治初期は帝国ポンドと思いますが、
数字的にはほとんど大差ないので、
上記の現在の“常用ポンド”で計算しました。

・白耳義 ベルギー 16.875ポンド=7,655g
・和欄 オランダ 13.75ポンド=6,237g
・瑞西 スイス 10.375ポンド=4,706g
・日耳曼 ゲルマン 7.875ポンド=3,572g 
・佛欄西 フランス 4.625ポンド=2,098g 
・墺地利 オーストリア 2.75ポンド=1,247g
・貌列真 プロイセン? 1.875ポンド=851g
・伊太利 イタリア 1.75ポンド=794g
・西班牙 スペイン 0.5ポンド=227g
・露西亜 ロシア 0.333ポンド=151g


(プロイセンは当時のドイツ北部からポーランド西部の王国のことで、
 当時の欧州5大国は、イギリス、フランス、オーストリア、
 プロイセン、ロシアでしたから
「 貌列真」はプロイセンではないかと思うのですが、いかがでしょうか?)

参考までに、現在の
「各国における1人当たりの年間消費量」
は、全日本コーヒー協会の統計資料(PDF)に出ていますので
こちらをご覧下さい。


3ページ後半からの大隈の考察を要約すると、
・茶とコーヒー(を両方見比べると)の消費量が少ないのは
 墺地利(オーストリア)、西班牙(スペイン)、露西亜(ロシア)といった
 先進国(富国)ではない国々だ
・伊太利(イタリア)や佛欄西(フランス)の消費量が少ないのは
 食事でワインを飲むからだ
・諸外国ではビール瓶を数百万本も消費するが、ビールを区別してみると、
 ベルギー、オランダ、スイス、ゲルマン諸国では、
 軽いビールのためにコーヒーをガブ飲みし、
 濃厚なビールを飲むイギリス人は、茶をガブ飲みしている
・不肖私自身はビールを飲まなくなり、ワインを少しだけ飲むが、
 商法会議所の報告によると、輸入の茶は6千万ポンド(2万7,216トン)、
 コーヒーは10万トンという状況になっているものの、
 この一部はその後輸出もしている
・これを全量国内消費したと仮定すると、
 我が国人口4,400万人の老若男女の区別なく計算すると、
 年間国民1人当たり、コーヒーは4.625ポンド(2,098g)、
 茶は1.375ポンド(624g)に過ぎない。
・我が国の茶の消費量はオランダとだいたい同じだが、
 コーヒーは約3倍、ビールに至っては約56倍もの開きがある
・日本茶の消費量は各国と比べても高い部類になる
・日本のコーヒーの消費量はフランスと同等だが、
 フランスにはワインを飲む習慣があり、
 フランス人は年間1人当たり130リットル、つまり200本の瓶を飲んでいるし、
 またその他の果実酒(リンゴ酒)やビールまで換算すると、
 日本のコーヒー消費量はかなり少ないと言わざるを得ない
・そもそもアメリカ人はヨーロッパ各国の人々に比べるとワインを飲む習慣は少なく、
 またビールや茶、コーヒーなどもまだ浸透せず、
 現状は水や牛乳、ウィスキーが中心である
・水と牛乳は優れた飲み物で、
 寒暖差がある地域での労働者にとっては大事な飲み物には違いないが、
 日本では精神力で乗り越えられる
・精神力に効き目があるかどうかは判らないが、
 問題のない飲み物は茶とコーヒー以外にはない
・主旨としては、茶やコーヒーには物品税を課さない、
 また見かたを変えれば茶とコーヒーは
 倹約の徳を持つ人間にこそふさわしい飲料でもある
・最近、イギリスで、同国が輸入する茶についての調査で、
 輸入茶100ポンド(45.4kg)のうち、
 上ランクの茶を飲む人は17ポンド(7.7kg)、
 中ランクの茶を飲む人は38ポンド(17.2kg)、
 下ランクの茶を飲む人は45ポンド(20.4kg)
 といった割合だという

というようなことが書かれています。

また、この明治9年は、太政官布告で、
全国の道路を、その重要度によって
 ・国道
 ・県道
 ・里道

の3種に定められています。

さらに、
これを1〜3等といった級等を定めて、
例えば国道の1等は幅7間(約13m)、
県道は4.5間(約9m)としました。

@ 国道
 ・帝都である東京から各開港場に達するもの
 ・東京より伊勢神宮、及び二府(京都・大阪)各師団に達するもの
 ・東京より各県庁に達するもの、及び各県庁を連結するもの
 ・東京から各鎮守府に達するもの、及び各鎮守府と各師団とを連結するもの
A 県道
 ・各県を連結し、及び各師団より各分営に達するもの
 ・各県を連結し、及び各師団より各分営に達するもの
 ・各府県庁よりその支庁、郡役所に達するもの
 ・著名の区より都府(東京)に達し、
  或いはその辺りに位置すべき便宜の港湾等(鉄道停車場を含む)に達するもの
B 里道
 ・あれこれの数区、大字を貫通し、或いは甲区より乙区に達するもの
 ・用水、堤防、牧場、抗山、製造所などのため、
  設区人民の協議によって特に設けられたもの
 ・神社、仏閣及び田畑耕転のため設けるもの


以下、大隈重信が幕末から出世街道を昇りつめ、
上記の資料を作成するまでの過程を顧みてみましょう。
以下長くなるので興味がない方はここで終了して下さい。


大隈重信は7歳で佐賀(鍋島)藩の藩士子弟を
強制的に教育させるための藩校「弘道館」に入学しています。

一般的に藩校では、
 ・7〜8歳で入学して読み書きを習う
 ・その後武芸を学び
 ・14〜15歳から20歳くらいで卒業する

という、
いわば現在の慶応や立教、青山学院といった
エスカレーター式というか、
一種のキャリア教育のようなシステムで、
教育内容は、儒学の根本経典四書五経、
@ 四書
 ・大学
 ・中庸
 ・論語
 ・孟子
A 五経
 ・易経(周易)
 ・書経(尚書)
 ・詩経
 ・礼(儀礼)
 ・春秋

の素読と習字を中心として、
幕末には
 ・儒学、蘭学、朱子学
 ・武芸(剣術・槍術・柔術・射術・砲術・馬術など)
 ・医学
 ・化学
 ・物理学
 ・西洋兵学

などの専門学寮を併設する
事実上の総合大学にまで発展していたようですが、
大隈の7歳入学は、異例なことではなく、
当時としてはごく普通のことだったようです。

鎖国下、中国とオランダの商船の入港が認められた長崎出島に近い佐賀藩は、
幕府から福岡藩と1年交代での警備を命ぜられていたり、
度重なる台風や洪水、飢饉などの自然災害もあって、
藩財政が苦しかったところに、
幕末の頃には、
 ・イギリスのフリゲート艦が長崎へ侵入して
  オランダ商館の引渡しを要求したフェートン号事件
 ・黒船来航の前後にはプチャーチン率いるロシアの使節団が長崎に寄港
  といった騒動もあり、藩内の緊張は高まり始めて
  10代藩主・鍋島直正は藩政改革の柱として
 ・積極的な支出制限
 ・役人の削減(3割の420名をリストラ)による行政の簡素化、集中化
 ・参勤交代の人数を約100名減
 ・農村の立て直しによる安定した年貢の徴収

の他に
「少壮気鋭の優秀な人材育成」
を掲げます。

江戸時代中期に、
佐賀藩藩士・山本常朝(つねとも)の
武士としての心得や、古人の遺訓、
歴史伝説、実話物語、歴史人物評などについての見解を
“武士道”という用語で口述したものを、
同藩士・田代又左衛門陣基(つらもと)が聞き取り、
さらに田代がその後自身で調べた記録などを加えて巻別に整理し、
全11巻(約1,300章)という大作にまとめあげたのが
「葉隠(はがくれ)聞書(ききがき)」
で、
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」
という強烈なメッセージで有名な書ですが、
これが江戸中期以降「鍋島魂」の真髄とされ
佐賀藩の思想書、倫理書と位置付けられて
藩校「弘道館」で、この精神を受け継いできたのです。

ちなみに、旧5千円札肖像画の新渡戸(にとべ)稲造による著書「武士道」は、
日本固有の世界観・道徳観を西洋哲学やキリスト教と対比しながら解いた書で、
「鍋島魂」の「葉隠聞書」とはまったく違うものです。

武士道.JPG
 原本は約170ページの英語の本で、
 題名は「BUSHIDO」(武士道)、
 サブタイトルは「THE SOUL OF JAPAN」(日本の魂)
 著者は明治時代のクリスチャン、
 新渡戸稲造(にとべ いなぞう)です。
 名護市図書館から借りましたが
 3,000円もする高価な本です。


“鍋島魂”の「武士道」精神でも、
藩財政の悪化、役人の質的凋落は
現在の日本経済同様でどうにもならないところまできていて、
佐賀藩では“三病”
、つまり
 ・嫉妬
 ・優柔不断
 ・負け惜しみ

も問題視されるようになり、
幕末の10代藩主直正の側近で
藩校教官の古賀穀堂は、
藩政改革の「優秀な人材育成」のために
「学政管見(がくせいかんけん)」
という、
弘道館教育の本質と目標を述べ、
藩主として心がけるべき学政の
最も肝要な点についての意見や
藩政建直しの最重要点として弘道館教育の拡張が記され
有能人材の登用、江戸諸国への遊学の勧めなど
旧封建制の束縛を打開する言説を勧め、
「文武両道」の重要性を説いた思想を藩校教育に取り入れ、
さらに、これを具体化した
「済急封事(さいきゅう ふうじ)」
では、
「この病、高貴、高官の人に甚だしく、
これらの人、不学、文盲にして
自分の持ち前の才学を妬(ねた)み人に利を求める心なく、
道理に暗くただ今日の手数で何事も済む様に覚え、
学問の講究これなく、ただ単に一兵書を聞き覚えるだけで
天下の事はこれにて済む様に存知、
又「葉隠」一巻にて今日の事は事たる様に存知…
槍剣等の一つの小技を覚えただけで心地を試すと大言壮語し、
武事ただ一事一芸にて済む様に存じ、
兵道のこと、武備えの事は到(いた)って疎(うと)く、
御国初以来の合戦の事も聞き覚えぬ位にて、
一生を送る者多く、誠に浅ましい事と言うべき…」

と書かれていて、
 ・学問を軽視し、“武”ばかりが重視されている「葉隠」
 ・「葉隠」さえ読んでいれば事足りる

といった藩風が痛烈に批判されていて、
「視野を広げ、海外の知識や技術を吸収しなければ、
外国船が来ても対応できず、長崎警備の大役は果たせない…」

と、積極的に洋学を推奨し、
「これから新しい時代になる」
という時代の先を読み、先見の明があった古賀の提起を原点に
弘道館の教育方針は
精神論から実用の学問である洋学へ移っていき
副島(そえじま)種臣(たねおみ)や江藤新平、
大隈重信といった優秀な学生が感化されていくのです。

2度目のペリー来航で日米和親条約が締結させられ、
同年のペリー来航前後にはプチャーチン率いるロシアの使節団が
2度にわたって長崎に寄港して
日本中が大混乱になっている翌年の1855年(安政2年)
大隈重信が18歳のときに
弘道館の内生寮(現在の高校・大学に相当)で騒動が起こります。

幕府の弱腰外交で日本中が大混乱になっているさ中でも
内生寮の授業は旧態依然のままで、
ひたすら四書五経を読み、儒学を学ぶばかりなので、
古賀穀堂の「学政管見」や「済急封事」思想を熱烈指示する改革派と
従来の儒学に熱心な保守派とが激しく対立し、
内生寮の南北に分かれての大論争からついには殴り合いに発展し、
議論好きだった大隈は騒動の首謀者とみなされて
弘道館を退学処分になってしまうのです。

大隈はすぐに復学が許されたものの、
内生寮には戻らず同館内の蘭学寮に転入すると、
他の学生たちも大挙して蘭学寮への進学を希望したそうです。
藩校内の南北騒動も、大隈の影響で多くの学生たちの意識を洋学に向けさせ、
視野を広げる大きな契機にもなった出来事だったようですね。

弘道館を卒業した大隈は長崎に出て
英国議会制度や米国合衆国憲法など米英学を学ぶのですが、
ここで米国人宣教師フルベッキに出会い師事,
世界へ目を向け、政治家になることを志し、
1865年(慶応元年)大隈が28歳のときに
長崎に英学塾「致遠館」を設立し、
多くの青年たちを教育します。

その2年前の1863年(文久3年)には、
関門海峡を通過する米国商船を
長州藩は外圧・外敵を撃退する攘夷の攻撃を行いますが
大隈は長州藩援助を企て、
朝廷は長州藩を朝敵であると判断し、
幕府に対して翌年長州征伐の勅命を下すのですが、
大隈は10代佐賀藩主・鍋島直正をかついで
朝幕間に斡旋しようとするも失敗しています。

1867年(慶応3年)3月大隈(30歳)は
佐賀藩士・副島(そえじま)種臣(たねおみ)と共に脱藩し、
勤王の志士として京都に赴(おもむ)き、
徳川15代将軍慶喜に面会して政権奉還を訴えようとするのですが、
捕えられ、捕縛されて佐賀に送還され、1カ月の謹慎処分を受けています。
同年10月に大政奉還され、
同年12月には坂本龍馬が京都の近江屋で
中岡慎太郎と共に刺客に暗殺されますが、
大隈はもしかしたら長崎や京都で、
坂本龍馬とも面談したことがあるのではないでしょうか。

1868年(明治元年)、31歳の大隈は
薩摩藩家老・小松帯刀(たてわき、当時33歳)の推挙で
長崎の外国事務局判事となりますが、
この年、新政府を戦慄させる外交事件が起こります。
新政府は、旧幕時代からのキリスト教禁令の方針をそのまま踏襲し、
信者を弾圧したため各国の公使を憤慨させてしまいます。
英国公使のパークスが各国代表となり、
新政府にキリスト教禁令の撤廃を求めるのですが、
以下、司馬遼太郎の「歳月」によると、

歳月 司馬遼太郎.jpg
 肥前佐賀藩士・江藤新平は1867年(慶応3年、33歳)大政奉還を知るや
 「乱世こそ自分の待ちのぞんでいたときである」と、
 藩の国政への参画と自分の栄達をかけて、藩の外交を担い、上京し、
 卓抜な論理と事務能力で頭角を現します。
 明治維新の激動期を司法卿として敏腕をふるいながらも、
 1873年(明治6年、39歳)の征韓論争で反対派の大久保利通、岩倉具視らと対立し、
 西郷隆盛らと政界を去り、翌年故郷の佐賀で佐賀の乱を起こし、
 41歳の若さで亡くなるのですが、激動の中、その栄光と挫折を描いた歴史小説です。


政府はおどろき、この全権は、佐賀の大隈しかない、ということになった。
「長崎にいる大隈八太郎という佐賀ものは、
 およそ外国人というものを怖れず、かれらを煙に巻き、その前で大法螺をふく」
というのが当時京都まで鳴りひびいていた評判であった。
なにしろパークスは傲岸(こうがん)で怒りっぽい上に、
高圧的態度だけが極東における外交の唯一の手であると信じている男だけに、
それと渡り合う相手としては尋常一様の人物では間にあわず、
よほどの奇物を出す必要があろうというのが新政府の人選方針であった。
大隈はそれにえらばれた。
大隈にとって、かれが歴史の階段を駈けのぼるいわば最初の一段であったであろう。


また、Wikipediaの「大隈重信」の下欄“逸話”によると、  

イギリス公使ハリー・パークスは
「日本の行っている事は野蛮国のすることであり、
今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ。」
と抗議してきた。
その対応に手をこまねいていた明治政府は、交渉役に、
英語が話せ、キリスト教の知識もあった大隈を選び派遣した。
しかし当時大隈はまだ31歳だったため、
パークスは
「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ!」
と激怒したという。
しかし大隈は
「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、
抗議は全面撤回とみなす。
また、あなたの言うことは、
国際法で禁止されている内政干渉である。」
と言い返し、互角に渡った。
パークスは日本を極東の小さな島国ぐらいにしか思っていなかったため、
日本の若者の口から“国際法”や“内政干渉”という
単語が出てきた事に驚いたという。
さらに大隈は
「或る歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。
又或る宗教家は言う、欧州の歴史は即ちキリスト教の歴史なりと。
この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史は即ち戦乱の歴史なり。
キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。
キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、
世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは
是何者の所為なり。」
と続け、
今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとして、
パークスを説得した。


上記のように、海外渡航歴がない大隈は、
「海外の事情には誰よりも精通している」
という自負があり、
政府の期待に応えて英国公使パークスと堂々とわたり合い勇名をはせ,
岩倉使節団たちの度肝を抜いて外国官副知事に抜擢されます。
翌年会計官副知事,次いで大蔵大輔となり,
鉄道・電信の建設,工部省の開設などに尽くし,
1870年(明治3年、33歳)参議に昇進。
1873年(明治6年、36歳)に大蔵卿に就任してから
1881年(明治14年、44歳)10月の政変で辞任するまで,
地租改正,秩禄処分や殖産興業政策をすすめ,
大隈財政を展開して資本主義の基礎を築きました。

今日の大隈の資料は、
1876年(明治9年)2月11日付けですから
そういう出世街道に乗り出した時期のものなのです。


大隈重信の名言
諸君は必ず失敗する。ずいぶん失敗する。
成功があるかも知れませぬけれども、成功より失敗が多い。
失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たなければならぬ。
たびたび失敗すると、そこで大切な経験を得る。
この経験によって、もって成功を期さなければならぬのである。


この言葉は私にとってずいぶん勇気付けてくれるものです。
なにしろ私は失敗の積み重ねで今に至っているのですから。

「沖縄でコーヒー栽培を定着させるためには何が問題で、
 それをどう克服するか?」

という観点で試行錯誤しながら
今後も失敗をピラミッドのごとく積み重ねていかないといけませんね。

posted by COFFEE CHERRY at 20:38| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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