2011年07月15日

戦後の沖縄コーヒーの祖の他界U

昨日、山城武徳先生のご自宅に8年ぶりに伺いました。

私は山城先生にはコーヒー栽培について、
ご親切に詳しく教えていただき、
感謝しきれないほどのご恩があるのです。

私はコーヒー山をお借りする前に
本島の金武(きん)町以北のあちこちで
コーヒー栽培の用地を数年ががりで探し求めていたり、
本島南部の南風原町のテスト圃場での栽培実験などに
明け暮れていたために、
ずっと山城先生のことが気になりながらも
「栽培場所が確定して引越ししてからご挨拶にお伺いしよう」
と決めていて、
山城先生の体調が悪化していたことや
亡くなられたことも知らなかったのですが、
悔やまれてなりません。

2003年秋の山城先生の農園110714-1.JPG
 この画像は、今から8年前の2003年秋の頃に撮影したものです。
 幅70〜80cm、高さ2.5mのハイビスカス(アカバナー)の防風柵を
 7mごとに平行に配置し、7m間に2列のコーヒーを移植するのが
 “山城方式”の真髄でした。
 高さ2.5mのハイビスカスの防風柵を7m間隔にして、
 その間に樹高2mでピンチしたコーヒーを植えると、
 「コーヒーが暴風にやられない」
 という計算され尽くしたすばらしい堅固な農園でした。
 大型台風が上陸するたびに、翌日農園を伺い、
 「どのくらいの被災があったのか」
 見に行ったものです。
 実際に大きな被災があったのは見たことはなく、
 先生が塩害対策のために、貯水プールの水で潮を洗い流している場面に
 私が伺ったこともありました。
 この山城方式に基づいて、当時の南風原町のテスト圃場では
 栽培テストを日々繰り返し悪戦苦闘していたことを思い出します。


昨日、山城先生のご自宅の奥様にお電話してから伺い、
ご仏壇に焼香することが出来ました。
また、奥様から
「昨年7月23日に大腸ガンで亡くなられた」
「早朝にご自宅で倒れ、救急車で搬送中に苦しまずに亡くなられた」
「亨年81歳だった」
「(奥様は)名護市の三高女(沖縄県立第三高等女学校、現・県立名護高校)当時は
 身体が弱いのでずっと看護婦になるのが夢だったけど、
 教員になり、多くの教え子に恵まれ教員になって良かった」

ことや、
山城先生の生前の元気な頃の昔話なども伺い、
多くの写真も拝見させていただいて、
往時の懐かしさと同時に寂しさも感じました。

2003年秋の山城先生の農園110714-2.JPG
 この画像も2003年秋の頃に撮影したものです。
 1本の成木で10〜15kgの実が収穫されていて
 見ているだけで鳥肌が立つほど感動したものでした。
 私がヤンバルのコーヒー山をお借りするまでは
 この山城方式を再現するつもりで、
 平坦のまとまった土地にこだわって探していました。
 先月の6月25日に名護市民会館で行われた
 名桜大学主催の「ヤンバルコーヒーフォーラム」は
 本来山城先生がプレゼンされるべきものでしたが、
 その諸先輩方の“思い”は、
 しっかりと受け継いでいかなければいけません。


このわずか2年の間に
和宇慶朝伝先生や足立 浩さん、山城武徳先生と
「沖縄(=国産)コーヒー栽培の第一人者」
といわれた方々が、相次いで亡くなられてしまいました。

現在は“自称”を除いて、
「第一人者」とか「後継者」と目される方は沖縄にはいません。
評価は自身がするものではなく、他人がするものですし、
その「自称・後継者」も、
先生は生前良く言われていませんでしたから、
まったくその身勝手さには私は閉口してしまいます。

現在の山城先生の農園110714.JPG
 現在の山城先生の農園です。
 往時とはあまりにも悲惨な光景で見るのも辛いです。
 平家物語の書き出し、
  「祇園精舎の鐘の声
   諸行無常の響きあり
   沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色
   盛者(じょうじゃ)必衰の理(ことわり)をあらわす
   おごれる人も久しからず
   ただ春の世の夢のごとし
   たけき者も遂には滅びぬ
   偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ」
 祇園精舎の鐘の響きは、
 全ての作られたものは一定の状態に留まらず移り変わるという
 「諸行無常」の精神を語っている。
 釈迦がなくなる時に枯れたという沙羅双樹の花の色は、
 勢い栄えるものも必ず滅びる「盛者必滅」の道理をあらわしている。
 おごり昂ぶる者も長く続くためしはない。
 ただ春の夜の夢のように、はかないものである。
 勢いの盛んな者も最終的には滅びてしまう。
 まるで風の前の塵のようなものだ。

 もちろん、山城先生はおごり高ぶることは一度もない
 親切で優しい立派な先生でしたが、
 私は先生のこの農園の往時を見ているだけに、
 「先生の気力の衰えに、木の精も相呼応してしまったのかな」
 と思わざるを得ない、寂しく悲しい光景です。



沖縄戦を生き抜き、
中部農林高校の教員となって、
同じく同校教員の奥様とご結婚されたのですが
山城先生は、教員募集(当時は教員が不足していたので
学歴や教職課程の学習の有無などは無関係だったようです)
を新聞で見て応募する前は、
「20以上も仕事を変えた、何でもやった」
と先生から直接お聞きしていますが、
先生がすごいのは、
「どの仕事にも精進して自分のものにしている」
ことなのです。
例えば、土木建築、左官、瓦職人、大工、
船大工(実際にサバニを2艘作られたようです)、
電気工事などは言うに及ばず、
農園での貯水プールや小屋も先生がひとりで作り上げていました。
とにかく立派な先生で、
ご冥福を心からお祈り申し上げます。

「論語」桑原武夫著110714.JPG
 今から2,400年も前の春秋時代末期の
 孔子とその弟子たちの言行を記した「論語」の
 為政第二の十一、
  「子曰、温故而知新、可以爲師矣」
 子曰わく、故(ふる)きを温(あたた)めて新しきを知る、
 以て師と為(な)す可(べ)し。

 桑原武夫先生のこの本では、
 「温故」の“温”は「たずねる」ではなく、
 本来の意味は
 「冷えた食物をもう一度温(あたた)め直す」
 ことだとされていて、
 原文は
 「過去の伝統を冷えきったそのままで固守するのではなく、
  それを現代の火にかけて新しい味わいを問いなおす、
  そうしたことが出来て、初めて他人の師となることが出来る」
 という意味だとされています。
 初唐の
  「書譜(しょふ)巻上、呉郡孫過庭(呉郡は地名、孫過庭が名前)撰」
 という巻物の「二」の
  「馳鶩沿革,物理常然。
   貴能古不乖時,今不同弊,所謂
   文質彬彬,然後君子」
 馳鶩沿革(ちぶえんかく)は、物理常に然(しか)り。
 能く古(こ)にして時に乖(そむ)かず、
 今にして弊 (へい)を同じくせ不(ざ)るを貴ぶ。
 文質彬彬として然る後に君子なり。
 も同様の意味合いだし、
 松尾芭蕉は「奥の細道」の東北・北陸の旅で
 昔から和歌に歌われてきた憧れの地が、
 実際は変わり果ててしまっていた悲しい現実に出会い落胆したり(流動性)、
 古来言い伝えられてきたそのままに今も残るものに感動したり(普遍性)して、
 芭蕉の俳諧理論の根本をなす「不易・流行」という真理を体得するのですが、
 これも「温故而知新」と同じように考えられるかもしれない、
 と書かれています。
 私が「以て師と為(な)す可(べ)し」という考えは毛頭ありませんが
 和宇慶先生や山城先生の“思い”を貫徹させるために、
 「防風対策や品種選定など、改良する部分は変えていかなければいけない」
 と決意を新たにしました。

posted by COFFEE CHERRY at 16:17| 沖縄 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月04日

フィトンチッドとアレロパシ−を考える@

沖縄が返還される3年前の1969年(昭和44年)に
アポロ11号の3人の搭乗員が
「人類史上初めて月面に到達した」
ことの真偽はともかくとして、
今から50年前の1961年(昭和36年)には、
旧・ソ連のガガーリンが人類初の宇宙飛行を成功させ、
帰還後に
「地球は青かった」
という、あまりにも有名な言葉を残しています。

また「東山ブルー」といわれる群青色の作品を中心に
“青の世界”を描いた現代を代表する
日本画家・東山魁夷(かいい)の山の絵を象徴するように、
私たちが遠くの木々の生い茂った山々を眺めても
緑ではなく青く見えますよね。

コーヒー山からの展望2.JPG
 コーヒー山から東側を見た山々は
 確かに木々の緑よりも山が青っぽく見えます。


これは科学的には、可視光線の中で
波長が長い赤は大気中の水分によって吸収されたり、
途中で散乱したりして、
橙、黄色、緑色、青と次第に波長が短くなり、
波長の短いものはより遠くまで届くために
「遠くの山は緑が少なく、青や紺色しか伝わってこない」
という、ヒトの生理現象によることは
昔、理科で習ったことがありました。

また、北宋代(日本では平安時代)の著名な詩人・蘇軾(そしょく)は
晩年、政敵の策謀によって弾劾(だんがい)を受け
その心境を弟に長い遺詩を残すのですが、
その中の「其(その)一」では、
以下のように書かれています。

聖主如天万物春   聖主、天の如く万物、春なるに
小臣愚暗自亡身   小臣、愚暗にして自ら身を亡ぼす
百年未満先償債   百年、未だ満たざるに先ず債を償(つぐない)い
十口無帰更累人   十口、帰するところ無く更に人を累せん
是処青山可埋骨   是(いた)る処の青山 骨を埋む可し
他年夜雨独傷神   他年の夜雨 独り神を傷(いた)ましめん
与君世世為兄弟   君と 世世 兄弟と為りて
又結来生未了因   又 来生 未了の因を結ばん

(現代訳)
清明なる天子の徳は天のようにあまねく、
万物に春のように施されるのに、
私は愚かにもみずから身を亡ぼすことになった。
天に与えられた寿命を全うすることもなく、
前世の罪業を償わねばならない。
私の十人の家族はよりどころを失い君を煩わすこととなるだろう。
何処の青山(墓所)であれ、私の骨を埋めることは出来るが、
この後君は独り夜の雨を聞きながら心を痛めなければならないだろう。
君とは何度生まれ変わっても兄弟となって、
この世で尽くせなかったえにしを来世で結ぼうではないか。


という、
獄中から傷心を、遠い青山を望み見ることで
それを少しでも和らげたい、と期待しながら
無常観に打ちひがれて、
自らの獄中での死を予期し、
仲の良い弟への兄弟愛を詠った詩ですが、
遠くの山々を眺めたときに青みがかって見えることが
もともと人間が自然と共生して生きてきたDNAが
懐かしさや安心さ、悠然さを感じさせるようです。
人類が800万年前に登場したとしたら、
人間が森林から離れて都市に住みだしたのが
180年頃前の産業革命当時とすると、
「人類は99.9%は森林と共生して生きてきた」
「近代人が都市に住みだしたのは人類学上ではまだ最近のこと」
ともいえるはずです。

コーヒー山からの展望.JPG
 コーヒー山の中から、西側を見た風景です。
 近い山はあまり青っぽく見えませんね。
 はるか遠くに東シナ海をはさんで、本部半島の
 今帰仁村側が見えます。
 良い天気の日は伊江島まで見えますよ。


フィトンチッドとは、
「高等植物が傷つくと、その周囲の環境にある他の生物を殺す何かの物質を出す」
という現象で、
それがどうやら“青い粒子”のようなのです。
これは次回から掘り下げていく予定ですが
1930年頃にソ連の研究者が発見したのです。
古来から、中国の漢詩には“青山”が多く出てきますし、
ジャマイカ原産のブルーマウンテンだって
和訳すると「青い山」ですよね。

ジャマイカは1509年にスペインが占領し、
植民地政策で原住民を激減させましたが
その原住民が
「Xaymaca(ザイマカ、“木と水の国”)」
と名付けた島で
コロンブスが1492年の第2次航海のときに
この島をカリブ海の中で発見したときには
「今まで見た中で最も美しい島」
と絶賛した、といわれています。

日本の地名でも、
 ・青山
 ・青島
 ・青森
 ・青野
 ・青田
 ・青井
 ・青木
 ・青樹
 ・青葉
 ・青谷

など、
“青”を冠する、
土地と結びついた地名も多く、
「遠くの山々を見たら青く見えるのは可視光線のせいさ」
と、何でもかんでも単純に片づけられないようで、
樹木が発散する有機微粒子が、
タバコの煙の粒子と同様な光の現象として
可視光線をさらに強めるような作用があり
その青っぽく見せる粒子が
「Blue haze(ブルーヘイズ)」
と、呼ばれています。

この地球全体の樹木から発散されている多量の青いもやを
ガガーリンが
「地球は青かった」
と見たのではないかと思うのです。

(次回に続く)
posted by COFFEE CHERRY at 19:55| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | フィトンチッドとアレロパシ− | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月01日

今日は「山に入ってはいけない“山留め”の日」

琉球新報のお悔やみ(訃報)欄を見ていると
 ・カマド
 ・ナベ
 ・カメ
 ・ツル
 ・ウシ

という、
特に大正以前生まれの
女性の高齢者(オバァ)の名前が目につきます。

この名前は、
琉球王朝時代から引き継がれてきて
長く苦しい歴史的背景があるのです。

バナナロード110630.JPG
 延々と続くバナナロードを含んだ上、
 画面では右上がコーヒー山です。


琉球王朝時代は、
武士が支配する封建社会でしたから
土地は琉球王朝のものであり、
農民も琉球王朝に従属、支配されていました。

関ヶ原の戦いの9年後、今から402年前の1609年に
薩摩(島津)が琉球王国を侵攻し、
以降1879年(明治12年)の廃藩置県(琉球処分)まで
270年も琉球王国は占領され続けるのですが、
この間の農民は薩摩(島津)と琉球王朝の二重支配下に置かれ、
さらに重い税が課されて悲惨な生活にあえいでいたようです。

林床地内110630.JPG
 わりあい平坦な林床地内の画像です。

東アジアのハブとして君臨していた大交易時代の
琉球王朝は栄華と繁栄を誇っていましたが、
王朝一族や武士などの少数の特権階級が豊かなのであり、
差別対象の農民はしいたげられていたような文献を多く目にします。

アジアの海の古琉球.JPG
 「アジアの海の古琉球」という税込5040円の高価な本です。
  当然、名護市図書館からお借りしました。
 琉球王府の外交文書を記録した「歴代宝案」や明朝の記録「明実録」、
 「朝鮮王朝実録」といった三種の漢文史料を請密に分析され、
 この時代に刊行されていた種々の文献とも併せて、
 琉球三山(北山・今帰仁城、中山・浦添城「首里城」、南山・島尻大里城)や
 第一尚(しょう)氏の時代から第二尚氏の尚寧(しょうねい)王の時に
 島津の侵攻(1609年)を受けるまで琉球が独立国として
 アジアに君臨した時期を“古琉球”として、
 琉球の「大航海時代」が最も史実に近い形で描かれている本だと思います。


1879年(明治12年)の沖縄県になってからは
明治政府の身分制度廃で武士階級も廃止され
ようやく四民平等になるのですが、
明治以降でも、大地主が許されたことで、
琉球王朝時代に土地を所有していた武士出身者は
明治以後もお金持ちが多く、
勉学するチャンスにも恵まれていますから、
元士族系は教養を身につけ、政治や経済の中枢に上り
平民は相変わらず貧しい生活を強いられ、
民主主義的な視点から見れば、
戦前までの沖縄は差別社会といえそうです。

明治以降の沖縄の海外移住者が多いのは
こういった背景があるのです。

出番を待つコーヒー苗木たち110630.JPG
 コーヒー山のあちこちには、
 品種ごとに出番を待つ苗木君たちが
 大量に待機しています。


冒頭の、沖縄戦を生き延び、
焦土の沖縄を立て直してきた
沖縄の偉大な功労者であるオバァたちのその名前は
「農民の女性の名前」
で、
男尊女卑の思想が根強かった琉球王朝時代には
農民の女性は、台所のカマドやナベ、農具のツル、
家畜の牛と同じ地位であったことがうかがい知ることができて
単なる沖縄の昔の女性の名前ではなく、
過酷な時代を生き抜いたオバァたちには
尊敬の念を抱かずにはいられません。

また、沖縄の旧暦行事はなにかと多く、
毎月何らかの行事が行われています。
琉球王朝時代では首里王府を始め、
全島の部落で行事が行われていたはずで、
「昔はお祭りが多く、陽気で楽しそうだね」
といった感じもしますが、
今日のように労働基準法や男女雇用機会均等法、
土日祝日や有給休暇などがない封建時代では、
部落民全員参加型のコミュニティを形成し
祭りの物忌み(タブー)期間や山留め・海止め、
正月やお盆の期間、冠婚葬祭以外は
日の出とともに野良仕事に出かけ、
昼や日が落ちると一休み、
月の出とともに、ようやく帰宅、
というような
太陽や月と密接した過酷な農作業に
明け暮れていたのではないかと思います。

南山近くの尾根のコーヒー110630.JPG
 コーヒー山の南端の、
 わりと風当たりが強い尾根で
 元気に生育するコーヒーです。


また、沖縄と台湾は、中国の福建省から渡ってきた人も多く、
中国の民間信仰の風習がそのまま沖縄や台湾に残り、
沖縄にも火の神(ひぬかん)はカマドに祀られ
家族の健康と繁栄を護る神として
祈願する風習が現在でも受け継がれています。

火はマッチやライターがない太古の昔から、
人間の生活には欠かすことのできない
水とともに最も大切なもので
・料理を作る
・暖をとる
・明かりを保つ
・危険から身を守る

などのほか、
神聖なものとして多くの宗教儀式などにも使われ
信仰の対象にもなってきました。

旧暦の毎月1日と15日の朝は
仏壇(トートーメー)にお茶湯やお香を供えたり
葉や盛り塩を取り替えたりして
日々の感謝や反省の気持ちを祈願して、
火の神(ひぬかん)は、その願いを聞き、
それを別の神たちに伝えてくれる(=お通ししてくれる)
神でもあるのです。

そういう、生活に欠かせない大切な場所やモノの名前を
差別社会で抑圧された立場の農民は、
精一杯の愛情で女児に名付けしていったのだと思います。

移植準備110630.JPG
 コーヒー山の南西側の傾斜地に
 黄色い実のアマレロ種の苗木移植を進めていますが、
 この画像は、その穴掘りをしたところです。
 今までの失敗に懲りて直径80cm(深さも同じくらい)の
 巨大な穴掘りをするのは大変な作業ですが、
 大きな穴に移植しないと、苗木の毛根が伸びていかないのです。


私が3年前にコーヒー山をお借りする頃に、
地元の長老から
「月初めの最初の日は山に入ってはいけない」
と言われたことを
コーヒー山に到着する寸前で思い出しました。

今日の7月1日は、旧暦の6月1日という
ダブル“1日”Dayでもあり、
「祟りに遭ったり怪我をしたり、ハブに咬まれたり…」
といった災いを避けるためにも
その長老の教えを守ることにして
急きょ自宅にUターンしましたが、
その本当の理由を今度、
長老から聞いておかないといけませんね。
たぶん“神”に関係することだと思うのですが、
どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら
教えて下さい。

江戸時代の里山でも、
「山留め、海止め」
という風習があり、
 ・山に入ってはいけない
 ・海に入ってはいけない
という一定の期間を設けてきました。

古人は
「自然と共に生きる」
「自然の恵みを大切にする」
といった
「自然に生かされている」
ことを尊んでいました。

山では若木の生育や共生する鳥類の産卵、孵化がありますし、
磯や川も同様で、そこに暮らす生物たちが
命をはじめる時・場所であることを古人が尊重し
山に入って木を切ったり、キノコや果実を採ったり
磯や川での魚やカニ、貝などを獲ることを控えてきたのです。

大量生産・大量消費、環境破壊という生活スタイルが
常になった現代人が失念してしまったひとつに、
こういった
「自然の恩恵に感謝する気持ち」
がありそうですね。

コーヒー山110629.JPG
 雨がやみ、水蒸気が上がるコーヒー山
 今年は良い頃合いで降雨があり、
 ありがたいことです。




posted by COFFEE CHERRY at 23:37| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーの栽培日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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