2011年11月17日

ミミズの偉大さを考える

・蚯蚓
・目不見
・大地の腸
・地球の虫(英語ではearthworm)
・雨の虫
・自然の鍬
・地竜(中国語)

これらは、
ミミズの別名です。

「春の暖かさを感じて、冬ごもりしていた虫が外に這い出てくる」
二十四節気で3月上旬の
「啓蟄(けいちつ)」
も、
主にミミズのことを表しているような気がします。

最近、コーヒー山や自宅に隣接するバナナ園や庭などで
ミミズがずいぶん目立つようになりました。
以前はスコップで掘った土にミミズが1〜2匹見つかる程度だったのが、
現在はその数倍はいるようで、
嬉しさのあまり思わずニヤけてしまいます。

ヤンバルオオフトミミズの団粒土111116.JPG
 コーヒー山のヤンバルオオフトミミズの団粒土。
 私の右手の握りこぶしくらいある巨大な塊です。
 穴は小指が入るほどの径がありますから、
 きっと30cm以上のヘビのような大物でしょう。
 紫色なので、ミミズに失礼ですが見た目は気持ち悪いです。



今から2300年前後も前の中国の戦国時代、
老子よりあと、荘子より前に生きたといわれる道家・列子は、
8編の書を残し、故事・寓言(ぐうげん)・神話が多く書かれているのですが、
その中の「列子(湯門編)」の
「愚公(ぐこう)山を移す」
には、以下のように書かれています。

原文は省略しますが、
昔、中国の冀(き)州(現・河北省)の南、
河陽(現・河南省)の北に、
太行(たいこう)山と王屋(おうおく)山という、
700里四方もある広大な大山があり、
そのふもとに愚公(ぐこう)という老人が住んでいました。
外出にはいつも遠回りをしなければならず、
「あの険しい山を平らにして、予州の南まで道を通し、
漢水の南まで行けるようにしたい」
と家族に相談し、愚公の妻からは反論が出たものの、
愚公は息子や孫たちとともに岩石を砕き、土を掘り返し、
もっこで渤海の隅に運び出すのです。
黄河のほとりに住む智叟(ちそう)という老人は、その愚かさを嘲笑し
「あんたの馬鹿さ加減といったら話にならない。
老い先短いあんたの力では、山の一角だってとても切り崩せないさ」
と忠告します。
愚公は、ため息をつき、
「あんたの頭の固さには、手のつけようがない。
隣の家の坊やにも遠く及ばない。
良いかね、私が死んでも子供は生き残り、
その子供は孫を生み、孫はさらに子供を生んで、
子々孫々途絶えることはない。
一方、山は増えるわけじゃない。
だとすれば、いつか平らになるときが来るだろう」
と答えるのです。
この様子を見て恐れた2つの山の神は天帝に報告しました。
天帝は、愚公の真心に感心し、力持ちの神に命令して、
2つの山をそれぞれ別の場所に移してやったので、
それ以来、周囲には小高い丘さえもなくなりました。

という内容で、
「努めて怠らなければ大事は必ず成就する」
という有名な故事ですが、
これは以下の考察を想い出させます。

岩石の粒子を砕いてしだいに小さな破片にしていき、
(土をかきまぜながら岩石の粒子に消化器官内を通過させることによって)
土をかきまぜることによって土をほぐし、ばらばらにする。
そのあと重力と浸食作用によって、
土は高いところから低いところへたやすく移動していき、
かくして地形は平坦になる。
ミミズが生息する地域の地形が低くてなだらかなことは、
大部分のところミミズによるゆっくりとではあるが
持続的な働きの証しなのである。

つまり、
「大地をかたちづくるうえではミミズの影響は方向性を持つ」
という論法です。

これは130年前の1881年(明治14年)、
日本では西郷隆盛が西南戦争で敗れて自刃した4年後ですが、
進化論を提唱したイギリスの博物学者チャールズ・ダーウィンが、
亡くなる前年の1881年、40年に及ぶ研究の集大成として
「ミミズと土」
に書かれた記述です。

ダーウィンは土壌生態学の創始者でもあり、
「ミミズが土壌や植物の成長、
   ひいては人間の生存に有益な効果をもたらす」

という、
初期の文明から引き継がれた伝統や経験からくる知恵に対し、
初めて論理的な信憑性を与えた科学者の1人でもあるのです。

ダーウィンは、ミミズが、枯れ葉をトンネルに引き込み、
代わりに糞塊を地表に残す様子を観察し、
近所の婦人にお願いしてミミズの糞を一年間、毎日集めてもらいました。
その結果、ミミズはイギリスの牧草地で18.7〜40.3t/haもの
糞塊を生み出していることを明らかにしました。

さらに、牧草地の地上にチョーク(chalk)を撒き、
30年後に同じ場所を掘り起こすという、
とても気の長い実験まで行っています。

そういった実験の結果、
晩年の著書「ミミズと土」では、
 ・岩石の粒子を砕いてしだいに小さな破片にしていき、
  土をかきまぜることによって土をほぐし、ばらばらにすること

 ・土壌を形成しかきまぜることで、
  ミミズは土壌の表層、いわゆる肥沃土を形成する

という、
2つの主張をしているのです。

現代でもミミズというと、
日本人のほとんどは無関心か気味悪く思うはずですから、
ましてや130年前の人々からすると、
おそらく誰も関心を寄せる人なんていなかった中で、
ミミズが、実は地球上の土壌の形成という
重大かつ壮大な仕事をせっせとしていることを証明しようとした
ダーウィンの功績は実に偉大なものです。

ミミズは英語で"earthworm"と表記され、
直訳では「地球の虫」ですが、
ダーウィンの
「ミミズがそれまで地球の土壌形成に果たしてきた役割の重要性」
からすると、
ミミズの英語名は大げさな表現ではないといえるでしょう。

ミミズの団粒土111116.JPG
 中央と上の方にもミミズの小さい団粒土があります。
 こういう団粒土には栄養分がいっぱいなので
 コーヒーの根元付近にもパラパラとかけてあげています。



また、
日本の小野小町、中国の楊貴妃と並び、
世界の三大美女の1人に上げられる
クレオパトラ7世(紀元前30年、39歳で没)は、
「ナイル川の豊穣な大地はミミズがもたらす」
として
「ミミズの国外持ち出し禁止」
を打ち出していたようです。

古代エジプトでは、
「農業生産はミミズ無しでは成り立たない」
ことが理解できていたことで、
ミミズは
「豊穣の神」
と崇められていたのです。

直木賞作家・赤羽 尭(たかし)さんの1990年の作品、
「復讐そして栄光(光文社)」
という小説では、
イスラムではサラーフッディーン(サラディン)をも超えるほどの
イスラムの英雄なのに、なぜか日本ではあまり知られてない、
奴隷からスルターン(権力者、皇帝)にまで上り詰めた
バイバルスが描かれています。

バイバルスは騎馬軍術に優れて、メキメキ頭角を現し、
1249年のフランスのルイ9世による第7回十字軍遠征では
軍団長代理のバイバルスが奮戦して遠征軍を撃破し
シリアを占領してルイ9世を捕虜にしてしまいます。

また、1277年には、当時「世界に敵なし」と謳われた
イル・ハン(チンギス・ハーンの孫、クビライの同母兄弟)の連勝を止め、
あのフラグと互角以上の戦いを繰り広げ、
難敵の撃退に成功して領土を守っています。
(日本では1274年の文永の役と1281年の弘安の役の2度にわたる元寇がありました)

「復讐そして栄光(光文社)」
では、
エジプトをモンゴル軍の侵攻から守った英雄バイバルスと
エジプトの大法官との間の会話が以下のように展開されています。

「ところで、ナイル河畔に住む人々が、
健康で見事な体格をしているのは、どんな理由によるものかは、
いまさら説明するまでもないだろうな」
「それはナイルとミミズによるものだよ」
「ナイルの氾濫は、多量の土壌を河畔に運んで堆積してくれる。
その土壌に無数のミミズが棲み、繁殖して土壌を豊沃にしてくれる。
彼らが健康なのは、その土壌で栽培された栄養に富む
食物を食べているからなのだ」


これは小説に書いてあることで、
史実か創作かはわかりませんが、
それより1300年も前のクレオパトラ7世の
古代エジプトでも「豊穣の神」と崇められていたのですから、
バイバルスの13世紀でも同様に
ミミズが崇められていたことは想像に難くないでしょう。

ミミズの団粒土111116-2.JPG
 コーヒー山やバナナ園、自宅庭には
 こういったミミズの団粒土があちこちにあり、
 土を少し掘り返しただけで、
 ありがたいことに何匹もミミズが出てきます。



中国で孟子が孔子の儒学を、
荘子が老子の無為自然の思想を広めている
2300年前頃の戦国時代、
古代ギリシアでは、
プラトンの弟子アリストテレスが活躍していて、
『動物誌』第6巻第1章では、
ミミズを
「大地のはらわた」
と呼んでいたそうです。


古代エジプトや古代ギリシアで
「ミミズが土壌を肥沃化させる」
ことが解かっていたのですから、
四大文明といわれる
 ・エジプト文明
 ・メソポタミア文明
 ・中国文明(黄河・長江)
 ・インダス文明

でも、
ミミズの実効性が
経験×知識=知恵
のようなことが積み重なって
伝承されていったのではないかと想像してしまいます。


こうしてみると、
目がなく、体そのものが腸のミミズは
外見は決して美しくはないのですが、
地球には無くてはならないものの1つなので、
仲良くお友達になりたいくらいですから、
私のような自然栽培派からすると、
土壌殺菌剤や農薬、殺虫剤、化学肥料などを使って
植物質を分解するミミズや微生物などを殺してしまうのは
考えられないことなのです。

ルネッサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチが、
「我々は足元にある土壌よりも、天体の動きについての方が分かっている」
と言ったように、
ミミズの生態は500年経った現代でも解明されていないのですが、
今日解かっているミミズの主なはたらきとしては、
まず、土壌中にトンネルを掘って土を動かしたり、
土壌の通気性、透水性を上げる効果でしょう。

ミミズは土壌表層からいろいろな有機物を地中に持ち込み、
地中深くの土壌を地表へ持ち出すという、
一輪車やベルトコンベアー的なガテン系の仕事や
土壌粒子や有機物を食べるという
破砕機やストレーナー的な要素もありますし、
排泄時には植物の有益な栄養源に変えるのですから、
「テクマクマヤコン テクマクマヤコン…」
「マハリクマハリタヤンバラヤン〜」
という魔法の呪文がかけられるような、
まさに
Earthworm
 ・地球の虫
 ・大地の腸

そのもので、偉大な虫なのです。

ミミズは枯死植物や根、動物の糞など有機物を食べて
それを体内で動物性タンパクに変えています。
そのミミズをイノシシやヤンバルクイナなどの野鳥、
ニワトリが動物性タンパク源として食べ、
その(放牧の)ニワトリを人間が食べているので、
大きな食物連鎖の中で、
ミミズはわれわれ人間とも関係しているのです。

バナナ園をヤンバルクイナが荒らすのは
ミミズが増えてきた証拠なんですね。

ミミズが出した糞は植物の貴重な栄養源にもなっています。
ミミズは炭酸カルシウムを含む分泌液を出すらしく、
ミミズの糞はふつう生息している土壌よりも中性に近いといわれています。
また、置換性カルシウム、マグネシウム、カリウム
および可給態リン酸などの無機物や微生物が多く含まれ、
その栄養たっぷりの糞を土の中や地上に排泄しているのです。
そうするとその土は、
次の植物育成に再利用可能な状態になるというわけです。

公園や庭では、美観のために落ち葉を掃いていますが、
本当は放置しておいたよいのです。
森林では樹木が吸収する無機養分の6割程度が
落枝・落葉から供給されているといわれています。

落ち葉を掃けば掃くほど、土はやせますし、
落ち葉で覆われない表土は乾燥したり
浸食を受けやすくなり、
土が踏み固められてしまうと、
充分な雨水や酸素が地中に入り込めず、
根は水や酸素が取り込むことが出来にくくなってしまい、
ミミズを始めとした土壌動物も住みにくい環境になって、
活力の乏しい土壌になってしまうのです。



 ミミズのエサを掃いたり焼いてしまうと、当然ミミズは減少します。
 ミミズのいない土は、栄養がなく水分を吸収することもできにくいので、
 雨が降ると雨水はそのまま表面を流れて行ってしまいます。
 そうなると植物も育たちにくいし、
 ミミズをエサとする動物や野鳥も棲まなくなってしまいますから
 落ち葉清掃はしないか、してもほどほどがよさそうです。
 灰を撒くために落枝・落葉を焼く、というのは
 mini焼け畑のようなものですから、
 良いかもしれませんね。



地球にやさしいエコロジーの一環で
ミミズコンポストという、ミミズによる家庭生ゴミの有機処理も
一部で使われていますが、
ほとんどが、
「“シマミミズ”が生ゴミを一番効率的にコンポストしてくれる」
と言っています。
ミミズは4億年も前から地球に存在していて、
現在判明しているだけでも体長0.44mmから3.6mのものまで
約3,000種類がいるといわれていて、
その土地に合うミミズがいるのです。

例えば、酪農で知られるNew Zealandでは
1850年からイギリス人の移民が始まり
その時に持ち込まれた羊の放牧用の草地に棲む
土着のミミズの働きが悪かったことで、
イギリスから多種のミミズを持ち込み、
ミミズを住まわせる環境や土壌についての実験観察を行い
その土地にふさわしいミミズを選択したことで、
草の生産量が著しく増加し、
酪農王国化していった、
といわれていますから
ヤンバルにもヤンバルに合うミミズはいるはずで、
私は土着するミミズで充分だと考えています。

地域ごとに、土着ミミズの種が存在する意義、
あるいは進化の過程というのがあるはずです。
ヤンバルでは特に大型系や
細長い(といっても10cm程度はあります)ミミズが多いのですが、
土壌環境や気候風土に密接なつながりがあるはずです。

ヤンバルオオフトミミズ111115.JPG
黒ポリポットの植え替え作業中に
 土から出てきたヤンバルオオフトミミズです。
 ヘビのように見えますが、巨大なミミズなのです。
 やんばるの固有種らしいです。



自然農法の創始者といわれる故・福岡正信先生の粘土団子は
すべての生き物を敵とせず、植物本来の力で栽培する農法、
すなわち、“混植”や“不耕起”を説いたものです。
あるいは、絶対不可能を覆して、
リンゴの自然栽培を成功させた木村秋則さん、
共通するキーワードは「ミミズ」でしょう。
自然の循環が森と生きものを共生させ、
豊かな森を育んでいるのです。

要するに、
「いかに自然体でミミズを増やせるか」
ということが、
土壌を肥沃化する上で重要なことだと
私は考えています。



 やなせたかし作詞、いずみたく作曲の
 『手のひらに太陽を』
 には、
 「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、
 みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ」
 という歌詞がありますが、その通りですね。
 そういえば天地総子さんは最近テレビやラジオで
 見かけなくなったような気がしますが。



ツールド沖縄111113.JPG
 先週の13日(日曜)は
 「ツール・ド・おきなわ」という自転車競技レースがありました。
 そのため国頭村内の国道58号線や県道2号線、
 70号線は正午まで交通規制になりました。
 私が見た時は、すでにセミプロ級の選手たちが通過した後でした。
 沿道の大会関係者の話では、
 「1人が独走し、9分くらい離れて2位が1人、
 それからまた離れて集団が通過した。
 その後も10分以上離れている。
 今まではこんなことはなかった。」
 と言われていました。
 「ツール・ド・おきなわ」は
 UCI(国際自転車競技連合)のアジアツアークラス2にランクされる、
 国内最長の国際ロードレースで、
 海外招待選手や国際ライセンス所持の国内の強豪選手が出場する
 “チャンピオン”といわれるレースと、
 一般の方々が出場するレースと2つあるようで、
 ゼッケンの色がチャンピオンは青地、一般は黄色地でしたね。
 距離は210kmですが、起伏に富んだ山岳レースで、
 昨年は福島晋一さんという方が
 5時間30分43秒で優勝しています。
 これは平均時速38kmで、一見遅いように思えますが、
 故・足立弘志さんは生前、
 「時速100kmくらいで家の前の坂を下りていく」
 と言われていましたから、
 県道2号線の山越えが厳しいみたいですね。
 普通のスポーツ車で参加された一般の方は
 脱輪やチェーン切れなどもあるようです。
 箱根や日光のいろは坂のような急坂とは比較しにくいですが、
 東シナ海沿いの国道58号線は海抜1〜2mなのに、
 全長16kmの2号線のピークは300mくらいあり、
 カーブや起伏が多く、
 軽自動車のギアでもトップのままでは2号線を走りとおせないので、
 沖縄本島としては最も厳しい山岳道路ですから、
 ここを自転車で走るのは大変過酷なはずです。
 大会関係者の話では、
 「取材用のヘリコプターやマスコミの取材車も初期の頃はあったのに、
 最近は参加者も減少傾向で年々盛り下がっている」
 仲間のエース級の体力を温存させるためか、
 「前を走る仲間の自転車の後ろにつかまって
 ズルする選手もいる」
 と言っていましたね。
 もちろん日本人ではなく、韓国人でもないのですが。

posted by COFFEE CHERRY at 17:34| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月08日

「立冬」の今日は恵みの雨で「晴耕雨読」

二十四節気の「立冬」の今日は時々小雨が降り、
11:59には震度4の地震がありました。

『「三国志」魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝』
の“倭人(わじん)”の項は
「魏志倭人伝」
とよばれていますが、
この中に卑弥呼が登場しています。

三国志111108.JPG
 名護市図書館にも三国志や史記の本は多数あります。

邪馬台国の女王卑弥呼は,
魏の王に貢ぎ物を持たせて使者を送り,
魏帝から
「親魏倭王(しんぎわおう)」
と刻まれたた金印紫綬(しじゅ)や銅鏡などの宝物を与えられ,
倭国の王と認められたのですが、
卑弥呼が魏に使者を送った239年は、
魏の2代皇帝曹叡(そうえい=明帝)が1月に亡くなり、
次の3代皇帝曹芳(そうほう=斉王)はこのとき6歳ですから、
卑弥呼の使者が誰に謁見(えっけん)したのか、
あるいは239年自体が違うのかなどはともかくとして、
(三国志では238年、中国正史の一つ梁書(りょうじょ)倭国伝では239年)
卑弥呼が朝鮮半島中西部の帯方郡を通じて
魏に使者を送ったことは史実のようですから、
卑弥呼は実在の人物のようです。

子どもハブ111108.JPG
 先日、我が家の台所前の地面から水が噴き出し、
 「水道管破損の水漏れ」
 という事態に大騒ぎになりました。
 穴掘り作業は長さ2m、深さ50cmにも及び
 ようやく水道管が見えてきたと思ったら、
 今度は台所前のノグチゲラなどが来る桑の木を
 切り倒さないとパイプ修繕ができない、
 ということになり、
 桑の枝を切っていた時に、
 幹の上に隠れていた子どもハブを発見したのです。
 ハブの近くの枝も左手で押さえてノコギリで切っていたのですが、
 よく咬みつかれなかったものです。
 子どもハブは体長約60cmですが、
 成体のハブより子どもの方が毒性は強いといわれています。
 最近は、ヒメハブはよほどのことがない限り
 咬まれないことがわかってきたので、
 ヒメハブはスコップに載せるか網に入れて
 生きたまま遠くに投げ飛ばすのですが、
 ハブは可哀そうですが剪定バサミで首や胴を切ったうえで
 放り投げないといけないのです。
 画像の子供ハブも、可哀そうでしたが
 このあと冤罪でギロチン刑になってしまいました。



「古事記」、「日本書紀」の中から
卑弥呼が誰なのかを探す研究もされているようで、
有力な候補者としては、
 ・神功皇后(第14代仲哀天皇の妃、第15代応神天皇の母)
 ・倭姫(第11代垂仁天皇の皇女、日本武尊の叔母)
 ・天照大御神(初代神武天皇の5代前)

などが挙げられているようです。

たとえば、魏志倭人伝の記述から、
 ・宗教的権威をそなえていて、鬼道につかえ、よく衆を惑わす
 ・倭の女王であり、 夫をもたない

等々の諸条件を満たし、
しかも時系列的に239年頃に生きていたと思われる候補は
卑弥呼=天照大御神
に絞られるようです。

卑弥呼と天照大御神の類似点としては、
・卑弥呼には弟がいたが、
 天照大御神にも、須佐之男の命、月読(つくよみ)の命という弟がいる
・天照大御神と弟・須佐之男の命の争いは、卑弥呼と
 狗奴国(くなこく)の男王・卑弥弓呼との戦争に似ている
・卑弥呼の没後大きな塚がつくられ、
 男王がたったが国中が服さず戦いがおこなわれ、
 13歳の宗女台与(とよ)を王となして国が定まったとする話は、
 天照大御神が、天の岩戸に隠れ再び現れたという話と似ている
・魏志倭人伝には、「人が死ぬと、他人は歌舞飲酒につく」と書かれていて、
 これは、天の岩戸の前で、天の宇受売の命(あまのうずめのみこと)が歌舞をし、
 諸神が「歓喜び、笑い遊んだ」のと符合する
・『古事記』には、「天照大御神、高木神の命をもちて」などの記述があるが、
 高木神は天照大御神と共に命令を下したりしていて、
 魏志倭人伝の、女王のことばを伝えるために出入りしている一人の男と、
 高木神とが符合する

など、
類似点が多くあり、
「卑弥呼=天照大御神」
とすると、
「邪馬台国=高天の原」
ということなのでしょうか?
といっても、高天原それ自体があいまいなので
やはり邪馬台国の場所は特定できないのですが…。

コーヒー山111108.JPG
 昨日のコーヒー山の雄姿
 照葉樹林に覆われた枝葉の下で
 コーヒー栽培を行なっています。


卑弥呼が生まれたのは170年頃と推定されていますが、
卑弥呼が生きた時代は
中国では三国志前半の
特に名場面の多い、華やかな頃で、
 ・184年(卑弥呼14歳) 黄巾の乱が起こる
 ・189年(19歳) 少帝5ヶ月で廃位。董卓、劉協(献帝)を擁立
 ・192年(22歳) 王允・呂布、董卓を殺害
 ・200年(30歳) 官渡の戦い
 ・207年(37歳) 三顧の礼
 ・208年(38歳) 赤壁の戦い
 ・209年(39歳) 劉備、孫権の妹と結婚
 ・216年(46歳) 曹操、魏王に
 ・219年(49歳) 関羽敗死
 ・220年(50歳) 曹操病死
 ・221年(51歳) 張飛暗殺
 ・223年(53歳) 劉備病死
 ・234年(54歳) 諸葛孔明、急死


239年(あるいは238年)に、
卑弥呼が魏に使者を送った当時は
劉備玄徳や関羽、張飛、曹操、諸葛孔明など
三国志を飾るスターたちは
みんな死んでしまった“直後”といってもいいでしょう。
(卑弥呼が亡くなったのは248年頃、68歳ころとされています)

「悪徳の政官によって国が疲弊する」
というと、
「論語」学而篇第3章に出てくる
「子曰、巧言令色鮮矣仁」
すなわち
「巧言令色鮮なし仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」
という、
今から2500年も前に
「口先が巧みで、角のない表情をするものに、誠実な人間はほとんどない」
といった孔子の言葉がまさにピッタリの
腰の低いヒットラーのような人が、
TPP参加や増税といった国の存亡に関わるような重要な問題を
国民の信を得ずに勝手に推し進めようとする
今の日本もそうですが、
漢の末期、悪徳な役人によって腐敗した漢王朝に、
「仙人から妖術の書を授かり、腐敗した漢王朝を打倒する!」
と、
張角(ちょうかく)が黄巾の乱を起こしたのです。
(この張角や兄弟にも不浄な問題はありましたが…)
漢王朝はこの乱を鎮めますが、
討伐で活躍した豪族たちが権力を握り、
漢王朝の権威はますます弱体化していきます。
その混乱の中から、次々に英雄たちが現れ、
その中でも能力と時の運を兼ね備えた三人の人物が、
それぞれ魏、呉、蜀を建国していきます。
この時代を三国時代というのですが、
多くのヒーローの中でも特に私が好きなのが諸葛亮孔明なのです。

ハイビスカス111108.JPG
 自宅のピンクのハイビスカスです。
 こういう品種改良したハイビスカスは
 色は綺麗ですが、防風林としてはまるで役立ちません。
 ガラス戸のさえぎり兼遮光兼観賞用といった
 住宅回りや庭に植えるくらいで私は植えています。


諸葛孔明の父親が役人で比較的恵まれた家庭だったようです。
母親は早く亡くなり、父は後妻をもらいますが、
父も孔明が10歳頃に亡くなっています。

孔明は次男で、兄・瑾(きん)は秀才で漢の都・洛陽の大学で学び、
弟・均(きん)は孔明、義母と生活していました。
そんな時、兄が洛陽から帰ってくるのです。
兄は
「黄巾賊の乱が洛陽にまで及んできた」
といい、
家族は叔父・諸葛玄(げん) を頼って
江東(こうとう)まで非難していきます。

半年後に叔父は劉表(りゅうひょう)の招きで
荊州(けいしゅう)へ赴きます。
この荊州は三国時代の特に重要な地で、
やがてこの地を巡り多くの戦が起こり、多くの死傷者が出るのです。
当時、呉は英雄といわれる孫策のもとで大きく発展しそうだったので
兄は江東から呉に向かい仕官します。

荊州生活1年後、叔父・玄に代わり
予章(よしょう)を治めていた周術(しゅうじゅつ)が亡くなったため、
叔父・玄は再度予章の郡太守(郡の長官)に命じられます。
ところが任地に着くと、漢朝から予章の郡太守に任命された
失晧(しゅこう)が着任していて争になり、
叔父・玄は戦に敗れて行方不明になってしまいます。
そのため、叔父・玄と孔明たちは
荊州の劉表(りゅうひょう)の下に身を寄せることになります。

以降孔明は荊州で過ごし、
17歳の頃に大学者・石韜(せきとう)の門をたたきました。
ここには石韜の名を慕って全国各地から
すぐれた門人が集まってきていました。
後に劉備玄徳に諸葛孔明を紹介した徐庶(じょしょ)も
その門人の1人でした。
ここで孔明はめきめきと頭角を現します。
その才は群を抜き20歳になった頃には、
もはや学ぶことがなくなっていたといわれます。

孔明は弟・均とともに、隆中(りゅうちゅう)の山中の
草廬(そうろ、草ぶきの粗末な家)にこもり、
農作業に従事しながら臥龍(がりゅう)先生と称して、
晴耕雨読の生活を始めるのです。

それ以降、孔明を訪ねる友人は激減し、
孔明を訪ねてくるのは、孔明の才を見抜いた人たちだけでした。
この頃、孔明は河南の名士の娘と結婚しますが、
相手の外見は肌黒で髪は黄色っぽく、しかも醜いという、
今でいうブサイクの部類といわれていますが、
その内面は天文地理兵法に秀でた才女といわれていますから、
孔明らしいですね。

劉備玄徳は、すでに関羽、張飛、趙雲といった
天下の英雄、豪傑を部下としていましたが、
知能に優れた人材を熱望して諸国を転々とし、
荊州新野に駐屯していた頃に、
劉備は徐庶と会見し彼を有能な人物だと見抜き軍師にします。

207年、徐庶の母が曹操に招かれたため、
徐庶母に会うため劉備のもとから曹操のところへ向かうことになり、
見送りにきた劉備に徐庶は孔明を訪ねるようにいいます。

そして劉備は 隆中にいる孔明を訪ねます。
しかし孔明は不在でした。

劉備はあきらめずに、今度は吹雪が吹き荒れる日、
孔明在宅との知らせをうけて、劉備は再度孔明を訪ねます。
しかし、草廬に居たのは弟の均でした。
劉備はまたしても孔明に合うことが叶わず、
どうして自分は孔明と縁が薄いのかと嘆きながら、
自分の孔明に対する思いを手紙に書いて弟・均に預けていきます。

それからしばらくして劉備はまた孔明を訪ねます。
孔明は草廬に居たものの昼寝中でした。
劉備は孔明を起こそうとせずに待ちます。
孔明がようやく起きて、劉備は孔明と対面できます。
劉備は、孔子の例などを出して、
「天下万民のために立ち上がってほしい」
と頼みます。
ここで孔明は有名な「天下三分の計」を劉備に話すのです。
すなわち、
 ・大きくなりすぎた魏の曹操を討つのは不可能
 ・三代にわたって発展してきた呉を奪うこともまた不可能

 ・ならば、そのどちらにも属していない荊州と益州(後の蜀)に勢力を興し
  国を三つにわけ、その後、曹操の野心を砕く

というのが孔明の「天下三分の計」でした。

これを聞いた劉備は
「これからも私にいろいろ教えください」
と願います。
孔明は初めは断りますが、
劉備の国を思う真摯な姿に心を打たれ、
ついに劉備に協力することを決め出廬(しゅつろ)します。
これが有名な三顧の礼で、劉備46歳、孔明は27歳でした。

しかしこの話は三国志演義での話です。
それでも、この逸話の中で学べるところは多く、
例えば、
劉備は自分で人材を見抜き、探したりする能力がなくても、
人材を見抜ける人を信ずる人徳があり、
それが、多くの人材を集め、
やがて大国の雄になることができたということです。

また、人物の迫力さでは、
どうみても劉備より曹操の方が上手で
先見性や洞察力に優れた孔明はとうに
曹操か劉備のどちらが天下を取るか予測できたはずだし、
曹操も孔明に自分の部下となるよう使者を出していたのに
孔明が曹操を選択しなかった、というのは
劉備の人間としての魅力や人徳によるものでしょう。

しのぶコーヒー111108.JPG
 品種名が不明のため、仮称「しのぶコーヒー」。
 しのぶというのは名護市の果樹栽培者の名前です。
 このコーヒーは昨秋買い、コーヒー山の南側尾根に植えたのですが、
 3度の台風の厳しい暴風にも不思議に耐え抜いています。


今日のテーマ「晴耕雨読」とは、
単に
「晴れれば畑を耕し、雨降れば読書で時を過ごす」
「世の流れに左右されず、自分の思うままに生きる悠々自適生活」
という意味だけにとらわれず、
中庸の境地(平常心)ととらえたり、
あるいは、老子や荘子の無為自然の
「あるがままに生きる」
と考えると、
「晴耕雨読」
という言葉の重さ、深さを感じます。

徒然草 第三十八段「物欲、名誉欲について」の冒頭、
「名誉欲、金銭欲にこきつかわれてあくせくし、
 閑寂を楽しむいとまもなく、一生を苦しんで送るのは、
 まことに愚かなことだ。」

途中を省略して、この段の最後、
「また、いかなるものを「善」というべきか。
 これについても、絶対的な判断は存在しない。
 それらを超越した真の人間とは、
 智もなく、徳もなく、功もなく、名もない人であろう。
 だから、それらの真実の存在は、人にも知られない。
 誰がそれを知り、誰が伝えることができようか。
 これは、わざと徳を隠したり、愚をよそおっているのではない。
 もともと、賢愚・得失といった境地を超越した存在なのだ。
 人間が迷いの心をもって、名誉や利益を求めるというのは、
 かくのごとくつまらないことである。
 言うに足りない、願うに足りないものにすぎない。」

鎌倉時代末期から南北朝へかけての
社会不安、政情不安、金銭のあくなき追求を知り尽くし、
見尽くしてきた吉田兼好の、物質欲、名誉欲の否定は、
老子、荘子の思想に強く影響されています。

老子の読み方111108.JPG
 名護市図書館で借りた本です。
 孔孟思想や老荘思想の本も多数あり
 何度も読んでいるうちに、
 最初はチンプンカンプンだったのが、
 少しだけ解かるような気がしてきました。



『孔孟の教え(儒教)』

『老荘の教え(道教)』
の最大の違いは、
「人間の努力や営為(日々の営み)」
を肯定的に捉えるのか否定的に捉えるのか、
というところにありそうです。
老荘思想は
「人間の欲望・知識・意志」
を否定的に認識して
無為自然(何も行動しないことの道徳性)を説いていますから、
若い頃は孔孟思想を学び、実践して
晩年にさしかかって、出世を求めず
人生の集大成をまとめる頃になったら老荘思想、
というのが良さそうです。
これが逆だと、
若者がへんな悟りを開いて仙人のようになってしまいますからね。

posted by COFFEE CHERRY at 19:26| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーから学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月02日

バッハの「コーヒー・カンタータ」を聞く@

今はどうだかわかりませんが
私が小中学校時代の音楽室の肖像画というと、
 ・バッハ
 ・ハイドン
 ・モーツァルト
 ・ベートーヴェン
 ・シューベルト
 ・ショパン

と並んできたように記憶しています。


米国のヴァイオリニストHilary Hahnによる
 パルティータ第3番より「ガヴォット」BWV1006


バロック時代のバッハからモーツァルトまでがかつらだったとは
私がまだ純真だった当時はそんなことは知らずに、
カール状の不思議なヘアースタイルに
違和感をもって見上げていたものです。

バロック音楽というのは
「宮廷音楽」
「教会音楽」
らしいですが、
フランス革命以前の時代の音楽家は、
貴族に召抱えられた使用人の一人として冷遇され
当時はかつらは貴族の正装であり、
貴族たちの前で演奏する音楽家も
かつらを被らなければならなかったようです。
身だしなみであり、マナーだったということですね。

召使扱いですから音楽活動においても当然自由はなく、
宮廷の慰み、あるいは宗教儀式のための添え物、
つまり刺身のつま程度の扱いで、
貴族の要望に合わせて音楽を作り演奏するものだったのです。


2つのヴァイオリンのための協奏曲 第1楽章 BWN1043

バッハが音楽室の最初に登場しているのは、
そういう不自由な音楽を、
宮廷だけでなく世間の人々を喜ばすような
独創的な作曲に専念したことにありそうです。

また、明治以後、
日本における文化はドイツが中心で、
たとえば医学では
 ・コッホの細菌学
 ・フロイトの精神医学
 ・ゼンメルヴァイスの衛生学
 ・フィルヒョーの細胞病理学

等々のドイツ医学の進歩に伴い、
それを日本に伝えたドイツ人医学博士ベルツ、
そういえばカルテやヘルツ(心臓)、マーゲン(胃)もドイツ語ですし、
法学では大日本帝国憲法はプロイセン憲法がモデルとか
コピーといわれています。
大学の第ニ外国語の履修科目に
国連公用語でもないドイツ語があることも、
明治時代の教育の名残だという考え方もあるでしょう。


マタイ受難曲BWV244
Wikipediaによると
「マタイ受難曲(Matthäus-Passion)とは、
新約聖書「マタイによる福音書」の
26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲である。」
と書かれています。
受難曲(PASSION)とは,ユダの裏切りからイエス・キリストの逮捕,
裁判,十字架上の死という一連の出来事を物語風に歌った劇音楽なので、
明るくて楽しい楽曲であるはずはなく、とても重苦しく深い楽曲ですが、
バッハの最も偉大な教会音楽と評された
バッハの代表作のひとつでもあります。
キリスト教や聖書が理解できていないこともあって、
その偉大さや深さは私にはどうもよく判りません。



音楽も例外ではなく、
音楽用語は
 ・Adagio(アダージョ、ゆるやかに)
 ・Andante(アンダンテ、歩くような速さで)
 ・da capo(ダ・カーポ、最初から)
 ・forte(フォルテ、強く)

など、
ほとんどがイタリア語なのに、
主たる教育輸入先がドイツであれば、
学校で習う音楽も自動的にドイツ音楽になる、
だから
「バッハが肖像画の最初」
というのは、
少しこじつけ的な発想でしょうか。
(自信はまったくありませんもうやだ〜(悲しい顔)

ちなみに、ライプツィヒの聖ト−マス教会でのリハーサル中に、
バッハはミスしたオルガン奏者に対し
「きみは靴屋になるべきだった!むかっ(怒り)
と激怒して、
かつらを投げ飛ばしたのだそうです。
かつらを取ったバッハの姿も見てみたいものですね。


 J.S.バッハ/メヌエット ト長調 BWN114 

NASAが1977年に打ち上げた2機の
ボイジャー(1号、2号)無人探査機には
「Voyager Golden Record」
という、電子的なメッセージ、
つまり一種のタイムカプセルが積載されています。

この中には、地球の生命や文化の存在を伝える音や画像が納められていて、
地球外知的生命体や未来の人類が見つけて
解読してくれることを期待しているものなのです。
具体的には
 ・波
 ・風
 ・雷
 ・鳥
 ・鯨

など自然や動物の鳴き声などの多くの自然音や、
さらに様々な文化や時代の音楽や
55種類の言語の挨拶(あいさつ)が含まれています。

地球の音として選ばれたものは、
東洋や西洋のクラシックを含む様々な伝統文化の音楽が選ばれています。

バッハは
「ブランデンブルク協奏曲」


 ブランデンブルグ協奏曲第2番ヘ長調BWV1047 第1楽章

および
「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」
が選出されています。

バッハ以外では
ベートーヴェンの「交響曲第五番」、「弦楽四重奏曲第13番」
モーツァルトの「魔笛」
イーゴリ・ストラヴィンスキーの「春の祭典」
や、
ルイ・アームストロングの「Melancholy Blues」
チャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」
も入っていて、
日本の曲では尺八の古典本曲
「鶴の巣籠り(別名:巣鶴鈴慕)」
という、
私も日本人でありながら聞いたことがない曲まで選出されています。


今、モーツァルトの本を読んでいて
彼がたいへんなコーヒー好きだったことを知りましたが、
モーツァルトより70年前のバッハが
コーヒーハウスで演奏会を開いていた、
という記述から、
バッハの本も読むようになりました。


トッカータとフーガ ニ短調 BWV565
サスペンスドラマの中で
「やむにやまれず殺人を犯してしまった」とか
「ついに禁じ手を使ってしまった」とかの場面で
よく使われる楽曲ですね。



バッハとコーヒーの関係を顕著に示す
「バッハとコーヒー・カンタータ」
というと、
特にカフェ関係のWebで書かれていますが、
どうも簡略に書かれているために、
どういう曲なのかイメージも湧かないので
自分で聞いてみることにしたのです。


ローマ帝国というと、
ジュリアス・シーザー(カエサル)が活躍した
紀元前からの古代ローマをイメージしがちですが、
中世の神聖ローマ帝国は、
現在のドイツ、オーストリア、チェコ、
イタリア北部を中心に存在していた、
帝国というよりは実質的に大小の国家連合体で首都はなく、
この中から、十字軍から帰還したドイツ騎士団領プロイセン公国が
プロイセン王国に台頭したり、
ハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が成長していきました。


「G線上のアリア」は管弦楽組曲第3番」のうち
「アリア」楽章に付けられた愛称で、
正しくは「管弦楽組曲第3番BWV1068」のようです。


“ローマ”という名前は紛らわしいですが、
ローマは支配地域に入っていません。
962年に東フランク王国のオットー1世が
ローマ教皇から「ローマ皇帝」の冠をもらっただけですから
神聖ローマ帝国といっても
“ローマ”は貸し看板のようなものなのです。

神聖ローマ帝国で、
フランス、スウェーデン、スペイン、オーストリア、
イタリア、デンマーク、ドイツ諸州という西欧諸国のほとんどを巻き込み、
カトリックVSプロテスタント
というより、
ハプスブルク家VS反ハプスブルク家
という構図で
特にドイツを荒廃させた30年戦争の終結37年後(1685年)に
バッハは神聖ローマ帝国のThüringen(テューリンゲン州、現ドイツ中部)で
音楽家の末っ子として生まれています。

バッハが生まれた1685年は、
フランス国王ルイ14世が国内の宗教をカトリックに統一するために
ナントの勅令を廃止「フォンテーヌブローの勅令」を発布したことで、
旧教徒は信仰の自由を再び奪われ、
産業の中堅役として経済を支えていた
多くのプロテスタント信者が国外へ逃亡し、
フランスにすさまじい騒乱と緊張をもたらし、
不満が高まって、ついにはフランス革命へとつながることになるのです。

また、バッハ誕生の1685年(貞永3年)の日本では
松尾芭蕉が東海道〜中山道〜甲州街道から
江戸深川の芭蕉庵に帰宅した年が1685年で、
紀行文「野ざらし紀行」を執筆し始めながら
自宅で
「古池や かはづ飛び込む 水の音」
を詠んでいます。
また、この2年後の1687年には
江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が生類憐みの令を発令し、
この翌年から江戸バブル期の元禄時代に入ります。
そういう年にバッハは誕生しました。

バッハは少年時代に両親を亡くし、
10歳の時から14歳年上の教会オルガン奏者の兄に引き取られ、
30年戦争後にドイツに義務教育制度が始まったことで、
ラテン語学校に5年間通い、
落ち着かない兄宅から15歳の時に
200km以上離れたドイツ北部のリューネブルクの
聖ミカエル教会の朝課聖歌隊に
ボーイ・ソプラノとして就職しながら学校を卒業し、
それ以降は
・ヴァイマル公ヨハン・エルンストの
宮廷楽団のバイオリニスト(15〜17歳の2年)
・アルンシュタットの新教会のオルガニスト(18〜22歳の4年)
・ミュールハウゼン、聖ブラジウス教会の
オルガニスト(22〜23歳の2年)
・ヴァイマルのヴィルヘルム・エルンスト公付宮廷楽団の
音楽家兼宮廷オルガニスト(23〜32歳の9年)
・アンハルト・ケーテン公の宮廷楽長(32〜38歳の6年)

と常習的に貪欲に、条件の良い仕事に切り替えて
1723年、バッハが38歳の時に、
当時ハンブルグに次いで輝かしい近代的生活が営まれていた
人口3万人の大都市ライプツィヒで、
ライプツィヒ聖トーマス教会の
「カントル(kantor)」
という訳職に就任します。
カントルは「音楽監督」と説明されている本やWebが多いのですが、
単に音楽監督というだけでは、どれだけすごいのか?
土木工事の現場監督との違いが、どうも明確ではないので
もう少し詳しく調べてみると、
「中世的な幅広い教養を身につけ、音楽、法律、神学、修辞学、
詩、数学、外国語に通じている」

優れた知識や人格が求められ、
「ライプツィヒの最も重要な教会(トーマス教会、ニコライ教会)において、
あるいは他の公式の機会に教会礼拝に必要な楽曲の創作・上演をはじめ
ライプツィヒ市の音楽活動への参画をする

という、
当時のドイツ音楽界屈指の
Commissioner的な名誉ある要職が「カントル」で、
バッハは25年以上にわたってこの要職に就き、
この期間に彼の最高の宗教曲の多くを書きました。


ヴィヴァルディはバッハより7歳年上のイタリア・ヴェツィア出身の
バッハと同世代のバロック時代の音楽家ですが、
バッハとは面識はなく、バッハはむしろヴィヴァルディの楽曲を
いち早く集めていたようです。
当時は著作権はなく、バッハは多くの音楽家の曲の譜面を集め
バッハが手直しして完成された楽曲も相当数あるようです。
“盗作”というより、それだけ貪欲な勉強家だったということでしょう。


バッハは生涯オペラは作曲していませんが、
ライプツィヒでの「カントル」採用条件に
「教会音楽は長すぎてはならず、
オペラ的性格を持たない性質のものであるよう配慮すべきである」

と規定した一項が含まれていたように、
バッハはハンブルグでオペラを知って以来オペラヲタク化して
暇があれば100kmも離れたドレスデンのオペラ劇場の公演に
出かけていたようで、
24曲の世俗カンタータのほとんどがオペラ的性格を示していて、
その中の1つが
「コーヒー・カンタータBWV211」
なのです。

これはバッハの友人ピカンダー
(作詞家兼郵便局員、物品税課職員)が歌詞を書き、
バッハが47歳の時に曲をつけたようです。

コーヒーは当時ヨーロッパで流行した高価な飲料で
(バッハが亡くなって71年後に生まれたモーツァルトの時代では
今でいう1杯約5000円と換算されていますから、もっと高価だったのかも)
コーヒーハウスも盛んに店開きし、
階級を問わずあらゆる人々で飲まれていたようです。
また、コーヒーハウスの流行は、
今ならテレビや新聞、ネットなどで情報がいくらでも入りますが
当時はコーヒーハウスが情報交換の場であり、
ここに来ることで真偽はともかく世相を知ることが出来たようで
そのために当時珍しいコーヒーとともに流行していったようです。

「コーヒー・カンタータKaffee-KantateBWV211」
は、
シュレンドリアンというライプツィヒ市民の頑固親父が
リースヒェンというコーヒーにはまった娘から
コーヒー熱を冷まさせようと、
「コーヒーを止めないと嫁のもらい手がないぞ」
と娘を脅し、
娘は
「それなら、好きなだけコーヒーを飲ませてくれる男としか
絶対に結婚をしない」

と言い返し、
娘はコーヒーを止めない、という結論で終わっています。

和訳歌詞全文は、こちらのブログがとても詳しいのでご覧ください。
「楽曲解説 カンタータ211番 BWV211」



 この楽曲が「コーヒー・カンタータBWV211」です。
 上記の和訳歌詞もそうですが、音楽自体もなんだか…。
「この音楽がライプツィヒのコーヒーハウスで上演され、
喝采を浴びていたんだな」
と感慨深く聞くことは出来ましたが
私にはどうも音楽のセンスがないので、
不謹慎ですが、あくびが出るのを抑えてしまいました。
それでもKaffeeというのだけは聞き取れましたからまぁいいかな。



バッハとヘンデルというとバロック後期の2大巨匠ですが、
二人の生涯は奇妙な符合があります。

二人はドイツの、お互いから約130kmしか離れていない土地で
誕生日もヘンデルが約1か月早いだけですし、
二人とも幼少時期から音楽の訓練を充分に受けて
ともにすぐれたオルガニストになり、
以降、後世に残る楽曲を作り出しました。


 ヘンデルの水上の音楽

二人は晩年に白内障や緑内障の手術が失敗して視力を失い、
それがもとで翌年亡くなるのですが、
その手術を執刀したのが同じペテン師系のやぶ医者でした。

このやぶ医者はイギリス人のジョン・テイラーといって、
ロンドンで診療所を開設して、以降欧州大陸を転々としていて
たまたまライプツィヒに来たところで
バッハが運悪く知り合ってしまったようです。

バッハ時代の白内障手術は
「水晶体転位術」
と呼ばれ、
麻酔無しで鋭く厚い針を眼に突き刺し、
その針で水晶体が見つかるまで探り、
それから針を眼球内部のガラスのようなゼラチン膜に押し込む、
というような手順のようで、
まさに残虐な拷問といった感じで行われたようで、
スペイン出身で角膜移植を確立したカストロビエホ(Castroviejo)教授が
1974年1月に発表した論文によると
「この手術は患者と外科医の双方にとって悪夢のようなものだったに違いない。
この地獄の苦しみは、外科医の助手たちが加わることで初めて達成できた。
患者を力ずくで押さえつけ、特にその頭部とまぶたを動かせないように
患者を固定するのが彼らの役目だった。
そして外科医は、患者が激痛が伴うことで、患者が暴れ出し、
手術が不首尾に終わらないうちに、出来るだけ迅速に
手術を済ます、という超人的ともいえる器用さを求められた。…」

と書かれていますから、
1750年4月1日、バッハがテーラーから受けた手術はこんな
おぞましい感じだったのでしょう。
しかもバッハは、このやぶに2回も手術を受けているのです。

テーラーは
「瞳孔の動き、光など、状況はすべて良好だった」
と自分の失敗をバッハのコンディションのせいにしていたようです。
最低なヤツですね。

テーラーの2度に及ぶ手術失敗のおかげで
バッハは組織全部が悪くなり失明しただけでなく
健康も損なわれて最初の手術失敗から
4か月目に亡くなってしまうのです。


 ヘンデルの「王宮の花火の音楽」

このテーラーは、ロンドンに戻っても多くの人々を失明させ、
1758年、74歳になったヘンデル(42歳の時にイギリスに帰化)の
緑内障手術を行い、これもまた見事に失敗し、
ヘンデルはこの後遺症で翌年亡くなっています。

テーラーには多くの称号があったといわれていますが、
肩書きなんかよりも、
星の王子さまの21章、
キツネが王子さまと別れるときに言った
「心で見ないと物事はよく見えないってことさ。
肝心なことは目には見えないんだよ」

ということの方がよほど大事なことだと
改めて思い知らされました。

posted by COFFEE CHERRY at 20:21| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーから学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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