2012年01月29日

戦前の沖縄ハワイ移民−4

ハワイのカラカウア7世が1881年(明治14年)、
世界各国巡遊の中、日本にも訪問され、
明治天皇に移民の送出を要請されたことで、
日本の移民政策の転機を迎えたところまで前回書きましたので
今日はそれ以降の1885年(明治18年)の官約移民まで記述しましょう。

日本・ハワイ関係が急速に好転した背景としては、
薩摩藩出身の松方正義が大蔵卿に、
長州藩出身で欧化政策を掲げる井上馨(かおる)が
外務卿(外務大臣)に就任したことが大きく影響しています。

江戸時代の武士は、幕府や大名家から家禄を与えられていましたが、
明治維新以降、江戸時代の公家や武士のうち、
華族や卒族(足軽)以外は「士族」という身分階級になり、
1871年(明治4年)の廃藩置県に伴い、
明治政府から家禄(給料)を支給されるようになります。
この出費が国家予算の3割以上を占め、
一気に財政を悪化させてしまいます。

「2万5千人の国家公務員OBが、4500の法人に天下りをし、
その4500法人に12兆1千億円の血税が流れていることがわかりました。
その前の年には、12兆6千億円の血税が流れていることがわかりました。
消費税5%分のお金です。
これだけの税金に、一言で言えば、シロアリが群がっている構図があるんです。
そのシロアリを退治して、働きアリの政治を実現しなければならないんです。
わたりも同様であります。
6回渡り歩いて、退職金だけで3億円を超えた人もおりました。
まさに、天下りをなくし、わたりをなくしていくという国民の声に、
まったく応えない麻生政権は、不信任に値します。」

という正論を言い放ったのは、
現職総理が3年前の野党時代に国会で自ら発言した内容ですが、
(ということは、国民をないがしろにする現職総理は実は別人で
ダチョウ倶楽部の上島竜平さんのパロディだとすれば納得できるのですが…)
現代でもムダやデタラメの積算で財政悪化になっていますよね。

1869年(明治2年)に四民平等(華族・士族・卒族・平民)になったことで
士族の地位が低下し、1873年(明治6年)には徴兵制が施行され、
農民や町民が軍人になるのですから、士族の存在理由も無くなってしまいます。

1876年(明治9年)それまで得ていた家禄に応じて
金禄公債証書を発行(秩禄処分、一時金と禄高5年分の5〜14年満期の支給、
要するに失業保険の5年以降の後払い確約書)し、
士族は身分的、経済的特権を失ってしまうのです。

近代化のためになりふり構わず財政健全化を目指す政府に、
特権をはく奪され困窮する士族は全国各地で反乱を起こします。

1873年(明治6年)西郷隆盛は陸軍大将兼参議(太政官)に就き
困窮する士族を率いて朝鮮に攻め込み、領土にすることで
生計の安定化を図ろうとする「征韓論」を唱えます。
西郷は大久保利通や岩倉具視といった反対派と
激しく意見が対立して敗れたことで国政から下り、
鹿児島に帰り私学を開くのですが、
1877年(明治10年)士族に担がれて西南戦争を起こします。
明治新政府最大の功労者が、最強の反逆者になったわけです。

昨日まで、武士の家柄でちょんまげを結い、刀を二本差ししていたことで
家禄をもらえ生活できていたのが、いきなり何の準備もなく
「今後は何とか自身で生きる方法を見つけなさい」
と、突き放されて社会に放り投げられたのですから、
士族の立場からしても青天の霹靂(へきれき)だったことでしょう。

士族は新規創業をして失敗する人、商店に勤め解雇される人、
北海道の開拓使団になる人、任侠の用心棒になる人、
はては金禄公債証書を売る人といった失業して困窮する士族が氾濫し、
情け深い西郷は、そんな士族に、見て見ぬふりはできなかったのです。

西南戦争は
農民や町民といったにわか兵士が近代的武器で豊富な弾薬を使う政府軍(官軍)と、
幼少時から剣術や武術を仕込まれた
武闘専門の士族たちの西郷軍(旧薩摩士族軍)の戦いなので、
戦力が拮抗(きっこう)していれば
西郷軍の方が断然優勢といえるのですが…。
 ・動員兵士
  政府軍60,838人、西郷軍31,700人
 ・兵器(大砲)
  政府軍199門、西郷軍60門
 ・小銃弾消費量
  政府軍 約3,500万発(1人平均約600発)
  西郷軍 約500万発(1人平均約150発)
 ・戦費
  政府軍 約4200万円、西郷軍 約100万円
 …
ランチェスター理論を持ち出すまでもなく
圧倒的な戦力差なのに
鹿児島県鹿児島市の城山(鹿児島湾岸で桜島の近く)で
西郷が自刃して終結するまで約8か月もかかりました。

大東亜戦争での日米の戦力比較みたいなもので
西郷軍からすると長期戦不利ですが、
序盤は戊辰戦争を経験し、精神力に優る西郷軍が圧倒していました。

欧米の“武士道”は、
葉隠の「武士道とは死ぬこととみつけたり」を
一種の美学ととらえているようで
欧米の映画では切腹を“ハラキリショー”のように演出してしまうのですが、
旧五千円札の肖像画の新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)が
1899年(明治32年)に英文で書いてアメリカで出版した
『BUSHIDO,THE SOUL OF JAPAN』
には以下のように書かれています。

「武士はいかに生きるかと同時に、いかに死すべきかを考える。
  武士には正しい生き方があるのと同じく、正しい死に方がある。
  これは命を粗末にしろという事ではない。
 無駄に死ぬことを武士は犬死と言う。
  無論、天寿を全うして死ぬのが良いが、
 もし死なねばならない時に誇りを捨てて、
 不正義の中に生きることを武士は選ばない。
 いつでも死ねる勇気を持つことは、
 武士は正義の中で生きる事を保証する。」


もし二つの道があり、どちらも同じ成功の可能性があるとすれば、
武士はより死ぬ可能性の高い方を選ぶ。
死ぬ可能性の低い方を選んでうまくいったとしても、それは腰抜けだ。
常に死を念頭に置いてしっかりきちんと生きなさい。
と、説いてあるのです。

昨年11月頃に(今月もNHKプレミアムで再放送されていました)
NHK総合テレビ「土曜ドラマスペシャル」で、
『蝶々さん〜最後の武士の娘〜』
というテレビドラマが放映されて観たのですが、違和感がありました。
プッチーニのオペラ「蝶々夫人」を題材として、
先日亡くなられた市川森一さんの小説「蝶々さん」を
市川さんが自ら脚本もされたドラマですが、
大河ドラマ「篤姫」で貢献した宮崎あおいさんが
おそらくNHKの意向で主役・伊東蝶に抜擢されたのでしょうけど、
童顔の彼女が、花街で磨かれた一流の芸者には全く見えないことや
明治時代にアメリカに行きたがる理由もよく伝わらないし、
凛として元武家の誇り高い娘なら、もう少し賢くて、
そんなに簡単に外人に騙されたりしないはずだし、
「葉隠」は肥前佐賀藩に伝わる武士の心得書はいいとして
棄てられて哀れな最後(自刃)を遂げるのも
廓(くるわ)のお嬢様時代に巨漢の中国人に追い詰められた時に
自刃しようとしている場面を見せているために、
クライマックスの哀れさに涙を誘う場面は、
何だか欧米の“ハラキリショー”的に感じて興ざめしてしまいましたし、
ドラマの最後の最後で、蝶々さんの息子ジョー(川平慈英)が、
蝶々さんを慕っていた伊作から、
ことのいきさつを聞いて納得するのですが、
これが「納得できた」という嬉しくて満足感いっぱいといった表情だったのも
演技がヘタなのか、違和感がありました。
母親が誇りを持って死んでいたことに対する
一種の安堵感のようなものはあっていいのですが、
ジョーには怒りや悲しみ苦しみなど色々な感情が交錯して育ったはずですから
ことのいきさつを聞いても、もっと複雑な表情にならないとヘンだと思いました。

脚本がダメにするドラマで想い出したので
忘れないうちに、ついでに以下も書いておくことにしました。

昨年9月にテレビ朝日系で放映された
松本清張ドラマスペシャル「砂の器」ですが、
松本清張作品の大ファンの私としては噴飯ものでした。

この作品はハンセン氏病(らい病)に対する社会差別を
描いた重厚な優れた作品なのですが、
ここの視点をカットしてしまい、
ドラマでは本浦千代吉、秀夫親子の放浪理由が
本浦千代吉の殺人容疑の逮捕、証拠不十分による釈放で、
過疎の村人たちからの疑惑の目に耐え切れないで
息子・秀夫を連れて放浪の旅に出たという設定も
何だか違和感がありました。
原作に沿って、東京オリンピックの1964年(昭和39年)の4年前、
「家つきカーつきババア抜き」
が流行した高度成長期の
1960年(昭和35年)に設定してあるのですが、
当時は女性新聞記者なんていなかったはずだし、
刑事が新聞記者と行動をともにして捜査をするとか
・西蒲田署刑事・吉村 弘(玉木 宏)
・毎朝新聞記者・山下洋子(中谷美紀)
・捜査一課刑事・今村栄太郎(小林 薫)
この3名が、女性新聞記者のヒントで
次々に難事件を簡単に解明していくのは
呆れるのを通りこして腹立たしかったです。
女性新聞記者が緑色のトレンチコートを着て
エンジや青い帽子をかぶって、
捜査が行き詰まると登場してきては糸口をつかむという、
もうお邪魔虫的な存在以外の何物でもなかったです。
「もうどんな難事件でも、この3人なら解決してしまうんじゃないの?」
と思うくらいでした。
・作曲家・和賀英良(佐々木蔵之介、犯人)
に、吉村刑事が警察の取調室で
「あなたは孤児ではないのか!」
と恫喝するのも、
いくら相手が重要参考人であっても
人として礼節を欠いている差別的表現すぎるし、
和賀になりすました本浦秀夫は黙秘し続ければアメリカに逃げられるのに
その寸前でうろたえて自白してしまうのも違和感がありました。
出演者も役者も素晴らしいし、好演なのですが、
脚本がすべて台無しにしてしまい残念至極でした。
テレビ局も大金をかけて制作するのなら
原作に忠実につくってほしいところです。
最近のドラマは脚本がヘンなのが多く、
出来るだけ観ないようにしているのですが、
たまに期待して観ては、不愉快になって
太田胃酸を飲みたくなってしまうのです。
大きく脱線してすみませんでした。
本題に戻りましょう。



西南戦争で政府が拠出した政府軍の戦費は、
当時の税収約4800万円のうち約4200万円、
つまり9割近くに上ってしまいました。
 (内訳:人夫賃金1306万円・藤田組藤田伝三郎の利権、
  軍事器455万円・大倉組大倉喜八郎の利権、
  運送船舶費344万円・三菱商会岩崎弥太郎の利権に)
困った政府は4200万円のうち1500万円を借金でまかない、
残りの2700万円をドイツの印刷会社に印刷依頼した紙幣・明治通宝を
大量発行して対応しました。

軍事費の約3割が兵隊の人件費ですから、
小金持ちの兵隊や家族は商店で買い物をしますが、
商品に限りがあるために、需要と供給のバランスが崩れて
明治12(1879)年以降はインフレーションが猛威を振るいます。

政府は市場に出回った紙幣を回収するために、
海外から資金を調達(外債)しようと考えます。
(調達した資金で銀を購入し市場に出回っている紙幣と交換しようという考え)
資金を調達するという事は、将来的には資金を返さなければならず、
支出が増えることになり、緊縮財政論者らの抵抗で
外債調達案は中止されてしまいます。

インフレ解決のため、大蔵卿大隈重信は、
それまで積極的だった殖産興業(国営企業)を見直し、
官営企業を民間に売却し、さらに増税をする事で、
市場に出回っている紙幣の回収を目指します。

しかし、大隈派の北海道開拓使長官の黒田清隆が
大阪の実業家・五代友厚に開拓使の官有物払下げを
(五代は大阪証券取引所、大阪商工会議所を設立した「大阪の恩人」)
格安で行おうとしたことで世間の猛反発を招き、
これが払下げ中止になっただけでなく、
君主大権を残すドイツのビスマルク憲法形式を推す伊藤博文と井上毅と
イギリス型の議院内閣制の憲法形式を推す大隈重信派との憲法制定議論で
1881年(明治14年)伊藤博文が大隈重信を
政府から追放してしまう事態に発展してしまうのです。

ここで、緊縮経済論者である元薩摩藩士の松方正義が登場します。
大蔵卿大隈重信が西南戦争後のインフレ対応策として
外債募集による財政整理を断行しようとするのを反対したことで、
大蔵省官僚から内務卿に外されていたのですが、
大隈の失脚で、代わって松方が大蔵卿に就任することになったのです。

松方のインフレ解決のための財政政策は、
国民に傷みを分かち合うものでした。
市場に出回っている大量の紙幣を回収するために、
積極的な増税を行ったのです。
煙草税が約7倍、酒税は2倍以上など、お菓子税なども新設し、
また地方税や国税の増税まで行い、金融の引き締めを強化しました。
また、財政悪化のため、民間でできる事を民間に委ねるために、
官営企業を次々に民間に売却しました。
これによって払い下げられた企業は財閥に成長していくのです。
,
しかし、急激なインフレ対策の結果、今度はデフレに陥ってしまい、
人々の生活は困窮することになりました。
厳しい増税の結果、一般庶民の手元にお金が残らず、
買い控えが起きてしまったのです。
そのため、商品をなかなか買ってもらえず、
商店は値下げをせざる負えない状況に陥り
デフレスパイラルになってしまったのです。

明治初期は労働者の7割が農林水産関係の
いわゆる農業の仕事に就いていました。
当時の沖縄ももちろん同様でした。
デフレ下でも特に米価が大幅に下がり、農民達は苦しみ、
数多くの失業者を生み出すことになりました。

農民たちは、生活のために土地を売却して小作人化が進んで大地主が発生しました。
(小作農率の全国平均38%が47%に拡大)
また、小作を続けられないほど困窮した者は、仕事を求め都市に流入し、
官営企業の払い下げで発生した財閥が経営する工場で低賃金労働をさせられ、
都市部の貧困層が拡大しました。
また、財政難となった国は、「原則国有」としていた鉄道の建設が困難になり、
代わって私有資本による鉄道建設が進みました。
日本の産業の近代化の発展は、
農村から都会に流出した離農者たちが寄与したともいえそうです。

当時の紙幣は不換紙幣という金や銀に交換できないものが主流でしたが
松方は金や銀に交換できる兌換紙幣(だかんしへい)を目指しました。
インフレで紙幣に対する信頼が低下していた状況を打開するために、
銀との交換のできる保障がついた紙幣の発行を目指したのですが、
そのためには、紙幣から交換するための銀の保有量を増やさないといけません。
松方の緊縮財政によりデフレを招きますが、
その結果、財政は豊かになり銀の保有量は増えていきました。
そして、1885年(明治18年)日本銀行券(=銀兌換紙幣)が
発行されることになるのです。
信用を取り戻した紙幣の流通により、産業はさらに発展して
日本が欧米列強に並ぶ近代国家になる下地が作られました。

西南戦争は、士族の特権確保という
所期の目的を達成出来なかったばかりか、
政府の財政危機を惹起(じゃっき)させてインフレそしてデフレをもたらし、
当時の国民の多くを占める農民をも没落させ、プロレタリアートを増加させました。
その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、
その中から初期資本家が現れる契機となりました。
その結果、資本集中により民間の大規模投資が可能になって
日本の近代化を進めることになったのですが、
貧富の格差は拡大してしまいました。

話があちこちに脱線するので、判りにくいと思いますが
日本・ハワイ関係が急速に好転した背景として、
薩摩藩出身の松方正義が大蔵卿と、
長州藩出身で欧化政策を掲げる井上馨(かおる)が
外務卿(外務大臣)に就任したことが大きく影響した、
として、
松方正義が大蔵卿になった話は前述しましたので、
今度は井上馨(かおる)でしたね。

欧化政策を掲げる井上馨が外務卿に就任したのは1883年(明治16年)で、
東京麹町山下町(現在の千代田区内幸町1丁目)に
鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し、不平等条約改正交渉にあたります。

幕末のペリー来航で日本は開国することになり、
日米和親条約締結後、
「日本は脅せばひれ伏す」
と西欧列強各国に見抜かれて
イギリス艦隊やロシア軍艦も長崎に来航してしまい、
鎖国を理由に断ることが出来なくなった軟弱幕府は、
戦争回避を最優先するために
同様の安政条約をオランダ、ロシア、イギリス、フランスと
順次結んでしまったのです。
(安政の5か国条約、その後プロシア、ポルトガルとも条約を結んでしまいました)
しかし、これらの条約はひどく不平等な条約で、
外国人が日本で犯罪を犯しても日本で裁けない治外法権や
外国人による永代借地権、
輸出入にかかる関税率は相互で協定する、という関税自主権の喪失
などがあり、
明治新政府にとっては、厄介きわまる負の遺産を引き継ぐことになりました。
それらの不平等を解消し、対等な条約に直そうというのが
明治政府の大きな目標になったのです。

歴代の外務卿は各国大使に
治外法権撤廃と関税自主権回復を度々交渉するのですが、
相手方からすれば有利な条件を手放すはずがなく、
まったく相手にされませんでした。
元佐賀藩士で気概あふれた副島種臣(そえじまたねおみ)でさえも
「治外法権の撤去は天地の公道、宇宙の大義なり。
 各国がわが国に強制した最恵国条約なるものは不条理不公平である」
と堂々の議論を展開したそうですが、
これもイギリス大使に頑なに反対されています。

1862年(文久2年)には薩摩藩の島津久光の行列に
4人のイギリス人の乗馬が乱入してしまい、
供回りの藩士が抜刀して切りかかり
殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件(生麦事件)と
その謝罪と賠償問題がこじれて薩英戦争に発展した歴史や
ほんの数年前まで刑場で行われていた磔(はりつけ)獄門を
野蛮で残酷な刑罰だと軽蔑していたこともあって、
(当時の外国人も目撃していたようです)
また日本を上から目線で見下していたこともあり、
欧米各国は治外法権撤廃に強硬に反対していたのです。

そこで井上馨は、姑息な手段といえばそれまでですが、
不平等条約改正交渉のためには日本の欧化を推進し、
欧米風の社交施設を建設して外国使節や外交官を接待して、
日本が文明国であることを広く諸外国に示す必要があるとして
内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡
(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣のNBF日比谷ビル)
に、鹿鳴館という迎賓館を造り、
夜ごとパーティを開いては交流を深めようとしたのです。
(施工は土木用達組という大倉喜八郎と堀川利尚の出資会社で、
 後に大倉組を経て大成建設になります)

男性も女性も西洋のマネをして燕尾(えんび)服やドレスで着飾って、
西洋と肩を並べ、日本も文明国だとアピールし、
対等な立場に立とうという思いで頑張っていたのです。
当たり前ですが、いくらマネは出来ても
欧米からはまったく対等には扱われませんでした。

不平等条約が改正できたのは、
1894年(明治27年)に始まった日清戦争に勝ってからです。
凋落していたとはいえ亜細亜の大国に小さな島国の日本が勝って
初めて世界に認められたのです。
それでも不平等条約はいくつか残り、
完全に対等になったのは日露戦争が終わって5年後の
1910年(明治43年)の韓国併合を敢行した後に
欧米列強国は初めて日本の改正要求に応じたのです。
(外国人による永代借地権は昭和17年まで残りました)
幕府の怠慢による不平等な安政条約は締結から実に56年間、
厳密に言えば、87年間も不平等条約の支配下にありました。

1883年(明治16年)に鹿鳴館がopenし、
翌年にはホノルルに日本領事館が開設され、
井上外務卿はアーウィン在日ハワイ国総領事と懇意になり、
ハワイとの親密化をもたらすのです。
アーウィンは「ハワイ国移民事務局特派委員」にも就任していて、
当時日本からの集団移民を強く求めていたハワイ王国の要望を実現するため、
井上外務卿と積極的な交渉を行いました。
日本でも松方デフレの大不況下で
海外出稼ぎによる外貨獲得が期待されるムードになっていたので
両者の思惑は一致し、善は急げとばかりに一気に進展していくのです。

日本ハワイ労働移民条約の原案起案、移民募集や人選、送り出しまで、
井上外務卿とアーウィン総領事、
後の三井物産に発展する三井財閥系の
先収会社の益田孝社長の3人を中心として進められたようです。

なぜ三井財閥系の会社が出てくるのかというと、
井上外務卿は為政者でありながら、三井財閥の最高顧問をしていたからです。
その先収会社は井上と益田の共同出資会社で、
益田孝とは親友を通りこした一蓮托生の間柄でした。
移民事業で利権が伴うのですから、現代であれば大問題になりますよね。
この先収会社は輸出入のほかに、
井上が元長州藩士だったこともあって、
山口県をはじめとする近県の地租引当米の販売を担当するなど、
米の売買も行っていました。
官約移民の募集の実務は、益田孝が総指揮を執ったといわれていますが
官約移民の参加者は当初、山口県や広島県、福岡県、熊本県など
西日本の各県に偏っていたようです。
(山口と広島で全体の64%、山口県だけでも44%)

鹿鳴館openの2年後、1885年(明治18年)には、
「日布渡航条約」(ハワイは漢字で布哇)が締結され、
労働条件などを定めた約定書も取り交わされました。
日本からハワイへの集団移民が開始されました。

第1船はCITY OF TOKYO号で
944人(945人とも)を乗せてハワイに向けて出港しました。
(内訳は成人男性682人、成人女性164人、子供98人。
 当時、農村は全国的に凶作だったため、
 初回は600人の公募に28,000人が応募したといわれています。)

当時のハワイの総人口は約8万人で、
在留日本人は「元年者」の残留者を中心とした百十数人だけでしたが、
以後、ハワイの日本人移民は急増の一途をたどり、
日布渡航条約が廃止される1894年(明治27年)まで
約9年間に、最後の第26船まで合計26回、
約3万人の日本人移民がハワイへと渡航しました。

1885年(明治18年)から1894年(明治27年)までの移民は
政府間で定めた約定書に基づく移民であることから
「官約移民」と呼ばれているのです。

官約移民は
「3年間で400円稼げる」
といって募集されたそうです。
募集から12年後の明治30年頃の
小学校教員や警察官の初任給は月給約8〜9円、
職人の大工や工場の技術者で月約20円らしいので、
明治30年当時の1円は現在の2万円とすると、
明治18年頃の1円は現在の3万円くらいの価値があり、
「3年間で1200万円稼げる」
という感覚だったのかもしれませんね。

ハワイでの初期の給料は
食費や家賃など込みで月額15ドル、
1日10時間労働で、休みは週1日。
ハワイの当時の物価は調べられませんでしたが、
悪い条件ではなかったようです。
契約期間3年間を満了して帰国した者は、
ある程度のまとまったお金を持って帰れたようで
それによって新たな移民応募につながっていったようですが、
日本でのインフレの進行によって貨幣価値が徐々に下がり、
契約期間が満了しても日本へ帰国せず、
ハワイに残留する人たちが増加するようになりました。

移民者はハワイの各プランテーションに配属され、
早朝から夕暮れまで炎天下のサトウキビ畑での
過酷な長時間労働を強いられました。

労働は過酷で、現場監督(ルナ)の鞭で殴る等の酷使や虐待が行われ、
半ば奴隷に近かったとも伝えられていますが、
官約移民は政府間交渉によって始まったものですから、
厳しい労働条件とはいえ、日本政府の手前もあって、
ある程度の歯止めはあったようで、
日本の外務省から移民監督官が現地に派遣されていました。
本当に奴隷状態なら、移民者が逃亡したり
日本政府に泣きついたりしたはずですが、
そういうクレームもほとんど無かったようです。

この官約移民時代は、
ハワイ政府というよりハワイ王朝が、
日々増大していくアメリカの圧力におびえながら、
日本との関係に唯一、精神的な救いを求めていた時代でもあったようです。
ハワイ政府の実権は、もはや王朝の手から離れていて、
大臣以下は白人官僚の手に独占され、
王朝は有名無実になっていたのです。

前回に記述したように、南北戦争後に農産物が高騰したことで
1876年(明治9年)にアメリカとハワイによる互恵条約締結が結ばれていますが、
この条約によって、ハワイからの農産物は無関税でアメリカに輸出できることとなり、
当時アメリカ本土で砂糖の需要が急増していたこともあって、
サトウキビ産業は飛躍的に増大することができたのです。
アメリカはその関税特権の見返りとして、
ハワイ政府からオアフ島の真珠湾の軍事利用を認めさせ、
ハワイはアメリカの軍事基地となり、
アメリカは太平洋における軍事的重要拠点にしていくのです。


何とか官約移民まで書き上げて、ゴールは見えてきました。
次回か、その次にはようやく本の記事が書けそうです。
posted by COFFEE CHERRY at 23:51| 沖縄 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月25日

戦前の沖縄ハワイ移民−3

「新聞で見るハワイの沖縄人90年」
という本を読んで、
ただ
「ふ〜ん、こんな時代があったのか」
とか
「あまり興味がわかなかった」
とか、
そういう感覚的な感想だけでなく、
「当時の移民の方々がどれだけ頑張ったのか?」
の、せめて数百分の一でも知るには、
どうしても
「なぜ移民することになったのか?」
という時代的な背景を知らないといけない、
というのが私の性格なのです。

22日(日曜)、NHKBSプレミアムで
「開拓者たち」
の第4回(最終回)を観ましたが、
満州の開拓団や北海道の開拓団、
あるいは海外移民や戦争、昨年の3.11の被害者なども含めて、
多くの方々の苦労や無念の死があり
今、私たちは生かされていることを感謝し、
どんな環境でも、毎日を大事に明るく前向きに
一生懸命に生きる義務を感じます。

そういう方々の苦労や無念さからしたら、
私は本当に生ぬるく、頑張りが足りず、
先人の想いを受けるに足りるかどうか判りませんが
沖縄コーヒーの礎を築くのが私の使命ですから、
微力前進であっても、前に前に進む覚悟です。
そういうわけで、前回の続きを書かせて頂きます。

おそらくまた長くなるかもしれませんから、
明治期の話に興味がない方は、
次回以降をご覧ください。


幕末の幕府が
「300人の出稼ぎ労働者」
を認可したのに、
明治新政府は早々と
ハワイ渡航許可の取り消しと印章(旅券)の無効を宣言するものの、
すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、
1868年(明治元年)、イギリス船籍のサイオト号で
153名の日本人を無許可で横浜港からホノルルへ送り出してしまい、
こうして送られた初の日本人出稼ぎ労働者が
「元年者」
と呼ばれ、
実質的な“移民”とは違う、
というところまでは前回説明しましたので、
今日はその続きです。

出稼ぎ移民希望者は、
 ・契約期間3年間、
 ・1ヵ月の賃金4ドル(当時は1ドル=約1両)
 ・渡航船賃や滞在中の住宅・食糧・治療費などは雇用主側が負担

などの条件で契約されていたようです。

ホノルルに到着した彼らは好意的に受け入れられたようですが、
二十数人ずつにグループ分けされて、
サトウキビのプランテーション農場に就労することになりました。

出稼ぎ移民団の募集期は、大混乱期の幕末ですし、
ヴァン・リードは移民募集を止めないことで、
明治新政府は海外追放まで検討していたようですから、
彼にも相当な焦りがあったようで、
出港する横浜を中心とした地域限定的な募集をしたようです。
そのため、応募してきたのは前職が
 ・武士
 ・大工などの職人
 ・髪結
 ・料理人

など、農業経験のない都市型住民でした。

何しろそれまで移民の先例がないし、時間もないので、
おそらく選定基準なども無かったでしょうし、
「応募してきたら、かたっぱしから合格や」
「港で出港停止される前に、早く出発しないと」
と、あわてて夜逃げでもするように
早々と定員前に募集を打ち切ったのか
定員まで集まらなかったのかはわかりませんが、
「まずは急いでハワイに労働者を送ってしまおう」
ということを最優先にして、
出稼ぎ移民団をサイオト号に乗せてしまったのでしょう。

なぜ、そう想像出来るのかというと、
その後、契約内容やホームシックなど、
種々の問題が噴出してきたからです。
現代社会であれば、出稼ぎ就労に応募する前に、
充分仕事内容や契約内容などについて充分吟味したり、
契約前に質問したり確認したりして納得してから契約しますし、
ましてや海外留学や赴任であれば
気候や食習慣、会話なども検討しなければいけません。
それが幕末から明治の動乱期であれば
海外の情報や渡航経験者も少なく、
よけいに気になるはずですが、
元年者の場合は、
「ハワイで3年働いて、ひと儲けしませんか」
というような感じで募集され、
応募する側も
「ハワイってどういうところか知らんけど、ま3年頑張ってみるか」
「契約って何だかわからないけど、まあ大丈夫さ」
「元気で健康だし集団就職だし、畑で働くなんて問題ないよ」
というような軽いノリで参加したような感もあり、
出稼ぎ移民者自体の資質にも大きな問題があったといえそうです。

初めての慣れない異国の地で、
英語も判らず、食文化も違い、
ましてや農業経験者がほとんど不在で
しかも、てぃーだかんかん(カンカン照り)の亜熱帯気候で、
10時間以上の畑仕事ですから、
日々相当なストレスも蓄積されていたでしょうし、
数か月もしないうちに彼らから不満が噴出するように至ったのは
当然の成り行きでしょう。

「労働が過酷すぎる」
とか
「月給は4ドルもらえるはずが、2ドルしかもらえない」
 (契約内容が、おそらく半額を銀行預金にして
  契約満了時に本人に渡すというのがあったはずです。
  1900年からの自由移民の契約ではそうなっています。)
「物価が高すぎる」
「現場監督が厳しすぎる」
 (当時の現場監督は大柄で屈強なポルトガル人たちで、
 馬に乗り、労働者の監視に当たり、鞭をふるい追い回していたそうです。)
など生活環境や労働環境面で不満が相次ぎ、
日本帰国を熱望する労働者が増加していきました。

こういう状況がアメリカ本土で
「日本人移民の苦難」
として誇張して伝わり、
英字新聞でも報道されてしまいました。
こうした報道を見た在米の日本人や、
元年者の代表者が明治政府に窮状を訴える手紙や嘆願書を出したことで、
明治政府も放任できなくなり、
2年後の1870年(明治3年)に
薩摩藩出身の外交官・上野景範を特命全権公使としてハワイに派遣し、
情況視察と王国への抗議を行いました。

調査の結果、出稼ぎ移民の多くは
生活習慣の違いや言葉が通じないことから起きる誤解などに起因する不満で
風評ほどの過酷な労働を強制されているというような状況ではないことが判りました。
日本への帰国を希望する者は少数で、
多くの者はこのまま就労を続けたいという希望であることも判りました。


結果的には40名が国費で即時帰国、
ハワイ残留を希望した者については待遇改善を、
また移民の募集と無許可で渡航させた
ハワイ国駐日総領事・ヴァン・リードの罷免も取り付けました。
この一件を契機として日本とハワイの通商条約が議論され、
1871年(明治4年)には日布修好通商条約が締結されますが、
(ハワイは漢字で「布哇))
海外出稼ぎ移民の過酷な労働や対応が新政府内でも問題視され、
これから14年間、
1885年(明治18年)までは、
海外移民が中止になってしまうのです。

元年者153人のうち5人は入植1年以内に現地で亡くなり
40人が帰国したので、
ハワイには108人がそのまま留まることになりました。
残留者たちは過酷な労働に耐え、
半数は西部開拓で賃金の高いアメリカ本土(西部)に渡り、
半数はハワイに残留し、
そのほとんどがハワイアンの女性と結婚しハワイ移住民となり、
一部はコナの白人の経営者のコーヒー農園に従事した人もいたそうです。
契約満了で日本に帰国したのはわずかに11人だったようです。


ヴァン・リードが153名の日本人を
明治新政府の許可なく横浜港からホノルルへ送り出した1868年(明治元年)、
合衆国西部では第二次ララミー砦条約がアメリカ軍とスー族間で交わされ
サウスダコタ一帯がスー族保留地になりました。
この条約は4年後の1872年(明治5年)に
鉄道敷設のために一方的に白人側によって破棄され
スー族との争いが激化し
1876年(明治9年)リトル・ビッグホーン川流域で
第7騎兵隊のカスター将軍の部隊208名が
クレイジー・ホースを中心とするスー族1800名以上の大軍に
全滅させられてしまうのです。
西部劇(Western)は西部開拓時代の出来事ですが
これは1890年代、明治30年ごろまでの時代です。


 昔からテレビのチャンネル権は父が独占していたので、
 ララミー牧場やローハイド、ライフルマンとか
 ローン・レンジャー、コンバット、ちびっこギャング
 などを子供の頃、テレビで観ていました。
 当時は白黒画面でしたがジェスってカッコ良かったです。




 若きクリント・イーストウッドはロディというカウボーイで主演。
 ロディとは名前ではなくニックネームで、ROWDYつまり“荒くれ者”です。
 南北戦争で農業地帯の南部が荒廃したため、
 東部では特に食肉価格が高騰し、
 南部の牛を東部で売ると10倍以上の値が付きました。
 そのため南部の牧牛業者に雇われたガードマンであるカウボーイたちは、
 東部までの1600キロの道程を、約3000頭もの牛を連れて旅に出るのですが、
 その道中では、夜盗や牛泥棒、雷雨や砂嵐の自然災害、
 さらには仲間同士のトラブルなど、
 次々と過酷な試練が待ち受けているというStoryでした。
  Rollin' Rollin' Rollin'
  Though the streams are swollen
  Keep them doggies rollin',
  Rawhide
  …
 勇ましく歌われる歌詞が、子供の頃はチンプンカンプンでした。



新撰組が京都三条の旅館池田屋で会合中の
長州藩、土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃した
池田屋事件のあった1864年(元治元年)、
ハワイ政府は移住民局をホノルルに設置し、
労働力不足を解決するため外国からの労働力を導入しようとしていました。

ハワイ王国には、もともと土地の個人所有という概念は無く、
土地はすべて王または酋長のものであって、
国民はアフプアア(Ahupua'a)での自給自足経済で暮らしていました。

ジェームズ・クック(Captain Cook)が1778年にハワイに来航して以降、
ハワイ王国でも「土地の私有化」という概念が広まり、
1848年に制定されたマヘレ法で、
土地を所有物・財産として見る西欧型の考えが導入され、
まずハワイの全ての土地はカメハメハ王と
245人の族長の間に分配されました。
1850年には、クレアナ法(土地権)が制定され、
庶民でも、自分の小作農地を請求すれば
それを自分の土地として所有が認められることになったのです。
これは画期的ともいえる法律でしたが、
広報不足や手続きの複雑さで、成人男子の3割しか請求せず、
請求できた土地を合計しても、
ハワイ全土の1%程度にしか至りませんでした。

同年、外国人による土地私有も認められたため、
契約や法律に強く、資金力もあった白人たちは、
対外債務を抱えていたハワイ政府から、
格安で王領地や官有地の譲渡を受けてしまい、
10年余り後の1862年までには、
なんとハワイ全土の75%が白人の個人所有になってしまったのです。

白人の投資家たちは、ハワイ各地にサトウキビ農場を設立し、
一大産業へと急成長させてしまいます。
その後、太平洋地域における捕鯨の衰退、
アメリカ合衆国内での南北戦争による砂糖の高騰などを契機として
砂糖産業はさらに加速し、
前述のカスター将軍の第7騎兵隊が全滅した1876年(明治9年)、
農産物の高値を下げ、安定価格帯に戻すために
アメリカとハワイが互恵条約を締結して
農産物の関税を廃止したことで、
ハワイ王国は世界有数のサトウキビ輸出国となりました。

砂糖は高収益性のため新規参入が相次いだこともあって、
ハワイ王国内のハワイ人のみでは労働力を確保することが困難となり、
国外の労働力を輸入する方策が模索されはじめました。

1852年以降に「3年間」という契約で、
中国から最初の出稼ぎ契約労働者がハワイへ来島し、
以降も中国から多数の労働移民がやって来るのですが、
当時の中国人移民はサトウキビ農場の就労定着率が悪く、
また契約終了後でも、中国に帰国せずハワイに残留し
勝手に別の商売を始めたりするなど
国内で中国人の質的悪化が問題になり、
ハワイ政府は中国人移民の数を制限し、
ポルトガルやノルウェーなど他の国から労働力を輸入するようになるのです。


水戸藩主徳川斉昭の子・徳川慶喜は、一橋家の養子となり
将運後継者候補の資格を有するようになった翌年の1848年(弘化4年)
カリフォルニア州で金鉱が発見され、
西部ではゴールド・ラッシュの到来を迎えます。
武市半平太が土佐勤皇党を結成し、
仁孝天皇の第八皇女・和宮親王が
第14代将軍徳川家茂の正室になられた1861年(文久元年)から
坂本龍馬が薩長和解工作のため下関で桂小五郎と会見し、
武市半平太が処刑された1865年(慶応元年)までは
南北戦争になり、
「元年者」153人がハワイに渡航した翌年の1869年(明治2年)には
最初の大陸横断鉄道も開通しました。
本土で廃藩置県を行い
1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)72県になり、
江戸時代の両・分・匁・文といった複雑な通貨単位を
全国共通の円、銭、厘(1両1000文が1円)に切り替えた1871年(明治4年)ごろに
合衆国東部で石油や電力を中心とした第二次産業革命が始まった頃、
西部開拓地には人が集まり始めました。

中国系移民も、ゴールドラッシュによる一獲千金の夢や
大陸横断鉄道の労働者として大挙押し寄せました。
合衆国では南北戦争前でも奴隷制度の廃止の風潮の論争があり
安価な労働力を渇望していましたし、
中国ではアヘン戦争で荒廃し、
清の衰退期での官僚の汚職や欧米列強の進出、
凶作で食料が不足する貧困などで、
混迷する祖国から逃れたい人々も多く、
両者の思惑が一致して、
アメリカは中国から大量の労働者を輸入するようになりました。

ゴールドラッシュでは5万人が押し寄せたといわれていますが、
その多くが中国系移民だった、ともいわれていますし、
1860年代の中西部鉄道建設現場では
5人中4人が中国人だったともいわれていて、
「枕木一本に一人の中国人の骨がある」
といわれるほど、その労働は苛烈を極め
奴隷と同じだったともいわれています。
1860年代のCaliforniaの人口では
約3割が中国系移民が占めていたそうです。

1873年(明治3年)のウィーン証券取引所の大暴落を契機に
欧米は大不況時代を迎えます。
綿花の世界市場価格も急落し、綿花1ポンドの価格は、
南北戦争終戦時の1ドルから、1870年代には
約2割まで落ち込み、綿花の価格崩壊は、
すでに南北戦争で疲弊した南部の経済をさらに壊滅させ、
また米国企業の多くが倒産し、
ニューヨークの労働者の4人に1人が失業し
名目賃金は四分の一減少したようです。
アメリカでは65ヵ月間、約5年半も大不況が続いたといわれています。

それまで低賃金で過酷な労働に貢献してきた中国系移民の歓迎ムードは
大不況下では一変し、
「白人の仕事を奪う脅威」
とみなされ、差別や偏見が激化し、
1882年(明治15年)には
「中国人排斥法」
が可決され、中国からの移民が禁止されるだけでなく、
アメリカ国内に居る中国系移民は
市民権を奪われ、土地所有、選挙投票なども認めらなくなるのです。

西海岸では、1852年以降の3年契約労働者であっても、
早々と中国系移民の排斥運動が激化していたようで、
大不況下では彼らは都市に出て肩を寄せあって暮らし始め、
ニューヨークやシカゴ、サンフランシスコなどの
チャイナタウン化になってゆくのです。

アメリカで中国系移民の排斥運動が起きていたこともあって、
彼らの代わりとして日本人移民の導入が計画され、
「元年者」
に至ったわけです。

元年者の国際問題や中国系移民への迫害などを問題視していた明治政府は
琉球王国が琉球藩にされた1872年(明治5年)、
ペルーの汽船マリア・ルーズ号がマカオへ帰国途中、
暴風雨で船を破損したために、横浜港に停泊して緊急修理することになったのですが、
中国系移民(苦力・クーリー)229名への虐待が判明し、
明治政府が「奴隷」と認定して解放する事件があり、
これを契機に、政府は
「労働契約を1年以内にする」
という太政官布告を公布したため、
1年以上の契約期間を求める海外移民の送出が
事実上不可能な事態になりました。

明治政府は、国際問題化すると厄介な海外移民よりも
北海道の開拓に力を注ぐことになります。
この経験がやがて日本の植民地政策の原型になり、
台湾、朝鮮、満州などへの野望につながっていくことになるのです。

期待していた日本人移民が来なくなったハワイは
「じゃあ止むを得ないね、他を探そう」
というよりも、
さらに日本人労働者に期待するようになるのです。

1860年(万延元年)に幕府が
日米修好通商条約の批准(ひじゅん)書を米国政府に届けるために
派遣した遣米使節団を乗せたアメリカ海軍軍艦ポウハタン号が
往路暴風雨でマストが破損し、急きょハワイに立ち寄った時の
使節団御一行様の節度をわきまえた態度や、
使節団御一行様の護衛船だった「咸臨丸」が
帰路ハワイに立ち寄り、
勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎などの節度を持った態度、
(使節団御一行様は豪勢に大西洋を渡り
 世界一周する形で帰国)
特に帰路の咸臨丸は日本籍船舶であり、
日本人による操船であったことが
ハワイアンに驚異の目で見られる結果となっていたことや、
「元年者」の働きぶりや中国系移民との質の違いなどから
日本人労働者が求められていたのです。

1881年(明治14年)、
カラカウア7世は移民問題について学び、
また外交関係を改善するため
サンフランシスコを経て
 ・日本
 ・中国
 ・シャム
 ・ビルマ、
 ・インド
 ・エジプト
 ・イタリア
 ・ベルギー
 ・ドイツ
 ・オーストリア
 ・フランス
 ・スペイン
 ・ポルトガル
 ・イギリス

を歴訪するのですが、
日本では明治天皇に移民の送出を要請しています。
 (また、7世はアメリカによるハワイの併合を防ぐために
  「大日本帝国連邦を作ろう」と、姪で5歳のカイウラニ王女と
  14歳の皇族・山階宮定磨との政略結婚も要請したのですが、
  明治政府は「国力増強に努めるのが精一杯でそこまでの余力はない」
  として断っています)

明治政府も、ハワイの期待に応えるため
移民政策の転換に向かうことになります。
1884年(明治17年)にはホノルルに日本領事館が開設され
ハワイからイアウケア全権公使が来日して、
移民について交渉し、日本側の内諾を得るのです。



ここまで読まれた方は
文が長すぎて嫌気がさしていると思いますので、
今日はここまでにして、続きは次回に。



 昨日、国会で施政方針演説を行った
 「巧言令色鮮し仁」の方は
 他の人が言ったことよりも、まず自身が言ったことを
 よく想い出してほしいものです。
 彼らはゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪のようで
 国家転覆を企んでいるんじゃないかと
 本気で思ってしまい気持ちが悪くなります。
 汚染された国会は強力バルサンとかで
 害人を駆逐することが出来ないものでしょうか。
 昔、東京ぼん太が言った「夢もチボーもない」、
 おかしな時代になったものです。

 夢無き者は理想なし
 理想無き者は信念なし
 信念無き者は計画なし
 計画無き者は実行なし
 実行無き者は成果なし
 成果無き者は幸福なし
 ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず

 邪念にとらわれず、
 渋沢栄一氏の教えといわれる「夢七訓」を
 かみしめたいものです。

posted by COFFEE CHERRY at 20:07| 沖縄 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月22日

戦前の沖縄ハワイ移民−2

明日1月23日は旧暦の1月1日ですから
我が家の近隣の家でも正月料理などの準備をされているようで、
先ほど私も少し戴きました。

沖縄からのハワイ移民の新聞記事を書き出す前に
「なぜ移民することに至ったのか?」
「どういう社会情勢だったのか?」
ということを知っておきたくて、
年末年始に改めて何冊も幕末の本を読み返しましたが、
ペリー提督の来航から社会的背景も関係してくるのです。
おそらくいつもの通りダラダラと長くなりそうな予感がするので、
面倒な方は次回に飛ばして下さい。


コロンブスの新大陸発見以降、
西欧列強は発展途上の大陸を征服して植民地を開拓・拡大し
そこから富を得ることで資本主義を発展させてきたのですが、
西欧列強の勢力がトルコ、インド、中国と徐々にアジア大陸を東に向かい、
いよいよ日本に本格的に本気で乗り込んできたのが1853年(嘉永6年)、
アメリカ海軍提督ペリーの来航です。

この時期は、
凋落一途の清とイギリス間のアヘン戦争終結10年後、
清国内の清国軍と太平天国軍による
大規模な内乱(太平天国の乱)が始まった2年後のことで、
ペリー提督の来航によって「幕末」が始まります。
15代265年間の徳川幕府が崩壊して
明治維新によって新政府が成立する激動の時代です。

徳川時代の外交政策というと、“鎖国”が浮かびますが、
実際には、中国、朝鮮、オランダとは貿易を行い使節の来訪もありました。
インドや中国が列強イギリスなどから、どんなひどい目に遭っているか、
武士階級を中心とする日本の識者たちは、
長崎にやってくるオランダ人や中国人からの情報で逐次知っていました。
そればかりか徳川幕府の為政者たちは、
アメリカのペリー提督が日本にやってくることも、
オランダ人からの情報で事前に情報を入手していたのです。

ペリー提督が来航する50年以上前の18世紀末頃から、
徳川幕府に貿易を要求するロシア船が度々来航していました。
1792年にはエカチェリーナ2世がラクスマンを根室に派遣、
1804年にはレザノフが長崎に来航し、交易を求めて拒否されています。
19世紀に入ると、イギリスの捕鯨船の乗員が燃料や水を求めて
鹿児島や茨城に上陸したりする事件が起きたり、
1837年には日本人漂流者を乗せたアメリカ船を
日本側が砲撃して追い払うというモリソン号事件もありました。

当初、幕府は長崎以外の場所に近づく外国船は
砲撃して追い払うという強気な方針をとっていましたが、
アヘン戦争によって西欧列強による植民地化の脅威を
幕府が目の当たりにしてからは、
燃料不足、食糧不足で困っている外国船には
適時便宜を与えてお引き取り願うという柔軟姿勢に方向転換します。
2年前の尖閣諸島中国漁船衝突事件の顛末のような
軟弱姿勢と同じようなもので、要するに内弁慶政権というわけです。

しかし、幕府の鎖国の方針は変えません。
1844年、オランダ国王は世界情勢を説き
幕府にいいかげん鎖国をやめるよう忠告する国書を送るのですが、
プライド高い幕府はこれを無視してしまうのです。

こういう流れの中でやって来たのがペリー提督でした。
ペリーの目的は日本を開国させることです。
開国させたかった主な理由は、次の2点です。
・日本をアメリカの捕鯨船の補給基地として利用したい。
 当時、アメリカは北太平洋で捕鯨を盛んに行い、
 ハワイ国も補給基地として利用していました。
 捕鯨の目的は鯨油で石油が使われる前は
 鯨油が燃料として利用されていたからです。
 19世紀半ばごろはアメリカ籍捕鯨船だけでも
 約700隻あったといわれています。
・蒸気船でアメリカから中国へ直行するための
 貿易航路の寄港補給基地として日本を利用したい。

 すでに、蒸気船が遠洋航海に利用されていましたが、
 当時はまだ太平洋横断に必要な石炭を
 蒸気船に積むことが出来ませんでした。

徳川幕府が鎖国をしているために、
ペリー提督の日本来航は太平洋横断ルートではなく、
ひどく遠回りの東ルートでした。
ペリーはアメリカ東海岸のノーフォーク港を出発して、
大西洋を横断後、アフリカ南端の喜望峰を回って
インド洋、香港、上海、琉球を経由して
はるばる日本にやって来たのです。
ペリー提督がアメリカを発ったのが1852年11月24日、
浦賀沖到着が53年6月3日ですから、
日本到着まで約半年もかかっています。

半年もかけて日本に開国を要求しに行く以上、
鎖国だからダメですといわれて「ハイそうですか」と
簡単に引き下がるつもりは毛頭なく、
「ガキの使いやあらへん」
という、交渉を絶対に成功させるべく
事前に日本について研究し対策を練っていたわけです。
オランダ人の著作など、日本に関する研究書を
40冊以上を読破したといわれています。
ドイツの医師・博物学者シーベルトが
最初の日本滞在中に
日本の生物・民族・地理・気候に関する情報を集め、
ドイツ帰国後に『日本』を執筆しています。
この本は日本研究の書として
欧米の知識人や軍人たちが愛読したようですが、
1853年に浦賀にペリーが来航したときも、
この『日本』を携えていたといわれます。

かつて、長崎に行って開国を要求しても、
江戸からの回答が来るのをさんざんじらされて待たされたあげくに
鎖国の国是を理由に拒否されている先例もペリーは熟知していました。
日本研究の結果、ペリーが出した結論は
「日本人は礼儀正しいが、武力が劣り権威に弱いので脅すに限る」
ということに至り、
江戸から遠く離れた長崎ではなく、
意識的に江戸湾の入り口にあたる浦賀に堂々と現れ、
わざわざ大砲で脅したのです。

オランダからの情報で、
ペリー提督が日本にやってくることは幕府は事前に知っていたものの、
長崎ではなく浦賀沖に現れてしまったことや、
1隻ではなく4隻の艦隊で、
しかもペリー提督が乗っている旗艦サスケハナ号とミシシッピ号の2隻は、
当時世界でもまだ珍しい蒸気船で、
木造船ですが船体に鉄板が貼ってあり、その大きさも世界最大級、
つまり世界最新鋭の軍艦2隻が突如として目の前に現れたわけです。
他の2隻も防腐のため黒く塗装されていたため、
日本人は“黒船”と呼びました。
黒色から連想するイメージは
 ・恐怖
 ・絶望
 ・暗闇
 ・神秘
 ・不安
 ・不気味
 ・威厳
 ・冷酷
 ・悪

という心理がありますから
ふだんサンマやアジ、カツオなどを釣る漁師が
初めてクジラを見た衝撃や
黒漆五枚胴具足(黒い鎧)を着用した伊達正宗公や
スターウォーズのダースベイダーが表れた不気味さのようなもので
当時の人々は幕府も含めて驚異的に威圧されたはずです。

ペリー提督の読みはBingoで、幕府は大混乱に陥りました。
幕府は開国を要求するアメリカ大統領の親書を受け取ったものの、
即時の回答はせず、熟慮をする時間稼ぎをすることにして
ペリー提督に翌年の回答を約束してお引き取りを願いました。
ペリーは西回りでアメリカに帰国すると
帰るだけで半年もかかりますし、
交渉を成立させて帰国する覚悟で日本にやって来ていますから
ペリーはアメリカへは帰らず、上海で半年間待機して、
再び1954年1月浦賀に姿を現してしまうのです。
このときには、遅れてやって来た船を加えて
合計7隻の大艦隊になっていました。

この期に及んで、幕府は拒否は出来ず
ついに開国に踏み切ることを決意します。
横浜に上陸したペリー提督と交わしたのが日米和親条約で
下田、函館の二港の開港と、そこに領事の駐在、
アメリカに対する最恵国待遇の付与などがその内容となっていました。

上海には西欧列強各国の艦隊が寄港していますから、
ここでペリー提督が日本を開国させた情報は
列強にすぐに知れ渡りました。
同年、イギリス艦隊やロシア軍艦も長崎に来航し
もはや鎖国を理由に断ることが出来ない幕府は、
同様の条約をイギリス、ロシア、オランダと結んでしまうのです。

日米和親条約は、単に日本の開国を決めただけの内容で、
貿易に関する規定はありません。
このため、日米和親条約に基づいて来日した
アメリカ総領事ハリスと幕府の間で貿易に関する条約交渉がはじまり、
1858年に日米修好通商条約が結ばれたのです。
これは、日本の関税自主権が無く、
アメリカの領事裁判権を認めるという不平等条約でした。
この後、幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも
同様の条約を結びました。

ペリー提督の来航から、日米修好通商条約を結ぶまで、
それまで独裁政治を行ってきた内弁慶の幕府は自信を失い、
朝廷に経過報告をしたり、条約調印の許可を求めたり、
はては諸大名に意見を聞くようになりました。
幕府の外交政策に対するこのような情けない自信のなさは、
それまで幕府を恐れて政治的意見を控えていた諸大名、
特に関ヶ原の西軍で外様に追いやられた藩や
一般の武士階級を爆発的に意識改革させてしまいました。
また、幕府の権威の低下にともない、
朝廷の権威が急上昇することになりました。

外交問題に対して世論は大混乱し、
「幕府の弱腰を非難し、鎖国を守りつつ、外国勢力を撃退せよ」
という考え方が主流になってきます。
軟弱で弱気な幕府はもはやアテに出来ない、
 朝廷を押し立てて外国人を追い払おう」

という
「尊皇攘夷」論が急速に広まっていきました。

軟弱だと言われても、幕府からすれば、
強大な軍事力を持つ欧米列強各国を相手に
とても強気に拒絶できるものではありません。
もしペリー艦隊が江戸湾に進入し砲弾を撃ち込めば、
江戸の町は壊滅するでしょうし、(強大と思われていた)清国でさえ、
アヘン戦争でイギリス軍に簡単に敗れ、
その後の第二次アヘン戦争(アロー戦争)でも清は劣勢でしたから
幕府の大老井伊直弼は
「条約を拒否して戦争になり、もし日本が敗れれば、領土を割かれ、
 多額の賠償金を支払い、国辱を受けることになる。
 実害のない方を選択するのは止むを得ない」

という判断で、
日米修好通商条約を結び開国近代化を断行し
国内の反対勢力を粛清しました(安政の大獄)が、
幕府は列強との戦争は中国の二の舞になるだけで、
植民地化されることを恐れていたのです。

 この後、尊皇攘夷運動は討幕運動へと展開し、
政権担当能力を無くした徳川幕府を倒し
世界情勢に対応出来うる新政府樹立を目指します。
下級武士層が、尊皇攘夷運動で世の中を揺り動かし、
その運動をうまくすくい取った薩摩藩、長州藩が中心となって
幕府を倒すことに成功し1868年の明治維新に至るわけです。


さて、ここでペリー提督によって開国され
1854年に締結された日米和親条約に続き、
1858年(安政5年)に日米修好通商条約が締結された頃に戻りましょう。
日米修好通商条約を国家として正式にその条約に拘束されることへの
同意書「批准書(ひじゅんしょ)」の交換はワシントンで行うとされたために
翌1859年(安政6年)に
「万延元年遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)」
という開国後の最初の公式使節団77人がアメリカに派遣されます。

幕府の御一行様は米国海軍のポーハタン号で
太平洋を横断し渡米することになるのですが、
万一の事故などのために護衛名目で咸臨丸を渡航させることになり、
こちらには軍艦操練所教授の勝海舟を始めとする
海軍伝習所出身者たちや福沢諭吉、
通訳にアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)といった
有名な幕末明治期の偉人たちが乗船していました。

サンフランシスコに向け咸臨丸が品川港を出帆して
3日後にポーハタン号が出港しますが、
2隻とも悪天候続きで嵐にも遭遇しながら
咸臨丸が先にサンフランシスコに到着したのに、
御一行様の本隊はマストが折れ、石炭も使いすぎたために
補給のためにホノルルに寄港することになったのです。

幕府の遣米使節団はカメハメハ4世に謁見し、
王から労働者供給を請願する親書を信託しますが、
日本は明治維新へと向かう幕末の混迷期にあり、
使節団帰国後もハワイに積極的な協力姿勢が打ち出せず
先送りされていました。

当時のハワイ王国は、急増するアメリカ系移民から
政治的、経済的に多くの圧力を受けるようになったことで
アメリカがハワイを征服するのではないかという恐れから
通商・貿易におけるアメリカへの依存度を低めるよう努め、
また西欧列強との取引を模索していた時期でした。

カメハメハ4世は遣米使節団御一行様と謁見して
3年後の1863年(文久3年)、
新撰組筆頭局長芹沢鴨らが
敵対する近藤勇、土方歳三のグループに暗殺された年ですが、
4世は気管支喘息のため29歳で逝去し、
弟が後継するのですが、カメハメハ5世は、
幕府からの返事が届かないことにじれていた兄の遺志を継ぎ、
徳川慶喜が朝廷に大政奉還した1867年(慶応3年)に
在日ハワイ領事として横浜に滞在していたヴァン・リードに
日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示し、
幕府から出稼ぎ労働者300人分の渡航印章の下附が受けられますが
その後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、
明治新政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、
徳川幕府との交渉内容を全て無効化してしまうのです。

それでも、すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、
1868年(明治元年)、サイオト号で153名の日本人を
無許可で横浜港からホノルルへ送り出してしまうのです。
こうして送られた初の日本人出稼ぎ労働者が
「元年者」
と呼ばれているわけで、
“移民”とは違うのです。


だいぶ長くなってしまいましたので、
今日はここまでにして、続きは次回に。
posted by COFFEE CHERRY at 18:04| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月20日

戦前の沖縄ハワイ移民−1

明日は大寒で、
東京で初雪が降った今日のヤンバルは気温が20℃と暖かく、
自宅玄関前ではヒメハブを2匹捕まえ、庭の外に放り投げました。

年末にテレビで盛んに予告編の宣伝をしていた
「聯合艦隊司令長官 山本五十六 ―太平洋戦争70年目の真実-」
という映画はまだ公開されているのでしょうか?
たしか本島北部最大の都市・名護市でも映画館が無くて
映画はGEOかTSUTAYAでDVDを借りて自宅で観るしかないので、
こうなると新作や準新作よりも
公開後半年以上経過して100円になった頃に観るのが常になっているのです。

1941年(昭和16年)12月2日、
大日本帝国海軍連合艦隊司令部は
北太平洋上を航行中の第一航空艦隊に対し
「新高山上レ1208(ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ)」
という暗号電文を送信しました。

この暗号は
「12月8日に米国ハワイの米軍艦隊、施設、基地を攻撃せよ」
という命令で、
航空母艦6隻を含む航空機動部隊は攻撃準備を開始しました。
あまりにも有名な話ですがご辛抱下さい。

1937年(昭和12年)に始まった日中戦争が次第に拡大していくにつれ、
東アジア・太平洋地域の現状維持を図るアメリカとイギリスは、
日本勢力を封じ込めるためアメリカは中国に対する援助に踏み切り、
1939年(昭和14年)にはアメリカ側から日米通商航海条約廃棄が通告され、
アメリカの対中国援助と日米貿易縮小による資源難で日本軍の進撃は鈍り、
戦線は停滞していきます。

そんななか成立した第2次近衛文麿内閣のもと、
打開策として日本は北部フランス領インドシナへの進駐を開始、
いわゆる「南進」によって資源を求めようと考えるようになります。
そして日独伊三国軍事同盟における同盟国であり、
勃発したばかりの第2次世界大戦で優位に立っていた
ドイツ、イタリアの援助を日本は期待するのですが、
この動きはファシズム政権から欧州を守ろうとする
アメリカの不信をさらに増幅させてしまうのでした。

こうした日米関係の悪化から近衛内閣は
1941年(昭和16年)3月に日米交渉を開始し、
日米関係修復に動くのですが
強硬派の松岡洋右外相によって日ソ中立条約が締結され
北方防衛が固まったことにより、南進論は勢いを増し、
南進への動きはさらに加速していきます。
日米関係の修復を焦る近衛首相は
松岡外相を外して組閣をし直しますが、
その直後南部フランス領インドシナ進駐が開始され、
アメリカの不信はピークに達します。

アメリカはイギリス・オランダとともに
対日石油、鉄鋼、航空機用ガソリン、
くず鉄といった産業必需物資の輸出禁止、
日本資産凍結などの厳しい制裁措置をとり、
日米関係はいよいよ悪化していきました。
同年9月の御前会議で、南部フランス領インドシナ進駐の維持と、
場合によっては日米開戦もやむなしとする決定がなされ、
政府部内では日米交渉継続を目指す近衛首相と、
交渉打ち切り・日米開戦を主張する東條英機陸相が激しく対立し、
その結果、近衛首相は退陣を決意し、
開戦派の東條内閣が成立してしまうのです。

同年11月26日には、
中国からの完全撤退などを求めた
事実上の最後通告「ハル・ノート」
アメリカから突き付けられるのですが、
同じ日に第一航空艦隊は
択捉(えとろふ)島の単冠(ひとかっぷ)湾を出発し、
ひそかにハワイ北方海域へ向かっていたわけです。

当時の日本はすでに満州からの利益なしでは
国が立ち行かなくなるほどの財政悪化事情がありました。
また、アメリカに屈服すれば、日本の威信は地に堕ちます。
オランダの植民地であったインドネシアの資源地帯や、
輸送に必要な中継地であったアメリカやイギリスの支配する
フィリピンやシンガポールを、戦争になると解っていながら
武力により奪取するほか無かったという状況もありました。
コロンブスの新大陸発見以降、列強大国は植民地を開拓・拡大し
そこから富を得ることで資本主義を発展させてきたわけですから、
弱体化していたとはいえ清や帝政ロシアを撃破して
勢いのある日本を列強大国が警戒して、
資源の無い日本を追い詰めていたので、
そう考えると大東亜戦争が侵略戦争なのか防衛戦争だったのか、
というのはなかなか断定できない問題ではあります。

「新高山上レ1208(ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ)」
という暗号電文の
新高山(にいたかやま、現・玉山、海抜3952m)がある台湾は
日清戦争以降日本統治下にありましたし、
この新高山付近を北回帰線が通っていて、
この北回帰線より北部、
温帯地域までが沖縄を含む亜熱帯地域、
南部が熱帯に属しているわけです。

この新高山の北回帰線の線上を東に見ると
ハワイのやや北側を通っていますから
帝国海軍の暗号は、理がかなっているともいえますね。


コーヒーベルトは、
「北回帰線と南回帰線の間の約70か国」
と、文献では定義されていることが多く、
要するに
「熱帯地域でコーヒーは栽培されている」
という意味ですが、
それを根拠に
「沖縄のコーヒーなんか…」
と考える方々も多いのです。

しかし、沖縄本島のヤンバルの北緯26度は
小笠原諸島やハワイ諸島の北のミッドウェー諸島、
カリブ諸島のバハマ、中東のバーレーンも同等の緯度で
亜熱帯気候ですし、
沖縄本島から約130km北の南西諸島の徳之島伊仙町でも
吉玉さんが、もう20年以上コーヒーを栽培されています。
この130kmという距離は、
東京からだと軽井沢や沼津、
大阪からは西舞鶴や和歌山県の田辺までの距離に相当します。
(新大阪〜名古屋間は新幹線で186.6km)

鹿児島県の大隅半島南南西約60kmの海上に位置する
屋久島ではコーヒー栽培が失敗されている事例を聞いています。
雨が多すぎるのか雨天が多いことで光合成がしにくいのか、
冬の寒さが影響したのか、栽培品種が何だったのか
栽培方法など失敗の理由は不明ですが、
徳之島伊仙町から屋久島までは
約350kmほど離れています。
この距離は東京からだと名古屋、仙台、新潟間に相当します。

今のところ、コーヒーの路地栽培では
徳之島、奄美大島、喜界島あたりが
「コーヒー栽培の北限地」
といえそうです。

コーヒーは熱帯果樹の中に組み込まれますが、
熱帯果樹という名称から
「熱帯地域だけしか栽培出来ない」
というのは早計で、
熱帯果樹とは
「熱帯及び亜熱帯地域を原産とする果樹」
で、
「温帯性の植物と比べて耐寒性がなく、特に降霜、降雪には弱い」
のが特長ですから、
沖縄や徳之島といった
厳冬期でも氷点下以下にならない亜熱帯地域では
コーヒー栽培が可能なわけです。
私は基本的に
「コーヒーベルトは概ねバナナベルトやカカオベルトと同等」
と考えています。

コーヒー栽培が可能であるなら、
当ブログで何度もいうように
あとは「どう取り組むか」という
個々の生産者の理念に関係してくるわけです。

ただ路地植えして放任して
「我が家の庭で栽培したコーヒーを飲んでみたい」
というのも理念ですし、
私のように
「ハワイのコナに匹敵する品質の豆を作りたい」
というのも理念です。
また、囮(おとり)に少量栽培しておいて、
実際には海外産で水増しして偽装し、
「混ぜたってどうせわかりゃしないよ」
というのも理念なわけです。

インチキな理念は“お米”と似ています。
今はお米はスーパーでも買えるので、
お米屋さんは激減していますが
昔はお米屋さんというとお金持ちという時代がありました。
つい最近まで、一部のお米屋さんでは
「ブレンド米に味を落とさず、いかに安価米をブレンドするか」
というのが“技術”といわれていました。
私はそういうのは技術ではなく
「悪意のある詐欺」
だと思っていますから、
コーヒーも海外産をブレンドするなら
自ら正直にアピールしてほしいだけなのです。
断じて
「海外産と混ぜたらダメ」
とは思っていません。

ちなみに、
熱帯地域の北限、北回帰線からコーヒー山までは
約360km離れています。
東京からだと名古屋、仙台、新潟までの距離と同等です。

また、北回帰線から石垣島(石垣市)までは約100kmで
この距離は東京から宇都宮、水戸、伊東、沼津あたりと
だいぶ熱帯域に近いので、
石垣島では台風の猛烈な暴風が吹き荒れるものの
東内原 稔さんご夫妻が20年以上コーヒー栽培をされています。

新聞に見るハワイの沖縄人90年.JPG

年末に名護図書館から
「新聞で見るハワイの沖縄人90年」
という本を借りて感銘を受け、
あらためて
「先人の想いを拳拳服膺(けんけんふくよう)しなければいけない」
と思い、
沖縄県内であれば、どこの図書館でも蔵書されているはずが
興味深く見た記事を抜き書きし、一部ですがご紹介することにしました。

著者の比嘉武信さんは日系2世ですが
ご自身は
「帰米2世」
と表現されています。

「帰米」
とは、
「アメリカで生まれて日本で教育を受け、再びアメリカへ帰る人」
のことを指すのだそうで、
きわめて重い深い意味が込められた言葉です。

時代に翻弄され、多くの困難を克服してきた
ハワイ在住沖縄県人の望郷の想いを、
自ら
「事実が知りたい、真実が知りたい、真実を後世に残したい」
という思いで、
アメリカと日本の両方を公平に見ることが出来るという立場から、
移民のアイデンティティーの模索、確立に役立つように
自らの移民2世という立場を通して、出された本で、
昨今のマスメディア報道でも判るように
新聞記事もあながち真実を伝えているとはいえないので、
「記事に読まれないように注意をした」
と紹介されています。

記事の原典は
ポリネシア、ハワイを中心に
太平洋地域の自然・文化等に関するコレクションが収蔵されている
ハワイ州最大の、Honoluluにあるバーニス・P・ビショップ博物館の
図書室のマイクロフィルム室の新聞資料
で、
・日布時事(日布)
・ハワイ報知(報知)
・その他の新聞雑誌

から採録され、
何度も記事を切り捨てて、
残ったものを集成して出版されるに至ったのですが、
私が期待したコーヒー農園での就労に関する記事は
残念ながら切り捨てされた方にあったようで、
この本では記述されていませんでした。
それでもとても興味深く何度も読み返してしまいました。
日米開戦までが「前篇」とされています。

次回に続く
posted by COFFEE CHERRY at 20:19| 沖縄 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月10日

明けましておめでとうございます

少し遅れてしまいましたが、
明けましておめでとうございます。

2012年(平成24年)は辰年で、
動物にあてはめると龍ですから、
年賀状には昇り龍や龍凧のような
描き方がされた方が多かったのでしょうか。

名護図書館で先月借りた
「宋代易学の研究」(今井 宇三郎・著、明治図書)
は、
太極拳の起源が宋代の易学の発達に起因しているとか
十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)の本義は
生命消長の循環過程を分説したものだとか
陰陽五行説とか難解に書かれていますが、
一般的には年賀状の干支(えと)の題材知識で充分だと思います。

十二生肖(じゅうにせいしょう)は、
十二支に
 ・鼠
 ・牛
 ・虎
 ・兎
 ・龍
 ・蛇
 ・馬
 ・羊
 ・猿
 ・鶏
 ・犬
 ・豚(猪)

の十二の動物を当てたもので、
そもそもどうしてそれらの動物をあてがったのか、
特に、どうして龍を入れたのかを調べようと
上記の本を借りたのですが、
難しすぎてよく解かりませんでした。

その動物の中では、
 ・牛
 ・馬
 ・羊
 ・鶏
 ・犬
 ・豚

は、
「六畜」と呼ばれる、
古代中国における代表的な家畜ですが、
“龍”だけが十二支で唯一の想像上の動物なのです。

龍は四神(青龍、朱雀、白虎、玄武)のひとつで、
古代中国の神話で神獣とされていますが、
秦を倒し、漢の初代の皇帝となった劉邦は
自らを「赤龍」だと名乗り、
以来、中国では
皇帝は龍、皇后は鳳凰(ほうおう)といわれるようになりました。

そのため、
 ・龍顔 帝王の顔
 ・袞龍(こんりょう) 帝王の衣服
 ・龍影 帝王の姿

など、
帝王にまつわるものには龍がつくことが多く、
最上級の意で龍を用いることも多々あります。
そこで琉球の“琉”と「龍」も何か関係があるのかと思ったのですが、
読み方こそ同じで何の関連性もありませんでした。

龍は水中に棲むとされていて、
なき声で嵐や雷雲を呼び、竜巻となって昇天し、飛翔します。
神秘的な力強さが感じられるように
「逆鱗に触れる」
という言葉も龍からきていますが、
一方では
「竜頭蛇尾(りゅうとうだび)」
という熟語もあります。

戦勝国の進駐軍のように鼻息荒く勇んで政府に乗り込みながら、
政策はことごとく官僚に阻まれて、あげくは降参してひれ伏して
国益と称する省益を優先するに至ってしまった民主党のごとく、
「初めは勢いがあるけど、終わりは奮わない」
という意味の熟語です。


「琉球」の“琉”という字の意味は、
偏が「王」になっていますが、
「King(王)」
という意味ではなく、
本来は「玉」編で、宝石を意味しているのだそうです。

「玉」編なのに、
編として使われるときだけ点が取れて「王」になる、
という何とも紛らわしいのですが、
 ・珊瑚(さんご)
 ・瑪瑙(めのう)
 ・瑠璃(るり、ラピスラズリ)
 ・真珠

などの宝石を表す漢字の王編など、
ほとんどの王編は点が取れた玉編らしいので、
漢字も調べるとなかなか奥が深いですね。

中国では、玉石(琉)に
 ・「仁」 なめらかで美しく潤った様子から思いやり、いつくしみ
 ・「義」 中まで透き通って見える外見は清さ、正しい道
 ・「智」 打てば澄んだような音は
 ・「勇」 堅さ、強さ
 ・「潔」 純粋さ、清潔さ

の五徳という美徳があると考えて
(儒教の五常「仁・義・礼・智・信」と少し違う)
古来から祭祀の道具の特定の材料とされたり、
幸福や平安を願うアクセサリーとされていますから、
子供に王偏の文字を名前に付けるのは、
「玉石のように立派な人柄になるように」
という願いが込められているのでしょう。
親しくさせていただいている仙台市の方のお子様も
瑠璃子ちゃんと命名されていましたね。
「琉」と「瑠」はほぼ同じ意味の漢字らしいですよ。
佐渡の珠美さんの「珠」も“真珠”というように
宝石が由来している字ですから良いお名前ですよね。

元旦のコーヒー山.JPG
 今年の元旦は旧暦12月8日で
 家族の無病息災を祈願する鬼餅(ムーチー)と重なりました。
 沖縄ではムーチービーサーという、ムーチー後に吹く強風後に、
 暖かくなるのですが、今年はどうでしょうか。


ちなみに、「琉球」という国名は明時代以降のことで、
最初は600年頃の
「隋書」
(卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求國)
に“流求國”と出てきて、
その後
二十四史の1つで中国の唐代の正史
「新唐書」(1060年)では“流鬼”になり、
元史では、クビライの元寇で1292年に
「元が瑠求に武力侵攻した」
となっていて、
(瑠求が琉球か台湾かは諸説あるようです)
沖縄と明が交易を始める14世紀以降、
自国の国号として「琉球國」を用い、
明治維新により成立した日本政府が
1879年(明治12年)に尚泰王(しょうたいおう)を追放し、
沖縄県の設置(廃藩置県)が宣言されて
琉球王国が滅亡するまでの約600年間が
“琉球”という国名なのですが、
実に素晴らしい意味を持っている国名なのです。

研究中の苗木.JPG
 先月の忘年会でお預かりしたアラビカ種の苗木です。
 正月明けにもかかわらず元気一杯です。
 この苗木にはある秘密があり、
 元気一杯であること自体大変なことなのです。
 もしこれでOKならコーヒー栽培だけでなく
 果樹栽培でも画期的な方法になるはずで期待しています。
 申し訳ありませんが詳細な公開はしばらく出来ません



コーヒー山では、昨年、
台風が3度襲来したことや
後継予定者が突然辞めてしまうなどアクシデントもありましたが、
栽培自体は、雨が多いことや保水方法のレベルアップなどで
また高さ30cm程度の苗木が植えられるようになってきたこと、
多くの品種を植えて生育状態の比較が出来るようになってきたことなど、
良い栽培環境になってきました。
また、沖縄の、というか
やんばるでの相性の良し悪しの品種も
何となく判ってきました。

そういうことを踏まえると、
今年は、
「沖縄コーヒーの元年」
といえるのかもしれません。

今までも先人の方々がコーヒー栽培をされてきていますが、
それぞれ個々に、よく言えば独創性に富み、
悪く言えば見よう見まねで好き勝手に栽培をしてきました。

新規参入もありますが、
多くはそろばんをはじくばかりで
栽培を甘く見て失敗される方ばかりです。

沖縄でのコーヒー栽培は
 ・台風
 ・北限

というリスクを踏まえて
それらの対処もしなければいけないのです。
また、今までの失敗の積み重ねから
沖縄に合った栽培法も確立するようにしないといけません。

あるコーヒープロジェクトも動き出そうとしているようですが、
私はここには一切関わらず、独自に真摯に
出来ることだけを着実に行い、
国頭村にコーヒー栽培を定着させる土台を
構築する責務を果たすために前進するだけです。
今年もどうか背中を押していただければ嬉しいです。


riu120103.jpg
 我が家の家族RIUです。
 漢字では琉球の“琉”という名前ですが、
 読みは中国語の「Liú」を使っています。
 そのままだと恐れ多いのでRIUに命名しました。
 那覇市の「りうぼう」も、設立時は琉球貿易商事ですから、
 「りう」は中国語の読みをとっているようです。
 Webでの種々登録で私の“康子”ではなく
 犬の「琉」という名前を使って登録をすることがあるのですが、
 一部では名簿が流用されているようで、
 後日勝手に届く通販とかのDMには「琉」の名前で届くのです。
 TSUCDYAも、入会規約に、
 「サービス情報の提供を受けることに同意する」
 と天眼鏡で見ないと読めないような小さい字で書かれているように
 レンタル履歴などの情報を意図的に流用していますから、
 気をつけた方がいいですね。
posted by COFFEE CHERRY at 14:07| 沖縄 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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