2012年01月25日

戦前の沖縄ハワイ移民−3

「新聞で見るハワイの沖縄人90年」
という本を読んで、
ただ
「ふ〜ん、こんな時代があったのか」
とか
「あまり興味がわかなかった」
とか、
そういう感覚的な感想だけでなく、
「当時の移民の方々がどれだけ頑張ったのか?」
の、せめて数百分の一でも知るには、
どうしても
「なぜ移民することになったのか?」
という時代的な背景を知らないといけない、
というのが私の性格なのです。

22日(日曜)、NHKBSプレミアムで
「開拓者たち」
の第4回(最終回)を観ましたが、
満州の開拓団や北海道の開拓団、
あるいは海外移民や戦争、昨年の3.11の被害者なども含めて、
多くの方々の苦労や無念の死があり
今、私たちは生かされていることを感謝し、
どんな環境でも、毎日を大事に明るく前向きに
一生懸命に生きる義務を感じます。

そういう方々の苦労や無念さからしたら、
私は本当に生ぬるく、頑張りが足りず、
先人の想いを受けるに足りるかどうか判りませんが
沖縄コーヒーの礎を築くのが私の使命ですから、
微力前進であっても、前に前に進む覚悟です。
そういうわけで、前回の続きを書かせて頂きます。

おそらくまた長くなるかもしれませんから、
明治期の話に興味がない方は、
次回以降をご覧ください。


幕末の幕府が
「300人の出稼ぎ労働者」
を認可したのに、
明治新政府は早々と
ハワイ渡航許可の取り消しと印章(旅券)の無効を宣言するものの、
すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、
1868年(明治元年)、イギリス船籍のサイオト号で
153名の日本人を無許可で横浜港からホノルルへ送り出してしまい、
こうして送られた初の日本人出稼ぎ労働者が
「元年者」
と呼ばれ、
実質的な“移民”とは違う、
というところまでは前回説明しましたので、
今日はその続きです。

出稼ぎ移民希望者は、
 ・契約期間3年間、
 ・1ヵ月の賃金4ドル(当時は1ドル=約1両)
 ・渡航船賃や滞在中の住宅・食糧・治療費などは雇用主側が負担

などの条件で契約されていたようです。

ホノルルに到着した彼らは好意的に受け入れられたようですが、
二十数人ずつにグループ分けされて、
サトウキビのプランテーション農場に就労することになりました。

出稼ぎ移民団の募集期は、大混乱期の幕末ですし、
ヴァン・リードは移民募集を止めないことで、
明治新政府は海外追放まで検討していたようですから、
彼にも相当な焦りがあったようで、
出港する横浜を中心とした地域限定的な募集をしたようです。
そのため、応募してきたのは前職が
 ・武士
 ・大工などの職人
 ・髪結
 ・料理人

など、農業経験のない都市型住民でした。

何しろそれまで移民の先例がないし、時間もないので、
おそらく選定基準なども無かったでしょうし、
「応募してきたら、かたっぱしから合格や」
「港で出港停止される前に、早く出発しないと」
と、あわてて夜逃げでもするように
早々と定員前に募集を打ち切ったのか
定員まで集まらなかったのかはわかりませんが、
「まずは急いでハワイに労働者を送ってしまおう」
ということを最優先にして、
出稼ぎ移民団をサイオト号に乗せてしまったのでしょう。

なぜ、そう想像出来るのかというと、
その後、契約内容やホームシックなど、
種々の問題が噴出してきたからです。
現代社会であれば、出稼ぎ就労に応募する前に、
充分仕事内容や契約内容などについて充分吟味したり、
契約前に質問したり確認したりして納得してから契約しますし、
ましてや海外留学や赴任であれば
気候や食習慣、会話なども検討しなければいけません。
それが幕末から明治の動乱期であれば
海外の情報や渡航経験者も少なく、
よけいに気になるはずですが、
元年者の場合は、
「ハワイで3年働いて、ひと儲けしませんか」
というような感じで募集され、
応募する側も
「ハワイってどういうところか知らんけど、ま3年頑張ってみるか」
「契約って何だかわからないけど、まあ大丈夫さ」
「元気で健康だし集団就職だし、畑で働くなんて問題ないよ」
というような軽いノリで参加したような感もあり、
出稼ぎ移民者自体の資質にも大きな問題があったといえそうです。

初めての慣れない異国の地で、
英語も判らず、食文化も違い、
ましてや農業経験者がほとんど不在で
しかも、てぃーだかんかん(カンカン照り)の亜熱帯気候で、
10時間以上の畑仕事ですから、
日々相当なストレスも蓄積されていたでしょうし、
数か月もしないうちに彼らから不満が噴出するように至ったのは
当然の成り行きでしょう。

「労働が過酷すぎる」
とか
「月給は4ドルもらえるはずが、2ドルしかもらえない」
 (契約内容が、おそらく半額を銀行預金にして
  契約満了時に本人に渡すというのがあったはずです。
  1900年からの自由移民の契約ではそうなっています。)
「物価が高すぎる」
「現場監督が厳しすぎる」
 (当時の現場監督は大柄で屈強なポルトガル人たちで、
 馬に乗り、労働者の監視に当たり、鞭をふるい追い回していたそうです。)
など生活環境や労働環境面で不満が相次ぎ、
日本帰国を熱望する労働者が増加していきました。

こういう状況がアメリカ本土で
「日本人移民の苦難」
として誇張して伝わり、
英字新聞でも報道されてしまいました。
こうした報道を見た在米の日本人や、
元年者の代表者が明治政府に窮状を訴える手紙や嘆願書を出したことで、
明治政府も放任できなくなり、
2年後の1870年(明治3年)に
薩摩藩出身の外交官・上野景範を特命全権公使としてハワイに派遣し、
情況視察と王国への抗議を行いました。

調査の結果、出稼ぎ移民の多くは
生活習慣の違いや言葉が通じないことから起きる誤解などに起因する不満で
風評ほどの過酷な労働を強制されているというような状況ではないことが判りました。
日本への帰国を希望する者は少数で、
多くの者はこのまま就労を続けたいという希望であることも判りました。


結果的には40名が国費で即時帰国、
ハワイ残留を希望した者については待遇改善を、
また移民の募集と無許可で渡航させた
ハワイ国駐日総領事・ヴァン・リードの罷免も取り付けました。
この一件を契機として日本とハワイの通商条約が議論され、
1871年(明治4年)には日布修好通商条約が締結されますが、
(ハワイは漢字で「布哇))
海外出稼ぎ移民の過酷な労働や対応が新政府内でも問題視され、
これから14年間、
1885年(明治18年)までは、
海外移民が中止になってしまうのです。

元年者153人のうち5人は入植1年以内に現地で亡くなり
40人が帰国したので、
ハワイには108人がそのまま留まることになりました。
残留者たちは過酷な労働に耐え、
半数は西部開拓で賃金の高いアメリカ本土(西部)に渡り、
半数はハワイに残留し、
そのほとんどがハワイアンの女性と結婚しハワイ移住民となり、
一部はコナの白人の経営者のコーヒー農園に従事した人もいたそうです。
契約満了で日本に帰国したのはわずかに11人だったようです。


ヴァン・リードが153名の日本人を
明治新政府の許可なく横浜港からホノルルへ送り出した1868年(明治元年)、
合衆国西部では第二次ララミー砦条約がアメリカ軍とスー族間で交わされ
サウスダコタ一帯がスー族保留地になりました。
この条約は4年後の1872年(明治5年)に
鉄道敷設のために一方的に白人側によって破棄され
スー族との争いが激化し
1876年(明治9年)リトル・ビッグホーン川流域で
第7騎兵隊のカスター将軍の部隊208名が
クレイジー・ホースを中心とするスー族1800名以上の大軍に
全滅させられてしまうのです。
西部劇(Western)は西部開拓時代の出来事ですが
これは1890年代、明治30年ごろまでの時代です。


 昔からテレビのチャンネル権は父が独占していたので、
 ララミー牧場やローハイド、ライフルマンとか
 ローン・レンジャー、コンバット、ちびっこギャング
 などを子供の頃、テレビで観ていました。
 当時は白黒画面でしたがジェスってカッコ良かったです。




 若きクリント・イーストウッドはロディというカウボーイで主演。
 ロディとは名前ではなくニックネームで、ROWDYつまり“荒くれ者”です。
 南北戦争で農業地帯の南部が荒廃したため、
 東部では特に食肉価格が高騰し、
 南部の牛を東部で売ると10倍以上の値が付きました。
 そのため南部の牧牛業者に雇われたガードマンであるカウボーイたちは、
 東部までの1600キロの道程を、約3000頭もの牛を連れて旅に出るのですが、
 その道中では、夜盗や牛泥棒、雷雨や砂嵐の自然災害、
 さらには仲間同士のトラブルなど、
 次々と過酷な試練が待ち受けているというStoryでした。
  Rollin' Rollin' Rollin'
  Though the streams are swollen
  Keep them doggies rollin',
  Rawhide
  …
 勇ましく歌われる歌詞が、子供の頃はチンプンカンプンでした。



新撰組が京都三条の旅館池田屋で会合中の
長州藩、土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃した
池田屋事件のあった1864年(元治元年)、
ハワイ政府は移住民局をホノルルに設置し、
労働力不足を解決するため外国からの労働力を導入しようとしていました。

ハワイ王国には、もともと土地の個人所有という概念は無く、
土地はすべて王または酋長のものであって、
国民はアフプアア(Ahupua'a)での自給自足経済で暮らしていました。

ジェームズ・クック(Captain Cook)が1778年にハワイに来航して以降、
ハワイ王国でも「土地の私有化」という概念が広まり、
1848年に制定されたマヘレ法で、
土地を所有物・財産として見る西欧型の考えが導入され、
まずハワイの全ての土地はカメハメハ王と
245人の族長の間に分配されました。
1850年には、クレアナ法(土地権)が制定され、
庶民でも、自分の小作農地を請求すれば
それを自分の土地として所有が認められることになったのです。
これは画期的ともいえる法律でしたが、
広報不足や手続きの複雑さで、成人男子の3割しか請求せず、
請求できた土地を合計しても、
ハワイ全土の1%程度にしか至りませんでした。

同年、外国人による土地私有も認められたため、
契約や法律に強く、資金力もあった白人たちは、
対外債務を抱えていたハワイ政府から、
格安で王領地や官有地の譲渡を受けてしまい、
10年余り後の1862年までには、
なんとハワイ全土の75%が白人の個人所有になってしまったのです。

白人の投資家たちは、ハワイ各地にサトウキビ農場を設立し、
一大産業へと急成長させてしまいます。
その後、太平洋地域における捕鯨の衰退、
アメリカ合衆国内での南北戦争による砂糖の高騰などを契機として
砂糖産業はさらに加速し、
前述のカスター将軍の第7騎兵隊が全滅した1876年(明治9年)、
農産物の高値を下げ、安定価格帯に戻すために
アメリカとハワイが互恵条約を締結して
農産物の関税を廃止したことで、
ハワイ王国は世界有数のサトウキビ輸出国となりました。

砂糖は高収益性のため新規参入が相次いだこともあって、
ハワイ王国内のハワイ人のみでは労働力を確保することが困難となり、
国外の労働力を輸入する方策が模索されはじめました。

1852年以降に「3年間」という契約で、
中国から最初の出稼ぎ契約労働者がハワイへ来島し、
以降も中国から多数の労働移民がやって来るのですが、
当時の中国人移民はサトウキビ農場の就労定着率が悪く、
また契約終了後でも、中国に帰国せずハワイに残留し
勝手に別の商売を始めたりするなど
国内で中国人の質的悪化が問題になり、
ハワイ政府は中国人移民の数を制限し、
ポルトガルやノルウェーなど他の国から労働力を輸入するようになるのです。


水戸藩主徳川斉昭の子・徳川慶喜は、一橋家の養子となり
将運後継者候補の資格を有するようになった翌年の1848年(弘化4年)
カリフォルニア州で金鉱が発見され、
西部ではゴールド・ラッシュの到来を迎えます。
武市半平太が土佐勤皇党を結成し、
仁孝天皇の第八皇女・和宮親王が
第14代将軍徳川家茂の正室になられた1861年(文久元年)から
坂本龍馬が薩長和解工作のため下関で桂小五郎と会見し、
武市半平太が処刑された1865年(慶応元年)までは
南北戦争になり、
「元年者」153人がハワイに渡航した翌年の1869年(明治2年)には
最初の大陸横断鉄道も開通しました。
本土で廃藩置県を行い
1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)72県になり、
江戸時代の両・分・匁・文といった複雑な通貨単位を
全国共通の円、銭、厘(1両1000文が1円)に切り替えた1871年(明治4年)ごろに
合衆国東部で石油や電力を中心とした第二次産業革命が始まった頃、
西部開拓地には人が集まり始めました。

中国系移民も、ゴールドラッシュによる一獲千金の夢や
大陸横断鉄道の労働者として大挙押し寄せました。
合衆国では南北戦争前でも奴隷制度の廃止の風潮の論争があり
安価な労働力を渇望していましたし、
中国ではアヘン戦争で荒廃し、
清の衰退期での官僚の汚職や欧米列強の進出、
凶作で食料が不足する貧困などで、
混迷する祖国から逃れたい人々も多く、
両者の思惑が一致して、
アメリカは中国から大量の労働者を輸入するようになりました。

ゴールドラッシュでは5万人が押し寄せたといわれていますが、
その多くが中国系移民だった、ともいわれていますし、
1860年代の中西部鉄道建設現場では
5人中4人が中国人だったともいわれていて、
「枕木一本に一人の中国人の骨がある」
といわれるほど、その労働は苛烈を極め
奴隷と同じだったともいわれています。
1860年代のCaliforniaの人口では
約3割が中国系移民が占めていたそうです。

1873年(明治3年)のウィーン証券取引所の大暴落を契機に
欧米は大不況時代を迎えます。
綿花の世界市場価格も急落し、綿花1ポンドの価格は、
南北戦争終戦時の1ドルから、1870年代には
約2割まで落ち込み、綿花の価格崩壊は、
すでに南北戦争で疲弊した南部の経済をさらに壊滅させ、
また米国企業の多くが倒産し、
ニューヨークの労働者の4人に1人が失業し
名目賃金は四分の一減少したようです。
アメリカでは65ヵ月間、約5年半も大不況が続いたといわれています。

それまで低賃金で過酷な労働に貢献してきた中国系移民の歓迎ムードは
大不況下では一変し、
「白人の仕事を奪う脅威」
とみなされ、差別や偏見が激化し、
1882年(明治15年)には
「中国人排斥法」
が可決され、中国からの移民が禁止されるだけでなく、
アメリカ国内に居る中国系移民は
市民権を奪われ、土地所有、選挙投票なども認めらなくなるのです。

西海岸では、1852年以降の3年契約労働者であっても、
早々と中国系移民の排斥運動が激化していたようで、
大不況下では彼らは都市に出て肩を寄せあって暮らし始め、
ニューヨークやシカゴ、サンフランシスコなどの
チャイナタウン化になってゆくのです。

アメリカで中国系移民の排斥運動が起きていたこともあって、
彼らの代わりとして日本人移民の導入が計画され、
「元年者」
に至ったわけです。

元年者の国際問題や中国系移民への迫害などを問題視していた明治政府は
琉球王国が琉球藩にされた1872年(明治5年)、
ペルーの汽船マリア・ルーズ号がマカオへ帰国途中、
暴風雨で船を破損したために、横浜港に停泊して緊急修理することになったのですが、
中国系移民(苦力・クーリー)229名への虐待が判明し、
明治政府が「奴隷」と認定して解放する事件があり、
これを契機に、政府は
「労働契約を1年以内にする」
という太政官布告を公布したため、
1年以上の契約期間を求める海外移民の送出が
事実上不可能な事態になりました。

明治政府は、国際問題化すると厄介な海外移民よりも
北海道の開拓に力を注ぐことになります。
この経験がやがて日本の植民地政策の原型になり、
台湾、朝鮮、満州などへの野望につながっていくことになるのです。

期待していた日本人移民が来なくなったハワイは
「じゃあ止むを得ないね、他を探そう」
というよりも、
さらに日本人労働者に期待するようになるのです。

1860年(万延元年)に幕府が
日米修好通商条約の批准(ひじゅん)書を米国政府に届けるために
派遣した遣米使節団を乗せたアメリカ海軍軍艦ポウハタン号が
往路暴風雨でマストが破損し、急きょハワイに立ち寄った時の
使節団御一行様の節度をわきまえた態度や、
使節団御一行様の護衛船だった「咸臨丸」が
帰路ハワイに立ち寄り、
勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎などの節度を持った態度、
(使節団御一行様は豪勢に大西洋を渡り
 世界一周する形で帰国)
特に帰路の咸臨丸は日本籍船舶であり、
日本人による操船であったことが
ハワイアンに驚異の目で見られる結果となっていたことや、
「元年者」の働きぶりや中国系移民との質の違いなどから
日本人労働者が求められていたのです。

1881年(明治14年)、
カラカウア7世は移民問題について学び、
また外交関係を改善するため
サンフランシスコを経て
 ・日本
 ・中国
 ・シャム
 ・ビルマ、
 ・インド
 ・エジプト
 ・イタリア
 ・ベルギー
 ・ドイツ
 ・オーストリア
 ・フランス
 ・スペイン
 ・ポルトガル
 ・イギリス

を歴訪するのですが、
日本では明治天皇に移民の送出を要請しています。
 (また、7世はアメリカによるハワイの併合を防ぐために
  「大日本帝国連邦を作ろう」と、姪で5歳のカイウラニ王女と
  14歳の皇族・山階宮定磨との政略結婚も要請したのですが、
  明治政府は「国力増強に努めるのが精一杯でそこまでの余力はない」
  として断っています)

明治政府も、ハワイの期待に応えるため
移民政策の転換に向かうことになります。
1884年(明治17年)にはホノルルに日本領事館が開設され
ハワイからイアウケア全権公使が来日して、
移民について交渉し、日本側の内諾を得るのです。



ここまで読まれた方は
文が長すぎて嫌気がさしていると思いますので、
今日はここまでにして、続きは次回に。



 昨日、国会で施政方針演説を行った
 「巧言令色鮮し仁」の方は
 他の人が言ったことよりも、まず自身が言ったことを
 よく想い出してほしいものです。
 彼らはゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪のようで
 国家転覆を企んでいるんじゃないかと
 本気で思ってしまい気持ちが悪くなります。
 汚染された国会は強力バルサンとかで
 害人を駆逐することが出来ないものでしょうか。
 昔、東京ぼん太が言った「夢もチボーもない」、
 おかしな時代になったものです。

 夢無き者は理想なし
 理想無き者は信念なし
 信念無き者は計画なし
 計画無き者は実行なし
 実行無き者は成果なし
 成果無き者は幸福なし
 ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべからず

 邪念にとらわれず、
 渋沢栄一氏の教えといわれる「夢七訓」を
 かみしめたいものです。

posted by COFFEE CHERRY at 20:07| 沖縄 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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