2012年01月29日

戦前の沖縄ハワイ移民−4

ハワイのカラカウア7世が1881年(明治14年)、
世界各国巡遊の中、日本にも訪問され、
明治天皇に移民の送出を要請されたことで、
日本の移民政策の転機を迎えたところまで前回書きましたので
今日はそれ以降の1885年(明治18年)の官約移民まで記述しましょう。

日本・ハワイ関係が急速に好転した背景としては、
薩摩藩出身の松方正義が大蔵卿に、
長州藩出身で欧化政策を掲げる井上馨(かおる)が
外務卿(外務大臣)に就任したことが大きく影響しています。

江戸時代の武士は、幕府や大名家から家禄を与えられていましたが、
明治維新以降、江戸時代の公家や武士のうち、
華族や卒族(足軽)以外は「士族」という身分階級になり、
1871年(明治4年)の廃藩置県に伴い、
明治政府から家禄(給料)を支給されるようになります。
この出費が国家予算の3割以上を占め、
一気に財政を悪化させてしまいます。

「2万5千人の国家公務員OBが、4500の法人に天下りをし、
その4500法人に12兆1千億円の血税が流れていることがわかりました。
その前の年には、12兆6千億円の血税が流れていることがわかりました。
消費税5%分のお金です。
これだけの税金に、一言で言えば、シロアリが群がっている構図があるんです。
そのシロアリを退治して、働きアリの政治を実現しなければならないんです。
わたりも同様であります。
6回渡り歩いて、退職金だけで3億円を超えた人もおりました。
まさに、天下りをなくし、わたりをなくしていくという国民の声に、
まったく応えない麻生政権は、不信任に値します。」

という正論を言い放ったのは、
現職総理が3年前の野党時代に国会で自ら発言した内容ですが、
(ということは、国民をないがしろにする現職総理は実は別人で
ダチョウ倶楽部の上島竜平さんのパロディだとすれば納得できるのですが…)
現代でもムダやデタラメの積算で財政悪化になっていますよね。

1869年(明治2年)に四民平等(華族・士族・卒族・平民)になったことで
士族の地位が低下し、1873年(明治6年)には徴兵制が施行され、
農民や町民が軍人になるのですから、士族の存在理由も無くなってしまいます。

1876年(明治9年)それまで得ていた家禄に応じて
金禄公債証書を発行(秩禄処分、一時金と禄高5年分の5〜14年満期の支給、
要するに失業保険の5年以降の後払い確約書)し、
士族は身分的、経済的特権を失ってしまうのです。

近代化のためになりふり構わず財政健全化を目指す政府に、
特権をはく奪され困窮する士族は全国各地で反乱を起こします。

1873年(明治6年)西郷隆盛は陸軍大将兼参議(太政官)に就き
困窮する士族を率いて朝鮮に攻め込み、領土にすることで
生計の安定化を図ろうとする「征韓論」を唱えます。
西郷は大久保利通や岩倉具視といった反対派と
激しく意見が対立して敗れたことで国政から下り、
鹿児島に帰り私学を開くのですが、
1877年(明治10年)士族に担がれて西南戦争を起こします。
明治新政府最大の功労者が、最強の反逆者になったわけです。

昨日まで、武士の家柄でちょんまげを結い、刀を二本差ししていたことで
家禄をもらえ生活できていたのが、いきなり何の準備もなく
「今後は何とか自身で生きる方法を見つけなさい」
と、突き放されて社会に放り投げられたのですから、
士族の立場からしても青天の霹靂(へきれき)だったことでしょう。

士族は新規創業をして失敗する人、商店に勤め解雇される人、
北海道の開拓使団になる人、任侠の用心棒になる人、
はては金禄公債証書を売る人といった失業して困窮する士族が氾濫し、
情け深い西郷は、そんな士族に、見て見ぬふりはできなかったのです。

西南戦争は
農民や町民といったにわか兵士が近代的武器で豊富な弾薬を使う政府軍(官軍)と、
幼少時から剣術や武術を仕込まれた
武闘専門の士族たちの西郷軍(旧薩摩士族軍)の戦いなので、
戦力が拮抗(きっこう)していれば
西郷軍の方が断然優勢といえるのですが…。
 ・動員兵士
  政府軍60,838人、西郷軍31,700人
 ・兵器(大砲)
  政府軍199門、西郷軍60門
 ・小銃弾消費量
  政府軍 約3,500万発(1人平均約600発)
  西郷軍 約500万発(1人平均約150発)
 ・戦費
  政府軍 約4200万円、西郷軍 約100万円
 …
ランチェスター理論を持ち出すまでもなく
圧倒的な戦力差なのに
鹿児島県鹿児島市の城山(鹿児島湾岸で桜島の近く)で
西郷が自刃して終結するまで約8か月もかかりました。

大東亜戦争での日米の戦力比較みたいなもので
西郷軍からすると長期戦不利ですが、
序盤は戊辰戦争を経験し、精神力に優る西郷軍が圧倒していました。

欧米の“武士道”は、
葉隠の「武士道とは死ぬこととみつけたり」を
一種の美学ととらえているようで
欧米の映画では切腹を“ハラキリショー”のように演出してしまうのですが、
旧五千円札の肖像画の新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)が
1899年(明治32年)に英文で書いてアメリカで出版した
『BUSHIDO,THE SOUL OF JAPAN』
には以下のように書かれています。

「武士はいかに生きるかと同時に、いかに死すべきかを考える。
  武士には正しい生き方があるのと同じく、正しい死に方がある。
  これは命を粗末にしろという事ではない。
 無駄に死ぬことを武士は犬死と言う。
  無論、天寿を全うして死ぬのが良いが、
 もし死なねばならない時に誇りを捨てて、
 不正義の中に生きることを武士は選ばない。
 いつでも死ねる勇気を持つことは、
 武士は正義の中で生きる事を保証する。」


もし二つの道があり、どちらも同じ成功の可能性があるとすれば、
武士はより死ぬ可能性の高い方を選ぶ。
死ぬ可能性の低い方を選んでうまくいったとしても、それは腰抜けだ。
常に死を念頭に置いてしっかりきちんと生きなさい。
と、説いてあるのです。

昨年11月頃に(今月もNHKプレミアムで再放送されていました)
NHK総合テレビ「土曜ドラマスペシャル」で、
『蝶々さん〜最後の武士の娘〜』
というテレビドラマが放映されて観たのですが、違和感がありました。
プッチーニのオペラ「蝶々夫人」を題材として、
先日亡くなられた市川森一さんの小説「蝶々さん」を
市川さんが自ら脚本もされたドラマですが、
大河ドラマ「篤姫」で貢献した宮崎あおいさんが
おそらくNHKの意向で主役・伊東蝶に抜擢されたのでしょうけど、
童顔の彼女が、花街で磨かれた一流の芸者には全く見えないことや
明治時代にアメリカに行きたがる理由もよく伝わらないし、
凛として元武家の誇り高い娘なら、もう少し賢くて、
そんなに簡単に外人に騙されたりしないはずだし、
「葉隠」は肥前佐賀藩に伝わる武士の心得書はいいとして
棄てられて哀れな最後(自刃)を遂げるのも
廓(くるわ)のお嬢様時代に巨漢の中国人に追い詰められた時に
自刃しようとしている場面を見せているために、
クライマックスの哀れさに涙を誘う場面は、
何だか欧米の“ハラキリショー”的に感じて興ざめしてしまいましたし、
ドラマの最後の最後で、蝶々さんの息子ジョー(川平慈英)が、
蝶々さんを慕っていた伊作から、
ことのいきさつを聞いて納得するのですが、
これが「納得できた」という嬉しくて満足感いっぱいといった表情だったのも
演技がヘタなのか、違和感がありました。
母親が誇りを持って死んでいたことに対する
一種の安堵感のようなものはあっていいのですが、
ジョーには怒りや悲しみ苦しみなど色々な感情が交錯して育ったはずですから
ことのいきさつを聞いても、もっと複雑な表情にならないとヘンだと思いました。

脚本がダメにするドラマで想い出したので
忘れないうちに、ついでに以下も書いておくことにしました。

昨年9月にテレビ朝日系で放映された
松本清張ドラマスペシャル「砂の器」ですが、
松本清張作品の大ファンの私としては噴飯ものでした。

この作品はハンセン氏病(らい病)に対する社会差別を
描いた重厚な優れた作品なのですが、
ここの視点をカットしてしまい、
ドラマでは本浦千代吉、秀夫親子の放浪理由が
本浦千代吉の殺人容疑の逮捕、証拠不十分による釈放で、
過疎の村人たちからの疑惑の目に耐え切れないで
息子・秀夫を連れて放浪の旅に出たという設定も
何だか違和感がありました。
原作に沿って、東京オリンピックの1964年(昭和39年)の4年前、
「家つきカーつきババア抜き」
が流行した高度成長期の
1960年(昭和35年)に設定してあるのですが、
当時は女性新聞記者なんていなかったはずだし、
刑事が新聞記者と行動をともにして捜査をするとか
・西蒲田署刑事・吉村 弘(玉木 宏)
・毎朝新聞記者・山下洋子(中谷美紀)
・捜査一課刑事・今村栄太郎(小林 薫)
この3名が、女性新聞記者のヒントで
次々に難事件を簡単に解明していくのは
呆れるのを通りこして腹立たしかったです。
女性新聞記者が緑色のトレンチコートを着て
エンジや青い帽子をかぶって、
捜査が行き詰まると登場してきては糸口をつかむという、
もうお邪魔虫的な存在以外の何物でもなかったです。
「もうどんな難事件でも、この3人なら解決してしまうんじゃないの?」
と思うくらいでした。
・作曲家・和賀英良(佐々木蔵之介、犯人)
に、吉村刑事が警察の取調室で
「あなたは孤児ではないのか!」
と恫喝するのも、
いくら相手が重要参考人であっても
人として礼節を欠いている差別的表現すぎるし、
和賀になりすました本浦秀夫は黙秘し続ければアメリカに逃げられるのに
その寸前でうろたえて自白してしまうのも違和感がありました。
出演者も役者も素晴らしいし、好演なのですが、
脚本がすべて台無しにしてしまい残念至極でした。
テレビ局も大金をかけて制作するのなら
原作に忠実につくってほしいところです。
最近のドラマは脚本がヘンなのが多く、
出来るだけ観ないようにしているのですが、
たまに期待して観ては、不愉快になって
太田胃酸を飲みたくなってしまうのです。
大きく脱線してすみませんでした。
本題に戻りましょう。



西南戦争で政府が拠出した政府軍の戦費は、
当時の税収約4800万円のうち約4200万円、
つまり9割近くに上ってしまいました。
 (内訳:人夫賃金1306万円・藤田組藤田伝三郎の利権、
  軍事器455万円・大倉組大倉喜八郎の利権、
  運送船舶費344万円・三菱商会岩崎弥太郎の利権に)
困った政府は4200万円のうち1500万円を借金でまかない、
残りの2700万円をドイツの印刷会社に印刷依頼した紙幣・明治通宝を
大量発行して対応しました。

軍事費の約3割が兵隊の人件費ですから、
小金持ちの兵隊や家族は商店で買い物をしますが、
商品に限りがあるために、需要と供給のバランスが崩れて
明治12(1879)年以降はインフレーションが猛威を振るいます。

政府は市場に出回った紙幣を回収するために、
海外から資金を調達(外債)しようと考えます。
(調達した資金で銀を購入し市場に出回っている紙幣と交換しようという考え)
資金を調達するという事は、将来的には資金を返さなければならず、
支出が増えることになり、緊縮財政論者らの抵抗で
外債調達案は中止されてしまいます。

インフレ解決のため、大蔵卿大隈重信は、
それまで積極的だった殖産興業(国営企業)を見直し、
官営企業を民間に売却し、さらに増税をする事で、
市場に出回っている紙幣の回収を目指します。

しかし、大隈派の北海道開拓使長官の黒田清隆が
大阪の実業家・五代友厚に開拓使の官有物払下げを
(五代は大阪証券取引所、大阪商工会議所を設立した「大阪の恩人」)
格安で行おうとしたことで世間の猛反発を招き、
これが払下げ中止になっただけでなく、
君主大権を残すドイツのビスマルク憲法形式を推す伊藤博文と井上毅と
イギリス型の議院内閣制の憲法形式を推す大隈重信派との憲法制定議論で
1881年(明治14年)伊藤博文が大隈重信を
政府から追放してしまう事態に発展してしまうのです。

ここで、緊縮経済論者である元薩摩藩士の松方正義が登場します。
大蔵卿大隈重信が西南戦争後のインフレ対応策として
外債募集による財政整理を断行しようとするのを反対したことで、
大蔵省官僚から内務卿に外されていたのですが、
大隈の失脚で、代わって松方が大蔵卿に就任することになったのです。

松方のインフレ解決のための財政政策は、
国民に傷みを分かち合うものでした。
市場に出回っている大量の紙幣を回収するために、
積極的な増税を行ったのです。
煙草税が約7倍、酒税は2倍以上など、お菓子税なども新設し、
また地方税や国税の増税まで行い、金融の引き締めを強化しました。
また、財政悪化のため、民間でできる事を民間に委ねるために、
官営企業を次々に民間に売却しました。
これによって払い下げられた企業は財閥に成長していくのです。
,
しかし、急激なインフレ対策の結果、今度はデフレに陥ってしまい、
人々の生活は困窮することになりました。
厳しい増税の結果、一般庶民の手元にお金が残らず、
買い控えが起きてしまったのです。
そのため、商品をなかなか買ってもらえず、
商店は値下げをせざる負えない状況に陥り
デフレスパイラルになってしまったのです。

明治初期は労働者の7割が農林水産関係の
いわゆる農業の仕事に就いていました。
当時の沖縄ももちろん同様でした。
デフレ下でも特に米価が大幅に下がり、農民達は苦しみ、
数多くの失業者を生み出すことになりました。

農民たちは、生活のために土地を売却して小作人化が進んで大地主が発生しました。
(小作農率の全国平均38%が47%に拡大)
また、小作を続けられないほど困窮した者は、仕事を求め都市に流入し、
官営企業の払い下げで発生した財閥が経営する工場で低賃金労働をさせられ、
都市部の貧困層が拡大しました。
また、財政難となった国は、「原則国有」としていた鉄道の建設が困難になり、
代わって私有資本による鉄道建設が進みました。
日本の産業の近代化の発展は、
農村から都会に流出した離農者たちが寄与したともいえそうです。

当時の紙幣は不換紙幣という金や銀に交換できないものが主流でしたが
松方は金や銀に交換できる兌換紙幣(だかんしへい)を目指しました。
インフレで紙幣に対する信頼が低下していた状況を打開するために、
銀との交換のできる保障がついた紙幣の発行を目指したのですが、
そのためには、紙幣から交換するための銀の保有量を増やさないといけません。
松方の緊縮財政によりデフレを招きますが、
その結果、財政は豊かになり銀の保有量は増えていきました。
そして、1885年(明治18年)日本銀行券(=銀兌換紙幣)が
発行されることになるのです。
信用を取り戻した紙幣の流通により、産業はさらに発展して
日本が欧米列強に並ぶ近代国家になる下地が作られました。

西南戦争は、士族の特権確保という
所期の目的を達成出来なかったばかりか、
政府の財政危機を惹起(じゃっき)させてインフレそしてデフレをもたらし、
当時の国民の多くを占める農民をも没落させ、プロレタリアートを増加させました。
その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、
その中から初期資本家が現れる契機となりました。
その結果、資本集中により民間の大規模投資が可能になって
日本の近代化を進めることになったのですが、
貧富の格差は拡大してしまいました。

話があちこちに脱線するので、判りにくいと思いますが
日本・ハワイ関係が急速に好転した背景として、
薩摩藩出身の松方正義が大蔵卿と、
長州藩出身で欧化政策を掲げる井上馨(かおる)が
外務卿(外務大臣)に就任したことが大きく影響した、
として、
松方正義が大蔵卿になった話は前述しましたので、
今度は井上馨(かおる)でしたね。

欧化政策を掲げる井上馨が外務卿に就任したのは1883年(明治16年)で、
東京麹町山下町(現在の千代田区内幸町1丁目)に
鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し、不平等条約改正交渉にあたります。

幕末のペリー来航で日本は開国することになり、
日米和親条約締結後、
「日本は脅せばひれ伏す」
と西欧列強各国に見抜かれて
イギリス艦隊やロシア軍艦も長崎に来航してしまい、
鎖国を理由に断ることが出来なくなった軟弱幕府は、
戦争回避を最優先するために
同様の安政条約をオランダ、ロシア、イギリス、フランスと
順次結んでしまったのです。
(安政の5か国条約、その後プロシア、ポルトガルとも条約を結んでしまいました)
しかし、これらの条約はひどく不平等な条約で、
外国人が日本で犯罪を犯しても日本で裁けない治外法権や
外国人による永代借地権、
輸出入にかかる関税率は相互で協定する、という関税自主権の喪失
などがあり、
明治新政府にとっては、厄介きわまる負の遺産を引き継ぐことになりました。
それらの不平等を解消し、対等な条約に直そうというのが
明治政府の大きな目標になったのです。

歴代の外務卿は各国大使に
治外法権撤廃と関税自主権回復を度々交渉するのですが、
相手方からすれば有利な条件を手放すはずがなく、
まったく相手にされませんでした。
元佐賀藩士で気概あふれた副島種臣(そえじまたねおみ)でさえも
「治外法権の撤去は天地の公道、宇宙の大義なり。
 各国がわが国に強制した最恵国条約なるものは不条理不公平である」
と堂々の議論を展開したそうですが、
これもイギリス大使に頑なに反対されています。

1862年(文久2年)には薩摩藩の島津久光の行列に
4人のイギリス人の乗馬が乱入してしまい、
供回りの藩士が抜刀して切りかかり
殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件(生麦事件)と
その謝罪と賠償問題がこじれて薩英戦争に発展した歴史や
ほんの数年前まで刑場で行われていた磔(はりつけ)獄門を
野蛮で残酷な刑罰だと軽蔑していたこともあって、
(当時の外国人も目撃していたようです)
また日本を上から目線で見下していたこともあり、
欧米各国は治外法権撤廃に強硬に反対していたのです。

そこで井上馨は、姑息な手段といえばそれまでですが、
不平等条約改正交渉のためには日本の欧化を推進し、
欧米風の社交施設を建設して外国使節や外交官を接待して、
日本が文明国であることを広く諸外国に示す必要があるとして
内山下町の旧薩摩藩装束屋敷跡
(現在の千代田区内幸町、現帝国ホテル隣のNBF日比谷ビル)
に、鹿鳴館という迎賓館を造り、
夜ごとパーティを開いては交流を深めようとしたのです。
(施工は土木用達組という大倉喜八郎と堀川利尚の出資会社で、
 後に大倉組を経て大成建設になります)

男性も女性も西洋のマネをして燕尾(えんび)服やドレスで着飾って、
西洋と肩を並べ、日本も文明国だとアピールし、
対等な立場に立とうという思いで頑張っていたのです。
当たり前ですが、いくらマネは出来ても
欧米からはまったく対等には扱われませんでした。

不平等条約が改正できたのは、
1894年(明治27年)に始まった日清戦争に勝ってからです。
凋落していたとはいえ亜細亜の大国に小さな島国の日本が勝って
初めて世界に認められたのです。
それでも不平等条約はいくつか残り、
完全に対等になったのは日露戦争が終わって5年後の
1910年(明治43年)の韓国併合を敢行した後に
欧米列強国は初めて日本の改正要求に応じたのです。
(外国人による永代借地権は昭和17年まで残りました)
幕府の怠慢による不平等な安政条約は締結から実に56年間、
厳密に言えば、87年間も不平等条約の支配下にありました。

1883年(明治16年)に鹿鳴館がopenし、
翌年にはホノルルに日本領事館が開設され、
井上外務卿はアーウィン在日ハワイ国総領事と懇意になり、
ハワイとの親密化をもたらすのです。
アーウィンは「ハワイ国移民事務局特派委員」にも就任していて、
当時日本からの集団移民を強く求めていたハワイ王国の要望を実現するため、
井上外務卿と積極的な交渉を行いました。
日本でも松方デフレの大不況下で
海外出稼ぎによる外貨獲得が期待されるムードになっていたので
両者の思惑は一致し、善は急げとばかりに一気に進展していくのです。

日本ハワイ労働移民条約の原案起案、移民募集や人選、送り出しまで、
井上外務卿とアーウィン総領事、
後の三井物産に発展する三井財閥系の
先収会社の益田孝社長の3人を中心として進められたようです。

なぜ三井財閥系の会社が出てくるのかというと、
井上外務卿は為政者でありながら、三井財閥の最高顧問をしていたからです。
その先収会社は井上と益田の共同出資会社で、
益田孝とは親友を通りこした一蓮托生の間柄でした。
移民事業で利権が伴うのですから、現代であれば大問題になりますよね。
この先収会社は輸出入のほかに、
井上が元長州藩士だったこともあって、
山口県をはじめとする近県の地租引当米の販売を担当するなど、
米の売買も行っていました。
官約移民の募集の実務は、益田孝が総指揮を執ったといわれていますが
官約移民の参加者は当初、山口県や広島県、福岡県、熊本県など
西日本の各県に偏っていたようです。
(山口と広島で全体の64%、山口県だけでも44%)

鹿鳴館openの2年後、1885年(明治18年)には、
「日布渡航条約」(ハワイは漢字で布哇)が締結され、
労働条件などを定めた約定書も取り交わされました。
日本からハワイへの集団移民が開始されました。

第1船はCITY OF TOKYO号で
944人(945人とも)を乗せてハワイに向けて出港しました。
(内訳は成人男性682人、成人女性164人、子供98人。
 当時、農村は全国的に凶作だったため、
 初回は600人の公募に28,000人が応募したといわれています。)

当時のハワイの総人口は約8万人で、
在留日本人は「元年者」の残留者を中心とした百十数人だけでしたが、
以後、ハワイの日本人移民は急増の一途をたどり、
日布渡航条約が廃止される1894年(明治27年)まで
約9年間に、最後の第26船まで合計26回、
約3万人の日本人移民がハワイへと渡航しました。

1885年(明治18年)から1894年(明治27年)までの移民は
政府間で定めた約定書に基づく移民であることから
「官約移民」と呼ばれているのです。

官約移民は
「3年間で400円稼げる」
といって募集されたそうです。
募集から12年後の明治30年頃の
小学校教員や警察官の初任給は月給約8〜9円、
職人の大工や工場の技術者で月約20円らしいので、
明治30年当時の1円は現在の2万円とすると、
明治18年頃の1円は現在の3万円くらいの価値があり、
「3年間で1200万円稼げる」
という感覚だったのかもしれませんね。

ハワイでの初期の給料は
食費や家賃など込みで月額15ドル、
1日10時間労働で、休みは週1日。
ハワイの当時の物価は調べられませんでしたが、
悪い条件ではなかったようです。
契約期間3年間を満了して帰国した者は、
ある程度のまとまったお金を持って帰れたようで
それによって新たな移民応募につながっていったようですが、
日本でのインフレの進行によって貨幣価値が徐々に下がり、
契約期間が満了しても日本へ帰国せず、
ハワイに残留する人たちが増加するようになりました。

移民者はハワイの各プランテーションに配属され、
早朝から夕暮れまで炎天下のサトウキビ畑での
過酷な長時間労働を強いられました。

労働は過酷で、現場監督(ルナ)の鞭で殴る等の酷使や虐待が行われ、
半ば奴隷に近かったとも伝えられていますが、
官約移民は政府間交渉によって始まったものですから、
厳しい労働条件とはいえ、日本政府の手前もあって、
ある程度の歯止めはあったようで、
日本の外務省から移民監督官が現地に派遣されていました。
本当に奴隷状態なら、移民者が逃亡したり
日本政府に泣きついたりしたはずですが、
そういうクレームもほとんど無かったようです。

この官約移民時代は、
ハワイ政府というよりハワイ王朝が、
日々増大していくアメリカの圧力におびえながら、
日本との関係に唯一、精神的な救いを求めていた時代でもあったようです。
ハワイ政府の実権は、もはや王朝の手から離れていて、
大臣以下は白人官僚の手に独占され、
王朝は有名無実になっていたのです。

前回に記述したように、南北戦争後に農産物が高騰したことで
1876年(明治9年)にアメリカとハワイによる互恵条約締結が結ばれていますが、
この条約によって、ハワイからの農産物は無関税でアメリカに輸出できることとなり、
当時アメリカ本土で砂糖の需要が急増していたこともあって、
サトウキビ産業は飛躍的に増大することができたのです。
アメリカはその関税特権の見返りとして、
ハワイ政府からオアフ島の真珠湾の軍事利用を認めさせ、
ハワイはアメリカの軍事基地となり、
アメリカは太平洋における軍事的重要拠点にしていくのです。


何とか官約移民まで書き上げて、ゴールは見えてきました。
次回か、その次にはようやく本の記事が書けそうです。
posted by COFFEE CHERRY at 23:51| 沖縄 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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