2012年02月22日

天然記念物のクロイワトカゲモドキと遭遇

我が家を起点にすると半径15kmには信号もありませんし、
もちろんコンビニも郵便局もありません。
また、隣家まで500m以上は離れている自然過多の環境のために、
国の天然記念物ヤンバルクイナが安心して庭に入り込んだり
ブロック塀を歩いたりするのは、
すっかり見慣れた光景になりました。


昨年と2年前の台風で倒壊したモクマオウなどをノコギリで切り
雨が降りそうな日はコーヒー山での作業がしにくいので
そういう日はバナナ園の防風林を手作りで作り上げたり
雑草刈りやタネ植えなどをしています。

バナナ園111213.JPG
 朽木を担いだり、一輪車で土を運んだりという手作りの土方作業です。
 この画像は昨年12月中旬の東側で、
 現在はすでに土塀は高さ約1mに完成してあり、
 現在は北側に同様な土塀を構築中です。


バナナ園の防風対策は、
東側と北側に高さ1m程度の土塀を築き、その土塀の上に
ハイビスカスやカボックなどを植えようと計画しています。
土塀の両側を丸太で補強し、土を固め
さらに雨水で土が流れないようにすると同時に
丸太はやがて朽ちて土に還りますから、
ナイスアイデアだと思っているのですが、
問題は暴風下での防風林の強度ですね。
もし倒壊してしまうようであれば、
またもう少し工夫すればいいと思っています。

昨日は、ブロック塀の外側に、
倒壊してそのままになったモクマオウの残骸を切って運んだり
雑草を刈ったりする作業の中で、
朽ちたトタンを捨てようと持ち上げたら
クロイワトカゲモドキを見つけたのです。

クロイワトカゲモドキ120221-1.jpg
 撮影技術が未熟なうえに夕方撮影したので、
 実際の色と少し違います。
 ホンモノは黒や赤、白色がはっきりしていました。
 全長20cm前後とトカゲ並みの大きさです。


グロテスクでシッポに毒がありそうな小さい恐竜に見えますが、
よく見ると「トカゲモドキ」という名の通り
トカゲではなくてヤモリの姿をしています。

彼(彼女かも)は、奄美諸島から沖縄諸島までにしか
生息していない珍しいヤモリで
1978年(昭和53年)に沖縄県の天然記念物に指定されています。

沖縄の家の中に居る薄茶色のヤモリは手足に吸盤が付いているので、
垂直な壁やガラス戸でも自由に移動できるのですが
クロイワトカゲモドキには吸盤がないので、
木登りはおそらくムリで、夜行性なので夜に地面を徘徊して
昆虫やミミズ、ムカデ、地クモなどを捕食しているようです。

ヤモリとイモリは外見は似ているので
「同じようなものでしょ?」
と思いがちですが、
ヤモリの“ヤ”は「家」を、
イモリの“イ”は「井」(=井戸、つまり水)を指していて、
ヤモリは
「家を守る、爬虫類の益虫」
イモリは
「水を守る両生類の益虫」
なのです。

「イモリが益虫」
という意味は、
イモリは清水で生息したい動物ですから、
「イモリが居る=自然がある=自然を残しイモリの生息環境を増やしてあげたい」
という考えで、
益虫や害虫という区別は人間の勝手な都合で
自然界では、益虫も害虫もありません。
そういう意味で“益虫”にセレクトしておきました。

クロイワトカゲモドキ120221-2.jpg
 危険を感じると尻尾を持ち上げて揺り動かして威嚇するので
 「尾の先に毒がある」サソリのようですが、
 「無毒でおとなしい」というものの、触る勇気はありません。
 トカゲのように瞼(まぶた)があるようです。
posted by COFFEE CHERRY at 13:39| 沖縄 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒー山の動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月16日

戦前の沖縄ハワイ移民―8

日清戦争で日本が清国に勝ち
1895年(明治28年)に下関で講和条約が結ばれ、
清は日本に朝鮮の独立を認め、
日本は遼東(リャオトン)半島と台湾などとともに
2億両の賠償金を得ます。

2億両というのは
当時の日本の国家予算の約3.6倍に相当した巨額なもので
その後の日本の工業化や軍事力の強化などへの基金となりました。

ちなみに、
後の1937年(昭和12年)7月に、
北京の西の盧溝橋(ろこうきょう)で日中両軍の衝突が起こり(北支事変)、
日中戦争につながりましたが、
(東条英機は当時関東軍参謀長)
この時、日本軍がなぜ盧溝橋近くに駐屯していたのかが
教科書などでは書かれていません。
日本軍が駐屯していた理由は、
1899年(明治32年)中国の山東省で義和団が起こした北清事変で
日本が勝利に貢献したことで得た駐留権によるものでした。
義和団は義和拳という武術をもとにした武装集団で
独自の呪文を唱えてこの拳法を使えば
刀、槍、銃弾などをはじき飛ばせるという
不死身の拳法と信じられていたのは不思議ですが
日清戦争に負けた清国は列強に重要な拠点を
租借という形で土地と権利を奪われていたために、
清国民からすると怒りが爆発しない方が不自然で
中国版の尊王攘夷(王を敬い外圧・外敵を排する思想)として
義和団を起因に勃発した、というわけです。

盧溝橋付近に駐留する日本軍に、
「国に居座る外国人は即刻出て行け」
という不満や怒りは、
中国国民革命軍でも共産党軍であっても
当然のことですが充満していたのです。

さて、日清戦争当時の沖縄は
「清国から攻められる」
というウワサも
日本が黄海海戦で日本海軍が勝利を収めて大勢を決して杞憂に終わり、
清国は琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなり、
これを期して実質的な琉球処分が完了します。

沖縄の親清派が描いていた、
「清国による琉球救援」
といういちるの望みも絶たれ、
・和装、洋装の奨励普及
・標準語の励行
・男子の断髪、結髪の禁止
・裸足の禁止
・ユタ(巫女)やジュリ(遊女)の統制
・火葬奨励
・モーアシビ(「モー」は野原、「アシビ」は遊び。
「毛遊び」ともいって部落の若い男女の出会いのグループ交際の場、
夜三線を弾いて歌ったり踊ったりして遊ぶこと)の禁止
・1899年(明治32年)入れ墨禁止令
(沖縄の成人女性の手の甲などに入れたハジチ(針突)で
地域ごとに入れ方が違う琉球独特の伝統文化)

など、
多くの伝統的な風習や習慣が、野蛮でジャマななものとして
政府から禁止や規制され、
日本の同一国民として標準化された生活様式を強要されるようになり、
日本全国が金太郎飴になって
人だけでなく個性のない市町村を生み出していったのです。

ハジチ(針突)は成人女性が手指、甲、肘にかけて、
魔除けや願いごとなどを込め、入れ墨を施す
沖縄、奄美の島々の伝統的な風習で、
入れ墨の模様一つ一つに意味があり、
また地域、身分、時代によっても模様が違う伝統風習でした。

こういった入れ墨文化は
琉球以外でも、台湾の高砂族、東南アジアの少数民族、
あるいはアイヌ人やアメリカインディアン、マヤ人でも
それらの民族の女性たちは、結婚前に入れ墨をする習慣があり、
その場所も指先から手の甲にかけて同じ箇所に彫られ、
文様も何となく似ているようですし、
ヒトの遺伝子まで共通だという研究まであります。
ハジチ(針突)は重要無形文化財級の風習だったのに
廃止されてしまったことは残念なことだと思います。


また脱線したので、話をもとに戻します。
日清戦争に勝利したことで、明治政府は沖縄に対し、
清国に対する気がねがなくなり、
また旧支配者層に対する配慮も不要になり、
合理的な沖縄統治のためには、
旧慣諸制度の改革は必要不可欠になりました。

「清国に対する気がね」
というと
「1609年に島津が琉球侵略以降、琉球は日本では?」
と思う方もいるかもしれませんが、
薩摩統治下の琉球国は江戸時代に清朝へ朝貢していたことなどから、
清朝は琉球の領有権を主張していたのです、特に維新後に。
明治政府は、琉球を日本の領有権として確定するために、
1879年(明治12年)に琉球王国最後の王であった尚泰(しょうたい)を
東京へ移住させ琉球藩主の座から去らせるとともに
内務官僚・警察官・陸軍部隊を琉球に派遣し、
琉球を一時的に鹿児島県へ編入した後、
同年中に沖縄県を成立させたのですが、(第二次琉球処分)
清朝は明治政府の動きに反発していたのです。
「空白の一日」の読売巨人軍の江川事件のようなものです。

日清戦争のきっかけは、前にも書いたように
朝鮮の全羅道(ぜんらどう)で起こった農民たちの反乱(東学党の乱)ですが、
日本と清国は日清修好条規で協調関係にあったというものの、
琉球の領有権問題では日清両国間の緊張は続いていたのです。
それが日清戦争で日本が勝ったことで、
沖縄の領有権問題は一気に解決し、
ついでに台湾も占有することが出来たのです。

1896年(明治29年)に沖縄行政区域を
「2区5郡」
とする沖縄県区制、および沖縄県郡編成の勅令が交付され、
沖縄全域が
2区
・首里
・那覇

5郡
・島尻(しまじり)
・中頭(なかがみ)
・国頭(くにがみ)
・宮古
・八重山

に分けられ、
1908年(明治41年)の特別町村制の実施で
・間切、島soon町村
・村soon

に改められました。

沖縄の土地制度の改革は「土地整理」といわれ
本土で行われた「地租(ちそ)改正」に相当します。
「士地整理」は、簡単に言えば、
・土地所有を個人の私的なものとする法的整備
・租税を物納から金納へ転換

などを企図して行われたのです。

明治維新後、
政府が1873年(明治6年)から1879年(明治12年)ごろにかけて
沖縄を除く本土で地租改正事業が行われていましたが、
沖縄は琉球国として400年の歴史と伝統があり、
政府は一気に改革を行うと
旧士族層や県民の反発があるかもしれないことを危惧し、
しばらく現状維持路線を敷きながら頃合いを伺い、
廃藩置県後20年近く経ってようやく土地整理に着手したのです。

琉球王朝時代の土地制度は
・百姓地
・地頭地(首里や那覇の上級役人でもある地頭に与えられた土地)
・オエカ地(地頭代や首里大屋子など、間切の上級役人に与えられた役地)
・ノロクモイ地(方女神官ノロクモイに役俸として百姓地から交付した土地)
・仕明地(しあけち、士族や農民が薩摩藩の許可を得て新たに開墾・埋め立てした土地)

などの耕地区分があり、
百姓はその土地を耕して米や麦、イモ、大豆、サトウキビなどを作り
農産物を税として物納していました。
よくいう年貢といわれるものです。
土地は形式上は国王のものですから個人所有ではなく
間切(町村)に対して与えられていたので
土地の売買は当然出来ず、税は各地の間切ごとに課されていました。

琉球王朝時代では地割(じわり)制度があって、
農地を村人の人数や家の数で割って各自に農地を与えて
・人頭割
・貧富割
・貧富
・耕耘(こううん)力割
・貧富
・勲功割

などの割替えがあって、
数年〜数十年経つと、村人が平等になるようにとの計らいで
また割り当てをやりかえしていましたが、
これに対する租税も、士族層は免税特権が与えられ、
農民だけが税を負担するという矛盾に満ちた不公平なもので
近世沖縄の農村を貧窮、疲弊させてしまったのは、
この地割制度という土地制度そのものにありました。

戦前の沖縄はそのほとんどの集落が純農村地域であり、
市街地を形成していたのはわずかに首里市と那覇市だけだったようです。
琉球王朝末期には、貢祖や食料の関係上、
水田も多く米作が重視されていましたが、
1879年(明治12)の廃藩置県以後、貢祖の代納が認められるようになり、
1888年(明治21)の「甘庶作付け制限令の解除」により
水田の多くが甘庶畑に代わっていきました。

本土が米作中心であるのに対し、
沖縄農業は甘蔗(かんしょ、サトウキビ)と
甘藷(かんしょ、サツマイモ)が中心となってゆくのです。

1899年(明治32)から1903年(明治36)にかけての
地割制の崩壊と土地私有制の施行により、
吉幾三さんの「オラ、こんな村イヤだぁ〜」ではないですが、
それまで「村から出たい」という意思があっても
コルホーズのような伝統的な共同社会体制下ではほとんどムリだったのが、
土地の私有権が確立して、土地の売買や交換が自由になり、
村を出る意思があれば自由に出られる条件が社会的に作り出されました。

土地の売買や交換が自由になったことで耕地の集中化も可能になり、
貧しい農民の放棄した土地を買い上げて地主へ成長する階層と
土地を手放して他の職業に転じたり、あるいは小作人になったり、
本土への出稼ぎや海外移民として流出する階層とに
二極分化が進んでいきました。

土地整理事業で納税の義務としての金納制が実施され、
貨幣経済が島社会に浸透することにより
農家でも現金収入を得なければ、
生活の維持が困難な状況に追い込まれることになり
さらに市場に大きく左右される安価な黒糖を生業とする農家も多い沖縄では
台風や干ばつなどの自然的要因も影響し、
農家の生活は借金を重ねますます困窮していきます。
また当時は全国平均の4分の1しかない労働賃金の低水準もその背景にあり、
貧困農家が急増していきました。

そういう貧困農業からの脱却策の数少ない選択肢として
海外移民が出てきたのです。
沖縄県内各地において、移民を希望する者は土地を売却して金を捻出し、
これを渡航費に充てることが出来るようになり、
あるいは土地を処分しなくても
土地を抵当にして親戚や金持ち層から金を借りることもできたわけです。

沖縄本島の典型的な移民母村は、
沖縄本島の
・羽地
・金武
・勝連
・中城
・西原
・大里

の6カ村ですが、
これらの地域は土地を集団で共有するという地割制が
早くから崩壊した地域でもありました。

以上のように、沖縄における土地整理事業は、
海外に出稼ぎに出る大きな要因となりました。




以下は、新聞記事です。


ハワイと沖縄の物価
1900年(明治33年)におけるハワイの物価相場…やまと新聞
白米百斤   4ドル以上
砂糖一斤   4セント16分の1
珈琲一斤   粉50セント内外
番茶一斤   15セント
浴衣地一反  1ドル
野菜小把一つ 5セント
魚類少許   25セント
牛肉一斤   ハワイ産10セント
家賃一月   5ドル
診療日本医 1ドル以上
手術料    5ドル以上
薬品一日分 75セント
入院料クイン病院 下1ドル
料理代1食  25セント
理髪      15セント
電話1カ月  3ドル
電灯1カ月  1ドル
牛乳      1クォト10セント
労働服上下  1ドル50セント
耕地月給   15ドル
大工石工日給 2ドル内外
料理人月給  9ドル以上
洗濯1枚5セント 月1ドル
日本人商店員   7ドル以上
巡査月給     30ドル内外
小学教員月給  20ドル内外



那覇小売相場(壱升又は壱斤につき)1900年(琉球新報)
地上白米    18銭
肥後上白米   18銭
蘭国米     13銭
島米上     18銭
小麦      12銭
大麦       9銭
朝鮮大豆    11銭
青肥後大豆   10銭5厘
島大豆     20銭
鶏卵(拾個に付)  10銭
鰹節(壱斤に付)  60銭
島醤油       25銭
泡盛        22銭
食塩         7銭
素麺金龍      11銭
同友白髪      9銭
神白髪       8銭
石油松印    24銭
薪木拾把並   50銭
木炭十貫目   80銭
昆布壱斤ニ付  6銭
豚同      16銭
牛同      14銭
山羊同     16銭
上味噌     30銭
同中      24銭
同並      16銭
大和醤油    24銭
黒糖壱斤ニ付  6銭



重さとしての「1斤」は600グラム、
「1升」は10合、1.8リットル



そういえば、
移民の父「當山 久三」のことを書き忘れていますね。
コーヒー山などの画像も次回には。


posted by COFFEE CHERRY at 14:00| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月13日

戦前の沖縄ハワイ移民−7

今や日本だけではなく、世界の、特に先進国が
経済危機や多くの試練に直面しています。
日本でも放射能汚染、財政破綻の危機、政官の腐敗、
経済衰退など、先行きは暗いことばかりです。

「このまま日本に居たくない」
という人が出てきたとしても、ちっとも不思議ではありませんが、
いざ海外移住となると、
・ 治安
・ 衛生面
・ 医療水準
・ 物価水準
・ 教育水準
・ 税制
・ 言葉
・ 気候
・ 食料自給率
・ 仕事はあるのか
・ 親日的かどうか
・ 食生活はどうか
・ 生活費がどのくらいかかるのか


多岐にわたる具体的な問題点をいろいろと考えてシミュレーションしたり、
慎重な方は一時的に候補予定の現地に行って実地テストもするかもしれません。

でも、現代より情報がかなり少ない明治時代に、
海外移民を決断するのは相当な勇気だけではなく、
・出稼ぎ、金儲けといった経済的要因
・移民会社の斡旋、移民指導者の存在、徴兵忌避、
地縁血縁関係などの社会的要因

など、貧困要素が相まって
沖縄の先人たちは、必死の思いで決断をして
渡航していったのだと思います。


今日は社会的要因として、徴兵制を考えてみたいと思います。
1871年(明治4年)の廃藩置県で、藩の軍事力も解体されたのですが、
当時の政府軍はわずか1 万の規模しかありませんでした。
鎖国政策で国を閉ざす朝鮮に対し、
約200万人の、失業して不満いっぱいの武士の武力を利用して
朝鮮を開国させようとする征韓論の高まりと共に,
1873年(明治6年)政府は徴兵制によって
それまで旧来の武士が独占専業としていた武事を士族より奪い、
兵役による国民皆兵の実現、四民平等などの義務にもとづいて
国軍を充実させようと
「徴兵免除の者を除いて、
 満17歳から40歳までの男子全員を国民兵役の兵籍に登録し,
 満20歳の男子を徴兵検査と抽選によって3年の兵役に就かせる」

という徴兵令を出しました。

ところが、徴兵免除の特例があったり、
北海道開拓使は、日清戦争が終わる1896年(明治29年)まで、
沖縄は1998年(明治31年)までは徴兵制が施行されず,
北海道開拓使に本籍を移動して兵役を免れたりする者や
戸籍の売買、改ざんもあったりして
1873 年の徴兵令では,適齢人口の8 割が徴兵免除になって
初期の徴兵制は機能しませんでした。
また、徴兵令が出されてからは、
人手を取られると困る農村を中心に反発も多くなり、
「懲役免役心得」
という合法的徴兵忌避マニュアルのような本が
ベストセラーになったようです。
そのため政府はその後何度か改正されて公平化を図っていきます。

明治22 年(1889)にベルギーやプロイセンに強く影響を受けた
大日本帝国憲法が発布され,
兵役が国民の義務として明記されました。
また、憲法発布の直前に「徴兵令」が大改正され、
勅令ではなく、法律第1号の形式で出されました。

この改正徴兵令の特長は
免役が大きく制限されたことです。
それまでの平時徴集猶予制は全廃され、
徴集延期制が導入されました。

該当者は
 ・官公立師範学校以上の学生生徒(卒業まで徴集延期,但し26歳まで)
 ・留学生(帰国するまで、但し26歳まで)
 ・身長がまだ基準に達していない者(翌年度再検査)
 ・病中病後でまだ現役に耐えない者(翌年度再検査)
 ・公権停止など拘留中の者(事故やむまで)
 ・徴集すれば家族が自活できない者(3年以上続くときは免役)


海外に出向いた留学生や出稼ぎ労働者で、
帰国した時に27歳であった場合、
あるいは貧困者の場合は免役となっています。

徴兵から逃れることも、
海外に出稼ぎに行った理由のひとつと言えそうですね。


新聞記事は以下の通りです。

1900年(明治33年)4月19日
移民募集に応じ布哇(※ハワイの漢字)国へ渡行したる
我が県の同胞兄弟等の状況に就いては
其消息ある毎に本紙上に掲載して報道を怠らざりしが、
聞く所に依れば近来同国に於いては
ペスト病流行せるが為め
該病に罹(かか)れる移住民の家屋を焼いたる由にて、
此惨聞の本邦に伝わるや時に
広運社長護得久朝惟氏は恰(あたか)も在京中なりしかば之を聞き
大に驚き吾が同胞移民の安否如何を気遣い
早速横浜なる移民会社へ馳せ赴(おもむ)きて状況如何を探索したるに、
幸い沖縄の移民にしてペストに罹(かか)りたる者は一人もなく
布哇(ハワイ)国に於いては特別に日本人一名を附して
沖縄移民を監督せしめ衛星其他の事に注意怠りなしとの事なり、
又沖縄の移住民は勤勉と正直の故を以て
大に西洋人の信用を得て
他の移民よりは特別の優遇を受け居れりとぞ実に喜ばしき次第にあらずや。

(琉球新報)


「1900年(明治33年)に琉球新報ってもうあったの?」
と思われるかもしれませんが、
琉球新報の創刊は1893年(明治26年)で、
1906年から日刊紙になっているのです。
(それまでは隔日刊)

最近手を抜いて画像を出さずに済みません。
次回からコーヒー山などの画像も入れるようにします。
posted by COFFEE CHERRY at 21:57| 沖縄 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーオーナーの募集 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月12日

戦前の沖縄ハワイ移民−6

明治時代に沖縄からハワイに渡った移民のことを書くのに
「時代背景が必要だ」
といって、
そればかり書いているのでさぞ面白くないことと思います。

テレビで〇十周年記念特番とかいうと、
さんざん予告編やCMで焦らされることが多々ありますが、
それと同等以上かもしれません。
今日は後半になりますが1回目の記事まで書きます。

今までダラダラと時代背景を書いてきましたが、
1885年(明治18)、日本政府とハワイ王国政府間で
日布移民条約が結ばれてハワイ官約移民が開始され、
ハワイ王国が滅亡する1894年(明治27)まで
延べ29,000人がハワイに渡り、
その約9年間が官約移民時代と呼ばれています。


1893年(明治26年)ハワイ革命以降はハワイの政情が不安定になり
日本政府はハワイ王国を信頼していたこともあって
日本政府が介在せずに
日本の民間会社による斡旋(私約移民)が行われるようになります。

移民事業を行う会社は全国に30社以上設立され、
特に
・広島海外渡航会社
・森岡商会(京浜銀行頭取森岡真氏の経営する会社)
・熊本移民会社
・東京移民会社
・日本移民合資会社(神戸)

は五大移民会社と呼ばれたようです。

これらの話をすると、またズルズルと長くなるので
まず新聞記事に沿って、補足的に追記を書くことにしましょう。

記事の原典は当然旧漢字、歴史的カナ遣いですが、
本は読みやすいように親切に当用漢字、新カナ遣いに改められています。
私は記事の漢数字を算数字に変えた以外は、本の原文をそのまま記載します。



1900年(明治33年)

第1回移民氏名と契約書

沖縄県の第1回海外移民30人は1899年(明治32年)12月5日に那覇港を出帆、
大阪で1人、横浜で2人が不合格、27人が同年12月30日横浜出帆。

1900年(明治33年)1月8日ホノルル港着、
移民小屋での身体検査に1人不合格日本へ送還、
26人は1月16日に契約地エワ入耕。
上原団長以下26名の氏名、年齢、本籍地は左の如し。
 @ 上原九八郎(32)団長、島尻郡兼城間切糸満村678
 A 宜野座牧助(32)国頭郡金武間切金武村346
 B 仲間藤助(32)同郡同間切同村538
 C 仲間藤八(31)同郡同間切同村251
 D 与那城久次郎(29)同郡同間切同村322
 E 仲田安七(27)同郡同間切同村492
 F 当山又助(24)同郡同間切同村526
 G 仲間孫八(23)同郡同間切同村528
 H 小橋川半吉(23)同郡同間切同村277
 I 安富祖利八(23)同郡同間切同村358
 J 仲田仙吉(21)同郡同間切同村398
 K 阿波連樽(35)那覇区字西78
 L 野原辰助(35)那覇区若狭町139
 M 喜納正俊(30)那覇区字西58
 N 与儀達通(29)那覇区若狭町255
 O 新垣松(28)那覇区字西116
 P 金城珍善(28)那覇区東133
 Q 真栄城朝和(27)首里区字山川88
 R 松島良智(24)首里区真和志38
 S 島袋太良(21)首里区字寒水川105
 ㉑ 富名腰三郎(34)島尻郡小録間切儀間村98
 ㉒ 宮里松(34)同郡同間切湖城村27
 ㉓ 平良樽(29)同郡同間切同村56
 ㉔ 金城亀(32)同郡南風原間切津嘉山35
 ㉕ 屋次郎(25)中頭郡西原間切呉屋村18
 ㉖ 与那嶺加那(24)島尻郡渡嘉敷間切渡嘉敷村26

第1回ハワイ沖縄移民の契約書は大要次の如くである。
第1…日本移民教会の指示に従うこと
第2…1カ月26日、1日10時間、製糖工場では12時間、昼は休み夜働くことがある。
第3…賃金は男1カ月15弗(※ドル)、女10弗、
   30分以上のオーバータイムは1時間に付き男は10仙、女は7仙の増賃を支払う。
第4…日本出帆から耕地に着くまでの全費用はフリー。
第5…不正行為でなく正しい上陸不合格の費用は取扱い人が払う。
第6…契約中は家賃、水、燃料、医者と薬、人頭税は雇主が支払う。
第7…契約期間中、男は毎月2弗50仙を銀行に預け、契約満期の時に元利を払い渡す。
第8…銀行預金は移民取扱人が取扱う。
第9…渡航周旋料20円を取扱人に支払うこと。
第10…移民は書面契約担保として5円を取扱人に渡し、
   契約認可の時に周旋料の中に入れる。破約の時は取扱人の収入となる。
第11…病気その他により生活出来ない時は取扱人が移民を助け、
   或は帰国の取り計らいをなす。
第12…日本政府の保証で帰国した時は取扱人が一切の費用を払う。
第13…契約違反者は男は35弗、女は30弗、
   および消毒所の費用一切12弗を移民又は保証人が弁償する。
第14…保証人は移民一身上の責任や金額の償還義務あり。
第15…契約期間中は生命保険に入るべし。
第16…この契約は3か年有効とす。

移民の旅費はほとんどが移民周旋屋と結託した高利賃によるもので
その金利は月利三分という高利のものであった。
又移民に行くには厳重な身体検査を受けなければいけない。
特に寄生虫(十二指腸虫、蛔虫)保持者やトラホーム患者は絶対に受け付けないから、
当時としてはこれの治療に大変苦労したものである。

中には神戸や横浜での予備検査に合格しながら、
ホノルルでの第二次検査を受けるまでは戦々恐々たるものであった。

さていよいよ職業の従事であるが、当時の移民は契約移民であるから、
着いた翌日から蔗作(※しょさく、サトウキビ作業)の重労働にかりたてられるが、
時間概念のうすい沖縄人には時間を守るのもまたひとつの苦労であった。
時たま遅刻でもするとその1日は就労できなくなり、
結局は賃金がカットされてしまう。
監督の白人はまるで奴隷に対する態度である。
(石川市誌)


1899年(明治32年)12月5日那覇港を出帆し、鹿児島、神戸を経由して、
同年12月30日にチャイナ号(5900トン)に乗船して横浜港を出航したのです。
翌年1月8日にオアフ島のホノルル港に到着し、上陸を許可されました。

このハワイへの移民送り出しにあたっては、
沖縄県で「沖縄移民の父」と称される
金武村出身の當山久三に負うところが大きかったのですが、
彼の足跡は次回に。

posted by COFFEE CHERRY at 22:12| 沖縄 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月10日

戦前の沖縄ハワイ移民−5

久々なので、今日は官約移民が廃止されるまでになりそうです。


1894年(明治27年)5月1日、
韓国の全羅道(ぜんらどう)というところで
農民たちの反乱が起こり、東学党の乱に発展します。
東学とは、韓国で起こった宗教団体で、
西洋のキリスト教を西学と呼び、
これと対極的に、東洋人であることを意識して、
その教えを“東学”と呼んだのです。
東学党とは、これを結成した農民たちの心の支えになっていました。

東学党の乱は、しだいに広がりを見せ、
当時の韓国の皇帝である高宗(こうそう)は、
反乱が韓国全土に及ぶのを恐れ、
隣国である清国に軍隊の要請をし、
清の袁世凱(えんせいがい)は出兵を約束します。

当時、清国と日本は協調関係にあり、
清国がどこかに派兵する時は、
日本にも事前に知らせるという条約があり、
袁世凱は、韓国派兵を日本に知らせました。

当時の明治政府の首相は、
長州藩の足軽から立身出世した伊藤博文でした。
当時の内閣は、その年の3月に行われた総選挙(衆議院)で
伊藤の与党が野党に第一党を奪われ、身動きできない状態にあり、
総辞職か内閣解散かに追い込まれていました。

そういう苦しい状況下での清国軍の派兵の知らせは朗報となりました。
国内がもめている時は、国民や政治家の関心を国外に向けるというのは
昔から政治の常とう手段です。
現在の中国の反日もまったく同様です。
「朝鮮半島は日本の生命線であり、
絶対に清国やロシアの支配下に置いてはならない」

という外務大臣・陸奥(むつ)宗光と、
「清国と戦争をしても日本に充分勝算がある」
という陸軍大将・川上操六の韓国出兵策を取り入れ、
伊藤内閣は、「日本も東学党の乱を鎮圧させる」という名目で
韓国に7千人を出兵することにしたのです。

陸奥の真意は
「朝鮮半島の中立化、つまり韓国に主体的な政権があればよい」
という考えだったらしいのですが、
日本と清国が韓国に派兵した頃は、
東学党の勢いが衰えて
反乱軍と韓国政府の和解が成立してしまっていました。
つまり日本と清国の出兵は無意味なものになってしまったのです。

それでも日本軍の出兵は継続され、
このままでは日本が韓国を支配下に置くのではないかと警戒した韓国だけでなく、
イギリス、フランス、ロシアなど列強も強い警戒感を抱きます。
全権大使として韓国に駐留していた大鳥圭介は、陸奥外相に
「至急撤退の必要あり」
と打電しますが、
陸奥外相は
「撤退せず、外交上多少の紛争があっても滞陣せよ」
と命じます。

東学党の反乱鎮圧の名目はすでに使えないので、
滞陣が必要な理由として
「日清両国の軍隊が協力して内乱を鎮圧すること」
「内乱を抑えたうえで、韓国の内政を改革し、財政を健全化させること」
「官僚組織を改善させること」
といった、へ理屈をこねて
清国に、
「日本と共同で韓国の改善をしよう」
と提案したのですが、
清国は、
「清日両軍の速やかなる撤退が先決」
「韓国の内政は韓国自身に任せるべき」
という正論を主張しながら、
実は
「日本軍が撤退したら、韓国とのつながりは圧倒的に清の方が強く優位に立てる」
「小国日本が清に戦争を仕掛けられるはずはない」
という目算があったことを陸奥外相は見抜いていたのです。

当時の清は、海軍力が弱く、
早急に戦艦3隻つくる予算を計上していたのですが、
悪名高い西太后が、広大な別荘や湖のような池を持つ庭園改修に使い込んでしまい、
海軍力は弱いままだったことを、陸奥外相は熟知していました。

日本は韓国の高宗に
「清国がやらないなら、日本が単独で韓国の内政改革を行いたい」
と提案しますが、
高宗からすれば、日本より清国を信頼しているのですから、
日本の提案など受け入れるわけがありません。
そこで、日本側は高宗と、高宗の実父・大院君(たいいんくん)との不仲を利用し
権力の座を奪われ隠居させられていながら権力の座に返り咲きたい大院君に
「日本は韓国を支配下に置くことはなく、独立国同士としての関係を保つ」
といって納得させ、
高宗と王妃・閔妃(びんひ)のソウルの王宮を攻撃し、
大院君を権力の座に就かせ
「清国軍を追い払うために日本軍に依頼する」
と言わせて、
日本は清国と戦う大義名分を作り上げてしまったのです。

当時の先進国は
「途上国を侵略し、植民地にする」
というのが常識でしたから、
開国間がなく、世界から遅れを取り、
一人前の国として扱われていない日本にとっては
列強に植民地にされるか、日本がどこかに植民地を作るか、
という選択肢しかなかったのです。
かといって当時の日本が途上国を攻めて植民地に出来るはずもなく、
韓国を親日政権にして日本を守ることで精一杯だったのだと思います。

そうして日清戦争が起こった1894年(明治27年)、
1885(明治18)年以降9年間、26回、約2万9千人を
横浜港から送り出した官約移民は廃止されました。

日清戦争勃発の経緯を冒頭で長々と書いたのは、
官約移民が廃止された年のイメージを印象付けたかったからです。

なぜ官約移民が廃止されたのかというと、
ハワイ革命で王国が共和国化して
米国系白人がハワイの主導権を握ってしまい、
それまでの王国政府との信頼関係で移民を送り出してきたのに
ハワイのアメリカの属領化で、
日系移民は渡航条約という保護を失い、
アメリカの移民法が適用されることになり官約移民は中止せざるを得なくなり、
移民事業は明治政府の手から離れ、
政府に代わって移民事業会社が
1894年(明治27年)から続々と設立されていくことになるのです。

スーパーで売られている“Dole”のバナナが
フィリピンのミンダナオ島で栽培されていることや
ホノルルから約30分のドール・パイナップルプランテーションは、
Dole Food Company, Inc.
というアメリカ合衆国の多国籍農業・食品企業ということは
誰でも知っていることですが、
この巨大企業の創業者の従兄サンフォード・ドールは
1887年(明治20年)43歳の頃、
ハワイ在住のアメリカ白人系経済人、政治家、
サトウキビ農場主などの富裕層で結成された政治組織
「ハワイ連盟」の武装蜂起に参加し、
白人市民たちで組織される準軍隊組織
「ホノルル・ライフル連隊」の後ろ盾を得て、
白人至上主義によるハワイ統治をもくろみ、
カラカウア王(7世)に退位もしくは王政自体の廃止と
アメリカ合衆国への併合を求めたのです。
王は当然拒否しましたが、武力で威嚇して
「銃剣憲法」と呼ばれる新憲法にサインさせられてしまうのです。

この新憲法はアジア系移民や貧しいハワイアンから投票権がはく奪され
ハワイ人エリートや富裕な欧米系移民の政治力が劇的に強まり
ハワイ王室が有名無実化してしまい、
白人農場主たちを中心とする共和派が王国の実権を手中に収めてしまいました。

サンフォード・ドールはカラカウア王より
ハワイ王国最高裁判所の判事に任命され、
失意の王はアルコール依存症になり
静養のためにサンフランシスコに向かう途上で風邪をこじらせ
亡くなってしまい(享年55歳)、
妹のリリウオカラニが53歳で王位を後継し、
サンフォード・ドールは、女王の法律顧問に就任してしまうのです。
まるで遠山の金さんや大岡越前に登場する悪徳商人のようですね。

悪徳商人や悪徳家臣に周りを固められた
リリウオカラニ女王は毅然として共和派と対立し、
王権を取り戻す新憲法を起案するなど王国政治は混乱するのですが、
米国大使が海兵隊に出動を要請し、イオラニ宮殿を包囲させて
サンフォード・ドールらの共和派が政庁舎を占拠し、
王政廃止と臨時政府樹立を宣言してしまい(ハワイ革命)、
なんとドールが、臨時政府の大統領に就任してしまうのです。
なんだか今の日本の卑しい為政者たちのようで
正義が勝つとは限らないわけでイヤですね。

ドールの臨時政府は米国への併合を求めてハワイ共和国を樹立してしまい
王政復古の運動はあったものの、その都度武力で鎮圧され、
リリウオカラニは女王廃位の署名を強制されて
ハワイ王国は滅亡してしまったのです。
琉球国が琉球藩になり沖縄県に至る琉球処分のようなものです。

サンフォード・ドールは白人プロテスタント宣教師の子供として、
ホノルルに生まれているのですが、
キリスト教の信者の方には申し訳ないのですが
宣教師は途上国の征服のために送り込まれた
KGBやCIAに思えるように感じる時があります。
ハワイ王国を滅亡させ私物化したドールは
「宣教師は敵情視察の尖兵として送り込まれ、
 信者と情報を集めた後に軍隊を送って征服し、
 ついには植民地化するという政策だ」

として、
「伴天連(ばてれん)追放令」
を出した豊臣秀吉に賛成票を投じたくなります。

なぜ在ハワイの白人富裕層たちが
白人至上主義によるハワイ統治をもくろんで
カラカウア王(7世)に退位もしくは王政自体の廃止と
アメリカ合衆国への併合を求めて
「ハワイ連盟」という政治組織を武装蜂起したのかというと、
南北戦争後、全米規模で産業化の時代を迎えたアメリカでは、
企業の巨大化にともなう富の集中が起こり
その結果として19世紀末にアメリカ史上未曾有の恐慌が起こっていたのです。
多くの企業や銀行が倒産して、街には失業者があふれ、
失業率は20%に上ったといわれていますから、
実に労働人口の5人に1人が失業していたことになります。
米国南部でも綿や麦の価格が暴落し、西部の銀鉱山の多数は閉まり、
アジア系移民よりも、世界中で一番優れていると思い込んでいる一部の白人たちが
自分たちの保守を目指そうとしていた殺伐とした時代だったのです。

後のハワイのパイナップル王ジェームズ・ドールは
サンフォード・ドールの従弟に当たり、やはり宣教師の息子ですが、
マサチューセッツからサンフォードを追ってハワイに移住してくるのです。

1898年(明治31年)には米国にハワイ編入が宣言され、
ハワイ王国の国旗が降ろされ、星条旗が掲揚されてしまうのですが、
1900年(明治33年)の「ハワイ基本法」で準州になると
ジェームズ・ドールは準州知事に就任してしまい、
ハワイは、ジェームズ・ドールを代表とする、
サトウキビ農園主を中心とした富裕層に支配されてしまいました。

1901年(明治34年)ジェームズ・ドールがオアフ島に
ハワイアン・パイナップル社を設立し、
オアフ島の60エーカーの土地(約24ha、東京ディズニーシーの約半分の面積)に
にパイナップル を栽培し、パイナップル王となって、
現在の多国籍大企業に躍進していくわけです。
要するにハワイを食いものにして成り上がったわけです。


そういう欧米の大不況時代の中で
ハワイ王国が滅亡したことが官約移民中止の理由ですが、
もう一つ理由があるのです。
官約移民制度の具体的な交渉は、
アーウィン在日ハワイ総領事に一任されていたことで、
彼が、遠山の金さんや大岡越前に登場する
悪徳商人のように変ぼうしてしまったことも、
理由の一つなのです。
利権が思うがままになれば、そうなるのも世間では良くあることです。

アーウィンは外務卿・井上馨と親交があり、
移民は日本政府の支援策という安心感もあって、
財閥化する三井物産会社が
日本各地から大勢の出稼ぎ労働者を集めましたが、
アーウィンは契約移民者からだけでなく、
移民受け入れ先のサトウキビプランテーション経営者からも
法外な仲介手数料を徴収し、莫大な稼ぎを得ていたのですが、
守銭奴はどこまでも貪欲なようで
アーウィンの仲介料がこじれて、
ついに官約移民制度は廃止されてしまったのです。


どうも文面が長くなり、読みづらいと思いますが、
次回には新聞記事が書けるはずです。
posted by COFFEE CHERRY at 19:40| 沖縄 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。