2012年02月16日

戦前の沖縄ハワイ移民―8

日清戦争で日本が清国に勝ち
1895年(明治28年)に下関で講和条約が結ばれ、
清は日本に朝鮮の独立を認め、
日本は遼東(リャオトン)半島と台湾などとともに
2億両の賠償金を得ます。

2億両というのは
当時の日本の国家予算の約3.6倍に相当した巨額なもので
その後の日本の工業化や軍事力の強化などへの基金となりました。

ちなみに、
後の1937年(昭和12年)7月に、
北京の西の盧溝橋(ろこうきょう)で日中両軍の衝突が起こり(北支事変)、
日中戦争につながりましたが、
(東条英機は当時関東軍参謀長)
この時、日本軍がなぜ盧溝橋近くに駐屯していたのかが
教科書などでは書かれていません。
日本軍が駐屯していた理由は、
1899年(明治32年)中国の山東省で義和団が起こした北清事変で
日本が勝利に貢献したことで得た駐留権によるものでした。
義和団は義和拳という武術をもとにした武装集団で
独自の呪文を唱えてこの拳法を使えば
刀、槍、銃弾などをはじき飛ばせるという
不死身の拳法と信じられていたのは不思議ですが
日清戦争に負けた清国は列強に重要な拠点を
租借という形で土地と権利を奪われていたために、
清国民からすると怒りが爆発しない方が不自然で
中国版の尊王攘夷(王を敬い外圧・外敵を排する思想)として
義和団を起因に勃発した、というわけです。

盧溝橋付近に駐留する日本軍に、
「国に居座る外国人は即刻出て行け」
という不満や怒りは、
中国国民革命軍でも共産党軍であっても
当然のことですが充満していたのです。

さて、日清戦争当時の沖縄は
「清国から攻められる」
というウワサも
日本が黄海海戦で日本海軍が勝利を収めて大勢を決して杞憂に終わり、
清国は琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなり、
これを期して実質的な琉球処分が完了します。

沖縄の親清派が描いていた、
「清国による琉球救援」
といういちるの望みも絶たれ、
・和装、洋装の奨励普及
・標準語の励行
・男子の断髪、結髪の禁止
・裸足の禁止
・ユタ(巫女)やジュリ(遊女)の統制
・火葬奨励
・モーアシビ(「モー」は野原、「アシビ」は遊び。
「毛遊び」ともいって部落の若い男女の出会いのグループ交際の場、
夜三線を弾いて歌ったり踊ったりして遊ぶこと)の禁止
・1899年(明治32年)入れ墨禁止令
(沖縄の成人女性の手の甲などに入れたハジチ(針突)で
地域ごとに入れ方が違う琉球独特の伝統文化)

など、
多くの伝統的な風習や習慣が、野蛮でジャマななものとして
政府から禁止や規制され、
日本の同一国民として標準化された生活様式を強要されるようになり、
日本全国が金太郎飴になって
人だけでなく個性のない市町村を生み出していったのです。

ハジチ(針突)は成人女性が手指、甲、肘にかけて、
魔除けや願いごとなどを込め、入れ墨を施す
沖縄、奄美の島々の伝統的な風習で、
入れ墨の模様一つ一つに意味があり、
また地域、身分、時代によっても模様が違う伝統風習でした。

こういった入れ墨文化は
琉球以外でも、台湾の高砂族、東南アジアの少数民族、
あるいはアイヌ人やアメリカインディアン、マヤ人でも
それらの民族の女性たちは、結婚前に入れ墨をする習慣があり、
その場所も指先から手の甲にかけて同じ箇所に彫られ、
文様も何となく似ているようですし、
ヒトの遺伝子まで共通だという研究まであります。
ハジチ(針突)は重要無形文化財級の風習だったのに
廃止されてしまったことは残念なことだと思います。


また脱線したので、話をもとに戻します。
日清戦争に勝利したことで、明治政府は沖縄に対し、
清国に対する気がねがなくなり、
また旧支配者層に対する配慮も不要になり、
合理的な沖縄統治のためには、
旧慣諸制度の改革は必要不可欠になりました。

「清国に対する気がね」
というと
「1609年に島津が琉球侵略以降、琉球は日本では?」
と思う方もいるかもしれませんが、
薩摩統治下の琉球国は江戸時代に清朝へ朝貢していたことなどから、
清朝は琉球の領有権を主張していたのです、特に維新後に。
明治政府は、琉球を日本の領有権として確定するために、
1879年(明治12年)に琉球王国最後の王であった尚泰(しょうたい)を
東京へ移住させ琉球藩主の座から去らせるとともに
内務官僚・警察官・陸軍部隊を琉球に派遣し、
琉球を一時的に鹿児島県へ編入した後、
同年中に沖縄県を成立させたのですが、(第二次琉球処分)
清朝は明治政府の動きに反発していたのです。
「空白の一日」の読売巨人軍の江川事件のようなものです。

日清戦争のきっかけは、前にも書いたように
朝鮮の全羅道(ぜんらどう)で起こった農民たちの反乱(東学党の乱)ですが、
日本と清国は日清修好条規で協調関係にあったというものの、
琉球の領有権問題では日清両国間の緊張は続いていたのです。
それが日清戦争で日本が勝ったことで、
沖縄の領有権問題は一気に解決し、
ついでに台湾も占有することが出来たのです。

1896年(明治29年)に沖縄行政区域を
「2区5郡」
とする沖縄県区制、および沖縄県郡編成の勅令が交付され、
沖縄全域が
2区
・首里
・那覇

5郡
・島尻(しまじり)
・中頭(なかがみ)
・国頭(くにがみ)
・宮古
・八重山

に分けられ、
1908年(明治41年)の特別町村制の実施で
・間切、島soon町村
・村soon

に改められました。

沖縄の土地制度の改革は「土地整理」といわれ
本土で行われた「地租(ちそ)改正」に相当します。
「士地整理」は、簡単に言えば、
・土地所有を個人の私的なものとする法的整備
・租税を物納から金納へ転換

などを企図して行われたのです。

明治維新後、
政府が1873年(明治6年)から1879年(明治12年)ごろにかけて
沖縄を除く本土で地租改正事業が行われていましたが、
沖縄は琉球国として400年の歴史と伝統があり、
政府は一気に改革を行うと
旧士族層や県民の反発があるかもしれないことを危惧し、
しばらく現状維持路線を敷きながら頃合いを伺い、
廃藩置県後20年近く経ってようやく土地整理に着手したのです。

琉球王朝時代の土地制度は
・百姓地
・地頭地(首里や那覇の上級役人でもある地頭に与えられた土地)
・オエカ地(地頭代や首里大屋子など、間切の上級役人に与えられた役地)
・ノロクモイ地(方女神官ノロクモイに役俸として百姓地から交付した土地)
・仕明地(しあけち、士族や農民が薩摩藩の許可を得て新たに開墾・埋め立てした土地)

などの耕地区分があり、
百姓はその土地を耕して米や麦、イモ、大豆、サトウキビなどを作り
農産物を税として物納していました。
よくいう年貢といわれるものです。
土地は形式上は国王のものですから個人所有ではなく
間切(町村)に対して与えられていたので
土地の売買は当然出来ず、税は各地の間切ごとに課されていました。

琉球王朝時代では地割(じわり)制度があって、
農地を村人の人数や家の数で割って各自に農地を与えて
・人頭割
・貧富割
・貧富
・耕耘(こううん)力割
・貧富
・勲功割

などの割替えがあって、
数年〜数十年経つと、村人が平等になるようにとの計らいで
また割り当てをやりかえしていましたが、
これに対する租税も、士族層は免税特権が与えられ、
農民だけが税を負担するという矛盾に満ちた不公平なもので
近世沖縄の農村を貧窮、疲弊させてしまったのは、
この地割制度という土地制度そのものにありました。

戦前の沖縄はそのほとんどの集落が純農村地域であり、
市街地を形成していたのはわずかに首里市と那覇市だけだったようです。
琉球王朝末期には、貢祖や食料の関係上、
水田も多く米作が重視されていましたが、
1879年(明治12)の廃藩置県以後、貢祖の代納が認められるようになり、
1888年(明治21)の「甘庶作付け制限令の解除」により
水田の多くが甘庶畑に代わっていきました。

本土が米作中心であるのに対し、
沖縄農業は甘蔗(かんしょ、サトウキビ)と
甘藷(かんしょ、サツマイモ)が中心となってゆくのです。

1899年(明治32)から1903年(明治36)にかけての
地割制の崩壊と土地私有制の施行により、
吉幾三さんの「オラ、こんな村イヤだぁ〜」ではないですが、
それまで「村から出たい」という意思があっても
コルホーズのような伝統的な共同社会体制下ではほとんどムリだったのが、
土地の私有権が確立して、土地の売買や交換が自由になり、
村を出る意思があれば自由に出られる条件が社会的に作り出されました。

土地の売買や交換が自由になったことで耕地の集中化も可能になり、
貧しい農民の放棄した土地を買い上げて地主へ成長する階層と
土地を手放して他の職業に転じたり、あるいは小作人になったり、
本土への出稼ぎや海外移民として流出する階層とに
二極分化が進んでいきました。

土地整理事業で納税の義務としての金納制が実施され、
貨幣経済が島社会に浸透することにより
農家でも現金収入を得なければ、
生活の維持が困難な状況に追い込まれることになり
さらに市場に大きく左右される安価な黒糖を生業とする農家も多い沖縄では
台風や干ばつなどの自然的要因も影響し、
農家の生活は借金を重ねますます困窮していきます。
また当時は全国平均の4分の1しかない労働賃金の低水準もその背景にあり、
貧困農家が急増していきました。

そういう貧困農業からの脱却策の数少ない選択肢として
海外移民が出てきたのです。
沖縄県内各地において、移民を希望する者は土地を売却して金を捻出し、
これを渡航費に充てることが出来るようになり、
あるいは土地を処分しなくても
土地を抵当にして親戚や金持ち層から金を借りることもできたわけです。

沖縄本島の典型的な移民母村は、
沖縄本島の
・羽地
・金武
・勝連
・中城
・西原
・大里

の6カ村ですが、
これらの地域は土地を集団で共有するという地割制が
早くから崩壊した地域でもありました。

以上のように、沖縄における土地整理事業は、
海外に出稼ぎに出る大きな要因となりました。




以下は、新聞記事です。


ハワイと沖縄の物価
1900年(明治33年)におけるハワイの物価相場…やまと新聞
白米百斤   4ドル以上
砂糖一斤   4セント16分の1
珈琲一斤   粉50セント内外
番茶一斤   15セント
浴衣地一反  1ドル
野菜小把一つ 5セント
魚類少許   25セント
牛肉一斤   ハワイ産10セント
家賃一月   5ドル
診療日本医 1ドル以上
手術料    5ドル以上
薬品一日分 75セント
入院料クイン病院 下1ドル
料理代1食  25セント
理髪      15セント
電話1カ月  3ドル
電灯1カ月  1ドル
牛乳      1クォト10セント
労働服上下  1ドル50セント
耕地月給   15ドル
大工石工日給 2ドル内外
料理人月給  9ドル以上
洗濯1枚5セント 月1ドル
日本人商店員   7ドル以上
巡査月給     30ドル内外
小学教員月給  20ドル内外



那覇小売相場(壱升又は壱斤につき)1900年(琉球新報)
地上白米    18銭
肥後上白米   18銭
蘭国米     13銭
島米上     18銭
小麦      12銭
大麦       9銭
朝鮮大豆    11銭
青肥後大豆   10銭5厘
島大豆     20銭
鶏卵(拾個に付)  10銭
鰹節(壱斤に付)  60銭
島醤油       25銭
泡盛        22銭
食塩         7銭
素麺金龍      11銭
同友白髪      9銭
神白髪       8銭
石油松印    24銭
薪木拾把並   50銭
木炭十貫目   80銭
昆布壱斤ニ付  6銭
豚同      16銭
牛同      14銭
山羊同     16銭
上味噌     30銭
同中      24銭
同並      16銭
大和醤油    24銭
黒糖壱斤ニ付  6銭



重さとしての「1斤」は600グラム、
「1升」は10合、1.8リットル



そういえば、
移民の父「當山 久三」のことを書き忘れていますね。
コーヒー山などの画像も次回には。


posted by COFFEE CHERRY at 14:00| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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