2012年05月09日

和宇慶朝伝先生にコーヒー栽培を教えた方がいた

戦後の沖縄でのコーヒー栽培は、
具志川市(現・うるま市、1968年6月までは中城郡具志川村)の
兼箇段(かねかだん)のご自宅の庭約500坪で
和宇慶(わうけ)朝伝先生が始めたのが最初で、
恩納村の山城武徳先生が後継したと私は思い込んでいたのですが、
最近、和宇慶先生にコーヒー栽培を教えた方がいたことを知り、
現在それを調べ始めました。

なにしろ、もう50年くらいも昔のことなので、
その経緯を知っている方々がいたとしても高齢になっているために、
どこまで解明されるかは判りませんが、
時間がかかってもいいので、
出来る限り情報を集めてみようと思っています。

バナナ園のコーヒー20120506.JPG
 我が家のバナナ園は海から直線距離で約1kmなので
 塩害のあるエリアですが、
 苗木定植3年目を迎え、順調に生育しています。
 昨年初めて開花したのですが、3度の台風で実を落としてしまいました。
 今年も開花、結実していますが、
 昨秋から補強した防風対策で、どの程度守られるのかが課題です。



今年の3月に、
親しくさせていただいている方の奥様が
クモ膜下出血で突然亡くなられました。
名前はシズさんといい、享年73歳でした。

シズさんが中部農林高校の生徒だったころの恩師が
和宇慶先生にコーヒー栽培を教えたというのです。

その話は、シズさんが亡くなられてから
ご主人から最近になって初めて聞きましたので、
シズさんに生前、直接お話を伺えなかったのが悔やまれます。

故人を偲(しの)び、和宇慶先生がコーヒー栽培を、
おそらく教わったと思われる時代を、今日は懐古してみたいと思います。

再生中のコーヒー苗木20120506.JPG
 コーヒー山をお借りするまでに
 ケンガイ鉢で栽培中のコーヒー苗木が成長してしまい、
 根が鉢の中でグルグル巻きになってしまった苗木は
 一部を自宅でリハビリ再生させています。
 画像の苗木は台所の前に置いてあります。
 一時は苦しがって葉を全部落としていたのですが、
 2年かかって再生してきました。
 白い花を咲かせ始めました。
 コーヒーはデリケートな植物ですが、強い部分もあります。



沖縄は、薩摩や明治以降の日本政府やアメリカに翻弄され現在に至っていますが、
明治以降でも不平等と貧困の歴史から、
沖縄は海外移民が早くから行われてきました。

海外移民といっても、永住目的ではなく、
3年契約の期限付き出稼ぎ労働が基本で、
契約終了後に帰沖した方々もいれば、
そのままハワイなどの現地に残ったり、
あるいは親族を呼び寄せたりしていますから、
明治後期以降、太平洋戦争の時期を除くと
移民先の親族との交流があったことで、
沖縄はコーヒーも含めていろいろな熱帯植物が入る環境にありました。

オランダが東インド会社を設立したのが1602年、
インド南西部のマラバル海岸から、
オランダ領東インド諸島(インドネシア)のジャワ島に
コーヒー苗木が海路運ばれたのが1696年ですが、
(この時は地震と洪水で失敗し、1699年に2回目を搬送して栽培に成功し
 オランダ領東インド諸島のすべてのアラビカ種コーヒーノキの先祖となる)
江戸幕府は鎖国中もオランダと清とは長崎出島で交易をして、
那覇は貿易船が寄港する国際貿易港でしたから、
江戸時代にもジャワ方面からコーヒーのタネが入手したことだって
あったのかもしれません。


歴史的に、あちこちからコーヒー苗木やタネの入手の可能性があるために、
私が本島で確認できていない品種が、
沖縄のどこかでまだ栽培されている可能性は否定できないどころか
大いにその可能性がありそうです。

私が確認できているのは、
品種が判明しているのが4種類、品種不明のが3種類ありますから、
実態はもっと多いはずです。

ヤンバルクイナ20120506.JPG
 国の天然記念物ヤンバルクイナです。
 綺麗な模様があるのでオスです。
 4〜7月はヒナが孵(かえ)る時期なので
 メスは巣を守っているのか、ほとんど見かけません。
 画像は我が家の前の軽トラックの横で撮影しました。
 もう保護は必要無いと思うくらいよく見かけますが、
 数秒で草むらに入り込むので、なかなか撮影は出来ません。



1945年(昭和20年)に終戦になりましたが、
当時はシズさんは6歳でした。
参考までに和宇慶先生は40歳、山城先生は16歳でした。
名桜大学理事長の嘉数先生から
「古稀になり退職し、理事長職を後進に委ねる」
旨のメールを先日戴きましたが、
嘉数先生は当時3歳だったのですね。

沖縄戦では昭和20年3月の国民勤労動員令公布で
沖縄県の15歳から45歳までの男女が根こそぎ動員され
(実際には15歳未満の子供から65歳以上の高齢者まで徴兵された)
日本軍の指揮下にありましたから、
和宇慶先生の40歳は年齢的に部隊に入隊させられていたはずですし、
山城先生は防衛隊員として伝令役を務めていたと本人から伺っています。
伝令といっても、上陸して民間人も容赦なく射殺する許可が出ていた米軍を突破するのですから、
日本軍は同じ文書を3人に持たせ、そのうち1人だけがたどり着くような任務だったようです。

昭和20年8月15日に昭和天皇による玉音放送がラジオで流され、
無条件降伏をしたその日が終戦とされていますが、
沖縄では9月7日に南西諸島の日本軍が降伏文書に調印しているのです。

第32軍を指揮していた牛島満陸軍中将と無能な参謀・長勇中将が
糸満市摩文仁洞窟に置かれた司令部壕で自決して
第32軍司令部消滅後は軍組織が壊滅して統制を失い、
沖縄島南部に追い詰められた民間人は逃げ惑い、
死の彷徨の果て、死者数が増大するのですが、
補給が途絶えた日本軍は、
第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)や
同連隊指揮下の2個大隊など
食糧を住民から強制的に強奪しながら、
8月15日の終戦後もゲリラ的局地戦や切り込みを続けていました。

北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが
米軍に投降したのは8月29日です。

8月15日のポツダム宣言後も、
陸軍の航空機が8月15日に鹿児島県の知覧基地から、
海軍の航空機は8月19日に同県の鹿屋基地から
沖縄へ向けて出撃しています。

神風特別特攻隊は、沖縄戦では、
4月6日〜6月22日まで延べ10次にわたって行われましたが、
南九州を飛び立った特攻機は、沖縄島北端の伊平屋島あたりにくると、
米艦隊と米空軍機グラマンの攻撃を受けて9割ほどが撃墜されたといわれています。

ポツダム宣言受諾後、
日本政府は敗戦処理に取り掛かりましたが、
沖縄ではなお戦闘状態が続いていて、
8月26日には、
沖縄攻略部隊の米軍第10軍司令部は、
連合国総司令部から
「9月2日以降に南西諸島の全日本軍の降伏に応じさせるように」
という命令を受けています。

9月7日になって、琉球列島守備軍第28師団長の納見敏郎中将が宮古島から
奄美大島から高田利貞陸軍中将
、加藤唯男海軍少将らが降伏調印のために嘉手納基地に召還されました。

沖縄守備隊の三将軍は、
米第10軍司令官スティルウェル大将に対し、
「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」
を申し入れ、
6通の降伏文書に署名して正式に降伏しましたが、
この終戦の伝達も連絡が遮断されて孤立しているゲリラ部隊に行き届くはずもなく、
9月半ばを過ぎてもなお、
沖縄の各地で敗残兵や住民が山中や自然壕に隠れていたそうです。

そういう意味では、沖縄での慰霊の日は
第32軍の牛島中将が自決した6月23日ではなく、
最終的に沖縄守備軍が正式に降伏調印した
9月7日がふさわしいような気が私はします。

双葉のコーヒー苗20120506.JPG
 昨秋いただいたタネを、師走の12月13日にタネ植えしました。
 もともと熱帯果樹ですから、冬には弱く、
 苗木や成木でも冬場の成長はありません。
 そのために3月下旬になって発芽してきました。
 画像は、発芽後約1カ月を経過して双葉になった状態です。
 この品種は今まで沖縄にはなかったものですが、
 発芽した時から「かなり沖縄向き」と期待させる品種で、
 今後の生育過程が楽しみになりました。



アメリカが沖縄を占領した直後、
本島は沖縄戦による荒廃で、通貨での取引より、
主に物々交換で行われていたようです。

愚連隊などが仕切る闇市の他、
那覇には那覇公設市場や若松公設市場、
宇栄原公設市場といった公設市場や、
マチグァーとよばれる出店が集まった商業地区なども
数多く点在していたようです。

鉄道もなく、また移動も困難なことから
日々の生活物資を調達する場として、
字(集落)ごとに相互扶助組織の共同売店形式の売店も発展して
現在でも、主に集落の高齢者の買い物やゆんたくの場として利用されています。

那覇市安里の栄町市場も闇市から発展した市場ですが、
このあたりは真和志町間切安里村(現・那覇市)で、
学徒動員により、学徒隊として従軍していたひめゆり部隊の
沖縄県立第一高等女学校(一高女)と
沖縄師範学校女子部があった地域のはずです。
沖縄戦で焦土と化したあと、栄町市場が出来たようです。

ちなみに、ひめゆり学徒隊は、
県立第一女子高等女学校の校誌名が「乙姫」、
沖縄師範学校女子部の校誌名が「白百合」なので、
これを組み合わせた造語が「ひめゆり」なのです。

沖縄戦当時は、沖縄には21の男女中等学校があり、
沖縄戦ではすべてが戦場に動員され、
全学徒のうち2千名余りが戦場で尊い命を落としました。
男子学徒は、4,5年の上級生が鉄血勤皇隊、下級生が通信隊に編成されました。
山城先生は“伝令”と言われていましたから、当時は下級生だったのかもしれません。
女子学徒は看護にあたりました。
ひめゆり部隊が南風原町の陸軍病院に向かったのは、そのためです。
男女の若い学徒は、爆雷を背負って米軍戦車に体当たりしたり、
あるいは、国民学校児童でも手りゅう弾を握って敵陣に突入するなど、
今の時代からすると、とても考えられませんが、
沖縄にはそういう悲しい歴史があるのです。

ひめゆり部隊はあまりにも有名ですが、
・沖縄師範学校男子部
 (師範鉄血勤皇隊、386名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、224名が戦死)
・沖縄県立第一中学校
 (一中鉄血勤皇隊、371名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、210名が戦死)
・沖縄県立第二中学校
 (二中鉄血勤皇隊、144名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、127名が戦死)
・沖縄県立第三中学校
 (三中鉄血勤皇隊、363名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、37名が戦死)
・沖縄県立農林高校
 (農林鉄血勤皇隊、173名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、41名が戦死)
・沖縄県立水産学校
 (水産鉄血勤皇隊、49名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、23名が戦死)
・沖縄県立工業学校
 (工業鉄血勤皇隊、94名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、85名が戦死)
・沖縄県立商工学校
 (商工鉄血勤皇隊、99名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、72名が戦死)
・開南中学校
 (開南鉄血勤皇隊、81名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、70名が戦死)
・沖縄師範学校女子部
 (ひめゆり学徒隊、一高女と併せて222名の女子生徒と引率教師18名の合計240名が
  沖縄陸軍病院(南風原陸軍病院)に看護要員として動員され、136名が戦死)
・沖縄県立第一高等女学校
 (ひめゆり学徒隊、同上)
・沖縄県立第二高等女学校
 (白梅学徒隊として4年生56名が八重瀬岳中腹にある第24師団第一野戦病院に動員、22名が戦死)
・沖縄県立第三高等女学校
 (現・県立名護高校、なごらん学徒隊として4年生10名が八重岳(現本部町)の
  沖縄陸軍病院名護分院に動員、2名が戦死)
・沖縄県立首里高等女学校
 (瑞泉学徒隊として4年生61名が第六十二師団の野戦病院(南風原町新川のナゲーラ壕)に動員、
  33名が戦死)
・積徳高等女学校
 (那覇、積徳学徒隊として4年生56人が第二十四師団第二野戦病院(豊見城城址)に動員、
  3名が戦死)
・昭和高等女学校
 (梯梧学徒隊として、4年生17名が第六十二師団の野戦病院(南風原町新川のナゲーラ壕)に動員、
  9名が戦死)
・沖縄県立宮古高等女学校
 (宮古高女学徒隊、動員数など不明)
・沖縄県立宮古中学校
 (宮古中鉄血勤皇隊、動員数不明、戦死者0)
・沖縄県立八重山高等女学校
 (八重山高女学徒隊、動員数など不明)
・沖縄県立八重山中学校
 (八重山中鉄血勤皇隊、20名が戦闘要員として動員され、1名が戦死)
・沖縄八重山農学校
 (八重鉄血勤皇隊、八重農女子学徒隊、動員数など不明)
以上の21の学校では、
特に本島では学徒として動員されなかった生徒も多くの犠牲者を出しました。

私が住んでいた糸満市や南風原町などの那覇近郊では
戦後、野菜が作られ、野菜を入れた籠(かご)を女性が頭に載せて
徒歩で那覇に売りに行きました。
南風原町で隣に住んでいたおばぁの話では、
「戦争で主人が亡くなり、3人の子供を育てるのに大変で、野菜作りをした」
「真和志(まわし、那覇と南風原の境)あたりで、よく
愚連隊に野菜を格安で買い取られた」
「その後は開南の農連市場で対面販売をした」
と言われていました。

牧志公設市場や栄町市場は戦後闇市から発展したものです。

終戦直後の沖縄県や奄美群島においては、
戦後の闇市などでは旧日本円や、
久米島紙幣(沖縄戦末期の1945年に久米島を占領したアメリカ軍によって設置された
 米軍久米島軍政府が発行した謄写版の代用紙幣)、
米ドルなどの地域通貨が混同して若干流通していたのですが、
1946年(昭和21年)4月15日、アメリカ軍は自らが発行するB円を公式通貨としました。
B円というのはB型軍票(Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yen)のことです。

「B」というのですから、「A」という“A円”もあって、
これは南朝鮮(現在の韓国)の法定通貨
(終戦まで日本円と等価の朝鮮銀行券)とされていたのですが、
米軍基地内だけで使われていたようで、
一般には流通しなかったようです。

コーヒーの発芽20120506.JPG
 前の双葉の画像と同じ品種です。
 私は時期をずらしてタネ植えをしているので、
 この発芽苗は今年に入ってからタネ植えをしたものです。
 発芽率を調べるのに、多めのタネを入れてしまったのですが、
 9割前後が発芽してしまいました。
 こうなると、この後黒ポリポットに移植させる作業がとても面倒になります。
 この後のタネ植えは、1つのプランターで48個にしました。
 発芽した茎は、今まで栽培した品種がデリケートで弱々しいのに対し、
 今回の栽培品種は茎も太いしとても力強く、
 この段階でも、かなりの沖縄向きを期待させるものです。



米軍が沖縄や奄美群島を恒久的に統治を考えるようになると、
1948年(昭和23年)7月21日に新旧日本円の流通は禁止され、
B円が流通する唯一の通貨となりました。
7月16日から21日の6日間にかけて、
日本円とB円の交換が行われました。

通貨をB円に統一することにより、
米国民政府は、通貨の流通量を統制することができることと、
レートを意識的に3倍に設定し、
米軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払いや
日本本土から安価で資材を調達することが出来るという思惑があったからです。

1950年(昭和25年)のレート変更は物価の上昇を招き、
奄美群島の本土復帰運動を加速させることにつながります。
また、経済が空洞化したことが、
本土系企業の進出をも遅らせる理由に至りました。

また1950年(昭和25年)6月には、
第2次世界大戦後、米・ソの対立を背景として
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)が戦争を始め(朝鮮戦争)、
日本本土や沖縄の米軍基地からも直接出撃しました。

韓国ドラマの「ロードナンバーワン」は朝鮮戦争を題材にしたもので、
5月6日までBS11で放映されていましたね。
途中まで興味深かったのですが、
後半から面白くなくなり、最終回はガッカリでした。

1950年(昭和25年)には、連合国最高司令官覚書により
北緯29度以北が日本に返還されました。
具体的には、トカラ列島の十島村十島村(じっとうそん)
・上三島(竹島、黒島、硫黄島)
・下七島(口之島、中之島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、臥蛇島、小宝島、宝島)
のうち、
下七島が返還されました。
(昭和28年、北緯27度線から北の与論島以北の奄美群島が返還)

1952年(昭和27年)4月1日に奄美群島政府が廃止され、
沖縄に琉球政府が発足します。
同年4月28日には、戦後、アメリカの占領下にあった日本は
サンフランシスコ平和条約で、ようやく主権を回復し、
独立国家・日本として再スタートが切れることになりました。
朝鮮戦争により冷戦構造が緊迫化したことで、
アメリカはアジアの共産化を恐れ、ソ連と対立したまま、
日本との講和条約の締結を急いだからです。
戦後廃虚と化した国土と、
外地引揚げ及び復員約630万人を含む過剰人口を抱え、
苦難期を迎えていたことで、連合国との国交回復を機に
日本政府は農業政策移民を再開させます。
同年8月には、アマゾン移住5,000家族と、
中部ブラジル移住4,000家族がブラジル政府により受入を許可され、
戦後の海外移住が始まりました。

シズさんは当時13歳でした。
ご家族はブラジル移住を決意して渡航準備をしていたようですが、
その渡航費を仲介者に持ち逃げされて、
沖縄に留まることになったのだと、ご主人から伺いました。
こういう移民に関する詐欺事件は当時多かったようです。

国頭村の集落でも、ブラジルやボリビアなど
南米方面へ移住した家族は多かったようです。

コーヒー山の地主に
「ボリビアはひどかったらしいですね」
と言うと、
「ドミニカよりはよほどマシだったようだよ」
と楽天的に答えていましたが、
日本政府は移住地を詳細に調べず、
また問題があっても移民者を引き揚げさせることもほとんどなく
受け入れ先があれば、募集をして送り出すという、
ある意味“棄民”政策とも捉えられる政策を進めていました。

1953年(昭和28年)7月に朝鮮戦争が終わり(休戦)、
北緯38度線で南北に分断され、
以降現在に至るまで韓国と北朝鮮両国間に平和条約は結ばれていません。
また、同年3月23日には民政府布令第109号「土地収用令」が発令されました。

地主との賃貸借契約が不調に終わった場合には、
強制的に使用権を取得することができるほか、
緊急の場合には、使用権取得前にも立退き命令を発することができるという、
米軍に都合のよい一方的な内容です。

これだけだとよく意味がわかりにくいと思いますが、
要するに、沖縄での米軍の軍用地使用については、
原則的には土地の賃貸借契約は行うものの、
それがもしトラブルになったときは、米軍は地主に対し収用の告知を行ない、
もし地主が拒否したとしても、米軍は一方的に収用宣告書を発することによって、
その使用権原を確保することが出来る、
という、まったく一方的な不平等な内容なのです。

この布令は新規接収のみに適用され、
それまでの既接収地は、依然として一方的な不法使用が続けられました。
なにしろアメリカにとっての沖縄は統治という植民地としか考えていないのですから。

元沖縄県知事・太田昌秀氏は、
沖縄沖縄師範学校男子部に在学中の1945年年3月に鉄血勤皇隊に動員され、
九死に一生を得た、反軍反戦反基地姿勢の気骨ある方ですが、
「戦後沖縄の最大の問題は、軍事基地化のため、農民の土地を強制的に収用したことだ」
と、著書に書かれています。

「土地収用令」は、形式上は“租借”ですが、
有無をいわせず、武装兵とブルトーザーで次々と軍用地を収用していく、という
実態は“強奪”なのです。
反対する住民に対しては、米軍は軍用地の買い上げを示唆したり、
借地料の166年分を「一括払い」して、
その土地の永代借地権を得ようとしました。
米軍が提示した地代は、坪当たり1円8銭といい極端に安いもので、
当時の人々は「コカコーラ地代」と呼んだそうです。

「土地収用令」の最初の収用通告は、
同年4月10日、那覇市銘苅、安謝、天久3区にわたる地域に発令し、
翌11日に武装兵とブルドーザーを投入して約15万坪収用したのですが、
これが現在の普天間基地です。

同年8月には読谷村渡具知などに発令(約30万坪)、
11月には小禄村具志に発令(約2.4万坪)されました。
その後も、あちこちに発令され、
現在の沖縄の米軍基地はすべてそれによって占拠され
現在に至っているのです。

琉球列島米国民政府は、アメリカ統治を批判していた沖縄人民党を
共産主義政党として度々弾圧を加えていたのですが、
1954年(昭和29年)沖縄の偉人・瀬長亀次郎を検挙、投獄(懲役2年)してしまいます。
瀬長は1952年に琉球立法院に当選し、
就任式では、ただ1人アメリカへの宣誓を拒否したり、
米軍の土地強奪と人権じゅうりんに、断固として反対し、
相次ぐ圧力にも屈せずに、
「土地代金を払え」
「水代を払え」
と叫んだり、
自分の信念をとことん貫き通した不屈の人物ですから、
アメリカにとっては煙たい存在だったのです。

同年7月に、米国民政府は前年に日本復帰した奄美群島出身の人民党員2人に
域外退去命令を出したのですが、その2人は官憲の目をかいくぐって逃亡しました。
(後に1人は逮捕、もう1人は島外に脱出した)
米国民政府は、この2人を匿(かくま)っていたとして、
当時の党委員長で立法院議員だった瀬長亀次郎ら幹部2人と党員28人を逮捕し、
弁護士なしの裁判にかけ、瀬長に懲役2年の実刑判決を下したのです。
沖縄は瀬長亀次郎がいたからこそ復帰運動が盛り上がり、
やがて屋良朝苗(やら ちょうびょう、当時琉球政府行政主席)が米軍統治下で、
不屈の精神で悲願の祖国復帰を実現させるのです。
(1972年5月の沖縄返還の過程で1965年に佐藤栄作総理が沖縄を訪問したのですが、
 当時26歳のシズさんは米軍基地の総務課主任で、
 佐藤首相の接待に出られたそうです)

シズさんは1954年当時は15歳、
中部農林高校に通学されていた時期です。
この頃のシズさんの恩師が、
やはり同校教員だった和宇慶先生に
コーヒー栽培を教えた、というのです。

和宇慶先生は当時49歳でしたから、
コーヒー栽培を教えた、という先生は、
もう少し年齢が上なのかもしれませんが、
そのあたりは今のところまったくわかりません。
戦前は名護市の親川仁吉さんがコーヒー栽培をされていたようですが、
親川さんと、その先生がどういう関係だったのかも興味深いですが、
こっちはもう調べようがないかもしれません。

山城先生は1954年当時は25歳ですが、当時はまだ教員ではなかったはずです。
山城先生は1969年(昭和44年)10月の
第一次琉球政府文教局公務員試験
(沖縄教員採用試験、1次は那覇と東京で試験、
 翌年3月末の時点で沖縄に本籍を有すること、が条件)
で教員になり、中部農林高校で物理の担当になられた、
とご本人から伺っていますので。
そうだとすると、シズさんは山城先生とは面識はないのかもしれません。

リュウキュウメジロ20120506.JPG
 今日のヤンバルクイナの画像を撮影中に飛んできたリュウキュウメジロです。
 リュウキュウメジロの特長は本土のに比べて
 少し口ばしが大きいのでしょうか、違いはよく判りません。
 撮影場所は自宅前の雑草放任栽培地(野菜栽培予定地)で、
 ヤンバルクイナの大好きな隠れ場所でもあります。
 草むらなのでハブもいますから、不用意には入れません。
 セキレイなども飛び廻っていますが、これは速すぎて撮影が難しいです。
 リュウキュウメジロはツガイで仲良く飛んでよく鳴いています。



翌年の1955年(昭和30年)には、
米兵による、悲惨な由美子ちゃん事件がありました。
シズさんは当時16歳ですから、
中部農林高校に在学中のはずです。

石川市(現・うるま市)内の幼稚園に通っていた6歳の永山由美子ちゃんが、
夕方1人で映画を観に行ったまま、行方不明となり、
翌日嘉手納海岸で惨殺された遺体が発見され、犯人は米軍人、
軍法裁判で死刑の判決を受けるものの、
実際は米国に帰還し、責任の所在はうやむや、
という植民地特有の住民軽視の事件です。

1955年9月4日付「沖縄タイムス」夕刊は以下のように報じています。
「嘉手納海岸近くの部隊塵捨て場に身元不明の少女が暴行を受け、
 殺されているのが発見された。
 4日朝、嘉手納村旧兼久部落俗称カラシ浜の部隊塵捨場近くの原野で、
 8才から10才位と思われる少女死体が、 
 あお向けになったまま捨てられてあるのを警ら中の米兵2名が発見、
 MP隊(military police=米軍憲兵隊)を通じ嘉手納派出所へ届出た。
 少女は暴行を受けた形跡がありシミーズは左腕のところまで垂れ下がり、
 口をかみしめたまま死んでいた」

犯人は事件から1週間後に逮捕されたのですが、
由美子ちゃんを車で拉致して、嘉手納基地に連れ込み、
軍の施設内で何度も何度もレイプし、最後には殺し、
その遺体を嘉手納の米軍部隊のゴミ捨て場に捨てた。
由美子ちゃんは、唇をかみしめて、
右手に数本の雑草を握りしめているように死んでいた。
そういう悲惨な事件でした。

由美子ちゃん事件以前でも、新聞報道されたものだけでも
・1947年 17歳(強姦)
     18歳(強姦)
・1948年 18歳(輪姦)
     17歳(拉致、強姦)
     18歳(拉致、強姦)
     17歳(拉致、強姦)
・1949年 14歳(強姦)
     16歳(強姦未遂、傷害)
     生後9ヶ月(強姦)
     18歳(強姦)
     15歳(拉致、強姦)
     17歳基地内のメイド(強姦)
・1950年 女子高校生(強姦)
・1951年 16歳(強姦)
・1952年 18歳(性交拒否で傷害)
などがあり、
泣き寝入り被害者はもっと多かったでしょうから
米兵の事件は常態化されていたようです。


沖縄では60代後半以降の方々は
沖縄戦や、米軍統治での植民地扱いなど
筆舌に尽くしがたい激動の時代を生き抜いて来られた方々なのです。

和宇慶先生や山城先生は数年前に亡くなられましたが、
そういう大変な時代の中で、
沖縄でコーヒー栽培を普及拡大させようとした想いは
引き継がなければいけないのです。

シズさんのご冥福をお祈り申し上げます。

posted by COFFEE CHERRY at 12:43| 沖縄 ☔| Comment(1) | TrackBack(1) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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