2013年10月15日

台風24号のコーヒー山の被災度

大型で強い台風26号台風は、
沖縄本島には15日(火曜)明け方に最接近し、
以降は北東に向きを変えて
勢力をやや落としながら
時速37kmで東京方面に向かっています。

世界陸上ベルリン大会の男子100m決勝で
優勝したウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)の9.58秒が
現世界記録ですが、
これは時速に換算すると34.488kmですから、
これを超えるということは、
かなり早い速度で進んでいるといえるでしょう。

この台風26号台風の強風域はとても広範囲で、
直径が1400kmもあるといわれています。

東京を起点とすると、直線距離で
・ 稚内  1097km
・ ソウル  1159km
・ 奄美大島 1262km
・ 与論島  1441km
・ 那覇  1556km
ですから、
本州全域が入るほどの大きさなのです。

ヤンバルはそろそろ強風圏を抜けたのかな、
でも朝から風速8〜10mの強風は変わりません。


さて、台風24号台風は先週の10月7日(月曜)午後に
沖縄本島の最北端・辺土(へど)岬と与論島の間の
北緯27度線とよばれる約20kmの狭い海峡を北西に
時速約30kmで通過しました。

ヤンバルは台風台風の中心に近く、
風速40km/h以上の暴風雨が吹き荒れ
国頭村一帯はお決まりの停電になりました。

この台風台風の向きでは、
ヤンバルは北西から入る風になりましたが、
台風は円弧で縦に割ると、右側の風が強く、
左側はやや弱いのです。
そのため不幸中の幸い(与論島以北の方、ご免なさい)で
ヤンバル一帯は、昨年の大型台風で被災した大木が倒壊したくらいの
風台風で済みました。
コーヒー山も同様で、被災はほとんどありませんでした。
以下画像で説明しまよう。

台風24号20131010-1.JPG
 ヤンバル内を南北に走る大国林道。
 所々に倒木が見られます。
 昨年の大型台風でかなりのダメージを受けている木が倒壊しています。


台風24号20131010-2.JPG
 暴風で枝葉があちこちに落下していますが、
 不思議とコーヒーには当たりません。
 画像右下はコーヒーです。


台風24号20131010-3.JPG
 コーヒー苗木ポリポットにも
 頭上から枝が落ちています。
 台風後の作業としては、
 こういう枝葉を取り除くことが多いです。


台風24号20131010-4.JPG
 根元付近に枯れた枝が散乱しています。
 こういう落下枝は放置。


台風24号20131010-5.JPG
 これも根元に落下した枝が散乱していますね。

台風24号20131010-6.JPG
 ひとりでは持ち上げられないほどの大きな枝が落ちていますが、
 不思議にコーヒーに当たりません。


台風24号20131010-7.JPG
 これも根元に落下した枝が散乱しています。
 コーヒーが風でしなることも、折れない要因と思いますが、
 折れずに耐えようとすることで、
 幹が根元を中心に動かされて
 毛根を切られることがあります。
 その対策として、幹を支える支柱を
 今後作成する予定です。


台風24号20131010-8.JPG
 枝葉がほとんど吹き飛ばされていますが、
 この木が植えられている場所は尾根です。
 コーヒー山は東側が高く、西側が低い、
 そういうスロープをイメージしてください。
 山の所有者が東側から入る暴風を防ぐために
 随所でそういう造りがしてあります。
 コーヒー山の東側には、隣の山との間に大きな谷があり
 尾根は東風も西風も強く風が吹きますから
 コーヒーを植える適地ではないのです。
 ここには私が植えたのではなく知人が植えてしまったのです。
 平地の露地植えで防風対策が甘いと、
 コーヒーはこういう感じになってしまうのです。
 この木は新芽が出ていて、今後また少し復活してくるでしょうけど、
 可哀そうですが、また暴風のたびに
 今回同様に枝葉が吹き飛ばされることになるのです。
 コーヒーは適所に植える必要があるのです。


posted by COFFEE CHERRY at 14:48| 沖縄 ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 台風の被害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月01日

童話から学習するA3−2

今日は
「花咲じじい」
の第2話についてお話しましょう。
当ブログでは、こういった
本来のコーヒー栽培から少し外れた内容が多いので、
嫌いな方はどんどん飛ばして下さい。

「花咲爺」の歌は、
私は幼稚園に行かなかったので(過疎で保育園や幼稚園が無い)
たしか小学校の音楽の授業で習ったと思うのですけど、
歌詞やメロディは今でもよく覚えていますが、
この歌は1901(明治34)年に発表された古い曲で
現在まで歌い継がれてきていたのです。

私が「花咲じじい」のSTORYを3幕に分けたのは、
「幼年唱歌(初の下)」に発表された、この
「花咲爺」
の歌詞から、単純に3つに分けただけなのです。



花咲爺
作詞・石原和三郎  作曲・田村虎蔵

  うらのはたけで、ポチがなく、
  しょうじきじいさん、ほったれば、
  おおばん、こばんが、
       ザクザクザクザク。

  いじわるじいさん、ポチかりて、
  うらのはたけを、ほったれば、
  かわらや、せとかけ
       ガラガラガラガラ。

  しょうじきじいさん、うすほって、
  それで、もちを ついたれば、
  またぞろこばんが、
  ザクザクザクザク。

  いじわるじいさん、うすかりて、
  それで、もちを ついたれば、
  またぞろかいがら、
       ガラガラガラガラ。

  しょうじきじいさん、はいまけば、
  はなは、さいた かれえだに、
  ほうびはたくさん、
       おくらにいっぱい。
六、
  いじわるじいさん、はいまけば、
  とのさまの、めに それがいり、
  とうとうろうやに、
       つながれました。

この「花咲爺」の六番までの歌詞で、
一番と二番、三番と四番、五番と六番が
それぞれ正直じいさんと意地悪じいさんの対比になっていますよね。

「幼年唱歌」の「唱歌」というのは、
明治初期から第2次大戦終了時まで、
文部省が編纂した
旧制学校(尋常小学校、高等小学校、国民学校)教育用に作られた歌で、
「幼年唱歌」というのは、
幼稚園向けの童謡という意味のようです。

「花咲爺」は1901(明治34)年、
「幼年唱歌(初編 下巻)」に発表されましたが、
同年には「幼年唱歌(二編 上巻)」には
「うさぎとかめ」「おおやま」、
(二編 下巻)には「牛若丸」が、
この前年の明治33年には
(初編 上巻)に「きんたろう」「ヒライタヒライタ」、
(初編 中巻)に「さるかに」「うらしまたろう」、
明治35年には
(四編 下巻)に「二宮尊徳」が発表されています。

中米品種2年苗木20130930.JPG
 山城先生の2品種が沖縄では広く栽培されていますが、
 画像の中米品種は、これでタネ植えから2年弱と
 山城先生の2品種より1年は成長が早いのです。
 画像の大きさは、もう充分に定植出来る大きさですから、
 「この品種は沖縄では2年で定植出来る」
 ということです。


この明治34年は、
1894年(明治27年)から1895年(明治28年)にかけて行われた日清戦争で
大日本帝国が勝利し、
日露戦争は1904年(明治37年)2月から始まる間の
軍国主義の真っただ中という時期でした。

また、沖縄県からの集団移民では
「沖縄移民の父」と称される金武村出身の當山久三の尽力で
1899 年(明治29年)、30名が那覇港を出帆し、
鹿児島・神戸で横浜に渡り(横浜で3人が検査不合格で下船)、
同年12月30日、チャイナ号(外国船・5,900総トン)で27人が横浜港を出航、
翌年1月8日にオアフ島のホノルル港に到着し、
26人が上陸を許可されました。
(上陸不許可1名の理由は不明)

當山久三は「沖縄の偉人」にも必ず登場します。
彼は、金武の尋常小学校で教師をした後、
上京して移民問題に関心を持ち、
民権運動で活躍する謝花(じゃはな)昇
(県費留学生として学習院、東京山林学校で学ぶ、沖縄の偉人の一人)
とともに政治結社をたちあげるなどして帰郷します。
その後、沖縄の現状を目の当りにし、
移民問題に積極的に取り組み、
当時の県知事・奈良原繁
(薩摩藩出身で生麦事件でリチャードソンに斬りつけたといわれている人、
 知事在任中は行政や商権を鹿児島出身者で固め、
 人頭税などの旧慣温存策の姿勢を緩めず県民は重税と貧困にあえいでいた)
と交渉し、
このハワイへの移民団が実現されたのです。

沖縄県からハワイへの第2回移民は、
その3年余後の1903年(明治36年)に農業自由移民として
40人(県統計上は45人)が送り出され、
この時も當山久三が引率しています。
この時の彼は
「いざ行かむ 我らの家は五大州 誠一つの金武 世界石」
と詠んでいます。

1904年(明治37)になると、ハワイへの移民は増加(262人)し、
また、メキシコとフィリピンへの移民も開始され、
翌1905年(明治38年)には仏領ニューカレドニア島、
(ハワイ移民1,233人)
1906年(明治39年)にはペルー移民、
(ハワイ移民は4,467人、翌年は2,525人)
1908年(明治41年)にはブラジル移民も開始されました。
(タイタニック号が北大西洋上で沈没したのは1912年)

その後、沖縄県から世界各国への移民が継続し、
とくに大正時代から昭和10年代までに大部分が送り出されました。
沖縄県は1960年代まで、移民が常態的に行われています。

沖縄から移民を送り出した背景としては、
1868年の明治維新にともない、それまでの薩摩藩の植民地から
1879年(明治12年)の「琉球処分」で沖縄県が設置されたものの、
琉球王朝時代の古い制度がそのまま残る「旧慣温存政策」が続けられ、
沖縄の近代化は立ち遅れ、農村は重税と貧困にあえいでいる中、
日清戦争後の全国的なインフレや台風などによる影響から飢饉がおこっていたこと。
また第二次世界大戦前までは、
近代的な産業の発達していない、経済的基盤が弱い
将来が暗い沖縄に見切りをつけ、
辛くとも新天地で出直そうと出稼ぎの覚悟を決めたり、
戦後は米軍統治による土地接収などにより生活基盤が破壊されたことなどが
移民への決意の大きな要因なのです。

また、琉球王朝時代からの地割制度の崩壊により土地が私有化され、
農民が土地から解放され、土地を売却あるいは抵当にして、
海外渡航費の捻出が可能になったことや
移民斡旋、や移民指導者の存在、
1898年(明治31年)に沖縄で一般化された徴兵令から
出稼ぎ移民に行くことで徴兵を免れる徴兵忌避、
あるいは渡航先に親族縁者や同胞が居るという安心感も、
移民への要因だったはずです。

また、NHK大河ドラマの新島八重が、
明治30年頃にどうなっていたかというと、
1874年(明治7年)の第2回京都博覧会で、
(前年の第1回で初めて外国人の入京が認められたが、この時はローマ字活字が無かった)
八重が英訳(組版と校正を担当)した英文の京都名所案内が刊行されました。
兄・覚馬を頼って山形県米沢から上京したのが1871年(明治4年)ですから、
その英語力の上達も驚かされます。
1890年(明治23年)1月には新島 襄は病気のため46歳で急逝(八重45歳)、
襄の死後、八重は、襄の門人たちと性格的にそりが合わず、
同志社とは次第に疎遠になります。

襄の死から3か月後には、
八重は日本赤十字社の正社員となり、
1894年(明治27年)から始まった日清戦争では、
広島の陸軍予備病院で4ヵ月間篤志看護婦として従軍し、
40人の看護婦の取締役として、怪我人の看護だけでなく、
看護婦の地位の向上にも努め、その時の功績が認められ、
勲七等宝冠章が授与されています。
皇族以外の女性としては初めて政府より叙勲を受けた
栄誉ある受勲といえましょう。
さらに1904年(明治37年)の日露戦争では、
大阪の陸軍予備病院で2ヶ月間篤志看護婦として従軍し、
その功績で勲六等宝冠章も授与されています。

また、京都府河原町の
新英学校及女紅場(にょこうば、日本で二番目の女学校)で
八重が長井機織教導試補時代に知りあった
当時の茶道教授・13代千宗室(円能斎)の母とのコネで
1894年(明治27年)入門し、
円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得、
茶名「新島宗竹」を授かり、京都に女性向けの茶道教室を開き、
裏千家流を広めることに貢献しています。
また女紅場時代の教授には華道家元池坊の当時の家元だった42世池坊専正もいて、
1896年(明治29年)に、専正から「池坊入門」の免状が交付されていることから、
華道の心得も習得していたのです。
会津の誇りや気骨を失わず、洋式砲術を学び、英語も学び、
教育者であり、看護婦で茶道・華道も修め、
八重は本当にタフでパワフルな女性でした。
弱きを挫(くじ)き強きに媚びる、
目立ちたがり屋でパフォーマンス能力だけが優れる
有害な現首相とは比べ物になりません。

そういう情勢下の1901(明治34)年に唱歌「花咲爺」が発表されたのです。

中米品種今春タネ植えした苗木20130930.JPG
 これも中米品種ですが、今春タネ植えした苗木です。
 プランターで発芽させ、先月黒ポリポットに分けました。
 これも従来の沖縄栽培品種より半年以上成長が早いです。
 やはり沖縄の気候環境や土壌への適・不適品種があるということです。
 こういう栽培比較テストの重要性を認識しているのは
 私の知る限り、残念なことですが私以外にはわずか一人だけなのです。



前置きや脱線が多くて、とても読みにくいと思いますが、
毎度毎度申し訳ありません。
さて、今日のテーマ、
「花咲じじい」
の第2幕に移りましょう。
前述の唱歌「花咲爺」の歌詞、三番と四番になります。

家族同然の愛犬を殺されたのに、
「心やさしいお爺さんが淡々と遺体を引き取り、裏庭に埋めるのが不自然」
と思う私は、
まだまだ人間が出来ていない、というのか、
徳が足らないというのか、
まだまだ精進が足りないからでしょう。

私は、この第2幕では、
裏庭に埋められた愛犬の亡骸は、
地中でバクテリアやきのこなどの菌類やミミズなど分解者の働きにより、
最終的には無機物までに分解され、
心やさしいお爺さんが植えた苗木の養分として吸収され、
る物質循環として
木がスクスクと元気に生長する、という
生態系における物質循環や適性施肥の有効性を説いているのだと思います。

臼からザクザクと出てくる宝物は、樹木の様々な恵み、
単に木の実や果実といった天からのご褒美という意味だけではなく、
木材や薪炭、落ち葉(=腐葉土)、
二酸化炭素吸収と酸素供給、
木陰の癒し、風よけなども意味しているように思います。

一方、意地悪爺さんは、というと
またしてもガラクタばかりがザクザクと出てきました。
目先の利得に惑わされ、
肥料過多による肥料焼けなどの悪影響や、
土づくり作業の粗放化による地力低下、
あるいは、手当たり次第に木を切り倒したことで
地面を押さえていた根が枯れ、大雨などで裏山が崩壊、
土砂に襲われるという場面も連想されます。

意地悪爺さんは自らの悪行を省みず、
怒って臼を燃してしまいます。
怪盗ルパンと星一徹を足して2で割ったような
悪辣(あくらつ)ぶりで
こんな人と隣り合わせに住みたくないですね。

花咲爺20131001.JPG
 名護市立図書館で借りた「日本の昔ばなし(U)」。
 花咲爺を含めて全70の昔話が載っています。
 それぞれに言い伝えや伝承民話があったと思うと
 民俗学もなかなか興味深いですね。


「花咲じじい」
のSTORYが確定したのは江戸時代で、
もともとはどういったところから伝承されてきたのか、という学説は、
明治時代の民俗学者・柳田國男説が研究し、
これが基本になっていたようです。

柳田説は、
一寸法師や座敷童などのように
背の低い神や人を「小さ子(ちいさご)」と呼び、
何らかのかたちで福をもたらすとする小さ子信仰が
日本の神話や伝説にあり、
また、灰をまいて雁を取る「雁取り爺」は東北で「犬コムカシ」と呼ばれ、
「川上から流れてきた木の根っこから生まれた犬が狩猟で獲物をもたらす」
という異常誕生の「小さ子」のモチーフを有し、
「花咲じじい」の祖型である、
というのが定説化したようですが、
昭和60年頃に、
当時学習院大学の国文学教授の吉田敦彦・古川のり子らは、
花咲爺伝承について
「ハイヌヴェレ型神話である記紀の
 オオゲツヒメ殺し・ウケモチノカミ殺し神話と同系列の神話」
という新説を発表しました。
ハイヌウェレ型神話とは、聞きなれない言い方ですが、
世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、
「殺された神の死体から作物が生まれた」
という神話で、
「オオゲツヒメ殺し」
というのは、
横溝正史氏や松本清張氏などの推理サスペンス小説の題名ではなく、
古事記や日本書紀に出てくる神話です。

スサノオは高天原で悪さをして、
「天の岩戸」事件の騒動を起こしたために高天原を追放され、
髭を剃り、爪を切られたとされています。
かくしてスサノオは高天原を追放されますが、
そのスサノオは食事の神であるオオゲツヒメの元へ立ち寄り、食事を要求します。
オオゲツヒメは鼻、口、肛門から様々な食べ物を取り出せるという
まか不思議な能力を持っていて、
それらを綺麗に盛り付けてスサノオの馳走にしようとしました。
スサノオは覗き見でこれを目撃してしまいます。
スサノオは、
「カラダの中から出した汚物を食べさせる気か」
と激怒し、スサノオはオオゲツヒメを斬り殺してしまうのです。
すると、オオゲツヒメの頭からは蚕が、目からは稲が、
耳からは粟が、鼻から小豆が、
陰部からは麦が、肛門からは大豆が発生した、

というのです。

これが
「オオゲツヒメ殺し」
で、吉田・古川説では、
すでに縄文時代に存在していた、
死体から植物が生まれるハイヌヴェレ型神話が
古事記と日本書紀の体系神話に取り入れられ、
その後幾多の時代的変容を遂げながら「花咲じじい」が成立した、
という新しい学説でしたが、
民俗学者の多くは、
「日本国内のこととしては無理が多く、中国の華南においてこそ適当だ」
という認識を持たれているようです。

日本古代史「神話・前節」の最前線20131001.JPG
 名護市立図書館で借りた「日本古代史 神話・伝説の最前線」
 この図書館は蔵書数が少ないので、
 どんどんリクエストすることにしています。
 「一人3冊くらいまでなんですけどねえ」
 と時々言われても気にならなくなりました。


最近の民俗学者の主流は、
古来、犬祖神話や犬と農耕に関わる信仰や習俗の行われてきた
中国の雲南省東部の雲貴(うんき)高原およびその周縁地域に、
犬を主人公とする狗耕田・兄弟分家型説話が特に多く分布しており、
その型の説話が「花咲じじい」の祖型である。
これらは農耕起源神話の系統をひく説話で、
基本的には狗耕田(くこうでん)・兄弟分家説が我が国に伝流し、
隣の爺型パターンをとる花咲じじいとして国内に流布したとみるべきだ、
という考え方が定説になっているようです。

「花咲じじい」の原型といわれる中国の民話「狗耕田(くこうでん)」は、
中国で犬は「狗(く)」なので、
タイトルからすると、
「犬が田を耕す」
という意味ですが、
その内容は、簡略すると以下の通りで
筋書きは兄弟の葛藤になっています。

あるところに兄弟がいました。
父親が死んで遺産を分配することになりました。
強欲な兄は財産のほとんどを奪い、
弟には、一匹の犬と僅かな荒れ地だけが残りました。

弟が引き継いだ犬は、
たいそう働き者(犬)で鋤(すき)を曳いて牛馬のように田を耕し、
そのおかげで弟は食うに困らない富を得ることができました。

それを見ていた兄は、弟から犬を借りて、田んぼを耕さそうとしますが、
犬は働きません。
兄は収穫することができず、税金を取られて財産を(わずかに)失います。
怒った兄は犬を縛り、棒で叩き殺してしまいます。
なかなか帰ってこない犬を探しにきた弟は、
無残に棄てられた犬の死骸を発見して涙を流します。

弟は、その死骸を丁重に葬ってあげたところ、そこから竹が生えました。
弟がその竹を揺すると、金塊・銀塊が雨のように降ってきました。
それを見ていた兄が真似ると、糞尿や、土塊、瓦片が降り、
兄はひどい目に遭ってしまいます。
兄は怒って竹を切り倒してしまいます。

弟は悲観にくれますが、切り倒された竹で弟は籠を作りました。
弟が籠を置いて呪文を唱えると、
獲物(雁などの鳥の卵、魚)が沢山獲れるようになりました。
それを見ていた兄は、また真似をしますが、
呪文がいい加減だったり、間違えた呪文だったため、
採れるのは雁の糞、毒蛇などでした。

怒って兄は、籠を薪にしたため、焼かれて灰になります。
悲しんだ弟は、その灰を畑にまくと、
作物は人の10倍取れるようになり、一生生活に困らない富貴を得ますが、
四度それを真似て、畑に灰をまいた兄は、
どんなに耕しても人の1割しか作物が採れず、
とうとう父親の財産がなくなってしまいました。


この狗耕田(くこうでん)は兄弟、
花咲じじいでは隣の爺型パターンでの対比が描かれていますが、
共に仏教の教え、
「物事の成立には必ず原因と結果がある」
という因果論を根本にしたSTORYです。

悪い結果にも良い結果にも、
そこに必ずそうなるべき原因が先に存在しているというのです。

仏教では、
悪い結果が嫌ならば、悪を生みそうな原因を作らないことが大切で、
この世には偶然という現象は一切無くて、
すべてが原因から起こる必然が起こり、流れて行くのが
この世だというのです。

生命の行為・行動(体、言葉、心でなす三つの行為)には
その結果である果報が生じるとする業論があり、
果報の内容如何により、人の行為を善行と悪行に分け(善因善果・悪因悪果)、
人々に悪行をなさずに善行を積むことを勧めています。

「善因善果」
とは、
よい行いをしていれば、いずれよい結果に報いられるということで、
「悪因悪果」
とは、
悪因は悪い結果をまねく原因、
悪果は悪い報いや結果ですから、
人の行いの善悪に応じて、その報いが現れる因果応報の悪い方が
悪因悪果なのです。

老子の第五十章「天寿を全うするには」の後半には
仏教の因果論の本質を、
「人間の人生・幸・不幸に違いが生じ、運命が分かれるのは、
 その人間の物事への執着具合による」

と表現されています。

「花咲じじい」
は、
単なる童話にとどまらず、
なかなか奥が深く考えさせられます。

次回は最終回の第3幕ですね。

イボイモリ20130930-1.JPG
 昨日コーヒー山で出会ったイボイモリ。
 咬まれる怖さよりも触りたくない感じです。
 彼は沖縄を中心とした南西諸島の湿度の高い森林に生息していて、
 環境省レッドリスト絶滅危惧II類、
 および沖縄県と鹿児島県の天然記念物に指定されています。
 冬にドングリの実を付けるスダジイの根元の地面の穴に居たのを発見しました。
 もちろん撮影後は元の場所に戻しましたよ。
 肉食系で、ミミズや陸棲の巻貝、小昆虫などを食べるようです。


イボイモリ20130930-2.JPG
 イボイモリは正面から見ると可愛く、
 サンショウウオのような感じでしょうか。
 コーヒー山での絶滅危惧種での出会える頻度ランキングとしては、
 (県の天然記念物)オキナワキノボリトカゲと(国の天然記念物)アカヒゲは毎回、
 (国の特別天然記念物)ノグチゲラは、
 往路復路も合わせると年20回前後、
 (国)リュウキュウヤマガメは自宅付近も含めると年5〜10回、
 (国)ケナガネズミは2年前に死骸を見ただけ、
 (国)ヤンバルクイナは自宅の庭の水槽に毎日水浴びをしに来るくらいで
 自宅付近では見ない日はありませんが、
 コーヒー山では鳴き声はするものの姿を見たことは皆無、
 (国)ヤンバルテナガコガネは夜行性で枯れた大木の穴に生息しているらしく、
 密猟者っぽいのは夕方見かけますが、ヤンバルテナガコガネ自体には
 まだ出会ったことはありません。
 また、(県)コノハチョウは飛来しているのは年に10回程度は見かけますが、
 停まって翅を閉じた姿は枯れ葉とそっくりになるので、
 見逃しているのだと思いますが、撮影はゼロです。

posted by COFFEE CHERRY at 23:01| 沖縄 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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