2008年12月24日

江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考えるD

温州(うんしゅう)みかんの2007年度の生産量は、
農林水産統計「平成19年産みかんの収穫量及び出荷量」
によると、
千葉県以南の生産量ランキングは
1位 和歌山県  (17%)18万5,400トン
2位 愛媛県   (16%)
3位 静岡県   (14%)
4位 熊本県   ( 9%)
5位 長崎県   ( 7%)
6位 佐賀県   ( 7%)

と続くのですが、
沖縄県でもダントツ最下位ながら
436トンを生産しています。

収穫期0812.JPG
テスト圃場でも収穫期が続いています。
コーヒー山でも移植した一部の苗木には
赤い実をつけていますが、
移植作業に集中していることもあり
自然落下の自生えを期待して放置しています。


江戸時代のみかんの豪商というと、
元禄期の紀伊国屋文左衛門が有名ですが、
彼は発想と行動力に富んだ人で
紀州の生産地では安く、
大都会の江戸では航路が嵐に閉ざされるために
高値で売られているみかん(当時は温州みかん)に注目して
大借金をしてミカンを買い集めて
ボロ船を修理して嵐の太平洋を出航し、
命がけで江戸にたどり着いて高値でみかんを売りさばき、
大坂で大洪水が起きて伝染病が流行っていると聞くと
江戸の塩鮭を買い占めて
「流行り病には塩鮭が効きまっせ」
とデマを流して大阪で売りさばいたり、
という紀州と江戸を往復して大金を得たのが青年期で、
その後江戸に材木問屋を起業して、
江戸城をも焼いた明暦の大火の時には
木曾谷の材木を買占めて100万両を手にしたり、
江戸幕府の側用人・柳沢吉保(よしやす)や
老中、勘定奉行に賄賂(わいろ)を贈って
幕府御用達の材木商人に上り詰める
なかなかのやり手でしたが、
その後、深川木場(きば)を火災で焼失して材木屋を廃業し、
幕府から十文銭の鋳造を請け負いながら、
低品質の粗悪品のために1年間で流通停止になって
巨額の損失を出して商売への意欲を失った、
といわれているように、
矢沢永吉の「成り上がり」ではありませんが
なかなか興味深い人物像です。
(実在していない、という説もあるようですが)

野焼き0812.JPG
 我が家の近郊では
 ビニールやマルチなど農業資材を燃やす
 危険な野焼きが横行しています。
 ダイオキシンなどの有害物質を発生するだけでなく、
 延焼の危険もあるわけですが、
 この場所は私のテスト圃場に隣接していて
 またしても悪質な嫌がらせなのですが、
 野焼きに隣接したテスト圃場の
 防風柵のハイビスカスが枯れていました。
 この看板は町役場市民課に通報して
 立てて戴いたものです。


みかんは奈良時代の日本書紀にも
「橘(たちばな)」
という名前で登場するように、
日本でも歴史が古い農作物ですが、
暴れん坊将軍の第8代・吉宗の時代、
享保19年(1734年)に、
(この年に紀伊国屋文左衛門が66歳で亡くなっています)
有田郡石垣組中井原(現在の有田川町)の
中井甚兵衛が柑橘の歴史の書物として記した
「紀州蜜柑伝来記」
が発刊され
これには、
「有田郡宮原組糸我中番村の伊藤孫右衛門と申すもの
 肥後の国八代と申す所よりみかんの小木を求め来たり、
 初めて糸我庄内に植継ぎ候処、

 蜜柑土地に応じ、
 風味比類無き色香果の形他国に勝り候に付き、
 次第に村々へ植え広げ申候」
と書かれています。

これは、
織田信長が小谷城の浅井長政を攻め滅ぼした翌年、
越前一向一揆が勃発した年という
まさに戦国時代の真っ只中の安土桃山時代前期の
天正2年(1574年)のことですが、
伊藤孫右衛門という人が糸我の庄の上役から
「肥後の国八代(熊本県八代市)に
 蜜柑という果物があるそうだから
 紀州にも植え広めたいので、
 蜜柑の木を持ってまいれ」

という厄介な命令を受けるのですが、
当時は諸国の特産物は大切な財産で
持ち出し御法度の時代ですから大変な苦労をして、
蜜柑の苗木2本を「盆栽用に」するということで
ようやく紀州に持ち帰ることに成功し、
1本は和歌山城に移植して枯れてしまい、
もう1本が伊藤孫右衛門宅の畑で活着に成功するのですが、
ここで大事なキーワードは、
特産物が名産としての地位を築くためには、
 ・ 『土地に応じ』た高品質
 ・ 他にはない『比類無き』特色

を兼ね備えていないといけない、
ということなのです。

地域の風土環境にマッチした作物で、
単純に数量的なナンバーワンを目指すのではなく
質的なオンリーワンを発見し、開花させたことで
紀州はみかんの生産地としての地位と
売り出しに成功した、
ことを重く捉えて
沖縄の可能性を考えると、
コーヒーやカカオだけでなく、
あれもこれもと、
もっといろいろな農産物も見えてきますし、
「台湾移入のグヮバや紫のパッションフルーツが
 どうもハワイのとは違う」

ことも解かってくるのです。

次回に続きます。

江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える1
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える2
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える3
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える4

不発弾処理のジープ.JPG
 沖縄自動車道の中城PAで
 不発弾処理に向かうジープに会いました。
 復帰後の1972年から沖縄県内で
 陸上自衛隊第1混成団(那覇)による
 不発弾処理件数が今月上旬で
 延べ3万件を突破しました。
 重量ベースで1,500トン、回収弾数では137万発を超えても
 まだ推定約2,500トンの不発弾がある、
 といわれていて全てを処理するには、
 まだ100年かかるともいわれていますから、
 まだ沖縄戦は終わっていないのです。
 沖縄戦の1945年4月1日〜6月30日という限定期間だけでも
 米軍が使用した砲弾は271万6,691発に及び
 これだけでも当時の沖縄県民人口に対し、
 1人4.75発も砲弾を使用したことになるのです。
 沖縄戦では日本側は
 軍人や民間人を合わせると18万8,136人、
 米軍側でも1万2,520人が亡くなりました。
 沖縄戦当時は歴史的な大雨が降ったことも
 不発弾が多かった理由のようです。


posted by COFFEE CHERRY at 19:22| 沖縄 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 江戸時代の農政から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
とても勉強になりました。

ありがとうございます!!

ナナシノブログ(仮)では成功哲学を発信してますので

少しでも興味があったらご覧下さい☆

お邪魔しました。

http://alegrialinp.seesaa.net/
Posted by リュウジ at 2008年12月25日 00:51
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