2011年04月04日

台湾のコーヒー事情U(2011-2)

「東インド会社から清国に届いたコーヒー苗木を
 台湾最南端の恒春(こうしゅん)の山林地帯に植えたのが、
 台湾コーヒーの起源らしい」

というように前回は結論付けましたが、
今回は日本統治時代の1910年(明治43年)に
日本の意向でコーヒー栽培を始めるに至る時代背景を
考えてみたいと思います。

また、1910年というのは、
私には「非常に“意味”がある」と思っていますので、
それは次回に書きたいと思います。

戦後の紙幣(日本銀行券)は、
・百円札  聖徳太子(1946〜1956年)
      板垣退助(1953〜1974年)
・五百円札 岩倉具視(1951〜1971年)
      岩倉具視(1969〜1994年)
・千円札  日本武尊(1945〜1946年)
      聖徳太子(1950〜1965年)
      伊藤博文(1963〜1986年)
      夏目漱石(1984〜2007年)
      野口英世(2004年〜)
・二千円札 首里城の守礼の門(裏面は源氏物語絵巻、2000年〜)
・五千円札 聖徳太子(1957〜1986年)
      新渡戸稲造(1984〜2007年)
      樋口一葉(2004年〜)
・一万円札 聖徳太子(1958〜1986年)
      福沢諭吉(1984年〜2007年)
      福沢諭吉(2004年〜)
というように、
戦後の荒廃の時期から高度成長期にかけての紙幣は
日本の建国や政治に関わった
聖徳太子や伊藤博文、岩倉具視などの人物でしたが、
1984年以降では(二千円札は例外)政治家が消え
作家や教育者、文学者、農学者などの文化人に一新されています。
もちろん、単にデザインが変わっただけではなく
高度な印刷技術で最新の偽札防止の対策も施されているようです。

大国林道110402.JPG
 大宜味村塩屋から国頭村与那の県道2号線までの
 全長35.5km、幅員5mの広域基幹林道、
 大国(おおぐに)林道です。
 1977年に着工され1994年に17年と50億円弱をかけて完成。
 絶滅危惧種が多い生態系の森林帯の中を全面舗装されていて、
 とても野生動物保護には思えない立派な道路を
 毎日コーヒー山に行くために通行していますが、
 小さなカーブが多く、ほとんど出会わない車にまれに出会うと、
 危ない場面が多いです。
 ヤンバルクイナやリュウキュウイノシシが横断したり
 リュウキュウヤマガメが歩行していたりします。
 大金をかけて通行量がほとんど無い立派な林道を作る目的は
 与那覇岳付近の山水をもらうためか、
 知事や県議が土建業者に何か弱みを握られているのか、
 県には実はお金が余っているのか、よくわかりません。


台湾を日本が統治するのは
日本と清国による日清戦争で日本が勝利し、
その結果、下関条約によって
 ・朝鮮の独立
 ・台湾、澎湖諸島の割譲
 ・中国遼東半島の割譲

などを日本が得るのですが、
台湾は、それ以降、
第二次世界大戦敗戦後のポツダム宣言によって
台湾が大日本から中華民国に編入されるまでの50年間を
“日本統治時代”といわれています。

日本は幕末から明治時代に入り、
産業が急速に発達し、商品が大量生産化されるのですが、
国内需要に対し供給過多に陥り、国内で消費がはけない分、
武力を後ろだてにして朝鮮に進出して、
綿製品や雑貨などをどんどん輸出するようになるのですが、
以前から朝鮮を属国と捉えていた清国も朝鮮に
織物や紡績製品などを盛んに輸出していたことで
日本と清国の軋轢(あつれき)が高まり
李朝政府の悪政と清国の侵略に対する農民の内乱(甲午農民戦争)を契機に
清国軍がその鎮圧のために出兵し、
また日本も出兵し、その解決策を巡って争い
ついに日清戦争が始まってしまいます。

黄海で日本海軍の連合艦隊が
清国の北洋艦隊に撃破して序盤で制海権を奪い、
陸上戦(北朝鮮)に対する清国軍の海上補給路を断つことで
戦争を圧倒的に有利に進めた日本は
17ヶ月に及んだ戦いに勝利し、
上記の下関条約で、
日本が求めた台湾地域(台湾島と澎湖諸島)を得ることに至ったのです。

ヒカゲヘゴ110402-1.JPG
 三葉虫の全盛期・古生代の
 約3億6千年前から存在しているといわれる
 日本で最大のシダ植物ヒカゲヘゴです。
 日陰という名前のわりには直射日光が当たる場所にも
 生えています。
 沖縄の、とくに森林一帯では、ふつうに見れて
 珍しくはありません。


日本統治の初期段階は、
 ・初代 樺山資紀(かばやま すけのり 元薩摩藩士)陸軍大将
  (在任1985年5月〜1896年6月、13か月)
 ・2代 桂 太郎(元長州藩士)海軍大将
  (在任1896年6月〜1896年10月、5カ月)
 ・3代 乃木希典(のぎ まれすけ 元長州藩士)陸軍中将
  (在任 1896年10月〜1898年2月、1年4カ月)
   愚将か名将かは別にして、日露戦争では第三軍司令官として
   激戦の末、旅順を陥落させ“軍神”化、NHK「坂の上の雲」では柄本明が出演
 ・4代 児玉 源太郎(元長州藩士)陸軍中将
  (在任 1898年2月〜1906年4月、8年3カ月)
など、
薩摩長州出身の一流の人材を投入し
武力による強硬な植民地政策を打ち出したことで抗日運動が激化し、
児玉源太郎が4代台湾総督に任命されると、
それまでの、
台湾を食料の供給と資本蓄積の基地として位置づけした
「人種・文化が類似する台湾は日本との同化が可能」
「台湾は内地の一部なので内地法を適用させるべき」
という、
日本の経済構造にそのまま取り組む考え方から
「内地の外の植民地だから同化は困難と考えるべきで
 内地法を適用せず、独立した特殊な政策で統治するべき」

と主張する、
当時内務省の官僚だった後藤新平を民生長官に抜擢して
台湾の社会風俗や伝統文化などを調査、政策に加味して
徐々に同化の方法を模索する特別統治主義で
台湾統治を進めました。

後藤新平は医師でもあり、
日清戦争の帰還兵に対する検疫業務の事務長官として
その行政手腕の巧みさから、
当時直属上司だった児玉源太郎が女房役に抜擢したといわれています。

台湾総督府民生局(その後民生部に)は、
台湾総督部に置かれた“行政・司法”の担当部局で、
他に
 ・陸軍局
 ・海軍局
が設置されていました。

総督は、もちろん政務・軍務を統括する役職ですが
軍人総督は内地も兼務していて多忙でしたから
実際の統治は、現場の指揮官として民生長官が行っていたようです。

この民政局の中に、
「台湾総督府殖産(しょくさん)局」
があり、
ここでは
 ・農業
 ・工業
 ・水産業
 ・林業
 ・鉱業
などを担当し、
台湾領有した1895年に
台北市内に試作用の田圃が
台湾初の農業試験施設といわれ、
その後、台北・台中、台南に
台湾農業の研究や改良を目的に
台湾総統府農事試験場が設けられ、
これらは台湾省農業試験所に移管され
現在に至っています。

後藤新平は
「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」
「社会の習慣や制度は、生物と同様で
 相応の理由と必要性から発生したものであり、
 無理に変更すれば、当然大きな反発を招く。
 よって現地を知悉し、状況に合わせた施政を
 行っていくべきである」

という、自らの
“生物学の原則”
で、
徹底した現地調査を行い、
経済改革と道路、鉄道、上下水道、港湾などのインフラ(社会基盤)整備、
農業改革、教育、医療・衛生環境の大改善などに尽力します。

1895年の下関条約締結当時、
清国の全権大使・李鴻章(り こうしょう)は
伊藤博文首相に対し、
「台湾には四害あり、統治は不可能」
として、
日本に台湾割譲をあきらめさせようとしたのですが、
この“四害”とは、
 ・アヘン
 ・土匪(どひ、=追いはぎ、というか
     黒澤明監督の映画「七人の侍」の野武士軍団のような
     悪党集団のような)
 ・生蕃(せいばん、抗日の山地原住民)
 ・瘴癘(しょうれい、=風土病)
のことです。
1874年(明治7年)に、
琉球島民殺害の罪を問うために
明治政府と日本軍が初めて海外派兵した台湾出兵では、
日本軍3,600人のうち、8割近い2,800人が
「台湾熱」マラリアにかかり525人が死亡しています。
(7人に1人が風土病で死んでいる高率)
また、下関条約締結後の台湾平定時でさえも
「日本軍戦死者164人に対し、4,642人の病死者が出た」
といわれています。

当時の台湾では、
 ・ペスト
 ・コレラ
 ・マラリア
 ・ジフテリア
 ・チフス
 ・赤痢
 ・発疹

など
当時は伝染病のデパートのようなありようで、
「漢人の移民でも生存率3割、
 平均寿命30歳前後」

という恐ろしい土地でしたから、
台湾統治でまずやらなければならないのが
衛生事業でした。

台湾領有当初16万9千人もいたというアヘン吸引者には、
アヘンに効率の税金をかけることで吸引者を激減させ
その税収を衛生改善に充てたり、
(50年後の終戦時にはアヘン吸引者は皆無)
悪疫予防のために、台北市などの都市では
公園道路や上下水道を完備させ
主要道路は舗装して道路脇に側溝を作り
汚水雨水の排出を速やかにさせるなどを行っています。

また、伝染病を抑えるために
台湾医学校を設立し、ここから多くの台湾人医師が育ちました。
内地から100人を超える医師を台湾に連れて来て全島各地に配置し、
近代的衛生教育を徹底させる公医制度をはじめ、
病院、予防消毒事業団の設立など
次々と衛生改善策も講じています。

そんな児玉源太郎と後藤新平の
八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍コンビが
台湾農業振興のために三顧の礼で迎えたのが
日本で最初の農学博士・新渡戸稲造(にとべ いなぞう)です。
そうです、4年前まで使われていた5千円札の肖像画の人です。

新渡戸(にとべ)の祖父は盛岡藩の勘定奉行でしたが、
盛岡藩は、戊辰(ぼしん)戦争中に
 ・陸奥国(奥州)
 ・出羽国(羽州)
 ・越後国(越州)
の各藩の同盟で新政府に対抗する
奥羽越(おおうえつ)列藩(れっぱん)同盟に属していたことで、
新渡戸(いとべ)も、廃藩置県の行われた明治5年に
「これからは新しい時代だから懸命に勉強して
家名を上げなくてはならない」
として上京し、やがて米国やドイツに留学するのですが、
当時の岩手県から上京する若者の多くは
「賊軍の汚名を晴らすには天下の権を握らなければならない」
という強い志を持ち、政治家を志望したようです。
また、
「新渡戸(にとべ)が行くなら」
と後を追うように上京したのが
後に総理大臣として暗殺される原 敬(はら たかし)であり、
それ以前に上京していたのが後藤新平でした。

現在の千円札の野口英世も、会津藩(福島県)という
賊軍中の賊軍の出身ですから
大病院や大学病院は薩摩藩や長州藩出身者が占有しているために
海外留学せざるを得ない背景があったわけで、
東北人は気骨ある偉人が多いですね。

新渡戸(にとべ)は米国留学から帰国後に
台湾総督府民生局長の後藤新平から台湾に呼ばれ、
殖産局長(=農林水産部長)に任命されます。

新渡戸(にとべ)は着任から台湾全土を巡り
サトウキビの製糖産業に着眼し、
2ヶ月後には砂糖の研究のために
ジャワ(当時はオランダ領東インド)に行って
「台湾は砂糖を作ることによって農業を生かしてゆくべきだ」
という
「糖業改良意見書」
を書きあげ、
台湾総督府は台湾の砂糖きび栽培を大規模で進めます。

この意見書の初めには
「一、糖業奨励法の発布
   機関の発動は法令の拠るべきものなくんばあらず、
   依て律令を以て糖業奨励法を発布せられ、
   奨励の方法特典の付与監督制裁等に関する諸件を
   規定せらるるの必要あり、即ち別紙に草按を附せり。」

とあって、
要するに
「台湾糖業は明治政府の保護育成が必要」
ということが説かれているのですが、
以下の主な内容は、
 ・品種の改良 在来種より生産性の高い品種に変更すること
 ・沖縄やハワイから外国種を入手すること
 ・ショ糖の栽培方法の改良
 ・灌漑を行なうこと
 ・水利の不便な田畑を砂糖栽培に転換する
 ・精製糖での技術改良を計る
 ・地域によっては大型圧搾機は設置できないので小型圧搾機を開発する
 ・日本に入る輸入外国糖に関税を引き上げにより、戻し税を行う
 ・交通路の整備及び輸送費の補助政策を打ち出す
 ・砂糖販売網の拡充を図る
 ・ショ糖の公定価格の安定を図る
 ・糖業教育の充実を図る
 ・産業組合の整備(現在の農業協同組合のような組織)を行う
 ・事業計画書を作成し糖業への投資や起業の参考にすること
 ・出版物による糖業の啓蒙をする
 ・甘蔗保険の充実させる
 ・副産物の奨励(アルコールの製造)を行う
など、
新渡戸(にとべ)の台湾農業振興政策は
すぐれた内容になっています。

1900年には3万トンだった台湾製糖は
1940年には50倍以上の160万トンになり
世界の砂糖生産において
第2位(1位はハワイ)にまで躍進することになり
台湾糖業の振興が台湾財政の独立に大きく貢献しました。

新渡戸(にとべ)が、台湾着任後に
なぜハワイではなくてジャワに行ったのか?
という部分も、興味深いところで本当は書きたいのですが
長くなるので、また機会があれば書くことにしましょう。

台湾の東部中央の花蓮県には
「ニトベカズラ」という植物があって、
これは日本語読みでも同じらしいですが、
これは「新渡戸(にとべ)葛(かずら)」への親しみから
住民が名付けたらしいといわれるくらい
新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は
台湾では高い評価を得ているのですが
日本では
「新渡戸稲造って誰?」
とか
「なんて読むの?」
という人が多くて…。

台湾統治の児玉源太郎、後藤新平のコンビに
新たに新渡戸稲造が加わったことで最強トリオになり
農事試験場は台湾近代農学研究を押し進める
主要機関に成長していきます。

台湾総督府は
 ・1899 年 台北、台中、台南に農事試験場を設置
 ・1903 年 この三つの試験場を合併して台湾総督府農事試験場になる
これは台湾最初の近代農学研究機関であり、
その後、
 ・1905 年 種畜場
 ・1906 年 糖業試験場
 ・1908 年 園芸試験場
 ・1910 年 茶樹栽培試験場
を設立するのですが、
台湾雲林省古坑郷の華山休聞産業促進会に伊佐が出向いて、
そこの理事から直接聞いた話で
「台湾のコーヒーは1910年 日本統治時代に日本人が始めた」
ということから推察すると
 ・新渡戸稲造は台湾総督府で殖産局長に就任する前に
  米国やドイツに留学して、すでにコーヒーを飲む習慣があった
  (奥さんは米国人で台湾赴任前にフィラデルフィアで結婚している)
 ・またハワイの製糖技術も米国留学中に学習していたはず
 ・台湾での糖業政策のためにジャワに視察に行っているが、
  当時のジャワはオランダ領でコーヒープランテーションもあった
 ・日本でのコーヒー栽培は、小笠原で成功しながら
  収益面で製糖に押されたことで放置され、その後沖縄の東村で
  大規模に栽培されたが、台風で農園が壊滅し、
  その後「台湾で成功した」といわれている
 ・台湾総督府の殖産局長といっても、新渡戸以外は
  農学に精通している人物がいない
  新渡戸稲造の後任・祝辰巳(いわい たつみ 1904年6月〜1906年11月)は
  帝国大学法科を卒業し大蔵省入りした官僚で農学にはうといし、
  その次の竹島慶四郎(1906年11月〜1907年3月)も
  帝国大学法科の明治29年卒業で内務省の官僚だし、
  さらにその次の宮尾舜治(みやお しゅんじ 1907年3月〜1910年9月)も
  帝大法科卒業で大蔵省入りした官僚で、専門は税務だし、
  その後の高田元治郎(1910年9月〜1919年8月)も帝大法科卒の官僚と
  新渡戸稲造以降の殖産局長は帝大法科卒の官僚ばかりで
  農学に秀でる人が不在

となると、
「新渡戸稲造が台湾コーヒーに関わっている可能性が高い」
という仮説を考えるのがふつうだと思います。

ヒカゲヘゴ110402-2.JPG
 通勤する県道2号線や大国林道沿いにも
 ヒカゲヘゴが多く生えていて、
 亜熱帯らしい環境をかもしだしています。
 ヒカゲヘゴが成長して幹が太くなると、
 この黒い下の方の部分を切り取ってホームセンターなどに売りに行く
 野蛮人がいるようで、林道から少し入ったところには
 切られたヒカリヘゴが倒されている光景を時々見かけます。
 「怪しい人を見かけたら110番通報」
 といっても、怪しい人だらけのような気もするし、
 学者が生態研究をしに山に入っているようにも見えますし、
 私も他から見れば怪しいかもしれませんし…。


台湾では、高価な烏龍(ウーロン)茶が有名で
今でこそ中国茶の名産国ですが、
台湾における茶栽培の歴史は、実はそれほど古くはありません。

台湾の学者・連雅堂の「台湾通史」(1962年発刊、全36巻)によれば
清朝の1796年に
「福建省の武夷山から台湾北部に茶樹が持ち込まれた」
というのが始まりとされています。
当時の日本は徳川幕府第11代将軍家斉(いえなり)の寛政時代で
この2年前には浮世絵界に東洲斎写楽が出現し
10か月の活動後に姿を消しています。
フランスではナポレオンがジョセフィーヌと結婚して
イタリア遠征の司令官に抜擢された年で英雄化の道を歩み始める頃ですから、
お茶の歴史的には、意外と思うほど新しいのです。

それから69年後の1865年、
日本は慶応元年という幕末のあわただしい中で、
井伊直弼は5年前に桜田門外で暗殺されていて、
この年は神戸海軍操練所が廃止され、亀山社中が設立、
坂本龍馬や高杉晋作、小松帯刀、中岡新太郎、桂小五郎らが暗躍し、
武市半平太が獄中切腹、岡田以蔵らが斬首された年です。
米国では南北戦争の真っただ中でリンカーンが暗殺された年でもあります。
この1865年に、台湾が82トンの烏龍茶を
初めてアモイ(福建省廈門市)に輸出しています。

それからさらに19年後の1884年、
日本はすでに明治(17年)に入り、
廃藩置県や琉球処分(琉球国を琉球藩として強制的に沖縄県として併合されてしまう)も
10年以上前に終わって
大日本帝国憲法(明治憲法)が制定される4年前、
欧風文化を真似た文明開化の象徴、
貴族社会の社交界・鹿鳴館時代が始まり上流婦人の洋装が流行した年ですが、
この1884年に、台湾の烏龍茶輸出量は約6千トンに達しています。
19年前の、実に約73倍もの数量ですから
当時の清朝にとって茶は輸出品として
非常に重要な地位を占めていたと思われます。

中国(=清国)では、
インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対し、
清が越南(ベトナム)宗主権を維持しようとして対抗し、
清仏戦争(1884〜1885年)が起きますが、
清仏天津条約によって冊封国・越南を失い、
さらに1886年には緬甸(ビルマ、後のミャンマー)は
イギリスにより英緬戦争で併合され、
清国は東アジアの覇者の地位が危うくなる時期にある頃の1885 年、
清国は台湾に劉銘傳(学者・軍略家)を派遣し、
茶産業重視政策によって烏龍茶製造技術の改良、生産区域の拡大、
同業者組合の整理など多大な効果を発揮させ
量産化を進めています。

徳川幕府が強大な戦力を有するペリー艦隊に開国させられ
欧米列強に対応出来ないと気づいた諸藩が
勤皇志士と呼ばれる若者の台頭を許し、
長州は尊王攘夷から倒幕に傾き、
1858年(安政8年)、アメリカ、オランダ、イギリス、
フランス、ポルトガルの
5カ国と通商条約を結び、
長崎・神戸・横浜・新潟・函館の港を開いたことで、
日本の生糸が欧米で知られるようになりました。
当時生糸生産国のフランスやイタリアでは
カイコに粒状の斑点が出来る伝染病が猛威を奮っていたことで
日本の生糸輸出が伸びたものの、
欧米での伝染病の鎮静化と共に日本の生糸の評価は低下してしまいます。
そこで明治政府がフランスの製糸機械を導入し
国策で富岡製糸場が創業され
1893年(明治26年)に民間に払い下げられますが、
この頃は全国各地に民営製糸工場が乱立し
富岡の若い工女たちの多くは、士族の誇り高い女性たちだったようで、
当時の全国の若い女性たちの哀史が戦前の日本を支えていたのです。
その1893年という明治中期に
台湾の烏龍茶輸出量は9,800トンにも上っています。

その2年後の1895年、日本が台湾を領有することになりましたが、
日本政府は引き続き、台湾の“茶産業”の基盤を受け継ぎ、
 ・製茶機械の導入
 ・茶の検査機構の設立
など茶産業の近代化を図って茶の品質を向上させ、
産出量、製造量、輸出量も飛躍的に上昇することとなりました。
この時期の茶園面積は46,406ヘクタール、
年間総生産量は17,000トンにまで増加しています。

前5千円札の新渡戸稲造が台湾総督府の
殖産局長在任中の1903年、
茶製造試験場が台湾北西部の桃園県に設立され
(現在の台湾の茶業における国立試験研究機関である
 行政院農業委員会茶業改良場で、現在台湾桃園国際空港がある県)
本格的な茶樹の研究や製品の運搬技術など
様々な研究が行われ
大きな成果を現代にも残しています。

また当時の日本の緑茶生産地でも台湾茶業振興への協力がみられ
「台湾の茶業」
という本には、
「製茶器械を利用して品質の改良及生産費の節減(中略)等
斯業の発展を企図するは急務中の急務なり、
故に総督は各所に茶樹栽培試験所を設け(中略)
器械製茶の利益を示し人民を啓発するに努め
漸次人工製茶を脱して民業器械製茶場設立の域に達せんとす」

と書かれています。

1910 年には日本の実業家によって、日本台湾製茶株式会社が設立され
1911年には台湾総督府殖産局が、
日本商人に対して台湾茶の従業者を養成する茶業講習会を開催しています。

日本の製茶機械として手動式のながら高性能の“望月式”が、
台湾を領有した翌年の1896年には
台湾に導入、普及されたことで、
それまでの台湾茶が
「台湾は其の地理的関係から見、又歴史的関係から見ても、
 其處に生産せられる茶は対岸支那福州の茶に似て居る」

という低評価だったものが、
品質の安定した上等品に変ぼうしたのだそうです。

太平洋戦争後、台湾の茶産業は一時的に衰退したようですが
かたくなに味を変えないことで現在の地位があるのですが、
一方日本では大量生産化したことで日本茶本来の味を見失い
停滞下降した現状に至っています。
やはりお茶は作り手の技と誇り、伝統というのが大事なような気がしますね。

台湾は215年前の1796年、烏龍茶に始まり
1881年には包種茶(発酵度が低く緑茶に近い烏龍茶で花のような香りのある茶)
1903 年には紅茶も栽培され、
戦後の1949年には緑茶も生産され始めています。

こういう歴史を振り返ると
台湾でのコーヒー栽培が正確に1910年かは
証拠になる文献を見ていないので何とも言えませんが
「農学者・新渡戸稲造が関わっている可能性が相当高い」
というように思えるのですがいかがでしょうか?

posted by COFFEE CHERRY at 18:02| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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