2006年06月26日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その1

コナ・コーヒーは、
「1828年に。
  リオデジャネイロから持ち込まれた苗木から始まった」

といわれており、
カイルア・コナの街から山手に上がったフアラライ山中腹の、
わずか南北40Kmが、コナ・コーヒー・ベルト地帯
に、
大小500を越えるコーヒー農家が集中しているのですが、
コナ・コーヒーの歴史には、日本からの移民が関わっていますので、
それについて書きたいと思います。


今日は、日本人移民が、ハワイにやってくるまでの経過です。

英国の探検家ジェームスクックが、
1778年にハワイ諸島を発見した当時は、
「ポリネシアの一環として原始的な石器時代にあった」
といいます。

当時は、天才音楽家モーツァルトの全盛時代でしたが、
他にもこんなことがあった時代でした。
・ 1769年 ジェームズ・ワットが蒸気機関を発明
・ 1774年 杉田玄白、前野良沢らが解体新書を出版
        (11代将軍・徳川家斉の徳川後半の鎖国時代)
・ 1775年 アメリカ独立戦争
・ 1776年 アメリカ合衆国独立宣言
・ 1782年(〜1787年) 天明の大飢饉
・ 1783年 浅間山の噴火
・ 1786年 モーツァルトがオペラ「フィガロの結婚」を初演
・ 1789年 ジョージ・ワシントンが
        アメリカ合衆国初代大統領に就任

ハワイでは、1795年にカメカメハ1世が統一し、
以降、
・ サトウキビ
・ コーヒー
・ バナナ
・ タロイモ
など、
農産物を主体とした輸出に依存していましたが、
1840年、カメカメハ3世のときに、
「ハワイ王国」として独立し、
1852年以降は、多くの中国人移民がハワイにやって来ました。

中国人移民は、ハワイに天然痘やライ病だけでなく、
アヘンを吸う習慣まで持ち込みました。

また、中国人移民はハワイの島民にとけこむこともなく、
集団化していて、
耕地契約が終るとすぐ耕地を離れて町へ出て
商売をする者が多い傾向にあったので、
耕地労働者としては適当でないと考えられるようになりました。

そこでハワイ政府では、
日本の政府に移民の導入を働きかけることを
考えるようになったのです。

幕末の日本は、
1854年にペリー提督が艦隊7隻を率いて、
2度目の来日をしますが、
アメリカ大統領の親書を携えて、日本に開国を迫り、
大砲(空砲)で脅しをかけながら、
日米和親条約(神奈川条約)を締結させたことで、
日本は長い鎖国から、一気に開国へと向かいます。

ハワイ王国と日本の関係は、
ペリー来航の4年後の1860年に
日本の外交使節団が咸臨丸でワシントンに
日米修好条約調印のために渡米した帰路、
ハワイに修理のため寄港した時が原点になります。

日本側代表である
・ 新見豊前守正典
・ 村垣淡路守範正
・ 勝海舟(船長)
・ 福沢諭吉
・ 中浜万次郎(ジョン万次郎、ガイド兼通訳)
など、幕末〜明治維新の歴史に登場する一行ですが、
彼らはハワイに14日間滞し、
その間カメハメハ4世に謁見、
日布修交条約の締結を希望されました。

1863年には、
カメハメハ五世が日本と通商条約を結びたい旨の親書を
送ってくるのですが、
当時の日本は、
前年の1862年の生麦事件を契機に薩摩藩とイギリスが
戦争状態(薩英戦争)に入ったり、
テロリスト軍団・新撰組の結成や、
長州藩がアメリカ商船やフランス軍艦に発砲・襲撃をしたり、
大混乱の最中にありましたから、
ハワイ王国の通商条約どころの騒ぎではなかったのです。
(なお、同年1863年1月1日に
  米国ではリンカーン大統領が「奴隷解放宣言」をしています)

1867年に入って、徳川慶喜が15代将軍に就任した幕府は、
「暫定的でいかなる拘束もしない」
という条件で、日布臨時親善協定を締結しました。
(同年、パリで万国博覧会が開催され、
  江戸幕府も、陶器、武具などを携えて公式参加しています)

この条約に基づいて、
日本在中のオランダ系アメリカ人実業家
ユージン・ヴァン・リードをハワイ駐日総領事に任命し、
早速、甘蔗耕地の日本人労働者募集を行わせました。

この第1回の日本人移民153人は
1868年(明治元年)にホノルルに着いたので、
「元年者」と呼ばれています。

この第1回移民募集をした時期は徳川幕府でしたが、
移民者が渡航する時期には、明治新政府が誕生していました。

明治新政府は、
徳川幕府とハワイ政府間の日布臨時親善協定を
認めなかったのですが、
ヴァン・リードは新政府の正式の承認のないまま
第1回移民を横浜からハワイに送り出してしまいます。

第1回移民の一団は、
横浜を中心に募集された少数の武士や職人、髪結、料理人等で
構成されていたようですが、
ハワイ入植直後から耕地での苛酷な取扱いに対する不満や
低賃金、高い生活物資などへの不平不満を訴えるようになり、
翌1869年、
日本政府は情況視察の目的で特別全権公使・上野景範を
ハワイに派遣しました。

その結果1870年に、
第1回入植者153人のうち40人を
日本政府の費用負担で送還し、
ハワイに留まった108人の“元年者”の大部分は
ハワイ人と結婚して同化してゆきました。
(入植者153人のうち5人は、現地で亡くなっていました)


次回へ続きます。

posted by COFFEE CHERRY at 17:41| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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