2006年06月27日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜その2

コーヒーの木が、観賞植物として
ハワイ諸島に紹介されたのは1813年
のことで、
カメハメハ大王のスペイン人通訳官と
後にコナの経済大臣となった
ドン・フランシスコ・デ・パウラ・イ・マリン医師によって
リオデジャネイロから持ち込まれたコーヒー苗木を
ホノルルに植樹されたのが、
ハワイでのコーヒー栽培の始め、といわれています。

当時は、産業革命の初期、
ナポレオンの全盛期を過ぎたあたりの頃で、
こんな時代でした。

・ 1804年 蒸気機関車の発明(トレビシック)
・ 1807年 蒸気船の発明(フルトン)
・ 1811年 イギリス軍がジャワ島を占領
        国後島で、ロシア艦長ゴローニンを逮捕
・ 1812年 ナポレオンがモスクワに遠征
        アメリカがイギリスに宣戦布告
        間宮林蔵が幕府の命で蝦夷地の測量に出発
        択捉島の水産物を積んだ高田屋嘉兵衛の
        商船観世丸がロシア戦艦にだ捕される
        (逮捕者は、翌年ゴローニンと
          交換することになった)
・ 1813年 ベートーヴェンの交響曲第7番が
        ウィーン大学講堂で初演される
・ 1814年 ナポレオンが服毒自殺をはかる
・ 1815年 ナポレオンがエルバ島を脱出し
        南フランスのカンヌに上陸したことで、
        ルイ18世がパリから逃亡、
        ナポレオンがパリに入る(百日天下の始り)
        ワーテルローの戦いでナポレオンは
        イギリス・プロシア連合軍に敗退し、
        百日天下が終結、セント・ヘレナ島に流刑となる
・ 1816年 アルゼンチンがスペインから独立
・ 1817年 チリがスペインから独立
・ 1819年 大コロンビアがスペインから独立
        初代カメハメハ大王が亡くなる


ハワイのホノルルに初めてコーヒーが導入されてから16年後、
1828年に、ホノルルに植えられたコーヒーの接ぎ木が、
サムエル・ラグルズ牧師によって
ハワイ島のコナ地区に移植された、

と伝えられ、
コナ・コーヒーの歴史は、この時から始まるわけです。

・ 1825年 ブラジルがアルゼンチンに宣戦布告する
        ベートーヴェンが56歳で亡くなる
        シューベルトが31歳で亡くなる
        小林一茶が65歳で亡くなる
        西郷隆盛が誕生する
        長崎奉行所が、ドイツ人医師シーボルトの
        帰国時の所持品の中に、
        日本地図などの禁制品を発見する
        (シーボルト事件)
・ 1830年 リバプールとマンチェスター間の
        鉄道が正式に開通する


嗜好飲料としての、コナ・コーヒーの名が
記録に表れるのは1840年、
コナにコーヒーが植えられてから12年後のことですから、
コナでのコーヒー栽培の急速な普及が目に浮かぶようですね。

実際にはコナ地区だけではなく、
ハワイ島各地にコーヒーの苗木が移植されましたが、
コナ産コーヒー豆の質と風味が、
飲料として最も優れていたことから、
入植者や栽培面積が自然発生的に増えていったのです。

この辺りの火山培地は豊穣で水はけが良く、
コーヒーの木に必要な土壌成分条件が全て揃っているようです。

熱帯特有の日光と適度の雨、日中の暖かな風、
夜の涼しい風など、コーヒーの生育に申し分ない環境で、
強すぎる直射日光は雲が遮り、
激しすぎる風は周囲の森が防いでくれる等、
コナ地域の気候や風土全てが
コーヒー栽培に理想的な条件におかれているようです。

植樹から収穫まで一貫して手作業で行われるコーヒー裁培には
多大な労力が必要とされます。

1800年代中頃から後期にかけての時代に
白人所有の大型農園でコーヒー栽培に従事していたのは、
ハワイ人と中国系移住者が主でした。

日系移民がコナ・コーヒーの栽培に従事するようになるのは
1880年代初期から
1890年代前半にかけてのことになります。

・ 1853年 徳川家定が江戸幕府第14代将軍となる
        ペリー提督が浦賀に来航し、日本は開国へ
         (日米和親条約1854年)
・ 1859年 スエズ運河の建設はじまる(1869年開通)
・ 1861年 アメリカ、南北戦争(〜1865年)
        徳川慶喜が江戸幕府第15代将軍となる
・ 1868年 朝廷、王政復古を宣言
        明治維新、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争起こる)
        新政府は王政復古を各国公使に通告、
        江戸を東京と改称し、天皇即位式を上げる
        明治と改元し、一世一代の制を定める
        会津藩降伏
        江戸城を皇居とし東京城と改称
        榎本武揚ら蝦夷地を占領、五稜郭を本営とする
・ 1871年 廃藩置県実施
・ 1885年 内閣制度発足、伊藤博文総理就任
        日本に最初の外国の元首が来日する
        (ハワイのカラカウア国王)

・ 1889年 大日本帝国憲法発布(2月11日)
        市町村制施行
・ 1894年 日清戦争(〜1895年)


19世紀後半のハワイを治めていたのはカラカウア国王でした。

ハワイ王国が欧米諸国に脅かされる前に、
同じ太平洋の島国である日本と絆を深めようと、
そんな政治的な思惑を胸にカラカウア国王自らが来日して、
赤坂離宮で明治天皇と会談し、
・ 日本・ハワイの連邦化
・ 日本主導によるアジア連邦の創設
・ 日本〜ハワイ間の海底電線敷設
・ カイウラニ王女と山階宮定麿王の縁談
・ 移民の要請
などの提案をしているのです。

カイウラニ女王はカラカウア国王の姪で、
当時わずか5歳でしたが、
イギリス留学も経験しているインテリの皇族、東伏見宮依仁親王
  (ひがしふしみのみやよりひとしんのう、
    当時は18歳で山階宮定麿親王と名乗っていた)

との政略結婚の申し出まで提案していたのですね。

これが成立していれば面白かったのですが、
残念ながら破談になってしまうんですね。

カラカウア国王は、日本とハワイとの連携により、
優秀な労働力を確保して、
欧米諸国に対抗してゆくことを望んでいたのですが、
当時の日本は、
日清戦争前で富国強兵というスローガンを掲げていて、
欧米の武力や産業技術に追いつくことを主眼としていました。

カイウラニ女王は、
やがてロンドンに留学した頃にこの縁談話を知り、
断りの手紙を書くのですが、これより早く、
日本側がアメリカを気にして
カラカウア国王に破談の手紙を出していました。

それでも、今日、
ハワイで日系人がハワイ社会の中枢を担っているのは、
もともとこのカラカウア国王の
明治天皇への申し出に端を発しているのです。

ハワイにおける最初の組織的移民は、
昨日の記述のように中国から行われました。

しかし、労働者の質が悪く、
またクーリーとよばれた低賃金の中国人労働者の流入を阻止する
中国人排斥法が、1882年にアメリカで成立した影響で、
ハワイでも1886年には、
契約労働による中国人の流入はほとんど停止されてしまいます。

中国人労働者移入の禁止で
手薄となったプランテーションの労働力を次に支えたのが
日本人だったのです。

次回へ続きます。

コーヒーの若木.jpg


posted by COFFEE CHERRY at 18:52| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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