2006年07月18日

コナ・コーヒーと日系移民の関わり〜最終回

1928年(昭和3年)まで続いたコーヒー・バブルは、
翌1929年(昭和4年)10月24日(木曜日)の
ニューヨーク株式市場(ウォール街)の
株価大暴落に端を発した世界規模の大恐慌の始まりで、
コーヒー市場も暴落してしまいます。

大恐慌は1933年(昭和8年)まで続きますが、
この間のコーヒー生産は、雇用者が削減されたり、
マカデミア・ナッツなどコーヒー以外の栽培も始まりました。

1937年(昭和12年)に勃発した
盧溝橋事件(日中戦争)の後、
日本と米国、イギリス、オランダ等との間で、対立が深まり、
1939年(昭和14年)9月1日
ドイツのポーランド侵攻が戦端となって、
第二次世界大戦が始まり、
1941年12月8日には、
日本海軍は米国太平洋艦隊の基地である
ハワイオアフ島の真珠湾と、
アジアにおけるイギリスの拠点である
シンガポールの攻略のために、
当時イギリスの植民地であったマレー半島の
コタバルに奇襲攻撃を仕掛け、
日本は米国、イギリスと交戦状態に入る
太平洋戦争に突入することになりました。

ハワイの日系人は、
当時のハワイ人口の4割を占めていたことや、
日系人を強制収容した米国・カナダと遠く離れていたこと、
また当時、ハワイが正式な州でなかったこと等から、
ハワイの日系人は、日本人会会長や僧侶など、
日本人社会を代表する一部の人々を除き、
収容所に収容されませんでした。

ハワイ人口の4割を収容所へ入れれば、
その食糧も膨大なものになりますし、
ハワイの社会や経済活動が崩壊しかねないという
考え方もあったようで、
それだけ日系人はハワイの社会に浸透していました。

コナ・コーヒーは米軍が食料としての大量買占めのために、
コーヒーの値が再び高騰したため、
米国政府はこの傾向に歯止めをかけるため、
コーヒー値に上限を設定するようになりましたが、
戦争終結後2〜3年間、
コーヒー値の上昇傾向は続いたそうです。

太平洋戦争後から現在までの流れの資料はあるのですが、
また長くなるので、
別の機会で書くことになるかもしれません。

現在のコナ・コーヒーの農園経営者は日系人が少なくなり、
フィリピン人やメキシコ人の出稼労働者の雇用が多いのですが、
コナ・コーヒーを開拓、繁栄させた原動力は、
日系人に大きな功績があったことは、
まぎれもない事実なのです。

現在のコナ・コーヒーの作付面積は、
約3,200エーカー(約13平方キロメートル)を超え、
最近では日本の経済評論家・増田俊夫氏の
投資事業などもあって、増大傾向にあります。


3,200エーカーの広さの参考
(数字の単位は平方キロメートル)
・ 東京ドームの278個分
・ 愛知県 清須市     13.31
・ 大阪府大阪市 東淀川区 13.26
・ 大阪府堺市 美原区   13.20
・ 東京都 豊島区     13.01
・ 愛知県 高浜市     13.00
・ 東京都 東久留米市   12.92
・ 埼玉県さいたま市 大宮区12.75
・ 大阪府守口市      12.73
・ 大阪府大阪市 淀川区  12.64


ハワイの人口は約121万人ですが、
その41.6%(約50万4千人)がアジア人で、
このうち16.9%(8万5千人、人口比約7%)を
日系人が占めています。

1985年に沖縄県はハワイ州と姉妹都市になり、
2004年には那覇市がホノルル市と姉妹都市になっています。


「コナ・コーヒーと日系移民の関わり」は、
15回にもなりましたが、
コーヒーや、砂糖、香辛料が、
大航海時代から先進諸国に翻弄された農作物だったことを
知ってもらいたかったことと、
コナ・コーヒーは特に日系人が関わっていたことで、
しつこく書いてしまいました。

 コーヒーの花(7月18日).jpg
posted by COFFEE CHERRY at 18:22| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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