2011年11月02日

バッハの「コーヒー・カンタータ」を聞く@

今はどうだかわかりませんが
私が小中学校時代の音楽室の肖像画というと、
 ・バッハ
 ・ハイドン
 ・モーツァルト
 ・ベートーヴェン
 ・シューベルト
 ・ショパン

と並んできたように記憶しています。


米国のヴァイオリニストHilary Hahnによる
 パルティータ第3番より「ガヴォット」BWV1006


バロック時代のバッハからモーツァルトまでがかつらだったとは
私がまだ純真だった当時はそんなことは知らずに、
カール状の不思議なヘアースタイルに
違和感をもって見上げていたものです。

バロック音楽というのは
「宮廷音楽」
「教会音楽」
らしいですが、
フランス革命以前の時代の音楽家は、
貴族に召抱えられた使用人の一人として冷遇され
当時はかつらは貴族の正装であり、
貴族たちの前で演奏する音楽家も
かつらを被らなければならなかったようです。
身だしなみであり、マナーだったということですね。

召使扱いですから音楽活動においても当然自由はなく、
宮廷の慰み、あるいは宗教儀式のための添え物、
つまり刺身のつま程度の扱いで、
貴族の要望に合わせて音楽を作り演奏するものだったのです。


2つのヴァイオリンのための協奏曲 第1楽章 BWN1043

バッハが音楽室の最初に登場しているのは、
そういう不自由な音楽を、
宮廷だけでなく世間の人々を喜ばすような
独創的な作曲に専念したことにありそうです。

また、明治以後、
日本における文化はドイツが中心で、
たとえば医学では
 ・コッホの細菌学
 ・フロイトの精神医学
 ・ゼンメルヴァイスの衛生学
 ・フィルヒョーの細胞病理学

等々のドイツ医学の進歩に伴い、
それを日本に伝えたドイツ人医学博士ベルツ、
そういえばカルテやヘルツ(心臓)、マーゲン(胃)もドイツ語ですし、
法学では大日本帝国憲法はプロイセン憲法がモデルとか
コピーといわれています。
大学の第ニ外国語の履修科目に
国連公用語でもないドイツ語があることも、
明治時代の教育の名残だという考え方もあるでしょう。


マタイ受難曲BWV244
Wikipediaによると
「マタイ受難曲(Matthäus-Passion)とは、
新約聖書「マタイによる福音書」の
26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲である。」
と書かれています。
受難曲(PASSION)とは,ユダの裏切りからイエス・キリストの逮捕,
裁判,十字架上の死という一連の出来事を物語風に歌った劇音楽なので、
明るくて楽しい楽曲であるはずはなく、とても重苦しく深い楽曲ですが、
バッハの最も偉大な教会音楽と評された
バッハの代表作のひとつでもあります。
キリスト教や聖書が理解できていないこともあって、
その偉大さや深さは私にはどうもよく判りません。



音楽も例外ではなく、
音楽用語は
 ・Adagio(アダージョ、ゆるやかに)
 ・Andante(アンダンテ、歩くような速さで)
 ・da capo(ダ・カーポ、最初から)
 ・forte(フォルテ、強く)

など、
ほとんどがイタリア語なのに、
主たる教育輸入先がドイツであれば、
学校で習う音楽も自動的にドイツ音楽になる、
だから
「バッハが肖像画の最初」
というのは、
少しこじつけ的な発想でしょうか。
(自信はまったくありませんもうやだ〜(悲しい顔)

ちなみに、ライプツィヒの聖ト−マス教会でのリハーサル中に、
バッハはミスしたオルガン奏者に対し
「きみは靴屋になるべきだった!むかっ(怒り)
と激怒して、
かつらを投げ飛ばしたのだそうです。
かつらを取ったバッハの姿も見てみたいものですね。


 J.S.バッハ/メヌエット ト長調 BWN114 

NASAが1977年に打ち上げた2機の
ボイジャー(1号、2号)無人探査機には
「Voyager Golden Record」
という、電子的なメッセージ、
つまり一種のタイムカプセルが積載されています。

この中には、地球の生命や文化の存在を伝える音や画像が納められていて、
地球外知的生命体や未来の人類が見つけて
解読してくれることを期待しているものなのです。
具体的には
 ・波
 ・風
 ・雷
 ・鳥
 ・鯨

など自然や動物の鳴き声などの多くの自然音や、
さらに様々な文化や時代の音楽や
55種類の言語の挨拶(あいさつ)が含まれています。

地球の音として選ばれたものは、
東洋や西洋のクラシックを含む様々な伝統文化の音楽が選ばれています。

バッハは
「ブランデンブルク協奏曲」


 ブランデンブルグ協奏曲第2番ヘ長調BWV1047 第1楽章

および
「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」
が選出されています。

バッハ以外では
ベートーヴェンの「交響曲第五番」、「弦楽四重奏曲第13番」
モーツァルトの「魔笛」
イーゴリ・ストラヴィンスキーの「春の祭典」
や、
ルイ・アームストロングの「Melancholy Blues」
チャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」
も入っていて、
日本の曲では尺八の古典本曲
「鶴の巣籠り(別名:巣鶴鈴慕)」
という、
私も日本人でありながら聞いたことがない曲まで選出されています。


今、モーツァルトの本を読んでいて
彼がたいへんなコーヒー好きだったことを知りましたが、
モーツァルトより70年前のバッハが
コーヒーハウスで演奏会を開いていた、
という記述から、
バッハの本も読むようになりました。


トッカータとフーガ ニ短調 BWV565
サスペンスドラマの中で
「やむにやまれず殺人を犯してしまった」とか
「ついに禁じ手を使ってしまった」とかの場面で
よく使われる楽曲ですね。



バッハとコーヒーの関係を顕著に示す
「バッハとコーヒー・カンタータ」
というと、
特にカフェ関係のWebで書かれていますが、
どうも簡略に書かれているために、
どういう曲なのかイメージも湧かないので
自分で聞いてみることにしたのです。


ローマ帝国というと、
ジュリアス・シーザー(カエサル)が活躍した
紀元前からの古代ローマをイメージしがちですが、
中世の神聖ローマ帝国は、
現在のドイツ、オーストリア、チェコ、
イタリア北部を中心に存在していた、
帝国というよりは実質的に大小の国家連合体で首都はなく、
この中から、十字軍から帰還したドイツ騎士団領プロイセン公国が
プロイセン王国に台頭したり、
ハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が成長していきました。


「G線上のアリア」は管弦楽組曲第3番」のうち
「アリア」楽章に付けられた愛称で、
正しくは「管弦楽組曲第3番BWV1068」のようです。


“ローマ”という名前は紛らわしいですが、
ローマは支配地域に入っていません。
962年に東フランク王国のオットー1世が
ローマ教皇から「ローマ皇帝」の冠をもらっただけですから
神聖ローマ帝国といっても
“ローマ”は貸し看板のようなものなのです。

神聖ローマ帝国で、
フランス、スウェーデン、スペイン、オーストリア、
イタリア、デンマーク、ドイツ諸州という西欧諸国のほとんどを巻き込み、
カトリックVSプロテスタント
というより、
ハプスブルク家VS反ハプスブルク家
という構図で
特にドイツを荒廃させた30年戦争の終結37年後(1685年)に
バッハは神聖ローマ帝国のThüringen(テューリンゲン州、現ドイツ中部)で
音楽家の末っ子として生まれています。

バッハが生まれた1685年は、
フランス国王ルイ14世が国内の宗教をカトリックに統一するために
ナントの勅令を廃止「フォンテーヌブローの勅令」を発布したことで、
旧教徒は信仰の自由を再び奪われ、
産業の中堅役として経済を支えていた
多くのプロテスタント信者が国外へ逃亡し、
フランスにすさまじい騒乱と緊張をもたらし、
不満が高まって、ついにはフランス革命へとつながることになるのです。

また、バッハ誕生の1685年(貞永3年)の日本では
松尾芭蕉が東海道〜中山道〜甲州街道から
江戸深川の芭蕉庵に帰宅した年が1685年で、
紀行文「野ざらし紀行」を執筆し始めながら
自宅で
「古池や かはづ飛び込む 水の音」
を詠んでいます。
また、この2年後の1687年には
江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が生類憐みの令を発令し、
この翌年から江戸バブル期の元禄時代に入ります。
そういう年にバッハは誕生しました。

バッハは少年時代に両親を亡くし、
10歳の時から14歳年上の教会オルガン奏者の兄に引き取られ、
30年戦争後にドイツに義務教育制度が始まったことで、
ラテン語学校に5年間通い、
落ち着かない兄宅から15歳の時に
200km以上離れたドイツ北部のリューネブルクの
聖ミカエル教会の朝課聖歌隊に
ボーイ・ソプラノとして就職しながら学校を卒業し、
それ以降は
・ヴァイマル公ヨハン・エルンストの
宮廷楽団のバイオリニスト(15〜17歳の2年)
・アルンシュタットの新教会のオルガニスト(18〜22歳の4年)
・ミュールハウゼン、聖ブラジウス教会の
オルガニスト(22〜23歳の2年)
・ヴァイマルのヴィルヘルム・エルンスト公付宮廷楽団の
音楽家兼宮廷オルガニスト(23〜32歳の9年)
・アンハルト・ケーテン公の宮廷楽長(32〜38歳の6年)

と常習的に貪欲に、条件の良い仕事に切り替えて
1723年、バッハが38歳の時に、
当時ハンブルグに次いで輝かしい近代的生活が営まれていた
人口3万人の大都市ライプツィヒで、
ライプツィヒ聖トーマス教会の
「カントル(kantor)」
という訳職に就任します。
カントルは「音楽監督」と説明されている本やWebが多いのですが、
単に音楽監督というだけでは、どれだけすごいのか?
土木工事の現場監督との違いが、どうも明確ではないので
もう少し詳しく調べてみると、
「中世的な幅広い教養を身につけ、音楽、法律、神学、修辞学、
詩、数学、外国語に通じている」

優れた知識や人格が求められ、
「ライプツィヒの最も重要な教会(トーマス教会、ニコライ教会)において、
あるいは他の公式の機会に教会礼拝に必要な楽曲の創作・上演をはじめ
ライプツィヒ市の音楽活動への参画をする

という、
当時のドイツ音楽界屈指の
Commissioner的な名誉ある要職が「カントル」で、
バッハは25年以上にわたってこの要職に就き、
この期間に彼の最高の宗教曲の多くを書きました。


ヴィヴァルディはバッハより7歳年上のイタリア・ヴェツィア出身の
バッハと同世代のバロック時代の音楽家ですが、
バッハとは面識はなく、バッハはむしろヴィヴァルディの楽曲を
いち早く集めていたようです。
当時は著作権はなく、バッハは多くの音楽家の曲の譜面を集め
バッハが手直しして完成された楽曲も相当数あるようです。
“盗作”というより、それだけ貪欲な勉強家だったということでしょう。


バッハは生涯オペラは作曲していませんが、
ライプツィヒでの「カントル」採用条件に
「教会音楽は長すぎてはならず、
オペラ的性格を持たない性質のものであるよう配慮すべきである」

と規定した一項が含まれていたように、
バッハはハンブルグでオペラを知って以来オペラヲタク化して
暇があれば100kmも離れたドレスデンのオペラ劇場の公演に
出かけていたようで、
24曲の世俗カンタータのほとんどがオペラ的性格を示していて、
その中の1つが
「コーヒー・カンタータBWV211」
なのです。

これはバッハの友人ピカンダー
(作詞家兼郵便局員、物品税課職員)が歌詞を書き、
バッハが47歳の時に曲をつけたようです。

コーヒーは当時ヨーロッパで流行した高価な飲料で
(バッハが亡くなって71年後に生まれたモーツァルトの時代では
今でいう1杯約5000円と換算されていますから、もっと高価だったのかも)
コーヒーハウスも盛んに店開きし、
階級を問わずあらゆる人々で飲まれていたようです。
また、コーヒーハウスの流行は、
今ならテレビや新聞、ネットなどで情報がいくらでも入りますが
当時はコーヒーハウスが情報交換の場であり、
ここに来ることで真偽はともかく世相を知ることが出来たようで
そのために当時珍しいコーヒーとともに流行していったようです。

「コーヒー・カンタータKaffee-KantateBWV211」
は、
シュレンドリアンというライプツィヒ市民の頑固親父が
リースヒェンというコーヒーにはまった娘から
コーヒー熱を冷まさせようと、
「コーヒーを止めないと嫁のもらい手がないぞ」
と娘を脅し、
娘は
「それなら、好きなだけコーヒーを飲ませてくれる男としか
絶対に結婚をしない」

と言い返し、
娘はコーヒーを止めない、という結論で終わっています。

和訳歌詞全文は、こちらのブログがとても詳しいのでご覧ください。
「楽曲解説 カンタータ211番 BWV211」



 この楽曲が「コーヒー・カンタータBWV211」です。
 上記の和訳歌詞もそうですが、音楽自体もなんだか…。
「この音楽がライプツィヒのコーヒーハウスで上演され、
喝采を浴びていたんだな」
と感慨深く聞くことは出来ましたが
私にはどうも音楽のセンスがないので、
不謹慎ですが、あくびが出るのを抑えてしまいました。
それでもKaffeeというのだけは聞き取れましたからまぁいいかな。



バッハとヘンデルというとバロック後期の2大巨匠ですが、
二人の生涯は奇妙な符合があります。

二人はドイツの、お互いから約130kmしか離れていない土地で
誕生日もヘンデルが約1か月早いだけですし、
二人とも幼少時期から音楽の訓練を充分に受けて
ともにすぐれたオルガニストになり、
以降、後世に残る楽曲を作り出しました。


 ヘンデルの水上の音楽

二人は晩年に白内障や緑内障の手術が失敗して視力を失い、
それがもとで翌年亡くなるのですが、
その手術を執刀したのが同じペテン師系のやぶ医者でした。

このやぶ医者はイギリス人のジョン・テイラーといって、
ロンドンで診療所を開設して、以降欧州大陸を転々としていて
たまたまライプツィヒに来たところで
バッハが運悪く知り合ってしまったようです。

バッハ時代の白内障手術は
「水晶体転位術」
と呼ばれ、
麻酔無しで鋭く厚い針を眼に突き刺し、
その針で水晶体が見つかるまで探り、
それから針を眼球内部のガラスのようなゼラチン膜に押し込む、
というような手順のようで、
まさに残虐な拷問といった感じで行われたようで、
スペイン出身で角膜移植を確立したカストロビエホ(Castroviejo)教授が
1974年1月に発表した論文によると
「この手術は患者と外科医の双方にとって悪夢のようなものだったに違いない。
この地獄の苦しみは、外科医の助手たちが加わることで初めて達成できた。
患者を力ずくで押さえつけ、特にその頭部とまぶたを動かせないように
患者を固定するのが彼らの役目だった。
そして外科医は、患者が激痛が伴うことで、患者が暴れ出し、
手術が不首尾に終わらないうちに、出来るだけ迅速に
手術を済ます、という超人的ともいえる器用さを求められた。…」

と書かれていますから、
1750年4月1日、バッハがテーラーから受けた手術はこんな
おぞましい感じだったのでしょう。
しかもバッハは、このやぶに2回も手術を受けているのです。

テーラーは
「瞳孔の動き、光など、状況はすべて良好だった」
と自分の失敗をバッハのコンディションのせいにしていたようです。
最低なヤツですね。

テーラーの2度に及ぶ手術失敗のおかげで
バッハは組織全部が悪くなり失明しただけでなく
健康も損なわれて最初の手術失敗から
4か月目に亡くなってしまうのです。


 ヘンデルの「王宮の花火の音楽」

このテーラーは、ロンドンに戻っても多くの人々を失明させ、
1758年、74歳になったヘンデル(42歳の時にイギリスに帰化)の
緑内障手術を行い、これもまた見事に失敗し、
ヘンデルはこの後遺症で翌年亡くなっています。

テーラーには多くの称号があったといわれていますが、
肩書きなんかよりも、
星の王子さまの21章、
キツネが王子さまと別れるときに言った
「心で見ないと物事はよく見えないってことさ。
肝心なことは目には見えないんだよ」

ということの方がよほど大事なことだと
改めて思い知らされました。

posted by COFFEE CHERRY at 20:21| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーから学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/233274245
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。