2011年12月13日

忠臣蔵の忠義を考える

1702年(元禄15年) 12月14日というと、
当時は旧暦ですから
西暦(グレゴリオ暦)では1703年1月30日のようです。
正確には1703年1月31日 (水曜日)の
雪が深々と降る午前4時ごろ
大石内蔵助を筆頭に47人の赤穂浪士たちが
本所松坂町の吉良邸に討ち入り、みごと本懐を果たし、
「忠義の誉れ」
として現在に伝わっているのは、
あえて言うまでもありません。

映画での大石内蔵助役は
長谷川一夫が
「おのおの方、討ち入りでござる」
と言ったのは、
1964年の東京オリンピックの年に
たしか当時白黒テレビで見たと思うのですが
NHK大河ドラマの「赤穂浪士」だったと記憶しています。
長谷川一夫以外にも、この最も重要な主役は
阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、松本幸四郎、
萬屋錦之助、松方弘樹、里見浩太郎、北大路欣也、
中村吉右衛門、高倉 健などといった、
そうそうたる時代劇のスター達が行い、
瑶泉院役も、
星 玲子、玉木悦子、大川恵子、司 葉子、山本富士子、
三田佳子、古手川祐子といった
古手川祐子はともかくとして大女優の面々が演じてきました。

討ち入りをした赤穂浪士たちは、
なにしろ忠義の誉れのヒーローですから、
私たちが映画やドラマで知っている有名な場面も
演劇化による、かなり誇張された脚色も手伝って
逸話や伝承の類が多く出てきます。

吉良邸討ち入り前に、
そば屋の二階に集結して最後の酒宴をして、
出て行くときに小判を4〜5枚(現・40〜50万円)置いていくとか、
討ち入り8か月前に、
病にかかって寝込んでいた岡島八十右衛門に代わって
江戸へ下向した神崎与五郎が
駿河三島宿の甘酒茶屋で馬喰の丑五郎との間に争論がおこり、
神崎はここで騒ぎになる訳にはいかないと、おとなしくその証文を書く
「与五郎わび証文」も史実ではないようです。

さらに
討ち入り直前にこれまで散々迷惑をかけた兄に
弟・赤埴源蔵重賢(あかばねげんぞうしげたか)は
今生の別れを告げようと兄宅を訪れるも兄は留守、
義姉もどうせ金の無心にでも来たのだろうと
仮病をつかって出てこない。
やむなく源蔵は兄の羽織を下女に出してもらって、これを吊るし
兄に見立てて酒をつぎ
「それがし、今日まで兄上にご迷惑おかけしてきましたが、
 このたび遠国へ旅立つこととなりました。
 ぜひ兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、
 残念ながら叶いませんでした。これにてお別れ申し上げる

と、兄の羽織に涙を流しながら酒を酌み交わし、
帰って行く、という「赤埴源蔵、徳利(とっくり)の別れ」とか、
吉良邸絵図面を何とか手に入れるため、
岡野金右衛門は吉良上野介の本所屋敷の普請を請け負っていた
大工の棟梁の娘お艶と恋人になるが、
金右衛門はやがて本当にお艶に恋するようになり、
彼女から絵図面を手に入れたことに自責の念を感じ、
金右衛門は忠義と恋慕の間で苦しむ。
討ち入り後、泉岳寺へ向かう赤穂浪士を見守る人々の中に
涙を流しながら岡野を見送る大工の父娘がいた、
という「岡野金右衛門とお艶の悲恋」も
お涙頂戴の創作のようです。

また
藩主浅野長矩(ながのり)の刃傷事件後に開城恭順を主張して、
籠城・殉死・切腹を唱えた大石内蔵助一派と対立した
末席家老・大野九郎兵衛(くろべえ)は
公金の分配でも、大石は微禄の者に手厚く配分すべきとしたのに対して、
大野は石高に応じて配分すべきと主張し、
結果、大石の意見どおりに配分され、
大野は藩内で孤立し、公金を横領し逃亡した
不忠臣の代表格といわれていますが、
大野は逃げた訳ではなく、大石が万一失敗した時に備えた
第2陣の大将であり、米沢藩へ逃げ込むであろう吉良を待ちうけて
米沢藩(山形県)の板谷峠に潜伏していたものの
大石の討ち入りが成功したという報を聞き、
大野は歓喜してその場で自害したという「大野第2陣説」や
大高源五は子葉の俳号を持ち、俳人としても名高い赤穂浪士で
吉良邸に出入りする俳人宝井其角(たからいきかく)とも親交があり、
討ち入りの前夜、大高は煤払(すすはらい)竹売に変装して
吉良屋敷付近を探索しているときに、
両国橋で宝井其角と偶然出会う。
其角(そかく)は、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶した源五に対し
「年の瀬や 水の流れも 人の身も」
と発句し、大高はこれに
「あした待たるる この宝船」
と返し、仇討ちをほのめかすという
「大高源五と宝井其角の両国橋」の場面も
史実ではないようです。

また、
放蕩の限りを尽くして遊び呆ける大石内蔵助を
京都の一力茶屋で見つけると、
「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍めが!」
と罵倒し、ののしって大石の顔につばを吐きかけた
薩摩の剣客・村上喜剣は
大石が吉良上野介を討ったことを知ると
無礼な態度を恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹し、
大高源五の墓の隣にある「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた
小さい墓は村上喜剣のものであるという話や
勝田新左衛門の義父が
討ち入りメンバーを記した号外かわら版をひったくって
婿の名前を探す場面だとか、
さらに
大石内蔵助が討ち入り前日に
江戸南部坂(現在の港区)に住む
浅野内匠頭の未亡人・瑶泉院に会いに行き、
同士の連判状を届け、討ち入り決行を報告しようとするのですが、
吉良側の密偵を警戒し
「ある西国の大名に召抱えられることになりました。
 再びお目にかかることもかないません。
 東下りの旅日記を持参ました。」

と断腸の思いで偽りを伝え、仏壇に参ることを許されず
降りしきる雪の中で今生の想いを伝える大石、
夜中に内蔵助からの旅日記を盗む密偵、
それを捕え、旅日記を見るとそれは同士の血判状、
やがて入る討ち入りと本懐を遂げた知らせが入り、
大石の別れの意味を悟り短慮を悔いる瑶泉院…
この名場面も創作なのです。

討ち入りの午前4時ごろに
大石が太鼓を打ち鳴らした、というのは
「静かに潜入しようとしているのに太鼓なんか打ち鳴らすはずない」
と、私が真っ先に疑った場面ですが、
「街道歩き」
を見ると、
どうも本当にあったことのようですね。


史実とドラマは別ですが、
史実と違うことを十分理解しながらも、
そして結末を十分理解しながらも、
見て感動してしまいながら、
事件の真相というのが今ひとつ解からないというのも
忠臣蔵の面白さなのかもしれません。


江戸時代後期の儒学者で
日向国宮崎郡(現・宮崎県)出身の安井息軒(やすい・そっけん)は
元禄赤穂事件について
「赤穂浪士の一番偉かったことは、
 吉良邸討ち入りを果たしたあと、
 勝手に切腹したり自害したり逃亡したりせず、
 皆従容と幕府に出頭し、素直に法度の裁きを受け、
 その裁きに従って切腹したこと

と述べています。

赤穂藩取り潰しと吉良へのおとがめなしという幕府の判断に対し、
喧嘩両成敗の法度の無視へのレジスタンスとして、
赤穂浪士は吉良邸討ち入りを果たし本懐を遂げるのですが
それだけでは国法の無視であり、無法に過ぎなくない。
「無事に本懐を遂げたあと、国法に服したところが素直に偉い」
と言っているのですね。

一方、福沢諭吉は、「学問のすすめ」の中で、
赤穂浪士を酷評しています。

学問のすすめ111213.JPG
 新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)の「武士道」は
 三民(農工商)の上に立つサムライの精神として
 「上に立つ者の義務」すなわち、
 五常の徳(仁義礼智信)を基に
 「仁義・節義・忠義・信義・礼節」
 などに置き換え、さらには
 「廉恥(れんち)・潔白・勇気・名誉」
 などの徳を加えて三民の手本となるべき生き方を
 要求するなど、
 厳しい自己規律をもって
 不正や卑劣な行動を禁じ、
 いかに気高く生きるかを説いた行動の美学が
 「武士道」でしたが、
 これらは福沢諭吉の「独立自尊」と同じことで
 明治になって市民平等になり武士階級がなくなった
 近代社会で国民全員が持つべき価値観を
 具体的に説いた本が「学問のすすめ」で、
 決して強制的な「勉強をしろ」という押しつけの本ではないのです。
 なかなか読みやすい本ですよ。



以下は、青空文庫の「学問のすすめ」
赤穂事件についての記述をコピーしました。


 昔、徳川の時代に、浅野家の家来、主人の敵討ちとて
吉良上野介を殺したることあり。
世にこれを赤穂の義士と唱えり。
大なる間違いならずや。
この時日本の政府は徳川なり。
浅野内匠頭も吉良上野介も浅野家の家来もみな日本の国民にて、
政府の法に従いその保護を蒙(こうむ)るべしと約束したるものなり。
しかるに一朝の間違いにて上野介なる者内匠頭へ無礼を加えしに、
内匠頭これを政府に訴うることを知らず、
怒りに乗じて私に上野介を切らんとして
ついに双方の喧嘩となりしかば、
徳川政府の裁判にて内匠頭へ切腹を申しつけ、
上野介へは刑を加えず、この一条は実に不正なる裁判というべし。
浅野家の家来どもこの裁判を不正なりと思わば、
何がゆえにこれを政府へ訴えざるや。
四十七士の面々申し合わせて、
おのおのその筋により法に従いて政府に訴え出でなば、
もとより暴政府のことゆえ、最初はその訴訟を取り上げず、
あるいはその人を捕えてこれを殺すこともあるべしといえども、
たとい一人は殺さるるもこれを恐れず、また代わりて訴え出で、
したがって殺されしたがって訴え、四十七人の家来、
理を訴えて命を失い尽くすに至らば、
いかなる悪政府にてもついには必ずその理に伏し、
上野介へも刑を加えて裁判を正しゅうすることあるべし。
 かくありてこそはじめて真の義士とも称すべきはずなるに、
かつてこの理を知らず、身は国民の地位にいながら
国法の重きを顧みずしてみだりに上野介を殺したるは、
国民の職分を誤り、政府の権を犯して、
私に人の罪を裁決したるものと言うべし。
幸いにしてその時、徳川の政府にて
この乱暴人を刑に処したればこそ無事に治まりたれども、
もしもこれを免(ゆる)すことあらば、
吉良家の一族また敵討ちとて
赤穂の家来を殺すことは必定(ひつじょう)なり。
しかるときはこの家来の一族、
また敵討ちとて吉良の一族を攻むるならん。
敵討ちと敵討ちとにて、はてしもあらず、
ついに双方の一族朋友死し尽くるに至らざれば止まず。
いわゆる無政無法の世の中とはこのことなるべし。
私裁の国を害することかくのごとし。
謹(つつし)まざるべからざるなり。


要するに
「幕府の裁定が不満なら、幕府に異議を訴え出よ。
 それをせず無法に武力で復讐するとは何ごとか」

と言っているのですが、
同時に
「我々は腐敗した徳川政権を倒した、
 徳川とは違って我々は民主主義なんだ」

というエラソーな気ぐらいも感じられますね。
人それぞれ、いろいろな見かたがあって良いと思います。


播州赤穂浅野藩の家老・大石内蔵助ら
四十七人の旧赤穂藩の藩士達は、
主君・浅野内匠頭の仇を討つために
命懸けの討ち入りを敢行し
見事に本懐を遂げた“忠義”が
「誉れ高い」と語り継がれてきたのは、
江戸時代から明治維新を経て、
戦前昭和の日本人を貫く精神が
武士道と大和魂、忠孝の思想だったからです。
ところが大東亜戦争の敗戦を契機として
これら「日本的な価値観」は
マッカーサー司令官より軍国主義の鼓舞につながるとして、
すべて悪として切り捨てられてしまいました。
一時は柔道と剣道の禁止令までも出されていました。

ハワイの日系3世・藤 猛(ふじたけし)が
ボクシングの世界王座獲得後に
「岡山のおバアちゃん、見てる?」
「勝ってもかぶってもオシメよ(=勝っても兜の緒を締めよ)」
「ヤマトダマシイ!」
と、リング上で叫んでいたのを
私が小学校の高学年の頃に
父とテレビでいたのを想い出しましたが、
 ・大和魂
 ・武士道
 ・倫理観

そんな精神的風土が薄れつつある今の日本で
「忠臣蔵が若者層で今ひとつ人気がない」
というのも残念でなりません。

「大和魂」ではありませんが、
沖縄では個々にコーヒー栽培に取り組んできた諸先輩方がいます。

名護市の親川仁吉さんが、戦前
ブラジルからアラビカ種の苗木を持ち帰り、
自宅庭で栽培されたのが
沖縄コーヒー栽培のルーツとしては
今のところ最古になっていますが、
私はもちろん、残念ながらお会いしたことはないのですが、
和宇慶朝伝先生以降の先輩たちには
ご教授を受けてきました。

和宇慶先生は戦後ブラジル丸でブラジルに渡り
現地に移民された妹さんから
「ブルボン種のタネをもらい、苗木をふところに隠して持ち帰った」
と、直接伺いました。
ブラジル丸が移民船として使われたのは
1963〜1971年という
東京オリンピック(1964年)あたりから
大阪万博(1970年)あたりまでの
沖縄復帰前のことです。



和宇慶先生が延べ200人に行った
「コーヒー教室」
で、
ただ一人残ったのが恩納村の山城武徳先生です。
山城先生が約3千坪の農地で
コーヒー栽培をされている現場を拝見して
私はコーヒー栽培が行える安堵をし、
同時に決心をしたのです。
山城先生は沖縄復帰後の第一人者でした。

東村の足立弘志さんにもとても親身に親切にしていただきました。
和宇慶朝伝先生は2年前に104歳で大往生され、
山城武徳先生は昨年大腸ガンで(享年81歳)、
足立弘志さんも2年前の大みそかと、
相次いで戦後の沖縄コーヒーを代表する先輩方が亡くなっています。

先輩方は、行政の支援は一切無い孤立無援の状況下で
試行錯誤を繰り返しながら、最後に亡くなるまで
コーヒー栽培をやり通しました。
その教えや知恵、教訓から学んだことは多く貴重です。

先人の情熱、遺志を継ぎ、定着、大成させることが
先人たちに対する「忠義」だと私は受けとめています。


佐藤一斎先生が
後半生の四十余年にわたって書かれた
「言志四録」(言志録、言志後録、言志晩録、言志耋(てつ)録))
に、
「老人の一話一言は、皆活史なり」
があり、
「お年寄りの話や言葉は、その人の人生の体験史だ」
という意味ですが、
先人から貴重な知識や情報を得ることのできたのは
とてもありがたいことだと思っています。

また、
「赤子(せきし)の一啼一咲は、皆天籟(てんらい)なり。
 老人の一話一言は、皆活史なり」

とも書かれています。

「赤ん坊の泣き声、笑い声は皆、
 無邪気で偽りのない自然のもたらす素晴しい音楽である。
 老人の話や言葉は、すべて経験を物語る活きた歴史である。」

という意味ですが、
これは壺中有天(こちゅうてんあり)の“天”の境地でとらえた考え方ですから、
もう少し深く解釈すると、
「天籟(てんらい)」は、天地自然の音ということなので、
「人間が自然と一体化する」
ということだと思います。
ということは、
自然のままにありのままに生きる。
泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑って、
自分の心をごまかさない。
雨が降る時には雨が降り、風が吹く時は風が吹き、
雪になるときは雪になる。
人の力でそれらを止めようなどということは、やめた方が良い。
天地と一体となって生きてゆく事が、
正しい人間の生き方ではないか、
といっているように思えます。


南宋の儒学者朱熹(しゅき、朱子)の
「宋名臣言行録(そうめいしんげんこうろく)」
は、
北宋の名臣97人の言行録が編纂した書物ですが、
この中に、
「智猶水也、不流則腐」
(智はなお水のごときなり、流れざれば則ち腐る)
があり、
「知恵は水のようなものである。
 工夫して知恵を働かさなければ腐ってしまう。」

という意味で、
先人たちの教えや教訓を土台にして、
さらに試行錯誤して、
探究していかなければない責務を担っているのだと覚悟しています。



『てぃんさぐぬ花』の歌詞     
(1)
  てぃんさぐぬ花や            ホウセンカの花は
  爪先(チミサチ)に染(ス)みてぃ     爪先に染めなさい。
  親(ウヤ)ぬゆし事(グトゥ)や      親の言うことは、
  肝(チム)に染(ス)みり         心に染めなさい。

(2)
  天(ティン)ぬ群り星(ムリブシ)や   天の群星は
  読(ユ)みば読(ユ)まりしが      数えようと思えば数えきれるけど、
  親(ウヤ)ぬゆし言(グトゥ)や     親の言うことは、
  読(ユ)みやならん           数えられない。

(3)
  夜(ユル)走(ハ)らす舟(フニ)や       夜、沖に出る舟は
  子(ニ)ぬ方星(ファブシ)見当(ミア)てぃ   北極星が目当て、
  我(ワ)ん生(ナ)ちぇる親(ウヤ)や      私を産んでくれた親は
  我(ワ)んどぅ見当(ミア)てぃ         私が目当て。

(4)
  宝玉(タカラダマ)やてぃん       宝石も
  磨(ミガ)かにば錆(サビ)す       磨かなくては錆びてしまう
  朝夕(アサユ)肝(チム)みがち     朝晩心を磨いて、
  浮世(ウチユ)渡(ワタ)ら       世の中を生きていこう。

(5)
  なしば何事(ナングトゥ)ん     誠実に生きる人は
  ないる事(クトゥ)やしが      後はいついつまでも、
  なさん故(ユイ)からどぅ      願いごともすべて叶い
  ならぬ定(サダ)み         永遠に栄えるのです。

(6)
戦する意味に 意味を重ねても
渡す命のかずには 何の意味があるの


このYoutubeでは上記(6)の歌詞になって曲が終わっています。
大東亜戦争の末期、本土決戦の時間稼ぎのために、
沖縄が「捨て石」にされた沖縄戦で、
死者行方不明者の半数(約9万4千人)が民間人であり、
戦争を憂いたオリジナルな歌詞にしていますが、
ふつうは(6)は下記のように歌い、
(7)以下は順番が違ったり、カットされたり
歌詞を変えたりといろいろです。

(6)
誠(マクトゥ)する人(ヒトゥ)や       成せば何事も
後(アトゥ)や何時(イチ)迄(マディ)ん   成ることであるが、
思事(ウムクトゥ)ん叶(カナ)てぃ      成さぬ故に
千代(チユ)ぬ栄(サカ)い          成らないのだ。

(7)
行(イ)ち足(タ)らん事(クトゥ)や     行き届かないことは
一人(チュイ)足(タ)れい足(ダ)れい     一人一人が足しあいなさい。
互(タゲ)に補(ウジナ)てぃどぅ        お互いに補い合ってこそ
年(トゥシ)や寄(ユ)ゆる           年は取っていくものだ。

(8)
あてぃん喜ぶな        いくら金や物があっても喜ぶな。
失なてぃん泣くな       また、失ったからといって嘆き悲しむな。
人のよしあしや        人間の善し悪し、人の評価というものは
後ど知ゆる          最後になってわかるものだ。

(9)
  栄てぃゆく中に     栄えていくなかにも
  慎しまななゆみ     謙虚でなくてはいけない。
  ゆかるほど稲や     稲も実るほどに
  あぶし枕ぃ       あぜ道を枕にして、腰を低くするではないか。

(10)
  朝夕寄せ言や        お年寄りの朝夕の教訓は、
  他所の上も見ちょてぃ    世間の例を見て素直に耳を傾けるがよい。
  老いのい言葉の       老いの繰り言などと
  余りと思な         思うのではない。


「てぃんさぐぬ花」
は、
沖縄の代表的な民謡、
ホウセンカ(鳳仙花)は
爪紅(ツマクレナイ)、爪紅(ツマベニ)の別名があるように
赤い花は昔、
マニキュアのように爪を染めるのに使ったようです。
触れるとはじける果実が目を引くホウセンカは
花言葉「私に触れないで」もそれに由来するようです。
韓国でも、爪にホウセンカの汁を塗り、
初雪まで色が残っていたら恋が実ると言う伝承があるらしいのですが、
単に
「男女の掛け合いで、恋の歌」
というより、
先人の教えを歌った教訓歌で
世の中の教えを説いた、いわゆる格言を歌にしたもので、
それが黄金言葉(くがにくとぅば)として歌い継がれているのです。
posted by COFFEE CHERRY at 21:32| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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