2012年01月22日

戦前の沖縄ハワイ移民−2

明日1月23日は旧暦の1月1日ですから
我が家の近隣の家でも正月料理などの準備をされているようで、
先ほど私も少し戴きました。

沖縄からのハワイ移民の新聞記事を書き出す前に
「なぜ移民することに至ったのか?」
「どういう社会情勢だったのか?」
ということを知っておきたくて、
年末年始に改めて何冊も幕末の本を読み返しましたが、
ペリー提督の来航から社会的背景も関係してくるのです。
おそらくいつもの通りダラダラと長くなりそうな予感がするので、
面倒な方は次回に飛ばして下さい。


コロンブスの新大陸発見以降、
西欧列強は発展途上の大陸を征服して植民地を開拓・拡大し
そこから富を得ることで資本主義を発展させてきたのですが、
西欧列強の勢力がトルコ、インド、中国と徐々にアジア大陸を東に向かい、
いよいよ日本に本格的に本気で乗り込んできたのが1853年(嘉永6年)、
アメリカ海軍提督ペリーの来航です。

この時期は、
凋落一途の清とイギリス間のアヘン戦争終結10年後、
清国内の清国軍と太平天国軍による
大規模な内乱(太平天国の乱)が始まった2年後のことで、
ペリー提督の来航によって「幕末」が始まります。
15代265年間の徳川幕府が崩壊して
明治維新によって新政府が成立する激動の時代です。

徳川時代の外交政策というと、“鎖国”が浮かびますが、
実際には、中国、朝鮮、オランダとは貿易を行い使節の来訪もありました。
インドや中国が列強イギリスなどから、どんなひどい目に遭っているか、
武士階級を中心とする日本の識者たちは、
長崎にやってくるオランダ人や中国人からの情報で逐次知っていました。
そればかりか徳川幕府の為政者たちは、
アメリカのペリー提督が日本にやってくることも、
オランダ人からの情報で事前に情報を入手していたのです。

ペリー提督が来航する50年以上前の18世紀末頃から、
徳川幕府に貿易を要求するロシア船が度々来航していました。
1792年にはエカチェリーナ2世がラクスマンを根室に派遣、
1804年にはレザノフが長崎に来航し、交易を求めて拒否されています。
19世紀に入ると、イギリスの捕鯨船の乗員が燃料や水を求めて
鹿児島や茨城に上陸したりする事件が起きたり、
1837年には日本人漂流者を乗せたアメリカ船を
日本側が砲撃して追い払うというモリソン号事件もありました。

当初、幕府は長崎以外の場所に近づく外国船は
砲撃して追い払うという強気な方針をとっていましたが、
アヘン戦争によって西欧列強による植民地化の脅威を
幕府が目の当たりにしてからは、
燃料不足、食糧不足で困っている外国船には
適時便宜を与えてお引き取り願うという柔軟姿勢に方向転換します。
2年前の尖閣諸島中国漁船衝突事件の顛末のような
軟弱姿勢と同じようなもので、要するに内弁慶政権というわけです。

しかし、幕府の鎖国の方針は変えません。
1844年、オランダ国王は世界情勢を説き
幕府にいいかげん鎖国をやめるよう忠告する国書を送るのですが、
プライド高い幕府はこれを無視してしまうのです。

こういう流れの中でやって来たのがペリー提督でした。
ペリーの目的は日本を開国させることです。
開国させたかった主な理由は、次の2点です。
・日本をアメリカの捕鯨船の補給基地として利用したい。
 当時、アメリカは北太平洋で捕鯨を盛んに行い、
 ハワイ国も補給基地として利用していました。
 捕鯨の目的は鯨油で石油が使われる前は
 鯨油が燃料として利用されていたからです。
 19世紀半ばごろはアメリカ籍捕鯨船だけでも
 約700隻あったといわれています。
・蒸気船でアメリカから中国へ直行するための
 貿易航路の寄港補給基地として日本を利用したい。

 すでに、蒸気船が遠洋航海に利用されていましたが、
 当時はまだ太平洋横断に必要な石炭を
 蒸気船に積むことが出来ませんでした。

徳川幕府が鎖国をしているために、
ペリー提督の日本来航は太平洋横断ルートではなく、
ひどく遠回りの東ルートでした。
ペリーはアメリカ東海岸のノーフォーク港を出発して、
大西洋を横断後、アフリカ南端の喜望峰を回って
インド洋、香港、上海、琉球を経由して
はるばる日本にやって来たのです。
ペリー提督がアメリカを発ったのが1852年11月24日、
浦賀沖到着が53年6月3日ですから、
日本到着まで約半年もかかっています。

半年もかけて日本に開国を要求しに行く以上、
鎖国だからダメですといわれて「ハイそうですか」と
簡単に引き下がるつもりは毛頭なく、
「ガキの使いやあらへん」
という、交渉を絶対に成功させるべく
事前に日本について研究し対策を練っていたわけです。
オランダ人の著作など、日本に関する研究書を
40冊以上を読破したといわれています。
ドイツの医師・博物学者シーベルトが
最初の日本滞在中に
日本の生物・民族・地理・気候に関する情報を集め、
ドイツ帰国後に『日本』を執筆しています。
この本は日本研究の書として
欧米の知識人や軍人たちが愛読したようですが、
1853年に浦賀にペリーが来航したときも、
この『日本』を携えていたといわれます。

かつて、長崎に行って開国を要求しても、
江戸からの回答が来るのをさんざんじらされて待たされたあげくに
鎖国の国是を理由に拒否されている先例もペリーは熟知していました。
日本研究の結果、ペリーが出した結論は
「日本人は礼儀正しいが、武力が劣り権威に弱いので脅すに限る」
ということに至り、
江戸から遠く離れた長崎ではなく、
意識的に江戸湾の入り口にあたる浦賀に堂々と現れ、
わざわざ大砲で脅したのです。

オランダからの情報で、
ペリー提督が日本にやってくることは幕府は事前に知っていたものの、
長崎ではなく浦賀沖に現れてしまったことや、
1隻ではなく4隻の艦隊で、
しかもペリー提督が乗っている旗艦サスケハナ号とミシシッピ号の2隻は、
当時世界でもまだ珍しい蒸気船で、
木造船ですが船体に鉄板が貼ってあり、その大きさも世界最大級、
つまり世界最新鋭の軍艦2隻が突如として目の前に現れたわけです。
他の2隻も防腐のため黒く塗装されていたため、
日本人は“黒船”と呼びました。
黒色から連想するイメージは
 ・恐怖
 ・絶望
 ・暗闇
 ・神秘
 ・不安
 ・不気味
 ・威厳
 ・冷酷
 ・悪

という心理がありますから
ふだんサンマやアジ、カツオなどを釣る漁師が
初めてクジラを見た衝撃や
黒漆五枚胴具足(黒い鎧)を着用した伊達正宗公や
スターウォーズのダースベイダーが表れた不気味さのようなもので
当時の人々は幕府も含めて驚異的に威圧されたはずです。

ペリー提督の読みはBingoで、幕府は大混乱に陥りました。
幕府は開国を要求するアメリカ大統領の親書を受け取ったものの、
即時の回答はせず、熟慮をする時間稼ぎをすることにして
ペリー提督に翌年の回答を約束してお引き取りを願いました。
ペリーは西回りでアメリカに帰国すると
帰るだけで半年もかかりますし、
交渉を成立させて帰国する覚悟で日本にやって来ていますから
ペリーはアメリカへは帰らず、上海で半年間待機して、
再び1954年1月浦賀に姿を現してしまうのです。
このときには、遅れてやって来た船を加えて
合計7隻の大艦隊になっていました。

この期に及んで、幕府は拒否は出来ず
ついに開国に踏み切ることを決意します。
横浜に上陸したペリー提督と交わしたのが日米和親条約で
下田、函館の二港の開港と、そこに領事の駐在、
アメリカに対する最恵国待遇の付与などがその内容となっていました。

上海には西欧列強各国の艦隊が寄港していますから、
ここでペリー提督が日本を開国させた情報は
列強にすぐに知れ渡りました。
同年、イギリス艦隊やロシア軍艦も長崎に来航し
もはや鎖国を理由に断ることが出来ない幕府は、
同様の条約をイギリス、ロシア、オランダと結んでしまうのです。

日米和親条約は、単に日本の開国を決めただけの内容で、
貿易に関する規定はありません。
このため、日米和親条約に基づいて来日した
アメリカ総領事ハリスと幕府の間で貿易に関する条約交渉がはじまり、
1858年に日米修好通商条約が結ばれたのです。
これは、日本の関税自主権が無く、
アメリカの領事裁判権を認めるという不平等条約でした。
この後、幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも
同様の条約を結びました。

ペリー提督の来航から、日米修好通商条約を結ぶまで、
それまで独裁政治を行ってきた内弁慶の幕府は自信を失い、
朝廷に経過報告をしたり、条約調印の許可を求めたり、
はては諸大名に意見を聞くようになりました。
幕府の外交政策に対するこのような情けない自信のなさは、
それまで幕府を恐れて政治的意見を控えていた諸大名、
特に関ヶ原の西軍で外様に追いやられた藩や
一般の武士階級を爆発的に意識改革させてしまいました。
また、幕府の権威の低下にともない、
朝廷の権威が急上昇することになりました。

外交問題に対して世論は大混乱し、
「幕府の弱腰を非難し、鎖国を守りつつ、外国勢力を撃退せよ」
という考え方が主流になってきます。
軟弱で弱気な幕府はもはやアテに出来ない、
 朝廷を押し立てて外国人を追い払おう」

という
「尊皇攘夷」論が急速に広まっていきました。

軟弱だと言われても、幕府からすれば、
強大な軍事力を持つ欧米列強各国を相手に
とても強気に拒絶できるものではありません。
もしペリー艦隊が江戸湾に進入し砲弾を撃ち込めば、
江戸の町は壊滅するでしょうし、(強大と思われていた)清国でさえ、
アヘン戦争でイギリス軍に簡単に敗れ、
その後の第二次アヘン戦争(アロー戦争)でも清は劣勢でしたから
幕府の大老井伊直弼は
「条約を拒否して戦争になり、もし日本が敗れれば、領土を割かれ、
 多額の賠償金を支払い、国辱を受けることになる。
 実害のない方を選択するのは止むを得ない」

という判断で、
日米修好通商条約を結び開国近代化を断行し
国内の反対勢力を粛清しました(安政の大獄)が、
幕府は列強との戦争は中国の二の舞になるだけで、
植民地化されることを恐れていたのです。

 この後、尊皇攘夷運動は討幕運動へと展開し、
政権担当能力を無くした徳川幕府を倒し
世界情勢に対応出来うる新政府樹立を目指します。
下級武士層が、尊皇攘夷運動で世の中を揺り動かし、
その運動をうまくすくい取った薩摩藩、長州藩が中心となって
幕府を倒すことに成功し1868年の明治維新に至るわけです。


さて、ここでペリー提督によって開国され
1854年に締結された日米和親条約に続き、
1858年(安政5年)に日米修好通商条約が締結された頃に戻りましょう。
日米修好通商条約を国家として正式にその条約に拘束されることへの
同意書「批准書(ひじゅんしょ)」の交換はワシントンで行うとされたために
翌1859年(安政6年)に
「万延元年遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)」
という開国後の最初の公式使節団77人がアメリカに派遣されます。

幕府の御一行様は米国海軍のポーハタン号で
太平洋を横断し渡米することになるのですが、
万一の事故などのために護衛名目で咸臨丸を渡航させることになり、
こちらには軍艦操練所教授の勝海舟を始めとする
海軍伝習所出身者たちや福沢諭吉、
通訳にアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)といった
有名な幕末明治期の偉人たちが乗船していました。

サンフランシスコに向け咸臨丸が品川港を出帆して
3日後にポーハタン号が出港しますが、
2隻とも悪天候続きで嵐にも遭遇しながら
咸臨丸が先にサンフランシスコに到着したのに、
御一行様の本隊はマストが折れ、石炭も使いすぎたために
補給のためにホノルルに寄港することになったのです。

幕府の遣米使節団はカメハメハ4世に謁見し、
王から労働者供給を請願する親書を信託しますが、
日本は明治維新へと向かう幕末の混迷期にあり、
使節団帰国後もハワイに積極的な協力姿勢が打ち出せず
先送りされていました。

当時のハワイ王国は、急増するアメリカ系移民から
政治的、経済的に多くの圧力を受けるようになったことで
アメリカがハワイを征服するのではないかという恐れから
通商・貿易におけるアメリカへの依存度を低めるよう努め、
また西欧列強との取引を模索していた時期でした。

カメハメハ4世は遣米使節団御一行様と謁見して
3年後の1863年(文久3年)、
新撰組筆頭局長芹沢鴨らが
敵対する近藤勇、土方歳三のグループに暗殺された年ですが、
4世は気管支喘息のため29歳で逝去し、
弟が後継するのですが、カメハメハ5世は、
幕府からの返事が届かないことにじれていた兄の遺志を継ぎ、
徳川慶喜が朝廷に大政奉還した1867年(慶応3年)に
在日ハワイ領事として横浜に滞在していたヴァン・リードに
日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示し、
幕府から出稼ぎ労働者300人分の渡航印章の下附が受けられますが
その後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、
明治新政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、
徳川幕府との交渉内容を全て無効化してしまうのです。

それでも、すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、
1868年(明治元年)、サイオト号で153名の日本人を
無許可で横浜港からホノルルへ送り出してしまうのです。
こうして送られた初の日本人出稼ぎ労働者が
「元年者」
と呼ばれているわけで、
“移民”とは違うのです。


だいぶ長くなってしまいましたので、
今日はここまでにして、続きは次回に。
posted by COFFEE CHERRY at 18:04| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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