2012年02月10日

戦前の沖縄ハワイ移民−5

久々なので、今日は官約移民が廃止されるまでになりそうです。


1894年(明治27年)5月1日、
韓国の全羅道(ぜんらどう)というところで
農民たちの反乱が起こり、東学党の乱に発展します。
東学とは、韓国で起こった宗教団体で、
西洋のキリスト教を西学と呼び、
これと対極的に、東洋人であることを意識して、
その教えを“東学”と呼んだのです。
東学党とは、これを結成した農民たちの心の支えになっていました。

東学党の乱は、しだいに広がりを見せ、
当時の韓国の皇帝である高宗(こうそう)は、
反乱が韓国全土に及ぶのを恐れ、
隣国である清国に軍隊の要請をし、
清の袁世凱(えんせいがい)は出兵を約束します。

当時、清国と日本は協調関係にあり、
清国がどこかに派兵する時は、
日本にも事前に知らせるという条約があり、
袁世凱は、韓国派兵を日本に知らせました。

当時の明治政府の首相は、
長州藩の足軽から立身出世した伊藤博文でした。
当時の内閣は、その年の3月に行われた総選挙(衆議院)で
伊藤の与党が野党に第一党を奪われ、身動きできない状態にあり、
総辞職か内閣解散かに追い込まれていました。

そういう苦しい状況下での清国軍の派兵の知らせは朗報となりました。
国内がもめている時は、国民や政治家の関心を国外に向けるというのは
昔から政治の常とう手段です。
現在の中国の反日もまったく同様です。
「朝鮮半島は日本の生命線であり、
絶対に清国やロシアの支配下に置いてはならない」

という外務大臣・陸奥(むつ)宗光と、
「清国と戦争をしても日本に充分勝算がある」
という陸軍大将・川上操六の韓国出兵策を取り入れ、
伊藤内閣は、「日本も東学党の乱を鎮圧させる」という名目で
韓国に7千人を出兵することにしたのです。

陸奥の真意は
「朝鮮半島の中立化、つまり韓国に主体的な政権があればよい」
という考えだったらしいのですが、
日本と清国が韓国に派兵した頃は、
東学党の勢いが衰えて
反乱軍と韓国政府の和解が成立してしまっていました。
つまり日本と清国の出兵は無意味なものになってしまったのです。

それでも日本軍の出兵は継続され、
このままでは日本が韓国を支配下に置くのではないかと警戒した韓国だけでなく、
イギリス、フランス、ロシアなど列強も強い警戒感を抱きます。
全権大使として韓国に駐留していた大鳥圭介は、陸奥外相に
「至急撤退の必要あり」
と打電しますが、
陸奥外相は
「撤退せず、外交上多少の紛争があっても滞陣せよ」
と命じます。

東学党の反乱鎮圧の名目はすでに使えないので、
滞陣が必要な理由として
「日清両国の軍隊が協力して内乱を鎮圧すること」
「内乱を抑えたうえで、韓国の内政を改革し、財政を健全化させること」
「官僚組織を改善させること」
といった、へ理屈をこねて
清国に、
「日本と共同で韓国の改善をしよう」
と提案したのですが、
清国は、
「清日両軍の速やかなる撤退が先決」
「韓国の内政は韓国自身に任せるべき」
という正論を主張しながら、
実は
「日本軍が撤退したら、韓国とのつながりは圧倒的に清の方が強く優位に立てる」
「小国日本が清に戦争を仕掛けられるはずはない」
という目算があったことを陸奥外相は見抜いていたのです。

当時の清は、海軍力が弱く、
早急に戦艦3隻つくる予算を計上していたのですが、
悪名高い西太后が、広大な別荘や湖のような池を持つ庭園改修に使い込んでしまい、
海軍力は弱いままだったことを、陸奥外相は熟知していました。

日本は韓国の高宗に
「清国がやらないなら、日本が単独で韓国の内政改革を行いたい」
と提案しますが、
高宗からすれば、日本より清国を信頼しているのですから、
日本の提案など受け入れるわけがありません。
そこで、日本側は高宗と、高宗の実父・大院君(たいいんくん)との不仲を利用し
権力の座を奪われ隠居させられていながら権力の座に返り咲きたい大院君に
「日本は韓国を支配下に置くことはなく、独立国同士としての関係を保つ」
といって納得させ、
高宗と王妃・閔妃(びんひ)のソウルの王宮を攻撃し、
大院君を権力の座に就かせ
「清国軍を追い払うために日本軍に依頼する」
と言わせて、
日本は清国と戦う大義名分を作り上げてしまったのです。

当時の先進国は
「途上国を侵略し、植民地にする」
というのが常識でしたから、
開国間がなく、世界から遅れを取り、
一人前の国として扱われていない日本にとっては
列強に植民地にされるか、日本がどこかに植民地を作るか、
という選択肢しかなかったのです。
かといって当時の日本が途上国を攻めて植民地に出来るはずもなく、
韓国を親日政権にして日本を守ることで精一杯だったのだと思います。

そうして日清戦争が起こった1894年(明治27年)、
1885(明治18)年以降9年間、26回、約2万9千人を
横浜港から送り出した官約移民は廃止されました。

日清戦争勃発の経緯を冒頭で長々と書いたのは、
官約移民が廃止された年のイメージを印象付けたかったからです。

なぜ官約移民が廃止されたのかというと、
ハワイ革命で王国が共和国化して
米国系白人がハワイの主導権を握ってしまい、
それまでの王国政府との信頼関係で移民を送り出してきたのに
ハワイのアメリカの属領化で、
日系移民は渡航条約という保護を失い、
アメリカの移民法が適用されることになり官約移民は中止せざるを得なくなり、
移民事業は明治政府の手から離れ、
政府に代わって移民事業会社が
1894年(明治27年)から続々と設立されていくことになるのです。

スーパーで売られている“Dole”のバナナが
フィリピンのミンダナオ島で栽培されていることや
ホノルルから約30分のドール・パイナップルプランテーションは、
Dole Food Company, Inc.
というアメリカ合衆国の多国籍農業・食品企業ということは
誰でも知っていることですが、
この巨大企業の創業者の従兄サンフォード・ドールは
1887年(明治20年)43歳の頃、
ハワイ在住のアメリカ白人系経済人、政治家、
サトウキビ農場主などの富裕層で結成された政治組織
「ハワイ連盟」の武装蜂起に参加し、
白人市民たちで組織される準軍隊組織
「ホノルル・ライフル連隊」の後ろ盾を得て、
白人至上主義によるハワイ統治をもくろみ、
カラカウア王(7世)に退位もしくは王政自体の廃止と
アメリカ合衆国への併合を求めたのです。
王は当然拒否しましたが、武力で威嚇して
「銃剣憲法」と呼ばれる新憲法にサインさせられてしまうのです。

この新憲法はアジア系移民や貧しいハワイアンから投票権がはく奪され
ハワイ人エリートや富裕な欧米系移民の政治力が劇的に強まり
ハワイ王室が有名無実化してしまい、
白人農場主たちを中心とする共和派が王国の実権を手中に収めてしまいました。

サンフォード・ドールはカラカウア王より
ハワイ王国最高裁判所の判事に任命され、
失意の王はアルコール依存症になり
静養のためにサンフランシスコに向かう途上で風邪をこじらせ
亡くなってしまい(享年55歳)、
妹のリリウオカラニが53歳で王位を後継し、
サンフォード・ドールは、女王の法律顧問に就任してしまうのです。
まるで遠山の金さんや大岡越前に登場する悪徳商人のようですね。

悪徳商人や悪徳家臣に周りを固められた
リリウオカラニ女王は毅然として共和派と対立し、
王権を取り戻す新憲法を起案するなど王国政治は混乱するのですが、
米国大使が海兵隊に出動を要請し、イオラニ宮殿を包囲させて
サンフォード・ドールらの共和派が政庁舎を占拠し、
王政廃止と臨時政府樹立を宣言してしまい(ハワイ革命)、
なんとドールが、臨時政府の大統領に就任してしまうのです。
なんだか今の日本の卑しい為政者たちのようで
正義が勝つとは限らないわけでイヤですね。

ドールの臨時政府は米国への併合を求めてハワイ共和国を樹立してしまい
王政復古の運動はあったものの、その都度武力で鎮圧され、
リリウオカラニは女王廃位の署名を強制されて
ハワイ王国は滅亡してしまったのです。
琉球国が琉球藩になり沖縄県に至る琉球処分のようなものです。

サンフォード・ドールは白人プロテスタント宣教師の子供として、
ホノルルに生まれているのですが、
キリスト教の信者の方には申し訳ないのですが
宣教師は途上国の征服のために送り込まれた
KGBやCIAに思えるように感じる時があります。
ハワイ王国を滅亡させ私物化したドールは
「宣教師は敵情視察の尖兵として送り込まれ、
 信者と情報を集めた後に軍隊を送って征服し、
 ついには植民地化するという政策だ」

として、
「伴天連(ばてれん)追放令」
を出した豊臣秀吉に賛成票を投じたくなります。

なぜ在ハワイの白人富裕層たちが
白人至上主義によるハワイ統治をもくろんで
カラカウア王(7世)に退位もしくは王政自体の廃止と
アメリカ合衆国への併合を求めて
「ハワイ連盟」という政治組織を武装蜂起したのかというと、
南北戦争後、全米規模で産業化の時代を迎えたアメリカでは、
企業の巨大化にともなう富の集中が起こり
その結果として19世紀末にアメリカ史上未曾有の恐慌が起こっていたのです。
多くの企業や銀行が倒産して、街には失業者があふれ、
失業率は20%に上ったといわれていますから、
実に労働人口の5人に1人が失業していたことになります。
米国南部でも綿や麦の価格が暴落し、西部の銀鉱山の多数は閉まり、
アジア系移民よりも、世界中で一番優れていると思い込んでいる一部の白人たちが
自分たちの保守を目指そうとしていた殺伐とした時代だったのです。

後のハワイのパイナップル王ジェームズ・ドールは
サンフォード・ドールの従弟に当たり、やはり宣教師の息子ですが、
マサチューセッツからサンフォードを追ってハワイに移住してくるのです。

1898年(明治31年)には米国にハワイ編入が宣言され、
ハワイ王国の国旗が降ろされ、星条旗が掲揚されてしまうのですが、
1900年(明治33年)の「ハワイ基本法」で準州になると
ジェームズ・ドールは準州知事に就任してしまい、
ハワイは、ジェームズ・ドールを代表とする、
サトウキビ農園主を中心とした富裕層に支配されてしまいました。

1901年(明治34年)ジェームズ・ドールがオアフ島に
ハワイアン・パイナップル社を設立し、
オアフ島の60エーカーの土地(約24ha、東京ディズニーシーの約半分の面積)に
にパイナップル を栽培し、パイナップル王となって、
現在の多国籍大企業に躍進していくわけです。
要するにハワイを食いものにして成り上がったわけです。


そういう欧米の大不況時代の中で
ハワイ王国が滅亡したことが官約移民中止の理由ですが、
もう一つ理由があるのです。
官約移民制度の具体的な交渉は、
アーウィン在日ハワイ総領事に一任されていたことで、
彼が、遠山の金さんや大岡越前に登場する
悪徳商人のように変ぼうしてしまったことも、
理由の一つなのです。
利権が思うがままになれば、そうなるのも世間では良くあることです。

アーウィンは外務卿・井上馨と親交があり、
移民は日本政府の支援策という安心感もあって、
財閥化する三井物産会社が
日本各地から大勢の出稼ぎ労働者を集めましたが、
アーウィンは契約移民者からだけでなく、
移民受け入れ先のサトウキビプランテーション経営者からも
法外な仲介手数料を徴収し、莫大な稼ぎを得ていたのですが、
守銭奴はどこまでも貪欲なようで
アーウィンの仲介料がこじれて、
ついに官約移民制度は廃止されてしまったのです。


どうも文面が長くなり、読みづらいと思いますが、
次回には新聞記事が書けるはずです。
posted by COFFEE CHERRY at 19:40| 沖縄 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | ハワイのコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いや、面白かったです。
教科書に載せたいね。
Posted by ボーンチャイナ at 2012年02月15日 18:22
ボーンチャイナさん、コメントをいただき、
また比嘉さんの卵を買っていただき、
ありがとうございました。
比嘉さんは
「電話で30分以上話をしたが、優秀な方で驚いた」
と喜んでいましたよ。
Posted by 岡田 康子 at 2012年02月16日 14:08
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