2012年05月09日

和宇慶朝伝先生にコーヒー栽培を教えた方がいた

戦後の沖縄でのコーヒー栽培は、
具志川市(現・うるま市、1968年6月までは中城郡具志川村)の
兼箇段(かねかだん)のご自宅の庭約500坪で
和宇慶(わうけ)朝伝先生が始めたのが最初で、
恩納村の山城武徳先生が後継したと私は思い込んでいたのですが、
最近、和宇慶先生にコーヒー栽培を教えた方がいたことを知り、
現在それを調べ始めました。

なにしろ、もう50年くらいも昔のことなので、
その経緯を知っている方々がいたとしても高齢になっているために、
どこまで解明されるかは判りませんが、
時間がかかってもいいので、
出来る限り情報を集めてみようと思っています。

バナナ園のコーヒー20120506.JPG
 我が家のバナナ園は海から直線距離で約1kmなので
 塩害のあるエリアですが、
 苗木定植3年目を迎え、順調に生育しています。
 昨年初めて開花したのですが、3度の台風で実を落としてしまいました。
 今年も開花、結実していますが、
 昨秋から補強した防風対策で、どの程度守られるのかが課題です。



今年の3月に、
親しくさせていただいている方の奥様が
クモ膜下出血で突然亡くなられました。
名前はシズさんといい、享年73歳でした。

シズさんが中部農林高校の生徒だったころの恩師が
和宇慶先生にコーヒー栽培を教えたというのです。

その話は、シズさんが亡くなられてから
ご主人から最近になって初めて聞きましたので、
シズさんに生前、直接お話を伺えなかったのが悔やまれます。

故人を偲(しの)び、和宇慶先生がコーヒー栽培を、
おそらく教わったと思われる時代を、今日は懐古してみたいと思います。

再生中のコーヒー苗木20120506.JPG
 コーヒー山をお借りするまでに
 ケンガイ鉢で栽培中のコーヒー苗木が成長してしまい、
 根が鉢の中でグルグル巻きになってしまった苗木は
 一部を自宅でリハビリ再生させています。
 画像の苗木は台所の前に置いてあります。
 一時は苦しがって葉を全部落としていたのですが、
 2年かかって再生してきました。
 白い花を咲かせ始めました。
 コーヒーはデリケートな植物ですが、強い部分もあります。



沖縄は、薩摩や明治以降の日本政府やアメリカに翻弄され現在に至っていますが、
明治以降でも不平等と貧困の歴史から、
沖縄は海外移民が早くから行われてきました。

海外移民といっても、永住目的ではなく、
3年契約の期限付き出稼ぎ労働が基本で、
契約終了後に帰沖した方々もいれば、
そのままハワイなどの現地に残ったり、
あるいは親族を呼び寄せたりしていますから、
明治後期以降、太平洋戦争の時期を除くと
移民先の親族との交流があったことで、
沖縄はコーヒーも含めていろいろな熱帯植物が入る環境にありました。

オランダが東インド会社を設立したのが1602年、
インド南西部のマラバル海岸から、
オランダ領東インド諸島(インドネシア)のジャワ島に
コーヒー苗木が海路運ばれたのが1696年ですが、
(この時は地震と洪水で失敗し、1699年に2回目を搬送して栽培に成功し
 オランダ領東インド諸島のすべてのアラビカ種コーヒーノキの先祖となる)
江戸幕府は鎖国中もオランダと清とは長崎出島で交易をして、
那覇は貿易船が寄港する国際貿易港でしたから、
江戸時代にもジャワ方面からコーヒーのタネが入手したことだって
あったのかもしれません。


歴史的に、あちこちからコーヒー苗木やタネの入手の可能性があるために、
私が本島で確認できていない品種が、
沖縄のどこかでまだ栽培されている可能性は否定できないどころか
大いにその可能性がありそうです。

私が確認できているのは、
品種が判明しているのが4種類、品種不明のが3種類ありますから、
実態はもっと多いはずです。

ヤンバルクイナ20120506.JPG
 国の天然記念物ヤンバルクイナです。
 綺麗な模様があるのでオスです。
 4〜7月はヒナが孵(かえ)る時期なので
 メスは巣を守っているのか、ほとんど見かけません。
 画像は我が家の前の軽トラックの横で撮影しました。
 もう保護は必要無いと思うくらいよく見かけますが、
 数秒で草むらに入り込むので、なかなか撮影は出来ません。



1945年(昭和20年)に終戦になりましたが、
当時はシズさんは6歳でした。
参考までに和宇慶先生は40歳、山城先生は16歳でした。
名桜大学理事長の嘉数先生から
「古稀になり退職し、理事長職を後進に委ねる」
旨のメールを先日戴きましたが、
嘉数先生は当時3歳だったのですね。

沖縄戦では昭和20年3月の国民勤労動員令公布で
沖縄県の15歳から45歳までの男女が根こそぎ動員され
(実際には15歳未満の子供から65歳以上の高齢者まで徴兵された)
日本軍の指揮下にありましたから、
和宇慶先生の40歳は年齢的に部隊に入隊させられていたはずですし、
山城先生は防衛隊員として伝令役を務めていたと本人から伺っています。
伝令といっても、上陸して民間人も容赦なく射殺する許可が出ていた米軍を突破するのですから、
日本軍は同じ文書を3人に持たせ、そのうち1人だけがたどり着くような任務だったようです。

昭和20年8月15日に昭和天皇による玉音放送がラジオで流され、
無条件降伏をしたその日が終戦とされていますが、
沖縄では9月7日に南西諸島の日本軍が降伏文書に調印しているのです。

第32軍を指揮していた牛島満陸軍中将と無能な参謀・長勇中将が
糸満市摩文仁洞窟に置かれた司令部壕で自決して
第32軍司令部消滅後は軍組織が壊滅して統制を失い、
沖縄島南部に追い詰められた民間人は逃げ惑い、
死の彷徨の果て、死者数が増大するのですが、
補給が途絶えた日本軍は、
第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)や
同連隊指揮下の2個大隊など
食糧を住民から強制的に強奪しながら、
8月15日の終戦後もゲリラ的局地戦や切り込みを続けていました。

北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが
米軍に投降したのは8月29日です。

8月15日のポツダム宣言後も、
陸軍の航空機が8月15日に鹿児島県の知覧基地から、
海軍の航空機は8月19日に同県の鹿屋基地から
沖縄へ向けて出撃しています。

神風特別特攻隊は、沖縄戦では、
4月6日〜6月22日まで延べ10次にわたって行われましたが、
南九州を飛び立った特攻機は、沖縄島北端の伊平屋島あたりにくると、
米艦隊と米空軍機グラマンの攻撃を受けて9割ほどが撃墜されたといわれています。

ポツダム宣言受諾後、
日本政府は敗戦処理に取り掛かりましたが、
沖縄ではなお戦闘状態が続いていて、
8月26日には、
沖縄攻略部隊の米軍第10軍司令部は、
連合国総司令部から
「9月2日以降に南西諸島の全日本軍の降伏に応じさせるように」
という命令を受けています。

9月7日になって、琉球列島守備軍第28師団長の納見敏郎中将が宮古島から
奄美大島から高田利貞陸軍中将
、加藤唯男海軍少将らが降伏調印のために嘉手納基地に召還されました。

沖縄守備隊の三将軍は、
米第10軍司令官スティルウェル大将に対し、
「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」
を申し入れ、
6通の降伏文書に署名して正式に降伏しましたが、
この終戦の伝達も連絡が遮断されて孤立しているゲリラ部隊に行き届くはずもなく、
9月半ばを過ぎてもなお、
沖縄の各地で敗残兵や住民が山中や自然壕に隠れていたそうです。

そういう意味では、沖縄での慰霊の日は
第32軍の牛島中将が自決した6月23日ではなく、
最終的に沖縄守備軍が正式に降伏調印した
9月7日がふさわしいような気が私はします。

双葉のコーヒー苗20120506.JPG
 昨秋いただいたタネを、師走の12月13日にタネ植えしました。
 もともと熱帯果樹ですから、冬には弱く、
 苗木や成木でも冬場の成長はありません。
 そのために3月下旬になって発芽してきました。
 画像は、発芽後約1カ月を経過して双葉になった状態です。
 この品種は今まで沖縄にはなかったものですが、
 発芽した時から「かなり沖縄向き」と期待させる品種で、
 今後の生育過程が楽しみになりました。



アメリカが沖縄を占領した直後、
本島は沖縄戦による荒廃で、通貨での取引より、
主に物々交換で行われていたようです。

愚連隊などが仕切る闇市の他、
那覇には那覇公設市場や若松公設市場、
宇栄原公設市場といった公設市場や、
マチグァーとよばれる出店が集まった商業地区なども
数多く点在していたようです。

鉄道もなく、また移動も困難なことから
日々の生活物資を調達する場として、
字(集落)ごとに相互扶助組織の共同売店形式の売店も発展して
現在でも、主に集落の高齢者の買い物やゆんたくの場として利用されています。

那覇市安里の栄町市場も闇市から発展した市場ですが、
このあたりは真和志町間切安里村(現・那覇市)で、
学徒動員により、学徒隊として従軍していたひめゆり部隊の
沖縄県立第一高等女学校(一高女)と
沖縄師範学校女子部があった地域のはずです。
沖縄戦で焦土と化したあと、栄町市場が出来たようです。

ちなみに、ひめゆり学徒隊は、
県立第一女子高等女学校の校誌名が「乙姫」、
沖縄師範学校女子部の校誌名が「白百合」なので、
これを組み合わせた造語が「ひめゆり」なのです。

沖縄戦当時は、沖縄には21の男女中等学校があり、
沖縄戦ではすべてが戦場に動員され、
全学徒のうち2千名余りが戦場で尊い命を落としました。
男子学徒は、4,5年の上級生が鉄血勤皇隊、下級生が通信隊に編成されました。
山城先生は“伝令”と言われていましたから、当時は下級生だったのかもしれません。
女子学徒は看護にあたりました。
ひめゆり部隊が南風原町の陸軍病院に向かったのは、そのためです。
男女の若い学徒は、爆雷を背負って米軍戦車に体当たりしたり、
あるいは、国民学校児童でも手りゅう弾を握って敵陣に突入するなど、
今の時代からすると、とても考えられませんが、
沖縄にはそういう悲しい歴史があるのです。

ひめゆり部隊はあまりにも有名ですが、
・沖縄師範学校男子部
 (師範鉄血勤皇隊、386名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、224名が戦死)
・沖縄県立第一中学校
 (一中鉄血勤皇隊、371名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、210名が戦死)
・沖縄県立第二中学校
 (二中鉄血勤皇隊、144名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、127名が戦死)
・沖縄県立第三中学校
 (三中鉄血勤皇隊、363名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、37名が戦死)
・沖縄県立農林高校
 (農林鉄血勤皇隊、173名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、41名が戦死)
・沖縄県立水産学校
 (水産鉄血勤皇隊、49名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、23名が戦死)
・沖縄県立工業学校
 (工業鉄血勤皇隊、94名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、85名が戦死)
・沖縄県立商工学校
 (商工鉄血勤皇隊、99名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、72名が戦死)
・開南中学校
 (開南鉄血勤皇隊、81名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、70名が戦死)
・沖縄師範学校女子部
 (ひめゆり学徒隊、一高女と併せて222名の女子生徒と引率教師18名の合計240名が
  沖縄陸軍病院(南風原陸軍病院)に看護要員として動員され、136名が戦死)
・沖縄県立第一高等女学校
 (ひめゆり学徒隊、同上)
・沖縄県立第二高等女学校
 (白梅学徒隊として4年生56名が八重瀬岳中腹にある第24師団第一野戦病院に動員、22名が戦死)
・沖縄県立第三高等女学校
 (現・県立名護高校、なごらん学徒隊として4年生10名が八重岳(現本部町)の
  沖縄陸軍病院名護分院に動員、2名が戦死)
・沖縄県立首里高等女学校
 (瑞泉学徒隊として4年生61名が第六十二師団の野戦病院(南風原町新川のナゲーラ壕)に動員、
  33名が戦死)
・積徳高等女学校
 (那覇、積徳学徒隊として4年生56人が第二十四師団第二野戦病院(豊見城城址)に動員、
  3名が戦死)
・昭和高等女学校
 (梯梧学徒隊として、4年生17名が第六十二師団の野戦病院(南風原町新川のナゲーラ壕)に動員、
  9名が戦死)
・沖縄県立宮古高等女学校
 (宮古高女学徒隊、動員数など不明)
・沖縄県立宮古中学校
 (宮古中鉄血勤皇隊、動員数不明、戦死者0)
・沖縄県立八重山高等女学校
 (八重山高女学徒隊、動員数など不明)
・沖縄県立八重山中学校
 (八重山中鉄血勤皇隊、20名が戦闘要員として動員され、1名が戦死)
・沖縄八重山農学校
 (八重鉄血勤皇隊、八重農女子学徒隊、動員数など不明)
以上の21の学校では、
特に本島では学徒として動員されなかった生徒も多くの犠牲者を出しました。

私が住んでいた糸満市や南風原町などの那覇近郊では
戦後、野菜が作られ、野菜を入れた籠(かご)を女性が頭に載せて
徒歩で那覇に売りに行きました。
南風原町で隣に住んでいたおばぁの話では、
「戦争で主人が亡くなり、3人の子供を育てるのに大変で、野菜作りをした」
「真和志(まわし、那覇と南風原の境)あたりで、よく
愚連隊に野菜を格安で買い取られた」
「その後は開南の農連市場で対面販売をした」
と言われていました。

牧志公設市場や栄町市場は戦後闇市から発展したものです。

終戦直後の沖縄県や奄美群島においては、
戦後の闇市などでは旧日本円や、
久米島紙幣(沖縄戦末期の1945年に久米島を占領したアメリカ軍によって設置された
 米軍久米島軍政府が発行した謄写版の代用紙幣)、
米ドルなどの地域通貨が混同して若干流通していたのですが、
1946年(昭和21年)4月15日、アメリカ軍は自らが発行するB円を公式通貨としました。
B円というのはB型軍票(Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yen)のことです。

「B」というのですから、「A」という“A円”もあって、
これは南朝鮮(現在の韓国)の法定通貨
(終戦まで日本円と等価の朝鮮銀行券)とされていたのですが、
米軍基地内だけで使われていたようで、
一般には流通しなかったようです。

コーヒーの発芽20120506.JPG
 前の双葉の画像と同じ品種です。
 私は時期をずらしてタネ植えをしているので、
 この発芽苗は今年に入ってからタネ植えをしたものです。
 発芽率を調べるのに、多めのタネを入れてしまったのですが、
 9割前後が発芽してしまいました。
 こうなると、この後黒ポリポットに移植させる作業がとても面倒になります。
 この後のタネ植えは、1つのプランターで48個にしました。
 発芽した茎は、今まで栽培した品種がデリケートで弱々しいのに対し、
 今回の栽培品種は茎も太いしとても力強く、
 この段階でも、かなりの沖縄向きを期待させるものです。



米軍が沖縄や奄美群島を恒久的に統治を考えるようになると、
1948年(昭和23年)7月21日に新旧日本円の流通は禁止され、
B円が流通する唯一の通貨となりました。
7月16日から21日の6日間にかけて、
日本円とB円の交換が行われました。

通貨をB円に統一することにより、
米国民政府は、通貨の流通量を統制することができることと、
レートを意識的に3倍に設定し、
米軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払いや
日本本土から安価で資材を調達することが出来るという思惑があったからです。

1950年(昭和25年)のレート変更は物価の上昇を招き、
奄美群島の本土復帰運動を加速させることにつながります。
また、経済が空洞化したことが、
本土系企業の進出をも遅らせる理由に至りました。

また1950年(昭和25年)6月には、
第2次世界大戦後、米・ソの対立を背景として
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)が戦争を始め(朝鮮戦争)、
日本本土や沖縄の米軍基地からも直接出撃しました。

韓国ドラマの「ロードナンバーワン」は朝鮮戦争を題材にしたもので、
5月6日までBS11で放映されていましたね。
途中まで興味深かったのですが、
後半から面白くなくなり、最終回はガッカリでした。

1950年(昭和25年)には、連合国最高司令官覚書により
北緯29度以北が日本に返還されました。
具体的には、トカラ列島の十島村十島村(じっとうそん)
・上三島(竹島、黒島、硫黄島)
・下七島(口之島、中之島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、臥蛇島、小宝島、宝島)
のうち、
下七島が返還されました。
(昭和28年、北緯27度線から北の与論島以北の奄美群島が返還)

1952年(昭和27年)4月1日に奄美群島政府が廃止され、
沖縄に琉球政府が発足します。
同年4月28日には、戦後、アメリカの占領下にあった日本は
サンフランシスコ平和条約で、ようやく主権を回復し、
独立国家・日本として再スタートが切れることになりました。
朝鮮戦争により冷戦構造が緊迫化したことで、
アメリカはアジアの共産化を恐れ、ソ連と対立したまま、
日本との講和条約の締結を急いだからです。
戦後廃虚と化した国土と、
外地引揚げ及び復員約630万人を含む過剰人口を抱え、
苦難期を迎えていたことで、連合国との国交回復を機に
日本政府は農業政策移民を再開させます。
同年8月には、アマゾン移住5,000家族と、
中部ブラジル移住4,000家族がブラジル政府により受入を許可され、
戦後の海外移住が始まりました。

シズさんは当時13歳でした。
ご家族はブラジル移住を決意して渡航準備をしていたようですが、
その渡航費を仲介者に持ち逃げされて、
沖縄に留まることになったのだと、ご主人から伺いました。
こういう移民に関する詐欺事件は当時多かったようです。

国頭村の集落でも、ブラジルやボリビアなど
南米方面へ移住した家族は多かったようです。

コーヒー山の地主に
「ボリビアはひどかったらしいですね」
と言うと、
「ドミニカよりはよほどマシだったようだよ」
と楽天的に答えていましたが、
日本政府は移住地を詳細に調べず、
また問題があっても移民者を引き揚げさせることもほとんどなく
受け入れ先があれば、募集をして送り出すという、
ある意味“棄民”政策とも捉えられる政策を進めていました。

1953年(昭和28年)7月に朝鮮戦争が終わり(休戦)、
北緯38度線で南北に分断され、
以降現在に至るまで韓国と北朝鮮両国間に平和条約は結ばれていません。
また、同年3月23日には民政府布令第109号「土地収用令」が発令されました。

地主との賃貸借契約が不調に終わった場合には、
強制的に使用権を取得することができるほか、
緊急の場合には、使用権取得前にも立退き命令を発することができるという、
米軍に都合のよい一方的な内容です。

これだけだとよく意味がわかりにくいと思いますが、
要するに、沖縄での米軍の軍用地使用については、
原則的には土地の賃貸借契約は行うものの、
それがもしトラブルになったときは、米軍は地主に対し収用の告知を行ない、
もし地主が拒否したとしても、米軍は一方的に収用宣告書を発することによって、
その使用権原を確保することが出来る、
という、まったく一方的な不平等な内容なのです。

この布令は新規接収のみに適用され、
それまでの既接収地は、依然として一方的な不法使用が続けられました。
なにしろアメリカにとっての沖縄は統治という植民地としか考えていないのですから。

元沖縄県知事・太田昌秀氏は、
沖縄沖縄師範学校男子部に在学中の1945年年3月に鉄血勤皇隊に動員され、
九死に一生を得た、反軍反戦反基地姿勢の気骨ある方ですが、
「戦後沖縄の最大の問題は、軍事基地化のため、農民の土地を強制的に収用したことだ」
と、著書に書かれています。

「土地収用令」は、形式上は“租借”ですが、
有無をいわせず、武装兵とブルトーザーで次々と軍用地を収用していく、という
実態は“強奪”なのです。
反対する住民に対しては、米軍は軍用地の買い上げを示唆したり、
借地料の166年分を「一括払い」して、
その土地の永代借地権を得ようとしました。
米軍が提示した地代は、坪当たり1円8銭といい極端に安いもので、
当時の人々は「コカコーラ地代」と呼んだそうです。

「土地収用令」の最初の収用通告は、
同年4月10日、那覇市銘苅、安謝、天久3区にわたる地域に発令し、
翌11日に武装兵とブルドーザーを投入して約15万坪収用したのですが、
これが現在の普天間基地です。

同年8月には読谷村渡具知などに発令(約30万坪)、
11月には小禄村具志に発令(約2.4万坪)されました。
その後も、あちこちに発令され、
現在の沖縄の米軍基地はすべてそれによって占拠され
現在に至っているのです。

琉球列島米国民政府は、アメリカ統治を批判していた沖縄人民党を
共産主義政党として度々弾圧を加えていたのですが、
1954年(昭和29年)沖縄の偉人・瀬長亀次郎を検挙、投獄(懲役2年)してしまいます。
瀬長は1952年に琉球立法院に当選し、
就任式では、ただ1人アメリカへの宣誓を拒否したり、
米軍の土地強奪と人権じゅうりんに、断固として反対し、
相次ぐ圧力にも屈せずに、
「土地代金を払え」
「水代を払え」
と叫んだり、
自分の信念をとことん貫き通した不屈の人物ですから、
アメリカにとっては煙たい存在だったのです。

同年7月に、米国民政府は前年に日本復帰した奄美群島出身の人民党員2人に
域外退去命令を出したのですが、その2人は官憲の目をかいくぐって逃亡しました。
(後に1人は逮捕、もう1人は島外に脱出した)
米国民政府は、この2人を匿(かくま)っていたとして、
当時の党委員長で立法院議員だった瀬長亀次郎ら幹部2人と党員28人を逮捕し、
弁護士なしの裁判にかけ、瀬長に懲役2年の実刑判決を下したのです。
沖縄は瀬長亀次郎がいたからこそ復帰運動が盛り上がり、
やがて屋良朝苗(やら ちょうびょう、当時琉球政府行政主席)が米軍統治下で、
不屈の精神で悲願の祖国復帰を実現させるのです。
(1972年5月の沖縄返還の過程で1965年に佐藤栄作総理が沖縄を訪問したのですが、
 当時26歳のシズさんは米軍基地の総務課主任で、
 佐藤首相の接待に出られたそうです)

シズさんは1954年当時は15歳、
中部農林高校に通学されていた時期です。
この頃のシズさんの恩師が、
やはり同校教員だった和宇慶先生に
コーヒー栽培を教えた、というのです。

和宇慶先生は当時49歳でしたから、
コーヒー栽培を教えた、という先生は、
もう少し年齢が上なのかもしれませんが、
そのあたりは今のところまったくわかりません。
戦前は名護市の親川仁吉さんがコーヒー栽培をされていたようですが、
親川さんと、その先生がどういう関係だったのかも興味深いですが、
こっちはもう調べようがないかもしれません。

山城先生は1954年当時は25歳ですが、当時はまだ教員ではなかったはずです。
山城先生は1969年(昭和44年)10月の
第一次琉球政府文教局公務員試験
(沖縄教員採用試験、1次は那覇と東京で試験、
 翌年3月末の時点で沖縄に本籍を有すること、が条件)
で教員になり、中部農林高校で物理の担当になられた、
とご本人から伺っていますので。
そうだとすると、シズさんは山城先生とは面識はないのかもしれません。

リュウキュウメジロ20120506.JPG
 今日のヤンバルクイナの画像を撮影中に飛んできたリュウキュウメジロです。
 リュウキュウメジロの特長は本土のに比べて
 少し口ばしが大きいのでしょうか、違いはよく判りません。
 撮影場所は自宅前の雑草放任栽培地(野菜栽培予定地)で、
 ヤンバルクイナの大好きな隠れ場所でもあります。
 草むらなのでハブもいますから、不用意には入れません。
 セキレイなども飛び廻っていますが、これは速すぎて撮影が難しいです。
 リュウキュウメジロはツガイで仲良く飛んでよく鳴いています。



翌年の1955年(昭和30年)には、
米兵による、悲惨な由美子ちゃん事件がありました。
シズさんは当時16歳ですから、
中部農林高校に在学中のはずです。

石川市(現・うるま市)内の幼稚園に通っていた6歳の永山由美子ちゃんが、
夕方1人で映画を観に行ったまま、行方不明となり、
翌日嘉手納海岸で惨殺された遺体が発見され、犯人は米軍人、
軍法裁判で死刑の判決を受けるものの、
実際は米国に帰還し、責任の所在はうやむや、
という植民地特有の住民軽視の事件です。

1955年9月4日付「沖縄タイムス」夕刊は以下のように報じています。
「嘉手納海岸近くの部隊塵捨て場に身元不明の少女が暴行を受け、
 殺されているのが発見された。
 4日朝、嘉手納村旧兼久部落俗称カラシ浜の部隊塵捨場近くの原野で、
 8才から10才位と思われる少女死体が、 
 あお向けになったまま捨てられてあるのを警ら中の米兵2名が発見、
 MP隊(military police=米軍憲兵隊)を通じ嘉手納派出所へ届出た。
 少女は暴行を受けた形跡がありシミーズは左腕のところまで垂れ下がり、
 口をかみしめたまま死んでいた」

犯人は事件から1週間後に逮捕されたのですが、
由美子ちゃんを車で拉致して、嘉手納基地に連れ込み、
軍の施設内で何度も何度もレイプし、最後には殺し、
その遺体を嘉手納の米軍部隊のゴミ捨て場に捨てた。
由美子ちゃんは、唇をかみしめて、
右手に数本の雑草を握りしめているように死んでいた。
そういう悲惨な事件でした。

由美子ちゃん事件以前でも、新聞報道されたものだけでも
・1947年 17歳(強姦)
     18歳(強姦)
・1948年 18歳(輪姦)
     17歳(拉致、強姦)
     18歳(拉致、強姦)
     17歳(拉致、強姦)
・1949年 14歳(強姦)
     16歳(強姦未遂、傷害)
     生後9ヶ月(強姦)
     18歳(強姦)
     15歳(拉致、強姦)
     17歳基地内のメイド(強姦)
・1950年 女子高校生(強姦)
・1951年 16歳(強姦)
・1952年 18歳(性交拒否で傷害)
などがあり、
泣き寝入り被害者はもっと多かったでしょうから
米兵の事件は常態化されていたようです。


沖縄では60代後半以降の方々は
沖縄戦や、米軍統治での植民地扱いなど
筆舌に尽くしがたい激動の時代を生き抜いて来られた方々なのです。

和宇慶先生や山城先生は数年前に亡くなられましたが、
そういう大変な時代の中で、
沖縄でコーヒー栽培を普及拡大させようとした想いは
引き継がなければいけないのです。

シズさんのご冥福をお祈り申し上げます。

posted by COFFEE CHERRY at 12:43| 沖縄 ☔| Comment(1) | TrackBack(1) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月29日

名桜大学広報誌に「ヤンバルコーヒーフォーラム」の記事が掲載されました

名護市の名桜大学から広報誌「Meio」第29号が我が家に届き、
その4ページ目に、6月25日(土曜)に名桜大学が主催された
「ヤンバルコーヒーフォーラム」の記事が載っていました。

名桜大学広報誌「Meio」第29号110929-1.JPG
 広報誌に目を通すと、
 「即戦力というか、社会に即応できる学人間の養成機関」
 のようなエネルギッシュな感じがして、
 学生たちも充実したキャンパスライフを過ごしているようです。
 私も、こういう大学で、もう一度勉強し直してみたいです。


名桜大学広報誌「Meio」第29号110929-2.JPG
 4ページ目の右上に「ヤンバルコーヒーフォーラム」の記事が
 掲載されていましたが、
 まだ3カ月しか経過していないのですね。
 ずいぶん前のことのように感じます。


嘉数 啓理事長のご尽力のおかげで
「ヤンバルコーヒーフォーラム」
が開催されましたが、
これを生産者が活かさなければ意味がありません。

後日
「なんか、そんなフォーラムあったな」
と言われないように、
生産者はそれぞれの理念で
「沖縄産コーヒー」
の基盤強化につなげていってほしいところです。


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2011年09月02日

知念コーヒー農園は台風9号で壊滅的被災を受けていました

南城市の奥武(おう)島近くの
知念コーヒー農園の知念さんから昨夜電話があり
「海側からの暴風に対応できるように
 ハイビスカスの防風林を作っていたが、
 今回の台風9号は風が海側ではなく、
 反対の内陸側から吹き下ろしてきたことで、
 実をつけていたコーヒーの木やアボガドは
 ほとんどが折れたり倒されたりした」

という残念なお話を伺いました。

知念コーヒー0705-1.JPG
 4年前の2007年、GW後に伺った時の知念コーヒー農園で撮影した画像です。
 南城市の奥武(おう)島を見降ろす傾斜地にあります。
 恩納村の山城武徳先生の“山城方式”で作り上げられたコーヒー農園です。
 “山城方式”を忠実に再現していたのは、
 他では見たことがありませんから貴重な農園でした。


8月第1週の週末に太平洋側からやってきた台風9号は
糸満沖を島尻に沿って半円を描くような進路をとり、
しかも人が歩くくらいのゆっくりした速度で通過したことで
沖縄本島が45時間も暴風域に入り、
特に南部の葉タバコやナーべラーといった夏野菜を中心とした農産物に
戦後最大の被害をもたらしました。

知念コーヒー農園は、恩納村の山城武徳先生の
「ハイビスカス(アカバナー)を防風柵としてこれを7m置きに作り、
 この間に2列のコーヒーの木を樹高2mに剪定して
 収穫しやすいようにする」

という“山城方式”で作られています。
また中性土壌の島尻マージに牛糞堆肥を入れた有機農法で、
山城先生のニューワールド1号、2号、
つまりムンド・ノーボとアマレロの2品種を栽培されていました。

知念コーヒー0705-2.JPG
 山城先生のコーヒー農園も感動的でしたが、
 知念さんのコーヒーも負けず劣らず素晴らしいものでした。
 知念さんご夫妻の身長が低いので、樹高2mだと
 台に乗って収穫する場面が出てきます。
 そのため転倒落下の危険から身を防ぐために
 コーヒー成木の主幹の先端を手でポキポキ折っているようで、
 年々主幹が低くなっていましたね。


コーヒーやアボガド以外にも、
・アテモヤ
・スターフルーツ
・カニステル
・グァバ
・アセロラ
・シークワーサー

などの熱帯果樹や、
もちろんバナナも栽培されていて、
Little Tropical Fruit Orchard
といった様相を呈していました。

70代のご夫婦でのコーヒーの収穫は年々負担がかかるようで
近年、アボガドのリード種を数本栽培し、
「コーヒーからアボガドに変えていきたい」
と、言われていました。

知念さんも
「有機栽培による安全な沖縄産100%コーヒーで海外産とは混ぜない」
というホンモノ志向の理念です。

知念コーヒー0705-3.JPG
 牛糞堆肥が農園入口に積み上げられているのをよく見ました。
 充分に発酵されて真っ黒くなってから
 根元の周囲に施肥されていて、地面もフカフカしていました。
 微生物やミミズが充分に機能している土壌なので
 葉も生き生きしていますね。


私は、沖縄産コーヒーに海外産を混ぜる方を非難していますが、
決して
「海外産と混ぜてはいけない」
というのではありません。

「海外産と混ぜることで味を良くしたい」
という理念は当然あるはずだし、
そういう理念はあっても当然だと私は思っています。
うるま市の沖縄ティーファクトリーが生産・販売を手掛ける
琉球紅茶シリーズでははっきり
「海外茶葉とのブレンド」
というコンセプトを打ち出しています。

海外産と混ぜているなら「混ぜている」と正直に公表すべきであり、
『さも「沖縄産100%」のように錯覚出来うる、
 あいまいな偽装的表示はすべきではない』

というのが私の考えなのです。

沖縄産や国産表示は、
少なくとも脆弱な生産の沖縄コーヒーは
「沖縄産100%」
という解釈であるべきだと私は思います。
沖縄コーヒーの信頼を得るのは、規模の大小を問わず、
各生産者の清廉潔白な姿勢が
基盤にあることが大前提だと思っているからです。

知念コーヒー0705-4.JPG
 5月のGW後でも、最初の頃の開花は
 しっかり結実しています。
 沖縄ではこの状態から秋冬の収穫までの間に
 「台風からどう守るか」
 というのが思案のしどころなのです。


沖縄コーヒーの生豆生産推量は、
恩納村の山城武徳先生が昨年亡くなり、
農園の管理が出来ず荒廃して枯れてしまったために、
また東村の渡嘉敷さんの農園の成木約500本を
カットバックのために今春切り倒してしまったことで、
生豆生産推量は県全体で、
私はせいぜい約1トン程度ではないかと思っています。

「生豆1トン」という数字だけはピンときませんが、
1カップ12グラムとして計算すると
1トン÷12グラム=8万3,333カップ分
でしかありません。
それでもまだピンときませんね。
これは
「1年間毎日1杯飲める人数」
として考えると現実味を帯びてきます。
 8万3,333カップ÷365日=228人
驚きの少なさではありませんか?

少ない生産性を、美しい例えでは
「沖縄産コーヒーは“幻のコーヒー”」
ともいえましょうが、
実態は「脆弱」そのもので、
「純沖縄産は本土にはとても出せない零細レベルの状況にある」
と言えるのです。

はたしてこの程度の数字で、
「沖縄産100%コーヒー」をネットで売ったり
本土に拡販できるのでしょうか?

沖縄コーヒーの収穫期は冬(例年遅くとも3月まで)ですから、
梅雨時期までには生豆・焙煎加工は終わります。
となると、夏以降、山のように焙煎している県内生産者の
自称“沖縄産(国産)”の豆は、
いったいどこの豆なのでしょうか?
というのが私の素朴な疑問ですし、
その疑念を晴らす具体的根拠が
確認出来たことは今まで一度も無いばかりか
不信感が増幅するばかりです。

「売れれば混ぜものだって何だっていいでしょ」
というのも理念だとすれば、
私がこういうことに神経をとがらせても私が疲れるだけなので、
今後こういったことは出来るだけ言わないように、
また書かないようにして
「少なくとも私はインチキやお土産作りはしない。
 ホンモノを大量につくってみせる」

と、
ますます高くて厳しい目標をクリアするために
たとえ無謀とか無鉄砲とかいわれたとしても
ひたすら精進するしかないのです。
私には完結させなければいけない
天命というか使命があると思っていますから。

知念コーヒー0705-5.JPG
 5月上旬でも、こういった収穫近い実が付いてることがあります。
 海外とは若干違うのかもしれませんが
 沖縄では収穫可能な実を見つけると
 それから約7カ月逆算して、
 「その大潮の頃に開花していたんだな」
 と感慨深く見入ってしまいます。


知念コーヒー0705-6.JPG
 とかく工業製品のように思われがちなコーヒーですが、
 私はこういう実を見るたびに“命”を実感します。
 この中に入っているのはタネで、
 地面に植えれば発芽してくるのですから、
 こういうコーヒーの恩恵というか、コーヒーの思いというか、
 尊厳といったらいいのか、私はとても軽くは扱えないのです。
 良い実をつけてもらうためには
 元気に生き生きと木を生育させないと気がすまないのです。


そういう意味で、
誠実なコーヒー生産者であり、
また人生やコーヒー栽培でも先輩であり、
懇意にさせていただいている知念さんの農園が
台風で大きな被災をされたことは、
私にとってもひとごとではなく残念で悲しい出来ごとなのです。

松下幸之助氏は、
「志さえ失わなければ、
 困難や問題はすべて新たな発展の契機として生かすことができる」

といわれていますから
知念さんにも頑張ってほしいと思ったのですが、
知念さんからの用件は
「アボガド(リード種)の苗木は入手したのか?余分にあるか?」
というものでしたから
知念さんはもう困難を乗り越えていたのですね。

近年の沖縄に襲来する台風は大型化し、
またその進路も多岐に及ぶようになりました。
コーヒー農園だけではありませんが、
より一層の堅固な防風対策が求められます。

国頭(くにがみ)村の比嘉さんも
最近コーヒーのタネ植え実験を始めたそうです。
「長い道のり」
だと認識をされての取り組みですから
失敗を山のように積み重ねてきた私のアドバイスも
活かせるかもしれませんし、
私自身も近くに新しい仲間が出来て
張り合いが出てきました。
沖縄コーヒーが国頭村の特産品になれるように
まだまだ頑張らないといけません。

知念コーヒー0705-7.JPG
 奥武島入口にある中本鮮魚店です。
 ここのてんぷらはボリュームがあって安くて
 何より美味しいです。
 私はここのてんぷらが一番美味しいと思います。
 南城市方面に行かれる方がいましたら
 ぜひお立ち寄り下さい。
posted by COFFEE CHERRY at 19:34| 沖縄 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月15日

戦後の沖縄コーヒーの祖の他界U

昨日、山城武徳先生のご自宅に8年ぶりに伺いました。

私は山城先生にはコーヒー栽培について、
ご親切に詳しく教えていただき、
感謝しきれないほどのご恩があるのです。

私はコーヒー山をお借りする前に
本島の金武(きん)町以北のあちこちで
コーヒー栽培の用地を数年ががりで探し求めていたり、
本島南部の南風原町のテスト圃場での栽培実験などに
明け暮れていたために、
ずっと山城先生のことが気になりながらも
「栽培場所が確定して引越ししてからご挨拶にお伺いしよう」
と決めていて、
山城先生の体調が悪化していたことや
亡くなられたことも知らなかったのですが、
悔やまれてなりません。

2003年秋の山城先生の農園110714-1.JPG
 この画像は、今から8年前の2003年秋の頃に撮影したものです。
 幅70〜80cm、高さ2.5mのハイビスカス(アカバナー)の防風柵を
 7mごとに平行に配置し、7m間に2列のコーヒーを移植するのが
 “山城方式”の真髄でした。
 高さ2.5mのハイビスカスの防風柵を7m間隔にして、
 その間に樹高2mでピンチしたコーヒーを植えると、
 「コーヒーが暴風にやられない」
 という計算され尽くしたすばらしい堅固な農園でした。
 大型台風が上陸するたびに、翌日農園を伺い、
 「どのくらいの被災があったのか」
 見に行ったものです。
 実際に大きな被災があったのは見たことはなく、
 先生が塩害対策のために、貯水プールの水で潮を洗い流している場面に
 私が伺ったこともありました。
 この山城方式に基づいて、当時の南風原町のテスト圃場では
 栽培テストを日々繰り返し悪戦苦闘していたことを思い出します。


昨日、山城先生のご自宅の奥様にお電話してから伺い、
ご仏壇に焼香することが出来ました。
また、奥様から
「昨年7月23日に大腸ガンで亡くなられた」
「早朝にご自宅で倒れ、救急車で搬送中に苦しまずに亡くなられた」
「亨年81歳だった」
「(奥様は)名護市の三高女(沖縄県立第三高等女学校、現・県立名護高校)当時は
 身体が弱いのでずっと看護婦になるのが夢だったけど、
 教員になり、多くの教え子に恵まれ教員になって良かった」

ことや、
山城先生の生前の元気な頃の昔話なども伺い、
多くの写真も拝見させていただいて、
往時の懐かしさと同時に寂しさも感じました。

2003年秋の山城先生の農園110714-2.JPG
 この画像も2003年秋の頃に撮影したものです。
 1本の成木で10〜15kgの実が収穫されていて
 見ているだけで鳥肌が立つほど感動したものでした。
 私がヤンバルのコーヒー山をお借りするまでは
 この山城方式を再現するつもりで、
 平坦のまとまった土地にこだわって探していました。
 先月の6月25日に名護市民会館で行われた
 名桜大学主催の「ヤンバルコーヒーフォーラム」は
 本来山城先生がプレゼンされるべきものでしたが、
 その諸先輩方の“思い”は、
 しっかりと受け継いでいかなければいけません。


このわずか2年の間に
和宇慶朝伝先生や足立 浩さん、山城武徳先生と
「沖縄(=国産)コーヒー栽培の第一人者」
といわれた方々が、相次いで亡くなられてしまいました。

現在は“自称”を除いて、
「第一人者」とか「後継者」と目される方は沖縄にはいません。
評価は自身がするものではなく、他人がするものですし、
その「自称・後継者」も、
先生は生前良く言われていませんでしたから、
まったくその身勝手さには私は閉口してしまいます。

現在の山城先生の農園110714.JPG
 現在の山城先生の農園です。
 往時とはあまりにも悲惨な光景で見るのも辛いです。
 平家物語の書き出し、
  「祇園精舎の鐘の声
   諸行無常の響きあり
   沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色
   盛者(じょうじゃ)必衰の理(ことわり)をあらわす
   おごれる人も久しからず
   ただ春の世の夢のごとし
   たけき者も遂には滅びぬ
   偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ」
 祇園精舎の鐘の響きは、
 全ての作られたものは一定の状態に留まらず移り変わるという
 「諸行無常」の精神を語っている。
 釈迦がなくなる時に枯れたという沙羅双樹の花の色は、
 勢い栄えるものも必ず滅びる「盛者必滅」の道理をあらわしている。
 おごり昂ぶる者も長く続くためしはない。
 ただ春の夜の夢のように、はかないものである。
 勢いの盛んな者も最終的には滅びてしまう。
 まるで風の前の塵のようなものだ。

 もちろん、山城先生はおごり高ぶることは一度もない
 親切で優しい立派な先生でしたが、
 私は先生のこの農園の往時を見ているだけに、
 「先生の気力の衰えに、木の精も相呼応してしまったのかな」
 と思わざるを得ない、寂しく悲しい光景です。



沖縄戦を生き抜き、
中部農林高校の教員となって、
同じく同校教員の奥様とご結婚されたのですが
山城先生は、教員募集(当時は教員が不足していたので
学歴や教職課程の学習の有無などは無関係だったようです)
を新聞で見て応募する前は、
「20以上も仕事を変えた、何でもやった」
と先生から直接お聞きしていますが、
先生がすごいのは、
「どの仕事にも精進して自分のものにしている」
ことなのです。
例えば、土木建築、左官、瓦職人、大工、
船大工(実際にサバニを2艘作られたようです)、
電気工事などは言うに及ばず、
農園での貯水プールや小屋も先生がひとりで作り上げていました。
とにかく立派な先生で、
ご冥福を心からお祈り申し上げます。

「論語」桑原武夫著110714.JPG
 今から2,400年も前の春秋時代末期の
 孔子とその弟子たちの言行を記した「論語」の
 為政第二の十一、
  「子曰、温故而知新、可以爲師矣」
 子曰わく、故(ふる)きを温(あたた)めて新しきを知る、
 以て師と為(な)す可(べ)し。

 桑原武夫先生のこの本では、
 「温故」の“温”は「たずねる」ではなく、
 本来の意味は
 「冷えた食物をもう一度温(あたた)め直す」
 ことだとされていて、
 原文は
 「過去の伝統を冷えきったそのままで固守するのではなく、
  それを現代の火にかけて新しい味わいを問いなおす、
  そうしたことが出来て、初めて他人の師となることが出来る」
 という意味だとされています。
 初唐の
  「書譜(しょふ)巻上、呉郡孫過庭(呉郡は地名、孫過庭が名前)撰」
 という巻物の「二」の
  「馳鶩沿革,物理常然。
   貴能古不乖時,今不同弊,所謂
   文質彬彬,然後君子」
 馳鶩沿革(ちぶえんかく)は、物理常に然(しか)り。
 能く古(こ)にして時に乖(そむ)かず、
 今にして弊 (へい)を同じくせ不(ざ)るを貴ぶ。
 文質彬彬として然る後に君子なり。
 も同様の意味合いだし、
 松尾芭蕉は「奥の細道」の東北・北陸の旅で
 昔から和歌に歌われてきた憧れの地が、
 実際は変わり果ててしまっていた悲しい現実に出会い落胆したり(流動性)、
 古来言い伝えられてきたそのままに今も残るものに感動したり(普遍性)して、
 芭蕉の俳諧理論の根本をなす「不易・流行」という真理を体得するのですが、
 これも「温故而知新」と同じように考えられるかもしれない、
 と書かれています。
 私が「以て師と為(な)す可(べ)し」という考えは毛頭ありませんが
 和宇慶先生や山城先生の“思い”を貫徹させるために、
 「防風対策や品種選定など、改良する部分は変えていかなければいけない」
 と決意を新たにしました。

posted by COFFEE CHERRY at 16:17| 沖縄 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月27日

戦後の沖縄コーヒーの祖の他界

終戦の翌年から沖縄でのコーヒー栽培に尽力された
和宇慶朝伝(わうけ・ちょうでん)先生は
「数年前に亡くなられた」
と5〜6年前に人づてに聞いていたことで
当ブログでも、確認もしないで
そういうように記述していたのですが、
今年の1月18日に104歳で亡くなられたことが
1月20日の新聞の「お悔やみ」欄に書かれていて
和宇慶先生に申し訳ないことをしてしまいました。

故人を偲び、故人の
「沖縄でのコーヒー栽培」
の“想い”を引き継いで
沖縄に定着させることが出来れば嬉しいです。

駅伝競走でいえば、
和宇慶先生が第1区間で、
恩納村の山城先生が第2区間、
第3区間は東村の足立さんで
私はずっと後の区間になりますが、
それでも私は最終区間ではなく
熟年開拓団の私も、あくまで
「つなぎ役」
ですから
無理せず、焦らずに
「今出来ることをやる」
という、いつもながらの微力前進で
後継者につないでゆきたいと考えています。

和宇慶先生は、
「終戦の翌年に沖縄にコーヒー苗木と種を導入された」
というだけでも素晴らしいのに、
それだけでなく、
「トックリキワタも和宇慶先生が導入された」
というお話を先月伺いました。

「トックリキワタ」という木は、
ずんぐりむっくりの、幹が膨らんでトゲがある
おそらく本土ではおよそ見たことがないような
変わった木ですが、
「幹が徳利(とっくり)のように膨らんで、
 果実から綿(ワタ)が取れる」

というのが語源、
といわれています。

トックリキワタ090303.JPG
 「トックリキワタ」は
 徳利(とっくり)のように幹が膨らんでいて
 なぜかトゲがゴツゴツあって、変な木ですが
 ピンクの花が咲くと華麗な感じがします。


「トックリキワタの沖縄への導入」
は、
「1963年に琉球政府からボリビアに派遣された
 医師・当間恵三氏が種を持ち帰って育苗された」

というのが定説で、
沖縄県内に普及したのは、
1987年にオリオンビールの創立30周年記念行事の
『花の国際交流事業』
で、
南米に移住された各国県人会の方々から、
イペーやゴールデンシャワーなど
熱帯の花の苗が100万本も寄贈されて
県内市町村に配布されたらしいのですが、
この中にトックリキワタの苗木が10万本もあって、
これが一気に広まり、
沖縄のあちこちで晩秋から冬にかけて
ピンクの花を咲かせている、
といわれています。

和宇慶先生がその前に導入された、
という証拠は
定説の1963年以前に和宇慶先生から直接、
コーヒー苗木とトックリキワタの苗木を買われた方がいて、
この方は
「ピンク色だけでなくて、白色と黄色の花の苗木も買った」
「トックリキワタは和宇慶さんが沖縄に導入した」
と言われているからです。

トックリキワタの木は、
花が咲いていない初春から秋までは
ムーミン谷に出てくるような異様な姿なのですが
確かに花は華麗で見ごたえはあって
近年見慣れて以前ほど気にならなくなりましたから
私もコーヒー山の入口部分に
並べたりしようかな、
とも考えています。


トックリキワタは
開花時期が終わった2月下旬から3月下旬ごろに
10cm程度のパパイヤのような実がぶら下がって
地面に落ちてくるのですが、
実の中には黒くて小さい種が数十粒入っているので、
犬の散歩の時には、その実を拾おうと
トックリキワタ並木の通りに行ってしまうのです。


以下は、コーヒー山の大回廊・重機の道の
一段下の“新・重機の道”のスライド写真です。
まだ間伐拡張中なので、苗木移植はこれからです。
アルバムを作る全ての素材を見る

 画像の右上に「重機の道」があり、
 左下が「バナナロード」になります。
 画面は北側を見ています。


冬を越して移植を待つ苗木0903.JPG
 “新・重機の道”に最も近いコーヒー苗木です。
 この周辺にあるコーヒー苗木を最優先で、
 4月中には植えつけたいところです。


明日は午後から雨模様の予報なので、
コーヒー山へ行くのは
週明けに延期することにしました。
posted by COFFEE CHERRY at 22:21| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月17日

沖縄の辺野喜(べのき)コーヒー

国頭村の58号線を北上し、
「道の駅ゆいゆい国頭」を過ぎて、
2つ目のトンネルを通過したところが、
現在私が移転を計画している与那(よな)という集落ですが、
ここからさらに約4kmほど北上しすると
「辺野喜(べのき)」
という隣の集落があります。



ここは、沖縄本島最北端の辺戸(へど)岬から
約7kmほど南下しただけの、
共同売店があるだけの過疎の集落ですが、
ここで4本のコーヒーを栽培している農家があるらしく、
先日、新与那トンネルの手前の伊地(いじ)共同売店に
立ち寄った時に、
コーヒー通の店主が、
辺野喜(べのき)産のコーヒーについて
 ・ 収穫量は少ない
 ・ 豆の大きさがマチマチ
 ・ 個性の強い味で他のコーヒー豆と
   ブレンドしないと飲めない

と言われて、
店主が焙煎した辺野喜(べのき)産のコーヒー豆を
見せて戴きました。

急なことだったので、
デジカメを車内に置き忘れていたために
撮影できませんでしたが、
納豆の極小粒程度の、
ふつうのコーヒー焙煎前の半分程度の大きさしかなく、
あちこちの沖縄コーヒーを見てきた私でも、
初めて見る小粒でしたから、
今まで見聞きした品種と違うのかもしれませんし、
パイナップルを栽培するような
強酸性土壌で栽培されているのかもしれません。

店主はアラビカ種と断定されていましたが、
アラビカ種特有のスパッと切るような半円形より、
少し丸みを帯びていたようにも思うのですが、
ぜひ次回は、焙煎豆の撮影と、
辺野喜(べのき)で栽培されているコーヒーの木を
見てみたいと思っています。

沖縄では、コーヒーの木はバナナと同様に庭に植えても、
強風にさえ当たらなければ、放任でも成育しますから、
まだまだ県内のあちこちで
コーヒーを栽培している方がいるはずですし、
 ・ コーヒーの苗木や種の入手方法
 ・ コーヒーを栽培する動機
 ・ 加工方法
 ・ 味

など、
それぞれにストーリー性や試行錯誤の苦労話に富み、
興味深いのです。

071117.JPG
こういった新種は観賞用というだけで防風林にはなりません
posted by COFFEE CHERRY at 11:12| 沖縄 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月02日

やんばるサンサーラ農園のコーヒー栽培

移転地探しで国頭村与那に行く途中、
「道の駅おおぎみ」
に立ち寄り、
「おおぎみのグリーン・ツーリズム」
というパンフレットを戴きました。

大宜味0709ー1.JPG

大宜味村内の
グリーン・ツーリズムツアーが紹介されているパンフレットで、
山の中を歩くとか、
ふれあい牧場やカヌー体験など、
イマイチ積極的に参加したくないツアーの中で、
1つだけ注目したツアーがありました。

大宜味0709−2.JPG

やんばるサンサーラ農園(大宜味村字白浜465)
「こだわりの自然農法作物の味わいとシーサー手作り体験」
という、
タイトルだけでは興味がわかないものでしたが、
そのメニュー、
 @ タンカン収穫 食べ放題
 A タンカン収穫 ジャム作り
 B コーヒー豆収穫から焙煎、試飲
 C 季節の野菜収穫と鍋料理、バーベキュー
 D シーサー(獅子の粘土素焼き)手作り体験

の3番目に、
「コーヒー豆収穫から焙煎、試飲」
というコースがあり、
 A 収穫、焙煎、試飲(3、4月のみ)
   2時間 1人2,000円(大人のみ)
 B 焙煎、試飲(収穫なし、通年)
   1時間半 1人1,500円(大人のみ)
   受入れ人数10人以下

となっていました。

ツアーメニューの受入れ時間は、
全メニュー10:00〜17:00で、
「事前に電話・FAXで要予約」
とあり、
また当日は時間的に余裕もなかったので、
サンサーラ農園の場所だけでも
次回訪問時のために確認しておきたかったのですが、
次回は事前に予約して、楽しみに行きたいと思います。

大宜味0709−3.JPG

サンサーラ農園でのコーヒー栽培は、
私が勉強不足なこともあって、
今までまったく聞いたこともありませんでした。

沖縄でのコーヒー栽培の主流は、
戦後、具志川の故・和宇慶朝伝さんから、
恩納村の山城武徳先生が受け継ぎ、
東村の足立浩志さんが山城先生から苗木を買って、
現在のヒロ・コーヒーにしていて、
沖縄でのコーヒー栽培は、
ほとんどが上記3名からの流れ
で、
上記3名からは、過去サンサーラ農園のことは
私は1度も聞いたことがなかったのでした。

と、言っても
沖縄の琉球犬を県の天然記念物に認定させるまで努力された
与那原町の新垣義雄先生
は、
ブラジルの知人からコーヒーの種を直接取り寄せ、
独学でコーヒー栽培を始め、
「1本の木から20〜30kgの収穫があったが台風で全滅したが、
 沖縄ではコーヒー事業は大きな可能性がある」

というような方もいれば、
金武町の儀武町長も、
町長になる前、
不登校の生徒に教えるNPOで英語を担当する前に、
沖縄でコーヒー栽培をやろうと独学で勉強し、
単身ブラジルまで渡って、
コーヒー農園で加工工程をつぶさに見て、
コーヒーの実をつぶす脱穀機を買って沖縄に帰ってきた、
という方もいるわけですから、
上記の主流派から外れた方が例外的にいても
何ら不思議ではないわけで、
サンサーラ農園にも、
よけいに興味深くなり、
期待にワクワクするわけです。

 ・ 苗木はどこから入手したのかexclamation&question
 ・ 品種はexclamation&question
 ・ いつから栽培しているのかexclamation&question
 ・ 「こだわりの自然農法」とは何かexclamation&question
 ・ 脱穀方法はexclamation&question
 ・ 加工方法はexclamation&question
 ・ 焙煎方法はexclamation&question
 ・ 栽培本数はexclamation&question
 ・ 収穫数量はexclamation&question
 ・ 海外産と混ぜてないexclamation&question
   (沖縄では、残念ながらこれが意外と多いもうやだ〜(悲しい顔)
 ・ 防風対策はexclamation&question

など、
聞いてみたい内容はいくつもあるのですが、
その反面、
「観光客をツアーとして受け入れるほどの生産量となると、
 コーヒーの管理だけも大変になり、
 他のツアーは人員的に難しいのではないかexclamation&question

とも思えますので、
ぜひ1度伺ってみたいのです。

もし、行かれた方がいらっしゃいましたら、
教えてください。

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2007年05月29日

石垣産コーヒーとは…

私の目指しているコーヒーは、
沖縄で栽培・加工して、
輸入コーヒー豆とブレンドせずに、
“100%沖縄産のコーヒー”を
「沖縄コーヒー」
と定義しているのですが、
何を目指しているのかによって、
その“定義”も違ってくるものです。

昨日28日(月曜)琉球朝日放送の「ステーションQ」で、
「石垣産のコーヒー」
が、
新聞のテレビ番組欄に出ていましたので、
石垣島でコーヒー栽培をされている東内原さんご夫婦か、
それ以外で別の人によるコーヒー栽培の取り組みなのか、
興味深く拝見しました。

ゴーヤカンパニー有限会社の「ゴーヤ珈琲」は、
石垣島産のゴーヤの香りや苦みを損なわずに、
コーヒーとゴーヤの味をバランスよく調整し、
ゴーヤの有効成分を取り入れられる、
という特徴なのですが、
残念なのは、コーヒー豆がエチオピア産なのです。


出来ることなら、
石垣島産のコーヒーに、
石垣島産のゴーヤを配合してほしいものですね。


0529 ハイビスカス.JPG
自宅庭のハイビスカス
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2007年05月14日

那覇市首里の高安コーヒー園

那覇市首里でコーヒーの木を約120本を栽培されている、
という高安さんから電話がありました。

東村に8千〜1万坪の農地を所有しているようで、
・「100本ではなく、1,000本で栽培したい」
・「コーヒーの成木や苗木を売ってほしい」

ということでしたが、
私も、本島中北部に移転して、
今ある成木や苗木は移植するつもりですから、
お断りするしかなかったのです。

高安さんは、
沖縄県内を回って、
「コーヒーの苗木を買い集めているが、なかなか集まらない」
「コーヒーを栽培している、と言っている人を訪ねても、
 伝え聞いているより栽培本数が異常に少ない人が多い」

とぼやいていましたが、
コーヒー栽培に対する“想い”は、
並々ならぬものがあり、
沖縄コーヒーの祖・具志川市の故・和宇慶朝伝さんから、
「かつてコーヒー栽培を伝授されながら途中で挫折した」
という勝連の方まで訪ね、
「放任されているコーヒーの木が生えている畑ごと買った」
とも言われていました。

コーヒーの木が、思うように入手出来ないことで、
「挿し木で増やす」
と、言われていましたが、
私は過去に挿し木や接木の実験を何度も行い、
成功率は10%未満でしたから、
高安さんもどうでしょうかexclamation&question

高安さんは、
「薬品を使えば…」
と言われていましたが、
人工物を使うことになると、
もう私とは理念やポリシーが違う、
ということになるわけです。



070514 ハイビスカス.JPG
      今朝の自宅庭のハイビスカス
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2007年05月09日

南城市玉城の知念コーヒー園

南城市玉城に、
「10年くらいコーヒー栽培をしている人がいる」
というので、
その親戚の方を道案内に今日午前中に伺ってきました。

0509知念コーヒー1.JPG

0509知念コーヒー2.JPG

あいにく知念さんは、
コーヒー園や、ご自宅でも不在でしたので、
 ・ コーヒー苗木の入手経路
 ・ 収穫量
 ・ 精製加工方法
 ・ 焙煎方法
 ・ 販価、販路
 ・ 病害虫
 ・ 肥料
 ・ 農薬使用の有無

などについては、
次回訪問させて戴いた時に伺うとして、
今日はコーヒー園内を見学させて戴きました。

0509知念コーヒー3.JPG

0509知念コーヒー4.JPG

この農園は、恩納村の山城武徳先生と同様に、
・約7m間隔に、香港カポック(ヤドリフカノキ、
 正確には「シェフレラ・アルボリコラ」)を
 約2.5mの高さで植えて防風林にしている
 (山城先生は原種のアカバナーを防風林にされていて、
  私も同じです)
・その7m間隔に、2本のコーヒーを並列に植えてある
・天井などに防風ネットは張らず、コーヒーは日照に当てる

というスタイルで、
雑草が生えていたところをみると、
除草剤は使っていないように見受けられました。

左はカポックの防風林.JPG
      左側はカポックの防風林です

知念コーヒー園は南城市玉城ですから、
沖縄本島南部特有のジャーカル土壌(アルカリ性)ですが、
土壌改良をしているのか、
コーヒーは驚異的な成育ぶりで、
山城先生のコーヒー園を
初めて見せて戴いた様な衝撃度でした。

0509知念コーヒー5.JPG

0509 知念コーヒー6.JPG


黄色いアマレロタイプの実をつける木もありました。
アマレロタイプ2−1.JPG

アマレロタイプ2−2.JPG

沖縄コーヒーの祖・和宇慶先生が
具志川市兼箇段(かねかだん)の
ご自宅で栽培されていた品種より、
花芽や花托(かたく)が多く、
恩納村の山城先生や東村の足立さんから、
南城市玉城の知念コーヒーのお話は、
一度も出ていませんので、
苗木はこれらのルートでもないようにも思えます。

花芽と花托1.JPG

花芽と花托2.JPG

花芽と花托3.JPG

花芽と花托4.JPG

沖縄コーヒー栽培は、ほとんどが
この3名からのルートなのですが、
また別の品種なのか、興味が出てきました。

0509知念コーヒー7.JPG

沖縄コーヒー栽培者は、
今のところ零細規模ばかりですが、
そのためか県は全体を把握する気がまったくなく、
コーヒー栽培者は横の連携もないために、
孤立無援の持久戦をしいたげられていて、
新たな栽培者を見つけるのは至難の業で、
悪い例えですが、不発弾を発見するようなものなのです。

私の調査では、県内のコーヒー生産者は、
今日で10人になりました。

0509知念コーヒー8.JPG

将来的には、
沖縄コーヒーの栽培技術の向上や
品質の底上げ化を図るためには、
組合や協会などの組織化も必要になろうかと思います。

0509知念コーヒー9.JPG

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2007年05月08日

西原町の玉那覇コーヒー園に伺いました

前回、4月23日に引き続いて2度目の訪問です。

玉那覇コーヒー園1.JPG

樹高を低くピンチされた
元気一杯のコーヒーに迎えられました。

玉那覇コーヒー園2.JPG


西原町の沖縄カントリー倶楽部のあたりは、
運玉森(うんたまもり)といって見晴らしの良い丘陵地ですが、
沖縄戦当時は、この丘の制覇を巡り
日米軍の激しい争奪戦が繰り広げられ、
戦後になっても、不発弾の自然発火により、
いくどとなく山火事が起きました。

当時3歳の玉那覇さんは、
運玉森(うんたまもり)北側すそ野の
小波津集落に住まれていて、
5月4日の日本軍の総攻撃での激戦に巻き込まれて
ご両親と兄を亡くされています。

小波津集落637人の戦死率は54%、
一家の全滅率20%以上、
西原町の戦死率47%以上、
と、
西原町でも多くの住民が犠牲になっています。

恩納村の山城先生も沖縄戦当時は13歳で、
本島西側の部隊に弾薬を運ぶ要員や伝令として動員され、
米艦隊が沖にビッシリと並んでいる光景や、
夜の艦砲射撃の様子を、
よく伺ったものです。

玉那覇さんは、独自に西原町の戦跡調査を行い、
遺族の慰霊案内もされているそうで、
戦後62年を経過した今でも、
沖縄戦の傷跡はまだまだ消えていないのです。


沖縄県内では、コーヒーは4月の開花が最も多いのですが、
その後も徐々に開花が続きます。

まだまだ開花中.JPG

落花が近いコーヒーの花.JPG

収穫されたときに、まだ熟していなかった実が、
今頃遅れて赤くなっていたり、
採り忘れて実が朽ちかかっているものも多数ありました。

収穫し忘れた実.JPG

収穫し忘れた実4.JPG

収穫し忘れた実2.JPG

収穫し忘れた実3.JPG

落花後の花托(かたく)も順調なようです。

花托と花芽.JPG

落花後の花托(かたく).JPG

今年収穫された新豆を頂きました。

今年収穫した新豆.JPG

玉那覇さんの精製加工は、
 ・ 外皮・果肉を取り
 ・ 水洗い
 ・ 天日乾燥

まで、ですから、
パーチメントとシルバースキンは取り除いていないので、
薄茶色をしているのです。

今日頂いた生豆は、
那覇市のCOFFEE potohotoの山田哲史様に焙煎していただき、
ご自身が生産されたコーヒーを1度も飲んだことがない、
と言われる玉那覇さんに、
ぜひ味わって戴きたいのです。

posted by COFFEE CHERRY at 22:02| 沖縄 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月23日

西原町の玉那覇コーヒー園

先週の4月20日(金曜日)に、
西原町の玉那覇コーヒー園に初めて伺いました。

070420玉那覇コーヒー2.JPG

私のレキオ掲載をご覧戴いて、
玉那覇さんからご連絡を頂いたことで、
恥ずかしながら初めて知ったのです。

同じく、
レキオを通じてお問合せを戴いた具志堅さんが、
名護市で約40本のコーヒーを
栽培されていることを伺いましたし、
県内ではコーヒーを小規模ながら
栽培している方があるようですね。

これが、広がらない理由は、
台風での倒壊はともかくとして、
収穫した実から生豆に加工したり、
焙煎技術がないことにあるようです。

070420玉那覇コーヒー3.JPG

ここでは、
約400坪に約150本のコーヒーが栽培されていました。

除草剤や農薬は1滴も使用していませんから、
ここでも「安全・安心」がコンセプトになっています。

070420玉那覇コーヒー.JPG

玉那覇コーヒー園の最大の特長は
@ 樹高を1m20〜30cmと低めに幹の先端をピンチして、
それ以上樹高を上げない低木栽培に徹していること
A 防風対策はしていないこと(そのために低木化する)

にありましたが、
そのために収量は少なめになっているようです。

070420 玉那覇コーヒー5.JPG

約10年くらいの歴史があり、
コーヒーの苗木は、
沖縄コーヒーの祖・具志川の和宇慶さんから
入手されたようです。

070420玉那覇コーヒー4.JPG

ここでは、ウイキョウやドクダミ、クローバーなども
植えられていて、
コンパニオン・プランツの影響か、
マイマイはあまり見かけないとのことでした。

070420サボテン.JPG
    名前は不明ですが、立派なサボテンもありました

070420ハイビスカス.JPG
     玉那覇コーヒー園のハイビスカス

posted by COFFEE CHERRY at 17:38| 沖縄 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月31日

コーヒー生豆1トンを収穫出来る自社農園の投資目安

自社農園や契約栽培、
団塊世代などの退職後のコーヒー農園経営の相談などが、
ときどきメールで届きますので、
アバウトな数字などをご紹介しましょう。

沖縄でのコーヒー栽培は、
・ 台風対策
・ 水が使える圃場
・ できれば弱酸性土壌

など、
必要最低条件がカバーできれば、
それほど難しいものではありません。

何といっても“果樹”ですから、
野菜のように毎年植えることもありません。

農業的な専門知識も、特に無くても問題ありませんし、
逆に農業経験者の方が、
要らぬ知識が邪魔になって問題かもしれません。

そう考えると、
都会でスーツを着たサラリーマンが定年退職してから、
沖縄でコーヒー栽培を始めても、特別問題はないのです。

もちろん、コーヒーの栽培では、
移植の時期や剪定方法など特殊なノウハウはありますから、
それなりの勉強や学習は必要になりますが。

一般に売られているコーヒーの本は、
“焙煎”や“美味しい飲み方”などがほとんどで、
コーヒーの栽培方法に関する本がないことから、
コーヒーの栽培ノウハウ自体が知られていないので、
難しく感じられる方が多いようです。


1.コーヒー栽培は、デメリットから考える
 @ コーヒー栽培の投資は、
   「投下資金と同額が10年後から毎年入ってくる」
   と基本的に考えた方が良いでしょう。
   つまり、資本投下しても、初年度は赤字、翌年も赤字…、
   コーヒー栽培だけだと、
   収穫できるまでは赤字続きになることが
   我慢できるかどうかexclamation&question

 A 沖縄は「台風の通り道」ですから、
   台風の影響で、収穫量が増減することが覚悟できますかexclamation&question

 この時点で、「ムリ」な方は、
 コーヒー栽培には向いていません。


2.メリットを考える
 @ 沖縄コーヒーは、国産コーヒーで、
   ライバルも少なく、
   希少性が大きな“アピール”になりますし、
   コーヒーの国際相場と無関係に販売が出来ます。

 A “国産”ですから、
   くん蒸処理されない安全なコーヒーです。
    (農薬・除草剤を使用しなければの話ですが)

 B 現在、沖縄でのコーヒー生産量は、
   せいぜい約4トン程度しかありませんから、
   日本のコーヒー生豆輸入量約40万トンと比較しても、
   国産比率は0.001%でしかありません。

 C コーヒーの木の寿命は40年以上と長いです。

 D 収量は徐々に増えて、10〜20年木が
   最も収穫量が多いといわれています。


3.コーヒー生豆を年間1トン収穫する農場を数字で考える
 @ コーヒーの木は、30〜50cmの苗木を植えると、
   3〜4年で最初の収穫が出来ます。
  ・1トンの収穫には、500〜600本くらいの苗木が必要になり、
   1本を1坪に植えると、500〜600坪の農地は、
   最低限必要になります。

 A 防風対策を防風ネットにするか、
   ハイビスカスによる垣根にするかexclamation&question
   の選択がありますが、
   防風ネットの支柱は、
   土中にコンクリート塊を設置しないと、
   台風で吹き飛ばされてしまいますので、
   防風ネットの設置は高コストになります。
   防風林にする場合は、
   防風林の占める面積も計上しなければなりません。

B 沖縄での農地賃借で安全な方法は、
  10年間分前納し、10年後に「更新」することです。

C 借受する遊休地は、
  雑草などが生え放題のところが多いですから、
 ・ 開墾代が必要になります
   耕運機は30cm程度、ユンボだと70cm程度が
   撹拌されますから、ユンボでの開墾が望ましいです
 ・ 堆肥(牛糞、豚糞、バガスなど)や
   米ヌカ代が必要になります

D 圃場での水周りのポンプ、水道管、スプリンクラー、
  雨水タンクなどが必要になります

E コーヒー苗の調達が必要です

F 住居と車、生活費が必要です

G 圃場を管理してもらう場合はその管理費、
  収穫後の実の加工代、包装・梱包・出荷代は別

上記@〜Eまでで、約300万円は必要かと思われます。


アバウトな考え方ですが、参考になれば幸いです。


posted by COFFEE CHERRY at 15:26| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月30日

引退する新庄剛志(日本ハム外野手)は、コーヒー事業に興味があるなら、キューバより沖縄に目を向けるべき

日本シリーズは日本ハムが44年ぶりの制覇を遂げましたが、
第5戦は新庄選手の引退試合かと思うほどの注目ぶりで、
さすがに、
「記録はイチローくんに任せて、記憶はボクに任せて」
というだけありましたね。

新庄選手の引退後の進路が、
ハリウッドとか参院選出馬とか、
和田アキ子が新庄人気に便乗して、
ヂュエット曲を熱望するとか、
いろいろと取りざたされていますが、
その中に
「キューバでコーヒー農園事業をしたい」
というのがあります。

もちろん、本気かどうかは分かりません。

新庄選手は、
「1日に10杯以上はコーヒーを飲む。
 たぶん血液がコーヒー」

というくらいコーヒーが好きなようですし、
「野球が終わったらコーヒーを自分で作りたい」
「豆から自分で作るんです。
 コーヒーを飲む人って、多いじゃないですか。
 でも、豆からオリジナルでやっているところってないですよね。
 ここに行けば、豆からボクが作ったコーヒーが
 飲めるっていうのをやりたい」

と言っていますから、興味があるのは本当なのでしょう。

すでに簡単な下調べもしているようで、
「キューバでは、4億円から5億円で出来るみたいですよ」
と言っているので、私も気になっているのです。

何も、私に投資したり、共同で経営しようというのではなく、
新庄剛志自身が沖縄でコーヒー生産事業を
やったら良いと思うのです。

キューバに投資する半額で、
3万坪程度の農地も買収可能(本島北部など)ですし、
場合によっては無人島だって、買収出来るでしょうから、
追随を許さない
「日本一のコーヒー王」
になれるはずです。

新庄選手が“キューバ”に目を向けたのは、
実はすごく重要なのです。

キューバは、
米ソ冷戦時代に米国から経済封鎖されて孤立して、
餓死者が出たりしましたが、
その後、国策で至るところで有機栽培を始め、
今や食糧輸出国になりました。

200万都市でさえ、有機野菜が自給できている、
今や“有機農業大国”になっているのです。

以前から、
「沖縄はキューバを目指すべき」
というのが、私の持論ですから、
新庄選手の
「キューバでのコーヒー農園事業」
構想には、
驚かされたのです。

キューバでは、もちろんコーヒーが栽培されていますが、
年間2万トン程度の生産でしかありませんし、
日本には、年間約2千トンが輸入されているだけなので、
あまりピンとこないのかもしれませんが、
有機栽培で、質の良い豆が生産されているようです。

キューバでは
「クリスタルマウンテン」
というコーヒーが有名ですが、年間約1千トンで、
日本では本物は入手が難しいとも言われています。

キューバは、ラテン音楽の国ですから、
コーヒールンバなどのラテンリズム調の曲を口ずさみながら、
港湾労働者が重い麻袋を肩で担いで、
船に積み込んでいるような画面が想像されます。


昭和36年に西田佐知子が歌った“コーヒールンバ”は、

 「るんるん昔アラブの偉いお坊さんが
  恋を忘れた あわれな男に
  しびれるような 香りいっぱいの
  こはく色した 飲みものを教えてあげました
  やがて心うきうき とっても不思議このムード
  たちまち男は 若い娘に恋をした
  コンガ マラカス 楽しいルンバのリズム
  南の国の情熱のアロマ
  それは素敵な飲みもの コーヒー モカマタリ
  みんな陽気に飲んで踊ろう
  愛のコーヒー・ルンバ るんるん


という歌詞でしたが、
その原曲の歌詞は、

るんるん日が暮れていく頃 闇が再び姿を現す
 静けさの中 珈琲農園はその珈琲を挽く音に
 悲しい愛の歌を再び感じ始める
 それはまるで無気力な夜の中 嘆き悲しんでいるかのよう
 一つの愛の苦しみ 一つの悲しみ
 それは給仕のマヌエルが持ってくる珈琲の苦みの中にある
 珈琲を挽きながら 終わることのない夜が過ぎていくるんるん


という歌詞で、
日本でのヒット曲の歌詞とは、まるで違ってしまっていますし、
原曲自体も、新しいリズムらしく、
昔の港湾労働者がバナナやコーヒーを担いで口ずさんだ歌とは、
少し違うようですね。


キューバと沖縄のコーヒーでの比較で、沖縄が有利な点は、
・ 国産のために、くん蒸処理がされないこと
・ 有機栽培で生産可能
・ 希少性が高い
・ 零細農家ばかりで、競合が少ない
・ 沖縄の土壌は、ミネラル成分が多い

ことにありますから、
新庄選手がもし本気モードなら、
私は、キューバよりも沖縄でやるべきだと思って、
勝手に気になっているのです。


posted by COFFEE CHERRY at 11:21| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月13日

沖縄コーヒーの品種は「ムンドノーボ種」の可能性が高い

沖縄コーヒーの歴史は、
  「2006年5月16日 沖縄コーヒーの歴史」
で、記述したように、
和宇慶(わうけい)朝伝先生が原点となっています。

和宇慶先生の品種は、ブラジルの品種で、
以前“ブルボン種”と聞いたような記憶があるのですが、
はっきりしません。

和宇慶先生のコーヒーの種から、
恩納村の山城武徳先生が約30年前から
コーヒー栽培を始めましたが、
収量が悪かったようで、その後、
山城先生の親戚(ブラジルで大きなコーヒー農園を経営)が
来日時に、
「ニューワールド1号、2号」
の苗をブラジルから持ち込んで、
山城先生は、全てこれに切り替えて現在に至っています。

山城先生のお話では、
「ニューワールド1号、2号」は和宇慶先生の品種に比べて、
沖縄の土壌に適合し、さらに4〜5倍の収量になったそうです。

この「ニューワールド1号、2号」は、
東村・ヒロコーヒーの足立浩志さんや
私が、山城先生から苗木を分けていただいていますので、
それぞれ同じ品種を栽培しています。

今日の記事で言う「沖縄コーヒー」とは、
“ニューワールド1号、2号”を指していますので、
石垣島の東内原さんのモカ系品種などとは、
また違いますので、誤解されないようにして下さい。

山城先生や足立さんは、
「ニューワールド1号(赤い実)、2号(黄色い実)」
と言い張るのですが、
文献で調べても、「ニューワールド」という品種が出てこないので、
私も
「沖縄品種は、ニューワールド1号・2号にしておこう」もうやだ〜(悲しい顔)
と半ばあきらめていたのですが、
先日、札幌市の佐藤様から
 「沖縄で栽培している“ニューワールド1号”は
  “ムンド・ノーボ種”のことではexclamation&question

と、ご指摘がありました。

「ムンド・ノーボ(Mundo Novo)」はポルトガル語で
「新世界」と言う意味だそうで、
約500年前に、コロンブスがドミニカ上陸時に
「ムンド・ノーボ(Mundo Novo)」と言ったのだそうです。

言われてみると、
ポルトガル語の「新世界」と、英語の「ニューワールド」は、
言い回しが違うだけですよね。

“謎”が解けたような思いがしています。

「ムンド・ノーボ種」は、ブルボン種とスマトラ種との
自然交配で生まれたアラビカ種の一種で、
1943年にサンパウロで発見され、
最初にムンドノーボ市に移植されたことで、
その地名にちなんで名付けられた改良品種で、
病害虫に強く、環境への適応性も高い、と言われ、
・ まろやかさ
・ 甘味
・ 苦味
のバランスが良い、というのが特長だそうで、
沖縄コーヒーは、さらに
・ コク
・ フルーティな風味

という味が特徴なのです。


コーヒーの二大原種である『ティピカ種』と『ブルボン種』は、
美味しさでは他の品種より優れている、といわれていますが、
寒さや病虫害に弱く、
ムンドノーボ種等の、病虫害に強く、生産性の高い改良品種が
現在のブラジル生産の主流を占めているようです。

こうなってくると、
・ 病虫害や直射日光に強い
・ 生産性が高い
・ 低温にも耐える
・ 矮性(樹高が低い)で収穫時の手間が少ない
といわれる
ブルボン種の突然変異の品種である“カツーラ種”も、
沖縄の環境に適合するかもしれないと、
欲張りになってしまいます。

札幌市の佐藤様は、
 「“ニューワールド2号”は
  “アマレーロ(イエロー・ブルボン)種”かもしれない」

とも言われていました。

コーヒーはなかなか奥が深く、
私の勉強不足が思い知らされました。

posted by COFFEE CHERRY at 17:53| 沖縄 ☔| Comment(3) | TrackBack(2) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月12日

“地力”からみた沖縄のコーヒー栽培

「地力」を、ヨーロッパと日本で比較した場合、
ヨーロッパは、氷河が削り取った大地ですから、
基本的には地力がなく、
ヤセているために「輪作」が出来ません。

そのため、ローマ時代では三圃式農業が普及しました。

対して、日本は、
河川が運んできた肥よくな土壌で、基本的に連作が可能です。
もちろん中南米の土壌も同様です。


牧草の生産力で比較してみると、
1ヘクタール(約3千坪)あたり、
・ 米国    3トン
・ フランス  6トン
・ 日本  約50トン
と言われています。

これだけ、日本の土壌には“地力”があります。

沖縄は珊瑚礁が隆起した島ですが、
沖縄の土壌は大きく分けると下記の3種類で、
・ 島尻マージ
  島尻マージ.jpg
・ 国頭マージ
  国頭マージ.jpg
・ ジャーカル
  ジャーカル.jpg

本土の黒ボク土壌などに比べると、
腐植含量が3割程度しかないのが特徴的です。

堆肥や緑肥、米ぬかなどで土作りさえしっかりやれば
もともとミネラル分が豊富に含まれていますので、
コーヒー栽培にはまったく問題はありません。

posted by COFFEE CHERRY at 17:46| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月10日

名護市の諸井清二さんご夫妻のコーヒー栽培

4年前に諸井さんの圃場を見せて戴いたので、
現在どうなっているのかは未確認です。

諸井さんご夫婦は、当時名護市に住んでいて、
東村内に約1,200坪の圃場を持たれていました。

それまでにコーヒー栽培の知識や経験がなく、
誰にも師事せず、独学で取組んでいました。

私が圃場に行ったのは、
ヒロ・コーヒーの足立浩志さんに案内して戴いたのです。


圃場は、防風対策がされていないので、
コーヒーの木は荒廃していました。

朽ちたコーヒーの木や幼木の配置からして、最初の頃は、
一面にコーヒーが植えられているように感じられました。

すでに空き地化しているところもありましたから、
台風の影響をまともに受けたような印象でした。

コーヒーの幼木は、支柱をせずに、
植え草をコーヒーの幼木の周りを囲むように
植えてありましたが、
この方法では防風効果はなかったはずです。

相当に頑固な方のようですが、
沖縄でのコーヒー栽培は、
防風対策抜きでは成功するのは不可能ですから、
ヒロ・コーヒーの足立浩志さんに
基本的なことから指導を受けるべきだと思いました。

足立さんはとても面倒見の良いシャイな方です。

諸井清二さんは、コーヒー栽培では悪戦苦闘中ですが、
実はとても有名な方です。


1994年(平成6年)に、
諸井さん(大阪府茨木市、当時農業)は、
『環太平洋ヨットレース』に参加するために、
自分のヨット「酒呑童子(しゅてんどうじ)」号で
ロサンゼルスに向けて航行中、
大シケで転覆し、マストが折れ、かじが利かなくなって、
太平洋を3ヵ月間漂流した方なのです。

奥さんの千恵子さんは、
夫の遭難中に夢の中で、
1ヵ月後の「6月7日に韓国の釜山港の帰る」という正夢を見て、
それが全くその通り実現したことで、
ドキュメンタリー番組にもなりました。

諸井清二さんは、遭難当時56歳でしたから、
今年で68歳ということになりますね。

諸井さんは、
「遭難は命綱のハーネス(転落防止用ベルト)の欠陥が原因」
として、
帰還3年後に、
製造会社(横浜市)と販売会社(西宮市)に
計約1,860万円の損害賠償を求めた訴訟を起こし、
翌年、製造会社側が和解金800万円を支払うことで
和解が成立しています。

その後、夫婦で沖縄に移住され、
コーヒー栽培に取組んだようです。

posted by COFFEE CHERRY at 00:20| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月24日

宮古島のコーヒー栽培

宮古島や石垣島は、もちろん沖縄県なのですが、
沖縄県は広域に離島が分散されていて、
沖縄本島と宮古島は、東京〜名古屋間に相当し、
宮古島と石垣島でも、
名古屋〜大阪間に相当するほど離れているのです。

そのため、
「沖縄に台風接近」という天気予報があっても、
具体的に沖縄のどこに台風が接近したのかが、
沖縄人にとって必要な情報になるのです。

ここ数年は、石垣島・宮古島には
強力な台風がいくつも上陸、または接近して
大きな被害を出しています。

果樹は一般に弱酸性土壌で栽培しますから、
「平坦でアルカリ土壌の宮古島では、コーヒー栽培をしていない」
と思い込んでいたのですが、
宮古農林高校を退職された先生が、
ご自宅にあるハウス入口で
ハワイのコナ・コーヒーの種を発芽〜成木化させ、
毎年枝が折れるくらいに実が付いている、
という話を聞き、
直接電話連絡を差し上げたことがありました。

2年前の7月のことです。

2年前は8月から10月上旬まで、
週末になると台風が上陸か接近をした台風の当たり年で、
石垣・宮古も大きな被害に遭いましたので、
このコーヒーの木は相当なダメージを受けたに違いありません。

コーヒーの木は、
幹の直径でも10cmを超えるのはマレで、
一般果樹と比較すると幹は細く、枝は長く伸びますが、
風が吹いてもしなることがなかなか出来ずに、
“ポキッ”と折れてしまうのが、
コーヒーの木の特徴の1つなのです。

そのため、台風の通り道の沖縄では、
「防風対策」が必須条件になるのです。

過去、多くの人たちが、
「防風対策」を軽視して失敗・撤退しています。

防風林に使えるハイビスカス(原種)やカボックは、
コーヒーとは正反対で、よくしなりますから風に強く、
防風林に向くのです。

表現は良くないのですが、人間(の骨)に例えると、
ハイビスカス(原種)やカボックは「幼少年期」、
コーヒーは「老年期」くらいの違いがあるのです。


宮古島のコーヒーの木も、私は見れなかったのですが、
「宮古島でもコーヒー栽培は可能」
ということが分かっただけでも大収穫でした。

それでも、
宮古島では、ハウスも含めて、
「コーヒーを複数本植えている」
という話は、j聞いたことがありません。

0511コーヒーのタ.jpg

posted by COFFEE CHERRY at 09:45| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月23日

石垣島のコーヒー栽培

沖縄本島から石垣島東側の星野地区に移住して、
コーヒー栽培に取組んでいる夫婦(東内原 稔さん)がいます。

今から18年前の1988年に初めてコーヒーを定植し、
何度か台風の被害に遭いながら
防風林やハウスなどの防風対策などを講じて、
1994年から収穫出来るように至ったようです。

沖縄は台風の通り道ですから、
沖縄でコーヒー栽培を行うということは、
よほどの情熱がなければ出来ないことなのです。

石垣島に移住されたのが2001年で、
それまではずっと本島から月1回石垣島に通い、
コーヒーの手入れをされていたようです。

同年9月には、自宅敷地内に喫茶店「人魚の里」をOPENし、
奥様が運営されているようです。

“石垣島産珈琲”は、1杯500円で,店内だけでしか飲めません。

飲物・食べ物というのは、
いくら「安全・安心」と言われても最終的には“味”で、
評価が決まるわけですが、
私はその飲物・食べ物が出来るまでの“こだわり”が
あるのかないのかexclamation&question
どこにどれだけこだわったのかexclamation&question
という、
生産者や加工者の「こだわりの質と度合い」を重要視しています。

「石垣島産珈琲」の東内原さんも、
除草剤・農薬は使わないというポリシーだそうですから、
ぜひ一度お目にかかり、
いろいろご教授を受けたいと思っています。

実は、私は石垣島に行ったことがないのです。

石垣島産珈琲は、
以前から新聞記事や雑誌、コーヒー栽培の恩師・山城先生からの
情報でしかありません。

沖縄本島より、石垣島・宮古島の方が台風の襲来は多く、
その威力も凄まじいので、
石垣島でコーヒー栽培にチャレンジされること自体、
大変勇気が要ることで、
いくら賞賛されても足りないくらいなのです。


白保盛山の約1,000坪の圃場に
約850本のアラビカ産モカ系の品種を栽培されているようで、
毎年10〜3月の収穫期に、週1回100〜200sを収穫し、
毎年約1.5トン(実)の収量前後で安定しているようです。

以前は、1kg1万円で豆を販売していたのですが、
昨年・一昨年の台風の影響があったのか、
最近は豆の販売はしていないようです。

圃場を拡大し、「石垣島産珈琲」のブランド化を計
画されているようですが、
私は沖縄では、コーヒーだけではなく
バナナ、紅茶、胡椒、島唐辛子など
ブランド化できるものは多いと思っています。

 0605コーヒー苗木1.jpg

posted by COFFEE CHERRY at 11:05| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月16日

沖縄コーヒーの歴史

ペリー提督率いる米国海軍の「北太平洋遠征隊」が、
日本開国交渉前に沖縄の那覇港に「開国交渉の基地」として
寄航したのが1853年から翌54年にかけてのことですから、
今から153〜154年前のことになります。

ペリー提督は、琉球内陸部調査と共に、
約200種類の植物を採集して米国に持ち帰っているのですが、
この中には「コーヒー」はありませんでした。

現在、樹齢100年以上のコーヒーの木は、
いずれも沖縄本島中北部にありますが、
樹齢150年を超えているものはさすがになさそうです。

1609年に、
琉球王国は薩摩藩島津忠恒に占領されてしまうのですが、
それ以前の琉球は、
「大交易時代」と呼ばれる繁栄期があって、
西欧〜インド〜東南アジア〜中国〜琉球〜種子島〜九州という
海上交易ルートが確立され、
「アジアのハブ港」として機能していましたから、
その時代にも品種はともかく
コーヒーの木が移入されていた可能性は否定できません。

コーヒーの成木.JPG

近年の沖縄コーヒー
1.うるま市(旧・具志川市兼箇段)の「和宇慶コーヒー」
・ 1972年の沖縄本土復帰に伴ない
  和宇慶さんの妹が「お土産に」と
  ブラジルから持ち帰った15粒のコーヒーの種が、
  記録にある沖縄コーヒー栽培の原点となっています。

・ 当時の和宇慶さんは中部農林高校に勤務されていて、
  農業の基本的な知識があったことから
  「沖縄でも栽培できないか」と
  興味本位で種を植えたところ発芽したことで、
  本格的に着手することに至りました。

・ 1980年には、自身がブラジルに渡り
  国立農業試験場でコーヒー栽培を学んで
  以降本格的にコーヒー栽培に着手しました。

・ 沖縄コーヒーを県内に普及させるため
  度々「コーヒー講座」を開き、
  延べ約200名が受講した、と聞いています。

・ 自宅庭の約1,500坪の農園に
  約1千本余りのコーヒーを植えられていましたが、
  度重なる台風でコーヒー園は残念ながら壊滅してしまい、
  現在は朝伝さんの息子さんが
  コーヒーの苗木販売を手がけています。

・ 私も7年前にコーヒーの苗木を6鉢買わせて戴きました。
  朝伝さんは、当時(93歳)は入退院を繰り返されていました。

2.恩納村の「ヤマーコーヒー」
・ 前述の和宇慶さんの「コーヒー講座」を受講し、
  ただ一人受け継いだのが山城武徳先生(75歳)で、
  現在の沖縄コーヒーの第一人者です。

・ 沖縄戦以降、10を越える職業に就きながら、
  そのノウハウを全て吸収しているために、
  自身で何でも作り上げる器用さを持ち合わせています。

・ 和宇慶さん同様、中部農林高校の教師となられて、
  基本的な農業知識を持たれてコーヒー栽培に活用されています。

・ 現在、約3,500坪で約2,000本のコーヒーの木を
  栽培されています。

・ 毎年11〜3月ごろ、
  恩納村の体験学習(修学旅行)の受入れをされています。

・ 私は山城先生から、コーヒー栽培を学習させて戴きました。

3.東村の「ヒロコーヒー」
・ 大阪で電気工事をされていた足立浩志さんが、
  ハワイ島のコナ地区でコーヒー栽培を3年修行され、
  小笠原か沖縄かの選択で沖縄を選び、
  苦難の末コーヒー栽培を確率させました。

・ 最初のコーヒー苗木は、前述の山城武徳先生から数鉢買われ、
  コーヒーの実を付けるまでの数年間は
  名護市でタクシーの運転手をされていたのです。

・ 農地を借りるのにも苦労の連続で、
  ようやく現在の土地を農家から直接借りて栽培されています。

・ カフェも出されていますので、
  現在沖縄で「沖縄コーヒー」が堪能出来るのは、
  唯一ここしかないはずです。

その他、鉄骨ガラスハウスやビニールハウスで
コーヒーを栽培されている方や、
露地栽培に挑戦されている方、
離島でのコーヒー栽培…
など県内のコーヒー栽培状況はだいたい把握していますが、
せっかく収穫出来た沖縄コーヒーを
輸入コーヒーと混ぜてしまう方もいて、
“理念”が違うようですから、
ここでは触れないようにしておきます。

沖縄県内では、コーヒーを庭に植えている方は
わりと多く見受けられますが、加工方法が分からず、
あるいは面倒だということで放置されていることが多いです。
もったいないですよね。

沖縄でのコーヒー栽培は“台風”対策が必須で、
またこれを上回る“情熱”がない人は、
次々に脱落しているのが現状なのです。

posted by COFFEE CHERRY at 12:29| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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