2011年05月14日

台湾のコーヒー事情U(2011-6)日本統治時代の興味ある資料を発見B

各国ニ於ケル茶・珈琲ノ消費ヲ論ズ [書写資料] / ジャパン・ヘラルド新聞
明治9年2月11日「大隈重信が書いた」とされる資料です。

西南戦争の前年である
1876年(明治9年)の2月11日という、
おそらく冬のどんより曇った寒い日に
あるいは雪がしんしんと降っている日かもしれませんが、
明治政府の重鎮となった
41歳の大隈重信が大蔵卿内の立派な部屋にこもって
デイリー・ジャパン・ヘラルド(Japan Daily Herald)新聞の
記事の数値をソロバンで、計算尺かな?
とにかく電卓は当時無いですから
面倒な計算をして、コーヒーを飲みながら思いを巡らせ
原稿用紙に筆を走らせていたのでしょうか。

台湾統治は日清戦争後なので1895年(明治28年)ですから、
この大隈資料の作成時期は、まだまだ新政府内の主導権争いの時期で
「台湾コーヒー」とは直接関係ありませんが、
台湾総督府に関する台湾コーヒーの資料を探している時に見つけたので
このカテゴリのファイルに入れてしまいましたが、
マズかったかな…。

この大隈資料の2〜3ページでは、
「各国のコーヒー消費量と人口の割合、1人1年の割合」
つまり
各国における1人当たりの年間消費量の比較」
が書かれています。
紙面の都合上、というより面倒くさいので
2,3ページ下欄の“茶”はカットして、
上欄のコーヒーだけを記しましょう。

重さ(量目)の単位「磅」は“ポンド”のことで、
Wikipediaによると、現在は
1ポンド=16オンス=7000グレーン=0.453 592 37kg
と定義されていて、
英国では1878年の度量衡法によって“帝国ポンド”
1ポンド=約0.453 592 338kg
が定義され、
明治初期は帝国ポンドと思いますが、
数字的にはほとんど大差ないので、
上記の現在の“常用ポンド”で計算しました。

・白耳義 ベルギー 16.875ポンド=7,655g
・和欄 オランダ 13.75ポンド=6,237g
・瑞西 スイス 10.375ポンド=4,706g
・日耳曼 ゲルマン 7.875ポンド=3,572g 
・佛欄西 フランス 4.625ポンド=2,098g 
・墺地利 オーストリア 2.75ポンド=1,247g
・貌列真 プロイセン? 1.875ポンド=851g
・伊太利 イタリア 1.75ポンド=794g
・西班牙 スペイン 0.5ポンド=227g
・露西亜 ロシア 0.333ポンド=151g


(プロイセンは当時のドイツ北部からポーランド西部の王国のことで、
 当時の欧州5大国は、イギリス、フランス、オーストリア、
 プロイセン、ロシアでしたから
「 貌列真」はプロイセンではないかと思うのですが、いかがでしょうか?)

参考までに、現在の
「各国における1人当たりの年間消費量」
は、全日本コーヒー協会の統計資料(PDF)に出ていますので
こちらをご覧下さい。


3ページ後半からの大隈の考察を要約すると、
・茶とコーヒー(を両方見比べると)の消費量が少ないのは
 墺地利(オーストリア)、西班牙(スペイン)、露西亜(ロシア)といった
 先進国(富国)ではない国々だ
・伊太利(イタリア)や佛欄西(フランス)の消費量が少ないのは
 食事でワインを飲むからだ
・諸外国ではビール瓶を数百万本も消費するが、ビールを区別してみると、
 ベルギー、オランダ、スイス、ゲルマン諸国では、
 軽いビールのためにコーヒーをガブ飲みし、
 濃厚なビールを飲むイギリス人は、茶をガブ飲みしている
・不肖私自身はビールを飲まなくなり、ワインを少しだけ飲むが、
 商法会議所の報告によると、輸入の茶は6千万ポンド(2万7,216トン)、
 コーヒーは10万トンという状況になっているものの、
 この一部はその後輸出もしている
・これを全量国内消費したと仮定すると、
 我が国人口4,400万人の老若男女の区別なく計算すると、
 年間国民1人当たり、コーヒーは4.625ポンド(2,098g)、
 茶は1.375ポンド(624g)に過ぎない。
・我が国の茶の消費量はオランダとだいたい同じだが、
 コーヒーは約3倍、ビールに至っては約56倍もの開きがある
・日本茶の消費量は各国と比べても高い部類になる
・日本のコーヒーの消費量はフランスと同等だが、
 フランスにはワインを飲む習慣があり、
 フランス人は年間1人当たり130リットル、つまり200本の瓶を飲んでいるし、
 またその他の果実酒(リンゴ酒)やビールまで換算すると、
 日本のコーヒー消費量はかなり少ないと言わざるを得ない
・そもそもアメリカ人はヨーロッパ各国の人々に比べるとワインを飲む習慣は少なく、
 またビールや茶、コーヒーなどもまだ浸透せず、
 現状は水や牛乳、ウィスキーが中心である
・水と牛乳は優れた飲み物で、
 寒暖差がある地域での労働者にとっては大事な飲み物には違いないが、
 日本では精神力で乗り越えられる
・精神力に効き目があるかどうかは判らないが、
 問題のない飲み物は茶とコーヒー以外にはない
・主旨としては、茶やコーヒーには物品税を課さない、
 また見かたを変えれば茶とコーヒーは
 倹約の徳を持つ人間にこそふさわしい飲料でもある
・最近、イギリスで、同国が輸入する茶についての調査で、
 輸入茶100ポンド(45.4kg)のうち、
 上ランクの茶を飲む人は17ポンド(7.7kg)、
 中ランクの茶を飲む人は38ポンド(17.2kg)、
 下ランクの茶を飲む人は45ポンド(20.4kg)
 といった割合だという

というようなことが書かれています。

また、この明治9年は、太政官布告で、
全国の道路を、その重要度によって
 ・国道
 ・県道
 ・里道

の3種に定められています。

さらに、
これを1〜3等といった級等を定めて、
例えば国道の1等は幅7間(約13m)、
県道は4.5間(約9m)としました。

@ 国道
 ・帝都である東京から各開港場に達するもの
 ・東京より伊勢神宮、及び二府(京都・大阪)各師団に達するもの
 ・東京より各県庁に達するもの、及び各県庁を連結するもの
 ・東京から各鎮守府に達するもの、及び各鎮守府と各師団とを連結するもの
A 県道
 ・各県を連結し、及び各師団より各分営に達するもの
 ・各県を連結し、及び各師団より各分営に達するもの
 ・各府県庁よりその支庁、郡役所に達するもの
 ・著名の区より都府(東京)に達し、
  或いはその辺りに位置すべき便宜の港湾等(鉄道停車場を含む)に達するもの
B 里道
 ・あれこれの数区、大字を貫通し、或いは甲区より乙区に達するもの
 ・用水、堤防、牧場、抗山、製造所などのため、
  設区人民の協議によって特に設けられたもの
 ・神社、仏閣及び田畑耕転のため設けるもの


以下、大隈重信が幕末から出世街道を昇りつめ、
上記の資料を作成するまでの過程を顧みてみましょう。
以下長くなるので興味がない方はここで終了して下さい。


大隈重信は7歳で佐賀(鍋島)藩の藩士子弟を
強制的に教育させるための藩校「弘道館」に入学しています。

一般的に藩校では、
 ・7〜8歳で入学して読み書きを習う
 ・その後武芸を学び
 ・14〜15歳から20歳くらいで卒業する

という、
いわば現在の慶応や立教、青山学院といった
エスカレーター式というか、
一種のキャリア教育のようなシステムで、
教育内容は、儒学の根本経典四書五経、
@ 四書
 ・大学
 ・中庸
 ・論語
 ・孟子
A 五経
 ・易経(周易)
 ・書経(尚書)
 ・詩経
 ・礼(儀礼)
 ・春秋

の素読と習字を中心として、
幕末には
 ・儒学、蘭学、朱子学
 ・武芸(剣術・槍術・柔術・射術・砲術・馬術など)
 ・医学
 ・化学
 ・物理学
 ・西洋兵学

などの専門学寮を併設する
事実上の総合大学にまで発展していたようですが、
大隈の7歳入学は、異例なことではなく、
当時としてはごく普通のことだったようです。

鎖国下、中国とオランダの商船の入港が認められた長崎出島に近い佐賀藩は、
幕府から福岡藩と1年交代での警備を命ぜられていたり、
度重なる台風や洪水、飢饉などの自然災害もあって、
藩財政が苦しかったところに、
幕末の頃には、
 ・イギリスのフリゲート艦が長崎へ侵入して
  オランダ商館の引渡しを要求したフェートン号事件
 ・黒船来航の前後にはプチャーチン率いるロシアの使節団が長崎に寄港
  といった騒動もあり、藩内の緊張は高まり始めて
  10代藩主・鍋島直正は藩政改革の柱として
 ・積極的な支出制限
 ・役人の削減(3割の420名をリストラ)による行政の簡素化、集中化
 ・参勤交代の人数を約100名減
 ・農村の立て直しによる安定した年貢の徴収

の他に
「少壮気鋭の優秀な人材育成」
を掲げます。

江戸時代中期に、
佐賀藩藩士・山本常朝(つねとも)の
武士としての心得や、古人の遺訓、
歴史伝説、実話物語、歴史人物評などについての見解を
“武士道”という用語で口述したものを、
同藩士・田代又左衛門陣基(つらもと)が聞き取り、
さらに田代がその後自身で調べた記録などを加えて巻別に整理し、
全11巻(約1,300章)という大作にまとめあげたのが
「葉隠(はがくれ)聞書(ききがき)」
で、
「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」
という強烈なメッセージで有名な書ですが、
これが江戸中期以降「鍋島魂」の真髄とされ
佐賀藩の思想書、倫理書と位置付けられて
藩校「弘道館」で、この精神を受け継いできたのです。

ちなみに、旧5千円札肖像画の新渡戸(にとべ)稲造による著書「武士道」は、
日本固有の世界観・道徳観を西洋哲学やキリスト教と対比しながら解いた書で、
「鍋島魂」の「葉隠聞書」とはまったく違うものです。

武士道.JPG
 原本は約170ページの英語の本で、
 題名は「BUSHIDO」(武士道)、
 サブタイトルは「THE SOUL OF JAPAN」(日本の魂)
 著者は明治時代のクリスチャン、
 新渡戸稲造(にとべ いなぞう)です。
 名護市図書館から借りましたが
 3,000円もする高価な本です。


“鍋島魂”の「武士道」精神でも、
藩財政の悪化、役人の質的凋落は
現在の日本経済同様でどうにもならないところまできていて、
佐賀藩では“三病”
、つまり
 ・嫉妬
 ・優柔不断
 ・負け惜しみ

も問題視されるようになり、
幕末の10代藩主直正の側近で
藩校教官の古賀穀堂は、
藩政改革の「優秀な人材育成」のために
「学政管見(がくせいかんけん)」
という、
弘道館教育の本質と目標を述べ、
藩主として心がけるべき学政の
最も肝要な点についての意見や
藩政建直しの最重要点として弘道館教育の拡張が記され
有能人材の登用、江戸諸国への遊学の勧めなど
旧封建制の束縛を打開する言説を勧め、
「文武両道」の重要性を説いた思想を藩校教育に取り入れ、
さらに、これを具体化した
「済急封事(さいきゅう ふうじ)」
では、
「この病、高貴、高官の人に甚だしく、
これらの人、不学、文盲にして
自分の持ち前の才学を妬(ねた)み人に利を求める心なく、
道理に暗くただ今日の手数で何事も済む様に覚え、
学問の講究これなく、ただ単に一兵書を聞き覚えるだけで
天下の事はこれにて済む様に存知、
又「葉隠」一巻にて今日の事は事たる様に存知…
槍剣等の一つの小技を覚えただけで心地を試すと大言壮語し、
武事ただ一事一芸にて済む様に存じ、
兵道のこと、武備えの事は到(いた)って疎(うと)く、
御国初以来の合戦の事も聞き覚えぬ位にて、
一生を送る者多く、誠に浅ましい事と言うべき…」

と書かれていて、
 ・学問を軽視し、“武”ばかりが重視されている「葉隠」
 ・「葉隠」さえ読んでいれば事足りる

といった藩風が痛烈に批判されていて、
「視野を広げ、海外の知識や技術を吸収しなければ、
外国船が来ても対応できず、長崎警備の大役は果たせない…」

と、積極的に洋学を推奨し、
「これから新しい時代になる」
という時代の先を読み、先見の明があった古賀の提起を原点に
弘道館の教育方針は
精神論から実用の学問である洋学へ移っていき
副島(そえじま)種臣(たねおみ)や江藤新平、
大隈重信といった優秀な学生が感化されていくのです。

2度目のペリー来航で日米和親条約が締結させられ、
同年のペリー来航前後にはプチャーチン率いるロシアの使節団が
2度にわたって長崎に寄港して
日本中が大混乱になっている翌年の1855年(安政2年)
大隈重信が18歳のときに
弘道館の内生寮(現在の高校・大学に相当)で騒動が起こります。

幕府の弱腰外交で日本中が大混乱になっているさ中でも
内生寮の授業は旧態依然のままで、
ひたすら四書五経を読み、儒学を学ぶばかりなので、
古賀穀堂の「学政管見」や「済急封事」思想を熱烈指示する改革派と
従来の儒学に熱心な保守派とが激しく対立し、
内生寮の南北に分かれての大論争からついには殴り合いに発展し、
議論好きだった大隈は騒動の首謀者とみなされて
弘道館を退学処分になってしまうのです。

大隈はすぐに復学が許されたものの、
内生寮には戻らず同館内の蘭学寮に転入すると、
他の学生たちも大挙して蘭学寮への進学を希望したそうです。
藩校内の南北騒動も、大隈の影響で多くの学生たちの意識を洋学に向けさせ、
視野を広げる大きな契機にもなった出来事だったようですね。

弘道館を卒業した大隈は長崎に出て
英国議会制度や米国合衆国憲法など米英学を学ぶのですが、
ここで米国人宣教師フルベッキに出会い師事,
世界へ目を向け、政治家になることを志し、
1865年(慶応元年)大隈が28歳のときに
長崎に英学塾「致遠館」を設立し、
多くの青年たちを教育します。

その2年前の1863年(文久3年)には、
関門海峡を通過する米国商船を
長州藩は外圧・外敵を撃退する攘夷の攻撃を行いますが
大隈は長州藩援助を企て、
朝廷は長州藩を朝敵であると判断し、
幕府に対して翌年長州征伐の勅命を下すのですが、
大隈は10代佐賀藩主・鍋島直正をかついで
朝幕間に斡旋しようとするも失敗しています。

1867年(慶応3年)3月大隈(30歳)は
佐賀藩士・副島(そえじま)種臣(たねおみ)と共に脱藩し、
勤王の志士として京都に赴(おもむ)き、
徳川15代将軍慶喜に面会して政権奉還を訴えようとするのですが、
捕えられ、捕縛されて佐賀に送還され、1カ月の謹慎処分を受けています。
同年10月に大政奉還され、
同年12月には坂本龍馬が京都の近江屋で
中岡慎太郎と共に刺客に暗殺されますが、
大隈はもしかしたら長崎や京都で、
坂本龍馬とも面談したことがあるのではないでしょうか。

1868年(明治元年)、31歳の大隈は
薩摩藩家老・小松帯刀(たてわき、当時33歳)の推挙で
長崎の外国事務局判事となりますが、
この年、新政府を戦慄させる外交事件が起こります。
新政府は、旧幕時代からのキリスト教禁令の方針をそのまま踏襲し、
信者を弾圧したため各国の公使を憤慨させてしまいます。
英国公使のパークスが各国代表となり、
新政府にキリスト教禁令の撤廃を求めるのですが、
以下、司馬遼太郎の「歳月」によると、

歳月 司馬遼太郎.jpg
 肥前佐賀藩士・江藤新平は1867年(慶応3年、33歳)大政奉還を知るや
 「乱世こそ自分の待ちのぞんでいたときである」と、
 藩の国政への参画と自分の栄達をかけて、藩の外交を担い、上京し、
 卓抜な論理と事務能力で頭角を現します。
 明治維新の激動期を司法卿として敏腕をふるいながらも、
 1873年(明治6年、39歳)の征韓論争で反対派の大久保利通、岩倉具視らと対立し、
 西郷隆盛らと政界を去り、翌年故郷の佐賀で佐賀の乱を起こし、
 41歳の若さで亡くなるのですが、激動の中、その栄光と挫折を描いた歴史小説です。


政府はおどろき、この全権は、佐賀の大隈しかない、ということになった。
「長崎にいる大隈八太郎という佐賀ものは、
 およそ外国人というものを怖れず、かれらを煙に巻き、その前で大法螺をふく」
というのが当時京都まで鳴りひびいていた評判であった。
なにしろパークスは傲岸(こうがん)で怒りっぽい上に、
高圧的態度だけが極東における外交の唯一の手であると信じている男だけに、
それと渡り合う相手としては尋常一様の人物では間にあわず、
よほどの奇物を出す必要があろうというのが新政府の人選方針であった。
大隈はそれにえらばれた。
大隈にとって、かれが歴史の階段を駈けのぼるいわば最初の一段であったであろう。


また、Wikipediaの「大隈重信」の下欄“逸話”によると、  

イギリス公使ハリー・パークスは
「日本の行っている事は野蛮国のすることであり、
今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ。」
と抗議してきた。
その対応に手をこまねいていた明治政府は、交渉役に、
英語が話せ、キリスト教の知識もあった大隈を選び派遣した。
しかし当時大隈はまだ31歳だったため、
パークスは
「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ!」
と激怒したという。
しかし大隈は
「一国の代表者である私と話したくないと言うのなら、
抗議は全面撤回とみなす。
また、あなたの言うことは、
国際法で禁止されている内政干渉である。」
と言い返し、互角に渡った。
パークスは日本を極東の小さな島国ぐらいにしか思っていなかったため、
日本の若者の口から“国際法”や“内政干渉”という
単語が出てきた事に驚いたという。
さらに大隈は
「或る歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。
又或る宗教家は言う、欧州の歴史は即ちキリスト教の歴史なりと。
この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史は即ち戦乱の歴史なり。
キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。
キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、
世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは
是何者の所為なり。」
と続け、
今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとして、
パークスを説得した。


上記のように、海外渡航歴がない大隈は、
「海外の事情には誰よりも精通している」
という自負があり、
政府の期待に応えて英国公使パークスと堂々とわたり合い勇名をはせ,
岩倉使節団たちの度肝を抜いて外国官副知事に抜擢されます。
翌年会計官副知事,次いで大蔵大輔となり,
鉄道・電信の建設,工部省の開設などに尽くし,
1870年(明治3年、33歳)参議に昇進。
1873年(明治6年、36歳)に大蔵卿に就任してから
1881年(明治14年、44歳)10月の政変で辞任するまで,
地租改正,秩禄処分や殖産興業政策をすすめ,
大隈財政を展開して資本主義の基礎を築きました。

今日の大隈の資料は、
1876年(明治9年)2月11日付けですから
そういう出世街道に乗り出した時期のものなのです。


大隈重信の名言
諸君は必ず失敗する。ずいぶん失敗する。
成功があるかも知れませぬけれども、成功より失敗が多い。
失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たなければならぬ。
たびたび失敗すると、そこで大切な経験を得る。
この経験によって、もって成功を期さなければならぬのである。


この言葉は私にとってずいぶん勇気付けてくれるものです。
なにしろ私は失敗の積み重ねで今に至っているのですから。

「沖縄でコーヒー栽培を定着させるためには何が問題で、
 それをどう克服するか?」

という観点で試行錯誤しながら
今後も失敗をピラミッドのごとく積み重ねていかないといけませんね。

posted by COFFEE CHERRY at 20:38| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月10日

台湾コーヒーが日本で流通? 台湾コーヒーが日本で流通?

フジサンケイビジネスアイの
2004年(平成16年)6月26日付10面の
「フルーツとコーヒー豆 台湾が対日輸出拡大へ」
という7年前の記事を、
産経新聞社読者サービス室がご親切に探し出して頂き、
そのコピーを先日郵送して頂くことが出来ました。

フジサンケイビジネスアイの記事.JPG

読者サービス室によると、
「当時の台湾支局の河崎真澄記者が書かれた記事」
とのことで、
台湾産の露地マンゴーやコーヒーが日本向けに輸出され、
「スタバも注目している」
という内容になっています。

この記事は7年前のものですが、
その後“台湾コーヒー豆”が
消費者に浸透出来ているのかというと疑問ですよね。

供給量に問題がないとするなら、
こういう時に問題になるのは「品質」です。
私は生産者ですから、
「産地がどうこう」
という産地にこだわる意見も、もちろんあるでしょうが、
その前に
「消費者が満足出来うる品質なのか?」
ということを、
生産者が自ら自問自答して常々生産していないと
「レベルの高い消費者にとても相手にされない」
と考えて、毎日試行錯誤を続けています。

沖縄でも、少しずつコーヒー栽培をする方が増えていて、
私が掌握しているだけでも約40名に上ります。
それぞれがレベルの高い次元で
“高品質化”を目指して栽培研究しながら
お互いに切磋琢磨して刺激し合いたいところですが、
相変わらず海外産と混ぜながら国産とか沖縄産とかに偽装するとか
化学肥料や除草剤を撒きながら
自然栽培とか有機栽培を主張するとかなどの生産者が居て
「沖縄産コーヒー」の信用を落とす努力をしている人も
残念ながら居るのです。

「売れればいい」
とか
「お土産レベルで充分だ」
とか
「混ぜちゃえば判りっこないよ」
とか、
理念の違いといえばそれまでですが、
私は沖縄でのコーヒー栽培は、
カカオも同様ですが
「本土では出来ない(=露地栽培出来ない)特色ある農産物」
として、
もっともっと真面目に、高いハードルを設けて、
そこに到達する方法を考え抜き、
少しくらい失敗してもあきらめずに
取り組む生産者が増えてほしいと願っています。


アメリカの発明王、トーマス・エジソンも、
下記のような名言を残しています。

・なぜ成功しない人がいるかというと、
 それは考える努力をしないからだ。
・ほとんどすべての人間は、
 もうこれ以上アイデアを考えるのは
 不可能だというところまで行きつき、
 そこでやる気を無くしてしまう。
 勝負はそこからだというのに。
・人生における失敗者の多くは、
 あきらめた時にどれだけ成功に近づいていたかに
 気づかなかった人たちである。
・私たちの最大の弱点はあきらめることにある。
 成功するのに最も確実な方法は、
 常にもう1回だけ試してみることだ。
・失敗なんかしちゃいない。
 うまくいかない方法を700通り見つけただけだ。
・「失敗?」
 これはうまくいかないということを確認した成功だよ。


ということは、
私は失敗の積み重ねなので、
「微力ながら成功に近づきつつある」
のでしょうか?
沖縄の気候風土に最も合う品種もまだ見つけられないので、
まだまだ道は険しいのですが、
コーヒー山の土地所有者の
「何とか国頭村に雇用が出来るようにしてほしい、
 コーヒーが国頭村の特産物になればいいね。
 若者に仕事がなく、名護や那覇に見送るのはつらい。」

という切実な思いを
私が何とか叶えたい、というより
「何としても国頭村でコーヒー栽培を定着させて、高品質の豆を生産させる」
という、
不屈の闘志だけは絶対に曲げられない事情を
私は背負っているのです。

牧場の野鳥110510.JPG
 自宅の近くに牧場があり、
 通りすがりに珍しい野鳥を発見しました。
 海岸から直線距離で約1km、近くには沼もありますし、
 何より大きい、カラスの2〜3倍はあります。
 コウノトリ目サギ科サギ亜科アオサギ属「ムラサキサギ」でしょうか?
 だとすると八重山で繁殖して、
 沖縄本島ではなかなか見られない“迷鳥”扱いされている野鳥で、
 沖縄県のレッドデータブック(「鳥」63ページ下)でも
 絶滅危惧U類に指定されているのですが、
 どなたか詳しい方がいましたら何の鳥か教えて下さい。


放牧110510.JPG
 放牧中の黒牛に混じっている鳥はアマサギです。
 こちらはレッドデータブックに登録がない
 ふつうにどこでも見られる鳥ですが、
 牛に天敵のカラスから守ってもらう代わりに
 牛に付いたハエなどを食べたり、
 牛の背中に載せてもらったりと、
 仲良く共生していて、
 まさに自然のサファリランドですね。
posted by COFFEE CHERRY at 15:07| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月09日

台湾のコーヒー事情U(2011-5)日本統治時代の興味ある資料を発見A

前回「日本統治時代の興味ある資料を発見@」の、
日本統治下での
台湾における当時のコーヒー研究と調査活動状況が書かれている資料には、
 ・明治政府内の推進者とその取り組み
 ・小笠原や沖縄での試験栽培の経過及び結果
 ・当時の海外での現状
 ・当時の日本での需要と可能性
 ・台湾での課題と可能性

などが論じられている可能性があります。

特に沖縄は戦災で資料の多くが焼失して不明なことが多いので、
本島南部の、私の引越し前の住居があった
南風原町の沖縄県公文書館に行ったとしても、
沖縄での明治時代のコーヒー試験の資料が無い可能性が高いと思われますから、
台湾総督府時代のコーヒー関係の資料は
沖縄コーヒーも含めて小笠原も含めた国産コーヒーの歴史をひも解くための
非常に重要な鍵を握っているような気がして
いつか調べなければいけない資料だと考えています。

私のコーヒー栽培事業は、あいにく起業前の零細個人のレベルですから
現実的に黒バケツや黒ポリポット、プランターなど必要資材の購入を最優先すると
残念ながら研究費の余裕はまったく無いので、起業後に事業が安定してから
「台湾を含めた当時の日本のコーヒー栽培の取り組み」
を調べてみようと思います。

また、東洋文庫には以下のような資料があることが判りましたが、
これは東京ですね…。



 ・「雲南省事情」 糟谷廉二著 1924年台湾総督官房調査課編集
 ・「世界におけるカカオ」 芳賀鍬五郎著 1925年台湾総督官房調査課編集
 ・「蘭領東印度に於けるカカオの栽培」 ドクトル・ヴェー・ループケ述 
    台湾総督官房調査課(訳) 1925年台湾総督官房調査課出版



国頭村奥「鯉のぼり祭り」.JPG
 国頭村の奥(おく、という集落名です)で
 5月3〜8日にかけて行われた「奥ヤンバル鯉のぼり祭り」
 の会場です。
 沖縄地方は4月30日に梅雨入りして、5月5日までは
 豪雨状態でしたから500~600もの鯉のぼりも
 雨に取り忘れた洗濯物状態だったようです。
 撮影は昨日8日(日曜)で、曇りでしたが、
 閑散としていましたね。
 昔シンガポールの裏町で見た
 建物の各部屋からポールを外に出して洗濯物を干す姿を
 思い出しました。
posted by COFFEE CHERRY at 14:16| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月22日

台湾のコーヒー事情U(2011-4)日本統治時代の興味ある資料を発見@

現在の台北市の総統府の建物は、
日本統治時代に台湾を統治するために設置した
台湾総督府本庁舎をそのまま継続して使っています。

明治時代の建物は、国内では
栃木県の山縣有朋記念館や
京都の竜谷大学本館といった洋風木造建築や
日光田母沢御用邸や箱根の富士屋ホテルなどの和風木造建築なども
“明治浪漫”の情緒や風情が感じられて良いのですが、
私は個人的には、
レンガ造りで建てられた威厳と風格を備えた重厚な建物が
西洋の列強に追いつこうと西洋化を推し進めるための文明開化としての
「明治時代らしい建物」
と思っています。

ネオ・バロック洋式による
 ・厳格な左右対称
 ・角型ドーム
 ・マンサード屋根
 ・付け柱

などが特長的で
帝国主義的な威厳に満ち溢れていて
現在でも、
 ・北海道庁旧本庁舎
 ・旧富岡製糸場
 ・東京駅丸の内口駅舎
 ・東京都中央区の日銀本店
 ・三井本館
 ・赤坂離宮
 ・横浜開港記念会館
 ・横浜赤レンガ倉庫
 ・舞鶴赤レンガ倉庫群
 ・旧第一銀行京都支店(みずほ銀行)
 ・京都ダマシンカンパニー
 ・元日本銀行京都支店(現・京都府京都文化博物館)
 ・同志社大学
 ・大阪市の泉布観(せんぶかん)
 ・神戸文学館
 ・福岡市文学館(旧日本生命九州支店)
 ・旧福岡県公会堂貴賓館

など、
関東大震災や戦災をくぐりぬけている建物もあります。
そういった歴史ある建造物に入ると
時空を超えてタイムスリップしたような感じになり
当時この廊下を歩いていた人や世相や文学、音楽などを
想像したりするのが私は好きです。


「台湾総督府」
という京都大学農学部図書館編集のPDFファイル(全44ページ)には、

日本統治時代に、
主に台湾に関係する調査・研究資料が
“台湾関係雑誌目録”
というタイトルで記載されていて、
大ざっぱに目を通した範囲では、
コーヒーやバナナなどに関する興味深い資料もありました。

19ページには以下の3冊
・「珈琲 」 桜井芳次郎著 台湾総督府殖産局
  東部台湾開発研究資料1輯 昭和4年 162p 台湾-I-1


・「珈琲及珈琲樹害虫調査報告(1) 」 三輪勇四郎著
  昭和11年 33p 台湾総督府中央研究所農業部彙報126号


・「珈琲園経営方式と珈琲「コロノ」段階論」 根岸勉治著
  台湾農事報 8巻4号別刷 昭和12年 45p 台湾-X-56


35ページには、
・「台湾に於ける芎蕉(バナナ) 」 芳賀鍬五郎著
  台湾総督府殖産局 162p 大正5年 台湾-I-66


・「台湾に於ける茶樹栽培法」  井上房邦著
 台湾総督府殖産局 昭和12年 426p 台湾-I-58


36ページには
・「台湾のバナナ産業」  台湾総督府殖産局編
  昭和10年 74p 台湾-I-82


41ページには
・「台湾在来の「甕に依るバナナ追熟法」に関する研究 」
  台湾総督府中央研究所農業部編 大正15年 74p
  台湾総督府中央研究所農業部彙報40号


PDFファイルの1ページ目には「分類コード」が書かれていて
・I 殖産局(=農林水産担当局)
・X その他
となっています。
いつかお金と時間に余裕があれば、
これらの興味深い資料を調べてみたいと思います。

riu110422.JPG
 我が家の家族のRIUです。
 ラブラドールレトリーバーの8歳(牡)です。
 家族なので室内で寝起きを共にしています。
 首をこの角度で曲げているのは
 「なに?どうしたの?」といっているのですが、
 本当に解からない場面では首を90度に曲げます。
 引越し前から股関節形成不全症で歩行できなくなりましたが
 9カ月経って、2週間前から奇跡的に歩けるようになりました。
 そのためコーヒー山デビューまではもう少しです。
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2011年04月20日

台湾のコーヒー事情U(2011-3)伊藤博文とコーヒー

「1910年(明治43年)に台湾総督府が台湾でコーヒー栽培を始めた」
ということを調べると、
どうも伊藤博文が気になってきます。

明治維新後、函館の五稜郭で旧幕府軍を率いて新政府に敗北した榎本武揚は、
投獄2年半後に明治新政府高官の黒田清隆や大久保利通らの尽力で釈放され、
以降明治政府を支える重鎮として初代逓信大臣を務め、
その後文部大臣・外務大臣・農商務大臣を歴任し、
日清戦争で日本が勝利し台湾を領有した2年後、
榎本が62歳の1897年(明治30年)に、
「榎本殖民団」というコーヒー栽培を目的とした約30人の移民団を
メキシコ南部のチアパス州エスクイントゥラに入植させるのですが、
・日本の環境とまるで違う猛暑での生活
・コーヒー栽培の未経験でコーヒーの植物特製などが判らない
・移民後の支援が皆無で移民団は孤立してたちまち資金難に

などの悪条件が重なって、
コーヒー農園での成功を夢見た殖民地構想も
早々と3ヶ月で実質崩壊してしまうのですが、
台湾総督府が台湾でコーヒー栽培を始める1910年(明治43年)までには
東京や大阪には以下のようにカフェが続々と開店し、
「一般大衆にもコーヒーが浸透しつつあった」
ことも台湾でのコーヒー栽培に至った理由と思われます。

・1884年(明治17年)伊藤博文の2番目の妻・梅子が中心となって行われた
 鹿鳴館婦人慈善会バザーで
 「コーヒー、茶、レモナード」などを売る臨時店舗が2カ所作られた
・1888年(明治21年)「可否茶館」 東京府下谷区上野
・1890年(明治23年)「ダイヤモンド珈琲店」 東京市浅草区浅草公園
・1893年(明治26年)「風月堂喫茶店」 東京市麻布区
・1896年(明治29年)「木村屋(現・木村屋総本店)」東京市京橋区銀座煉瓦街
・1905年(明治38年)「台湾喫茶店・ウーロン亭」 東京市京橋区銀座8丁目
・1910年(明治43年)「メイゾン鴻の巣」 東京市日本橋区日本橋小網町
・1910年(明治43年)「キサラギ」 大阪市西区旧大阪川口居留地の近く


松園珈琲1008-1.JPG
 台湾の花蓮県、松園珈琲の看板です。
 昨年伊佐さんが視察に行った時の画像です。


一方、
西南戦争で西郷隆盛が自刃した翌年、
大久保利通が暗殺された1878年(明治11年)に
インドネシアのジャワ島からコーヒー苗が
小笠原の父島の試験場に移植され
コーヒーの栽培テストが行われています。

明治11年の明治政府は、
明治天皇を主権者として
その下に政府の総責任者である太政大臣が設置され、
それと並行して、
明治維新に功績のあった「参議」が設置されていて、
太政大臣と右大臣、左大臣、
それと参議で、後年の内閣のような役割を担っていたようです。

明治11年の布陣は
太政大臣・三条実美 元公家
その下の右大臣が岩倉具視(左大臣は空白)
その下に実務部門の
 ・大蔵卿 大隈重信 元佐賀藩士
 ・外務卿 寺島宗則 元薩摩藩士
 ・陸軍卿 山形有朋 元長州藩士
 ・海軍卿 空白
 ・司法卿 大木喬任(たかとう) 元佐賀藩士
 ・宮内卿 大徳寺実則 元公家
 ・工部卿 伊藤博文(この下に鉄道局、電信局) 元長州藩士、といっても足軽
 ・文部卿 空白

 ・内務卿 大久保利通  元薩摩藩士 
      5月14日暗殺後の後任は伊藤博文が工部卿と兼務

 ・北海道開拓使 黒田清隆 元薩摩藩士
なお、明治維新に功績のあった「参議」は
 ・大久保利通 元薩摩藩士
 ・大隈重信 元佐賀藩士
 ・大木喬任 元佐賀藩士
 ・伊藤博文 元長州藩士
 ・寺島宗則 元薩摩藩士
 ・山形有朋 元長州藩士
 ・黒田清隆 元薩摩藩士
 ・西郷従道 元薩摩藩士
 ・川村純義 元薩摩藩士
 ・山田顕義(あきよし)元・長州藩士


農業は“内務卿”の担当部署ですが、
小笠原の父島にコーヒー苗が持ち込まれた1878年(明治11年)当時の内務卿は
大久保利通か、大久保暗殺後の後任は伊藤博文ですから
彼らのどちらかが日本国内で最初のコーヒー栽培に関わっていたことになります。

伊藤博文は奥さんがありながら芸者の梅子を妊娠させてしまい、
奥さんを追い出して再婚するのですが、
その2番目の妻・梅子が中心となって
1884年(明治17年)に行われた鹿鳴館婦人慈善会バザーで
「コーヒー、茶、レモナード」などを売る臨時店舗が2カ所作られたというのですから
硬派の大久保利通と軟派な伊藤博文ではどちらかというと
伊藤博文が小笠原でのコーヒー栽培試験の決裁書に
判を押した可能性が高いと思われますが、
決裁したのが伊藤博文だとすれば、
彼はコーヒーについてどんな想いが去来していたのでしょうか。

松園珈琲1008-2.JPG
 これも台湾の花蓮県、松園珈琲の看板で
 前の画像と並んで置いてあったものらしいです。
 店長お奨めの有機コーヒーを飲んでみたいですね。
 200元というと570円くらいかな…。
 昨年伊佐さんが視察に行った時の画像です。


自由党総理の板垣退助が
岐阜県での演説終了後に刺客に襲われ
重傷を負いながら
「板垣死すとも自由は死せず」
と言った1882年(明治15年)、
小笠原にコーヒー苗木が移植された4年後のことですが、
コーヒーが開花し初めての収穫があったようですが、
小笠原でのコーヒー栽培は定着しなかったようです。

小笠原島史によると、
コーヒー導入後28年後の1906年(明治39年)には
「収益面でサトウキビに劣ることから
  コーヒー栽培をする者はなく、放置されている」

と記録されているようですが、
小笠原にジャワからコーヒー苗木が持ち込まれた頃は
幕末から明治時代を迎え、海外諸国と不平等条約を結び
価格の安い海外の砂糖(白糖)が国内に流入し、
もともと南西諸島や小笠原を始めとした一部地域を除き
サトウキビそのものの栽培に不向きな日本では
コストも高く、品質も劣る国産の白砂糖は競争力がなく、
一部西洋型の製糖工場が建設されたものの、
1900年前後には、国内の製糖業は壊滅してしまいますが
日清戦争で勝利して台湾を領有し、
前5千円札肖像画の新渡戸(にとべ)稲造の尽力で
台湾経済の中心に据え置いた製糖業が
今日の近代的製糖業の基礎を築くのですが
小笠原のコーヒーが放置された背景には、
そうした国産糖業のあおりを受けてしまったのです。

台湾アラビカ1008-1.JPG
 台湾ではアラビカ種の中の「何という品種なのか?」
 ということはあまり問題ではないらしく
 「台湾アラビカ」というだけの、かなり大まかでアバウトですが、
 このタネもコーヒー山に撒いて発芽させています。


台湾総督府が台湾でコーヒー栽培を始める1910年(明治43年)は
日本が韓国を併合して領有した年ですが、
その前年、伊藤博文が中国吉林省哈爾濱(ハルビン)駅で
韓国の独立運動家・安重根(あんじゅうこん)に暗殺されてしまいます。

伊藤博文は日本の偉人ですが、
安重根は韓国の英雄です。
1984年までの日本の紙幣の肖像画は
 ・板垣退助
 ・岩倉具視
 ・伊藤博文

など、
幕末から明治時代の革新的な戦った偉人でしたが、
1984年の紙幣改定では、
 ・夏目漱石
 ・新渡戸稲造
 ・福沢諭吉

といった、同じ明治時代でも軍人や政治家は一掃されて、
ソフトな文学者や農学者などになりました。
これは1981年に五輪開催都市がソウルに決定し
1988年にソウル五輪が開催されたことと無関係ではなさそうですね。

大久保利通が暗殺された1878年(明治11年)に
インドネシアのジャワ島からコーヒー苗が
小笠原の父島の試験場に移植されコーヒーの栽培テストが行われましたが、
それをおそらく決裁したのが伊藤博文で
その伊藤博文が暗殺された翌年の1910年(明治43年)に
台湾でコーヒーが栽培されたというのも、
因縁めいているように思えてなりません。

台湾アラビカ1008-2.JPG
 現在沖縄県内で栽培されているコーヒーの品種は
 ブラジル産のものがほとんどですが、
 私は「ハワイやフィリピン、台湾、インドで栽培されている品種の方が
 沖縄の気候環境や土壌に向いている」と考えるようになり、
 近隣諸国からコーヒーのタネを取り寄せてタネ植えを始めています。
 ブラジル産は、断定出来ませんが、沖縄ではどうも生育期間が短いようで
 15年を過ぎると枯れ出す傾向にあるような感じがしています。
 そのため当初は出来る限り多くの品種を栽培しますが
 生育状況を見ながら、将来的に栽培品種を換えていくことも考慮しています。

posted by COFFEE CHERRY at 23:43| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月04日

台湾のコーヒー事情U(2011-2)

「東インド会社から清国に届いたコーヒー苗木を
 台湾最南端の恒春(こうしゅん)の山林地帯に植えたのが、
 台湾コーヒーの起源らしい」

というように前回は結論付けましたが、
今回は日本統治時代の1910年(明治43年)に
日本の意向でコーヒー栽培を始めるに至る時代背景を
考えてみたいと思います。

また、1910年というのは、
私には「非常に“意味”がある」と思っていますので、
それは次回に書きたいと思います。

戦後の紙幣(日本銀行券)は、
・百円札  聖徳太子(1946〜1956年)
      板垣退助(1953〜1974年)
・五百円札 岩倉具視(1951〜1971年)
      岩倉具視(1969〜1994年)
・千円札  日本武尊(1945〜1946年)
      聖徳太子(1950〜1965年)
      伊藤博文(1963〜1986年)
      夏目漱石(1984〜2007年)
      野口英世(2004年〜)
・二千円札 首里城の守礼の門(裏面は源氏物語絵巻、2000年〜)
・五千円札 聖徳太子(1957〜1986年)
      新渡戸稲造(1984〜2007年)
      樋口一葉(2004年〜)
・一万円札 聖徳太子(1958〜1986年)
      福沢諭吉(1984年〜2007年)
      福沢諭吉(2004年〜)
というように、
戦後の荒廃の時期から高度成長期にかけての紙幣は
日本の建国や政治に関わった
聖徳太子や伊藤博文、岩倉具視などの人物でしたが、
1984年以降では(二千円札は例外)政治家が消え
作家や教育者、文学者、農学者などの文化人に一新されています。
もちろん、単にデザインが変わっただけではなく
高度な印刷技術で最新の偽札防止の対策も施されているようです。

大国林道110402.JPG
 大宜味村塩屋から国頭村与那の県道2号線までの
 全長35.5km、幅員5mの広域基幹林道、
 大国(おおぐに)林道です。
 1977年に着工され1994年に17年と50億円弱をかけて完成。
 絶滅危惧種が多い生態系の森林帯の中を全面舗装されていて、
 とても野生動物保護には思えない立派な道路を
 毎日コーヒー山に行くために通行していますが、
 小さなカーブが多く、ほとんど出会わない車にまれに出会うと、
 危ない場面が多いです。
 ヤンバルクイナやリュウキュウイノシシが横断したり
 リュウキュウヤマガメが歩行していたりします。
 大金をかけて通行量がほとんど無い立派な林道を作る目的は
 与那覇岳付近の山水をもらうためか、
 知事や県議が土建業者に何か弱みを握られているのか、
 県には実はお金が余っているのか、よくわかりません。


台湾を日本が統治するのは
日本と清国による日清戦争で日本が勝利し、
その結果、下関条約によって
 ・朝鮮の独立
 ・台湾、澎湖諸島の割譲
 ・中国遼東半島の割譲

などを日本が得るのですが、
台湾は、それ以降、
第二次世界大戦敗戦後のポツダム宣言によって
台湾が大日本から中華民国に編入されるまでの50年間を
“日本統治時代”といわれています。

日本は幕末から明治時代に入り、
産業が急速に発達し、商品が大量生産化されるのですが、
国内需要に対し供給過多に陥り、国内で消費がはけない分、
武力を後ろだてにして朝鮮に進出して、
綿製品や雑貨などをどんどん輸出するようになるのですが、
以前から朝鮮を属国と捉えていた清国も朝鮮に
織物や紡績製品などを盛んに輸出していたことで
日本と清国の軋轢(あつれき)が高まり
李朝政府の悪政と清国の侵略に対する農民の内乱(甲午農民戦争)を契機に
清国軍がその鎮圧のために出兵し、
また日本も出兵し、その解決策を巡って争い
ついに日清戦争が始まってしまいます。

黄海で日本海軍の連合艦隊が
清国の北洋艦隊に撃破して序盤で制海権を奪い、
陸上戦(北朝鮮)に対する清国軍の海上補給路を断つことで
戦争を圧倒的に有利に進めた日本は
17ヶ月に及んだ戦いに勝利し、
上記の下関条約で、
日本が求めた台湾地域(台湾島と澎湖諸島)を得ることに至ったのです。

ヒカゲヘゴ110402-1.JPG
 三葉虫の全盛期・古生代の
 約3億6千年前から存在しているといわれる
 日本で最大のシダ植物ヒカゲヘゴです。
 日陰という名前のわりには直射日光が当たる場所にも
 生えています。
 沖縄の、とくに森林一帯では、ふつうに見れて
 珍しくはありません。


日本統治の初期段階は、
 ・初代 樺山資紀(かばやま すけのり 元薩摩藩士)陸軍大将
  (在任1985年5月〜1896年6月、13か月)
 ・2代 桂 太郎(元長州藩士)海軍大将
  (在任1896年6月〜1896年10月、5カ月)
 ・3代 乃木希典(のぎ まれすけ 元長州藩士)陸軍中将
  (在任 1896年10月〜1898年2月、1年4カ月)
   愚将か名将かは別にして、日露戦争では第三軍司令官として
   激戦の末、旅順を陥落させ“軍神”化、NHK「坂の上の雲」では柄本明が出演
 ・4代 児玉 源太郎(元長州藩士)陸軍中将
  (在任 1898年2月〜1906年4月、8年3カ月)
など、
薩摩長州出身の一流の人材を投入し
武力による強硬な植民地政策を打ち出したことで抗日運動が激化し、
児玉源太郎が4代台湾総督に任命されると、
それまでの、
台湾を食料の供給と資本蓄積の基地として位置づけした
「人種・文化が類似する台湾は日本との同化が可能」
「台湾は内地の一部なので内地法を適用させるべき」
という、
日本の経済構造にそのまま取り組む考え方から
「内地の外の植民地だから同化は困難と考えるべきで
 内地法を適用せず、独立した特殊な政策で統治するべき」

と主張する、
当時内務省の官僚だった後藤新平を民生長官に抜擢して
台湾の社会風俗や伝統文化などを調査、政策に加味して
徐々に同化の方法を模索する特別統治主義で
台湾統治を進めました。

後藤新平は医師でもあり、
日清戦争の帰還兵に対する検疫業務の事務長官として
その行政手腕の巧みさから、
当時直属上司だった児玉源太郎が女房役に抜擢したといわれています。

台湾総督府民生局(その後民生部に)は、
台湾総督部に置かれた“行政・司法”の担当部局で、
他に
 ・陸軍局
 ・海軍局
が設置されていました。

総督は、もちろん政務・軍務を統括する役職ですが
軍人総督は内地も兼務していて多忙でしたから
実際の統治は、現場の指揮官として民生長官が行っていたようです。

この民政局の中に、
「台湾総督府殖産(しょくさん)局」
があり、
ここでは
 ・農業
 ・工業
 ・水産業
 ・林業
 ・鉱業
などを担当し、
台湾領有した1895年に
台北市内に試作用の田圃が
台湾初の農業試験施設といわれ、
その後、台北・台中、台南に
台湾農業の研究や改良を目的に
台湾総統府農事試験場が設けられ、
これらは台湾省農業試験所に移管され
現在に至っています。

後藤新平は
「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」
「社会の習慣や制度は、生物と同様で
 相応の理由と必要性から発生したものであり、
 無理に変更すれば、当然大きな反発を招く。
 よって現地を知悉し、状況に合わせた施政を
 行っていくべきである」

という、自らの
“生物学の原則”
で、
徹底した現地調査を行い、
経済改革と道路、鉄道、上下水道、港湾などのインフラ(社会基盤)整備、
農業改革、教育、医療・衛生環境の大改善などに尽力します。

1895年の下関条約締結当時、
清国の全権大使・李鴻章(り こうしょう)は
伊藤博文首相に対し、
「台湾には四害あり、統治は不可能」
として、
日本に台湾割譲をあきらめさせようとしたのですが、
この“四害”とは、
 ・アヘン
 ・土匪(どひ、=追いはぎ、というか
     黒澤明監督の映画「七人の侍」の野武士軍団のような
     悪党集団のような)
 ・生蕃(せいばん、抗日の山地原住民)
 ・瘴癘(しょうれい、=風土病)
のことです。
1874年(明治7年)に、
琉球島民殺害の罪を問うために
明治政府と日本軍が初めて海外派兵した台湾出兵では、
日本軍3,600人のうち、8割近い2,800人が
「台湾熱」マラリアにかかり525人が死亡しています。
(7人に1人が風土病で死んでいる高率)
また、下関条約締結後の台湾平定時でさえも
「日本軍戦死者164人に対し、4,642人の病死者が出た」
といわれています。

当時の台湾では、
 ・ペスト
 ・コレラ
 ・マラリア
 ・ジフテリア
 ・チフス
 ・赤痢
 ・発疹

など
当時は伝染病のデパートのようなありようで、
「漢人の移民でも生存率3割、
 平均寿命30歳前後」

という恐ろしい土地でしたから、
台湾統治でまずやらなければならないのが
衛生事業でした。

台湾領有当初16万9千人もいたというアヘン吸引者には、
アヘンに効率の税金をかけることで吸引者を激減させ
その税収を衛生改善に充てたり、
(50年後の終戦時にはアヘン吸引者は皆無)
悪疫予防のために、台北市などの都市では
公園道路や上下水道を完備させ
主要道路は舗装して道路脇に側溝を作り
汚水雨水の排出を速やかにさせるなどを行っています。

また、伝染病を抑えるために
台湾医学校を設立し、ここから多くの台湾人医師が育ちました。
内地から100人を超える医師を台湾に連れて来て全島各地に配置し、
近代的衛生教育を徹底させる公医制度をはじめ、
病院、予防消毒事業団の設立など
次々と衛生改善策も講じています。

そんな児玉源太郎と後藤新平の
八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍コンビが
台湾農業振興のために三顧の礼で迎えたのが
日本で最初の農学博士・新渡戸稲造(にとべ いなぞう)です。
そうです、4年前まで使われていた5千円札の肖像画の人です。

新渡戸(にとべ)の祖父は盛岡藩の勘定奉行でしたが、
盛岡藩は、戊辰(ぼしん)戦争中に
 ・陸奥国(奥州)
 ・出羽国(羽州)
 ・越後国(越州)
の各藩の同盟で新政府に対抗する
奥羽越(おおうえつ)列藩(れっぱん)同盟に属していたことで、
新渡戸(いとべ)も、廃藩置県の行われた明治5年に
「これからは新しい時代だから懸命に勉強して
家名を上げなくてはならない」
として上京し、やがて米国やドイツに留学するのですが、
当時の岩手県から上京する若者の多くは
「賊軍の汚名を晴らすには天下の権を握らなければならない」
という強い志を持ち、政治家を志望したようです。
また、
「新渡戸(にとべ)が行くなら」
と後を追うように上京したのが
後に総理大臣として暗殺される原 敬(はら たかし)であり、
それ以前に上京していたのが後藤新平でした。

現在の千円札の野口英世も、会津藩(福島県)という
賊軍中の賊軍の出身ですから
大病院や大学病院は薩摩藩や長州藩出身者が占有しているために
海外留学せざるを得ない背景があったわけで、
東北人は気骨ある偉人が多いですね。

新渡戸(にとべ)は米国留学から帰国後に
台湾総督府民生局長の後藤新平から台湾に呼ばれ、
殖産局長(=農林水産部長)に任命されます。

新渡戸(にとべ)は着任から台湾全土を巡り
サトウキビの製糖産業に着眼し、
2ヶ月後には砂糖の研究のために
ジャワ(当時はオランダ領東インド)に行って
「台湾は砂糖を作ることによって農業を生かしてゆくべきだ」
という
「糖業改良意見書」
を書きあげ、
台湾総督府は台湾の砂糖きび栽培を大規模で進めます。

この意見書の初めには
「一、糖業奨励法の発布
   機関の発動は法令の拠るべきものなくんばあらず、
   依て律令を以て糖業奨励法を発布せられ、
   奨励の方法特典の付与監督制裁等に関する諸件を
   規定せらるるの必要あり、即ち別紙に草按を附せり。」

とあって、
要するに
「台湾糖業は明治政府の保護育成が必要」
ということが説かれているのですが、
以下の主な内容は、
 ・品種の改良 在来種より生産性の高い品種に変更すること
 ・沖縄やハワイから外国種を入手すること
 ・ショ糖の栽培方法の改良
 ・灌漑を行なうこと
 ・水利の不便な田畑を砂糖栽培に転換する
 ・精製糖での技術改良を計る
 ・地域によっては大型圧搾機は設置できないので小型圧搾機を開発する
 ・日本に入る輸入外国糖に関税を引き上げにより、戻し税を行う
 ・交通路の整備及び輸送費の補助政策を打ち出す
 ・砂糖販売網の拡充を図る
 ・ショ糖の公定価格の安定を図る
 ・糖業教育の充実を図る
 ・産業組合の整備(現在の農業協同組合のような組織)を行う
 ・事業計画書を作成し糖業への投資や起業の参考にすること
 ・出版物による糖業の啓蒙をする
 ・甘蔗保険の充実させる
 ・副産物の奨励(アルコールの製造)を行う
など、
新渡戸(にとべ)の台湾農業振興政策は
すぐれた内容になっています。

1900年には3万トンだった台湾製糖は
1940年には50倍以上の160万トンになり
世界の砂糖生産において
第2位(1位はハワイ)にまで躍進することになり
台湾糖業の振興が台湾財政の独立に大きく貢献しました。

新渡戸(にとべ)が、台湾着任後に
なぜハワイではなくてジャワに行ったのか?
という部分も、興味深いところで本当は書きたいのですが
長くなるので、また機会があれば書くことにしましょう。

台湾の東部中央の花蓮県には
「ニトベカズラ」という植物があって、
これは日本語読みでも同じらしいですが、
これは「新渡戸(にとべ)葛(かずら)」への親しみから
住民が名付けたらしいといわれるくらい
新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は
台湾では高い評価を得ているのですが
日本では
「新渡戸稲造って誰?」
とか
「なんて読むの?」
という人が多くて…。

台湾統治の児玉源太郎、後藤新平のコンビに
新たに新渡戸稲造が加わったことで最強トリオになり
農事試験場は台湾近代農学研究を押し進める
主要機関に成長していきます。

台湾総督府は
 ・1899 年 台北、台中、台南に農事試験場を設置
 ・1903 年 この三つの試験場を合併して台湾総督府農事試験場になる
これは台湾最初の近代農学研究機関であり、
その後、
 ・1905 年 種畜場
 ・1906 年 糖業試験場
 ・1908 年 園芸試験場
 ・1910 年 茶樹栽培試験場
を設立するのですが、
台湾雲林省古坑郷の華山休聞産業促進会に伊佐が出向いて、
そこの理事から直接聞いた話で
「台湾のコーヒーは1910年 日本統治時代に日本人が始めた」
ということから推察すると
 ・新渡戸稲造は台湾総督府で殖産局長に就任する前に
  米国やドイツに留学して、すでにコーヒーを飲む習慣があった
  (奥さんは米国人で台湾赴任前にフィラデルフィアで結婚している)
 ・またハワイの製糖技術も米国留学中に学習していたはず
 ・台湾での糖業政策のためにジャワに視察に行っているが、
  当時のジャワはオランダ領でコーヒープランテーションもあった
 ・日本でのコーヒー栽培は、小笠原で成功しながら
  収益面で製糖に押されたことで放置され、その後沖縄の東村で
  大規模に栽培されたが、台風で農園が壊滅し、
  その後「台湾で成功した」といわれている
 ・台湾総督府の殖産局長といっても、新渡戸以外は
  農学に精通している人物がいない
  新渡戸稲造の後任・祝辰巳(いわい たつみ 1904年6月〜1906年11月)は
  帝国大学法科を卒業し大蔵省入りした官僚で農学にはうといし、
  その次の竹島慶四郎(1906年11月〜1907年3月)も
  帝国大学法科の明治29年卒業で内務省の官僚だし、
  さらにその次の宮尾舜治(みやお しゅんじ 1907年3月〜1910年9月)も
  帝大法科卒業で大蔵省入りした官僚で、専門は税務だし、
  その後の高田元治郎(1910年9月〜1919年8月)も帝大法科卒の官僚と
  新渡戸稲造以降の殖産局長は帝大法科卒の官僚ばかりで
  農学に秀でる人が不在

となると、
「新渡戸稲造が台湾コーヒーに関わっている可能性が高い」
という仮説を考えるのがふつうだと思います。

ヒカゲヘゴ110402-2.JPG
 通勤する県道2号線や大国林道沿いにも
 ヒカゲヘゴが多く生えていて、
 亜熱帯らしい環境をかもしだしています。
 ヒカゲヘゴが成長して幹が太くなると、
 この黒い下の方の部分を切り取ってホームセンターなどに売りに行く
 野蛮人がいるようで、林道から少し入ったところには
 切られたヒカリヘゴが倒されている光景を時々見かけます。
 「怪しい人を見かけたら110番通報」
 といっても、怪しい人だらけのような気もするし、
 学者が生態研究をしに山に入っているようにも見えますし、
 私も他から見れば怪しいかもしれませんし…。


台湾では、高価な烏龍(ウーロン)茶が有名で
今でこそ中国茶の名産国ですが、
台湾における茶栽培の歴史は、実はそれほど古くはありません。

台湾の学者・連雅堂の「台湾通史」(1962年発刊、全36巻)によれば
清朝の1796年に
「福建省の武夷山から台湾北部に茶樹が持ち込まれた」
というのが始まりとされています。
当時の日本は徳川幕府第11代将軍家斉(いえなり)の寛政時代で
この2年前には浮世絵界に東洲斎写楽が出現し
10か月の活動後に姿を消しています。
フランスではナポレオンがジョセフィーヌと結婚して
イタリア遠征の司令官に抜擢された年で英雄化の道を歩み始める頃ですから、
お茶の歴史的には、意外と思うほど新しいのです。

それから69年後の1865年、
日本は慶応元年という幕末のあわただしい中で、
井伊直弼は5年前に桜田門外で暗殺されていて、
この年は神戸海軍操練所が廃止され、亀山社中が設立、
坂本龍馬や高杉晋作、小松帯刀、中岡新太郎、桂小五郎らが暗躍し、
武市半平太が獄中切腹、岡田以蔵らが斬首された年です。
米国では南北戦争の真っただ中でリンカーンが暗殺された年でもあります。
この1865年に、台湾が82トンの烏龍茶を
初めてアモイ(福建省廈門市)に輸出しています。

それからさらに19年後の1884年、
日本はすでに明治(17年)に入り、
廃藩置県や琉球処分(琉球国を琉球藩として強制的に沖縄県として併合されてしまう)も
10年以上前に終わって
大日本帝国憲法(明治憲法)が制定される4年前、
欧風文化を真似た文明開化の象徴、
貴族社会の社交界・鹿鳴館時代が始まり上流婦人の洋装が流行した年ですが、
この1884年に、台湾の烏龍茶輸出量は約6千トンに達しています。
19年前の、実に約73倍もの数量ですから
当時の清朝にとって茶は輸出品として
非常に重要な地位を占めていたと思われます。

中国(=清国)では、
インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対し、
清が越南(ベトナム)宗主権を維持しようとして対抗し、
清仏戦争(1884〜1885年)が起きますが、
清仏天津条約によって冊封国・越南を失い、
さらに1886年には緬甸(ビルマ、後のミャンマー)は
イギリスにより英緬戦争で併合され、
清国は東アジアの覇者の地位が危うくなる時期にある頃の1885 年、
清国は台湾に劉銘傳(学者・軍略家)を派遣し、
茶産業重視政策によって烏龍茶製造技術の改良、生産区域の拡大、
同業者組合の整理など多大な効果を発揮させ
量産化を進めています。

徳川幕府が強大な戦力を有するペリー艦隊に開国させられ
欧米列強に対応出来ないと気づいた諸藩が
勤皇志士と呼ばれる若者の台頭を許し、
長州は尊王攘夷から倒幕に傾き、
1858年(安政8年)、アメリカ、オランダ、イギリス、
フランス、ポルトガルの
5カ国と通商条約を結び、
長崎・神戸・横浜・新潟・函館の港を開いたことで、
日本の生糸が欧米で知られるようになりました。
当時生糸生産国のフランスやイタリアでは
カイコに粒状の斑点が出来る伝染病が猛威を奮っていたことで
日本の生糸輸出が伸びたものの、
欧米での伝染病の鎮静化と共に日本の生糸の評価は低下してしまいます。
そこで明治政府がフランスの製糸機械を導入し
国策で富岡製糸場が創業され
1893年(明治26年)に民間に払い下げられますが、
この頃は全国各地に民営製糸工場が乱立し
富岡の若い工女たちの多くは、士族の誇り高い女性たちだったようで、
当時の全国の若い女性たちの哀史が戦前の日本を支えていたのです。
その1893年という明治中期に
台湾の烏龍茶輸出量は9,800トンにも上っています。

その2年後の1895年、日本が台湾を領有することになりましたが、
日本政府は引き続き、台湾の“茶産業”の基盤を受け継ぎ、
 ・製茶機械の導入
 ・茶の検査機構の設立
など茶産業の近代化を図って茶の品質を向上させ、
産出量、製造量、輸出量も飛躍的に上昇することとなりました。
この時期の茶園面積は46,406ヘクタール、
年間総生産量は17,000トンにまで増加しています。

前5千円札の新渡戸稲造が台湾総督府の
殖産局長在任中の1903年、
茶製造試験場が台湾北西部の桃園県に設立され
(現在の台湾の茶業における国立試験研究機関である
 行政院農業委員会茶業改良場で、現在台湾桃園国際空港がある県)
本格的な茶樹の研究や製品の運搬技術など
様々な研究が行われ
大きな成果を現代にも残しています。

また当時の日本の緑茶生産地でも台湾茶業振興への協力がみられ
「台湾の茶業」
という本には、
「製茶器械を利用して品質の改良及生産費の節減(中略)等
斯業の発展を企図するは急務中の急務なり、
故に総督は各所に茶樹栽培試験所を設け(中略)
器械製茶の利益を示し人民を啓発するに努め
漸次人工製茶を脱して民業器械製茶場設立の域に達せんとす」

と書かれています。

1910 年には日本の実業家によって、日本台湾製茶株式会社が設立され
1911年には台湾総督府殖産局が、
日本商人に対して台湾茶の従業者を養成する茶業講習会を開催しています。

日本の製茶機械として手動式のながら高性能の“望月式”が、
台湾を領有した翌年の1896年には
台湾に導入、普及されたことで、
それまでの台湾茶が
「台湾は其の地理的関係から見、又歴史的関係から見ても、
 其處に生産せられる茶は対岸支那福州の茶に似て居る」

という低評価だったものが、
品質の安定した上等品に変ぼうしたのだそうです。

太平洋戦争後、台湾の茶産業は一時的に衰退したようですが
かたくなに味を変えないことで現在の地位があるのですが、
一方日本では大量生産化したことで日本茶本来の味を見失い
停滞下降した現状に至っています。
やはりお茶は作り手の技と誇り、伝統というのが大事なような気がしますね。

台湾は215年前の1796年、烏龍茶に始まり
1881年には包種茶(発酵度が低く緑茶に近い烏龍茶で花のような香りのある茶)
1903 年には紅茶も栽培され、
戦後の1949年には緑茶も生産され始めています。

こういう歴史を振り返ると
台湾でのコーヒー栽培が正確に1910年かは
証拠になる文献を見ていないので何とも言えませんが
「農学者・新渡戸稲造が関わっている可能性が相当高い」
というように思えるのですがいかがでしょうか?

posted by COFFEE CHERRY at 18:02| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月20日

台湾のコーヒー事情U(2011-1)

過去の台湾コーヒーの記事
2006年5月18日「台湾のコーヒー事情」
2009年9月16日「台湾コーヒーの最新事情2009-1」
2009年10月21日「台湾コーヒーの最新事情2009-2」
「2009-2」は、シリーズで記述する予定が
尻切れトンボになっていたようで済みませんでした。


私のコーヒー後継者の伊佐さんが、
先月下旬に台湾のコーヒー事情の視察に2年ぶりに行きました。
那覇空港からの各都市(空港)までの距離は、

国内   東京  1,721km
     名古屋  1,470km
    大阪(伊丹)1,304km
    福岡  1,008km

     鹿児島   758km

海外  台湾  655km
    上海  792km
    香港  845km
    マニラ 1,300km

というように、那覇空港からは
「鹿児島より台湾の方が近い」
ので、沖縄からはとても行きやすいのです。

古坑珈琲-1.JPG
 台湾でのコーヒー栽培は、雲林(うんりん)県の古坑(ここう)郷だけでなく、
 台南県などでも栽培されています。


今回は、
 @ 台湾で栽培しているコーヒー品種を調べ、そのタネを入手すること
 A 収穫した実の果皮や果肉を除去するパルパーという機械を調べること
 B 脱穀方法を調べること
 C 防風対策を含めた栽培方法を見聞すること

などが主なMissionで、
要するに、
「素直に“台湾から学ぶ”」
ということです。

古坑珈琲-2.JPG>
 古坑珈琲の案内板

「中南米とコーヒー」
とか
「エチオピアとコーヒー」
というとイメージが湧きますが、
「台湾とコーヒー」
は、なにか違和感がありますよね。
「沖縄とコーヒー」
も同じでしょうか。
それでも台湾のコーヒーの歴史は沖縄よりだいぶ古いのです。

古坑珈琲-3.JPG
 台湾コーヒーの由来が書いてあります。
 ネットのエキサイトでの翻訳は面倒なので省略。


「父が2代将軍徳川秀忠で、母は浅井長政の三女で
織田信長の姪にもあたる江の次男」

というと
3代将軍家光ですが、
その家光が48歳で生涯を閉じる7年前(1644年)というと、
島原の乱を制圧して鎖国体制を完成させ、
寛永の大飢饉の真っ最中ですが、
この頃、中国では明から清になり、
大清帝国は1912年まで268年間(江戸幕府は265年間)
中国を支配することになります。

古坑珈琲-4.JPG
 古坑珈琲の加工工程

一方、15世紀中ごろから始まった大航海時代以降
欧州列強の世界進出は、大帆船時代と産業革命を経て
世界全体を対象とした植民地獲得競争の時代を迎えました。

その先頭を走る大英帝国は
世界に残された最後の新天地である中国(=清国)を目指しますが、
当時の清国は鎖国状態で自由貿易を認めていなかったこともあり、
大英帝国は清国の開港地・広州から
大量の茶や陶磁器、絹などを輸入するものの、
その対価として対中輸出する産品が無いために
清国相手に巨額な貿易赤字を出すことになります。
その対策として、
 ・大英帝国で製造された工業製品を植民地のインドに輸出し、
 ・インドからは清国に麻薬のアヘンを輸出して、
 ・中国から大英帝国が茶などを輸入する

という三角貿易を行い貿易黒字を出すようになりますが、
その後清国でアヘンの流行が社会問題化し始めたことで、
清国はアヘン禁止令を出すに至ります。
それでも東インド会社は個人貿易商を国のダミーにして
嫌がる清国をしり目にアヘンの輸出を続行したことで、
近代兵器で武装する大英帝国と衰え著しい清国間で、
ついにアヘン戦争が勃発することに至るのです。

古坑珈琲-5.JPG
 世界のコーヒーの味の比較

ジョン・ローンが主演の映画「The Last Emperor」は
アヘン戦争終盤から大日本帝国が暗躍するまでに
翻弄された最後の皇帝・溥儀(ふぎ)の人間ドラマが描かれていて
映画をご覧になられた方も多いことと思います。

前置きが長くなりましたが、
三角貿易で、東インド会社から清国にアヘンが輸出される時に
当時インドで栽培されていたコーヒーの苗木も
清国に少量入って来たらしく、
「インドの気候に似ている台湾島最南端の
恒春(こうしゅん)の山林地域でコーヒー栽培を始めた」

というのが、どうも台湾コーヒーの起源のようなのです。

イギリス東インド会社といえば、
軍隊を抱えてインドの統治までを行っていたらしく、
そういえば、「小公女セーラ」では
主人公セーラの父親はキャプテン・クルーですから
東インド会社のクルー大尉(Captain)として
フランス人の妻と、夫婦揃ってインドに長期赴任し、
セーラが生まれたようですね。
原作には現地で生まれた子供は
「小さいうちにロンドンに寄宿するのが通例」
だったような記述もありますし、
友人からの誘いでダイヤモンド鉱山に出資していたようですから、
「小公女セーラ」の原作もなかなか歴史的に面白い文献ですね。

次回に続きます。
posted by COFFEE CHERRY at 23:34| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月21日

台湾コーヒーの最新事情2009-2

人類の歴史の中でも重要な著作の1つといわれる
「種の起原」
を書いたチャールズ・ダーウィンの最初の本は
「ビーグル号航海記」
で、
これは彼が22歳から5年間、
世界一周をしたときの旅行記ですが、
この旅で彼は生物進化論についての着想をしたようです。

スケールの違いはありますが、
榎本武揚(たけあき)は
幕末の1862年(文久2年)に27歳でオランダに留学し、
5年後の1867年(慶応3年)、
32歳で帰国しましたが、
留学先のオランダでコーヒーを飲んで
コーヒー栽培に興味を持ったのだと思います。

林床地の雨水槽091019.JPG
 台風18号台風の接近以降、
 沖縄本島でも時々雨が降るようになり、
 先週の16日(金曜)には
 国頭(くにがみ)で61.5mmの降雨があり、
 コーヒー山でも雨水槽が7〜8割まで
 雨水が溜まりひと安心です。



豊臣秀吉や徳川家康は
キリスト教宣教師の領土的野心と
教徒の団結を警戒していたのですが、
ポルトガルやスペインが貿易の条件として
キリスト教の布教を求めていたのに対して
オランダとイギリスは布教を求めないことから
大阪冬の陣の前年の1613年に
第2代将軍徳川秀忠が禁教令を発令してキリスト教を禁止し
平戸(ひらど)藩平戸にオランダとイギリスが商館を建て
ポルトガルやスペインとの国交を断絶していたのですが、
平戸の商館(後に出島に移る)内では
当然コーヒーも出されていたでしょうし、
役人や商人、遊女の出島の出入りは認められていましたから
その中ではコーヒーを飲んだ人もいたことでしょうし、
幕府は日本人の海外渡航を禁じていたものの
幕府公認の海外交易船の朱印船が東南アジアに出向き、
シャム(現タイ)で活躍した山田長政を始めとして
実際には朱印船の渡航先であるベトナムやタイ、
カンボジア、フィリピン、台湾などで
長期滞在した日本人が多くいたり、
またオランダ領東インド(現インドネシア)で
雇用された日本人もいて
ジャワではコーヒーやサトウキビ、タバコなどが
強制栽培されていましたから
こういう情報も出島から入ってきていたのでしょう。

林床地091019-1.JPG
 先週金曜の大雨のおかげで、
 コーヒー山の森林もすっかりすがすがしさを取り戻し、
 木々が活き活きとしてきました。
 19日(月曜)の林床地の地面にも充分な潤いがあり、
 コーヒーは予想以上に元気に成育しています。

 
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが
強硬な態度で幕府に開国を迫ったことで
幕府は日米和親(わしん)条約を結んで開国することになり、
その4年後の1858年には日米修好通商条約が結ばれて
神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港場に
外国人居留地を開設することや
外国人の治外法権を認めたのですが、
翌年から始まった貿易では、主にイギリスに生糸と茶を輸出し、
繊維製品や武器を輸入していましたが、
貿易が始まったことで輸出品が国内で品薄になり、
それに連動して諸物価も上がり、庶民生活が圧迫されて、
貿易に対する反感から、
外国人を排斥する攘夷(じょうい)運動が高まり
激動の幕末に突入してゆくのですが、
ペリー提督が4席の黒船で最初に浦賀に来航した1853年に
当時18歳の榎本武揚はジョン万次郎の私塾で英語を学び、
1862年、幕府は先進国の軍事技術・学問修得のために
長崎海軍伝習所の卒業生の中から優秀な者5人を選抜し
さらに法律や医学の4名、
大工、鋳物師、鍛冶職、水夫等の技術職人6人を加えた15人を、
当初はアメリカに派遣留学させる予定が
南北戦争勃発の影響で
留学先が急にオランダに変更されるのですが、
当時27歳の榎本武揚は
船具、運用、砲術、機関学を学ぶために
このメンバーに抜擢されているのです。

林床地091019-2.JPG
 林床地の落ち葉の心地よいクッションを感じながら歩くと、
 オオシマゼミやクロイワツクツクの秋のセミの声や、
 ホントウアカヒゲやリュウキュウアカショウビンなどの
 野鳥の声、カエルたちの声がやさしく響き、
 また時おり不思議な静寂さもあり、
 すがすがしい木や大地の香りを胸いっぱいに吸い込むと、
 元気が湧き出してくるのです。



幕府の第1回留学生の渡航の1ヶ月前には
生麦事件がありました。
1858年の日米修好通商条約や
イギリス、フランス、オランダ、ロシアと修好条約も結び
横浜港は1859年に開港し、
「山下居留地は1863年に完成した」
といわれていますから
まだ幕府が日本風の造りで造成中の1862年にも
米国や英国、フランス、オランダ、ロシアから
貿易や観光目的で居留地に住む外国人がいて、
その人口も急増して、
やがて1865年に日本で最初のコーヒーハウスが
横浜居留地に開店することになるのですが、
その1862年には薩摩藩主の父・島津久光
(篤姫の養父・島津斉彬の弟)が
文久の改革提案要請のために
800人の大行列で江戸に出向いた帰りに、
東海道の生麦村(現・横浜市鶴見区生麦)で
島津久光の大行列に横浜居留地の英国人4人が
乗馬のまま大行列に逆流して、
久光の乗る駕籠(かご)のすぐ近くまで迫ったことで
供回りの藩主たちが抜刀して騎乗の英国人に切りかかり
3人の死傷者が出た事件が生麦事件なのですが
この事件の賠償責任問題から
翌年には薩英戦争に発展し、
その後薩摩藩が攘夷が不可能であることを理解し
英国は幕府支持から薩摩藩支持に変更して
相互に理解を深めることになるのです。

キノボリトカゲ091013.JPG
 台風18号台風通過後の沖縄は、
 すっかり秋の気配に包まれてきました。
 コーヒー山でもきのこやドングリが
 目に付くようになっています。
 小さな恐竜のようなキノボリトカゲは
 1日に何度も出会いますが、
 画像の彼は北山のリュウキュウマツの切り株で
 私を注視していました。


幕臣の榎本武揚は
国家公務員1種に採用されたようなキャリア・エリートで
18歳の頃に江川太郎左衛門の塾でオランダ語、
ジョン万次郎から英語も学び
長崎海軍伝習所では勝海舟と共に
オランダ人教師によって
西洋技術・航海術・蘭学・化学などを学び、
伝習所に隣接する出島で
交易しているオランダ船から
最新の世界情勢なども聞いていたはずで
榎本武揚はオランダ留学前から
コーヒー栽培に思い入れがあったことは間違いなさそうです。

榎本武揚は、オランダ留学中に
単に国際法や軍事知識、造船・船舶に関する
知識習得だけに留まらず
プロイセン王国とオーストリア帝国との
戦争(普墺戦争)も体験し
「国はどうあるべきなのか」
を憂慮しながら、
留学5年後の1867年(慶応3年)4月に
幕府がオランダに発注して完成直後の
軍艦・開陽丸で帰国し(当時32歳)、
幕府軍艦組頭取(艦長)に任命されて
大阪湾を警護することになるのですが、
同年10月には、
15代将軍徳川慶喜は起死回生の策として
朝廷に対し恭順の意を表し、
新しく成立するであろう新政府において重要な地位に立って、
大名連合政権の上に立とうとする考えで
幕府の政権を朝廷に返上する表明(大政奉還)を実行し
徳川の政治的生き残りを図るのですが、
11月には京都・近江屋で
坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺され、
12月には薩長の倒幕派が太政官制度を復活させ、
天皇を中心とした新政府を樹立し、
徳川から朝廷への政権交代を宣言するに至り
その後、徳川を盟主とする旧幕府勢力と
薩長を主体とする新政府が対立して、
鳥羽・伏見の戦いを機に戊辰(ぼしん)戦争が勃発、
新政府に敗れ去った慶喜は、
江戸城無血開城を経て降伏するのですが、
慶喜降伏後も一部の旧幕府勢力が東北などで抵抗し、
幕臣を従えた榎本武揚を総裁とした五稜郭の
箱館戦争を最後に新政府が勝利し、
戊辰戦争は終結してこうして明治維新が始まり、
日本も本格的に近代化の時代を向かえることになるのですが、
降伏して投獄された榎本武揚は
才能を高く評価されて1872年(明治5年)
勝海舟とともに新政府に登用され、
1879年(明治12年)に外務大臣に就任し、
同年、小笠原でコーヒー栽培を始めています。

与那の売り物件0909.JPG
 58号線の与那トンネルを出て右側が与那集落ですが、
 珍しく売り物件が出ていました。
 先祖崇拝の沖縄では
 仏壇がとても重要な意味がありますから、
 一軒家を貸すとか売るとかはなかなか少ないのですが、
 近年「売り家」看板を
 あちこちで見かけるようになりましたね。

 

オランダ東インド会社の
コーヒー農園(インドネシアのジャワ)では
日本人労働者もいましたし、
オランダとは江戸時代から国交があり、
また榎本武揚自身も留学していた関係で、
ジャワからコーヒー苗木を
小笠原に運んだものと思われます。

小笠原ではコーヒー苗木は順調に生育し、
数年後には収穫出来たらしいのですが、
当時はコーヒーよりもサトウキビの方が収益性が高く、
またサトウキビは植え付け後の管理はなく、
収穫も人手さえあれば特別な加工もなく
単純作業で済みますから、
小笠原ではコーヒー栽培農家は自然消滅したようです。
その後、明治時代後半に
「沖縄でコーヒー栽培をしたが台風で全滅し、
        台湾で栽培することになった」

といわれているのですが、
具体的に何の文献に、
どう記載されているのかが不明なので、
これはいずれ私が沖縄県公文書館で
直接調べたいと思っていますが、
日本ルートでは、
小笠原〜沖縄の後に「台湾」でコーヒー栽培が始まりました。
“日本ルート”とは別に、
「中国(当時は清)ルート」
でもコーヒー栽培が導入されているようで、
どちらが先なのかはよく判りません。

次回はいよいよ最終回です。
自宅の引越し準備やリフォームなどが重なり、
またパソコンの調子が悪い時があって、
ブログに書きたい材料は豊富にあるのですが、
なかなか更新出来ないでいます。
コーヒー山での作業は順調に進んでいますし、
コーヒーやバニラなどの生育も予想以上に元気で
“適地”だと確信しています。


オオヒキガエル091013.JPG
 林床地内の雨水貯水槽の中に
 ヒキガエル科の最大種「オオヒキガエル」のつがいが
 入っているのを見つけました。
 体長は約15cmはある大型のカエルで、
 サバンナや熱帯雨林に棲息していて
 沖縄にはもともといないカエルでしたが、
 約30年前にサトウキビ畑の害虫駆除の目的で、
 南米から石垣島にテスト導入され、
 以降爆発的に繁殖して、
 近年では石垣島で「捕獲作戦」も何度も行われているのに、
 今や島の人口より多くなっているようです。
 2005年には外来生物法により特定外来生物に指定されて、
 すっかりvillainになりましたが、
 これがコーヒー山にいたとは…。
 オオヒキガエルは大型で
 有毒種のために天敵もいないようで、
 多くの小昆虫が食べられたり、
 間違ってオオヒキガエルを食べた動物が毒で死んだり、
 やんばるの生態系に悪影響を及ぼすのは
 マングースや捨て猫、捨て犬、
 人間だけではないようですね。
 この水槽には卵が数万個も
 産みつけられているはずですから、
 貴重な雨水ですが、次回捨てないといけませんね。


posted by COFFEE CHERRY at 18:34| 沖縄 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月16日

台湾コーヒーの最新事情2009-1

私のコーヒーのproject partnerが先月台湾に行き、
雲林県古坑(クーカン)郷のコーヒー農園を視察してきて、
しかも貴重な台湾コーヒーの種も入手することが出来たので、
これは後日コーヒー山で大切に発芽させるとして、
台湾コーヒーの歴史や現状、
彼の視察のレポートをご紹介する前に
「台湾コーヒーが日本とどう関わっているか」
も、
流れとして知っておかなければいけないことなので、
日本のコーヒー栽培の歴史も再検証しながら、
数回に分けて書くことにしました。

台湾スターバックス0908.JPG
 台湾スターバックスは日本の1995年設立の3年後、
 1998年に「統一星巴克(股)有限公司」として
 台湾1の大手食品メーカー・統一グループと提携して
 店舗展開を進めていて、
 2009年3月現在では台湾に223店舗があるそうです。
 (同時期の日本は842店舗)
 2005年3月のデータでは、
 ・アメリカ 9,010店舗
 ・カナダ   725店舗
 ・日本    666店舗
 ・イギリス  528店舗
 ・中国    213店舗
 ・台湾    189店舗
 ・韓国    187店舗
 で、中国、台湾、韓国でのコーヒーの認知度は
 イマイチのようです。
 それなのに沖縄よりも台湾の方が
 コーヒー栽培ははるかに進んでいて
 私も負けられないところです。


米国で、まだ南北戦争が行われている中の大統領選挙で
リンカーンが当選し、
北軍が南部のアトランタを陥落させた
1864年(元治元年)の日本では、
京都で新撰組が長州藩を中心とする尊皇攘夷派が
潜伏する池田屋を襲撃し、
横浜では、山手外国人居留地に
コーヒーハウスが次々に開店したのですが、
その2年後の1866年(慶応2年)には
イギリス・フランス・アメリカ・オランダの
4国の強い要望によって
江戸幕府が「改税約書」を締結させられたことで
輸入関税が大幅に引き下げられて
以降日本国内でも徐々に
コーヒーが認知されてくることになるのですが、
それでも明治政府の通関記録に
輸入量が現れる明治10年(1877年)当時の物価では、
平均米価が1斗(約15kg)55銭5厘に対し、
コーヒー1kgの輸入価格は32銭6厘となっていますから、
当時のコーヒー1kg = 米約8.8kg(5.9升)
に相当し、
これは、現在の標準的な精米価格を
5kg2,000円として換算すると
当時のコーヒー1kg = 現在のお米換算3.520円
コーヒーカップ1杯の焙煎豆を10gとすると、
コーヒーカップ1杯分の輸入価格は35.2円になり
これに流通経費や利益がのるわけですから、
当時のコーヒーは
かなり高価な飲物だったことが解かります。

明治10年以降明治45年(1912年)までは、
日本のコーヒー生豆の輸入量は微増するものの
年間100トンを超えていません。
 ・明治10年(1877年)の生豆輸入量 18トン
 ・明治元年(1868年)の日本の人口が約3,400万人
 ・当時の国民1人あたりのコーヒー輸入量は約0.4g
  (生豆輸入量を100トンとしても2.2g)


 ・2008年10月1日の日本の人口 1億2,777万人
 ・2008年度のコーヒー生豆換算輸入量 42万3千トン
 ・2008年度の国民1人あたりのコーヒー輸入量は約3.3kg


以上の比較からしても
「いくらコーヒーが文明開化的な
 ハイカラな飲物であったとしても、
 明治時代では高価なことがネックで
 国民にはコーヒーはほとんど浸透していなかった」

ということはいえそうですね。

台湾のCAFE8.JPG
 台北市から西南約80kmに位置する新竹市(しんちくし)は、
 台北と台中のほぼ中間の台湾海峡の海岸沿いの
 台湾のシリコンバレーといわれる町ですが、
 この町にあるcafe8新竹林森店です。
 cafe8は台北市内にも内湖店、開封店、漢生西店、
 圓山店などがあるように
 台湾のお洒落な若者ご用達の店のようです。


日本のコーヒー伝来は、
1569年(永録12年)、日本にキリスト教布教のために
ポルトガルからやってきた宣教師ルイス・フロイスが、
時の権力者、織田信長に布教許可をもらうため、
ポルトガルから持ってきた
金平糖(こんぺいとう)を献上したり、
同時に
「信長にコーヒーを飲ませた」
という説や
ガリレオ・ガリレイが望遠鏡(10倍)を作成して
天体観測をした1609年(慶長14年)、
同年は薩摩島津軍が奄美・琉球を侵略した年ですが、
この年に長崎・平戸ではオランダ商館が開設されて、
「ここからコーヒーが入ってきた」
という全日本コーヒー協会の説などがあり、
それぞれ興味深いのですが、
今日のテーマの「台湾コーヒー」の始まりは
1884年(明治17年)ともいわれていて、
日本のコーヒー栽培はそれより前の
1878(明治11年)〜1879年(明治12年)ごろに
小笠原で始まっていることを考えると、
「小笠原 → 沖縄 → 台湾」
という栽培地の流れに着目したいのです。

キリスト教の布教を貿易の条件として求める
ポルトガルとスペイン2国の来航を禁じた江戸時代に
長崎・平戸にあるオランダ商館では、
一部の日本人がコーヒーを飲んだのは間違いないでしょうし、
幕末の幕府軍から明治政府の要職に就いた
榎本武揚(たけあき)は、
日本のコーヒー栽培への思い入れが強く、
日本のコーヒー栽培でも深く関わっているようです。

台湾のコーヒー飲料.JPG
 台湾で売られているコーヒー飲料です。
 これらの評価のレポートがないことを考えると…


戊辰戦争で敗戦となった東北諸藩の藩士や
廃藩置県(明治4年)、地租改正(明治6年)によって
財政的基盤を失った旧藩の士族の救済をメインの目的に
北海道開拓の移住が行われたのに対して、
明治元年以降に行われた海外移民は、
ほとんどが資本も教育もない
貧困にあえぐ職人を中心とした一般国民が、
出稼ぎ目的で鉱山や農場の過酷な労働に携わる形式の移住で、
ハワイのコーヒー農園でも、
もちろん初期移民団は
過酷な労働に明け暮れていたのですが、
1887年(明治20年)には、
福沢諭吉の弟子・井上角五郎が
米国のカリフォルニア州シエラネバダに土地を購入して
広島県人30余人を連れて入植した農業が失敗したり、
1889年(明治22年)には荒井達爾(たつじ)が
熊本県人50人を連れて米国ワシントン州に入植して
失敗したことを受けて、
1892年(明治24)に外務大臣に就任した榎本武揚は、
従来の出稼ぎ目的の移民の送り出しではなく、
日本の資本による国策として外国で土地を購入または借用し、
移民を入植・開墾・定住させる「殖民論」を唱えて、
それを実現するために外務省に移民課を設置し、
移住適地調査といった施策を実施しようとするのですが、
彼の後任大臣が、この政策を引き継がなかったために、
彼は内閣総辞職による外相辞任後の
1893年(明治26年)58歳の時に、
自らの理想を実現するためメキシコ殖産協会を設立して
メキシコ合衆国に植民地(榎本植民地)を
建設する事業を計画し、
日墨拓殖会社を設立し
チアバス州エスクイントラに土地を年賦で購入し、
1897年(明治30年)には35人が渡航するのですが、
この事業も不毛の大地と資金不足のために、
この翌年には早々と挫折してしまうのです。
この事業がコーヒー栽培だったのです。

次回に続く…

生豆を撒く0909.JPG
 コーヒー山に植えた苗木の生育は、
 特に林床地では移植してから1年経っていないのに
 よほど栽培環境が合っているのか
 予想以上に元気に成長しています。
 この林床地のあちこちに海外の生豆を撒いてみました。
 もちろんパーチメントやシルバースキンが無い
 純然たる“生豆”ですし、
 しかも数年前の古いものですから
 まず発芽しないと思いますが、
 捨てるのも可哀そうだし、一応山に撒いてみたのです。
 1本でも奇跡的に発芽してくれないかな。
 これはグアテマラ産の小粒の生豆です。

posted by COFFEE CHERRY at 18:31| 沖縄 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月18日

台湾のコーヒー事情

台湾というと、中国茶の印象が強く、
コーヒーのイメージはなかなか湧かないのですが、
若者を中心に近年急激にコーヒーが浸透して、
コーヒー栽培的に見ても、意外なことに
零細規模の沖縄コーヒーの比ではないほど規模が大きいのです。

今や、台北は中国語圏の中で、
最もコーヒーショップの密度が高い都市となっているのです。


台湾でのコーヒー
コーヒーは、台湾では
永らく富裕層の贅沢な嗜好品としての認識のために、
輸入数量がもともと少ないことはありましたが、
1998年以降コーヒー豆の輸入量が急増し、
2005年度の輸入数量は
10年前に比べて3倍を超えるほど成長しました。

台湾の税関当局の資料によると、
昨年(2005年)の生豆の総輸入量は1万191トン、
金額ベースでも1,900万米ドル(約23億円)を
突破しています。

年間の1人当たりの平均消費量でも、
10年前の53杯から123杯にまで増えています。

1人当たりの名目国内総生産(GDP)が
1万6千米ドルに迫る台湾では、
「量より質を求める消費傾向」
にあって、
台湾のコーヒー協会では
「新鮮なコーヒーを好む本物志向の消費者が急増している」
と分析するように、
焙煎豆より生豆での自家焙煎を好む“通”志向にあるようです。

それを裏付けるように、
焙煎豆の輸入数量はほぼ横ばいで推移していて、
加工製品など、その他のコーヒーは
昨年初めて前年度割れとなっています。

参考:国民1人当たりのGDPの比較(2004年度)
・ 日本  約3万6千米ドル
・ 香港  約2万3千米ドル
・ 台湾  約1万5千米ドル
・ 韓国  約1万4千米ドル
・ 中国   1,261米ドル


コーヒー人気に伴ない、喫茶店の出店密度も高くなり、
2003年度では台湾全土で約1,200店舗にも上り、
急激な出店ラッシュによる乱立も懸念され始めています。

すでに日米外国資本の
・ スターバックス(台湾名・「星巴克」)
  食品大手の統一企業などと提携し店舗展開をしています。
  2001年度75店、2005年度168店
・ ダンティ(台湾名・「丹堤」)
・ シアトルズベストカフェ(台湾名・「西雅図」)
・ イズコーヒー(台湾名・「伊是」)
・ 真鍋(1999年日本から進出)
・ 珈琲館(1992年日本から進出)
などのカフェチェーン店舗が続々と進出していて、
コーヒー1杯の値段は
スタンド式の大衆的なチェーン店の
35台湾ドル(1台湾ドル=3.5円)から、
日本の喫茶店方式の100台湾ドル程度まで、
TPOに応じて選べるようになっています。
 台湾の「IS COFFEE」.jpg

2002年度のカフェチェーン店は731店舗に上り、
ファストフード店の695店を上回りました。

ランチェスター戦略の「シェア理論」の通りに、
シェア争いは激化の一途で、
各社は店舗拡大にしのぎを削っているようです。

2002年度の台湾のコーヒー市場(総消費金額)は
135億台湾ドル(約459億円)、
昨年度(2005年)は150億台湾ドル(約525億円)
となって、
台湾人の生活の中で、コーヒーは確実に定着しているのです。


台湾のコーヒー栽培
沖縄がコーヒー栽培の北限なのですから、
沖縄の南西に位置する台湾は、
もちろんコーヒー栽培が可能で、
台湾産コーヒーも栽培されているのです。

台湾では、
・ 南投県
・ 雲林県
・ 嘉義県
・ 台南県
・ 高雄県
・ 塀東県
・ 台東県
・ 花蓮県
など、主に中南部が産地となっていますが、
総栽培面積は、
250ヘクタール(約75万坪)にも及んでいると言われています。

コーヒー栽培で、250ヘクタールという面積は、
中南米や東南アジア、アフリカの大産地と比較すると、
1%にも満たないのかもしれませんが、
250ヘクタールの70%に、1坪1本のコーヒーを植えて、
平均3sの収量があったと仮定しますと、

75万坪×0.7×3s=1,575トン
にも及びます。

ハワイのコナ・コーヒーの生産量は
年間900トンと言われていますから、
それをはるかにしのぐことになりますが、
本当なのでしょうかexclamation&question

話半分でもすごいですよね。
沖縄コーヒーは総量でも年間3〜4トンなのですから。

昨年2005年10月には
台湾で「コーヒーイベント」も開かれていて、
実際に自分の目で確かめたく、
ぜひ視察に行きたかったのですが、行きそびれてしまいました。

タイトル:「2005台湾コーヒーフェスティバル」
開催地: 古坑郷緑色隧道公園、剣湖山ワールドなど
内容:  雲林地区を「台湾コーヒーのふるさと」と産地宣言をして、
     コーヒー文化が盛んな国々を招聘するなど、
     国際的なイベントに拡大し、
     古坑コーヒーの付加価値を高めていく。

会場にはコーヒーテーマ館、コーヒーストリートなどを設け、
世界コーヒー交易会、台湾産コーヒー豆品評会、
コーヒーを使った美食の宴などのイベントが催されたようです。

台湾のコーヒー栽培は、沖縄の気候環境的にも近く、
視察しなければなりませんね。

参考サイト
・ 古坑の台湾コーヒー
・ フォトアルバム 台湾のコーヒーを探して
・ これが台湾、だから台湾 「臺灣珈琲」
posted by COFFEE CHERRY at 14:39| 沖縄 ☀| Comment(2) | TrackBack(1) | 台湾のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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