2009年01月04日

江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考えるF(最終回)

江戸時代の地方分権から、
明治政府が中央集権化を図るために、
明治5年(1871年)、
全国261の藩を廃して府県を置く政策をとるのですが、
鹿児島県(薩摩藩)の管轄下にあった琉球国は、
一度「琉球藩」にされて明治政府の直轄に移された上で、
明治12年(1879年)に強制的に「沖縄県」に移行されて
約500年間続いた琉球王国は滅んでしまいました。

希少動物の階段1.JPG
やんばるの横断道路・県道2号線には
U字溝の横に希少動物の階段らしきものが
20m間隔で設置されていました。


琉球王朝最後の国王・第19代・尚泰王(しょうたいおう)は
琉球藩の藩王として家族と共に東京に強制的に移住させられ、
沖縄県になった以降も沖縄に帰郷することなく
東京で亡くなるのですが、
尚泰王の四男・尚順(しょうじゅん)が
明治25年(1892年)20歳のときに東京から沖縄に帰り、
以降、琉球新報や沖縄銀行などを創設する一方で、
自身の邸宅の庭を基に農園を開き、
パイナップル、グァバなどの沖縄県外から
果樹や観賞用植物を積極的に導入し、
沖縄農業の発展にも寄与されたのですが、
この農園「桃原(とうばる)農園」は
その後の沖縄戦で壊滅的打撃を受け
自身も1945年6月17日の沖縄戦のさ中で
亡くなってしまうのです。

希少動物の階段2.JPG
カメやトカゲがU字溝に落下した時の
救命用の階段のつもりなのでしょうかexclamation&question


昭和20年(1945年)4月1日に沖縄本島中西部の
読谷(よみたん)村海岸から米軍は上陸し、
長期持久戦に臨む日本軍と激しい戦闘を繰り広げて
沖縄住民を巻き込むのですが、
米軍は海上の戦艦からの艦砲射撃や
戦闘機による空爆と機銃掃射、
戦車を先頭に火炎放射器による攻撃、
ガソリンを流し込む等の壕への馬乗り攻撃による戦闘を行い
6月15日から6月18日にかけては現・糸満市にまで
日本軍や住民は米軍に追いやられて、
鉄血勤皇隊や義勇隊、ひめゆり隊、白梅隊、瑞泉隊、
でいご隊などの学徒隊などに動員された
沖縄師範学校学徒隊が次々に全滅していったのですが、
父が琉球王朝の最後の国王であり、
自身も今後の沖縄の発展を望みながら
その沖縄が日米軍に踏みにじられて、
郷土が焼かれ、住民が虐殺されていく様を見ながら
亡くなることはさぞ無念だったのではないかと思います。

照首山の山麓.JPG
コーヒー山の近くの照首山です。
ヒカゲヘゴと幹が白っぽいスダジイの間から
ティラノザウルスが飛び出して来ても
おかしくはない光景ですね。


江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える1
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える2
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える3
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える4
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える5
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える6

T型フォードが1908年に米国で発売され、
以降、自動車産業ピラミッドが
世界経済を牽引してきましたが、
昨秋から激変の時代に突入して一気に世情不安になり
新しい時代への移行期といえば聞こえが良いのでしょうが、
なにやら「平家物語」を連想するような
栄枯盛衰の雲行きになってきました。

平家物語
祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、
盛者必衰の理をあらは(わ)す。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏(ひとへ)に風の前の塵(ちり)に同じ。


「祇園精舎の鐘の音には、
 諸行無常、すなわちこの世のすべての現象は
絶えず変化していくものだという響きがあります。
(釈迦入滅のときに白色に変じたという)
沙羅双樹の花の色は、どんなに勢いが盛んな者も
必ず衰えるものであるという
道理をあらわしているように思えます。
おごり高ぶった人も、その栄えはずっとは続かず、
春の夜の夢のようにはかないものです。
勇猛な者でさえ、ついには滅び去り、
まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようなものです。」


年末のつわぶきの花.JPG
年末にコーヒー山のオーナーにご挨拶に伺いました。
その道中に咲いていたツワブキの黄色い花です。


T型フォードから始まった1908年は、
奇しくも尚家(しょうけ)の
「桃原(とうばる)農園」
が開かれたころですが、
「この農園にはCoffeeの木も植えられていた」
と、
コーヒー山のオーナーから聞かされました。

沖縄のコーヒー栽培の歴史は以前ご紹介した通りですから
「沖縄でコーヒーは栽培出来るかexclamation&question出来ないかexclamation&question
という質問はすでに愚問であり、
今後の沖縄コーヒーは
『質と量』
を極めてゆくことで、
沖縄が国産コーヒーの名産地に成り得るわけですが、
江戸時代の
 ・ 『土地に応じ』た高品質
 ・ 他にはない『比類無き』特色
 ・ あせらない長期戦略
 ・ 生産者自らの創意と工夫

が特産を名産に育て上げる、
という思想から検証すると、

@『土地に応じ』た高品質化について
コーヒー栽培は「コーヒーベルト」といって、
一般に
「南北回帰線の内側で露地栽培が可能」
といわれていますが、
沖縄の日照や気温、降雨量などの気候環境は
コーヒー栽培上まったく問題はなく、
また、沖縄ではどの地域でも
土壌を選ばず放任で露地栽培が可能ですから
風対策さえすれば
明治以降何度もコーヒー栽培がTryされているように
「土地に応じている」
といえましょう。

沖縄以外での栽培候補地では
小笠原諸島か南西諸島ですが
小笠原は雨量が少なく、
南西諸島では徳之島で露地栽培されていて
屋久島では失敗していますが、
広大な栽培面積はとても望めませんし、
ましてや本土でのハウス栽培では
日照不足で木が病弱になり高品質化は無理で、
台風対策さえ充分に行えば
ますます沖縄の優位性が明確になるはずです。

また、高品質化には、
本島中北部の柑橘系果樹栽培に向いている
国頭(くにがみ)マージという
酸性土壌で栽培することが必要条件になりますが
この土壌のweak pointは
カルシウム、マグネシウム、カリウム成分などが脆弱の
「痩せて地力がない」
ことで、
それを補うために
 ・有機ぼかし、米ヌカ、海草、植物堆肥などを使う
 ・完全発酵した牛糞か豚糞堆肥を使う
 ・本島南部の肥沃なアルカリ質のジャーカル土壌を
  客土して土壌改良する

などで、
コーヒー栽培に最適な土壌作りが出来ると考えられます。

年末の与那海岸.JPG
 12月31日の夕方の与那海岸です。
 当日は9mの風が吹いて
 日中気温も14℃で寒い1日でした。
 本土ではこれくらいの波は普通でしょうが
 沖縄の海岸ではこれでもだいぶシケています。


A他にはない『比類無き』特色について
海外から輸入されるコーヒー生豆は
植物検疫で害虫が1匹でも見つかると
生豆は豆類なので、
内部の奥深くまで入り込んだ害虫を殺すために
発ガン性の疑いがある臭化メチル(24〜72時間)や
特定毒物に指定されている燐火アルミニウム(5〜9日間)で
くん蒸処理されますが、
(廃棄や返送する商社は少ないでしょう?)
沖縄産は「国産コーヒー」ですから
本土に生豆を発送するとしても
“くん蒸処理”はされず、
除草剤や農薬を絶対に使用しない栽培法に限り
世界最高の安全性は保証されるはずで、
これは大きな特色でもあるはずです。

年末の重機の道.JPG
 コーヒー山でも強風のために
 コーヒー苗木の3鉢が倒れていました。
 沖縄は年末から1月中旬までが一番寒いのですが、
 コーヒー苗木たちは元気一杯で安心しました。


B「あせらない長期戦略」については
自宅のやんばるの引越し先は決まっていて、
残りの苗木の搬入と引越し先のリフォームさえ終われば
コーヒー山までの通勤も
片道20分で行けるようになるのですが、
引越し先では苗木を大量に作り、集落の民家に無償提供して、
地域ぐるみでコーヒーに取り組めるようにしたいと
年末に山のオーナーと意気投合したのですが、
品質的にレベルアップさせるためにも
コーヒーの栽培基準を作って作業標準化を目指し、
加工所を設けて地元からの弱者の雇用もして
地域ぐるみでの所得の向上につながり
やがては国頭村が
「コーヒーの里」宣言をしてもらえるような
土台作りをしてゆきたいと考えていて、
私自身が弱者なのですから、
あせらず長期戦で構えています。

年末の北山山頂.JPG
 コーヒー山の北山山頂の雨水貯水システムです。
 山には落葉樹も多く、
 青いシートにも
 たくさんの落ち葉が降り積もっていました。


C「生産者自らの創意と工夫」では…
 ・ 種植えの最適時期
 ・ 苗木移植最適時期
 ・ 日照や日陰の影響

など、
コーヒーの生態を再度研究しなおして
「コーヒーの栽培基準」
作りをするのは当然としても
「コーヒーの白い花が
 春の新月・満月の大潮前後に咲くことが多い」
「新月にコーヒーの種植えをすると、徒長苗が多くなる」

ことから、
月と農業(コーヒー)との関係も
見直さなければなりません。

ウミガメや魚、カニ、珊瑚などが
大潮の満潮時に産卵することは、
よく知られるところですが、
これは人間や犬猫など
動物にも言えること(自然分娩の場合)で
「満月や新月の上げ潮時から満潮時にかけて出産が多い」
という傾向があり、
それとは反対に
「引き潮時から干潮時にかけて臨終をお迎えする」
傾向もあると言われています。

また、虫の発生(孵化)時期が
「大潮の時期と合致している」
といわれています。
「種植えは満月、苗木移植は新月」
も、再度原点から比較実験も行って
コーヒーに最適な栽培基準を作り出したいと思います。

「高品質のコーヒー豆を作るには
 木にストレスを与えず健全に育成させる必要がある」
「コーヒーの木のHappy Lifeを重視することが
 美味しい実の恵みを受けるはず」

というのが私の基本理念で、
「そのためにはどう栽培したら
 コーヒーの木がHappy Lifeになるのか」

を常に考えながら
栽培努力を積み重ねてゆく必要もあるはずです。

以上@〜Cを実践することで
「沖縄コーヒーのブランド化は充分可能」
と確信していますし、
周りにどう思われようとも
「まず小さな成功モデルをつくり
  小さな村おこしとPax Okinawanaに貢献出来れば…」

と本気で考えているのです。

花芽の出始め.JPG
コーヒー山の中腹の「竹の広場」から奥の
 重機の道に植えたコーヒー苗木には、
 花芽が出始めました。
 根の活着が予想より早く
 根付いているようです。


自生え期待の落下した種.JPG
 コーヒー山の中山山頂の手前では
 コーヒーの赤い種が自然落下していました。
 自生えを期待して、そのままにしてきました。


posted by COFFEE CHERRY at 16:20| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代の農政から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月27日

江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考えるE

ひところ、
「会社は誰のためのものexclamation&question
というトンチンカンな論議があって、
米国流の株主主権論とかが持てはやされたり、
「顧客満足(Customer satisfaction)」
という概念が流行普及したりしていましたが、
今秋の米国型金融の破たん後の世界の激変や
大量解雇の報道を見ていると、
「顧客満足よりも、まず自社の社員を
満足させられない会社に未来はなさそう」

と思う今日このごろです。

キノボリトカゲ0812.JPG
コーヒー山に多数棲息するキノボリトカゲですが、
どうも天敵が減少する冬に孵化しているようで、
地表を歩いている子供をよく見かけます。
この画像は、雨水貯蓄用の
45リットルのポリペールに入り込んでしまって
出られずに困っているキノボリトカゲです。
もちろん、雨水は入っていません。


さて
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える1
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える2
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える3
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える4
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える5
の続きです。

第15代将軍・慶喜(よしのぶ)が
京都二条城に諸藩の大名を集めて
大政奉還を発表して政権を朝廷に返還し、
その1ヵ月後には近江屋で
坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃されるのは
1867年という江戸時代の終わりの年ですが、
ここからわずか8年前の安政6年(1859年)というと、
吉田松陰が江戸伝馬(でんま)町の
幕府評定所に投獄され処刑され、
天璋院(てんしょういん、篤姫)は
夫の将軍・家定(享年35歳)が急死して
結婚生活1年9ヶ月で24歳で未亡人になり、
その10日後には養父・島津斉彬(なりあきら、享年50歳)も
亡くなった翌年で
傷心のまま前将軍の妻ということで大奥を仕切っていた
この安政6年(1859年)には
農学者・大蔵永常が日本各地を縦断して
特産作りに成功しているところと
そうでないところの違いを調べあげ、
「国家繁栄の基礎は発想の転換から」
という理念で書き上げた
「広益国産考」
が刊行された年でもあるのです。

キノボリトカゲ0812−2.JPG
 ササッと3〜4歩動いては静止する見慣れた光景ですが、
 小昆虫を捕まえたようで、目が嬉しそうですね。


ここには
「国(藩)の特産物についてわきまえるべきこと」
として、
「まず、その国で生産しないために
 他の諸国から購入している出費を防ぐことを考え、
 さらに、適当なものがあれば作って
 他国へ出荷し利益とすることを考えるべきです。
 米穀の次に無くてはならないものは、
 第一に蝋(ろう)、油、畳表、醤油などです。
 これらを生産していない国は、
 まずこの品を生産するようにしなければなりません。」


「醤油を買い入れて使っている農家がありました。
 なぜ手造りしないのかと聞くと、
 家で醸造するより買って使うほうが得だというのです。
 この考えを私は熟考してみたのですが、
 やはり家で造って使う方が
 得だという結論に達しました。」


「菜種ができる条件があるのに、
 他から油を買うのは
 その国の財産をとられるようなものです。」


「下々の人民の生活を豊かにし、
 その結として領主の利益になるように計画すべきです。」


というように、
『人民の生活が豊かになる』
ことが基本にあり、
 ・ まず主食の米穀があること
 ・ 農家の自給があること
 ・ 藩の自給があること

その上で
 ・ 他国への出荷、販売があること
という堅実な考え方になっていて、
 ・ 不毛の地に杉や檜を植える
 ・ 畑の境や山畑などの傾斜地に
   楮(こうぞ、紙の原料)を栽培する
 ・ 屋敷周りに茶を栽培する
 ・ やせ地には薬草を栽培する

というような土地の有効活用や
 ・ 農閑期には楮(こうぞ)の紙すきをする
などの時間的活用など
土地と資源、そして人間の活用を重視するように
書かれていて、
全国に遊休地があって失業者があふれている、
100年に1度の危機だからこそ
見直してみたい考え方だと思います。

キノボリトカゲ0812−3.JPG
 コーヒー苗木を降りてきて、
 擬態しているつもりのミニ・恐竜
 キノボリトカゲです。


また、
「国の利益になると思えば、
 商売のように、その年に始めて、
 もうその翌年には
 利益があがるように思う人もいるのですが、
 まず十年間は継続してやってみなければなりません。
 そうすれば、莫大な利益をあげることができるでしょう。」

というように、
長期計画で取組む姿勢も重視されていて、
「半年後の換金作物」
に振り回される沖縄農業では、
特に必要な考え方だと思います。

オキナワヤモリ1.JPG
 キノボリトカゲとほぼ同じ大きさで
 体型も顔や背中がゴツゴツして
 何となく似ているのですが、
 これはキノボリトカゲではなく、
 トカゲの親戚のヤモリで、
 環境省レッドデータブックの
 準絶滅危惧に指定されている
 「オキナワヤモリ」です。


また、
「初めから領主の御威光で指導し命令する方法では、
 かえって受け入れられず、
 なかなか普及しにくいものです。
 国の趣きに熟達した人に一任する形で
 特産物の普及に努めれば、
 ついには国全体にひろまって、
 農家の利益となるに違いありません。
 さらに領主が、その品物の販路がよく開けるように
 もっぱらお世話下さるならば、
 国の特産物ともなり、御利益ともなることでしょう。」

というように、
官の主導ではなく、
地域のリーダーに裁量を発揮させることが第一で
官はそのサポート役に徹すべき、
という、
本来当たり前のことなのですが、
最近流行の産学官連携は、
昔の産学軍の流れで官主導になりがちですし、
審査側にプランの“目利き”が不在なこともあって
短期投資効率化ばかりが求められて
大成しないプランを採択してしまうケースも多く
 ・ 『土地に応じ』た高品質
 ・ 他にはない『比類無き』特色
 ・ あせらない長期戦略
 ・ 生産者自らの創意と工夫

が特産を名産に育て上げる、
という江戸時代の思想は、
決して過去の遺物ではなく、
今だからこそ見直す必要があると思うのです。

オキナワヤモリ2.JPG
 「オキナワヤモリ」は約13cmで
 ヤモリとしては大型の部類です。
 沖縄本島北部、伊平屋島、久米島あたりの
 森林に棲息しているようです。


また、江戸時代後期に出版され、
全国の特産物商品100ずつを東西の番付として記した
「諸国産物見立相撲番付」(作者・発行年不明)
では、
横綱に
 ・松前(北海道)の昆布
 ・土佐(高知)の鰹節

という、だし素材と
 ・上野(群馬)の上州織物
 ・山城(京都)の京織物

の織物
大関に
 ・尾張(愛知)の瀬戸焼
 ・鍋島(佐賀)の有田焼

関脇に、
 ・最上(山形)紅花
 ・阿波(徳島)の藍玉

という染料、
 ・越後(新潟)の縮(ちぢみ)
 ・山城(京都)の茶
 ・紀州(和歌山)の蜜柑
 ・備後(広島)の畳表
 ・日向(宮崎)の椎茸
 ・薩摩(鹿児島)の黒砂糖

などがランキングされているのですが、
ここで
「特産と名産の違い」
を考えてみましょう。

定義としては、
 ・「特産」
  その地域に特に産出される固有な産物で、
  他の地域ではあまり見かけないもの

 ・「名産」
  他の地域にも有るかもしれないが、
  その地域の物が特に優れているもの。

ですが、
沖縄での「コーヒーのブランド化」という観点で考えた場合、
沖縄でのコーヒー栽培の歴史は明治時代にさかのぼり、
特に戦後は故・和宇慶朝伝さんから
始まった流れが明確になっていて、
「沖縄でコーヒーが栽培出来るのか、出来ないのかexclamation&question
という答えはすでに出ていていますから、
現状でも
「沖縄で栽培する国産コーヒー=特産」
と充分にいえるはずです。

オキナワヤモリ3.JPG
 沖縄では、なぜか「ヤンバルクイナ」ばかりが
 脚光を浴びるのですが、
 開発や農薬、マングースなどの影響で
 ひっそりと確実に
 数を減らしている動物たちも多いのですが、
 このオキナワトカゲも同様で、
 以前は本島南部でもあちこちにいたオキナワヤモリも
 コーヒー山でもなかなか姿を見かけません。


しかし、私が目指す
「沖縄コーヒーのブランド化」
とは、
「世界中のコーヒー豆に
 対抗しうる高品質でなければならない」

ことを出発点に考えているので、
現在、もちろん私も含めてですが、
「沖縄での現状のコーヒー栽培は、せいぜい特産」
という、ややもすれば
「ただ沖縄で栽培しているコーヒー」
の域を出ないのが現状なので、
これでは「ブランド化」どころではないのです。

それなら、沖縄でコーヒーが栽培可能であるなら、
「どうすれば高品質化出来るかexclamation&question
という考え方については、また次回に続きます。

林床地081224.JPG
 バナナロード近くの林床地には、
 まだまだコーヒー苗木があります。
 沖縄では1月中旬が最も寒いのですが、
 土温もだいぶ下がってきましたから
 移植は暖かさを見ながら2月以降になりそうですね。


年内はこれが最後になるかもしれません、
読者の方々は、良いお年をお迎え下さい。

コーヒー苗木081224.JPG
 木漏れ日を浴びて
 気持ち良さそうなコーヒー苗木です。


posted by COFFEE CHERRY at 14:22| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代の農政から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月24日

江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考えるD

温州(うんしゅう)みかんの2007年度の生産量は、
農林水産統計「平成19年産みかんの収穫量及び出荷量」
によると、
千葉県以南の生産量ランキングは
1位 和歌山県  (17%)18万5,400トン
2位 愛媛県   (16%)
3位 静岡県   (14%)
4位 熊本県   ( 9%)
5位 長崎県   ( 7%)
6位 佐賀県   ( 7%)

と続くのですが、
沖縄県でもダントツ最下位ながら
436トンを生産しています。

収穫期0812.JPG
テスト圃場でも収穫期が続いています。
コーヒー山でも移植した一部の苗木には
赤い実をつけていますが、
移植作業に集中していることもあり
自然落下の自生えを期待して放置しています。


江戸時代のみかんの豪商というと、
元禄期の紀伊国屋文左衛門が有名ですが、
彼は発想と行動力に富んだ人で
紀州の生産地では安く、
大都会の江戸では航路が嵐に閉ざされるために
高値で売られているみかん(当時は温州みかん)に注目して
大借金をしてミカンを買い集めて
ボロ船を修理して嵐の太平洋を出航し、
命がけで江戸にたどり着いて高値でみかんを売りさばき、
大坂で大洪水が起きて伝染病が流行っていると聞くと
江戸の塩鮭を買い占めて
「流行り病には塩鮭が効きまっせ」
とデマを流して大阪で売りさばいたり、
という紀州と江戸を往復して大金を得たのが青年期で、
その後江戸に材木問屋を起業して、
江戸城をも焼いた明暦の大火の時には
木曾谷の材木を買占めて100万両を手にしたり、
江戸幕府の側用人・柳沢吉保(よしやす)や
老中、勘定奉行に賄賂(わいろ)を贈って
幕府御用達の材木商人に上り詰める
なかなかのやり手でしたが、
その後、深川木場(きば)を火災で焼失して材木屋を廃業し、
幕府から十文銭の鋳造を請け負いながら、
低品質の粗悪品のために1年間で流通停止になって
巨額の損失を出して商売への意欲を失った、
といわれているように、
矢沢永吉の「成り上がり」ではありませんが
なかなか興味深い人物像です。
(実在していない、という説もあるようですが)

野焼き0812.JPG
 我が家の近郊では
 ビニールやマルチなど農業資材を燃やす
 危険な野焼きが横行しています。
 ダイオキシンなどの有害物質を発生するだけでなく、
 延焼の危険もあるわけですが、
 この場所は私のテスト圃場に隣接していて
 またしても悪質な嫌がらせなのですが、
 野焼きに隣接したテスト圃場の
 防風柵のハイビスカスが枯れていました。
 この看板は町役場市民課に通報して
 立てて戴いたものです。


みかんは奈良時代の日本書紀にも
「橘(たちばな)」
という名前で登場するように、
日本でも歴史が古い農作物ですが、
暴れん坊将軍の第8代・吉宗の時代、
享保19年(1734年)に、
(この年に紀伊国屋文左衛門が66歳で亡くなっています)
有田郡石垣組中井原(現在の有田川町)の
中井甚兵衛が柑橘の歴史の書物として記した
「紀州蜜柑伝来記」
が発刊され
これには、
「有田郡宮原組糸我中番村の伊藤孫右衛門と申すもの
 肥後の国八代と申す所よりみかんの小木を求め来たり、
 初めて糸我庄内に植継ぎ候処、

 蜜柑土地に応じ、
 風味比類無き色香果の形他国に勝り候に付き、
 次第に村々へ植え広げ申候」
と書かれています。

これは、
織田信長が小谷城の浅井長政を攻め滅ぼした翌年、
越前一向一揆が勃発した年という
まさに戦国時代の真っ只中の安土桃山時代前期の
天正2年(1574年)のことですが、
伊藤孫右衛門という人が糸我の庄の上役から
「肥後の国八代(熊本県八代市)に
 蜜柑という果物があるそうだから
 紀州にも植え広めたいので、
 蜜柑の木を持ってまいれ」

という厄介な命令を受けるのですが、
当時は諸国の特産物は大切な財産で
持ち出し御法度の時代ですから大変な苦労をして、
蜜柑の苗木2本を「盆栽用に」するということで
ようやく紀州に持ち帰ることに成功し、
1本は和歌山城に移植して枯れてしまい、
もう1本が伊藤孫右衛門宅の畑で活着に成功するのですが、
ここで大事なキーワードは、
特産物が名産としての地位を築くためには、
 ・ 『土地に応じ』た高品質
 ・ 他にはない『比類無き』特色

を兼ね備えていないといけない、
ということなのです。

地域の風土環境にマッチした作物で、
単純に数量的なナンバーワンを目指すのではなく
質的なオンリーワンを発見し、開花させたことで
紀州はみかんの生産地としての地位と
売り出しに成功した、
ことを重く捉えて
沖縄の可能性を考えると、
コーヒーやカカオだけでなく、
あれもこれもと、
もっといろいろな農産物も見えてきますし、
「台湾移入のグヮバや紫のパッションフルーツが
 どうもハワイのとは違う」

ことも解かってくるのです。

次回に続きます。

江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える1
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える2
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える3
江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える4

不発弾処理のジープ.JPG
 沖縄自動車道の中城PAで
 不発弾処理に向かうジープに会いました。
 復帰後の1972年から沖縄県内で
 陸上自衛隊第1混成団(那覇)による
 不発弾処理件数が今月上旬で
 延べ3万件を突破しました。
 重量ベースで1,500トン、回収弾数では137万発を超えても
 まだ推定約2,500トンの不発弾がある、
 といわれていて全てを処理するには、
 まだ100年かかるともいわれていますから、
 まだ沖縄戦は終わっていないのです。
 沖縄戦の1945年4月1日〜6月30日という限定期間だけでも
 米軍が使用した砲弾は271万6,691発に及び
 これだけでも当時の沖縄県民人口に対し、
 1人4.75発も砲弾を使用したことになるのです。
 沖縄戦では日本側は
 軍人や民間人を合わせると18万8,136人、
 米軍側でも1万2,520人が亡くなりました。
 沖縄戦当時は歴史的な大雨が降ったことも
 不発弾が多かった理由のようです。


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2008年12月22日

江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考えるC

昨日21日(日曜)は
「冬至(とうじ)」
で、
江戸時代の「暦便覧」という暦の解説書で
『日南の限りを行いて、日の短きの至りなれば也』
と説明されているように、
太陽が南回帰線上にあることで
北半球では1年の中で昼は最も短く、
夜が最も長い日で、
気温が低い冬の空は透明度が高く、
晴天の夜10時ごろはオリオン座が天頂よりやや南に見え、
オリオン座の左上(北東)のペテルギウス(1等星)と
その北側のプロキオン(1等星)を結んだ1辺を底辺にした
下側の正三角形の頂点の星がシリウス(1等星)ですが、
この“冬の大三角形”がくっきりと見えて、
また、夜中には
この“冬の大三角形”の下側の頂点シリウスから
地平線あたりまで下を見ると、
カノープス(1等星)も見えて、
星座にはあまり詳しくはないものの、
古代の人々が満天の星空を仰ぎ見て、
壮大な星の物語や神話を生み出したことを想うだけでも
星に願いを込めてみたくなります。

黒糖づくり1.JPG
 ファーマーズマーケットで
 「黒糖作り」をしていたので撮影しました。
 これはもちろんサトウキビです。


さて、江戸時代から学ぶ話に戻りましょう。

 ・江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える1
 ・江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える2
 ・江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える3
の続きです。

「暴れん坊将軍」は、第8代将軍・吉宗が、
貧乏旗本の三男坊・徳田新之助となって
町火消し「め組」の頭・辰五郎のところに居候し、
南町奉行・大岡忠相(ただすけ)らが協力して
悪を退治する勧善懲悪もの時代劇でしたが、
史実でも大岡忠相が、
自営組織として「いろは四十八組」の町火消しを組織し、
実在した新門辰五郎の受け持ち区域は、
神明町(神田)、増上寺(芝)あたりの
「め組」の管轄になっていますので
時代背景的には割りあい正しいようです。

黒糖作り2.JPG
 これはサトウキビの簡易圧搾機です。
 左はモーターで、右の四角い入口から
 サトウキビを入れて圧搾するのです。


江戸時代264年のうちに、
「江戸では火元から長さ15町(約1,637m)以上
 延焼した大火が96回あった」

といわれていますから
264年÷96回=2.75回/年(=平均2年9ヶ月に1回)
という、
平均すると3年に1度は大火があり、
7日に1回は小火(ぼや)があった、
ともいわれていますから、
「火事と喧嘩は江戸の華」
というのは、
江戸っ子の威勢の良さを表わしたことばですが、
延焼を防ぐために火災の周囲の家を競って
ケンカをするように打ち壊した様子も思い浮かびますし、
「宵越しの銭は持たない」
のも、
頻発する火事で財産や命の保証もないし、
また当時は貯蓄をする銀行もなく、
住居には鍵もあまりないような時代ですから
「焼けたり盗まれるよりは使い切った方がましだ」
という江戸気質が育ったのでしょう。

当時の建物が木造で、
木材と竹、和紙(ふすま)で造られていましたし、
長屋や屋敷など建屋が連結していること多くて
ちょっとした火災でも次々に延焼したらしく、
江戸時代では放火は死罪であったのもうなづけますね。

黒糖作り3.JPG
 反対側から撮影したところです。
 左の四角い出口から
 圧搾されたサトウキビが
 竹刀(しない)がよれよれになったように出てきます。
 圧搾した液は、機械の下側から出るようです。


江戸時代初期の大開発時代に
農地も人口も急増して江戸も大都市になり、
また度重なる火事も重なって
建築用の木材需要増大や
大規模な寺社・城郭の造営が相次ぐなど
森林の伐採は全国的規模で拡大し、
大開発時代の終わりごろの
第6代将軍・家宣(いえのぶ)のころには
本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち
当時の技術で伐採出来る森林の大半は失われていたといわれ、
この弊害として、
土砂流出や河川の土砂が堆積したり、
河川の洪水が発生したり、
またそれらに付随して舟運・利水が困難化したり…
という様々な災厄を
日本列島にもたらすことになったのです。

黒糖作り4.JPG
 サトウキビを圧搾した液はコゲ茶色をしているので
 何かを混ぜたのではありません。
 鍋でグツグツと煮出して乾燥したのが黒糖です。


こうした開発による弊害を憂慮した幕府は
「山の価値」
を見直し、森林保護政策に乗りだして
第4代将軍・家綱時代の寛文6年(1666年)に発令された
「諸国山川掟(やまかわおきて)」
や、
 ・ 留山(とめやま)
   森林資源の維持を目的に特定の森林の伐採を禁じる制度
 ・ 留木(とめぎ)
   特定の種類の樹木の伐採を禁止し,制限する制度
 ・ 割山(わりやま)
   村落による入会地を分割する取り決め
 ・ 年季山
   期間限定で入山利用可能にする制度
 ・ 部分山
   領主と村人(利用者)で収穫を分け合う取り決め
 ・ 番繰山
   収穫する山の順番の取り決め
など、
森林資源の回復促進と厳格な伐採規制・流通規制を敷き、
大開発時代の集約農業を反省し、
山を見直して荒廃した田畑を救い、
農業・農村を立て直そうという気運が高まり、
明代後期1639年に刊行された、
欧州の農法の紹介と自然科学の視点で
中国在来の農業を解説した「農政全書」を参考にして、
江戸時代前期の農学者・宮崎安貞が
第5代将軍・綱吉の時代、元禄10年(1697年)に
日本最初の農書「農業全書」を刊行して以降、
全国各地に“農書”が続々と登場してきました。

黒糖作り5.JPG
 圧搾したサトウキビのカスで“バガス”といいます。
 これには糖蜜やミネラルが豊富で
 有益な肥料になり、コーヒー山でも欲しいのですが
 製糖工場では多くが燃やされているのです。


第8代将軍・吉宗が丹羽正伯に命じて編さんさせた
「諸国産物帳」
から、
“適地・適産政策”が広まって
米以外の農作物の商品化が進み、
「四木三草」
  四木
   ・ 茶
   ・ 桑
   ・ 漆(うるし)
   ・ 楮(こうぞ、紙の原料)

  三草
   ・ 麻
   ・ 紅花
   ・ 藍

の栽培が盛んになり、
また、なたね油等を灯に使うようになって、
庶民の夜の生活が変わり、
読書、芝居、習い事などの趣味・娯楽が盛んになって、
庶民文化が一斉に花開きました。

第11代将軍・家斉(いえなり)の時代、
寛政5年(1793年)には
彦根藩湖東の農学者・児島如水が
稲作や稲の雄・雌の図説、稲穂の掛け干しの効用、
病害虫の駆除法、
綿栽培の要領などを解説した
「農稼業事」
を刊行するのですが、
この上巻付録の「農人常々心得の事」には、
 「山林に樹木が繁茂していないと、
  池や川の用水が少なくなって、
  作物が充分生育できなくなる。
  また、そのために薪にも不自由するようになると、
  肥料として利用すべき草木類までも
  薪として使用してしまうので、
  次第に田までもやせおとろえるものである。
  伐採した山林や、あるいは大風によって
  被害を受けたところには、
  年々いろいろの樹木類を
  植え継いでいかなければならない」

というように
現代にも知らしめたい内容が書かれています。

ローゼルの苗木.JPG
 ローゼルの苗木をコーヒー山に植えつけしました。
 ローゼルの収穫は今ごろがピークですが、
 種植えや植え付けの時期がよくわからずに植えたので
 うまく育てば良いのですが。


篤姫(あつひめ)が嫁いだ
第13代将軍・家定(いえさだ)の江戸時代後期、
安政6年(1859年)には、
農学者・大蔵永常が
「国家繁栄の基礎は農家の経済改善から」
という考えを基に、
実が蝋(ろう)になるハゼノキや棉(わた)、
サトウキビ、茶などの工芸作物や
さまざまな加工製品、養蚕、養蜂など
販売に有利な60種類の品目について解説し、
諸藩の支援による特産物育成を記した
「広益国産考」
を刊行し、
「諸木植立」の思想が全国に広がりました。

林床地1220.JPG
 バナナロードに近い林床地の奥の方です。
 デジカメがやや斜めになって撮影したので、
 実際にはここまで急斜面ではなく、
 なだらかなスロープ、といった感じです。
 奥の方はまだ伐採していませんが、
 この林床地はかなり広く、
 山のオーナーが30年前に大変な思いをして
 山を開拓したことを感じずにはいられません。


江戸時代中期は、ヨーロッパでは産業革命の時代で
日本は鎖国のために近代化・機械化では
大きく遅れをとることになるのですが、
ヨーロッパでは鉱物資源(石炭)を原料に
生産の効率化を追求し
資源の確保と製品の販路を広く海外に求め、
農村を圧迫して貧富を生み、
やがて戦争をもたらす資本集約型ですが、
これと対照的に江戸中期は
鎖国による国内の植物資源を基礎として資本を節約し、
人間自身の力で地域資源を活用した農産加工は
農村と都市を結び、
安定と平和をもたらした内需拡大型で、
自給率が低く、暗黒の時代に入った今だからこそ
江戸中期の先人たちの知恵を学びたいのです。

長くなりましたので、また次回に続きます。

クモの孵化0812.JPG
 北山山麓のコーヒーの木でクモが孵化していました。
 無事に育って害虫駆除をお願いしたいところですが
 多くはトカゲ類やカマキリ、
 鳥などに食べられてしまうことでしょう。


posted by COFFEE CHERRY at 21:36| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代の農政から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月14日

江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考えるB

264年間も続いた
Pax Tokugawana(徳川の平和)の時代の初期には
田中角栄の列島改造論ばりの大開発が行われて
農地や人口も増えて元禄時代には
バブル的な隆盛を極めるのですが
ついに経済が失速し、
過剰投資のツケと、
勘定奉行の萩原重秀の金銀改鋳政策
(金銀の含有量を減らした粗悪通貨に造り変える)
によるインフレ、
領主経済の崩壊による大名貸しの不良債権化によって
大商家がどんどん倒産するなどで
元禄バブルが崩壊してしまうのは、
前回
・江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える@
・江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考えるA
でも触れましたが、
「その後、どういう工夫をしていったのかexclamation&question
を検証しているところで、
今日初めてこのブログをご覧になられた方は
コーヒーの話が出てこないので
チンプンカンプンだと思いますが
そのうち出てきますので
それまでしばらく我慢して下さい。もうやだ〜(悲しい顔)

北山山麓から見下ろした重機の道.JPG
北山山麓から見下ろした重機の道です。
ここは重機の道と北山山麓の近道でもあり
木にツルを横に張って近道ルートのガイドとしています。
重機の道の入口部分にあたり、
風向きによっては風が入ることで
このあたりにはコーヒー苗木は植えていないのです。


元禄が始まる20年前には
もう新田開発ブームの終わりが近い時期で
第4代将軍・家綱時代の寛文6年(1666年)に幕府は
「諸国山川掟(やまかわおきて)」
という法令を出して
行過ぎた開発を反省して
それまでの重厚増大型の“広く浅く雑に”より、
軽薄短小型の既存の田畑を見直す
“長期展望に立った質的向上型”
の農業への転換を図り、さらに、
テレビで暴れん坊将軍とされている
第8代将軍・吉宗の時代には
国内資源の総点検に基づく適地適産振興を行うのです。

重機の道1213.JPG
最初の画像を降りて重機の道の奥を見た画面です。
左の斜面を上がると北山山麓で、
右の斜面を下るとバナナロードがあります。
画面の奥の方向は“北”で、
先をやや左に曲がったあたりから
コーヒー苗木が植えてあります。


話は変わりますが、
中国の道教の思想で出てくる“仙人(せんにん)”は、
主に高い山や仙郷などで暮らしていて
気をあやつる仙術・方術の達人で、
不老不死を得た老人を指すようですが、
中国では紀元前の秦の時代から、
三国志の時代あたりに
こういう神仙(しんせん)思想が発達したようです。

それまで神仙家の薬と医師の薬とが
混同されていたのを区別することで、
方術の薬を指すものとして
「本草(ほんそう)」という用語が生まれ、
「草石の性に本づくもの」
という意味らしいのですが、
「薬草」を生理的な意味も含めて
広義に解釈した思想だと思いますが、
こういう考え方が中国から日本にも入ってきていて、
江戸時代中期を代表する
本草学者・丹羽正伯(にわしょうはく)は
暴れん坊将軍とされている第8代将軍・吉宗の時代に
財政悪化のために中国から輸入されている薬草を
国内生産で補う必要が出てきたことで
正伯(しょうはく)は「採薬使」として幕府に登用され、
江戸の駒場野や小石川の薬園では手狭になったことで
下総の国(=千葉県)滝台野(=現・船橋市薬円台)の
広大な下総薬園の管理や薬草の栽培を命じられるのですが
享保19年(1734年)、将軍・吉宗が丹羽正伯に
「諸国の産物取調べの権限」
を与え、
正伯(しょうはく)は翌年の春に、
諸藩の江戸留守居(るすい)役
(情報収集を主とする藩の外交官役)を江戸城に集めて、
動植物から鉱物等のあらゆる産物を調べた産物帳を
幕府に提出することや
これの記載要領や様式も示して、こと細かく指示を与え、
これにより各藩は数年がかりで資源や産物を詳細に調べ上げ
各藩から提出された産物帳の記載について不明の点は、
ふたたび藩に問い合わせを行ってCHECKする念の入り様で
これを正伯(しょうはく)が取りまとめて編さんしたものが
『享保・元文(げんぶん)諸国産物帳』
で、
江戸時代以前の全国的な動植物や
鉱物などの産物分布の情報源として
信頼性の高い中心的な資料なのですが、
幕府によって編さんされた原本は
幕末の混乱で行方不明にでもなったのか、
残念ながら現存せず、
藩などに残された「控」が保存されているだけのようです。

雨水システム1213.JPG
 この種の雨水貯蔵システムは
 コーヒー山のあちこちにありますが、
 画像は北山山麓にあるものです。
 この結び方は割りあい堅固な方です。


そもそも日本の国土は南北に長く,
狭い国土に3,000m級の山を持ち,
地形が複雑のうえに本州中央部の山脈によって
日本海側と太平洋側に分けられて、
また海洋でも
黒潮、親潮、対馬暖流などの海流があり、
複雑な列島地形から多様な環境が形成されていて
狭い国土内でも気候に大きな違いがあり、
多くの山や川で地域が区切られています。

多様な地形や気候は
「異なる地域性」
を生み、
また各地域ごとに多様な
「地域資源」
があり、
地域ごとに、季節、食べ方が限定される
「各地域にあった伝統野菜」
があったのに、
それを無視した大開発を行って
「広く浅い」農政を進めた弊害が出始めたことで
将軍・吉宗が既存の田畑を見直す質的転換を図ったのは
的を得ていたと言えましょう。

林床地1213.JPG
 12月に入っても苗木植え付けをしている林床地です。
 画面左側がバナナロードで、
 画面は北側に向いています。


季節毎に得られる地域伝統野菜が、
暑さや寒さなど気候の変化に耐える
体力づくりにも貢献していて
日常茶飯の地域食材を食することで
世代を重ねることが出来るとともに、
これら食とその地域の気候、風土において、
人々はその地域の生態系に組み入れられてきたのであり、
それが
「身土不二」
たるゆえんだと思うのです。

苗木1213.JPG
 今夏に発芽した若い黒ポット苗木も
 コーヒー山の腐葉土などを表土に載せるだけで
 とても元気に成育しています。


また、第11代将軍・家斉(いえなり)の時代、
文政9年(1826年)に出版された
「日本往来(おうらい)」
という書物では、
5畿内・7道・66ケ国の地理と特産物が説明されていて、
例えば大和国については
「偖、大和国は十五郡、添上、添下、平群、廣瀬、葛上、
 葛下、忍海、宇智、吉野、宇多、城下、城上、高市、
 十市、山辺也、高四十四万四千百三拾石と承候、
 風土殊に忽也、山平均ニテ柴薪聊ニ候、
 往古宮古ニテ御座候得ハ名所旧跡多き中ニ茂、
 吉野、初瀬花盛ハ他ニ勝テ見事ニテ候、
 三輪之杉、春日社、三笠山、猿沢之池、
 其外旧都之名勝見所数多ニテ候、
 名物に於ハ奈良晒、三輪素麺、
 吉野葛等御求可く然る存奉候」

とあり、
「大和国は15郡あって石高は44万4,130石、
 山は平均でかつては都でした。
 また名所・旧跡が多い中でも、
 特に吉野と初瀬(はつせ)の桜は見事であり…
 名物では奈良晒(さらし)、三輪素麺(そうめん)、
 吉野葛(くず)がある」

というように書かれています。

北山から南側を見下ろす1213.JPG
 北山の南側斜面です。
 画面の右下には重機の道が通っています。
 正面下は「竹の広場」といって
 ここにもコーヒー苗木やバナナが植えてあるのですが
 昼食をとる場所でもあります。


諸国に適地適産の振興が行われたことで
 ・ 地域資源の見直しと開発
 ・ 新しい作物の導入

の両方が活発化し、
中国や朝鮮から輸入していた綿布を
関東以西で木綿栽培を始めて自給化したり、
将軍・吉宗が製糖奨励策をとって
四国の阿波、土佐や静岡の駿河、遠江(とおとうみ)、
大阪の和泉などの
主に太平洋沿岸・瀬戸内沿岸地方でも
サトウキビ栽培が始まったり、
保存性の高いジャガイモ、かぼちゃ、薩摩芋や
スイカ、たばこ、生糸などの栽培も
江戸時代から国内生産が始まったり
普及したりしているのです。

最も南の苗木.JPG
 南山の最も南側に植えてあるコーヒー苗木は
 上空で少し高木の枝葉がかかっていることで
 すこぶる元気です。


古き良きEarly time in Tokugawaの時代は
現代にも通用する政策が多くて興味深いのですが
中高生の新語「チェンソー」が
「頻繁に替わる総理大臣の、CHANGE総理」
という意味で
「みんなでつくろう国語辞典」の
最優秀作品賞10作の中に入ったり
今ごろ勉強会を始める与党議員先生たちや
その場しのぎの政策しか出来ず
将来の展望がまるでない農衰省では
農政改革より、
まず脳性改革をしてほしいところです。

次回に続きます。

GAS価格1213.JPG
 先週の水曜日から、那覇近郊は
 この表示が出るようになりましたが、
 会員価格や現金割引、2千円以上は2円引き、
 コープやTカードの提携2円割引、
 洗車割引など多様な割引があって、
 このスタンドでは現金2千円以上の
 レギュラー給油だけでも1リッター108円になりました。
 円高原油安でさらに下がり基調ですね。

posted by COFFEE CHERRY at 18:59| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代の農政から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月10日

江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考えるA

12月7日(日曜)は、NAHAマラソンがあったことで
那覇市内や南風原町、豊見城市、糸満市では
交通規制が敷かれて、車での移動が大変でしたが、
好天に恵まれて26,973人が出走し、
制限時間の6時間15分までに完走したのは18,654人と
完走率(69.2%)は割りあい高かったようでした。

完走制限時間の6時間15分というのは、
平均すると
 ・ 100m  53.3秒
 ・ 1Km  8分53秒
 ・ 時速6.8km/h

ですから
早歩きの時速4〜5 km/hでは不足なので、
理論的には、
「坂道の登りは早歩き、下りや平坦ではなるべく走る」
作戦で完走出来うる体力を養成すれば、
何とか完走できるのではないかと想像するのですが
まぁ私にはムリですね。

チブサトゲグモ1206−1.JPG
 お財布に「金帰る」という願いを込めて
 カエルや亀の陶製や金属製のお財布お守りを入れても
 なぜか「効果がない」と嘆いている方も多いでしょうが、
 コーヒーの葉の端に
 笑顔のドラ猫ギャングの陶器みたいなのが
 止まっていました。
 これは南西諸島以南に棲息する「チブサトゲグモ」
 というトゲグモの仲間です。


また7日(日曜)は、二十四節気の「大雪」にあたります。
読み方は「おおゆき」ではなくて『たいせつ』と読みます。

「二十四節気(にじゅうしせっき)」
は、古代中国で考案され
1年を春夏秋冬の4つの季節に分けて
それをさらに6つに分けた24の期間を表わした
カレンダー方式に出てくる季語ですが、
江戸時代の1787年(天明7年)に出版された暦の解説書、
「暦便覧」
の中で23番目の「大雪」は
『雪いよいよ降り重ねる折からなれば也』
と説明されていて、
大陸高気圧の勢力が強くなって、
日本海側を中心に
雪が激しく降り始めるころのことをいうのですが、

二十四節気をさらに細かく
「初候、次候、末候」
という約5日ずつ3つに分けた、
「七十二候(しちじゅうにこう)」
という分類では、
 ・ 初候
  「閉塞而成冬(へいそくしてふゆをなす)」
   天地の気が塞がって冬となる時節
 ・ 次候
  「熊蟄穴(くまあなにこもる)」
   熊が冬眠のために穴に隠れる時節
 ・ 末候
  「鱖魚群(さけのうおむらがる)」
   鮭が群がり川を上る時節
となっていて、
沖縄は氷点下以下にならないので雪も降りませんし、
熊もいなければ鮭もいませんから
「沖縄の気候風土に合わせた二十四節気」
をぜひ作り上げたいところです。

ちなみに、那覇市の過去最低気温は
1967年1月中旬の6.6℃だそうですから、
コーヒー山あたりでは5℃くらいが過去最低と思われますが
コーヒーは5℃あたりまでの寒さには何とか耐えますから
今年の冬は寒そうですが、持ちこたえてくれることでしょう。

チブサトゲグモ1206−2.JPG
 ドラ猫ギャングの顔みたいな甲羅は背中部分で、
 胴体はこの反対側にありますから、
 甲羅を背負っているようなクモなのです。
 ツノだか耳などに見えるトゲが
 左右に3対あるのも特長の1つで体長は約1cmです。



さて、江戸時代から学ぶ、前回@の続きです。

江戸時代の社会は、日本の歴史の中で唯一
下から積み上げてゆく社会、
つまり諸藩による独自の地方分権・地方自治社会で、
江戸幕府がその上に立って
全体の利害を調整する管理監督的な役割を果たしていました。

それに変わって明治政府になると、
今度は一転して上から下を押さえ込んでいくシステム、
すなわち現在の中央集権型国家になり、
これはこれで数々の弊害があり、
現在に至っているわけです。

中央集権システムは、
天下の号令で全国を画一的に指示するわけですから
地域性を壊す力を持っていて、
フードシステムの発展に伴ない
ファミレスが北海道から沖縄まで同じメニューなのと同様に
日本中どこでもスーパーやコンビがあって
そこで売られているものには地域性が感じられなく
また売られ方も同じ、
というのも中央集権システムの弊害の1つでしょう。

チブサトゲグモ1206−3.JPG
 「チブサトゲグモ」は背中の
 白い目玉のように見える部分から
 「乳房(チブサ)のように見えるトゲグモ」
 という名前らしいですが目玉にしか見えませんよね。
 これでも網を張って昆虫を食べるのですが
 ちょうど網を張り始めたところのようで
 画像の右側に白い糸が見えます。


江戸初期の100年目の
豪華絢爛(けんらん)の元禄文化全盛の時代をピークに
「山高ければ谷深し」
という株式相場の格言のように
江戸社会にも過剰開発の弊害が出るようになりました。

年貢を2〜7年タダにして
犯罪者でもエタ・非人でも何でもござれの
新田開発への誘致は
既存の田畑の耕作が放置されて荒廃したり、
山の中まで開墾したり、無理な河川開発をしたことで
大雨による大洪水が全国各地に
頻発させることになったのです。

こうした人的被災の多発から
開発にブレーキがかかり始めるのですが、
バブルの元禄時代の頃に新田開発はピークあたりに達し
1人当たり石高は元禄以降減り続けて
テレビで暴れん坊将軍とされている8代将軍・吉宗の
享保時代には江戸期最低の
年間1人1石割れ寸前まで落ち込んで
 (1石=10斗=100升=1,000合
  米1合を1食分とすると1日3合で年間1,095合になり
  大人1人が1年間に消費する米の量に相当します)

満足な食事もままならないような貧食の時代になり
人口もこの享保時代をピークに、以降減り続けて
開発主導の高度成長終焉の時代を迎えることになるのです。

林床地に植えたコーヒー1209.JPG
 昨日は昼前から雨になりましたが、
 コーヒー山では恵みの雨で大歓迎なのです。
 昨日もバナナロードの上の林床地に
 たくさんの苗木を植えました。
 植える場所が無くなりつつありますから
 次回は間伐をしようと思います。


江戸バブル期の元禄時代以降、
幕末までの約150年間は低成長時代になるのですが、
単純な「長期にわたる不景気」ではなく、
この低成長期はまた同時に“円熟期”でもあり、
当時の政策を回顧検証して
現代でも参考になるところが多々あり、
現在の「環境保全」や「リサイクルの知恵」、
「地域の農業理論」などが
全国的に広まった時期でもあるのです。

例えば、
山林での森林資源保護対策である
「留山(とめやま)・留木(とめき)制度」(1665年)
で、
山の入山を禁止したり、特定の樹種を指定して
伐採を禁止・制限した“乱伐防止”制度を
幕府や諸藩が発令したり
「魚寄林(うおよせりん)・魚附山(うおつきやま)」
といって、
川や海の魚が樹木に寄りつくという習性を活かして、
岸近くにある森林を魚付林として
厳重に保護したりするなどして、
諸藩が漁業資源の保護を行ったり、
都市の屎尿(しにょう)を施肥として
農地にリサイクル還元する
循環型農業システムも構築されていたのです。

草刈機のチップソー.JPG
 最初のチップソーの切れが悪くなり
 刃も一部欠けたりしたので
 新しいチップソーに交換したのですが、
 これは新しいカミソリくらいの切れ味で
 直径5cm程度の木は触れるくらいでも
 軽く切れるような鋭さなのです。


元禄が始まる20年前というと
第4代将軍・家綱時代の寛文6年(1666年)で
新田開発ブームの終わりが近い時期ですが、
この年に幕府は
「諸国山川掟(やまかわおきて)」
という法令を出して
諸代官に
 ・ 草木根の乱掘の停止
 ・ 植林の奨励
 ・ 川筋の焼き畑や新田開発を禁じて土砂の流出防止

を計りました。

「土砂の流出防止」は、
「土砂が流出すると川底が浅くなり洪水が増加する」
という考えだったようです。

この「諸国山川掟」は、
1. 近年は草木の根まで掘り取り候ゆえ、風雨の時分、
  川筋へ土砂が流出し、水行き留まり候ゆえ、
  今後は草木の根を掘り取ることを禁止する。

  (大雨で土砂が流れて、川床があがり洪水になるので、
   草木を根こそぎ掘り起こすことを禁止する)

2. 川上左右の山に木立がなくなりたる所々は、
  当春より木苗を植付け、土砂が流れ落ちざる様にする。

  (川の上流の山方左右で木の無いところは植林すること)
3. 川筋河原等に開発された田畑は、
  新田畑はもとより古田畑であれども、
  川に土砂が流出する場合は耕作をやめ、
  竹、木、葭、萱を植え、新規の開発を禁止する。

  (河川敷を開発して田畑を作らず、
   川に土砂が流出する場合は耕作せず、
   河川敷に竹、木、あし、かやを植えること)

という、
以上の3条から構成されていますが
今この政策を出したとしても、
そのまま通用しそうな条文で、
食糧の将来の展望のために
具体的な政策を出して実行してゆくところは
現在の農業や環境を担当する官僚の方々には
ぜひ参考にしてほしいところです。

また、次回に続きます。

GAS価格1205.JPG
 先週12月5日のレギュラーガソリンは
 1リッター116円(税込み)で一昨日月曜日も同じでした。
 コーヒー山に向かう途中の
 GASスタンドの料金表示を見ていると
 「120円」が主流で、
 沖縄北ICを出て恩納村に向かう途中では
 「112円」表示がありましたが“税抜き”でしょう。
 これだと税込み118円ですから地元の方が安いのです。
 「特価」表示は、寿司屋の『時価』と同じで
 「後でビックリ」ではイヤですから
 こういうところはパスです。


posted by COFFEE CHERRY at 13:05| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代の農政から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月08日

江戸時代を見直して沖縄コーヒーのブランド化を考える@

アメリカでT型フォードが発売されたのは、
今からちょうど100年前の1908年で、
それから1世紀の間自動車産業は
社会・経済の牽引役として、
世界中で華々しい成長を遂げてきました。

その間に人々の生活は大きく変化し、
豊かになったのですが、
サブプライム問題に端を発して
新興国での原油需要拡大と
投機マネーに翻弄される原油相場、
食費や輸送費、原材料費の急激な高騰、
株や為替の不安定な推移、大量の失業者などと、
今、世界は急激かつ未曾有(みぞゆう)
環境変化に見舞われている中で、
米国は50回以上も破産するような
巨額な負債を抱えていることから
「新大統領の最大の仕事は、来春デフォルト宣言して
 米国・カナダ・メキシコと地域統合して
 北米共通通貨“アメロ”を導入する」

という今までの資本主義が崩壊するという考え方も
なにやら現実味をおびて来ました。

与那から伊是名島を望む1206.JPG
 先週の5日(金曜)は、沖縄県内全域で強風が吹き荒れ
 那覇市では24.2mの最大瞬間風速を観測し
 海辺の泊(とまり)大橋が一時通行止めに
 なったくらいの強風でしたが待望の雨も降りました。
 翌日の6日(土曜)は、
 国頭(くにがみ)村・奥(おく)という緑茶生産地で
 気温が10.7℃(午前7時)という寒さになったと思ったら
 昨日7日(日曜)は一転して
 日中温度が20度の小春日和になりました。
 画像は与那から東シナ海の伊是名島を望んだところですが
 海上は白い波吹雪がたって波がうねってシケています。


一方、日本のバブル経済のピークの東証大納会で
日経平均株価38,915円をつけた
1989年(平成元年)以降のバブル崩壊時に、
「平成バブルと元禄バブル」
が対比されるようになり
「江戸時代では元禄バブル崩壊から、
     いかにして立ち直ったのかexclamation&question

という回顧と検証がされながら
いつしか忘れ去られていたのですが、
これからどんな未曾有(みぞゆう)の荒波が訪れようとも
私が初志を貫徹するためには、
いま一度、江戸時代中期の農業政策を
学習し踏襲(としゅう)しつつ
沖縄でのコーヒーブランド化の可能性も
併せて考えてみようと思います。

長くなるので、数回に連載することになりそうです。

バナナロードに仮置いた鉢.JPG
 コーヒー山では、幌付き2トントラックで大量搬送した
 背の高いコーヒー苗木をバナナロードに
 所狭しと仮置きしたので
 車はここまで入れなくなってしまいました。


江戸時代は、
キリシタン一揆による局地的内戦・島原の乱(1637年)や
江戸・駿府・京都・大阪の
同時多発テロ計画・由比正雪の乱(1651年)を除けば
国内での武力行使はなく、
また江戸幕府成立直前の
豊臣秀吉による朝鮮侵略(1592〜1598年)以降は
薩摩藩の琉球侵略(1603年)を除くと
海外への国軍としての出兵がない
265年間も続いた平和な時代でした。

強風で倒された鉢.JPG
 前日の強風のためにバナナロードに仮置きしてある
 コーヒー苗木の鉢が20本くらい倒されていました。
 倒された鉢は、鉢の底から根がはみ出して
 もともと安定が悪かったのですが、
 強風で倒されたせいで
 恵みの雨ももらいそこねたはずですから
 これらを優先的にバナナロード脇の林床に
 植え付けました。


江戸時代で最も繁栄した元禄時代(1688〜1703年)は
生類憐(あわれ)みの令を制定した
第5代将軍・徳川綱吉の時代でもあり
元禄赤穂事件(忠臣蔵)もありましたが、
元禄時代の終わりの1703年は
徳川家康が江戸幕府を開いた1603年から
ちょうど100周年にあたり、
T型フォードが発売されて現在に至るのも
ちょうど100年前ということで
「100年間」が妙に符合するのは気になりますが、
この江戸時代初期の100年間は
土木技術が著しく進歩したこともありますが
戦乱が終わったことで、それまでの築城技術や軍事技術を
国を富ますという社会的事業に活かすようになったことで
江戸を中心とした五街道を制度化して
道中奉行をおき宿駅(宿場)を設置したり、
道路の改修・並木の植樹・一里塚の築造などの整備や
北上川や利根川、信濃川、筑後川などの主要河川を
改修して用水整備をして
古代から近世を通した中でも
最も新田開発の盛んな時代でもありました。

ポリペール栽培1206−1.JPG
 45リットルのゴミ箱用ポリペールの底に穴を開けて
 これで栽培していた成木も植えました。


農地面積と人口の推移
 ・ 室町中期(1450年頃)94.6万ha   
   推定人口1,005万人 
 ・ 家康の慶長時代(1600年)206.5万ha
   推定人口1,227万人
 ・ 3代将軍・家光の慶安時代(1650年)235.4万ha
   推定人口1,718万人
 ・ 5代将軍・綱吉の元禄時代(1700年)284.1万ha
  推定人口2,769万人
 ・ 8代将軍・吉宗の享保時代(1720年)292.7万ha
   推定人口3,128万人
 ・ 9代将軍・家重の寛延時代(1750年)299.1万ha
   推定人口3,110万人
 ・ 11代将軍・家斉の寛政時代(1800年)303.2万ha
   推定人口3,065万人
 ・ 12代将軍・家慶の嘉永時代(1850年)317.0万ha
   推定人口3,228万人
 ・ 明治時代初期(1872年)323.4万ha
   推定人口3,311万人

江戸城内の松の廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩(ながのり)が
高家肝煎(こうけきもいり)・吉良義央(よしひさ)に
切りつける前年の
元禄13年(1700年)を基準とすると、
日本最大の内戦・応仁の乱が勃発した頃の
室町中期からは農地と人口は約3倍に増え、
関が原の戦いで東軍が勝った1600年からすると
農地は約3割、人口は約2.3倍となっていて
江戸時代に入り急激に人口が増えました。

ポリペール栽培1206-2.JPG
 水差しでポリペール内に水を入れて、
 ペールを横にしてゆっくり転がして抜けやすくし
 木の主幹を持って引き出したところです。
 根がびっしりと生えています。


江戸幕府開幕後の100年間の列島改造大開発政策のもとで
農地は増大し、
農具の発達や農民の生産意欲と努力によって
農業生産も高まり、
その余剰に支えられて都市が繁栄し、
「町人物」「好色物」「武家物」ジャンルの
浮世草子の小説家・井原西鶴や
人形浄瑠璃作者の近松門左衛門、歌舞伎の登場、
菱川師宣などの浮世絵や尾形光琳の装飾画、
俳諧・松尾芭蕉、陶芸家・野々村仁清、
友禅染、小袖の流行など
豪華絢爛(けんらん)の元禄文化全盛の時代に
なったのです。

ポリペール栽培1206-3.JPG
 ようやく植えつけたところですが、
 バナナロードから鉢を運んでくるだけでも
 途中休み休みしながらですから
 大変な重労働なのです。



次回は、元禄バブルでの弊害と政策について
書きたいと思います。


アセロラの苗木1206.JPG
 コーヒー山の南山山麓に植えたアセロラの苗木です。
 案内板の左がアセロラの苗木で、
 中央両サイドがコーヒー苗木です。
 このあたりは伐採し過ぎて空が丸見えになっていて
 夏場の日照りと腐葉土不足から
 やや成育が悪い環境ですが、
 もともと山に生えていた在来樹種は再生力が旺盛です。


posted by COFFEE CHERRY at 12:50| 沖縄 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 江戸時代の農政から学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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