2014年01月08日

マルハニチロ系のマラチオン混入事件は「木を見て森を見ず」〜3-1

食品大手マルハニチロホールディングスの子会社
アクリフーズ群馬工場で製造された冷凍食品に、
農薬マラチオンが意図的に混入され、
被害者地域が広範囲に及び、
年末から世間を騒がせています。
沖縄でも被害者が出始めています。

マラチオンは、
ダニ、アブラムシ、アザミウマ、ウンカなどに即効性があるとされている殺虫剤として、
「マラソン」と呼ばれることもあり、
ホームセンターや園芸店では「マラバッサ乳剤」という名称で売られていて、
誰でも自由に買えることが出来るのです。

食品製造ラインでは有機リン酸系農薬なんか使うはずがないので、
誰かが悪意を持って故意に混入させたことは間違いなさそうですし、
犯行現場は包装工程らしいので、
そこに出入りしている関係者の中に犯人がいるとするなら、
事件自体の解決は近そうです。

この工場での生産は市販用と業務用の商品を合わせて
年間8000万パックに上り、
回収対象は640万パックになっているそうです。

 8000万個÷365日=日産21.9万個
 640万個÷21.9万個=29.22日
約1カ月前の製造出荷分を回収対象にしているようですね。

回収といっても卸や販売店舗だけではなく
いつ頃買い置きしたのか不明の消費者宅の冷凍庫も対象になるし、
その後の信頼回復までを考えると
企業としては今後極めて深刻な問題になりそうです。

似たようなことは6年前の2008年にもありましたね。
JTグループの食品会社・JTフーズが、
中国の天洋食品が製造した餃子を輸入し、
日本生活協同組合連合会(生協、CO−OP)が販売し、
この冷凍餃子を食べた方が下痢や嘔吐など激しい中毒症状を訴えて
日本中を震撼させた、あの中国製ギョーザ中毒事件です。
事件後、JTブランドの冷凍食品は販売不振になり、
冷凍食品部門を加ト吉に譲渡するに至りました。
名前を変えて信頼回復を急ぐのではなくて、
「JTグループがどう変わったのか?」
が、信頼回復につながるはずですが。

この時の混入農薬も、メタミドホスなどの有機リン系殺虫剤でした。
マラチオン殺虫剤は誰でも買えますが、
メタミドホスは、日本では毒性が強いと判断されて農薬登録に至らず、
使用禁止、というより入手は困難です。
海外では農業用殺虫剤として(効能はマラチオンと同等)、
中国、米国、南米、オーストラリアなどで、かつて広範に使用され、
中国でも毒性が強いとして2003年に使用制限、
2007年に中国全域で農業での使用と販売を禁止、
2008年に前述の「ギョウザ中毒事件」があり、
2009年以降は輸出品も含めてメタミドホスの生産が禁止されたものの、
まだまだ中国では既製品はあちこちに無造作に置いてあるようですから、
また知ってか知らずか使われて、いつか問題になることでしょう。

今から19年前の1995年(平成7年)3月20日に、
国家転覆を目論んだ麻原彰晃(被告)率いるオウム真理教軍団が
東京の営団地下鉄で使ったことで有名になった「サリン」もこの有機リン系です。
毒ガス兵器で有名なVXガスも同様です。
言ってみれば、マラチオンやメタミドホスという物質は、
サリンやVXガスの親戚なわけです。

ちなみに致死量では、LD50が
・サリン  0.1〜0.01(mg/kg)
 (ガスとしての致死濃度は1㎥あたり100mg)
・VXガス  0.015(mg/kg)
 (ガスとしての致死量は1㎥あたり0.15mg)
・メタミドホス  10〜30(mg/kg)
・マラチオン  250〜600(mg/kg)


この聞きなれない「LD50」というのは
「急性毒性半数致死量」(単位「mg/kg」)
といって
いくらなんでも致死量の人体実験は出来ないので、
ラットやマウスなどの動物実験を行うのですが、「LD50」は
「実験動物に毒物を投与したときに、半数が死亡する体重1kgあたりの用量(mg)」
をいうようで、
LD50値は、毒性を示す用量による表示ですから、
値が小さいほど毒性が高いことになります。

「1kg中に○mg配合されている」
というのを○mg/kgと表示します。
1mg/kg=重量での含有率100万分の1(=1ppm)、1kg=100万mg、
昨日7日のNewsでは
「昨年10月5日製造の「チーズがのび〜る!グラタンコロ!」の衣部分で
 2万6千ppmのマラチオンを検出」
と書いてありましたから、
この衣部分のマラチオンは38.5mg/kg、
マラチオンの致死量は250〜600 mg/kg、
つまり「死にはしないけど、かなり危険」といえるでしょう。

LD50には、
皮下注射・筋肉注射・静脈注射・腹腔内注射・経口投与などがあり、
それぞれで数値が異なり、また動物によっても数値が違うようですから、
あくまで目安のアバウトな数値です。
ちなみに、ヘビ毒の毒性比較をする場合には、
咬まれたことを想定して、皮下注射で動物実験をするようです。

さて、その皮下LD50で比較する「日本三大毒蛇」の毒性は次のようです。
当然ながらLD50の数値が小さいほど毒性は強いことになります。

日本三大毒ヘビ
・ヤマカガシ  5.3 (mg/kg)
・マムシ  16 (mg/kg)
・ハブ  54 (mg/kg)
(毒性はヤマカガシが一番強く、マムシの約3倍、ハブの約10倍の強い毒性がありました。
 ハブ毒が最強と思っていましたから意外でした。
 ちなみにコブラ毒は0.5 mg/kgでヤマカガシの10倍、ハブの108倍と、さらに強烈です。)

天然毒素
・ボツリヌス毒素  0.00000032(mg/kg)
・テトロドトキシン(フグ毒)  0.0085(mg/kg)
・ニコチン(タバコ)  24(mg/kg)

医薬品
・ジギタリス  0.4(mg/kg)
(ホームセンターや園芸店で草花として売られていますがいいのかな?
 スズランも0.30mg/kgで猛毒ですよ。)
・モルヒネ  120-250(mg/kg)
・アスピリン  400(mg/kg)

食品
・カプサイシン(唐辛子の辛み成分) 60-75(mg/kg)
(唐辛子には1gあたりに3mgのカプサイシンが含まれているので、
 体重50kgの人が3000mg以上摂取すると命の危険がある、
 つまり1kgの唐辛子を食べると危険ということになりますから、
 キムチはそこまで食べないでしょうけど、
 カプサイシンダイエットは、サプリメントでは
 早期効果を期待して大量に飲むと危険が伴うということはいえそうです。)
・カフェイン  174-192(mg/kg)
・食塩  3,000-3,500(mg/kg)

さて、ここでカフェインが登場しました。
カフェインも多量に摂取すると死に至るのですが、
コーヒー=カフェイン
ではなく、
純粋なカフェインという物質としての話なので心配はいりません。

カフェインはアルカロイドという、植物の毒ですが、
人間には覚醒作用や解熱鎮痛作用があり、
眠気、倦怠感、頭痛に対する効果があることは間違いないので。
何にでも言えることですが
「百薬の長も、摂り過ぎは百毒になる」
ということなのです。

「LD50=174mg/kg」
は、
「体重1kgあたり174mgのカフェインを摂取すると、
 50%の確率で成人が亡くなる」

という意味ですから、
体重50kgの成人では、
174mg×50kg = 8700mg = 8.7g

料理やお菓子作りの時に、
大さじ、小さじとか出てきますが、
この量の目安は、
・小さじ 5g(すりきり一杯)
・大さじ 15g
といわれているので、
「体重50kgの成人は、カフェイン8.7g、小さじ大盛りで、50%の確率で亡くなる」
というのです。

コーヒーのカフェイン含有量は、
全日本コーヒー協会のHP資料によると
「コーヒー100mlには約60mg。紅茶、煎茶などにも含まれています。」
と書かれています。
(玉露は100mlあたり約120mgとコーヒーの2倍!)

「コーヒーカップ1杯は何グラムか?」
というと、
・エスプレッソカップ 20〜30cc
・デミタスカップ   60〜80cc
・レギュラー  100〜120cc
・マグカップ  180〜220cc
・カフェオレボウル 220〜250cc
などと、カップによって容量は違いますが、
私はマグカップで飲むので
ここでは
「マグカップ1杯200ml」
としておきましょう。

全日本コーヒー協会によるカフェイン含有量で換算すると、
「マグカップ1杯200mlのコーヒーのカフェイン量は120mg」
となり、
マグカップでコーヒーを何杯飲んだら
致死量「8.7g」に達するのかというと、
8.7g=8700mg
8700mg÷120mg=72.5杯

「1杯200mlのマグカップでコーヒーを72.5杯飲むと、
 成人の50%が死に至る」

というのですが、
カフェインは、
「摂取してから血中濃度が最高に達するまでの時間は30分〜2時間」
「血中消失半減期は4時間半〜7時間」
といわれているので、
「成人の50%が死に至るマグカップコーヒー72.5杯は、
 数時間内に飲んだら危険」

という前提なのです。

例えば4時間でマグカップコーヒー72.5杯を飲むとすると、
4時間×60分÷72.5杯=3.31
つまり、3分19秒に1杯ずつ4時間も飲み続ける、しかもマグカップで…。
そんなこと出来る人いないでしょう。

玉露のカフェイン含有量がコーヒーの2倍といっても、
玉露をマグカップで6分48秒に1杯ずつ4時間も
(合計36杯と4分の1杯)飲めるわけがないので、
「お茶やコーヒーでのカフェイン摂取は心配要らない」
といえましょう。


我が家では9歳になったラブラドール・レドリバーが家族として一緒に暮らしています。
彼は昨秋から、また腰を悪くして後ろ足で立てず、
室内では土下座状態で移動するので、
要介護状態になっています。

もちろん家族なので、日夜手厚い介護は当然ですが、
彼に以前、ノミ・ダニの駆除のために、フロントラインという、
首筋に滴下するタイプの駆除液を使っていたことがありました。

それを使うと、彼は苦しみ悶えていたのですが、
たしかにノミ・ダニの駆除効果は完全ではありませんが、
認められたために継続して、時々使っていたのです。

でも、これも成分を調べてみると、
「フェニルピラゾール系殺虫剤」
という医薬用外劇物で、
人体の皮膚に塗ると、すぐに吸収されて危険なものだと判り、
以降の使用は中止しました。

フェニルピラゾール系殺虫剤のLD50は、
・急性経口毒性(マウス) 1,366mg/kg 
・急性経皮毒性(ラット) 2,000mg/kg

我が家の犬は肥満大型犬なので成人並みの体重ですが、
ふつうの犬の体重が10kgとすると、
皮膚に20g、ヤクルト1本が65ccなので
ヤクルトの3分の1程度を体重10kgの犬に塗るだけで、
半数が死ぬ可能性がある危険な劇薬なのです。

説明書には
「安全でやさしい」
ようなことが書かれているのですが。

世知辛い世の中ですから、
身の回りには危険がいっぱいです。
特に口に入るものには相当な用心が必要です。


ここまでを1回目にしておきましょう。

ヤンバルクイナ20140103.JPG
 我が家の庭のブロック塀に、ヤンバルクイナのつがいが姿を表したところです。
 ここは西側ですが、南側、北側にはまた別のヤンバルクイナがやって来ます。
 目的はマイマイやミミズなどの捕食と、水浴びです。
 我が家近郊はヤンバルクイナの大繁殖地なので、
 カラスの次に目にする野鳥、というより
 せっかくタネ植えしたタネ、特に希少なカカオなども
 プランターを突いて食べてしまうので、害鳥の部類に入ります。
 今日は玄関前に彼らの糞があり、
 人の気配が無いと何羽か判りませんが、
 平気で庭に入り込んでいるようです。
 このあたりは元々彼らの居住区であって、
 彼らからすると私は怪しい侵入者ですから
 仲良く共生していきたいものです。
 彼らはとても警戒心が強く、よく見かけるものの、
 なかなか撮影出来ないのです。
තୀ㗝
posted by COFFEE CHERRY at 21:12| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーから学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月08日

「立冬」の今日は恵みの雨で「晴耕雨読」

二十四節気の「立冬」の今日は時々小雨が降り、
11:59には震度4の地震がありました。

『「三国志」魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝』
の“倭人(わじん)”の項は
「魏志倭人伝」
とよばれていますが、
この中に卑弥呼が登場しています。

三国志111108.JPG
 名護市図書館にも三国志や史記の本は多数あります。

邪馬台国の女王卑弥呼は,
魏の王に貢ぎ物を持たせて使者を送り,
魏帝から
「親魏倭王(しんぎわおう)」
と刻まれたた金印紫綬(しじゅ)や銅鏡などの宝物を与えられ,
倭国の王と認められたのですが、
卑弥呼が魏に使者を送った239年は、
魏の2代皇帝曹叡(そうえい=明帝)が1月に亡くなり、
次の3代皇帝曹芳(そうほう=斉王)はこのとき6歳ですから、
卑弥呼の使者が誰に謁見(えっけん)したのか、
あるいは239年自体が違うのかなどはともかくとして、
(三国志では238年、中国正史の一つ梁書(りょうじょ)倭国伝では239年)
卑弥呼が朝鮮半島中西部の帯方郡を通じて
魏に使者を送ったことは史実のようですから、
卑弥呼は実在の人物のようです。

子どもハブ111108.JPG
 先日、我が家の台所前の地面から水が噴き出し、
 「水道管破損の水漏れ」
 という事態に大騒ぎになりました。
 穴掘り作業は長さ2m、深さ50cmにも及び
 ようやく水道管が見えてきたと思ったら、
 今度は台所前のノグチゲラなどが来る桑の木を
 切り倒さないとパイプ修繕ができない、
 ということになり、
 桑の枝を切っていた時に、
 幹の上に隠れていた子どもハブを発見したのです。
 ハブの近くの枝も左手で押さえてノコギリで切っていたのですが、
 よく咬みつかれなかったものです。
 子どもハブは体長約60cmですが、
 成体のハブより子どもの方が毒性は強いといわれています。
 最近は、ヒメハブはよほどのことがない限り
 咬まれないことがわかってきたので、
 ヒメハブはスコップに載せるか網に入れて
 生きたまま遠くに投げ飛ばすのですが、
 ハブは可哀そうですが剪定バサミで首や胴を切ったうえで
 放り投げないといけないのです。
 画像の子供ハブも、可哀そうでしたが
 このあと冤罪でギロチン刑になってしまいました。



「古事記」、「日本書紀」の中から
卑弥呼が誰なのかを探す研究もされているようで、
有力な候補者としては、
 ・神功皇后(第14代仲哀天皇の妃、第15代応神天皇の母)
 ・倭姫(第11代垂仁天皇の皇女、日本武尊の叔母)
 ・天照大御神(初代神武天皇の5代前)

などが挙げられているようです。

たとえば、魏志倭人伝の記述から、
 ・宗教的権威をそなえていて、鬼道につかえ、よく衆を惑わす
 ・倭の女王であり、 夫をもたない

等々の諸条件を満たし、
しかも時系列的に239年頃に生きていたと思われる候補は
卑弥呼=天照大御神
に絞られるようです。

卑弥呼と天照大御神の類似点としては、
・卑弥呼には弟がいたが、
 天照大御神にも、須佐之男の命、月読(つくよみ)の命という弟がいる
・天照大御神と弟・須佐之男の命の争いは、卑弥呼と
 狗奴国(くなこく)の男王・卑弥弓呼との戦争に似ている
・卑弥呼の没後大きな塚がつくられ、
 男王がたったが国中が服さず戦いがおこなわれ、
 13歳の宗女台与(とよ)を王となして国が定まったとする話は、
 天照大御神が、天の岩戸に隠れ再び現れたという話と似ている
・魏志倭人伝には、「人が死ぬと、他人は歌舞飲酒につく」と書かれていて、
 これは、天の岩戸の前で、天の宇受売の命(あまのうずめのみこと)が歌舞をし、
 諸神が「歓喜び、笑い遊んだ」のと符合する
・『古事記』には、「天照大御神、高木神の命をもちて」などの記述があるが、
 高木神は天照大御神と共に命令を下したりしていて、
 魏志倭人伝の、女王のことばを伝えるために出入りしている一人の男と、
 高木神とが符合する

など、
類似点が多くあり、
「卑弥呼=天照大御神」
とすると、
「邪馬台国=高天の原」
ということなのでしょうか?
といっても、高天原それ自体があいまいなので
やはり邪馬台国の場所は特定できないのですが…。

コーヒー山111108.JPG
 昨日のコーヒー山の雄姿
 照葉樹林に覆われた枝葉の下で
 コーヒー栽培を行なっています。


卑弥呼が生まれたのは170年頃と推定されていますが、
卑弥呼が生きた時代は
中国では三国志前半の
特に名場面の多い、華やかな頃で、
 ・184年(卑弥呼14歳) 黄巾の乱が起こる
 ・189年(19歳) 少帝5ヶ月で廃位。董卓、劉協(献帝)を擁立
 ・192年(22歳) 王允・呂布、董卓を殺害
 ・200年(30歳) 官渡の戦い
 ・207年(37歳) 三顧の礼
 ・208年(38歳) 赤壁の戦い
 ・209年(39歳) 劉備、孫権の妹と結婚
 ・216年(46歳) 曹操、魏王に
 ・219年(49歳) 関羽敗死
 ・220年(50歳) 曹操病死
 ・221年(51歳) 張飛暗殺
 ・223年(53歳) 劉備病死
 ・234年(54歳) 諸葛孔明、急死


239年(あるいは238年)に、
卑弥呼が魏に使者を送った当時は
劉備玄徳や関羽、張飛、曹操、諸葛孔明など
三国志を飾るスターたちは
みんな死んでしまった“直後”といってもいいでしょう。
(卑弥呼が亡くなったのは248年頃、68歳ころとされています)

「悪徳の政官によって国が疲弊する」
というと、
「論語」学而篇第3章に出てくる
「子曰、巧言令色鮮矣仁」
すなわち
「巧言令色鮮なし仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」
という、
今から2500年も前に
「口先が巧みで、角のない表情をするものに、誠実な人間はほとんどない」
といった孔子の言葉がまさにピッタリの
腰の低いヒットラーのような人が、
TPP参加や増税といった国の存亡に関わるような重要な問題を
国民の信を得ずに勝手に推し進めようとする
今の日本もそうですが、
漢の末期、悪徳な役人によって腐敗した漢王朝に、
「仙人から妖術の書を授かり、腐敗した漢王朝を打倒する!」
と、
張角(ちょうかく)が黄巾の乱を起こしたのです。
(この張角や兄弟にも不浄な問題はありましたが…)
漢王朝はこの乱を鎮めますが、
討伐で活躍した豪族たちが権力を握り、
漢王朝の権威はますます弱体化していきます。
その混乱の中から、次々に英雄たちが現れ、
その中でも能力と時の運を兼ね備えた三人の人物が、
それぞれ魏、呉、蜀を建国していきます。
この時代を三国時代というのですが、
多くのヒーローの中でも特に私が好きなのが諸葛亮孔明なのです。

ハイビスカス111108.JPG
 自宅のピンクのハイビスカスです。
 こういう品種改良したハイビスカスは
 色は綺麗ですが、防風林としてはまるで役立ちません。
 ガラス戸のさえぎり兼遮光兼観賞用といった
 住宅回りや庭に植えるくらいで私は植えています。


諸葛孔明の父親が役人で比較的恵まれた家庭だったようです。
母親は早く亡くなり、父は後妻をもらいますが、
父も孔明が10歳頃に亡くなっています。

孔明は次男で、兄・瑾(きん)は秀才で漢の都・洛陽の大学で学び、
弟・均(きん)は孔明、義母と生活していました。
そんな時、兄が洛陽から帰ってくるのです。
兄は
「黄巾賊の乱が洛陽にまで及んできた」
といい、
家族は叔父・諸葛玄(げん) を頼って
江東(こうとう)まで非難していきます。

半年後に叔父は劉表(りゅうひょう)の招きで
荊州(けいしゅう)へ赴きます。
この荊州は三国時代の特に重要な地で、
やがてこの地を巡り多くの戦が起こり、多くの死傷者が出るのです。
当時、呉は英雄といわれる孫策のもとで大きく発展しそうだったので
兄は江東から呉に向かい仕官します。

荊州生活1年後、叔父・玄に代わり
予章(よしょう)を治めていた周術(しゅうじゅつ)が亡くなったため、
叔父・玄は再度予章の郡太守(郡の長官)に命じられます。
ところが任地に着くと、漢朝から予章の郡太守に任命された
失晧(しゅこう)が着任していて争になり、
叔父・玄は戦に敗れて行方不明になってしまいます。
そのため、叔父・玄と孔明たちは
荊州の劉表(りゅうひょう)の下に身を寄せることになります。

以降孔明は荊州で過ごし、
17歳の頃に大学者・石韜(せきとう)の門をたたきました。
ここには石韜の名を慕って全国各地から
すぐれた門人が集まってきていました。
後に劉備玄徳に諸葛孔明を紹介した徐庶(じょしょ)も
その門人の1人でした。
ここで孔明はめきめきと頭角を現します。
その才は群を抜き20歳になった頃には、
もはや学ぶことがなくなっていたといわれます。

孔明は弟・均とともに、隆中(りゅうちゅう)の山中の
草廬(そうろ、草ぶきの粗末な家)にこもり、
農作業に従事しながら臥龍(がりゅう)先生と称して、
晴耕雨読の生活を始めるのです。

それ以降、孔明を訪ねる友人は激減し、
孔明を訪ねてくるのは、孔明の才を見抜いた人たちだけでした。
この頃、孔明は河南の名士の娘と結婚しますが、
相手の外見は肌黒で髪は黄色っぽく、しかも醜いという、
今でいうブサイクの部類といわれていますが、
その内面は天文地理兵法に秀でた才女といわれていますから、
孔明らしいですね。

劉備玄徳は、すでに関羽、張飛、趙雲といった
天下の英雄、豪傑を部下としていましたが、
知能に優れた人材を熱望して諸国を転々とし、
荊州新野に駐屯していた頃に、
劉備は徐庶と会見し彼を有能な人物だと見抜き軍師にします。

207年、徐庶の母が曹操に招かれたため、
徐庶母に会うため劉備のもとから曹操のところへ向かうことになり、
見送りにきた劉備に徐庶は孔明を訪ねるようにいいます。

そして劉備は 隆中にいる孔明を訪ねます。
しかし孔明は不在でした。

劉備はあきらめずに、今度は吹雪が吹き荒れる日、
孔明在宅との知らせをうけて、劉備は再度孔明を訪ねます。
しかし、草廬に居たのは弟の均でした。
劉備はまたしても孔明に合うことが叶わず、
どうして自分は孔明と縁が薄いのかと嘆きながら、
自分の孔明に対する思いを手紙に書いて弟・均に預けていきます。

それからしばらくして劉備はまた孔明を訪ねます。
孔明は草廬に居たものの昼寝中でした。
劉備は孔明を起こそうとせずに待ちます。
孔明がようやく起きて、劉備は孔明と対面できます。
劉備は、孔子の例などを出して、
「天下万民のために立ち上がってほしい」
と頼みます。
ここで孔明は有名な「天下三分の計」を劉備に話すのです。
すなわち、
 ・大きくなりすぎた魏の曹操を討つのは不可能
 ・三代にわたって発展してきた呉を奪うこともまた不可能

 ・ならば、そのどちらにも属していない荊州と益州(後の蜀)に勢力を興し
  国を三つにわけ、その後、曹操の野心を砕く

というのが孔明の「天下三分の計」でした。

これを聞いた劉備は
「これからも私にいろいろ教えください」
と願います。
孔明は初めは断りますが、
劉備の国を思う真摯な姿に心を打たれ、
ついに劉備に協力することを決め出廬(しゅつろ)します。
これが有名な三顧の礼で、劉備46歳、孔明は27歳でした。

しかしこの話は三国志演義での話です。
それでも、この逸話の中で学べるところは多く、
例えば、
劉備は自分で人材を見抜き、探したりする能力がなくても、
人材を見抜ける人を信ずる人徳があり、
それが、多くの人材を集め、
やがて大国の雄になることができたということです。

また、人物の迫力さでは、
どうみても劉備より曹操の方が上手で
先見性や洞察力に優れた孔明はとうに
曹操か劉備のどちらが天下を取るか予測できたはずだし、
曹操も孔明に自分の部下となるよう使者を出していたのに
孔明が曹操を選択しなかった、というのは
劉備の人間としての魅力や人徳によるものでしょう。

しのぶコーヒー111108.JPG
 品種名が不明のため、仮称「しのぶコーヒー」。
 しのぶというのは名護市の果樹栽培者の名前です。
 このコーヒーは昨秋買い、コーヒー山の南側尾根に植えたのですが、
 3度の台風の厳しい暴風にも不思議に耐え抜いています。


今日のテーマ「晴耕雨読」とは、
単に
「晴れれば畑を耕し、雨降れば読書で時を過ごす」
「世の流れに左右されず、自分の思うままに生きる悠々自適生活」
という意味だけにとらわれず、
中庸の境地(平常心)ととらえたり、
あるいは、老子や荘子の無為自然の
「あるがままに生きる」
と考えると、
「晴耕雨読」
という言葉の重さ、深さを感じます。

徒然草 第三十八段「物欲、名誉欲について」の冒頭、
「名誉欲、金銭欲にこきつかわれてあくせくし、
 閑寂を楽しむいとまもなく、一生を苦しんで送るのは、
 まことに愚かなことだ。」

途中を省略して、この段の最後、
「また、いかなるものを「善」というべきか。
 これについても、絶対的な判断は存在しない。
 それらを超越した真の人間とは、
 智もなく、徳もなく、功もなく、名もない人であろう。
 だから、それらの真実の存在は、人にも知られない。
 誰がそれを知り、誰が伝えることができようか。
 これは、わざと徳を隠したり、愚をよそおっているのではない。
 もともと、賢愚・得失といった境地を超越した存在なのだ。
 人間が迷いの心をもって、名誉や利益を求めるというのは、
 かくのごとくつまらないことである。
 言うに足りない、願うに足りないものにすぎない。」

鎌倉時代末期から南北朝へかけての
社会不安、政情不安、金銭のあくなき追求を知り尽くし、
見尽くしてきた吉田兼好の、物質欲、名誉欲の否定は、
老子、荘子の思想に強く影響されています。

老子の読み方111108.JPG
 名護市図書館で借りた本です。
 孔孟思想や老荘思想の本も多数あり
 何度も読んでいるうちに、
 最初はチンプンカンプンだったのが、
 少しだけ解かるような気がしてきました。



『孔孟の教え(儒教)』

『老荘の教え(道教)』
の最大の違いは、
「人間の努力や営為(日々の営み)」
を肯定的に捉えるのか否定的に捉えるのか、
というところにありそうです。
老荘思想は
「人間の欲望・知識・意志」
を否定的に認識して
無為自然(何も行動しないことの道徳性)を説いていますから、
若い頃は孔孟思想を学び、実践して
晩年にさしかかって、出世を求めず
人生の集大成をまとめる頃になったら老荘思想、
というのが良さそうです。
これが逆だと、
若者がへんな悟りを開いて仙人のようになってしまいますからね。

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2011年11月02日

バッハの「コーヒー・カンタータ」を聞く@

今はどうだかわかりませんが
私が小中学校時代の音楽室の肖像画というと、
 ・バッハ
 ・ハイドン
 ・モーツァルト
 ・ベートーヴェン
 ・シューベルト
 ・ショパン

と並んできたように記憶しています。


米国のヴァイオリニストHilary Hahnによる
 パルティータ第3番より「ガヴォット」BWV1006


バロック時代のバッハからモーツァルトまでがかつらだったとは
私がまだ純真だった当時はそんなことは知らずに、
カール状の不思議なヘアースタイルに
違和感をもって見上げていたものです。

バロック音楽というのは
「宮廷音楽」
「教会音楽」
らしいですが、
フランス革命以前の時代の音楽家は、
貴族に召抱えられた使用人の一人として冷遇され
当時はかつらは貴族の正装であり、
貴族たちの前で演奏する音楽家も
かつらを被らなければならなかったようです。
身だしなみであり、マナーだったということですね。

召使扱いですから音楽活動においても当然自由はなく、
宮廷の慰み、あるいは宗教儀式のための添え物、
つまり刺身のつま程度の扱いで、
貴族の要望に合わせて音楽を作り演奏するものだったのです。


2つのヴァイオリンのための協奏曲 第1楽章 BWN1043

バッハが音楽室の最初に登場しているのは、
そういう不自由な音楽を、
宮廷だけでなく世間の人々を喜ばすような
独創的な作曲に専念したことにありそうです。

また、明治以後、
日本における文化はドイツが中心で、
たとえば医学では
 ・コッホの細菌学
 ・フロイトの精神医学
 ・ゼンメルヴァイスの衛生学
 ・フィルヒョーの細胞病理学

等々のドイツ医学の進歩に伴い、
それを日本に伝えたドイツ人医学博士ベルツ、
そういえばカルテやヘルツ(心臓)、マーゲン(胃)もドイツ語ですし、
法学では大日本帝国憲法はプロイセン憲法がモデルとか
コピーといわれています。
大学の第ニ外国語の履修科目に
国連公用語でもないドイツ語があることも、
明治時代の教育の名残だという考え方もあるでしょう。


マタイ受難曲BWV244
Wikipediaによると
「マタイ受難曲(Matthäus-Passion)とは、
新約聖書「マタイによる福音書」の
26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲である。」
と書かれています。
受難曲(PASSION)とは,ユダの裏切りからイエス・キリストの逮捕,
裁判,十字架上の死という一連の出来事を物語風に歌った劇音楽なので、
明るくて楽しい楽曲であるはずはなく、とても重苦しく深い楽曲ですが、
バッハの最も偉大な教会音楽と評された
バッハの代表作のひとつでもあります。
キリスト教や聖書が理解できていないこともあって、
その偉大さや深さは私にはどうもよく判りません。



音楽も例外ではなく、
音楽用語は
 ・Adagio(アダージョ、ゆるやかに)
 ・Andante(アンダンテ、歩くような速さで)
 ・da capo(ダ・カーポ、最初から)
 ・forte(フォルテ、強く)

など、
ほとんどがイタリア語なのに、
主たる教育輸入先がドイツであれば、
学校で習う音楽も自動的にドイツ音楽になる、
だから
「バッハが肖像画の最初」
というのは、
少しこじつけ的な発想でしょうか。
(自信はまったくありませんもうやだ〜(悲しい顔)

ちなみに、ライプツィヒの聖ト−マス教会でのリハーサル中に、
バッハはミスしたオルガン奏者に対し
「きみは靴屋になるべきだった!むかっ(怒り)
と激怒して、
かつらを投げ飛ばしたのだそうです。
かつらを取ったバッハの姿も見てみたいものですね。


 J.S.バッハ/メヌエット ト長調 BWN114 

NASAが1977年に打ち上げた2機の
ボイジャー(1号、2号)無人探査機には
「Voyager Golden Record」
という、電子的なメッセージ、
つまり一種のタイムカプセルが積載されています。

この中には、地球の生命や文化の存在を伝える音や画像が納められていて、
地球外知的生命体や未来の人類が見つけて
解読してくれることを期待しているものなのです。
具体的には
 ・波
 ・風
 ・雷
 ・鳥
 ・鯨

など自然や動物の鳴き声などの多くの自然音や、
さらに様々な文化や時代の音楽や
55種類の言語の挨拶(あいさつ)が含まれています。

地球の音として選ばれたものは、
東洋や西洋のクラシックを含む様々な伝統文化の音楽が選ばれています。

バッハは
「ブランデンブルク協奏曲」


 ブランデンブルグ協奏曲第2番ヘ長調BWV1047 第1楽章

および
「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」
が選出されています。

バッハ以外では
ベートーヴェンの「交響曲第五番」、「弦楽四重奏曲第13番」
モーツァルトの「魔笛」
イーゴリ・ストラヴィンスキーの「春の祭典」
や、
ルイ・アームストロングの「Melancholy Blues」
チャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」
も入っていて、
日本の曲では尺八の古典本曲
「鶴の巣籠り(別名:巣鶴鈴慕)」
という、
私も日本人でありながら聞いたことがない曲まで選出されています。


今、モーツァルトの本を読んでいて
彼がたいへんなコーヒー好きだったことを知りましたが、
モーツァルトより70年前のバッハが
コーヒーハウスで演奏会を開いていた、
という記述から、
バッハの本も読むようになりました。


トッカータとフーガ ニ短調 BWV565
サスペンスドラマの中で
「やむにやまれず殺人を犯してしまった」とか
「ついに禁じ手を使ってしまった」とかの場面で
よく使われる楽曲ですね。



バッハとコーヒーの関係を顕著に示す
「バッハとコーヒー・カンタータ」
というと、
特にカフェ関係のWebで書かれていますが、
どうも簡略に書かれているために、
どういう曲なのかイメージも湧かないので
自分で聞いてみることにしたのです。


ローマ帝国というと、
ジュリアス・シーザー(カエサル)が活躍した
紀元前からの古代ローマをイメージしがちですが、
中世の神聖ローマ帝国は、
現在のドイツ、オーストリア、チェコ、
イタリア北部を中心に存在していた、
帝国というよりは実質的に大小の国家連合体で首都はなく、
この中から、十字軍から帰還したドイツ騎士団領プロイセン公国が
プロイセン王国に台頭したり、
ハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が成長していきました。


「G線上のアリア」は管弦楽組曲第3番」のうち
「アリア」楽章に付けられた愛称で、
正しくは「管弦楽組曲第3番BWV1068」のようです。


“ローマ”という名前は紛らわしいですが、
ローマは支配地域に入っていません。
962年に東フランク王国のオットー1世が
ローマ教皇から「ローマ皇帝」の冠をもらっただけですから
神聖ローマ帝国といっても
“ローマ”は貸し看板のようなものなのです。

神聖ローマ帝国で、
フランス、スウェーデン、スペイン、オーストリア、
イタリア、デンマーク、ドイツ諸州という西欧諸国のほとんどを巻き込み、
カトリックVSプロテスタント
というより、
ハプスブルク家VS反ハプスブルク家
という構図で
特にドイツを荒廃させた30年戦争の終結37年後(1685年)に
バッハは神聖ローマ帝国のThüringen(テューリンゲン州、現ドイツ中部)で
音楽家の末っ子として生まれています。

バッハが生まれた1685年は、
フランス国王ルイ14世が国内の宗教をカトリックに統一するために
ナントの勅令を廃止「フォンテーヌブローの勅令」を発布したことで、
旧教徒は信仰の自由を再び奪われ、
産業の中堅役として経済を支えていた
多くのプロテスタント信者が国外へ逃亡し、
フランスにすさまじい騒乱と緊張をもたらし、
不満が高まって、ついにはフランス革命へとつながることになるのです。

また、バッハ誕生の1685年(貞永3年)の日本では
松尾芭蕉が東海道〜中山道〜甲州街道から
江戸深川の芭蕉庵に帰宅した年が1685年で、
紀行文「野ざらし紀行」を執筆し始めながら
自宅で
「古池や かはづ飛び込む 水の音」
を詠んでいます。
また、この2年後の1687年には
江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が生類憐みの令を発令し、
この翌年から江戸バブル期の元禄時代に入ります。
そういう年にバッハは誕生しました。

バッハは少年時代に両親を亡くし、
10歳の時から14歳年上の教会オルガン奏者の兄に引き取られ、
30年戦争後にドイツに義務教育制度が始まったことで、
ラテン語学校に5年間通い、
落ち着かない兄宅から15歳の時に
200km以上離れたドイツ北部のリューネブルクの
聖ミカエル教会の朝課聖歌隊に
ボーイ・ソプラノとして就職しながら学校を卒業し、
それ以降は
・ヴァイマル公ヨハン・エルンストの
宮廷楽団のバイオリニスト(15〜17歳の2年)
・アルンシュタットの新教会のオルガニスト(18〜22歳の4年)
・ミュールハウゼン、聖ブラジウス教会の
オルガニスト(22〜23歳の2年)
・ヴァイマルのヴィルヘルム・エルンスト公付宮廷楽団の
音楽家兼宮廷オルガニスト(23〜32歳の9年)
・アンハルト・ケーテン公の宮廷楽長(32〜38歳の6年)

と常習的に貪欲に、条件の良い仕事に切り替えて
1723年、バッハが38歳の時に、
当時ハンブルグに次いで輝かしい近代的生活が営まれていた
人口3万人の大都市ライプツィヒで、
ライプツィヒ聖トーマス教会の
「カントル(kantor)」
という訳職に就任します。
カントルは「音楽監督」と説明されている本やWebが多いのですが、
単に音楽監督というだけでは、どれだけすごいのか?
土木工事の現場監督との違いが、どうも明確ではないので
もう少し詳しく調べてみると、
「中世的な幅広い教養を身につけ、音楽、法律、神学、修辞学、
詩、数学、外国語に通じている」

優れた知識や人格が求められ、
「ライプツィヒの最も重要な教会(トーマス教会、ニコライ教会)において、
あるいは他の公式の機会に教会礼拝に必要な楽曲の創作・上演をはじめ
ライプツィヒ市の音楽活動への参画をする

という、
当時のドイツ音楽界屈指の
Commissioner的な名誉ある要職が「カントル」で、
バッハは25年以上にわたってこの要職に就き、
この期間に彼の最高の宗教曲の多くを書きました。


ヴィヴァルディはバッハより7歳年上のイタリア・ヴェツィア出身の
バッハと同世代のバロック時代の音楽家ですが、
バッハとは面識はなく、バッハはむしろヴィヴァルディの楽曲を
いち早く集めていたようです。
当時は著作権はなく、バッハは多くの音楽家の曲の譜面を集め
バッハが手直しして完成された楽曲も相当数あるようです。
“盗作”というより、それだけ貪欲な勉強家だったということでしょう。


バッハは生涯オペラは作曲していませんが、
ライプツィヒでの「カントル」採用条件に
「教会音楽は長すぎてはならず、
オペラ的性格を持たない性質のものであるよう配慮すべきである」

と規定した一項が含まれていたように、
バッハはハンブルグでオペラを知って以来オペラヲタク化して
暇があれば100kmも離れたドレスデンのオペラ劇場の公演に
出かけていたようで、
24曲の世俗カンタータのほとんどがオペラ的性格を示していて、
その中の1つが
「コーヒー・カンタータBWV211」
なのです。

これはバッハの友人ピカンダー
(作詞家兼郵便局員、物品税課職員)が歌詞を書き、
バッハが47歳の時に曲をつけたようです。

コーヒーは当時ヨーロッパで流行した高価な飲料で
(バッハが亡くなって71年後に生まれたモーツァルトの時代では
今でいう1杯約5000円と換算されていますから、もっと高価だったのかも)
コーヒーハウスも盛んに店開きし、
階級を問わずあらゆる人々で飲まれていたようです。
また、コーヒーハウスの流行は、
今ならテレビや新聞、ネットなどで情報がいくらでも入りますが
当時はコーヒーハウスが情報交換の場であり、
ここに来ることで真偽はともかく世相を知ることが出来たようで
そのために当時珍しいコーヒーとともに流行していったようです。

「コーヒー・カンタータKaffee-KantateBWV211」
は、
シュレンドリアンというライプツィヒ市民の頑固親父が
リースヒェンというコーヒーにはまった娘から
コーヒー熱を冷まさせようと、
「コーヒーを止めないと嫁のもらい手がないぞ」
と娘を脅し、
娘は
「それなら、好きなだけコーヒーを飲ませてくれる男としか
絶対に結婚をしない」

と言い返し、
娘はコーヒーを止めない、という結論で終わっています。

和訳歌詞全文は、こちらのブログがとても詳しいのでご覧ください。
「楽曲解説 カンタータ211番 BWV211」



 この楽曲が「コーヒー・カンタータBWV211」です。
 上記の和訳歌詞もそうですが、音楽自体もなんだか…。
「この音楽がライプツィヒのコーヒーハウスで上演され、
喝采を浴びていたんだな」
と感慨深く聞くことは出来ましたが
私にはどうも音楽のセンスがないので、
不謹慎ですが、あくびが出るのを抑えてしまいました。
それでもKaffeeというのだけは聞き取れましたからまぁいいかな。



バッハとヘンデルというとバロック後期の2大巨匠ですが、
二人の生涯は奇妙な符合があります。

二人はドイツの、お互いから約130kmしか離れていない土地で
誕生日もヘンデルが約1か月早いだけですし、
二人とも幼少時期から音楽の訓練を充分に受けて
ともにすぐれたオルガニストになり、
以降、後世に残る楽曲を作り出しました。


 ヘンデルの水上の音楽

二人は晩年に白内障や緑内障の手術が失敗して視力を失い、
それがもとで翌年亡くなるのですが、
その手術を執刀したのが同じペテン師系のやぶ医者でした。

このやぶ医者はイギリス人のジョン・テイラーといって、
ロンドンで診療所を開設して、以降欧州大陸を転々としていて
たまたまライプツィヒに来たところで
バッハが運悪く知り合ってしまったようです。

バッハ時代の白内障手術は
「水晶体転位術」
と呼ばれ、
麻酔無しで鋭く厚い針を眼に突き刺し、
その針で水晶体が見つかるまで探り、
それから針を眼球内部のガラスのようなゼラチン膜に押し込む、
というような手順のようで、
まさに残虐な拷問といった感じで行われたようで、
スペイン出身で角膜移植を確立したカストロビエホ(Castroviejo)教授が
1974年1月に発表した論文によると
「この手術は患者と外科医の双方にとって悪夢のようなものだったに違いない。
この地獄の苦しみは、外科医の助手たちが加わることで初めて達成できた。
患者を力ずくで押さえつけ、特にその頭部とまぶたを動かせないように
患者を固定するのが彼らの役目だった。
そして外科医は、患者が激痛が伴うことで、患者が暴れ出し、
手術が不首尾に終わらないうちに、出来るだけ迅速に
手術を済ます、という超人的ともいえる器用さを求められた。…」

と書かれていますから、
1750年4月1日、バッハがテーラーから受けた手術はこんな
おぞましい感じだったのでしょう。
しかもバッハは、このやぶに2回も手術を受けているのです。

テーラーは
「瞳孔の動き、光など、状況はすべて良好だった」
と自分の失敗をバッハのコンディションのせいにしていたようです。
最低なヤツですね。

テーラーの2度に及ぶ手術失敗のおかげで
バッハは組織全部が悪くなり失明しただけでなく
健康も損なわれて最初の手術失敗から
4か月目に亡くなってしまうのです。


 ヘンデルの「王宮の花火の音楽」

このテーラーは、ロンドンに戻っても多くの人々を失明させ、
1758年、74歳になったヘンデル(42歳の時にイギリスに帰化)の
緑内障手術を行い、これもまた見事に失敗し、
ヘンデルはこの後遺症で翌年亡くなっています。

テーラーには多くの称号があったといわれていますが、
肩書きなんかよりも、
星の王子さまの21章、
キツネが王子さまと別れるときに言った
「心で見ないと物事はよく見えないってことさ。
肝心なことは目には見えないんだよ」

ということの方がよほど大事なことだと
改めて思い知らされました。

posted by COFFEE CHERRY at 20:21| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーから学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月24日

タイワンシロガシラから学ぶ

沖縄本島で“北部三村”というのは、
 ・ 国頭(くにがみ)村
 ・ 大宜味(おおぎみ)村
 ・ 東(ひがし)村

のことを指し、
この地区はうっそうとした亜熱帯原生林が広がっていて
その森林率はいずれも8割前後もあり、
「やんばる」が“山原”と書かれることも
納得出来るのです。

タイワンシロガシラ0908-1.JPG
 自宅近くのコーヒーテスト圃場のバナナです。
 右はフィリピンバナナ、
 左の房を布で覆っているのはブラジルバナナです。
 この圃場にはこの他に、
 島バナナやボリビアバナナ、
 マッサンバナナ、イスラエルバナナ、
 三尺バナナ、調理バナナなどを栽培しています。
 左のブラジルバナナは完熟が近いので
 鳥害から守るために房を布で覆っているのです。


コーヒー山は国頭村の中心あたりにありますが
北部三村の農作物の野生鳥獣被害は、
 ・ イノシシ
 ・ カラス

が突出していて、
コーヒー山でも、
今のところカラスの被害は
昼食時のお弁当くらいで実害はないのですが
イノシシは、実際に“ウリ坊”と
林床地で出会っていますし
コーヒー山に植えたバナナの子株の9割以上が
イノシシに次々に掘り出されて株を食べられていて
林道からコーヒー山に入る私道は
「バナナをズラッと並べたい」
ということから
『バナナロード』
と名付けているものの、
バナナ子株がほぼ壊滅の状況では
「コーヒー山にバナナを植えたくても植えられない」
のが実情で、
バナナは自宅近くに植えようと考えています。

タイワンシロガシラ0908-2.JPG
 フィリピンバナナの房の上には
 何やら鳥の巣らしいものが乗っていました。
 この圃場ではメジロが度々巣を作っているので
 始めは「メジロの巣」と思っていました。


私の自宅やテスト圃場は、現在は本島南部ですが
この地区の鳥獣被害では
カラスよりも
「タイワンシロガシラ」
の方が実害が大きいのです。

タイワンシロガシラ0908-3.JPG
 翌日圃場に行くと、房の上の巣には
 「タイワンシロガシラ」が入っていたので
 「タイワンシロガシラの巣」だということが判りました。
 画像からでは判りにくいのですが、
 「タイワンシロガシラ」が入っているのが
 判るでしょうか?


「タイワンシロガシラ」
は、
もちろん沖縄に
もともと生息していた野鳥ではなくて外来種ですが、
スズメ科ヒヨドリ科の体長15〜20cmのやや大きな鳥で
警戒心が強くて敏捷性にも優れていて
おまけにものすごく学習効果が高くて賢い野鳥なのです。

沖縄に入ってきたのは
 ・ 台湾から台風などで渡ってきた
 ・ 沖縄に駐屯する海兵隊が
   ペットとして持ち込んで逃げ出して繁殖した

などの諸説があって
本当のところははっきりしませんが、
沖縄が日本に復帰して4年目の1976年(昭和51年)、
ロッキード事件で田中角栄前首相が逮捕されたり、
中国で第一次天安門事件が起こったその年に
タイワンシロガシラが沖縄で最初に確認されたそうですから
最初の発見から、まだ33年しか経っていないのに、
またたくまに県内で繁殖して、
国立環境研究所の侵入生物データベースにも
リストアップされるほどになっている
立派な“害鳥”に出世してしまいました。

沖縄で発見されてから20年後の20世紀末には
「大宜味村でも見かけた」
という北限情報があったようですが、
それから10年ほど経つのに
隣接する国頭村では目撃情報を聞いていませんし、
私も今のところ見たことはありませんから
以外と「タイワンシロガシラ」は人里近辺に棲息して
農作物を食害しながら
分布を拡大しようとしているのかもしれません。
温暖化の影響なのか、
“北限”は沖縄も奄美でもなく、
すでに鹿児島でも見かけられているようです。

タイワンシロガシラ0908-4.JPG
 画像では鳥の頭が白いのが見えないのですが、
 「タイワンシロガシラ」です。
 巣を守っているようで、
 警戒してこちらを見ています。
 このバナナがあるブロックでは
 先月2m級の大物ハブが
 私のすぐ近くを横切っっているので
 私は地面を警戒しながら巣を見ているのです。


「タイワンシロガシラ」
が、どのくらい頭が良いかというと、
例えば、防風ネットや防虫ネットで囲われたハウスに
小さな「穴」が開いていると、
タイワンシロガシラだけでなく、
スズメももちろんハウスの中に入ってきますが、
何かの拍子で、鳥が逃げ出す時には、
スズメが出口がわからずパニックになり、
逃げ惑うのに対し、
タイワンシロガシラは入ってきた小さな「穴」から
冷静に逃げ出すのです。

また、猟師が散弾銃で発砲しようとしても、
電柱や車、人の居る方などに移動するとか
バラバラに分散するとかの
頭脳的な逃げ方も出来るのです。

タイワンシロガシラ0908-5.JPG
 いつもなら人間の姿を見ただけで
 逃げ出すほど警戒する鳥が
 大事に巣を守っているので、
 巣の中を覗いてみると
 卵が2個あるのを見つけました。
 ただし産卵日は不明です。


このタイワンシロガシラが、
「コーヒーの実を食べるかどうかexclamation&question
ということについては
実害は少ないものの
「タイワンシロガシラはコーヒーの実を食べる」
のです。

樹木の果実が糖分を含んで甘いのは
鳥類や哺乳類に食べてもらうための
果樹の“仕掛け”で、
果肉が消化されても中の種子はフンと共に排泄されて
遠く離れた場所に子孫を芽吹かせて
分布拡大に役立たせているのですが、
コーヒーの実も糖度が10以上あって甘く
赤い実を付けるのも緑色や茶色の樹林の中で
目立ちやすくさせているのです。

県内のコーヒーの生産者の一部の方は
「タイワンシロガシラはコーヒーの実を食べない」
と断言する方もいるのですが、
それは間違いのはずです。

タイワンシロガシラ0908-6.JPG
 卵発見日から4日後に圃場に行ってみると
 すでに孵化していました。


それならなぜコーヒーの実害が少ないのかというと、
もちろん答えをタイワンシロガシラに
直接聞くことは出来ないのですが、
おそらく
 ・ コーヒー以外に、もっと魅力的な農作物があり、
   そっちを優先している
 ・ コーヒーの実が甘いだけでなく、
   何か苦味成分のようなものがあって、
   それが嫌われている

などが考えられます。

タイワンシロガシラ0908-7.JPG
 卵発見日から6日後には雛が少し大きくなっていますが、
 もう1つの卵はまだ孵化していません。


沖縄に生息し始めてまだ三十数年しか経っていない
タイワンシロガシラにとって
コーヒー自体がまだ県内でも目新しい農産物ですから
「認知されていない」
ということもあるかもしれませんが、
私は上記2点の事由で
「今のところは、あまり被害に遭わないで済んでいる」
と考えていて、
コーヒー生産者が増えるにつれて
いずれ被害は増加傾向にあると危惧しています。

タイワンシロガシラ0908-8.JPG
 卵発見日から8日後には
 雛は羽の形がはっきりしてきました。
 親鳥は近くのハイビスカスの垣根で
 私に怒っています。


コーヒー山には
今のところタイワンシロガシラは見かけないものの
ホントウアカヒゲやアカショウビンなどの
多くの野鳥が棲息していて
これらがやがてコーヒーの実も
食害するのではないかと危惧しているのですが、
沖縄でコーヒーの実を収穫する時期は“冬期”が中心で
この時期のやんばるは柑橘類の収穫期も重なっていて
野鳥のDNAも
「柑橘類は昔からやんばるにある美味しい食べ物」
と伝授していて、
野鳥は柑橘類を重視すると思いますが、
コーヒー山では、念のために
「おはよう、フェルプス君。今回の任務だが…
 野鳥に食べさせる“おとりの果樹”を
 周りに植えることで実害を少なく…」

という
「おとり大作戦」
を遂行しようと考えています。

タイワンシロガシラ0908-9.JPG
 卵発見日から10日後には
 外径10cmくらいの巣の中が
 窮屈になるくらい雛は大きく成長していました。
 もう1つの卵はついに孵(かえ)らなかったようです。
 この2日後に巣を覗くと雛はもう巣立ちしたようで、
 親鳥も居ませんでした。
 メジロは産卵後11日前後で孵化し
 それからまた11日前後で巣立つといわれていますが
 どうやら「タイワンシロガシラ」も
 同じくらいのようです。


posted by COFFEE CHERRY at 23:50| 沖縄 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーから学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月05日

コーヒーの葉が平たい理由を考える

7月4日はアメリカ独立記念日で、
アメリカ合衆国にとって非常に重要な祝日です。
今から233年前の1776年7月4日に
フィラデルフィアの大陸会議で
独立宣言書に署名をした日ですが、
アメリカ合衆国がKingdom of Great Britainからの独立が
正式に認められたのはその7年後の1783年になるのですが、
この翌年の1784年にドイツでは35歳になったゲーテが
植物について徹底的な観察を行い始めた年で
ゲーテは茎と葉を同一の器官ととらえて
「その先端が葉に、基部が茎になる」
と考え、
1790年には
 「(花も含む)植物の地上部が
   茎と葉の変形だけで成り立っている」

ことを説いた
「植物変態論」
を刊行し、
それ以降植物の形態は、
 ・ 茎
 ・ 根
 ・ 葉

の3つで構成されていて、
コーヒーやヒマワリ、アサガオ、サクラなどの
一般的な種子植物では
「花は茎と葉の集まり」
なのだそうです。

コーヒーの葉090704-1.JPG
 コーヒーの葉は
 表面のクチクラ層がピカピカ輝いていて
 見ていて飽きないどころか、
 おもわず話しかけてみたくなります。


当時の日本は
11代将軍・徳川家斉の時代で
「暴れん坊将軍」で名高い
8代将軍吉宗の孫・松平定信が老中になって
祖父の享保の改革を真似た
懐古主義的な寛政の改革を断行して失敗するのですが、
ゲーテが「植物変態論」を刊行した1790年には
松平定信が「鬼平犯科帳」で有名な
火付盗賊改役・長谷川平蔵の提案で
石川島に人足寄場をつくり、
無宿人に職業訓練を行っています。

ついでに、NHKの時代劇「陽炎の辻3」の時代設定は
老中が悪政で名高い田沼意次(おきつぐ)の時代で
大げさの演技の雑賀泰造に命じて
主人公の坂崎磐音(いわね)を抹殺しようと
刺客を次々に送り込んでは失敗するのですが、
老中田沼意次は10代将軍・家治の死と共に
失脚したのが1786年で、
この次の老中が松平定信になりますから、
「陽炎ノ辻―居眠り磐音 江戸双紙 (双葉文庫)」
は小説といえども
時代設定ではゲーテが生きた時代と重なっているのです。

コーヒーの葉090704-2.JPG
 コーヒーの葉を眺めていると
 「いつごろからこういう形になったのexclamation&question
 と聞いてみたくなります。


古植物学の権威西田治文・中央大学教授の
「植物のたどってきた道(NHKブックス)」
によると、
植物が海から陸に上がったのは
「4億7000万年前から4億5000万年前の間」
で、
陸の植物は乾燥から身を守らないといけないので、
それを防ぐため表面に『クチクラ』という
空気や水を通さない特別な層をつくり上げ、
そうすると今度は空気などが通らず
光合成ができなくなるため、
ガス交換をする気孔という穴をつくったことや、
海から陸に上がった理由は、
「光合成に使えるCO2の量は、
 水中よりも空気中の方が多いため、
 徐々に効率のいい陸へ進出していった」

と興味深く書かれていますから、
コーヒーの木を
「数億年の時を経て進化した、現段階では完成された形」
として眺めているだけで、
神聖で崇高なオーラが放たれているような
特別な神々しさを感じ、
同時に、移入種であるコーヒーが
ヤンバルの在来種と仲良く共生してもらえることを
願わずにはいられないのです。

コーヒーの葉090704-3.JPG
 光を効率的に集める楕円形をしたコーヒーの葉は
 また1枚のムダもないはずで、
 人智では及びもつかない繊細で芸術的ながら
 人間より進化した生物なのです。


前置きが長くなりましたので今日の本題に戻りましょう。
植物が生長するためには、光エネルギーが必要です。

光エネルギーを使って光合成を行う葉の工場は
個々の細胞ですから
葉は、これらの工場がたくさん集まった光合成の大工場群、
つまり一大コンビナートというわけですが、
それは葉が光エネルギーを
最も吸収しやすい形をしているからで、
植物は茎や主幹という支柱で太陽の光に近づき、
葉という受光装置で光を吸収する構造となっていて、
ということは葉は光を吸収しやすい形、
つまり基本的に平面状の形になっているのです。

平面状の形の葉には、
円形やハート形、楕円形、線形など
いろいろな形があり、
コーヒーは楕円形の形をしていますが、
葉の形や大きさは、
葉の大きさや強さと密接な関係があるようです。

葉は平面状であれば三角形でも円形でも正方形でも
あるいは座布団や畳ほどの大きさだとしても
理屈としては有り得るのですが、
葉は光を受ける器官ですから、
光に垂直に向いていることが望ましく、
例えばA4の大きさの四角い紙の角を持って
紙の平面を垂直に持ち上げようとすると
紙は地面と平行になる前に先が垂れ下がってしまいますから
垂れ下がらないようにするには小さく切る必要があり、
面積を出来る限り大きく残すように切るためには
手で持っている部分は大きくて
手から離れるにしたがって
だんだん小さく先細りするように切ると
楕円型や卵形の形といった実際の葉の形になるわけです。

コーヒーの葉090704-4.JPG
 葉の工場で酸素を作ることを「光合成」といい
 ここで作られた酸素を吸って、
 また植物が作った栄養を食べて
 動物や昆虫が生きていることを考えると
 植物の葉は地球の中で一番大事な工場といえそうです。


枝から葉柄という部分だけで葉は枝とつながっているので
植物の種類によって
葉の形が工夫されていったのだと思いますが、
さらに面積を大きくするためには、
薄い紙より段ボールのような厚い紙にした方が
より強度が増して垂れ下がりにくくなるのですが、
今度は葉の重さも増して
枝や茎と葉の結合部に大きな力がかかり、
葉が厚かったり大きかったりする植物は
葉柄も太くなっているわけです。

葉には葉脈という
水分や養分が流れる管が走っていますが
この葉脈も、葉が垂れ下がらないように
役立っているのです。

コーヒー山の発芽090704-1.JPG
 梅雨の影響と思いますが、
 昨年10月25日にコーヒー山に種植えしたムンド・ノーボが、
 なんと8ヶ月も経って次々に発芽してきました。
 秋植えは冬を経由するために
 どうしても発芽まで時間がかかってしまいますね。


コーヒー山の発芽090704-2.JPG
 こちらは春植えしたムンド・ノーボで、
 種をつぶした時のベトベト状の液が付いたまま
 種植えしたものですが、
 こういう自然に近い方法の方が発芽率も
 圧倒的に高いようです。


こうしてコーヒーの葉を眺めると、
長さが10cm内外の楕円形の形をして
表面がクチクラ層でコーティングされていて、
さらに葉の外側が波打ってデコボコしているのですが、
葉の外周が波打っている理由は、
私の個人的見解ですが
光をさらに効率的に受けられるような
仕組みになっているのではないかと思うのです。
日中は真上から、朝夕は斜め横から、
というように差し込んでくる光を
より効率的に得るために
また、コーヒーの原産地の緯度や高度、
土壌などの地質的環境や
気象的環境なども相まって
現在の葉の形まで進化してきたのかな、
と思うと、
「コーヒーってすごいんだな」
と、ますます感嘆してしまうのです。

コーヒー山090704.JPG
 7月4日(土曜日)のコーヒー山の林床地です。
 梅雨明け後5日間雨が降りませんでしたが
 この日は時おり恵みのにわか雨があったり
 陽が差し込んだりしましたが、
 黒ポリポット苗木の移植が順調に出来ました。

posted by COFFEE CHERRY at 23:58| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーから学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

コーヒーの葉が緑色の理由を考える

恐竜が絶滅する少し前の白亜紀末期、
約6,500万年前に霊長類が出現し、
人類が地球に登場したのは
700万年前ごろといわれていますが、
植物が地球に誕生したのは
それよりも遥か前の数億年前ともいわれ、
原核の藻類は30億年の歴史があるといわれています。

テスト圃場1-090621.JPG
 先月中旬のテスト圃場の成木です。
 梅雨の恵みの雨を充分に浴びて元気そうです。


植物は花や幹、枝、根以外は基本的に緑色をしていて、
もちろんコーヒーも同様なのですが、
コーヒーの葉を見つめていると、
「緑色であることが何か特別な理由を持っているのかなexclamation&question
と思ってしまうのです。

テスト圃場2-090701.JPG 
 昨日7月1日のテスト圃場の成木です。
 沖縄地方は6月28日(日曜)に梅雨明けしましたので、
 これからの長くて暑い夏の間の
 “命の水”の補給が重要な課題になりますが、
 本土にかかる梅雨前線の影響で
 今日は午前中ににわか雨があり、
 夜からは雨50%予報で、
 恵みの雨を期待しているところです。


光の三原色「赤・青・緑」の中で、
植物の葉の色素は
このうち赤と青の波長の光を良く吸収し、
緑の波長を持つ光を反射することが
植物が緑色に見える理由なのですが、
原始の植物が地球上に初めて登場した時には、
赤でも黄色でも青色でも、何色でも選べたはずなのに、
コーヒーを含めた世界中の植物が
示し合わせたように緑色を選んだのは、
逆に考えると
「葉は緑色の光をあまり必要としない」
つまり
「光のエネルギーを取り入れて糖を生産(光合成)するのに、
 緑色の波長領域のエネルギーを捨てた」

ことを意味するのですが
地球に届く太陽光の強さと波長との関係では、
緑色の光に強さのピークがあるらしく、
ということは最強の緑色光を植物が優先的に取り込めば、
太陽が顔を出さない曇りや雨の日でも
光合成が可能になって、
その方が植物にとって明らかに効率的なはずですが、
植物は最も強い光を、
なぜか意図的に捨ててしまっているのです。

コーヒー山090622.JPG
 6月22日のコーヒー山の林床地です。
 日経の取材は、この日の午前中に無事?終了しました。
 掲載予定日は決まり次第連絡があるそうですが
 どう書かれるのでしょうか?
 あちこちのコーヒー農園の情報も
 お聞きすることが出来てとても参考になりました。


この理由が、
地球の気象的あるいは環境的なものからそうなったのか、
植物が成長するスピードと関係があるのか
私にはよく解かりませんが、
コーヒーが地球に誕生したのは
どんなに遅くとも
人類より以前なのは間違いないでしょうから
コーヒーには尊崇の念を持って
接してあげないといけないと思うのです。

キノボリトカゲ090622.JPG
 日経の記者の方が次の取材先ヒロ・コーヒーに
 向かわれた後に現れたキノボリトカゲです。
 取材の時に出てきてくれれば良かったのに…。
 彼はまだ青年のようですが視力は相当良さそうですね。

posted by COFFEE CHERRY at 17:13| 沖縄 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーから学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月03日

コーヒーの色彩を楽しむ

「コーヒーを楽しむ」
というと、
ふつうはコーヒーブレイクの安らぎのひとときの
主に焙煎後から味わうあたりのことをいいますが、
コーヒーを栽培している現場では、
自身の子供に健全な成長を願うのと同様に
コーヒーにも精魂を込めて
愛情をいっぱいに注ぎこんで
対話を重ねながら共生するだけでも
充分に楽しいのですが、
さらに
 ・ 白い花
 ・ 赤い実
 ・ 緑の葉

という、
季節に応じた色のCombinationを
楽しむことが出来るのです。

緑と白の配色090603.JPG
 コーヒーの白い花と葉の緑色の組み合わせも
 色彩的になかなか素敵で癒されます。


この「白・赤・緑」という色彩は、
例えばクリスマスカラーとしてみると、
 ・白色は「純潔・純白」の意味があり、
  クリスマスに降る雪や春を待つ北の大地の白、
 ・赤色は「キリストの血、愛と寛大さ」を表わし、
  (サンタクロースの赤はCoca-Colaが決めたという説より
   「愛と寛大さ」説を信じたいところです)
 ・緑色は常緑樹の「永遠の命」
を意味しているのだそうです。

赤と緑の配色090603-1.JPG
 赤い実と緑色の葉は、お互いが主張しあって
 なかなか素敵な配色になっています。
 赤い実が目立って美味しそうに見えます。


また、色が人の心理に影響を与えるという
色彩心理学的には、
 ・「白色」のプラスのimageでは清潔、潔癖、純潔、
   純粋、真実、ピュアなどがあり、
   マイナスimageとしては冷たい、孤独、失敗、
   空虚、別れなどがあり、
 ・「赤色」のプラスのimageでは情熱、愛、恋、
   友情、女性などをimageでき、
   その反面激しさや嫉妬、攻撃、興奮、衝動などが
   マイナスimageとしてあり、
 ・「緑色」のプラスimageでは安全、新鮮、平和、
   平等、健康、幸福、癒し、安らぎを連想し、
   田舎、疲れ、未熟さなどの
   マイナスimageがあるようです。

赤と緑の配色090603-2.JPG
 赤いハイビスカスも葉の緑色との組合せでは
 花が目立って、思わず花に見入ってしまいます。


また、広告学的には、
反対色の「赤と緑」の組み合わせは、
補色調和といって、
お互いの色を引き立てあい、
「人目を引く」
効果があり、
商品のディスプレイや商品パッケージ、
インテリヤや車内広告など
街などでも多用されていますが、
ポルトガルの国旗は「赤と緑」の配色になっていて、
赤は新世界発見のために大海原に乗り出した
勇気あるポルトガル人の血を表わし、
緑は海と誠実と希望、14世紀にポルトガル独立を
勝ち取った勇敢なアビス騎士団の色、
といわれていて、
ポルトガル代表のサッカーチームのユニフォームは
対戦チームにもよりますが、
赤と緑の組み合わせが多いらしいです。

そういえば、赤いきつねと緑のたぬきの
“どん兵衛”も「赤と緑」でしたね…

緑と黄色の配色090603-1.JPG
 アマレロ種は「緑と黄」の配色でブラジルカラーです。
 コーヒー山も苗木の数ではアマレロが
 1,600本以上ありますから
 将来的には「緑と黄」の配色が多くなりそうです。


また、「赤と緑」の色光を混ぜると
“黄色”になりますから
アマレロ種の黄色い実にも不思議な縁でつながりますし、
ブラジルの国旗やサッカーのユニフォームは
「緑と黄」の配色になっています。

緑と黄の配色090603-2.JPG
 自宅の外塀のアラマンダも
 「黄色と緑」の組み合わせですが
 「青(空)と黄」も補色の関係なので、
 お互いの色を引き立てあって見とれてしまいます。


毎日コーヒーと向き合っていると、
季節による色合いの変化があって、
いろいろなことがコーヒーから学べて楽しいのです。

白と赤と緑の配色090603.JPG
 今年は暖冬のためか収穫期が平年より遅れたことで
 テスト圃場の成木は
 「赤と白と緑」の配色が楽しめました。
 亜熱帯のクリスマスのようですね。
 この画像は4月中旬頃ですが、
 赤い実が自然に落下して
 自生えした苗がたくさん顔を出し始めたので、
 また雨の翌日にでも
 黒ポリポットに移し替えてあげないといけません。

posted by COFFEE CHERRY at 17:12| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーから学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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