2012年09月06日

アオカナヘビを見て自然環境を考える

今日はコーヒー山の苗木定植の休憩中に、
南西諸島の宝島、奄美大島、喜界島、徳之島、沖縄島、久米島などに
生息するアオカナヘビと出会いました。

アオカナヘビ20120905-1.JPG
 どこに居るか判りますか?
 綺麗な緑色や白、褐色が迷彩色のようで
 動かないとなかなか見つけにくいトカゲです。


和名は
「青金蛇」
といって“蛇”と書きますが
手足があるように、ヘビではなくてトカゲです。

コーヒー山では冬以外はよく出会う昼行性のトカゲですが、
とにかく俊敏で警戒心も強く、緑色の保護色をしていて
体長が30cm弱でヘビのような体形をしているので、
なかなか撮影しにくいのですが、
今日はたまたま彼が小さな昆虫を食べるのに集中していたことで
20枚以上を撮影出来て何とか数枚がきちんと写っていました。

アオカナヘビ20120905-2.JPG
 とにかく俊敏で、チョロチョロと動いたかと思うと止まり、
 止まるとどこにいるのか判りにくくなり、撮影しにくいので、
 「このへんだろうな」と思うあたりで何度もシャッターを下ろして
 何とか4枚だけ撮影に成功しました。


アオカナヘビ20120905-3.JPG
 30年前には本島のどこでも見られたようですが、
 近年は腐葉土の多いやんばるや大きな公園などでしか見かけられないようです。
 南西諸島の日本固有種なので越冬ももちろん可能ですが、
 地表温度が15℃を切ると堆積した落ち葉の中に潜り込み
 沖縄のヘビのように動きが鈍くなって春までほとんど捕食しないようですから、
 そういう腐葉土がある環境が減っていることが
 彼らを見かけなくなったことと大きく関連しているようです。


アオカナヘビ20120905-4.JPG
 出会ったトカゲがどうして“彼”と判るのかというと、
 体側の白線の上に褐色のラインが入るのがオスだからです。
 メスには褐色ラインがないので、すぐに見分けがつきます。
 全長の7割以上が尾で、
 この尾を草や枝などに巻きつけることで低木などに登り、
 肉食性で、昆虫類や接触動物、ミミズなどを食べますが
 MAX2cm程度の小動物しか食べられないようです。
 また、彼らの生息には充分な湿気が必要不可欠のようで、
 厚い落ち葉の層は保水力が高く、温度変化も緩やかですが、
 コーヒーベルトがバナナベルトと同等なように
 アオカナヘビの生息区域はリュウキュウヤマガメとも同等だといえそうです。
posted by COFFEE CHERRY at 00:19| 沖縄 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | コーヒー山の動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月29日

大バナナ園のはじまりはここから

沖縄気象台が「最大級の警戒」を呼び掛けた台風台風15号は、
大東島、沖縄本島を約32時間も暴風圏内に巻き込み、
山原(やんばる)を横断して東シナ海を北上し、
昨日の午後になってようやく返しの風も治まりました。

沖縄気象台は一昨日27日(月曜)午後9時前に
国頭地区と名護地区に
「過去に例のない大雨が降っている」
と、
川の氾濫や土砂災害、浸水に警戒を呼び掛ける気象情報を発表し、
たしかに国頭村比地で535mm、遠く徳之島伊仙町でも537mmの大雨が降り、
名護市付近と大宜味村付近では
午後7時からの1時間当たり約80mm、
国頭村付近でも約60mmの猛烈な雨を観測して、
大宜味村では少なくとも24件の床下浸水が発生、
道路冠水や道路陥没や1万世帯以上の停電などの被害がありました。
気象庁の事前の警報があり、
台風慣れの県内では珍しく今帰仁村などでは一時避難者も出ていました。

台風15号が実際に戦後最大級だったかどうかはともかく、
例年台風とセットのやんばるの停電も短時間で済み
(現在でも県内北部は数千戸が停電中らしいです)
想定したほどの被災がなくて済みました。

やんばるの林道の一部には倒木や道路陥没などもあるようで、
コーヒー山にはまだ行けないのですが、
私が6月から管理している大バナナ園は昨日見てきました。

コーヒーはなかなか結果が出ないのに対し、
バナナは翌年には結果が出ますから
「バナナが栽培が出来なければコーヒー栽培なんてムリ」
という思いで、
バナナ栽培にも奮闘しているのです。

バナナ栽培の問題点は、
ヒトの盗難を除くと、以下の2点が挙げられます。

1つは「バナナツヤオサゾウムシ」です。

バナナが成長し、開花して房を出してきて
収穫が楽しみになる頃に、
なぜか成長が止まったり、収穫前に倒壊してしまうのは
バナナツヤオサゾウムシの侵食が疑われます。

こういう病害虫は、まず「敵を知る」ことから始めないといけません。
それはコーヒーでも同様です。
彼らの生態を注意深く観察し、彼らの弱点を探るのです。

バナナツヤオサゾウムシは
沖縄が本土復帰(1972年)する3年前の今から43年前、
沖縄がまだ米軍統治下に置かれている1969年(昭和44年)に、
沖縄本島中部のバナナ園で発見されたのが最初なのです。

彼らがどうやって沖縄に密入国したのかは不明ですが、
 ・ 台湾などからバナナと共に侵入した
 ・ 東南アジアからのバナナ子株(根塊)持込みで、
   中に潜り込んでいるために消毒から逃れて侵入した

 ・ 米軍経由
などのルートが考えられ、
最も可能性の高いのは米軍ルートです。

ベトナムの南北統一を巡る対立に、
ソビエト連邦と中国の共産主義勢力と
アメリカの資本主義との代理戦争となったのがベトナム戦争ですが、
1960〜1975年の15年間の中で、
当時米軍統治下にある沖縄は、
ベトナムまで空路で3時間という至近距離のため、
 ・ 沖縄の嘉手納基地からB-52爆撃機が出撃
 ・ 米軍の毒ガスを沖縄で製造、
   沖縄市の知花弾薬庫から毒ガス漏れ事故(1969年)
 ・ 牧港補給基地からベトナム向け物資を山積みし、
   米軍輸送船で前線へ送り出した
 ・ 米軍基地雇用者も車両整備などの技術者が
   ベトナムに派遣させられた

など、
沖縄は戦争の補給基地となって翻弄されていました。

バナナツヤオサゾウムシが沖縄で最初に発見されたのは、
1969年(昭和44年)という、ベトナム戦争の最中で、
 ・ ソンミ村虐殺事件が1968年
 ・ ホー・チ・ミンが亡くなり、米軍劣勢になったのが1969年
 ・ 米軍兵士による基地雇用者のひき逃げを起因に、
   抗議した群衆にMPが発砲したことで、県民の不満が爆発し、
   コザで反米運動が起こったのが1970年

という、この頃のことですし、
バナナの葉に巻きついて樹液を吸うバナナセセリという蛾も、
 「ベトナム戦争中の1971年に米軍の物資に紛れ込んで沖縄に移入した」
といわれているのですから、
バナナツヤオサゾウムシだって
米軍経由という可能性は相当高い、
というグレーよりクロに断定してもいいくらいですね。
このバナナツヤオサゾウムシがバナナ栽培の1つの問題点で、
もう1つは「台風」です。

バナナは樹木と思われている方もいると思いますが
バナナは草本なので、強風には弱いのです。
この点はコーヒーと同様ですが、
バナナは風速20〜30mで倒壊しますから、
樹木のコーヒーの方がもう少しは強いのですが、
沖縄における台風襲来時期は5〜10月初旬で、
コーヒーが開花結実後、緑の実が大きくなる時期になり、
強風で枝葉がこすれ合って実や葉が落下してしまいますから
コーヒーもバナナ同様に、
堅固な防風林が不可欠なのです。

コーヒーより風に弱いバナナの防風対策が効果的に出来るなら
コーヒーの防風対策だって出来るはずで、
「バナナを制する者はコーヒーも制する」
と私は考えているわけです。

大バナナ園の問題点は2つあり、
「放任による密植え」

「防風対策がまったく無くて無防備」
なことですから、
約1000坪の大バナナ園の検地をして
防風林を作ろうとしていた矢先に
8月6日に台風台風11号が、
そして一昨日は台風台風15号が来てしまったのですもうやだ〜(悲しい顔)

台風11号では全体の約3割がすでに倒壊してしまっていましたが、
一昨日の台風では、全体の約97%が倒壊してしまいました。
以下は大バナナ園の被災状況です。

大バナナ園20120731.JPG
 7月31日の大バナナ園です。
 こんな感じで約1000坪に、放任されて密植えになっているバナナ園です。
 防風林は無く吹きさらしの状態です。


大バナナ園20120828-1.JPG
 大バナナ園を、上の道路から見下ろした光景です。
 ドミノ倒しのようにバナナが倒壊していて、
 最初にこれを見ただけで力が抜けてしまいました。


大バナナ園20120828-2.JPG
 まるでオスプレイの墜落現場のような光景です。
 電柱のように太いバナナの仮茎がゴロゴロと横たわっています。


大バナナ園20120828-3.JPG
 バナナは房を成熟させると朽ちるのですが、
 1年半もかかってようやく房を出して
 もう少しで集大成を迎えるバナナが倒壊しているのを見ると、
 バナナの無念さを感じます。


大バナナ園20120828-4.JPG
 すべて倒壊したのかと思っていたら、
 よく見ると、運良く倒壊を免れたバナナもあるのです。


大バナナ園20120828-5.JPG
 バナナの手前の苗木はローゼルです。
 何とか台風の被災を免れました。
 ローゼルは冬には収穫出来そうですね。


ハイビスカス挿し木20120828-1.JPG
 ハイビスカスの挿し木からは、新芽が出ています。
 来年は私の背丈くらいには成長しているはずですから
 来年は少しは防風林の役割が果たせそうです。
 大バナナ園の中を7m×10m間隔でハイビスカスで区切り
 その中にバナナを定植しなおそうと思っています。


タラを連想させる空20120109.JPG
 今年の1月9日の午後2時ごろに
 我が家から撮影した空の画像です。
 映画「風と共に去りぬ」のラストシーンを想い出して見上げていました。


名作「風と共に去りぬ」は、
1861〜1865年の南北戦争(American Civil War)が背景で、
南側から見た南北戦争が描かれていました。

主人公スカーレット・オハラはアイルランド移民の娘で、
土地に執着し、自分の相続地に
古代アイルランドの聖地と同じ「タラ」と名付けていました。

ラストシーンでは、
戦争で荒廃した故郷タラの木の下で、
燃えるような夕陽の中で、スカーレットが
「今は考えるのはやめよう。明日、考えることにしよう」
と言うシーンは印象深かったのですが、
私は大バナナ園の始まりはここからだと思っています。

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2012年08月27日

観測史上最大級の台風15号の教訓は「あるがまま」

沖縄の戦後観測史上最大級といわれた台風台風15号は
山原(やんばる)を横断して東シナ海に抜けていきました。

台風とセットの、お決まりの山原(やんばる)停電も短時間でしたし、
バナナやモクマオウなどの樹木の倒壊度合いからしても
昨年や一昨年の台風の方が強かったように感じますが、
奄美諸島も巻き込む大型で、いまだに吹き返しも強く、
まだ風雨が強いので我が家の被災の確認は出来ませんが
納屋などの屋根のトタンがあちこち吹き飛ばされていたり、
バナナの倒壊などが見えます。

台風11号の被災20120807.JPG
 8月6日に与論島〜沖永良部島を東から西に横断した
 台風11号の返しの風で、大バナナ園の約3割が倒壊しました。
 今回の台風15号では全壊もあり得ますが、明日行けるかな。
 自宅から車で2〜3分ですが。


台風前の大バナナ園20120803.JPG
 8月3日当時の、台風11号が接近する前の無傷の大バナナ園です。
 ここは約1000坪ありますが密植えで光合成をしたいバナナが
 充分に陽が当たらない環境なので、間引きしたり
 防風林を植えたりを計画中で、当時は検地していました。



恩納村の故・山城武徳先生は、かつて
「自然には自然で立ち向かう」
という名言を残されています。

「人工的な防風柵や防風ネット、ハウスを使わず、
 台風にはハイビスカスやホンコンカボックなどを防風林とすることで
 ある程度防ぐことが出来る。
 自然には自然で立ち向かうのが持論だ」

という立派な考え方でした。

「どこか被害があれば、どこをどうすれば良いか、
 次回被害に遭わない方法を考えればいい、その繰り返しだ」

とも言われていました。

私も山城先生の考え方にまったく同感で、
「自然には自然で立ち向かいたい」
のですが、
ハイビスカスによる防風林は
「早く綺麗に完成する」
わりに、
「風速40mが限度」
と、
近年の大型台風には対応しにくいことや、
また1回の台風でかなりの葉が飛ばされ
2回目の台風との間隔が2カ月以上空かないと
防風効果がかなり落ちることからも、
「最終的にはクロキやイスノキなどの堅固な樹木での防風林を作るにしても
 それが成木になる間の一時的な防風林としてハイビスカスを利用せざるをえない」

という考え方に修正しています。

自宅に隣接するバナナ園では、
土塁の上にハイビスカスを植えたり、
(それだけだと垣根ごと倒されるので、土塁の下にも植えて二重にしています)
バナナを1m近く掘り下げて植えたり(高さを低くするため)、
などいろいろ工夫をしていますが、
それでも改良の域を出ていません。

防風林は面積が必要になり、耕作面積が減少するので、
防風対策を講じない農家も見受けられますが、
台風銀座の沖縄では台風を受け入れ、
向き合わないと農業は出来ません。
コーヒーのように風に弱い果樹では
なおさら防風対策は必須条件になりますが、
無防備な生産者もまだまだ居るのが実情です。

山城先生のハイビスカス防風林は7m間隔でしたが、
「なぜ7m間隔なのか」
物理学的な説明を何度も受けました。
農家が個々に対応策を考え、その代々で考え方が違う、というより
そういう有用な理論は受け継いで共有していくべきだと思います。


自然界のあらゆる事象で学習するという考え方は、
200年も前の幕末期にその教えがあります。

春風(しゅんぷう)以て人を和(わ)し、
雷霆(らいてい)以て人を警(いまし)しめ、
霜露(そうろ)以て人を粛(しゅく)し、
氷雪(ひょうせつ)以て人を固くす。
「風雨霜露(ふううそうろ)も教(おしえ)に非(あら)ざるは無し」
とは、此(こ)の類を謂(い)うなり。


春のそよ風は人の心を和(なご)ませ、
雷鳴や稲光(いなびかり)は人の心を戒め、
霜や露は人の心を引き締め、
冷たい氷や雪は人の心を堅固にする。
「伝習録」に
「風雨霜露も教えでないものはない」
とあるのは、
自然界のあらゆる事象に教えを含まないものはないことを言っているのであり、
我々はすべてから学ばなければいけない。


という意味で、
天(宇宙)地(自然)の大いなる仕組みの中に生かされる
人間の「生の在り方」を説いた言葉で、
「どんなに苛酷で悲惨で厳しい状況であっても、
 その事自体を私たち人間が受け止め、
 糧にすべき何かの教えが隠されているはず」

だと説いています。

私たちに次々と訪れる事象のひとつひとつから「教訓」を見つけ出し、
取り込んでいくこと、即ち「学習」とか「経験」とは
本来そう言うものだということを納得させてくれる言葉でもあります。
自分の環境から敏感に「教え」を見出す謙虚さと感性が大事だと説いているのです。
まさに台風でもいろいろなことを学習する必要があるのです。

この語録は幕末の儒者・佐藤一斎(いっさい)が
80歳(1851年)から82歳(1853年)までに執筆された
「.言志耋(てつ)録」
85条に書かれています。

東京大学の前身は、
神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・昌平坂(しょうへいざか)学問所ですが、
佐藤一斎はその総長を歴任したこともあり、門弟は3000人もいたといわれています。

中国の明の時代に、王陽明が起こした儒学・陽明学の入門書「伝習録」には、
天道至教、風雨霜露無非教也

天道は教(おしえ)の至りなり、
風雨霜露(そうろ)も教に非(あらざる)ざるは無し。


天の行いは、教の至極である。
この異常気象も、敢えて読み解くまでもなく、
われわれに何かを教えている。


これを一斎が語録に引用しているのですが、
これは500年も前に言われていることなのですから、
現代人はもっと進歩していないと恥ずかしいですよね。

佐藤一斎は後半生の42歳から82歳にかけての
総数1333条の語録を四篇(四緑)に分け、
42歳から53歳にかけての246条を「言志録」といい、
その33条にも同じ趣旨の語録が収められていて、
こちらの方が有名かもしれません。

春風(しゅんぷう)を以って人に接し、
秋霜(しゅうそう)を以って自ら粛(つつし)む。


「暖かな春の風のような態度で他人に接し、
 自分に対しては秋の霜のようにキリリとした態度で厳しくあるべきだ」

という意味です。

自分と他人との関係の在り方、というより
他人に対する自分の在り方についての教えであり、
とかく他人に厳しく自分に甘くなってしまうのが人の常ですが、
「厳しい環境を謙虚に受け止め、
 そのまま自分の成長の肥やしにする気持ちがあれば、
 それは自分を取り巻く環境に対する慈(いつく)しみの感情を生み、
 他人に対しても同様に謙虚に、
 慈しみを以て接することが出来るようになる」

と説いているのだと思います。


厳しい環境を謙虚に受け止めるということは、
自然に服従し、境遇に従順なれという
「あるがまま」
という境地ですが、
これは自然体とか、そのままとかの意味ではなく
「気分や感情にとらわれず、今自分がやるべき事を坦々と実行していく」
という目的本意の姿勢であり、
柔道の
「押さば引け、引かば押せ」
という極意にも近いもので、
道元の「坐禅箴(ざぜんしん)」の後半でも

水清徹地兮(すいせいてつちけい)、魚行似魚(ぎょこうじぎょ)。
空闊透天兮(くうかつとうてんけい)、鳥飛如鳥(ちょうひにょちょう)。


水清(きよ)うして地に徹し、魚行いて魚に似たり
空闊(ひろ)うして天に透(とお)る、鳥飛んで鳥の如し


水清くして地に徹し、魚の行くところ魚に似ている
空は広く天に透り、鳥は飛ぶこと鳥のようである


という一説も、
「人間も自然界に生きる動植物のように、
 逆らうことなく、虚飾を加えることなく、
 ありのままの姿で生きること」

が禅の悟りだと説いています。

風雨が治まらないとコーヒー山に行って被災状況を確認出来ないのですが、
天然の要塞なので、おそらく問題はないと思われます。
沖縄でのコーヒー栽培は、
どうしても台風がネックになりますから、
誤解を恐れずに言わせていただくと
「沖縄でのコーヒー栽培は平地での路地栽培では難しい。
 山原(やんばる)の森林栽培が最適」

という思いが強くなっています。

コーヒー山を覆うスダジイなど20120718.JPG
 7月中旬に撮影した、コーヒー山の地上から空を見上げた光景です。
 空が見えるということは、森に陽が射し込むことを意味しています。
 コーヒーは陰樹にしても、
 こういった森林内の光量がどの程度がコーヒーに最適なのは
 私もよく判らないで栽培しているのが現状ですが、
 台風11号ではほとんど影響がなく、
 今回の台風15号で、森林の外側を覆うスダジイなどの照葉樹林が
 どの程度被災しているのか、気になります。
 画像よりも空が見えるようになっているのだけは間違いないでしょう。
 それでも森林内に入る光量がどうとかではなく、
 スダジイの倒木や枝葉の落下でコーヒーが直撃したのがあるのかどうか、
 あるいはスダジイの被災によっては、冬期のドングリが不足になり
 また今年もイノシシの活躍になる可能性があるので、
 コーヒーだけでなくシイ類の被災度も気になるのです。
 コーヒーは総体的には影響はほとんどないと思います。
posted by COFFEE CHERRY at 22:01| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 台風の被害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月17日

いつしかセミの声が大きくなってきました

沖縄は6月28日に梅雨明けして、
その後2週間好天が続き、“雨乞い”を意識し出すと、
先週初めからは時々にわか雨が降るようになり、
今日は台風台風7号の影響で昼から雨が降っています。

オキナワヒラタクワガタ20120717.jpg
 沖縄でふつうに見られるのがオキナワヒラタクワガタです。
 クワズイモの葉の裏側に隠れているのを見つけました。
 体長約6cmの成体オスです。


台風台風7号は、奄美大島付近を通過した頃と思いますが
沖縄本島最北端の辺土(へど)岬と奄美大島は
約230kmも離れていて、
これは東京駅を起点とすると
東海道新幹線では掛川駅までが229.3km、
東北新幹線では郡山駅で226.7km、
上越新幹線だと燕三条駅で237.4km、
と、
沖縄本島と奄美大島は近いようですが
けっこう離れているのです。
そういうわけでやんばるでは
風速5m程度の風雨で台風の影響はないのです。

羽化したリュウキュウアブラゼミ20120717-1.JPG
 今朝、自宅庭でリハビリ中のコーヒー苗木に
 リュウキュウアブラゼミが無事に羽化して休憩していました。
 羽化中は無防備ですから、アリやトカゲなどに襲われないように、
 暗くなってから羽化を始めるようです。



沖縄に移住して13年目を迎えましたが、
今のところ最も雨量が多い夏で、植物にとっても快適なはずです。
それでも九州北部豪雨の被災をニュースで見ていると
雨は降らなくても困るし、降りすぎても困るし、
なかなか五風十雨のようにはいかないものです。

羽化したリュウキュウアブラゼミ20120717-2.JPG
 成体後の天敵は主に野鳥やコノハズクなどになりますが、
 成体での寿命は1カ月無いといわれていますので
 精一杯生きてほしいところです。
 リハビリ中のコーヒー苗木たちは、リハビリ期間が終わり次第、
 随時自宅に隣接するバナナ園に定植していますが、
 この苗木はもうしばらくリハビリが必要です。


四国から関東でも梅雨明けして
群馬県館林市では、なんと39.2℃が観測され
35℃以上の猛暑があちこちで続出し、
熱中症で多くの方が搬送されたようですが、
沖縄は31℃程度でも、近年では最も暑い夏だと実感していて、
暑さは気温だけでもなさそうですね。
沖縄は例年35℃、最高でも36℃までしか観測されていないはずです。

ナガマルコガネグモ20120716-1.JPG
 南西諸島に生息するナガマルコガネグモに
 セミが捕まっていました。これは昨日撮影しました。
 ゲゲゲの鬼太郎のちゃんちゃんこをイメージさせるようなデザインで、
 体長約25mmのメスです。
 捕まったセミの種類は、糸でグルグル巻きにされていて
 判別不能、救助も不能でした。


今年の沖縄の盛夏は例年に比べても暑く、
やんばるでも日中の農作業は厳しくなりました。
青い空、白い雲、てぃーだかんかんと照りつける暑い陽射し、
海や風の音に加え、
いつ頃からだったか、セミの声が響き渡るようになりました。
しかも何種類もが合唱しています。

ウルトラマンシリーズのダークヒーロー・バルタン星人も
セミ系怪獣らしいです。
「母星が兵器開発競争によって滅んだため、移住先を求めて地球にやってきた」
という設定で怪獣の名を検討している時に、
当時ヨーロッパの火薬庫といわれ、
紛争の絶えなかったバルカン半島にちなんで
バルタン星人と命名された、
と、何かの本で読んだ記憶があります。

ナガマルコガネグモ20120716-2.JPG
 セミの下側に付いてる小さい蜘蛛は
 ナガマルコガネグモのオスです。
 ジョロウグモも同様ですが、オスが極端に小さく、
 種を残すためには必要不可欠なものの、
 エサがかからない非常時は、オスはメスに食べられてしまう
 居候以下の厳しい関係なのです。
 そのためオスは何匹もいるようです。



「雨ニモマケズ」
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしは
なりたい


あまりにも有名な宮沢賢治の詩です。
中学生の頃は、国語の授業で無理やり暗記させられたものです。
その当時は苦痛でしたが、
その後、宮沢賢治の本などを読むうちに
いかに素晴らしい内容なのか
何となく少しずつ理解出来てきました。

宮沢賢治のご両親は彼に
「人間というものは、人のために何かしてあげる為に、生まれて来たのス」
と、口癖のように言われていたようです。

この世に生まれて来たのは、自分の欲を満たすためではないことを、
また、布施をすることこそが人生の最高価値であるという
智慧(ちえ)を授かったことで
人間としての生きる意味を実践しようとの思いが
描かれた内容になっているのですが、
凡人の私は、まず夏の暑さに負けず、
ひたすら定植を続けなければいけません。


posted by COFFEE CHERRY at 17:39| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒー山の動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月30日

知る、好む、楽しむ

台風4号、5号が通過して、
ちょうど1週間前の6月23日(土曜)に
沖縄地方は例年より14日遅く、梅雨明けしました。

それまで雨が多かった沖縄ですが、
台風が梅雨前線を九州まで押し上げてしまい、
台風一過の梅雨明け以降、今日まで降雨がありません。
雨続きだと青空が恋しくなり、
晴天が続くと雨乞いしたくなるのですから、
人間は勝手なものですね。

国頭村辺土名の海20120630.JPG
 今日の午後の国頭(くにがみ)村、辺土名(へんとな)の
 58号線から見た東シナ海


それでも、やんばるは昼夜の温度差があり、
朝方にはしっとりと朝露が出ていますから、
まだ日照り、とまではいきませんが、
昨日一昨日は、にわか雨が降りそうで降らないじれったい天気で、
天ももったいぶっているのか、あるいは私が試されているのか、
とにかく平常心を保たなければいけません。


孔子と、孔子の高弟たちの言行・思想を集積して編纂した
『論語』の雍也(ようや)篇第六の二十に、
子曰、知之者不如好之者、好之者不如樂之者
子曰わく、之(こ)れを知る者は之れを好む者に如(し)かず、
之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず。

という名言があります。

孔子が言われた。
物事を理解する人は、物事を好んでいる人にはかなわない。
物事を好んでいる人は、物事を心から楽しんでいる人にはかなわない。

という意味で、
「好きこそものの上手なれ」
(自分の好きなことは自然とそれに集中し、熱心に工夫するので、ますます上達する)
ということわざより、
もう一歩踏み込んだ、何事にも通ずる真理です。

登山に例えてみると、
山があり、山に登る技術を知らなければ、登山は成功しない。
しかし、登山家といわれるには、まず山が好きでなければ始まらない。
好きだからこそ、あくまで登攀(とうはん)を成し遂げようという闘志も湧いてくる。
しかし、本当の登山家の達人は、
谷を渡り、岸壁を登ること自体に楽しみを見出している。
だから周囲の人びとなどに要求されて登るわけではなく、
自分自身のために登るのであり、
気分が悪いとか体調や天候が思わしくないとみたら、
登攀を打ち切っても何ら気にすることもなく、
日を改めてまた登って楽しめばいい。
途中途中の絶景ポイントで小休止して山の趣(おもむき)を楽しんだり、
なにげない花や野鳥などの出会いを楽しんだり、
また風樹の風情を楽しんだりできれば最高だ。

というような、深い意味合いのある名言で、
コーヒー栽培だけでなく、
誰にでも何事にも通ずる真理なのです。

定植するコーヒー苗木20120630.JPG
 コーヒー山に定植する苗木です。
 1年以上山の環境に慣れ親しみましたので、
 いよいよポットを卒業して、地面での新生活に入ります。
 在来種の森林ではコーヒーは外来種でデリケートなため、
 すくすくと生育させるには過保護にならない範囲で
 お手伝いが必要になります。


春秋時代の孔子が亡くなってから10年後に産まれた
古代ギリシアのソクラテスや、それ以降の哲学の
「知を愛する」
という思想は、
「嫌々、義務的に勉強をしても、
 その知識や技術を自らの血肉とすることは出来ない」

という、
学力や理解力よりも、
詰めこみの暗記力が試される受験勉強を思い出しますが、
「物事を知的に理解することも大切だけど、
 物事を好きになって積極的に楽しもうとする姿勢を持つことが、
 真の叡智(えいち)へと導くことになる」

というのが
「知を愛する」
という哲学の本来の意味で、
『知る、好む、楽しむ』
は、
長続きするための必要条件でもあるのです。

沖縄でのコーヒー栽培は、
狭い島でも異なる土壌や栽培する品種、
あるいは露地なのか日陰栽培なのかといった栽培方法などもそうですが、
台風対策も必須になりますから、
どんなことがあっても貫徹する確固たる意志や決意の前に
『知る、好む、楽しむ』
という長続きの秘訣三原則の有無は
とても大事なことになるのです。

定植したコーヒー苗木20120630.JPG
 コーヒー山に梅雨時期に定植した苗木たちです。
 移植する穴の大きさや表土にかける腐葉土の量、
 あるいは風の入り具合や間伐のかげん、
 遮光の量などをコーヒーによく聞いて、
 定植方法も日々改良しつつあります。
 在来種でいっぱいの、森林のフィトンチッドたちとも仲良く会話して
 コーヒーたちが森林の住人として認知してほしいところです。


沖縄産コーヒーに新規参入されては辞める方々に共通するのは、
コーヒー(木)と会話をしないどころか、
早期にビジネスにつなげたいという焦りが多分に見受けられます。

何事も地道にコツコツと積み上げていくことを
何よりも継続出来ないなら何も生まれません。

コーヒーからの恵みを頂くには、
しかも良い実を付けてもらうためには、
コーヒーが機嫌よく、
出来るだけストレスを感じないような生育ができるように、
私は側面からバックアップするように常に考えていて、
歌舞伎や人形浄瑠璃では、
観客からは見えないという約束のもとに舞台上で、
役者や人形遣いを助けたり、小道具を役者に渡したり舞台から下げたりする
黒衣(くろご)という係のような役割を
今後も私は果たしていきたいと考えています。


コーヒーとの会話は、私のその時々の知識の甘さで、
私が好き勝手な解釈をしてしまい、
コーヒーに失礼なことをしてしまうことが多々あります。

キノボリトカゲ20120615.JPG
 自宅の庭のハイビスカス付近に棲みついているキノボリトカゲです。
 私が見ている前で花をくわえました。
 表情も和やかだしメスではないかと思います。
 彼女とも会話をしながら共生していきたいです。


徳川幕府の第3代将軍家光の治世に島原の乱がありましたが、
その寛永14年(1637年)に、
フランスではデカルトが「方法序説」を刊行し、
その中で真理の探究の言葉として
「我思う、ゆえに我あり」
という有名な言葉が書かれています。

「ただ信じ従うのではなく、徹底的に疑いを排除することによって実現する」
という意味で、
なにやら理解出来たようでよく解からない抽象的な意味ですが、
要するに
学説や定説、推論、文献などはすべて取り除き、
とにかくほんの少しでも疑いをかけうるものは徹底的に廃棄したうえで
自分の信念の中にまったく疑いえない何かが残るかどうかを見極め、
揺るがせないほど堅固で確実なものがあればそれを認めて受け入れ、
そこから出発しなさい

という
「ゼロからの出発」
といった考え方を方法的懐疑といったのですが、
お互いに予備知識がない外国語同士で会話していても、
喜怒哀楽が表情で少し理解し合えたりするのと同様に
私も10年前や5年前から考えると、
ほんの少しだけコーヒーと会話出来るようになりつつあるように感じます。

野口勲さんと木村秋則さんの講演20120630.JPG
 奇跡のりんごの木村秋則さんの考え方は
 人が介在しない森林の樹木はなぜ元気なのか、
 というのが出発点で、まったく私も同感です。
 また野口勲さんは固有種、在来種のタネを使うべき、
 遺伝子組み換えのタネは危険だ、という論理で、
 これもまったく同感です。
 私はプレゼンが大の苦手ですが、
 野口勲さんもプレゼンが苦手なようですね。


バナナ園のコーヒー20120630.JPG
 自宅に隣接するバナナ園のコーヒーです。
 海抜約80m、海岸から約1kmの丘陵地で
 海が見えますから台風では塩害の被災がある地域ですが、
 定植3年を経過して開花するようになりました。
 「ただ植えて放任して実が出来たら収穫する」
 ということは沖縄では可能ですが、
 ただ作っただけで満足するのか、どこを目指すのかという
 求めるレベルや理念が今後問われるところだと思います。


倉本聰のライスカレー20120630.JPG
 27年前にテレビ放映された「ライスカレー」の本です。
 Amazonの中古本で1円で買えました。
 銚子の高校野球部で一緒だった三人の若者、
 ケン(時任三郎)、アキラ(陣内孝則)、ブンタ(布施博)が、
 同じ野球部の先輩でバンクーバーで
 手広く寿司屋をやっている次郎(北島三郎)に誘われ、
 残りの青春を懸けて、カナダでライスカレー屋をやろうと思い立ち、
 悪戦苦闘する物語で、私としては名作だと思っています。
 数年間さほど真剣に修行しなかったコック見習い経験しかないのに
 プライドだけは高いアキラは、
 周りに認められるはずもなくやがて挫折していくのですが、
 このドラマの中でカナダ人シェフが、英語でアキラに諭す場面が印象的でした。
 アキラは何を言われているのか理解できていないのですが
 「山が険しければ険しいほど迂回して遠回りをしながら登らないと頂上にはいけない」
 「修行を真剣にせずにシェフになる近道はない」ことを諭していたのです。
 沖縄でのコーヒー栽培もまったく同じで、近道はないのです。
 「石の上にも三年」といいますが、それはふつうの人のことですから
 私は5年でも10年かかったとしても貫徹する覚悟です。
 「ライスカレー」がTSUTAYAのレンタルDVDにあるのなら
 また見てみたいですね。
posted by COFFEE CHERRY at 20:55| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月09日

和宇慶朝伝先生にコーヒー栽培を教えた方がいた

戦後の沖縄でのコーヒー栽培は、
具志川市(現・うるま市、1968年6月までは中城郡具志川村)の
兼箇段(かねかだん)のご自宅の庭約500坪で
和宇慶(わうけ)朝伝先生が始めたのが最初で、
恩納村の山城武徳先生が後継したと私は思い込んでいたのですが、
最近、和宇慶先生にコーヒー栽培を教えた方がいたことを知り、
現在それを調べ始めました。

なにしろ、もう50年くらいも昔のことなので、
その経緯を知っている方々がいたとしても高齢になっているために、
どこまで解明されるかは判りませんが、
時間がかかってもいいので、
出来る限り情報を集めてみようと思っています。

バナナ園のコーヒー20120506.JPG
 我が家のバナナ園は海から直線距離で約1kmなので
 塩害のあるエリアですが、
 苗木定植3年目を迎え、順調に生育しています。
 昨年初めて開花したのですが、3度の台風で実を落としてしまいました。
 今年も開花、結実していますが、
 昨秋から補強した防風対策で、どの程度守られるのかが課題です。



今年の3月に、
親しくさせていただいている方の奥様が
クモ膜下出血で突然亡くなられました。
名前はシズさんといい、享年73歳でした。

シズさんが中部農林高校の生徒だったころの恩師が
和宇慶先生にコーヒー栽培を教えたというのです。

その話は、シズさんが亡くなられてから
ご主人から最近になって初めて聞きましたので、
シズさんに生前、直接お話を伺えなかったのが悔やまれます。

故人を偲(しの)び、和宇慶先生がコーヒー栽培を、
おそらく教わったと思われる時代を、今日は懐古してみたいと思います。

再生中のコーヒー苗木20120506.JPG
 コーヒー山をお借りするまでに
 ケンガイ鉢で栽培中のコーヒー苗木が成長してしまい、
 根が鉢の中でグルグル巻きになってしまった苗木は
 一部を自宅でリハビリ再生させています。
 画像の苗木は台所の前に置いてあります。
 一時は苦しがって葉を全部落としていたのですが、
 2年かかって再生してきました。
 白い花を咲かせ始めました。
 コーヒーはデリケートな植物ですが、強い部分もあります。



沖縄は、薩摩や明治以降の日本政府やアメリカに翻弄され現在に至っていますが、
明治以降でも不平等と貧困の歴史から、
沖縄は海外移民が早くから行われてきました。

海外移民といっても、永住目的ではなく、
3年契約の期限付き出稼ぎ労働が基本で、
契約終了後に帰沖した方々もいれば、
そのままハワイなどの現地に残ったり、
あるいは親族を呼び寄せたりしていますから、
明治後期以降、太平洋戦争の時期を除くと
移民先の親族との交流があったことで、
沖縄はコーヒーも含めていろいろな熱帯植物が入る環境にありました。

オランダが東インド会社を設立したのが1602年、
インド南西部のマラバル海岸から、
オランダ領東インド諸島(インドネシア)のジャワ島に
コーヒー苗木が海路運ばれたのが1696年ですが、
(この時は地震と洪水で失敗し、1699年に2回目を搬送して栽培に成功し
 オランダ領東インド諸島のすべてのアラビカ種コーヒーノキの先祖となる)
江戸幕府は鎖国中もオランダと清とは長崎出島で交易をして、
那覇は貿易船が寄港する国際貿易港でしたから、
江戸時代にもジャワ方面からコーヒーのタネが入手したことだって
あったのかもしれません。


歴史的に、あちこちからコーヒー苗木やタネの入手の可能性があるために、
私が本島で確認できていない品種が、
沖縄のどこかでまだ栽培されている可能性は否定できないどころか
大いにその可能性がありそうです。

私が確認できているのは、
品種が判明しているのが4種類、品種不明のが3種類ありますから、
実態はもっと多いはずです。

ヤンバルクイナ20120506.JPG
 国の天然記念物ヤンバルクイナです。
 綺麗な模様があるのでオスです。
 4〜7月はヒナが孵(かえ)る時期なので
 メスは巣を守っているのか、ほとんど見かけません。
 画像は我が家の前の軽トラックの横で撮影しました。
 もう保護は必要無いと思うくらいよく見かけますが、
 数秒で草むらに入り込むので、なかなか撮影は出来ません。



1945年(昭和20年)に終戦になりましたが、
当時はシズさんは6歳でした。
参考までに和宇慶先生は40歳、山城先生は16歳でした。
名桜大学理事長の嘉数先生から
「古稀になり退職し、理事長職を後進に委ねる」
旨のメールを先日戴きましたが、
嘉数先生は当時3歳だったのですね。

沖縄戦では昭和20年3月の国民勤労動員令公布で
沖縄県の15歳から45歳までの男女が根こそぎ動員され
(実際には15歳未満の子供から65歳以上の高齢者まで徴兵された)
日本軍の指揮下にありましたから、
和宇慶先生の40歳は年齢的に部隊に入隊させられていたはずですし、
山城先生は防衛隊員として伝令役を務めていたと本人から伺っています。
伝令といっても、上陸して民間人も容赦なく射殺する許可が出ていた米軍を突破するのですから、
日本軍は同じ文書を3人に持たせ、そのうち1人だけがたどり着くような任務だったようです。

昭和20年8月15日に昭和天皇による玉音放送がラジオで流され、
無条件降伏をしたその日が終戦とされていますが、
沖縄では9月7日に南西諸島の日本軍が降伏文書に調印しているのです。

第32軍を指揮していた牛島満陸軍中将と無能な参謀・長勇中将が
糸満市摩文仁洞窟に置かれた司令部壕で自決して
第32軍司令部消滅後は軍組織が壊滅して統制を失い、
沖縄島南部に追い詰められた民間人は逃げ惑い、
死の彷徨の果て、死者数が増大するのですが、
補給が途絶えた日本軍は、
第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)や
同連隊指揮下の2個大隊など
食糧を住民から強制的に強奪しながら、
8月15日の終戦後もゲリラ的局地戦や切り込みを続けていました。

北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが
米軍に投降したのは8月29日です。

8月15日のポツダム宣言後も、
陸軍の航空機が8月15日に鹿児島県の知覧基地から、
海軍の航空機は8月19日に同県の鹿屋基地から
沖縄へ向けて出撃しています。

神風特別特攻隊は、沖縄戦では、
4月6日〜6月22日まで延べ10次にわたって行われましたが、
南九州を飛び立った特攻機は、沖縄島北端の伊平屋島あたりにくると、
米艦隊と米空軍機グラマンの攻撃を受けて9割ほどが撃墜されたといわれています。

ポツダム宣言受諾後、
日本政府は敗戦処理に取り掛かりましたが、
沖縄ではなお戦闘状態が続いていて、
8月26日には、
沖縄攻略部隊の米軍第10軍司令部は、
連合国総司令部から
「9月2日以降に南西諸島の全日本軍の降伏に応じさせるように」
という命令を受けています。

9月7日になって、琉球列島守備軍第28師団長の納見敏郎中将が宮古島から
奄美大島から高田利貞陸軍中将
、加藤唯男海軍少将らが降伏調印のために嘉手納基地に召還されました。

沖縄守備隊の三将軍は、
米第10軍司令官スティルウェル大将に対し、
「南西諸島の全日本軍を代表して無条件降伏」
を申し入れ、
6通の降伏文書に署名して正式に降伏しましたが、
この終戦の伝達も連絡が遮断されて孤立しているゲリラ部隊に行き届くはずもなく、
9月半ばを過ぎてもなお、
沖縄の各地で敗残兵や住民が山中や自然壕に隠れていたそうです。

そういう意味では、沖縄での慰霊の日は
第32軍の牛島中将が自決した6月23日ではなく、
最終的に沖縄守備軍が正式に降伏調印した
9月7日がふさわしいような気が私はします。

双葉のコーヒー苗20120506.JPG
 昨秋いただいたタネを、師走の12月13日にタネ植えしました。
 もともと熱帯果樹ですから、冬には弱く、
 苗木や成木でも冬場の成長はありません。
 そのために3月下旬になって発芽してきました。
 画像は、発芽後約1カ月を経過して双葉になった状態です。
 この品種は今まで沖縄にはなかったものですが、
 発芽した時から「かなり沖縄向き」と期待させる品種で、
 今後の生育過程が楽しみになりました。



アメリカが沖縄を占領した直後、
本島は沖縄戦による荒廃で、通貨での取引より、
主に物々交換で行われていたようです。

愚連隊などが仕切る闇市の他、
那覇には那覇公設市場や若松公設市場、
宇栄原公設市場といった公設市場や、
マチグァーとよばれる出店が集まった商業地区なども
数多く点在していたようです。

鉄道もなく、また移動も困難なことから
日々の生活物資を調達する場として、
字(集落)ごとに相互扶助組織の共同売店形式の売店も発展して
現在でも、主に集落の高齢者の買い物やゆんたくの場として利用されています。

那覇市安里の栄町市場も闇市から発展した市場ですが、
このあたりは真和志町間切安里村(現・那覇市)で、
学徒動員により、学徒隊として従軍していたひめゆり部隊の
沖縄県立第一高等女学校(一高女)と
沖縄師範学校女子部があった地域のはずです。
沖縄戦で焦土と化したあと、栄町市場が出来たようです。

ちなみに、ひめゆり学徒隊は、
県立第一女子高等女学校の校誌名が「乙姫」、
沖縄師範学校女子部の校誌名が「白百合」なので、
これを組み合わせた造語が「ひめゆり」なのです。

沖縄戦当時は、沖縄には21の男女中等学校があり、
沖縄戦ではすべてが戦場に動員され、
全学徒のうち2千名余りが戦場で尊い命を落としました。
男子学徒は、4,5年の上級生が鉄血勤皇隊、下級生が通信隊に編成されました。
山城先生は“伝令”と言われていましたから、当時は下級生だったのかもしれません。
女子学徒は看護にあたりました。
ひめゆり部隊が南風原町の陸軍病院に向かったのは、そのためです。
男女の若い学徒は、爆雷を背負って米軍戦車に体当たりしたり、
あるいは、国民学校児童でも手りゅう弾を握って敵陣に突入するなど、
今の時代からすると、とても考えられませんが、
沖縄にはそういう悲しい歴史があるのです。

ひめゆり部隊はあまりにも有名ですが、
・沖縄師範学校男子部
 (師範鉄血勤皇隊、386名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、224名が戦死)
・沖縄県立第一中学校
 (一中鉄血勤皇隊、371名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、210名が戦死)
・沖縄県立第二中学校
 (二中鉄血勤皇隊、144名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、127名が戦死)
・沖縄県立第三中学校
 (三中鉄血勤皇隊、363名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、37名が戦死)
・沖縄県立農林高校
 (農林鉄血勤皇隊、173名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、41名が戦死)
・沖縄県立水産学校
 (水産鉄血勤皇隊、49名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、23名が戦死)
・沖縄県立工業学校
 (工業鉄血勤皇隊、94名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、85名が戦死)
・沖縄県立商工学校
 (商工鉄血勤皇隊、99名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、72名が戦死)
・開南中学校
 (開南鉄血勤皇隊、81名が沖縄守備隊に戦闘要員として動員され、70名が戦死)
・沖縄師範学校女子部
 (ひめゆり学徒隊、一高女と併せて222名の女子生徒と引率教師18名の合計240名が
  沖縄陸軍病院(南風原陸軍病院)に看護要員として動員され、136名が戦死)
・沖縄県立第一高等女学校
 (ひめゆり学徒隊、同上)
・沖縄県立第二高等女学校
 (白梅学徒隊として4年生56名が八重瀬岳中腹にある第24師団第一野戦病院に動員、22名が戦死)
・沖縄県立第三高等女学校
 (現・県立名護高校、なごらん学徒隊として4年生10名が八重岳(現本部町)の
  沖縄陸軍病院名護分院に動員、2名が戦死)
・沖縄県立首里高等女学校
 (瑞泉学徒隊として4年生61名が第六十二師団の野戦病院(南風原町新川のナゲーラ壕)に動員、
  33名が戦死)
・積徳高等女学校
 (那覇、積徳学徒隊として4年生56人が第二十四師団第二野戦病院(豊見城城址)に動員、
  3名が戦死)
・昭和高等女学校
 (梯梧学徒隊として、4年生17名が第六十二師団の野戦病院(南風原町新川のナゲーラ壕)に動員、
  9名が戦死)
・沖縄県立宮古高等女学校
 (宮古高女学徒隊、動員数など不明)
・沖縄県立宮古中学校
 (宮古中鉄血勤皇隊、動員数不明、戦死者0)
・沖縄県立八重山高等女学校
 (八重山高女学徒隊、動員数など不明)
・沖縄県立八重山中学校
 (八重山中鉄血勤皇隊、20名が戦闘要員として動員され、1名が戦死)
・沖縄八重山農学校
 (八重鉄血勤皇隊、八重農女子学徒隊、動員数など不明)
以上の21の学校では、
特に本島では学徒として動員されなかった生徒も多くの犠牲者を出しました。

私が住んでいた糸満市や南風原町などの那覇近郊では
戦後、野菜が作られ、野菜を入れた籠(かご)を女性が頭に載せて
徒歩で那覇に売りに行きました。
南風原町で隣に住んでいたおばぁの話では、
「戦争で主人が亡くなり、3人の子供を育てるのに大変で、野菜作りをした」
「真和志(まわし、那覇と南風原の境)あたりで、よく
愚連隊に野菜を格安で買い取られた」
「その後は開南の農連市場で対面販売をした」
と言われていました。

牧志公設市場や栄町市場は戦後闇市から発展したものです。

終戦直後の沖縄県や奄美群島においては、
戦後の闇市などでは旧日本円や、
久米島紙幣(沖縄戦末期の1945年に久米島を占領したアメリカ軍によって設置された
 米軍久米島軍政府が発行した謄写版の代用紙幣)、
米ドルなどの地域通貨が混同して若干流通していたのですが、
1946年(昭和21年)4月15日、アメリカ軍は自らが発行するB円を公式通貨としました。
B円というのはB型軍票(Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yen)のことです。

「B」というのですから、「A」という“A円”もあって、
これは南朝鮮(現在の韓国)の法定通貨
(終戦まで日本円と等価の朝鮮銀行券)とされていたのですが、
米軍基地内だけで使われていたようで、
一般には流通しなかったようです。

コーヒーの発芽20120506.JPG
 前の双葉の画像と同じ品種です。
 私は時期をずらしてタネ植えをしているので、
 この発芽苗は今年に入ってからタネ植えをしたものです。
 発芽率を調べるのに、多めのタネを入れてしまったのですが、
 9割前後が発芽してしまいました。
 こうなると、この後黒ポリポットに移植させる作業がとても面倒になります。
 この後のタネ植えは、1つのプランターで48個にしました。
 発芽した茎は、今まで栽培した品種がデリケートで弱々しいのに対し、
 今回の栽培品種は茎も太いしとても力強く、
 この段階でも、かなりの沖縄向きを期待させるものです。



米軍が沖縄や奄美群島を恒久的に統治を考えるようになると、
1948年(昭和23年)7月21日に新旧日本円の流通は禁止され、
B円が流通する唯一の通貨となりました。
7月16日から21日の6日間にかけて、
日本円とB円の交換が行われました。

通貨をB円に統一することにより、
米国民政府は、通貨の流通量を統制することができることと、
レートを意識的に3倍に設定し、
米軍が基地建設や駐留経費などを日本企業に支払いや
日本本土から安価で資材を調達することが出来るという思惑があったからです。

1950年(昭和25年)のレート変更は物価の上昇を招き、
奄美群島の本土復帰運動を加速させることにつながります。
また、経済が空洞化したことが、
本土系企業の進出をも遅らせる理由に至りました。

また1950年(昭和25年)6月には、
第2次世界大戦後、米・ソの対立を背景として
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)が戦争を始め(朝鮮戦争)、
日本本土や沖縄の米軍基地からも直接出撃しました。

韓国ドラマの「ロードナンバーワン」は朝鮮戦争を題材にしたもので、
5月6日までBS11で放映されていましたね。
途中まで興味深かったのですが、
後半から面白くなくなり、最終回はガッカリでした。

1950年(昭和25年)には、連合国最高司令官覚書により
北緯29度以北が日本に返還されました。
具体的には、トカラ列島の十島村十島村(じっとうそん)
・上三島(竹島、黒島、硫黄島)
・下七島(口之島、中之島、平島、諏訪之瀬島、悪石島、臥蛇島、小宝島、宝島)
のうち、
下七島が返還されました。
(昭和28年、北緯27度線から北の与論島以北の奄美群島が返還)

1952年(昭和27年)4月1日に奄美群島政府が廃止され、
沖縄に琉球政府が発足します。
同年4月28日には、戦後、アメリカの占領下にあった日本は
サンフランシスコ平和条約で、ようやく主権を回復し、
独立国家・日本として再スタートが切れることになりました。
朝鮮戦争により冷戦構造が緊迫化したことで、
アメリカはアジアの共産化を恐れ、ソ連と対立したまま、
日本との講和条約の締結を急いだからです。
戦後廃虚と化した国土と、
外地引揚げ及び復員約630万人を含む過剰人口を抱え、
苦難期を迎えていたことで、連合国との国交回復を機に
日本政府は農業政策移民を再開させます。
同年8月には、アマゾン移住5,000家族と、
中部ブラジル移住4,000家族がブラジル政府により受入を許可され、
戦後の海外移住が始まりました。

シズさんは当時13歳でした。
ご家族はブラジル移住を決意して渡航準備をしていたようですが、
その渡航費を仲介者に持ち逃げされて、
沖縄に留まることになったのだと、ご主人から伺いました。
こういう移民に関する詐欺事件は当時多かったようです。

国頭村の集落でも、ブラジルやボリビアなど
南米方面へ移住した家族は多かったようです。

コーヒー山の地主に
「ボリビアはひどかったらしいですね」
と言うと、
「ドミニカよりはよほどマシだったようだよ」
と楽天的に答えていましたが、
日本政府は移住地を詳細に調べず、
また問題があっても移民者を引き揚げさせることもほとんどなく
受け入れ先があれば、募集をして送り出すという、
ある意味“棄民”政策とも捉えられる政策を進めていました。

1953年(昭和28年)7月に朝鮮戦争が終わり(休戦)、
北緯38度線で南北に分断され、
以降現在に至るまで韓国と北朝鮮両国間に平和条約は結ばれていません。
また、同年3月23日には民政府布令第109号「土地収用令」が発令されました。

地主との賃貸借契約が不調に終わった場合には、
強制的に使用権を取得することができるほか、
緊急の場合には、使用権取得前にも立退き命令を発することができるという、
米軍に都合のよい一方的な内容です。

これだけだとよく意味がわかりにくいと思いますが、
要するに、沖縄での米軍の軍用地使用については、
原則的には土地の賃貸借契約は行うものの、
それがもしトラブルになったときは、米軍は地主に対し収用の告知を行ない、
もし地主が拒否したとしても、米軍は一方的に収用宣告書を発することによって、
その使用権原を確保することが出来る、
という、まったく一方的な不平等な内容なのです。

この布令は新規接収のみに適用され、
それまでの既接収地は、依然として一方的な不法使用が続けられました。
なにしろアメリカにとっての沖縄は統治という植民地としか考えていないのですから。

元沖縄県知事・太田昌秀氏は、
沖縄沖縄師範学校男子部に在学中の1945年年3月に鉄血勤皇隊に動員され、
九死に一生を得た、反軍反戦反基地姿勢の気骨ある方ですが、
「戦後沖縄の最大の問題は、軍事基地化のため、農民の土地を強制的に収用したことだ」
と、著書に書かれています。

「土地収用令」は、形式上は“租借”ですが、
有無をいわせず、武装兵とブルトーザーで次々と軍用地を収用していく、という
実態は“強奪”なのです。
反対する住民に対しては、米軍は軍用地の買い上げを示唆したり、
借地料の166年分を「一括払い」して、
その土地の永代借地権を得ようとしました。
米軍が提示した地代は、坪当たり1円8銭といい極端に安いもので、
当時の人々は「コカコーラ地代」と呼んだそうです。

「土地収用令」の最初の収用通告は、
同年4月10日、那覇市銘苅、安謝、天久3区にわたる地域に発令し、
翌11日に武装兵とブルドーザーを投入して約15万坪収用したのですが、
これが現在の普天間基地です。

同年8月には読谷村渡具知などに発令(約30万坪)、
11月には小禄村具志に発令(約2.4万坪)されました。
その後も、あちこちに発令され、
現在の沖縄の米軍基地はすべてそれによって占拠され
現在に至っているのです。

琉球列島米国民政府は、アメリカ統治を批判していた沖縄人民党を
共産主義政党として度々弾圧を加えていたのですが、
1954年(昭和29年)沖縄の偉人・瀬長亀次郎を検挙、投獄(懲役2年)してしまいます。
瀬長は1952年に琉球立法院に当選し、
就任式では、ただ1人アメリカへの宣誓を拒否したり、
米軍の土地強奪と人権じゅうりんに、断固として反対し、
相次ぐ圧力にも屈せずに、
「土地代金を払え」
「水代を払え」
と叫んだり、
自分の信念をとことん貫き通した不屈の人物ですから、
アメリカにとっては煙たい存在だったのです。

同年7月に、米国民政府は前年に日本復帰した奄美群島出身の人民党員2人に
域外退去命令を出したのですが、その2人は官憲の目をかいくぐって逃亡しました。
(後に1人は逮捕、もう1人は島外に脱出した)
米国民政府は、この2人を匿(かくま)っていたとして、
当時の党委員長で立法院議員だった瀬長亀次郎ら幹部2人と党員28人を逮捕し、
弁護士なしの裁判にかけ、瀬長に懲役2年の実刑判決を下したのです。
沖縄は瀬長亀次郎がいたからこそ復帰運動が盛り上がり、
やがて屋良朝苗(やら ちょうびょう、当時琉球政府行政主席)が米軍統治下で、
不屈の精神で悲願の祖国復帰を実現させるのです。
(1972年5月の沖縄返還の過程で1965年に佐藤栄作総理が沖縄を訪問したのですが、
 当時26歳のシズさんは米軍基地の総務課主任で、
 佐藤首相の接待に出られたそうです)

シズさんは1954年当時は15歳、
中部農林高校に通学されていた時期です。
この頃のシズさんの恩師が、
やはり同校教員だった和宇慶先生に
コーヒー栽培を教えた、というのです。

和宇慶先生は当時49歳でしたから、
コーヒー栽培を教えた、という先生は、
もう少し年齢が上なのかもしれませんが、
そのあたりは今のところまったくわかりません。
戦前は名護市の親川仁吉さんがコーヒー栽培をされていたようですが、
親川さんと、その先生がどういう関係だったのかも興味深いですが、
こっちはもう調べようがないかもしれません。

山城先生は1954年当時は25歳ですが、当時はまだ教員ではなかったはずです。
山城先生は1969年(昭和44年)10月の
第一次琉球政府文教局公務員試験
(沖縄教員採用試験、1次は那覇と東京で試験、
 翌年3月末の時点で沖縄に本籍を有すること、が条件)
で教員になり、中部農林高校で物理の担当になられた、
とご本人から伺っていますので。
そうだとすると、シズさんは山城先生とは面識はないのかもしれません。

リュウキュウメジロ20120506.JPG
 今日のヤンバルクイナの画像を撮影中に飛んできたリュウキュウメジロです。
 リュウキュウメジロの特長は本土のに比べて
 少し口ばしが大きいのでしょうか、違いはよく判りません。
 撮影場所は自宅前の雑草放任栽培地(野菜栽培予定地)で、
 ヤンバルクイナの大好きな隠れ場所でもあります。
 草むらなのでハブもいますから、不用意には入れません。
 セキレイなども飛び廻っていますが、これは速すぎて撮影が難しいです。
 リュウキュウメジロはツガイで仲良く飛んでよく鳴いています。



翌年の1955年(昭和30年)には、
米兵による、悲惨な由美子ちゃん事件がありました。
シズさんは当時16歳ですから、
中部農林高校に在学中のはずです。

石川市(現・うるま市)内の幼稚園に通っていた6歳の永山由美子ちゃんが、
夕方1人で映画を観に行ったまま、行方不明となり、
翌日嘉手納海岸で惨殺された遺体が発見され、犯人は米軍人、
軍法裁判で死刑の判決を受けるものの、
実際は米国に帰還し、責任の所在はうやむや、
という植民地特有の住民軽視の事件です。

1955年9月4日付「沖縄タイムス」夕刊は以下のように報じています。
「嘉手納海岸近くの部隊塵捨て場に身元不明の少女が暴行を受け、
 殺されているのが発見された。
 4日朝、嘉手納村旧兼久部落俗称カラシ浜の部隊塵捨場近くの原野で、
 8才から10才位と思われる少女死体が、 
 あお向けになったまま捨てられてあるのを警ら中の米兵2名が発見、
 MP隊(military police=米軍憲兵隊)を通じ嘉手納派出所へ届出た。
 少女は暴行を受けた形跡がありシミーズは左腕のところまで垂れ下がり、
 口をかみしめたまま死んでいた」

犯人は事件から1週間後に逮捕されたのですが、
由美子ちゃんを車で拉致して、嘉手納基地に連れ込み、
軍の施設内で何度も何度もレイプし、最後には殺し、
その遺体を嘉手納の米軍部隊のゴミ捨て場に捨てた。
由美子ちゃんは、唇をかみしめて、
右手に数本の雑草を握りしめているように死んでいた。
そういう悲惨な事件でした。

由美子ちゃん事件以前でも、新聞報道されたものだけでも
・1947年 17歳(強姦)
     18歳(強姦)
・1948年 18歳(輪姦)
     17歳(拉致、強姦)
     18歳(拉致、強姦)
     17歳(拉致、強姦)
・1949年 14歳(強姦)
     16歳(強姦未遂、傷害)
     生後9ヶ月(強姦)
     18歳(強姦)
     15歳(拉致、強姦)
     17歳基地内のメイド(強姦)
・1950年 女子高校生(強姦)
・1951年 16歳(強姦)
・1952年 18歳(性交拒否で傷害)
などがあり、
泣き寝入り被害者はもっと多かったでしょうから
米兵の事件は常態化されていたようです。


沖縄では60代後半以降の方々は
沖縄戦や、米軍統治での植民地扱いなど
筆舌に尽くしがたい激動の時代を生き抜いて来られた方々なのです。

和宇慶先生や山城先生は数年前に亡くなられましたが、
そういう大変な時代の中で、
沖縄でコーヒー栽培を普及拡大させようとした想いは
引き継がなければいけないのです。

シズさんのご冥福をお祈り申し上げます。

posted by COFFEE CHERRY at 12:43| 沖縄 ☔| Comment(1) | TrackBack(1) | 沖縄のコーヒー栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月21日

タゴールのボライから光量を考える

やがて若芽は、すべての生物に先立って大木に成長し、
両手を合わすようにして、太陽にこう語りかけるのだった。
「私は存在しなくてはならないし、生きなければならないのだ。
私は孤独な永遠の旅人である。
陽が照ろうが翳(かげ)ろうが、昼だろうが夜だろうが、
次々に襲いかかる死をのりこえ、
無限の生命が開花する聖地に向かってひたすら巡礼を続ける旅人なのだ」
このような樹木の呟(つぶや)きは、
今でも林や山や村のいたるところで聞かれるのだ。
梢から葉から大地の生命の声は響いてくる。
「私は存在しなくてはならない。私はこの地上で生きなければならないのだ」
宇宙の声明を無言のうちに支えているこの大樹は、
絶えることなく天上から甘露(かんろ)を絞りとっている。
大地の甘露の貯蔵庫の中に、
生命の輝き、潤(うるお)い、美しさを貯えている。
そして不安に充ちた生命の言葉を天空に向かって叫び続ける。
「私は生きるんだ」
と。
この宇宙の生命の呟きを、
なぜかボライは、自分の血の中に聞くことが出来るのだった。


以上は、タゴールの「ボライ」という短編の一部です。

タゴールとはラビーンドラナート・タゴール、
アジアで初めてノーベル文学賞を受賞した近代インドの最高峰の詩人、思想家です。
インド国歌やバングラデシュ国歌の作詞・作曲者でもあり、
また日本人の自然を愛する美意識を高く評価して岡倉天心らとの親交があり、
日本には5回も訪日されています。

「ボライ」という短編は、簡単にいえば
草木の栄枯盛衰を観て、植物から知ることの大切さを学び、
愛を持つことによって人間愛を養いなさい、同時に人生を学びなさい、
という短編小説です。

ボライというのは、甥(おい)の名前で兄の子ですが、
義姉が亡くなり、兄は失意のあまり英国へ留学したことで、
ボライが赤ん坊の頃から預かっていたのです。
ボライは生まれつき、植物の旋律を感じ取れる特殊な繊細な才能を持っていました。
ボライはどんな植物にも敬意を表し、愛情を持って接し、細々と観察しするのですが、
やがて歩道上に生えてきたシムールの木を、
自身のもうひとつの命のごとく大切に丹精込めて育てるようになります。
ボライは英国から突然帰国した父から英国留学を命じられるのですが、
シムールの木がジャマでいまいましかった“私”が
シムールの木を切り倒してしまった直後に
ボライから「シムールの木の写真を送ってほしい」という手紙が届く、
という哀しい結末で終わる短編小説です。

牧野財士氏の和訳もすばらしく、
冒頭に転載した文面は何度も何度も暗記するくらい読み返してしまいました。


「ボライ」を読んで、コーヒー山を想うと、判ってきたことがあります。

「過疎の小学校に、都会の過保護な生徒が転校してくると、すぐには溶け込めない」
「日本の、ふつうの公立小学校に、日本語の話せない外国人が転校してきた」
という情景を思い描いたとき、
コーヒー山に定植されたコーヒー苗木たちが
過酷な試練を乗り越えようと、日々奮闘しているのが判ってきたのです。

在来種の群雄割拠のやんばるの森林に、
デリケートで繊細な外来種のコーヒーが入ってきても、
すぐには仲間に入れてもらえないどころか、
在来種の植物たちからすると、
むしろ淘汰というか排除しようとするはずです。

コーヒー山の在来種のフィトンチッドやアレロパシーなどが
コーヒーの生育自体に若干阻害の影響を与えているはずですから。

私の
「健康に生育した木は、元気な実をつけるはずだ」
という考えはまったく変わりませんが
「森林栽培は、路地栽培より倍以上の時間がかかる」
「たとえ時間がかかっても森林で栽培した方が良い実をつけるはず」
ということが、
今回「ボライ」を読んだことで、
目から鱗(うろこ)が落ちたように思えたのです。

コーヒー山では生育速度は路地栽培当時と比較すると確かに遅いのですが、
ひと冬というか1シーズンをコーヒー山で経験したコーヒー苗木たちや移植した木は
路地栽培当時より元気といえます。

さて、そうなると、今度は「光量」です。
スダジイやイジュなどの、陽を浴びたい中高木は森林の外側を覆いますから
森林内の中低木の草木は木陰が多くなります。

頭上の樹勢120419-1.JPG
 昨年8月の、本島全体が45時間暴風雨圏にさらされた台風で
 やんばるの森林もすっかり疲弊してしまったのですが、
 その後、雨量が多く、最近のやんばるは新緑がまぶしくなってきました。
 画像はコーヒー山の中から頭上を見上げたところです。
 「光量の適度がどのくらいか」
 が新たな悩みのタネです。


今までは
「コーヒーは陰樹」
なので、
「森林内の木陰で、木漏れ日が入るならOK」
とアバウトに考えていたのですが、
「コーヒーを植える環境に適した在来種の中高木を植えて、
 コーヒーと伴植する樹木をシェードツリーとする」

というのが、コーヒーとシェードツリーの考え方ですから、
現在のコーヒー山のように、
「在来種の森林内の中低木を一部伐採して、
 そこにコーヒーを定植し、自然な木陰の中でコーヒーを栽培する」

のに、
シェードの役割は、
「適度な日陰を作ることで、強い日照からコーヒーノキを守る」
ということですから、
この“適度”というのが微妙ですよね。

ブルーベリー栽培の指導者・西園寺さんから、3月に
「もっと光量を入れた方がいいんじゃないか」
というアドバイスをいただき、
「適度とは具体的にどの程度をいうのか」
というのが、今度は気になるようになりました。

「光量が少なければ光合成がしにくくなり不健康化、光量が多ければ葉焼けして短命化」
ということになるわけです。

頭上の樹勢120419-2.JPG
 ここもコーヒー山です。
 私としては、ここは光が入りすぎと思うのですが…。
 コーヒーは発芽以降、幼苗、苗木時代の環境でも
 コーヒー山に定植後に微妙に変化を見せてしまうので、
 その点ではなかなかデリケートですね。
 赤ちゃんの育児のように、コーヒーは初期は
 特に人の介在が不可欠ですが、
 主役はコーヒーで、私はあくまで黒衣なのです。


植物は自分が生きて行くためのエネルギーを、
日照による光合成という方法で自ら作り出しているのですが、
松のように、芽生えからより多くの日照を浴びて、
他の樹木よりも早く高く生長することで日照を独占して、
森林内で少しでも優位に立ちたいという「陽樹」に対し、
水分や栄養分が豊富で
森林内の弱々しい光の中でも着実に成長して、
いつか明るい光を浴びる日を夢見て
虎視眈々とCHANCEを伺う「陰樹」があり、
コーヒーの木は、クスノキ、カシノキ、ブナ、シイ、
タブ、ツガなどとともに後者の「陰樹」になります。

陽樹が成長して繁茂すると、その木の下は当然日陰になるので、
松などの次世代の芽生えは光が不足するためこの陽樹の下では育たずに、
薄暗い光量下でも幼苗が育つ陰樹が育ち、
陽樹林は陰樹林へと変遷(へんせん)していくのです。

アバウトにいえば、
「日陰であっても成長可能なのが陰樹」
という意味で、
「陰樹だから光が少ない方が良い」
というわけではないし、
「光量も多ければいいのではない」
のです。

濃霧のコーヒー山120421.JPG
 一昨日は午後から天気が崩れました。
 帰る途中に観たコーヒー山です。



コーヒーの実の果肉は甘いのですが、
この糖度と品質の関係も少し考えてみましょう。
横浜の中村さんからこのお話をいただき、私も気になったのです。

糖度は
「日照時間に比例する」
といわれますが、
糖度が上がるためには、光だけでなく、
“寒さ”という厳しさも必要になります。

コーヒーが
「昼夜の温度差があるほど良い品質の実が出来る」
といわれているのは、そのためですが、同時に
「昼夜の温度差があるほど、果肉は美味しい甘さになる」
と考えられます。

光合成を行わない夜間の温度が低いと、
寒さに耐えるために、消費する炭水化物の量が少なくし、
自らの樹液濃度を高める、その濃縮作用が、
果肉の美味しい甘さを作り出すのではないかと思うからです。

そう考えると、
「森林栽培は路地栽培より倍の時間がかかるが、
 時間がかかることで日照時間の積算量自体は多くなる」

という、
「時間をかけて育てる」
ことは、あながち間違いではないように思います。
問題は光量のバランス調整だと思います。

ヤンバルクイナ120420-1.JPG
 コーヒー山の地主によると、
 国の天然記念物ヤンバルクイナは
 10年前は「月に数回見かけるくらい」だったのが、
 最近は「見ない日は無い。多い時は1日に何羽も見る」と言って
 「増えすぎて、もう保護なんか必要ないんじゃないの」
 と言われています。
 その正否はともかく、我が家の庭や、バナナ園などにも多数出没しています。
 この画像は我が家から20mくらいのところで昨日撮影しました。
 これは模様が綺麗なのでオスです。


ヤンバルクイナ120420-2.JPG
 彼らを見て「あっ」と思うと、ほんの数秒で、
 こうして草地に入ってしまうので、
 出会いは多いのですが、なかなか撮影出来ないのです。
 一度草地に入ってしまうと、そこからは二度と出てきません。
 彼らを多く見れるのは4〜7月、特に4月中旬〜6月は、
 雛を連れ歩く時期でもあり、エサを探しているのか
 朝でも日中でも夕方でも、よく出てきます。


現状では
「沖縄でのコーヒー栽培では、光量はこのくらい必要」
というのは結論を出せずに、
暗中模索から抜け出せないのですが、
「原産地の栽培環境を再現させたい」
という私の考えでは、
コーヒー山は、まさに理想的な栽培環境だと改めて思い直しています。

沖縄のコーヒー栽培では、標高が最も高く、昼夜の寒暖差も激しく、
冬の寒さも沖縄随一ですから、コーヒー山の環境に時間がかかっても馴染めれば
きっと良い実を付けるはずだと確信しています。


バナナ園のコーヒーの開花.JPG
 自宅に隣接するバナナ園の東側に植えたコーヒー苗木がようやく開花しました。
 昨年の台風では、かなり潮を浴びて、放任していましたが、
 どうやら潮にも耐性があるようですね。


posted by COFFEE CHERRY at 18:53| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月01日

コーヒー苗木の定植基準

コーヒーの苗木を、
「いつ植えるのか」
あるいは
「どの程度の大きさになったら植えるのか」
など、
いろいろな方法を試行錯誤しているのですが、
「苗木がこういう状態になったら植える」
という、私なりの基準をご披露しましょう。

コーヒー苗木20120401-1.JPG
 定植を待つコーヒー苗木です。
 コーヒー山でも2回の冬を経験して、
 山の環境にはすっかり慣れ親しんでたくましく生育しています。


コーヒー苗木20120401-2.JPG
 これも定植の出番を待つコーヒー苗木です。
 日本には口径が小さくて深いポットがありませんが、
 出来ればメーカーではそういう深型のポットも作ってほしいところです。
 根がポット内をグルグル回るのは避けたいし、
 直根も真っ直ぐの状態で、植えたいからです。


コーヒー苗木20120401-3.JPG
 これも定植の出番を待つコーヒー苗木ですが、
 最初の頃は“高さ”を基準にして定植していました。
 昨秋から新たな基準に変えました。


コーヒー苗木20120401-4.JPG
 これは、苗木の高さが充分でも、
 「まだ定植しない苗木」です。
 次の画像と比較してください。


コーヒー苗木20120401-5.JPG
 こちらの苗木は「定植する苗木」です。
 前の画像と比較して、違いが判りますか?
 新しい基準は「枝が出ているかどうか」にしています。
 前の画像は、まだ葉が出ている状態ですが、
 こちらの画像は枝が出てきていますよね。
 高さが同じようでも、苗木の生育が違うわけです。
 昨秋からは、「高さが30〜40cm」で、
 さらに「主幹の上の方に枝が出た苗木」を優先して定植しています。



この基準は、経験を基にした私なりの判断なので、
コーヒーの栽培学的に正しいのかどうかは判りませんが、
昨秋から約半年間、定植した苗木の経過を見ていても異常がなく、元気なので、
当面はこの方法で行うつもりです。

「いつ植えるのか」
は、また次の機会にご紹介しましょう。
posted by COFFEE CHERRY at 22:20| 沖縄 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月31日

半栽培を考える

コーヒー山では、リュウキュウイノシシがあちこち掘り返していて
まるで耕耘機が暴走したような光景が目立っています。

沖縄本島は昨年3度の台風襲来があり、
コーヒー山でも、森林内では空がよく見えないほどの
鬱蒼(うっそう)とした森林だったのが、
台風でシイの木が枝葉をずいぶん飛ばされて、
イノシシの大好物のドングリが激減してしまったことで
ミミズを捕食するためにあちこち掘り返しているのです。

ヤンバルオオフトミミズ120319.JPG
 ふつうのシマミミズやフトミミズを超越して
 ヘビみたいな巨大なヤンバルオオフトミミズ。
 リュウキュウイノシシは、好物のドングリが激減したので
 この巨大ミミズを捕食するために、
 あちこち掘り返しているのです。



台風の影響でコーヒー山では上空を見上げても、
空が見えるようになってしまいました。
ということは、陽が入ることを意味しています。
やんばるは新緑が目立ってきましたが、
元通りの、鬱蒼(うっそう)とした森林に戻るには
まだ1〜2年はかかりそうです。

イノシシがあちこち掘り返してもコーヒーには無関心、
というよりコーヒーは避けています。
イノシシはバナナの株やテッポウユリの球根などは大好きですが、
コーヒーのカフェインが嫌いなのです。
植物のアルカロイドは、多くが他の生物に対して毒性があります。
これは植物が自己防衛のために作り出した物質なんですね。

チョコレートのテオブロミンとか、
コーヒーやお茶のカフェインのようなアルカロイド類は
人類は数千年も前から、熱帯雨林で
様々なアルカロイドに富んだ熱帯植物を食べてきた歴史があり、
人類は体内で簡単に解毒できるようになっています。
カフェインは人間にとっては神経を良い意味で刺激することで
リラックス効果をもたらすのですが、
イノシシにとってはアルカロイドは“毒”というわけです。

イノシシが掘り返す事態はコーヒー山だけでなく、
やんばる全体に及んでいます。

「やんばる(山原)」
とは、
「山々が連なり森の広がる地域」
を意味する言葉で、
ブナ科のスダジイ(沖縄ではイタジイ)やオキナワウラジロガシが優先する
常緑の照葉樹林の森で、
自然性の高い亜熱帯性常緑広葉樹林が広がり、
多様性に富む生物相を保持しています。
そのため、コーヒー山でも固有種とよく出会うのです。


森で木が倒れると、森に光が入るようになります。
光が入ることによって、これまで高い木の下で成長できなかった種類の植物や
照葉樹たちが先を争って成長するようになり、
太陽の光をめぐる競争が激化し、そこには新しい形の生態系が生まれます。

これも長い時間の経過とともに、また元のような高い照葉樹に覆われ、
このプロセスを
「遷移(せんい)」
といい、
遷移の結果至った安定した生態系を
「極相」
といいます。

森では永遠に極相が保たれることはなく、
攪乱を受けて、遷移になり、極相に至ることを繰り返しているのです。

広い自然界の中では、どこもがすべて極相ではなく、
あるエリアは極相を保ち、あるエリアは遷移の初期段階、
またあるエリアでは遷移の中期段階、
といったような状態になっています。
極相エリアと遷移エリアでは、それぞれの段階ごとに生態系が違いますが、
広い自然界では、全体として生物多様性を維持している、
ということになります。

イノシシがミミズ捕食のために掘り返したところや
陽が射し込む森林を見ていても、
遷移の中にいる私が、森と共生しているような一体感が得られて
それはそれで趣があり、またすべてがいとおしく、
作業も一層楽しく感じられます。

コーヒー山20120330.JPG
 標高約300mのコーヒー山は照葉樹林に覆われています。
 台風などで倒壊してしまう木もあります。
 コーヒーは森林内に定植していますが、
 光をどの程度入れたらいいのかを試行錯誤しています。



「固有種の多い、やんばるの自然を守ろう」
という
「環境保全」
を考える方々がいるように、もちろんその趣旨には私も同感です。

環境保全の概念では
「人間が手をつけていない、手つかずの自然こそが最も望むべき自然の姿」
とか
「鬱蒼(うっそう)とした森林形態が、ひとつの理想的な自然な姿」
と考えがちで、
実際に少し前の生態学では、
「人間の活動は生態系を壊す」
という位置づけをされていました。
人間のかかわりは自然界には否定的だというとらえ方をされていたわけです。

ところが近年の生態系では、特に保全生態系の分野では、
「適度な人間とのかかわりがあった方が、むしろ生物多様性に寄与することが多い」
というとらえ方になっていて、
人間と自然との関係では、
 ・ 野生なのか栽培なのか
 ・ 自然なのか人工なのか

といった二分法を考えがちですが
「攪乱の程度によっては自然を壊さず、むしろ保全する」
という考え方が出てきているのです。

これは私にとって、とても興味深く、また嬉しい考え方でした。
私の森林栽培は、
「在来種の森林の照葉樹は優先して残して、
 低木などを少し伐採してコーヒーを定植する」

というものですから、
「それでも、やんばるの生態系を微妙に変えてしまっている」
という、少しnegativeな気持ちもあったからです。


約35年ごろ前に、
ちょうどコーヒー山が丸裸に伐採された頃ですが、
(コーヒー山はその後放置されて森林が復元しました)
民族植物学者の中尾佐助先生が
「人間が狩猟採集生活から、どうやって農耕に移行したのか、
 移行には“半栽培”段階があったのではないか」

という提起をされました。

「人類がどうやって生物を栽培化していったのか」
という歴史的な関心に基づいた考え方です。

その後、「半栽培」は
「人間と自然との相互関係のあり方を考える概念」
として研究され、
半栽培は以下の3つの類型に分類されているようです。
 ・自然生態系の中から特定の野生種を利用する
 ・畑地の雑草から特定の植物を利用し、保護、栽培する
 ・栽培化されたが、そこから野生化したもの



我が家はやんばるの過疎にあるために、
地デジ難視対策衛星放送といって
要するに衛星で東京の番組やBSチャンネルの一部を視聴しています。
そのため荒天の日はテレビがまったく映らないこともあるし、
台風などの情報も、沖縄の番組が見れないのでネットやラジオで得るしかありません。
先日、BS(TBS)の番組で
地球の誕生を1月1日、現在を12月31日とした1年間のカレンダーを作ったときに、
「生命が誕生したのは何月頃か」
とか
「恐竜が活躍したのはいつごろか」
とか説明されていたのですが、
「人類が誕生したのは12月31日の夜11時37分」
つまり、偏向報道のNHKが紅白歌合戦で
歌手たちが紅白の玉を会場に投げて
「そんなのどっちが勝ったって、どうでもいいよ」
と思っている頃に人類が誕生した、
ということは、
ヒトの誕生は「ゆく年くる年」で
雪が深々と降る寒そうな寺院で除夜の鐘が突かれている頃になるのですが、
自然人類学におけるアフリカ単一起源説、
「地球上のヒトの祖先はアフリカで約20万年前に誕生し、
 その後世界中に伝播していった」

「植物は動けないので、人間が植物を選び、タネを持って旅をすることによって、
 植物もアフリカから地中海沿岸、東アジア、東南アジア、
 アメリカ大陸など地球上に広がっていった」

という説ですが、
それなら人類がいつから植物を栽培するようになったのか?
「地中海あたりで見つかった大麦、小麦を栽培するようになってから」
とか
「中国など東アジアで米や雑穀を栽培するようになってから」
など、またいろいろな説もあり、まだ特定はされていません。

“半栽培”の概念からすると、
やんばるでのコーヒー栽培は、
「コーヒーは野生種ではなくて外来種なんだから“半栽培”ではない」
ということになるのですが、
私の試みは、
「在来種の森林に、外来種のコーヒーを仲間に入れてあげてね」
というもので、
どうしても在来種の方が強いですから
コーヒーの補助を私が行うような栽培管理を心掛けているのです。

沖縄では、
パパイヤ、バンジロウ、アセロラ、島バナナ、イペー、カエンボク、
モクマオウ、ゲットウ、ギンネムなど帰化植物あるいは外来種が多く、
ハイビスカスだって江戸時代前に中国から持ち込まれたものですし、
デイゴも帰化植物なんじゃないかな。
とにかく沖縄は渡来植物が多いのですが、
コーヒーも今は肩身が狭くても、永い時間がかかってもいいから
森の仲間に入れてもらいたいのです。

「コーヒーは自生して、生態系に影響を及ぼすのでは?」
という声もありますが、
少なくともコーヒー山では現段階では人が介在しないと生育出来ませんから
生態系に悪影響を及ぼすことはありません。
特に発芽から苗木移植の時期までは、甲斐甲斐しくお手伝いが必要です。
コーヒーが歌舞伎役者であれば、
私は黒衣(くろご)のような相互関係が必要なのです。

定植3年目のコーヒー20120330.JPG
 コーヒー山ではなく、自宅に隣接するバナナ園の北東側に植えたコーヒーです。
 3年目を迎え、ついに花芽が出てきました。
 コーヒー山の木たちも一部花芽が出てきています。
 このバナナ園は昨年8月の45時間40m以上の暴風雨にさらされた時は
 このコーヒーの木も塩害を心配しましたが(海まで直線距離で約1kmと近いため)
 その後の雨で塩も流されたようで、元気を取り戻してきました。



アグロフォレストリー(Agroforestry)は
「農業(Aguriculture)」と「林業(Forestry)」を合わせた造語で
「森林破壊をせず、森を作りながら、作物を生産する農業」
で、
「森をつくる農業」
といわれています。

また、パーマカルチャー(Permaculture)は、
「永続的、永久的(permanent)」と「文化(culture)」を合わせた合成語で
農園にさまざまな樹木や果樹などを植えて
野菜やハーブを栽培したり、家畜なども組み合わせた
「永続的な農業」と同時に「永続的な文化」といった意味合いの
自然農業的な考え方ですが
アグロフォレストリー(Agroforestry)とパーマカルチャー(Permaculture)は
広義では同じようなものでしょう。

そういう意味ではコーヒー山もアグロフォレストリー(Agroforestry)、
あるいはパーマカルチャー(Permaculture)に入るのだと思いますが
最近はあまりそういった難義な定義にとらわれずに
私は
コーヒーだけでなく、多くの果樹も植えて
「森と共生・共存する農業」
「人間が自然と共生共存しあう農業」
を目指すようになりました。

中南米の中小零細規模のコーヒー農園では
多くの果樹を植えるアグロフォレストリーをしていると聞いています。
「多くの果樹の誘因効果で、
 生物多様性は増加する可能性こそあれ、減少することはない」

というとらえ方をされているようですが、
私もまったく同感なので、
自信を持って微力前進していきたいと考えています。

posted by COFFEE CHERRY at 13:30| 沖縄 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月01日

コーヒー山のイボイモリから考える

沖縄本島の冬は曇りや雨が多く、
コーヒー山の黒ポット苗木の排水が悪いものは
水があふれて浸水ポットになっていて、
ポットの底の排水用の穴に、枯れ枝などを差し込んだりして
水抜きをするのが、雨上りの作業のひとつになっています。

昨日は水浸しポットを持ち上げたときに
地面にイボイモリが居るのを見つけました。

イボイモリ120229-1.JPG
 全長18cm前後で、ほとんど動かず、
 ゴム製のおもちゃのようです。
 食性は動物食で、ミミズや小昆虫、ムカデ、陸生貝類などを
 捕食しているようです。



イボイモリは、
奄美大島から沖縄本島まで生息する固有種で
(那覇から約32km離れた渡嘉敷島にも生息しているようです)
1978年(昭和53年)に沖縄県の天然記念物に指定され
2003年(平成15年)には鹿児島県でも天然記念物に指定されたように
環境省レッドリストの絶滅危惧種に指定されている珍しいイモリです。


生物学的には、
「動物界 脊索(せきさく)動物門 両生綱 有尾目 イモリ科 イボイモリ属」
に分類されているようです。
ちなみに“人間”は、
「動物界 後生動物亜界 脊索動物門 羊膜亜門 
 哺乳綱真獣亜綱 正獣下綱霊長目 真猿亜目 
 狭鼻猿下目 ヒト上科 ヒト科 ヒト下科 ホモ属
 サピエンス種 サピエンス亜種」

に属する種のようですが、
専門家でなければ、こんなの知る必要性がなさそうですね。

イボイモリ120229-2.JPG
 イボイモリは日本に分布する「イモリ科」では最大種らしいです。
 たしかに同じイモリ科のシリケンイモリ(イモリ属)は15cm程度ですから
 イボイモリの方がはるかに大きいです。
 シリケンイモリの「シリケン」は“尻剣”という意味で
 「尾が剣のような形のイモリ」
 というらしいのですが、
 私の見た目では“尻剣”にはどうも思えません。
 シリケンイモリは、
 「沖縄本島や渡嘉敷島などでしか生息していない固有種」
 というものの本島では南部でもやんばるでもよく遭遇しますし、
 絶滅危惧種にも指定されていません。



イボイモリはとても原始的なイモリで、
第三紀に繁栄した種の遺存種とされていて
シーラカンスほどではないにしても
「生きている化石」
と呼ばれることもあるそうです。

地質学的には「第三紀」というのは
中世代の次の新生代の時期のことをいいます。

2億2500年以前の古生代のあと、
6500万年以前の、恐竜が活躍したジェラ紀や白亜紀などの中生代になり、
6500万円以降、現在までが新生代で、
新生代は6500万年前から約200年前までを第三紀、
(163万年、175万年、260万年など研究者によって微妙に違います)
それ以降、現在までを第四紀と分類されています。

白亜紀は地殻変動が激しく、
ゴンドワナ大陸が移動、分裂して、各大陸がほぼ現在と同じ形になり、
その間にできた大きな隔たりを海が満たすようになる時代で
気候の寒冷化とともに巨大恐竜が減少し、
ティラノサウルス、イグアノドン、トリケラトプスなどの全盛期や、
生物の色や形が激しく変化したのも、この時代です。

白亜紀の陸地では顕花(けんか)植物が見渡す限りに広がり、
まもなく絶滅する恐竜の後釜として
哺乳類がその勢力を拡大しつつあり、
そのため肉食恐竜が活躍していたのですが、
後にユカタン半島と呼ばれるようになる地域には、
この白亜紀に巨大なクレーターが出現しています。

大繁栄していた大型爬虫類やアンモナイトなどが突如、
しかも根こそぎ絶滅したのもこの時期で、
大型の隕石衝突説は有名ですよね。

「顕花(けんか)植物」
とは、
「花を咲かせ、実を結び、種子によって繁殖する高等植物」
つまり、コーヒーなどの種子植物のことですが、
コーヒーの原種も、最強ティラノサウルスが
獲物を追いかけるときにコーヒーを踏み潰していたのかもしれません。

あるいは火山活動の溶岩流出でコーヒー原種が燃えた時に
実が焼けて、あたりにはコーヒーの香りがただよっていたのかもしれません。

白亜紀が劇的に終わる理由として、
大型の隕石衝突説なのか地球規模の気候変動説なのか諸説ありますが、
大陸の移動や海岸線の増大、海洋の拡大が気候の寒冷化と湿潤化をもたらし、
地球上の植物相と動物相が劇的に変化したことだけは間違いないようです。

カエル、サンショウウオ、カメ、ワニ、ヘビといった生物は、
拡大した沿岸地域で繁殖していたと考えられています。
森ではネズミに似た哺乳類が忙しく走り回り、
上空では現段階で世界最大とされる翼竜が滑空していたものの、
鳥類が急速に種を増やしていたため、
翼竜と鳥類とで、空の生存競争が厳しさを増していたようです。
現生鵜(ウ)、ペリカン、シギなどの祖先は白亜紀に姿を現した、とされています。

白亜紀に誕生したサンショウウオは「両生綱・有尾目」、
イボイモリも、この“目(もく)”までは同じですから
白亜紀にも似たような種がいたのかもしれませんね。

白亜紀が劇的に終わり、新生代の「第三紀」に入ると、
地球には恐竜も翼竜も、また海の巨大爬虫類もすっかりいなくなっていました。
それまで肉食竜から逃げ回り、夜間にしか活動できなかった小型の哺乳類が
ついに日の当たる表舞台に進出し、
哺乳類は大きさ、数、多様性、すべての面で成長し繁栄していったのです。

またこの時代に人類が進化しました。
白亜紀後期のプルガトリウスから原猿類(キツネザルのようなサルで、まだ4足歩行に近い)、
真猿類(狭尾類と広尾類に分けられ、狭尾類がヒトの祖先霊長類に続く)を経て、
やがて類人猿へと進化します。

最も古い、猿の先祖プルガトリウスは白亜紀後半には
最強ティラノサウルスから逃げ回っていたのでしょう。

ヒトはオランウータンと約1500万年前に、ゴリラと約1200万年前に、
チンパンジーとは約600万年前に別々の道を歩み始めました。
約400万年前にアフリカは乾燥し、熱帯雨林がサバンナに変わるのですが、
これにより森を出て地上で暮らし始めたサルが、ヒトの祖先となるのです。

イボイモリ120229-3.JPG
 イボイモリの体色は真っ黒というより、やや暗褐色っぽく、
 形状としては、頭はヒメハブのように三角形型で
 将棋の王将や飛車の駒のように角ばっています。
 また、頭部や胴体は全体的に扁平で、
 背骨や肋骨、イボが隆起して浮かび上がり、
 見た目はかなりグロテスクで触りたくない感じですが、
 毒はなくおとなしいイモリです。
 また、イボは隆起した骨らしいです。
 今日の画像撮影は、それぞれ時間差があるのですが、
 ほとんど動いていないように見えますね。



また、第三紀は今から2500万年前を境に
古第三紀と新第三紀に分けられます。
古第三紀には森に住み葉を食べる哺乳類が繁栄しましたが、
新第三紀には現在のような気候帯になり
草原に住み草を食べる哺乳類が繁栄したようです。

古第三紀の始まり頃にスタートした哺乳類は、
霊長類、ウマ、コウモリ、ブタ、ネコ、イヌなど、
そのすべてが、古代三紀が終わる2300万年前までに登場しています。

植物は既に被子植物優勢で、
第三紀には双子葉類からより進化した
イネ、ムギ、トウモロコシ、ネギ、ユリなどの単子葉類が出現するのですが、
コーヒーは双子葉類ですから、
コーヒーの原種登場は第三紀より前、
つまりティラノサウルスのいた白亜紀だと考えられるのですが、
詳しい方がいましたら教えて下さい。
posted by COFFEE CHERRY at 22:27| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒー山の動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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