2011年12月17日

神秘的で魅力的なコーヒーの葉の並び方

山紫水明処の珈琲山では、いろいろな植物が群生しています。

冬の季節になると森林内の樹木の樹勢が弱まり、
木の種類の判別がしやすくなります。
しかもこの時期に花が咲いていたら、さらに判りやすいです。
縁に細かな鋸歯(きょし)が並び
クチクラ層でピカピカした厚手の葉は
ヤマツバキ(ヤブツバキ)で、
これから赤やピンクの花を咲かせます。
タネには良質の油(椿油)が含まれていますが、
搾油(さくゆ)して精製するなんて、
なかなか出来ませんが、
新鮮な葉には、タンニン、クロロフィルなどが含まれているようで、
葉をするつぶし、切り傷、擦り傷、おできなどの患部に塗布すると
効果があるようですし、
花を乾燥させて煎じると、
滋養強壮、健胃・整腸に効果があるらしいです。

コーヒー山に自生する在来植物の多くには
きっと漢方薬的な効能があるはずですし、
また、山を歩き回っていても
木の名前を知っていたり、
その樹木や植物の生態を知っていると楽しいですよね。

そういう木の種類の判別基準のひとつが
「茎に葉がどのようについているか」
という葉序(ようじょ)で
葉が対生(たいせい)についているのか、
互生(ごせい)についているのかは
大事な目安になります。

葉の根元にあたるところは節(ふし)と呼ばれているのですが、
互生(ごせい)というのは、
茎の節に1枚の葉が互い違いに出ていることで、
珈琲山の代表的な照葉樹林である
ブナ科のスダジイ(イタジイ)やイジュを始めとして
樹木の多くはこれに該当します。

1つの節に茎をはさむように2枚の葉が左右対称につく対生樹木は、
クスノハカエデ.(カエデ科)やゴモジュ(スイカズラ科)、
シマタゴ(モクセイ科)などわりと少なく、
コーヒーは、その対生で葉がついているのが特長です。

コーヒーの枝葉111217.JPG
 コーヒーの葉は幹に左右対称の対生(たいせい)に付いている。

樹木は、枝に多数の葉を付けた方が
たくさんの光を受けられるのですが、
葉と葉の重なり合いがあまりに多いと、
下の方にある葉には
上方の葉の隙間を透過した光しか当たらなくなるので、
受光効率が悪くなります。
そこで、コーヒーの葉序は、
葉と茎を接続している小さな柄、
つまり葉柄(ようへい)部分を少し伸ばし
葉どうしの重なり合いが少なるように
葉身を互いに離れるように付けているのです。

重なり合うコーヒーの枝葉111217.JPG
 コーヒーの枝葉は成木になるにしたがい密集してしまいます。
 陽が当たらない葉は、当然光合成がしにくくなります。


さらに、
光合成をするという葉の役割の面から
葉身の上面が上空を見上げるように並び
受光効率が高まるように並んでいて、
茎と葉身はほぼ一つの平面を形成しているわけです。
天狗のアイテムの団扇(うちわ)はヤツデの葉ですが、
コーヒーの枝葉も、ひとつの面状になっているのです。

毎日見ていると何かと見過ごしがちですが、
注意深く観察すると、
コーヒーは、なかなか神秘的で魅力的な木なのです。
まさに
「たかがコーヒー、されどコーヒー」で、
コーヒーはなかなか侮れません。
日々、コーヒーはいろいろなヒントを出してくれているのに、
私がなかなか気づいてあげられないのが、もどかしいところです。

コーヒーの枝葉111217-2.JPG
 緑色の若い茎は、動きやすいように断面が凹型になっていて
 その枝に付いている葉と同じ面を形成するために
 90度近く茎をねじる。
 ねじりの修正が終わると、茎の断面は円形状になる。


posted by COFFEE CHERRY at 18:14| 沖縄 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | コーヒーの基礎知識 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月15日

寒さで凍えそうなオオハブムカデに遭遇

先週から最低気温が20℃を下回る日が時々あり、
沖縄も寒い冬の訪れを感じるようになりました。

コーヒー山では、ハブには不思議に遭わないのは
私との活動時間帯が違って、
昼夜で入れ替わっているためだと思いますが、
この寒さでヘビたちは冬眠こそしませんが、
かなり凍えて動きが鈍くなるので、
山での対動物での危険度からすると、
冬場はせいぜいイノシシくらいで、
安全な季節ともいえそうです。
イノシシといっても、リュウキュウイノシシは
神戸とか街中に出没する大型で危険なイノシシと違って
基本的には大人しいです。
子連れだとか私が威嚇するとかでもしない限りは
イノシシも何もしてきません。
イノシシからすれば
「このエリアは本来我々の生息域なんだけど、何してるの?」
と思っているのでしょう。

最近、やんばるでは雨が多く、昨日も午前中降雨があり、
午後から自宅に隣接するバナナ園などの草刈りをしていました。

すると、草の中から何やら黒いものが…。
よく見ると大きなハブムカデです。

オオハブムカデ111215-1.JPG
 草の中をノロノロと這い出してきたのは
 オオハブムカデでした。


コーヒー山でも、移植作業中などに
オオハブムカデやヒメハブが
飛び出してきたことは何度かあり、
お互いに驚いてしまうものです。
「オオムカデ類はヒトに対して能動的に攻撃する」
といわれるものの、
ハブムカデも驚いたのか軽快で俊敏な動きで逃げ去り、
今までとても撮影する機会はなかったのです。

日本で最大級のムカデは
「トビズムカデ」
といって、
体長20cm近くになるといわれていますが、
沖縄のハブムカデは、20cm以上あり、
一説には
「ハブ以上の猛毒を持っている」
ともいわれています。
ハブ以上ではなくとも、毒は持っているでしょうから
咬まれたくはないですね。

オオハブムカデ111215-2.JPG
 黒漆五枚胴具足をまとった伊達政宗公のように
 威厳と風格のオーラが出ていますが、
 「寒いょ、寒いヨ〜」と
 寒さで凍えてなかなか前進できません。


コーヒー山のような朽木や雑木林の落ち葉の中など
やや湿り気のある薄暗いところに生息するようですが、
肉食性なのでゴキブリやバッタ、蛾、
昆虫、幼虫など小動物を捕食しているようです。

ムカデは中国では蜈蚣(ごこう)という漢方薬として
アトピー性皮膚炎の治療に使われているそうですから、
アトピーが今も残る私の娘にも使ってみようかな。

オオハブムカデ111215-3.JPG
 だいたい等身大の大きさです。
 動きが鈍いのでデジカメを取りに行って戻ってきても
 ノラリクラリと30cmも進んでいませんでした。
 活発に動く時期なら怖いですよね。

posted by COFFEE CHERRY at 18:17| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒー山の動物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月13日

忠臣蔵の忠義を考える

1702年(元禄15年) 12月14日というと、
当時は旧暦ですから
西暦(グレゴリオ暦)では1703年1月30日のようです。
正確には1703年1月31日 (水曜日)の
雪が深々と降る午前4時ごろ
大石内蔵助を筆頭に47人の赤穂浪士たちが
本所松坂町の吉良邸に討ち入り、みごと本懐を果たし、
「忠義の誉れ」
として現在に伝わっているのは、
あえて言うまでもありません。

映画での大石内蔵助役は
長谷川一夫が
「おのおの方、討ち入りでござる」
と言ったのは、
1964年の東京オリンピックの年に
たしか当時白黒テレビで見たと思うのですが
NHK大河ドラマの「赤穂浪士」だったと記憶しています。
長谷川一夫以外にも、この最も重要な主役は
阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、松本幸四郎、
萬屋錦之助、松方弘樹、里見浩太郎、北大路欣也、
中村吉右衛門、高倉 健などといった、
そうそうたる時代劇のスター達が行い、
瑶泉院役も、
星 玲子、玉木悦子、大川恵子、司 葉子、山本富士子、
三田佳子、古手川祐子といった
古手川祐子はともかくとして大女優の面々が演じてきました。

討ち入りをした赤穂浪士たちは、
なにしろ忠義の誉れのヒーローですから、
私たちが映画やドラマで知っている有名な場面も
演劇化による、かなり誇張された脚色も手伝って
逸話や伝承の類が多く出てきます。

吉良邸討ち入り前に、
そば屋の二階に集結して最後の酒宴をして、
出て行くときに小判を4〜5枚(現・40〜50万円)置いていくとか、
討ち入り8か月前に、
病にかかって寝込んでいた岡島八十右衛門に代わって
江戸へ下向した神崎与五郎が
駿河三島宿の甘酒茶屋で馬喰の丑五郎との間に争論がおこり、
神崎はここで騒ぎになる訳にはいかないと、おとなしくその証文を書く
「与五郎わび証文」も史実ではないようです。

さらに
討ち入り直前にこれまで散々迷惑をかけた兄に
弟・赤埴源蔵重賢(あかばねげんぞうしげたか)は
今生の別れを告げようと兄宅を訪れるも兄は留守、
義姉もどうせ金の無心にでも来たのだろうと
仮病をつかって出てこない。
やむなく源蔵は兄の羽織を下女に出してもらって、これを吊るし
兄に見立てて酒をつぎ
「それがし、今日まで兄上にご迷惑おかけしてきましたが、
 このたび遠国へ旅立つこととなりました。
 ぜひ兄上と姉上にもう一度お会いしたかったが、
 残念ながら叶いませんでした。これにてお別れ申し上げる

と、兄の羽織に涙を流しながら酒を酌み交わし、
帰って行く、という「赤埴源蔵、徳利(とっくり)の別れ」とか、
吉良邸絵図面を何とか手に入れるため、
岡野金右衛門は吉良上野介の本所屋敷の普請を請け負っていた
大工の棟梁の娘お艶と恋人になるが、
金右衛門はやがて本当にお艶に恋するようになり、
彼女から絵図面を手に入れたことに自責の念を感じ、
金右衛門は忠義と恋慕の間で苦しむ。
討ち入り後、泉岳寺へ向かう赤穂浪士を見守る人々の中に
涙を流しながら岡野を見送る大工の父娘がいた、
という「岡野金右衛門とお艶の悲恋」も
お涙頂戴の創作のようです。

また
藩主浅野長矩(ながのり)の刃傷事件後に開城恭順を主張して、
籠城・殉死・切腹を唱えた大石内蔵助一派と対立した
末席家老・大野九郎兵衛(くろべえ)は
公金の分配でも、大石は微禄の者に手厚く配分すべきとしたのに対して、
大野は石高に応じて配分すべきと主張し、
結果、大石の意見どおりに配分され、
大野は藩内で孤立し、公金を横領し逃亡した
不忠臣の代表格といわれていますが、
大野は逃げた訳ではなく、大石が万一失敗した時に備えた
第2陣の大将であり、米沢藩へ逃げ込むであろう吉良を待ちうけて
米沢藩(山形県)の板谷峠に潜伏していたものの
大石の討ち入りが成功したという報を聞き、
大野は歓喜してその場で自害したという「大野第2陣説」や
大高源五は子葉の俳号を持ち、俳人としても名高い赤穂浪士で
吉良邸に出入りする俳人宝井其角(たからいきかく)とも親交があり、
討ち入りの前夜、大高は煤払(すすはらい)竹売に変装して
吉良屋敷付近を探索しているときに、
両国橋で宝井其角と偶然出会う。
其角(そかく)は、「西国へ就職が決まった」と別れの挨拶した源五に対し
「年の瀬や 水の流れも 人の身も」
と発句し、大高はこれに
「あした待たるる この宝船」
と返し、仇討ちをほのめかすという
「大高源五と宝井其角の両国橋」の場面も
史実ではないようです。

また、
放蕩の限りを尽くして遊び呆ける大石内蔵助を
京都の一力茶屋で見つけると、
「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍めが!」
と罵倒し、ののしって大石の顔につばを吐きかけた
薩摩の剣客・村上喜剣は
大石が吉良上野介を討ったことを知ると
無礼な態度を恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹し、
大高源五の墓の隣にある「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた
小さい墓は村上喜剣のものであるという話や
勝田新左衛門の義父が
討ち入りメンバーを記した号外かわら版をひったくって
婿の名前を探す場面だとか、
さらに
大石内蔵助が討ち入り前日に
江戸南部坂(現在の港区)に住む
浅野内匠頭の未亡人・瑶泉院に会いに行き、
同士の連判状を届け、討ち入り決行を報告しようとするのですが、
吉良側の密偵を警戒し
「ある西国の大名に召抱えられることになりました。
 再びお目にかかることもかないません。
 東下りの旅日記を持参ました。」

と断腸の思いで偽りを伝え、仏壇に参ることを許されず
降りしきる雪の中で今生の想いを伝える大石、
夜中に内蔵助からの旅日記を盗む密偵、
それを捕え、旅日記を見るとそれは同士の血判状、
やがて入る討ち入りと本懐を遂げた知らせが入り、
大石の別れの意味を悟り短慮を悔いる瑶泉院…
この名場面も創作なのです。

討ち入りの午前4時ごろに
大石が太鼓を打ち鳴らした、というのは
「静かに潜入しようとしているのに太鼓なんか打ち鳴らすはずない」
と、私が真っ先に疑った場面ですが、
「街道歩き」
を見ると、
どうも本当にあったことのようですね。


史実とドラマは別ですが、
史実と違うことを十分理解しながらも、
そして結末を十分理解しながらも、
見て感動してしまいながら、
事件の真相というのが今ひとつ解からないというのも
忠臣蔵の面白さなのかもしれません。


江戸時代後期の儒学者で
日向国宮崎郡(現・宮崎県)出身の安井息軒(やすい・そっけん)は
元禄赤穂事件について
「赤穂浪士の一番偉かったことは、
 吉良邸討ち入りを果たしたあと、
 勝手に切腹したり自害したり逃亡したりせず、
 皆従容と幕府に出頭し、素直に法度の裁きを受け、
 その裁きに従って切腹したこと

と述べています。

赤穂藩取り潰しと吉良へのおとがめなしという幕府の判断に対し、
喧嘩両成敗の法度の無視へのレジスタンスとして、
赤穂浪士は吉良邸討ち入りを果たし本懐を遂げるのですが
それだけでは国法の無視であり、無法に過ぎなくない。
「無事に本懐を遂げたあと、国法に服したところが素直に偉い」
と言っているのですね。

一方、福沢諭吉は、「学問のすすめ」の中で、
赤穂浪士を酷評しています。

学問のすすめ111213.JPG
 新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)の「武士道」は
 三民(農工商)の上に立つサムライの精神として
 「上に立つ者の義務」すなわち、
 五常の徳(仁義礼智信)を基に
 「仁義・節義・忠義・信義・礼節」
 などに置き換え、さらには
 「廉恥(れんち)・潔白・勇気・名誉」
 などの徳を加えて三民の手本となるべき生き方を
 要求するなど、
 厳しい自己規律をもって
 不正や卑劣な行動を禁じ、
 いかに気高く生きるかを説いた行動の美学が
 「武士道」でしたが、
 これらは福沢諭吉の「独立自尊」と同じことで
 明治になって市民平等になり武士階級がなくなった
 近代社会で国民全員が持つべき価値観を
 具体的に説いた本が「学問のすすめ」で、
 決して強制的な「勉強をしろ」という押しつけの本ではないのです。
 なかなか読みやすい本ですよ。



以下は、青空文庫の「学問のすすめ」
赤穂事件についての記述をコピーしました。


 昔、徳川の時代に、浅野家の家来、主人の敵討ちとて
吉良上野介を殺したることあり。
世にこれを赤穂の義士と唱えり。
大なる間違いならずや。
この時日本の政府は徳川なり。
浅野内匠頭も吉良上野介も浅野家の家来もみな日本の国民にて、
政府の法に従いその保護を蒙(こうむ)るべしと約束したるものなり。
しかるに一朝の間違いにて上野介なる者内匠頭へ無礼を加えしに、
内匠頭これを政府に訴うることを知らず、
怒りに乗じて私に上野介を切らんとして
ついに双方の喧嘩となりしかば、
徳川政府の裁判にて内匠頭へ切腹を申しつけ、
上野介へは刑を加えず、この一条は実に不正なる裁判というべし。
浅野家の家来どもこの裁判を不正なりと思わば、
何がゆえにこれを政府へ訴えざるや。
四十七士の面々申し合わせて、
おのおのその筋により法に従いて政府に訴え出でなば、
もとより暴政府のことゆえ、最初はその訴訟を取り上げず、
あるいはその人を捕えてこれを殺すこともあるべしといえども、
たとい一人は殺さるるもこれを恐れず、また代わりて訴え出で、
したがって殺されしたがって訴え、四十七人の家来、
理を訴えて命を失い尽くすに至らば、
いかなる悪政府にてもついには必ずその理に伏し、
上野介へも刑を加えて裁判を正しゅうすることあるべし。
 かくありてこそはじめて真の義士とも称すべきはずなるに、
かつてこの理を知らず、身は国民の地位にいながら
国法の重きを顧みずしてみだりに上野介を殺したるは、
国民の職分を誤り、政府の権を犯して、
私に人の罪を裁決したるものと言うべし。
幸いにしてその時、徳川の政府にて
この乱暴人を刑に処したればこそ無事に治まりたれども、
もしもこれを免(ゆる)すことあらば、
吉良家の一族また敵討ちとて
赤穂の家来を殺すことは必定(ひつじょう)なり。
しかるときはこの家来の一族、
また敵討ちとて吉良の一族を攻むるならん。
敵討ちと敵討ちとにて、はてしもあらず、
ついに双方の一族朋友死し尽くるに至らざれば止まず。
いわゆる無政無法の世の中とはこのことなるべし。
私裁の国を害することかくのごとし。
謹(つつし)まざるべからざるなり。


要するに
「幕府の裁定が不満なら、幕府に異議を訴え出よ。
 それをせず無法に武力で復讐するとは何ごとか」

と言っているのですが、
同時に
「我々は腐敗した徳川政権を倒した、
 徳川とは違って我々は民主主義なんだ」

というエラソーな気ぐらいも感じられますね。
人それぞれ、いろいろな見かたがあって良いと思います。


播州赤穂浅野藩の家老・大石内蔵助ら
四十七人の旧赤穂藩の藩士達は、
主君・浅野内匠頭の仇を討つために
命懸けの討ち入りを敢行し
見事に本懐を遂げた“忠義”が
「誉れ高い」と語り継がれてきたのは、
江戸時代から明治維新を経て、
戦前昭和の日本人を貫く精神が
武士道と大和魂、忠孝の思想だったからです。
ところが大東亜戦争の敗戦を契機として
これら「日本的な価値観」は
マッカーサー司令官より軍国主義の鼓舞につながるとして、
すべて悪として切り捨てられてしまいました。
一時は柔道と剣道の禁止令までも出されていました。

ハワイの日系3世・藤 猛(ふじたけし)が
ボクシングの世界王座獲得後に
「岡山のおバアちゃん、見てる?」
「勝ってもかぶってもオシメよ(=勝っても兜の緒を締めよ)」
「ヤマトダマシイ!」
と、リング上で叫んでいたのを
私が小学校の高学年の頃に
父とテレビでいたのを想い出しましたが、
 ・大和魂
 ・武士道
 ・倫理観

そんな精神的風土が薄れつつある今の日本で
「忠臣蔵が若者層で今ひとつ人気がない」
というのも残念でなりません。

「大和魂」ではありませんが、
沖縄では個々にコーヒー栽培に取り組んできた諸先輩方がいます。

名護市の親川仁吉さんが、戦前
ブラジルからアラビカ種の苗木を持ち帰り、
自宅庭で栽培されたのが
沖縄コーヒー栽培のルーツとしては
今のところ最古になっていますが、
私はもちろん、残念ながらお会いしたことはないのですが、
和宇慶朝伝先生以降の先輩たちには
ご教授を受けてきました。

和宇慶先生は戦後ブラジル丸でブラジルに渡り
現地に移民された妹さんから
「ブルボン種のタネをもらい、苗木をふところに隠して持ち帰った」
と、直接伺いました。
ブラジル丸が移民船として使われたのは
1963〜1971年という
東京オリンピック(1964年)あたりから
大阪万博(1970年)あたりまでの
沖縄復帰前のことです。



和宇慶先生が延べ200人に行った
「コーヒー教室」
で、
ただ一人残ったのが恩納村の山城武徳先生です。
山城先生が約3千坪の農地で
コーヒー栽培をされている現場を拝見して
私はコーヒー栽培が行える安堵をし、
同時に決心をしたのです。
山城先生は沖縄復帰後の第一人者でした。

東村の足立弘志さんにもとても親身に親切にしていただきました。
和宇慶朝伝先生は2年前に104歳で大往生され、
山城武徳先生は昨年大腸ガンで(享年81歳)、
足立弘志さんも2年前の大みそかと、
相次いで戦後の沖縄コーヒーを代表する先輩方が亡くなっています。

先輩方は、行政の支援は一切無い孤立無援の状況下で
試行錯誤を繰り返しながら、最後に亡くなるまで
コーヒー栽培をやり通しました。
その教えや知恵、教訓から学んだことは多く貴重です。

先人の情熱、遺志を継ぎ、定着、大成させることが
先人たちに対する「忠義」だと私は受けとめています。


佐藤一斎先生が
後半生の四十余年にわたって書かれた
「言志四録」(言志録、言志後録、言志晩録、言志耋(てつ)録))
に、
「老人の一話一言は、皆活史なり」
があり、
「お年寄りの話や言葉は、その人の人生の体験史だ」
という意味ですが、
先人から貴重な知識や情報を得ることのできたのは
とてもありがたいことだと思っています。

また、
「赤子(せきし)の一啼一咲は、皆天籟(てんらい)なり。
 老人の一話一言は、皆活史なり」

とも書かれています。

「赤ん坊の泣き声、笑い声は皆、
 無邪気で偽りのない自然のもたらす素晴しい音楽である。
 老人の話や言葉は、すべて経験を物語る活きた歴史である。」

という意味ですが、
これは壺中有天(こちゅうてんあり)の“天”の境地でとらえた考え方ですから、
もう少し深く解釈すると、
「天籟(てんらい)」は、天地自然の音ということなので、
「人間が自然と一体化する」
ということだと思います。
ということは、
自然のままにありのままに生きる。
泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑って、
自分の心をごまかさない。
雨が降る時には雨が降り、風が吹く時は風が吹き、
雪になるときは雪になる。
人の力でそれらを止めようなどということは、やめた方が良い。
天地と一体となって生きてゆく事が、
正しい人間の生き方ではないか、
といっているように思えます。


南宋の儒学者朱熹(しゅき、朱子)の
「宋名臣言行録(そうめいしんげんこうろく)」
は、
北宋の名臣97人の言行録が編纂した書物ですが、
この中に、
「智猶水也、不流則腐」
(智はなお水のごときなり、流れざれば則ち腐る)
があり、
「知恵は水のようなものである。
 工夫して知恵を働かさなければ腐ってしまう。」

という意味で、
先人たちの教えや教訓を土台にして、
さらに試行錯誤して、
探究していかなければない責務を担っているのだと覚悟しています。



『てぃんさぐぬ花』の歌詞     
(1)
  てぃんさぐぬ花や            ホウセンカの花は
  爪先(チミサチ)に染(ス)みてぃ     爪先に染めなさい。
  親(ウヤ)ぬゆし事(グトゥ)や      親の言うことは、
  肝(チム)に染(ス)みり         心に染めなさい。

(2)
  天(ティン)ぬ群り星(ムリブシ)や   天の群星は
  読(ユ)みば読(ユ)まりしが      数えようと思えば数えきれるけど、
  親(ウヤ)ぬゆし言(グトゥ)や     親の言うことは、
  読(ユ)みやならん           数えられない。

(3)
  夜(ユル)走(ハ)らす舟(フニ)や       夜、沖に出る舟は
  子(ニ)ぬ方星(ファブシ)見当(ミア)てぃ   北極星が目当て、
  我(ワ)ん生(ナ)ちぇる親(ウヤ)や      私を産んでくれた親は
  我(ワ)んどぅ見当(ミア)てぃ         私が目当て。

(4)
  宝玉(タカラダマ)やてぃん       宝石も
  磨(ミガ)かにば錆(サビ)す       磨かなくては錆びてしまう
  朝夕(アサユ)肝(チム)みがち     朝晩心を磨いて、
  浮世(ウチユ)渡(ワタ)ら       世の中を生きていこう。

(5)
  なしば何事(ナングトゥ)ん     誠実に生きる人は
  ないる事(クトゥ)やしが      後はいついつまでも、
  なさん故(ユイ)からどぅ      願いごともすべて叶い
  ならぬ定(サダ)み         永遠に栄えるのです。

(6)
戦する意味に 意味を重ねても
渡す命のかずには 何の意味があるの


このYoutubeでは上記(6)の歌詞になって曲が終わっています。
大東亜戦争の末期、本土決戦の時間稼ぎのために、
沖縄が「捨て石」にされた沖縄戦で、
死者行方不明者の半数(約9万4千人)が民間人であり、
戦争を憂いたオリジナルな歌詞にしていますが、
ふつうは(6)は下記のように歌い、
(7)以下は順番が違ったり、カットされたり
歌詞を変えたりといろいろです。

(6)
誠(マクトゥ)する人(ヒトゥ)や       成せば何事も
後(アトゥ)や何時(イチ)迄(マディ)ん   成ることであるが、
思事(ウムクトゥ)ん叶(カナ)てぃ      成さぬ故に
千代(チユ)ぬ栄(サカ)い          成らないのだ。

(7)
行(イ)ち足(タ)らん事(クトゥ)や     行き届かないことは
一人(チュイ)足(タ)れい足(ダ)れい     一人一人が足しあいなさい。
互(タゲ)に補(ウジナ)てぃどぅ        お互いに補い合ってこそ
年(トゥシ)や寄(ユ)ゆる           年は取っていくものだ。

(8)
あてぃん喜ぶな        いくら金や物があっても喜ぶな。
失なてぃん泣くな       また、失ったからといって嘆き悲しむな。
人のよしあしや        人間の善し悪し、人の評価というものは
後ど知ゆる          最後になってわかるものだ。

(9)
  栄てぃゆく中に     栄えていくなかにも
  慎しまななゆみ     謙虚でなくてはいけない。
  ゆかるほど稲や     稲も実るほどに
  あぶし枕ぃ       あぜ道を枕にして、腰を低くするではないか。

(10)
  朝夕寄せ言や        お年寄りの朝夕の教訓は、
  他所の上も見ちょてぃ    世間の例を見て素直に耳を傾けるがよい。
  老いのい言葉の       老いの繰り言などと
  余りと思な         思うのではない。


「てぃんさぐぬ花」
は、
沖縄の代表的な民謡、
ホウセンカ(鳳仙花)は
爪紅(ツマクレナイ)、爪紅(ツマベニ)の別名があるように
赤い花は昔、
マニキュアのように爪を染めるのに使ったようです。
触れるとはじける果実が目を引くホウセンカは
花言葉「私に触れないで」もそれに由来するようです。
韓国でも、爪にホウセンカの汁を塗り、
初雪まで色が残っていたら恋が実ると言う伝承があるらしいのですが、
単に
「男女の掛け合いで、恋の歌」
というより、
先人の教えを歌った教訓歌で
世の中の教えを説いた、いわゆる格言を歌にしたもので、
それが黄金言葉(くがにくとぅば)として歌い継がれているのです。
posted by COFFEE CHERRY at 21:32| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月09日

宮崎産マンゴーからひもとく沖縄産コーヒーの方向性

沖縄でのコーヒー栽培者は、
木を1本庭に植えている方から数百本規模まで含めると、
離島も含めて私が知っているだけでも
すでに100人を超える方々がいますので、
実数はもっともっと多いはずです。

また、新規の栽培希望者も続々と登場してきていて、
大げさにいえば、
「西部開拓時代のゴールドラッシュ」
とまではいきませんが
“プチ・沖縄コーヒー栽培・ラッシュ”
の感が出てきています。

ローゼルの花111209.JPG
 自宅の庭に咲いたローゼルの花です。
 ガクを生のまま熱湯をかけると、
 鮮やかな赤いRoselle teaの出来上がりです。
 酸味が効いてクセになるくらい美味しいです。
 もちろんジャムにも出来ますよ。
 沖縄では10月中旬頃から年内一杯が旬です。



沖縄は今年は台風台風の当たり年で
・5月下旬の2号、大型で葉タバコなど戦後最大の農産物被害
・6月下旬の5号
・8月上旬の9号、本島が45時間暴風雨圏に入り夏野菜が壊滅

と、
3回の台風の襲来で
県内の農産物の被害額としては戦後最大に上りました。

沖縄産コーヒーは、昨年に引き続いて不作でした。
例年、春の降雨がコーヒーの開花を促すのですが、
昨春は曇天ばかりで、晴れ間も降雨も少なかったために
生豆に班が出たり、軟らかかったり、浮豆が多かったりと、
生産者が満足するような良い豆が生産出来なかったのです。

今年は台風の影響も含めて平年以上の降雨があり、
照葉樹林に守られた自然の要塞のコーヒー山では
おかげさまで台風の被災もほとんどなく、
コーヒーの生育は順調そのものでしたが、
他のコーヒー農園は日なた栽培ですから、
3度の台風による被災がかなりあり
・南城市の知念コーヒーは壊滅的
・南風原町の大城コーヒーでも同様で収量は激減
・東村の渡嘉敷コーヒーは今春500本のカットバックを行い
 収量がしばらくは激減

・大宜味村のハウス栽培では台風の被災で撤退化
と、
親交の深いコーヒー農園の現況は、
「良くはない」
というより、
「今年は最悪」
という方が近そうです。
これに関連し、
珈琲豆脱穀機を開発された細川製作所様から
果肉除去機の試作機のデモの日程の打診を頂きましたが
収穫直後の実が集まらないことで
「時期は後日調整」
ということに至ってしまいました。

そういう中でも、
「魔法の打ち出の小づちを持っている」
というウワサのあそことあそこは、きっと
「注文があればすべて納品できる」
態勢なのでしょう。

「沖縄産コーヒーに海外産を1粒でも混ぜたら、もう沖縄産といえない」
「海外産を混ぜるなら正直に公表するべきだ」
という私の考え方は、
このブログを継続的にご覧いただいている方々であれば
充分に理解していただけていると思いますが、
そもそも
『沖縄産』
の定義自体があいまいなことが問題なのです。

将来的には、沖縄コーヒーの生産者団体の
必要性が生じてくるものと思います。
もちろん、単なる親睦団体ではなく、
厳しい基準を設けて、
しっかり公正に管理・指導出来うる生産者団体のことです。

生産者であれば
・栽培面積
・栽培本数
・栽培品種
・農法
・収穫量
・加工方法
・生豆生産量
・保存方法
・使用した肥料の種類と施肥時期、数量

など、
消費者に沖縄産の「安全」や「安心」を認知して頂くためにも
traceabilityの導入は今後不可欠ですから、
それらは本来明らかにできて当然ですし、
また
「生豆を堂々と提示する」
ことも当然のことなのです。

こういうことが徹底出来ないのは
個々の生産者の考え方によっては
「そんな細かいことはいちいち公表する必要性がない」
「企業秘密だから言えない、見せられない」
という用管窺天(ようかんきてん)の方々もいるでしょうし、
「少しの囮(見本)で信用させて、実際の中身はほとんどが海外産」
という犯罪まがいの呆れた産地偽装生産者も実際にいるからです。

フヨウの花111130.JPG
 コーヒー山近くのフヨウ(芙蓉)の花です。
 ローゼルの花によく似ています。
 フヨウ(芙蓉)はアオイ科フヨウ属の落葉低木で
 英語名は「Hibiscus mutabilis」ですが、
 ローゼルもアオイ科フヨウ属の植物で、
 英語名は「Hibiscus sabdariffa」というように
 “Hibiscus”(フヨウ属)のグループです。




なぜ、しつこくそういうことを持ち出すのかというと、
一躍有名になった
宮崎県の完熟マンゴー「太陽のたまご」の事例を考えると
沖縄産コーヒーの将来に暗雲が立ち込めるように思えるからです。

最初の頃は、おそらく沖縄産マンゴー生産者の誰もが
「宮崎のマンゴーなんて…」
と慢心して高を括(くく)っていたのでしょうが、
後発の宮崎産マンゴーは周到な準備・分析をして
消費者のニーズに応え、
現在では沖縄産マンゴーを脅かすようになっています。

宮崎マンゴーは、
1976年(昭和51年)に南郷町の県亜熱帯作物支場で導入され、
その後農家らが部会を立ち上げて試行錯誤しながら試験栽培等を重ね、
1986年(昭和61年)に、お米の減反政策の代替作物として
西都市で本格栽培が始まりました。
もう25年の歴史があるのです。

もちろん沖縄産に比べると宮崎産の歴史は浅い。
そのために後発の宮崎マンゴーは
後発優位のマーケティング戦略を組み立てました。
・すでに沖縄産が国産の市場を創っているので、
 宣伝広告は製品価値を伝えるのではなく、
 ブランド訴求をするのみで良い

・先発(沖縄産)の失敗事例を分析・対応することで、
 技術開発について無駄な投資が抑えられる

・独自の改良をすることで別の新しさ、価値を訴えることで
 先発(沖縄産)の市場を奪い取れる

ということですよね。

要するに、先発の沖縄産は圧倒的優位の市場を占有しながら
確固たる追随を許さないポジションを築けないうちに、
後発の宮崎産に消費者に新しさ、既存にはない価値を
創られてしまったのです。
それは“基準”づくりの差です。

オクラの花111209.JPG
 自宅庭に咲いたオクラの花です。
 この花もローゼルやフヨウに似ています。
 オクラはアオイ科トロロアオイ属ですが、
 以前はフヨウ属(Hibiscus)に分類されていたようです。



1998年(平成10年)に、
JA宮崎が「太陽のタマゴ」のブランド名を制定しました。
宮崎産であれば、何でも「太陽のタマゴ」と名乗れるのではなく、
 @1玉350グラム以上
 A糖度15度以上
といった基準だけではなく、
 ・自然に落果するまで樹上で完熟させる
 ・果実裏側に日照を反射させる白紙をあて、裏側も赤くさせる
 ・果実を高い位置で栽培させる
 ・日照に当たるようにヒモで吊る
 ・すべての果実に生産者を特定する数字を記入する

など、
自然に甘いマンゴーが作れないために
技術を駆使していて、
努力の結晶が結果を出してきているのです。

果実は大きさや糖度などで5段階に分類され、
A品といわれる「太陽のタマゴ」ブランドは
全体の1割程度だそうです。
その技術代が小売価格5000円以上という
高価格になっているのも、
充分に理解できるところです。

こういった「基準づくり」の発想が
残念ながら沖縄県にはまったくありません。
「ただ沖縄でつくったマンゴー」
というだけなのです。

2008年度の年間出荷量(国産)総数は約2,843トンで、
そのシェアは
 ・1位 沖縄県 1,538トン(54%)
 ・2位 宮崎県  862トン(30%)
 ・3位 鹿児島県 307トン(11%)
 ・4位 熊本県   97トン(3%)
 ・5位 和歌山県


沖縄産マンゴーのシェアは年々減少傾向にありますが、
ランチェスターのシェア理論では
「三社以上の競争であれば、過半数を占めなくても
 市場の41.7%を占有すれば
 安定目標値として首位独走の条件となる」

といわれていますが、
現状では沖縄産マンゴーは“安泰”ではないと思われます。
なにせ
「ただ沖縄でつくったマンゴー」
なのですから。
「なんくるないさー」
とは
「“難”来るないさー」
ではないはずです。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
盛者(じょうじゃ)必衰の理(ことわり)をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ


平家物語の冒頭、平氏が没落していく
「栄華は続かない。栄えていても落ちてゆく。」
様子が、沖縄産マンゴーのようです。

昨年引っ越しする前の南風原(はえばる)町の知人は
「今からマンゴー栽培に参入」
されると言われて、これは心配ですが、
国頭村辺土名で無農薬栽培でマンゴー栽培に挑戦されている
愛知県出身の若いご夫婦に先日お会いしました。
こちらは応援したいですね。

基準づくりをしない沖縄産マンゴーの衰退をみていると、
今後の沖縄コーヒーの方向性も見えてくるわけです。


クミスクチンの花.JPG
 クミスクチンの花。
 東村の「森のハーブガーデン」で撮影しました。
 シソ科の低木多年草生で、
 マレー語で「クミス」は“ヒゲ”を、
 「クチン」は“ネコ”を意味しているように
 和名では「ネコノヒゲ」と呼ばれています。
 腎臓炎、腎臓結石、膀胱炎など
 腎臓疾患の改善に効果がある健康茶として、
 古来から沖縄では愛飲されていますが
 様々なの改善に効能があるとされています
 やらせで打ち切りになった「発掘!あるある大事典」では
 お肌のケアとかダイエット効果を取り上げていたような
 記憶がありますが、さてどうだったでしょうか。



冒頭の“プチ・沖縄コーヒー・ラッシュ”では、
いろいろなウワサを耳にします。

何やら大きなプロジェクト化しようとする動きもあるようです。
そういう動きからすると、やがて沖縄産コーヒーにも
親睦団体が出来る可能性もありそうですが、
産地偽装するインチキ生産者や
ブローカーまがいの人が生産者のフリをしても
誰でも入れる親睦を目的とするだけの団体であるなら、
私は意味がないので入会することは有り得ません。
その場合には将来的にですが、
宮崎産マンゴーの事例からも、
しっかりした栽培指導や基準づくりをしながら
全体の底上げをしていく、
別の団体を興す必要性も出てくると思います。
賛同する生産者がどれだけいるかが問題ですが、
入り口を厳しく、最初は数軒でも集まればいいと思っています。

キクイモの花111203.JPG
 キクイモの花。
 東村の「森のハーブガーデン」駐車場の周囲に
 咲き乱れていたので撮影しました。
 キク科ヒマワリ属の多年草で黄色い花がきれいですが、
 在来種の植物を駆逐して繁殖エリアを拡大するので、
 外来生物法によって要注意外来生物に指定されているようです。



沖縄産コーヒーでの大きなプロジェクト化のウワサは、
いろいろな仕組みづくり、役割がてんこ盛りになっているらしく
クリスマスケーキのデコレーションのようで賑やかそうですが、
一番大切なことは仕組み作りよりも
「木を元気に生育させて、良質の実をつけること」
が肝心かなめの本分なはずですが、
新規参入者には共通していえることですが、
どうもコーヒー栽培を簡単に考えているようで、
収穫時期や収穫量まで、全部うまくいった仮定で
構成されているのだとすれば、
砂上の楼閣になってしまう危惧もあるかもしれません。

織田裕二が演じる青島俊作巡査部長が主人公の
『踊る大捜査線 THE MOVIE』(1998年公開の第1作)
のクライマックス場面で、
青島巡査部長がパトカーの無線で
「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだexclamation
と叫んだ名セリフを想い出してしまいました。

映画は、湾岸署と警察庁の組織の中心で
意思決定をするところの間に摩擦や矛盾が生じても、
現場が一生懸命事件を解決していくというSTORYになっていて、
意地とプライドの塊の本部のエリートたちは
会議で好き勝手に方針を決めますが、
そのエリートの中で現場をよく理解している人もいれば、
全く理解しないまま自分たちの手柄だけを考えている人たちがいて、
現場を理解している人の代表が柳葉敏郎でしたね。

沖縄でのコーヒー栽培は、まだ確立されていません。
私は時間がかかっても次の世代に良い形で受け継いでほしいので、
品種探しや栽培方法など、もっともっと研究しないといけない責務があり
地道に自分の道を進む決心を改めて固めた次第です。


「中庸」第二段第一節には、こう書かれています。

仲尼曰:
“君子中庸,小人反中庸。
君子之中庸也,君子而時中;
小人之中庸也,小人而無忌憚也。”


仲尼(ちゅうじ)曰く、
君子は中庸なり。小人は中庸に反す。
君子の中庸や、君子にして時に中る。
小人の中庸や、小人にして忌憚(きたん)する無きなり、と。


孔子曰く
「君子は中庸すなわち偏らず過不足なく、
平常にして徳を身に体得しているが、小人は中庸に反している。
君子が中庸をよくするゆえんは、未だ発せずの中を失わず、
独りを慎むの工夫を凝らして和を得ることにある。
小人が中庸に反するゆえんは、
欲をほしいままにして少しも忌(い)み憚(はばか)り
遠慮することがないからなのである」



少し勉強して、課題がほんの少し判ってくると、
新たな疑問が次から次へと湧き出してきます。
「きっと、こういうことなんじゃないかな」
と、仮説をつくるにも容易ではありません。
わからないことだらけです。
まだまだ精進しなければいけません。

ヒビスクス・アセトセラ111203.JPG
 アオイ科フヨウ属ヒビスクス属のヒビスクス・アセトセラです。
 これも東村の「森のハーブガーデン」で撮影しました。
 赤シソのように葉が赤銅色なのでシソアオイともいうようです。
 ローゼルの仲間のようで「実だけでなく葉や茎も使う」と
 比嘉さんからお聞きしましたが、お茶にすると
 ハイビスカス・ローゼルと比較して美味しいとはいえませんでした。
 色はまあまあ出るのですが。
 横浜市の中村さんには、こっちを「ハイビスカス・ローゼル」と
 誤って伝えてしまいました、ごめんなさい。

posted by COFFEE CHERRY at 16:09| 沖縄 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月03日

誹謗中傷と思われるコメントは消させていただいています

私は真剣に真摯にコーヒー栽培に取り組んでいます。
これについては自信を持っています。
おそらく歩けなくなるまでコーヒー山に行くでしょうし、
意識が無くなるまで、沖縄でのコーヒー栽培について
より良い方法を考えると思っています。

私のコーヒーブログは、私自身の栽培日誌です。
数年前に書いた記事と今では、
栽培法でも若干違いが出てきています。
もちろん、多くの失敗を繰り返して
今の考え方に至っているのですが、
それでも“完全”ではなく「仮説」の域を出ていないでしょう。
「三歩進んで二歩下がる」
ことを実践していることは私自身も百も承知していますが、
コーヒー栽培はとにかく時間がかかるので、
仮に私の代で成功しなくても、
私の後進の人たちが成功すればいいと思っています。
私は沖縄にコーヒー栽培を定着させ、
高品質の豆を生産できるように
まずは沖縄の気候や土壌に
最適な品種を探し当てようと頑張っています。
そのために全財産を投げ打っているのです。

私の記事の誤りのご指摘は結構ですが、
考え方に対する批判や誹謗、中傷、嫌がらせ、抗議などと
受け取れるコメントにはバトルしている暇はありませんので、
私の一存で消させて頂くと同時に、
アクセスも拒否させて頂くことにしています。
posted by COFFEE CHERRY at 23:04| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーの栽培日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月02日

コーヒーの種子と発芽を考える@ 

コーヒー豆はコーヒーの種子(たね)だ、というと、
「そんなことは小学生だって知ってるよ、当たり前だ」
と怒られてしまうでしょうが、
私たちが日常的に食べている食材では、
米、トウモロコシ、大豆、小豆、ゴマなども種子ですし、
パン、うどん、そば、中華麺、パスタや
豆腐、味噌、醤油、食用油、
おかき、クッキーなども種子からつくられたものですから
ヒトは種子に古来から深く依存して生きているのです。

そういう意味で、コーヒーの種子と、それに発芽について
あらためて感慨深く、敬意を表して
想いついたことを綴ってみました。


植物は花が咲いて、実が実って、種子ができ、
その種子を蒔くと芽が出て次の世代の植物ができますが、
「最適な温度と空気と水」
の絶妙なバランスがそろうと、
ヒトの母体の胎児のように、
種子の中で次世代の植物の赤ちゃんが発育します。

人間の赤ちゃんは、出産後母乳やミルク、オムツにお風呂などと
24時間世話を焼いてくれる人が必ずそばに居ますが、
植物の赤ちゃん(発芽)は生まれた時から独りきりです。
育っていくために必要なものはすべて自分で調達し、
やるべきことはすべて自身でやらなければなりません。
さらに植物は歩いて移動できないのですから、
種子の発芽のタイミングは、
きわめて慎重に発芽環境を検討することになるのです。

必要なものはすべて揃っているのか、
健全に発育できうる環境かどうかを充分に吟味したうえで、
「よし、これなら大丈夫、安心して発芽しよう」
と決断して発芽に踏み切るのです。
人間にはとてもマネの出来る芸当ではありません。

次世代の赤ちゃんが芽を出し、
自分で光合成をすることが出来るようになるまでの
成長に必要な栄養分が種子に入っています。
コーヒーの種子の中の大半を占める硬内胚乳は
セルロース(炭水化物)、タンパク質(粒状アリューロン)、糖などのほか、
ビタミン、ミネラル、鉄なども含まれているのです。

コーヒーの種子は、
水分や水溶性の養分、酵素の量などは少なく(水分20%未満)、
代謝・生合成・細胞分裂といった生命活動は
ふつうは停止に近い休眠状態にあります。
そのため、ふつうなら
耐えられないような環境下(寒冷、高温、乾燥、暗黒など)でも
種子は生き続けることが出来るし、
長い寿命を維持することが出来るわけです。

極端な例では、昭和26年に大賀一郎教授が
弥生時代の遺跡から発掘された蓮(ハス)の種子を発芽させています。
卑弥呼が死んだ時期は
弥生時代から古墳時代への移行期といわれていますから、
少なくとも
「1800年以上昔の種子でも発芽した」
ということになります。
スコーピオン・キングが復活する「ハムナプトラ」という映画のようですね。
といってもコーヒーの種子では数十年も持たないんじゃないでしょうか。
私は植物学者ではないのではっきりしたことは言えませんが、
コーヒーの種子を、どんなに大切に保存していても、
年々発芽率が落ちることは確かですから。
長い年月が経過したコーヒーの種子は
やがて脳死状態のようになって発芽しなくなるような気がします。
「なんだ、コーヒーの種子ってそんなに弱いの?」
というより、
それだけデリケートだと解釈してほしいところです。

また、種子のまわりの種皮は、
動物や昆虫に食べられたり、菌類や細菌に侵されないように、
また衝撃や圧力で傷つかないように、
さまざまな危険から種子の中身を守っています。
コーヒーの種子ではシルバースキンという薄くて頑強な皮が貼り付き、
さらにその外側をパーチメントが覆って、
種子をガードしているのです。
そのため、種皮を脱穀して、丸裸の生豆にした状態では
焙煎には適しても、タネ植えとしては適さないどころか
「発芽しない」
と言ってもいいくらいです。
種皮を脱穀した生豆は、もう種子ではないのです。
コーヒーを栽培する種子は、“パーチメント豆” が大原則なのです。
沖縄でも、これを説明しても
右から左に聞いている方が時々いて
「コーヒーのタネ植えをしたけど発芽しない」
という問い合わせが後日メールで届き、
どうやってタネ植えをしたのか、どこからタネを収取したのかなど
よくよく聞いてみると
「生豆でタネ植えした」
ことが発芽しない原因だった、
ということが、ついこの前もありました。

種子が覚醒する条件は、植物の種類によって違いますが、
多くの場合、その植物の生育様式に対応しています。
寒い冬を避けて春に発芽する種子、
沖縄でのコーヒーはこのパターンですが、
一定時間低温が続くと休眠から醒めて、
発芽の準備に入るのです。
また、乾期が長く続く厳しい環境に生えるような植物は、
土壌湿度によって休眠したり覚醒したりするようです。


もう少し具体的に
コーヒーの種子の発芽のプロセスを考えてみましょう。

種子には胚があり、発芽とは胚が成長を始めることをいいます。
植物学的には、最初に幼根が種子を破って出てくる時点のことを
「発芽した」
と考えるようですから、
私たちが通常考える、地上に芽が出てきた状態は
“発芽”ではないようです。

胚が成長をするということは、
厳密には胚を作っている個々の細胞が大きくなることであり、
また、新しい細胞が作られ、
要するに新陳代謝が促されるのですが、
そのために、水分と養分の補給が必要なのです。
コーヒーの種子内の硬内胚乳、
セルロース(炭水化物)、タンパク質(粒状アリューロン)、
糖などを分解するのは酵素ですが、
乾燥した種子のままでは酵素は働くことが出来ません。
酵素が働くには水分がなくてはならないのです。
そのため、種子を水に漬けるか、
タネ植え後に水やりをしてあげないといけないのです。
それでも、水やりが多すぎても種子がカビたり
腐ったりすることがあるので、
たくさんあげればいいのではなく、
乾燥させない程度に水が必要だということです。

乾燥したコーヒーの種子を水に漬けると、すぐに吸水が始まります。
これは、タンパク質(粒状アリューロン)など
高分子貯蔵物質が水を吸って膨潤していくからです。

その吸水はPHの影響を受けます。
コーヒーの種子は中性より酸性の方が早くかつ効果的に吸水します。
しかも栄養成分を分解する酵素の最適PH値も、
どうも酸性側にあるようで、
そのため発芽以降の生育過程でも
酸性土壌の方が適しているといえそうです。

休眠から醒めた種子が最初に始めるのは、吸水・膨張と
貯蔵物質(杯の栄養分)の急速な代謝で、
貯蔵物質は、そのための原料であり、
同時にエネルギー源にもなるのです。

温度条件的には、
沖縄では3月下旬の20℃あたりになった頃に発芽するのですが、
沖縄では春だけでなく、その後秋まで発芽します。
10月にタネ植えすると、
11月から初春までは休眠に入り発芽はしません。
4月頃に発芽してきます。
生前、和宇慶朝伝先生が
「発芽まで9か月かかったことがある」
と言われたのは、
「8月頃タネ植えして、発芽したのが翌春4月だった」
という意味だったのだと思います。
コーヒーの種子の夏以降のタネ植えでは、
「秋の暖かい時期に、春と間違えて発芽してしまった」
という失敗が起こらないように、
寒い冬を一度経験してから発芽するような仕組みが
組み込まれているということで、
ますますコーヒーの種子の素晴らしさに感嘆してしまいます。

冬の冷たい土の中で、養分を蓄えて発芽のときをひたすら待ち、
「暖かい」という感覚だけではGOサインを出さない、
成長や子孫繁栄という目標に向けて前進するには、
この慎重さと用心深さが大事なんだと、
コーヒーの種子から教えられているような気がします。
「寒い時期を経験してこそ、芽生えがある」
という人生訓的な教えは、
「志さえ失わなければ、
 困難や問題はすべて新たな発展の契機として生かすことができる」

といわれた故・松下幸之助さんのことばのようです。
そう考えると、
沖縄でのコーヒーの種蒔きは
「初春から梅雨」
までがBESTのようです。

胚の中心軸が伸びて、分裂組織が細胞分裂を始め、
その結果、先端へと新しい根、あるいは茎と葉が伸びて行きます。

コーヒーノキの芽生えは、
子葉が2枚の「双子葉型」で
子葉が種皮をかぶったまま地上に出てくる「地上子葉性」
という形態をとり、
種皮を落としてから、子葉が広がって緑色になり、光合成を始めます。
発芽に際しては、光はそれほど重要ではありません。
光が必要なのは、成長して伸びた茎や葉が光合成をするためであって、
発芽前は光は不要で、遮光したところでも元気に発芽します。

土壌は、発芽に必要な水分や生育後の栄養の供給源になりますが、
同時に、種子から生長をし始めた芽生えが
最初にくぐり抜けなくてはいけない障害物でもあるのです。
茎頂(シュートの先端)や根端(根の先端)は、
細胞壁が薄くて軟らかくデリケートな分裂組織を守りながら
土を突き抜けるしくみを持っていますが、
種蒔きの土は、軟らかく水はけがよいものがBESTです。
コーヒーの種子にも、そのくらいの配慮をしてあげないとダメですよね。
南米の中規模以上のコーヒー農園では、
川砂に液肥を使って種蒔きをしているようです。

コーヒーの赤ちゃんが土の中から顔を出したときに、
モヤシのような形状になっています。
言葉で説明するのはなかなか難しいのですが、
分裂組織の少し下で
茎が180度近く曲がって「逆Uの字」形になっています。
その部分の組織もやや硬くなっているので、
この曲がり方は構造力学的には
屈曲点(逆Uの字)部分の強度があるようです。

種子から発芽して、茎が伸びるにしたがい
強度がある屈曲点の部分が先頭になって土を押しのけ、
屈曲点が地表からある程度上に出てから、
分裂組織がある部分が土から離れ、屈曲が解除されて、
最終的には分裂組織が先端に来るようになる。
これを私たちは「発芽」と思っているわけです。

子葉の間にある分裂組織から新しい双葉が出てくるまでは、
芽生えの生活は子葉が支えています。

発芽というと、地上部分の子葉や双葉など、
目に見える部分ばかり気持ちがいってしまいますが、
地中では、芽と同じく、
成長しようと頑張っているのが“根”です。

根は土の中で見えませんから、地味な存在ですが、
コーヒーでいえば地上の樹形をしっかりと支え、
さらに成長に必要な水分や養分を土の中から吸収するという
重要な役割を果たしています。
歌舞伎で後見が舞台に現れるときに着る、
黒装束・黒頭巾姿の黒衣(くろご)や裏方などの
「縁の下の力持ち」
が根の仕事なのです。

私は今までに何度も何度も
数えきれないくらいの失敗を重ねているので
とてもエラソーなことは言えないのですが、
「鉢やポリポットの植え替え」
は面倒でも、してあげないと
根が窮屈になって、栄養を吸収できなくなるだけでなく、
鉢の内側を根がグルグルと巻くようになってしまうのです。

コーヒーの苗木111202.JPG
 コーヒー山にあるコーヒー苗木のほんの一部

コーヒー山をお借り出来るまで、数年がかりで
本島の読谷村以北の休耕地を探していましたが、
面積や期間などが折り合わずに数年が経過していたのです。
引っ越し前の南風原町の自宅庭に2,000本以上のコーヒー苗木を
ブラジルから沖縄に移住されたアキファームの曽木明子さんが
丹念に見られていた頃のことです。
その間に移植を待つ、鉢に入ったコーヒー苗木はすくすくと成長していて、
年末ジャンボ宝くじの1等前後賞の当選より
(といっても、私の今までの最高当選は10万円ですがもうやだ〜(悲しい顔)
運がよくコーヒー山をお借りできたときには、
鉢の中のコーヒー苗木の根はグルグル巻きだったのです。
当時は伐採と移植を同時に行っていたこともあり、
また穴の径も鉢が入るギリギリの大きさしか掘らずに
苗木を植えましたから、
根が伸び放題で、おまけに
窮屈なところに押し込まれたコーヒーには相当なストレスになり、
その後、南側の苗木は
葉や実を全部落として丸坊主になってしまいました。
それらは掘り返して我が家に持ち帰り
庭で再生させていますが、だいぶ回復してきました。

根が伸び伸びと成長して、
たくさんの養分を吸収してこそ、
花が咲いて実もつけるのですから
「根あってこその花や実」
を、私は痛烈に実感しているのです。

コーヒーノキは、発芽後、初めの根が太く地中深く伸びます。
これを“直根”とよんでいます。
この直根は、地中深く伸びて地上の樹形を支えるとともに、
出来るだけ深く根を伸ばすことで、
より多くの水分や養分を地中から吸収する“要(かなめ)”になります。

直根は、地上が乾期になって水分が少なくなっても
地中から補給する役目も果たしているのです。
沖縄の土壌学の権威で県の前農水部長・大城喜信先生が
地下1mに点滴潅水(かんすい)という、
チューブに小さな穴を開けて、水を微量に浸み出させ、
植物の根が水を求めて地中深く伸びる、
という農法を提唱されていましたが、
直根は、この自然バージョンです。

南米では苗木移植時に、
ナタで直根を切り落としてしまうところがあるのですが、
植物は無駄な葉は1枚でも出さないのですから、
私は直根を切るべきではない、
と考えています。


発芽の画像は依然ずいぶん撮影したのですが、
画像の整理が悪いので、後日探しながら発見次第
追加でUPする予定です。
いつもながら長い文で読みにくくてすみません。

(次回に続く)
posted by COFFEE CHERRY at 18:14| 沖縄 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月17日

ミミズの偉大さを考える

・蚯蚓
・目不見
・大地の腸
・地球の虫(英語ではearthworm)
・雨の虫
・自然の鍬
・地竜(中国語)

これらは、
ミミズの別名です。

「春の暖かさを感じて、冬ごもりしていた虫が外に這い出てくる」
二十四節気で3月上旬の
「啓蟄(けいちつ)」
も、
主にミミズのことを表しているような気がします。

最近、コーヒー山や自宅に隣接するバナナ園や庭などで
ミミズがずいぶん目立つようになりました。
以前はスコップで掘った土にミミズが1〜2匹見つかる程度だったのが、
現在はその数倍はいるようで、
嬉しさのあまり思わずニヤけてしまいます。

ヤンバルオオフトミミズの団粒土111116.JPG
 コーヒー山のヤンバルオオフトミミズの団粒土。
 私の右手の握りこぶしくらいある巨大な塊です。
 穴は小指が入るほどの径がありますから、
 きっと30cm以上のヘビのような大物でしょう。
 紫色なので、ミミズに失礼ですが見た目は気持ち悪いです。



今から2300年前後も前の中国の戦国時代、
老子よりあと、荘子より前に生きたといわれる道家・列子は、
8編の書を残し、故事・寓言(ぐうげん)・神話が多く書かれているのですが、
その中の「列子(湯門編)」の
「愚公(ぐこう)山を移す」
には、以下のように書かれています。

原文は省略しますが、
昔、中国の冀(き)州(現・河北省)の南、
河陽(現・河南省)の北に、
太行(たいこう)山と王屋(おうおく)山という、
700里四方もある広大な大山があり、
そのふもとに愚公(ぐこう)という老人が住んでいました。
外出にはいつも遠回りをしなければならず、
「あの険しい山を平らにして、予州の南まで道を通し、
漢水の南まで行けるようにしたい」
と家族に相談し、愚公の妻からは反論が出たものの、
愚公は息子や孫たちとともに岩石を砕き、土を掘り返し、
もっこで渤海の隅に運び出すのです。
黄河のほとりに住む智叟(ちそう)という老人は、その愚かさを嘲笑し
「あんたの馬鹿さ加減といったら話にならない。
老い先短いあんたの力では、山の一角だってとても切り崩せないさ」
と忠告します。
愚公は、ため息をつき、
「あんたの頭の固さには、手のつけようがない。
隣の家の坊やにも遠く及ばない。
良いかね、私が死んでも子供は生き残り、
その子供は孫を生み、孫はさらに子供を生んで、
子々孫々途絶えることはない。
一方、山は増えるわけじゃない。
だとすれば、いつか平らになるときが来るだろう」
と答えるのです。
この様子を見て恐れた2つの山の神は天帝に報告しました。
天帝は、愚公の真心に感心し、力持ちの神に命令して、
2つの山をそれぞれ別の場所に移してやったので、
それ以来、周囲には小高い丘さえもなくなりました。

という内容で、
「努めて怠らなければ大事は必ず成就する」
という有名な故事ですが、
これは以下の考察を想い出させます。

岩石の粒子を砕いてしだいに小さな破片にしていき、
(土をかきまぜながら岩石の粒子に消化器官内を通過させることによって)
土をかきまぜることによって土をほぐし、ばらばらにする。
そのあと重力と浸食作用によって、
土は高いところから低いところへたやすく移動していき、
かくして地形は平坦になる。
ミミズが生息する地域の地形が低くてなだらかなことは、
大部分のところミミズによるゆっくりとではあるが
持続的な働きの証しなのである。

つまり、
「大地をかたちづくるうえではミミズの影響は方向性を持つ」
という論法です。

これは130年前の1881年(明治14年)、
日本では西郷隆盛が西南戦争で敗れて自刃した4年後ですが、
進化論を提唱したイギリスの博物学者チャールズ・ダーウィンが、
亡くなる前年の1881年、40年に及ぶ研究の集大成として
「ミミズと土」
に書かれた記述です。

ダーウィンは土壌生態学の創始者でもあり、
「ミミズが土壌や植物の成長、
   ひいては人間の生存に有益な効果をもたらす」

という、
初期の文明から引き継がれた伝統や経験からくる知恵に対し、
初めて論理的な信憑性を与えた科学者の1人でもあるのです。

ダーウィンは、ミミズが、枯れ葉をトンネルに引き込み、
代わりに糞塊を地表に残す様子を観察し、
近所の婦人にお願いしてミミズの糞を一年間、毎日集めてもらいました。
その結果、ミミズはイギリスの牧草地で18.7〜40.3t/haもの
糞塊を生み出していることを明らかにしました。

さらに、牧草地の地上にチョーク(chalk)を撒き、
30年後に同じ場所を掘り起こすという、
とても気の長い実験まで行っています。

そういった実験の結果、
晩年の著書「ミミズと土」では、
 ・岩石の粒子を砕いてしだいに小さな破片にしていき、
  土をかきまぜることによって土をほぐし、ばらばらにすること

 ・土壌を形成しかきまぜることで、
  ミミズは土壌の表層、いわゆる肥沃土を形成する

という、
2つの主張をしているのです。

現代でもミミズというと、
日本人のほとんどは無関心か気味悪く思うはずですから、
ましてや130年前の人々からすると、
おそらく誰も関心を寄せる人なんていなかった中で、
ミミズが、実は地球上の土壌の形成という
重大かつ壮大な仕事をせっせとしていることを証明しようとした
ダーウィンの功績は実に偉大なものです。

ミミズは英語で"earthworm"と表記され、
直訳では「地球の虫」ですが、
ダーウィンの
「ミミズがそれまで地球の土壌形成に果たしてきた役割の重要性」
からすると、
ミミズの英語名は大げさな表現ではないといえるでしょう。

ミミズの団粒土111116.JPG
 中央と上の方にもミミズの小さい団粒土があります。
 こういう団粒土には栄養分がいっぱいなので
 コーヒーの根元付近にもパラパラとかけてあげています。



また、
日本の小野小町、中国の楊貴妃と並び、
世界の三大美女の1人に上げられる
クレオパトラ7世(紀元前30年、39歳で没)は、
「ナイル川の豊穣な大地はミミズがもたらす」
として
「ミミズの国外持ち出し禁止」
を打ち出していたようです。

古代エジプトでは、
「農業生産はミミズ無しでは成り立たない」
ことが理解できていたことで、
ミミズは
「豊穣の神」
と崇められていたのです。

直木賞作家・赤羽 尭(たかし)さんの1990年の作品、
「復讐そして栄光(光文社)」
という小説では、
イスラムではサラーフッディーン(サラディン)をも超えるほどの
イスラムの英雄なのに、なぜか日本ではあまり知られてない、
奴隷からスルターン(権力者、皇帝)にまで上り詰めた
バイバルスが描かれています。

バイバルスは騎馬軍術に優れて、メキメキ頭角を現し、
1249年のフランスのルイ9世による第7回十字軍遠征では
軍団長代理のバイバルスが奮戦して遠征軍を撃破し
シリアを占領してルイ9世を捕虜にしてしまいます。

また、1277年には、当時「世界に敵なし」と謳われた
イル・ハン(チンギス・ハーンの孫、クビライの同母兄弟)の連勝を止め、
あのフラグと互角以上の戦いを繰り広げ、
難敵の撃退に成功して領土を守っています。
(日本では1274年の文永の役と1281年の弘安の役の2度にわたる元寇がありました)

「復讐そして栄光(光文社)」
では、
エジプトをモンゴル軍の侵攻から守った英雄バイバルスと
エジプトの大法官との間の会話が以下のように展開されています。

「ところで、ナイル河畔に住む人々が、
健康で見事な体格をしているのは、どんな理由によるものかは、
いまさら説明するまでもないだろうな」
「それはナイルとミミズによるものだよ」
「ナイルの氾濫は、多量の土壌を河畔に運んで堆積してくれる。
その土壌に無数のミミズが棲み、繁殖して土壌を豊沃にしてくれる。
彼らが健康なのは、その土壌で栽培された栄養に富む
食物を食べているからなのだ」


これは小説に書いてあることで、
史実か創作かはわかりませんが、
それより1300年も前のクレオパトラ7世の
古代エジプトでも「豊穣の神」と崇められていたのですから、
バイバルスの13世紀でも同様に
ミミズが崇められていたことは想像に難くないでしょう。

ミミズの団粒土111116-2.JPG
 コーヒー山やバナナ園、自宅庭には
 こういったミミズの団粒土があちこちにあり、
 土を少し掘り返しただけで、
 ありがたいことに何匹もミミズが出てきます。



中国で孟子が孔子の儒学を、
荘子が老子の無為自然の思想を広めている
2300年前頃の戦国時代、
古代ギリシアでは、
プラトンの弟子アリストテレスが活躍していて、
『動物誌』第6巻第1章では、
ミミズを
「大地のはらわた」
と呼んでいたそうです。


古代エジプトや古代ギリシアで
「ミミズが土壌を肥沃化させる」
ことが解かっていたのですから、
四大文明といわれる
 ・エジプト文明
 ・メソポタミア文明
 ・中国文明(黄河・長江)
 ・インダス文明

でも、
ミミズの実効性が
経験×知識=知恵
のようなことが積み重なって
伝承されていったのではないかと想像してしまいます。


こうしてみると、
目がなく、体そのものが腸のミミズは
外見は決して美しくはないのですが、
地球には無くてはならないものの1つなので、
仲良くお友達になりたいくらいですから、
私のような自然栽培派からすると、
土壌殺菌剤や農薬、殺虫剤、化学肥料などを使って
植物質を分解するミミズや微生物などを殺してしまうのは
考えられないことなのです。

ルネッサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチが、
「我々は足元にある土壌よりも、天体の動きについての方が分かっている」
と言ったように、
ミミズの生態は500年経った現代でも解明されていないのですが、
今日解かっているミミズの主なはたらきとしては、
まず、土壌中にトンネルを掘って土を動かしたり、
土壌の通気性、透水性を上げる効果でしょう。

ミミズは土壌表層からいろいろな有機物を地中に持ち込み、
地中深くの土壌を地表へ持ち出すという、
一輪車やベルトコンベアー的なガテン系の仕事や
土壌粒子や有機物を食べるという
破砕機やストレーナー的な要素もありますし、
排泄時には植物の有益な栄養源に変えるのですから、
「テクマクマヤコン テクマクマヤコン…」
「マハリクマハリタヤンバラヤン〜」
という魔法の呪文がかけられるような、
まさに
Earthworm
 ・地球の虫
 ・大地の腸

そのもので、偉大な虫なのです。

ミミズは枯死植物や根、動物の糞など有機物を食べて
それを体内で動物性タンパクに変えています。
そのミミズをイノシシやヤンバルクイナなどの野鳥、
ニワトリが動物性タンパク源として食べ、
その(放牧の)ニワトリを人間が食べているので、
大きな食物連鎖の中で、
ミミズはわれわれ人間とも関係しているのです。

バナナ園をヤンバルクイナが荒らすのは
ミミズが増えてきた証拠なんですね。

ミミズが出した糞は植物の貴重な栄養源にもなっています。
ミミズは炭酸カルシウムを含む分泌液を出すらしく、
ミミズの糞はふつう生息している土壌よりも中性に近いといわれています。
また、置換性カルシウム、マグネシウム、カリウム
および可給態リン酸などの無機物や微生物が多く含まれ、
その栄養たっぷりの糞を土の中や地上に排泄しているのです。
そうするとその土は、
次の植物育成に再利用可能な状態になるというわけです。

公園や庭では、美観のために落ち葉を掃いていますが、
本当は放置しておいたよいのです。
森林では樹木が吸収する無機養分の6割程度が
落枝・落葉から供給されているといわれています。

落ち葉を掃けば掃くほど、土はやせますし、
落ち葉で覆われない表土は乾燥したり
浸食を受けやすくなり、
土が踏み固められてしまうと、
充分な雨水や酸素が地中に入り込めず、
根は水や酸素が取り込むことが出来にくくなってしまい、
ミミズを始めとした土壌動物も住みにくい環境になって、
活力の乏しい土壌になってしまうのです。



 ミミズのエサを掃いたり焼いてしまうと、当然ミミズは減少します。
 ミミズのいない土は、栄養がなく水分を吸収することもできにくいので、
 雨が降ると雨水はそのまま表面を流れて行ってしまいます。
 そうなると植物も育たちにくいし、
 ミミズをエサとする動物や野鳥も棲まなくなってしまいますから
 落ち葉清掃はしないか、してもほどほどがよさそうです。
 灰を撒くために落枝・落葉を焼く、というのは
 mini焼け畑のようなものですから、
 良いかもしれませんね。



地球にやさしいエコロジーの一環で
ミミズコンポストという、ミミズによる家庭生ゴミの有機処理も
一部で使われていますが、
ほとんどが、
「“シマミミズ”が生ゴミを一番効率的にコンポストしてくれる」
と言っています。
ミミズは4億年も前から地球に存在していて、
現在判明しているだけでも体長0.44mmから3.6mのものまで
約3,000種類がいるといわれていて、
その土地に合うミミズがいるのです。

例えば、酪農で知られるNew Zealandでは
1850年からイギリス人の移民が始まり
その時に持ち込まれた羊の放牧用の草地に棲む
土着のミミズの働きが悪かったことで、
イギリスから多種のミミズを持ち込み、
ミミズを住まわせる環境や土壌についての実験観察を行い
その土地にふさわしいミミズを選択したことで、
草の生産量が著しく増加し、
酪農王国化していった、
といわれていますから
ヤンバルにもヤンバルに合うミミズはいるはずで、
私は土着するミミズで充分だと考えています。

地域ごとに、土着ミミズの種が存在する意義、
あるいは進化の過程というのがあるはずです。
ヤンバルでは特に大型系や
細長い(といっても10cm程度はあります)ミミズが多いのですが、
土壌環境や気候風土に密接なつながりがあるはずです。

ヤンバルオオフトミミズ111115.JPG
黒ポリポットの植え替え作業中に
 土から出てきたヤンバルオオフトミミズです。
 ヘビのように見えますが、巨大なミミズなのです。
 やんばるの固有種らしいです。



自然農法の創始者といわれる故・福岡正信先生の粘土団子は
すべての生き物を敵とせず、植物本来の力で栽培する農法、
すなわち、“混植”や“不耕起”を説いたものです。
あるいは、絶対不可能を覆して、
リンゴの自然栽培を成功させた木村秋則さん、
共通するキーワードは「ミミズ」でしょう。
自然の循環が森と生きものを共生させ、
豊かな森を育んでいるのです。

要するに、
「いかに自然体でミミズを増やせるか」
ということが、
土壌を肥沃化する上で重要なことだと
私は考えています。



 やなせたかし作詞、いずみたく作曲の
 『手のひらに太陽を』
 には、
 「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、
 みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ」
 という歌詞がありますが、その通りですね。
 そういえば天地総子さんは最近テレビやラジオで
 見かけなくなったような気がしますが。



ツールド沖縄111113.JPG
 先週の13日(日曜)は
 「ツール・ド・おきなわ」という自転車競技レースがありました。
 そのため国頭村内の国道58号線や県道2号線、
 70号線は正午まで交通規制になりました。
 私が見た時は、すでにセミプロ級の選手たちが通過した後でした。
 沿道の大会関係者の話では、
 「1人が独走し、9分くらい離れて2位が1人、
 それからまた離れて集団が通過した。
 その後も10分以上離れている。
 今まではこんなことはなかった。」
 と言われていました。
 「ツール・ド・おきなわ」は
 UCI(国際自転車競技連合)のアジアツアークラス2にランクされる、
 国内最長の国際ロードレースで、
 海外招待選手や国際ライセンス所持の国内の強豪選手が出場する
 “チャンピオン”といわれるレースと、
 一般の方々が出場するレースと2つあるようで、
 ゼッケンの色がチャンピオンは青地、一般は黄色地でしたね。
 距離は210kmですが、起伏に富んだ山岳レースで、
 昨年は福島晋一さんという方が
 5時間30分43秒で優勝しています。
 これは平均時速38kmで、一見遅いように思えますが、
 故・足立弘志さんは生前、
 「時速100kmくらいで家の前の坂を下りていく」
 と言われていましたから、
 県道2号線の山越えが厳しいみたいですね。
 普通のスポーツ車で参加された一般の方は
 脱輪やチェーン切れなどもあるようです。
 箱根や日光のいろは坂のような急坂とは比較しにくいですが、
 東シナ海沿いの国道58号線は海抜1〜2mなのに、
 全長16kmの2号線のピークは300mくらいあり、
 カーブや起伏が多く、
 軽自動車のギアでもトップのままでは2号線を走りとおせないので、
 沖縄本島としては最も厳しい山岳道路ですから、
 ここを自転車で走るのは大変過酷なはずです。
 大会関係者の話では、
 「取材用のヘリコプターやマスコミの取材車も初期の頃はあったのに、
 最近は参加者も減少傾向で年々盛り下がっている」
 仲間のエース級の体力を温存させるためか、
 「前を走る仲間の自転車の後ろにつかまって
 ズルする選手もいる」
 と言っていましたね。
 もちろん日本人ではなく、韓国人でもないのですが。

posted by COFFEE CHERRY at 17:34| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーの品質を高めるための考え方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月08日

「立冬」の今日は恵みの雨で「晴耕雨読」

二十四節気の「立冬」の今日は時々小雨が降り、
11:59には震度4の地震がありました。

『「三国志」魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝』
の“倭人(わじん)”の項は
「魏志倭人伝」
とよばれていますが、
この中に卑弥呼が登場しています。

三国志111108.JPG
 名護市図書館にも三国志や史記の本は多数あります。

邪馬台国の女王卑弥呼は,
魏の王に貢ぎ物を持たせて使者を送り,
魏帝から
「親魏倭王(しんぎわおう)」
と刻まれたた金印紫綬(しじゅ)や銅鏡などの宝物を与えられ,
倭国の王と認められたのですが、
卑弥呼が魏に使者を送った239年は、
魏の2代皇帝曹叡(そうえい=明帝)が1月に亡くなり、
次の3代皇帝曹芳(そうほう=斉王)はこのとき6歳ですから、
卑弥呼の使者が誰に謁見(えっけん)したのか、
あるいは239年自体が違うのかなどはともかくとして、
(三国志では238年、中国正史の一つ梁書(りょうじょ)倭国伝では239年)
卑弥呼が朝鮮半島中西部の帯方郡を通じて
魏に使者を送ったことは史実のようですから、
卑弥呼は実在の人物のようです。

子どもハブ111108.JPG
 先日、我が家の台所前の地面から水が噴き出し、
 「水道管破損の水漏れ」
 という事態に大騒ぎになりました。
 穴掘り作業は長さ2m、深さ50cmにも及び
 ようやく水道管が見えてきたと思ったら、
 今度は台所前のノグチゲラなどが来る桑の木を
 切り倒さないとパイプ修繕ができない、
 ということになり、
 桑の枝を切っていた時に、
 幹の上に隠れていた子どもハブを発見したのです。
 ハブの近くの枝も左手で押さえてノコギリで切っていたのですが、
 よく咬みつかれなかったものです。
 子どもハブは体長約60cmですが、
 成体のハブより子どもの方が毒性は強いといわれています。
 最近は、ヒメハブはよほどのことがない限り
 咬まれないことがわかってきたので、
 ヒメハブはスコップに載せるか網に入れて
 生きたまま遠くに投げ飛ばすのですが、
 ハブは可哀そうですが剪定バサミで首や胴を切ったうえで
 放り投げないといけないのです。
 画像の子供ハブも、可哀そうでしたが
 このあと冤罪でギロチン刑になってしまいました。



「古事記」、「日本書紀」の中から
卑弥呼が誰なのかを探す研究もされているようで、
有力な候補者としては、
 ・神功皇后(第14代仲哀天皇の妃、第15代応神天皇の母)
 ・倭姫(第11代垂仁天皇の皇女、日本武尊の叔母)
 ・天照大御神(初代神武天皇の5代前)

などが挙げられているようです。

たとえば、魏志倭人伝の記述から、
 ・宗教的権威をそなえていて、鬼道につかえ、よく衆を惑わす
 ・倭の女王であり、 夫をもたない

等々の諸条件を満たし、
しかも時系列的に239年頃に生きていたと思われる候補は
卑弥呼=天照大御神
に絞られるようです。

卑弥呼と天照大御神の類似点としては、
・卑弥呼には弟がいたが、
 天照大御神にも、須佐之男の命、月読(つくよみ)の命という弟がいる
・天照大御神と弟・須佐之男の命の争いは、卑弥呼と
 狗奴国(くなこく)の男王・卑弥弓呼との戦争に似ている
・卑弥呼の没後大きな塚がつくられ、
 男王がたったが国中が服さず戦いがおこなわれ、
 13歳の宗女台与(とよ)を王となして国が定まったとする話は、
 天照大御神が、天の岩戸に隠れ再び現れたという話と似ている
・魏志倭人伝には、「人が死ぬと、他人は歌舞飲酒につく」と書かれていて、
 これは、天の岩戸の前で、天の宇受売の命(あまのうずめのみこと)が歌舞をし、
 諸神が「歓喜び、笑い遊んだ」のと符合する
・『古事記』には、「天照大御神、高木神の命をもちて」などの記述があるが、
 高木神は天照大御神と共に命令を下したりしていて、
 魏志倭人伝の、女王のことばを伝えるために出入りしている一人の男と、
 高木神とが符合する

など、
類似点が多くあり、
「卑弥呼=天照大御神」
とすると、
「邪馬台国=高天の原」
ということなのでしょうか?
といっても、高天原それ自体があいまいなので
やはり邪馬台国の場所は特定できないのですが…。

コーヒー山111108.JPG
 昨日のコーヒー山の雄姿
 照葉樹林に覆われた枝葉の下で
 コーヒー栽培を行なっています。


卑弥呼が生まれたのは170年頃と推定されていますが、
卑弥呼が生きた時代は
中国では三国志前半の
特に名場面の多い、華やかな頃で、
 ・184年(卑弥呼14歳) 黄巾の乱が起こる
 ・189年(19歳) 少帝5ヶ月で廃位。董卓、劉協(献帝)を擁立
 ・192年(22歳) 王允・呂布、董卓を殺害
 ・200年(30歳) 官渡の戦い
 ・207年(37歳) 三顧の礼
 ・208年(38歳) 赤壁の戦い
 ・209年(39歳) 劉備、孫権の妹と結婚
 ・216年(46歳) 曹操、魏王に
 ・219年(49歳) 関羽敗死
 ・220年(50歳) 曹操病死
 ・221年(51歳) 張飛暗殺
 ・223年(53歳) 劉備病死
 ・234年(54歳) 諸葛孔明、急死


239年(あるいは238年)に、
卑弥呼が魏に使者を送った当時は
劉備玄徳や関羽、張飛、曹操、諸葛孔明など
三国志を飾るスターたちは
みんな死んでしまった“直後”といってもいいでしょう。
(卑弥呼が亡くなったのは248年頃、68歳ころとされています)

「悪徳の政官によって国が疲弊する」
というと、
「論語」学而篇第3章に出てくる
「子曰、巧言令色鮮矣仁」
すなわち
「巧言令色鮮なし仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」
という、
今から2500年も前に
「口先が巧みで、角のない表情をするものに、誠実な人間はほとんどない」
といった孔子の言葉がまさにピッタリの
腰の低いヒットラーのような人が、
TPP参加や増税といった国の存亡に関わるような重要な問題を
国民の信を得ずに勝手に推し進めようとする
今の日本もそうですが、
漢の末期、悪徳な役人によって腐敗した漢王朝に、
「仙人から妖術の書を授かり、腐敗した漢王朝を打倒する!」
と、
張角(ちょうかく)が黄巾の乱を起こしたのです。
(この張角や兄弟にも不浄な問題はありましたが…)
漢王朝はこの乱を鎮めますが、
討伐で活躍した豪族たちが権力を握り、
漢王朝の権威はますます弱体化していきます。
その混乱の中から、次々に英雄たちが現れ、
その中でも能力と時の運を兼ね備えた三人の人物が、
それぞれ魏、呉、蜀を建国していきます。
この時代を三国時代というのですが、
多くのヒーローの中でも特に私が好きなのが諸葛亮孔明なのです。

ハイビスカス111108.JPG
 自宅のピンクのハイビスカスです。
 こういう品種改良したハイビスカスは
 色は綺麗ですが、防風林としてはまるで役立ちません。
 ガラス戸のさえぎり兼遮光兼観賞用といった
 住宅回りや庭に植えるくらいで私は植えています。


諸葛孔明の父親が役人で比較的恵まれた家庭だったようです。
母親は早く亡くなり、父は後妻をもらいますが、
父も孔明が10歳頃に亡くなっています。

孔明は次男で、兄・瑾(きん)は秀才で漢の都・洛陽の大学で学び、
弟・均(きん)は孔明、義母と生活していました。
そんな時、兄が洛陽から帰ってくるのです。
兄は
「黄巾賊の乱が洛陽にまで及んできた」
といい、
家族は叔父・諸葛玄(げん) を頼って
江東(こうとう)まで非難していきます。

半年後に叔父は劉表(りゅうひょう)の招きで
荊州(けいしゅう)へ赴きます。
この荊州は三国時代の特に重要な地で、
やがてこの地を巡り多くの戦が起こり、多くの死傷者が出るのです。
当時、呉は英雄といわれる孫策のもとで大きく発展しそうだったので
兄は江東から呉に向かい仕官します。

荊州生活1年後、叔父・玄に代わり
予章(よしょう)を治めていた周術(しゅうじゅつ)が亡くなったため、
叔父・玄は再度予章の郡太守(郡の長官)に命じられます。
ところが任地に着くと、漢朝から予章の郡太守に任命された
失晧(しゅこう)が着任していて争になり、
叔父・玄は戦に敗れて行方不明になってしまいます。
そのため、叔父・玄と孔明たちは
荊州の劉表(りゅうひょう)の下に身を寄せることになります。

以降孔明は荊州で過ごし、
17歳の頃に大学者・石韜(せきとう)の門をたたきました。
ここには石韜の名を慕って全国各地から
すぐれた門人が集まってきていました。
後に劉備玄徳に諸葛孔明を紹介した徐庶(じょしょ)も
その門人の1人でした。
ここで孔明はめきめきと頭角を現します。
その才は群を抜き20歳になった頃には、
もはや学ぶことがなくなっていたといわれます。

孔明は弟・均とともに、隆中(りゅうちゅう)の山中の
草廬(そうろ、草ぶきの粗末な家)にこもり、
農作業に従事しながら臥龍(がりゅう)先生と称して、
晴耕雨読の生活を始めるのです。

それ以降、孔明を訪ねる友人は激減し、
孔明を訪ねてくるのは、孔明の才を見抜いた人たちだけでした。
この頃、孔明は河南の名士の娘と結婚しますが、
相手の外見は肌黒で髪は黄色っぽく、しかも醜いという、
今でいうブサイクの部類といわれていますが、
その内面は天文地理兵法に秀でた才女といわれていますから、
孔明らしいですね。

劉備玄徳は、すでに関羽、張飛、趙雲といった
天下の英雄、豪傑を部下としていましたが、
知能に優れた人材を熱望して諸国を転々とし、
荊州新野に駐屯していた頃に、
劉備は徐庶と会見し彼を有能な人物だと見抜き軍師にします。

207年、徐庶の母が曹操に招かれたため、
徐庶母に会うため劉備のもとから曹操のところへ向かうことになり、
見送りにきた劉備に徐庶は孔明を訪ねるようにいいます。

そして劉備は 隆中にいる孔明を訪ねます。
しかし孔明は不在でした。

劉備はあきらめずに、今度は吹雪が吹き荒れる日、
孔明在宅との知らせをうけて、劉備は再度孔明を訪ねます。
しかし、草廬に居たのは弟の均でした。
劉備はまたしても孔明に合うことが叶わず、
どうして自分は孔明と縁が薄いのかと嘆きながら、
自分の孔明に対する思いを手紙に書いて弟・均に預けていきます。

それからしばらくして劉備はまた孔明を訪ねます。
孔明は草廬に居たものの昼寝中でした。
劉備は孔明を起こそうとせずに待ちます。
孔明がようやく起きて、劉備は孔明と対面できます。
劉備は、孔子の例などを出して、
「天下万民のために立ち上がってほしい」
と頼みます。
ここで孔明は有名な「天下三分の計」を劉備に話すのです。
すなわち、
 ・大きくなりすぎた魏の曹操を討つのは不可能
 ・三代にわたって発展してきた呉を奪うこともまた不可能

 ・ならば、そのどちらにも属していない荊州と益州(後の蜀)に勢力を興し
  国を三つにわけ、その後、曹操の野心を砕く

というのが孔明の「天下三分の計」でした。

これを聞いた劉備は
「これからも私にいろいろ教えください」
と願います。
孔明は初めは断りますが、
劉備の国を思う真摯な姿に心を打たれ、
ついに劉備に協力することを決め出廬(しゅつろ)します。
これが有名な三顧の礼で、劉備46歳、孔明は27歳でした。

しかしこの話は三国志演義での話です。
それでも、この逸話の中で学べるところは多く、
例えば、
劉備は自分で人材を見抜き、探したりする能力がなくても、
人材を見抜ける人を信ずる人徳があり、
それが、多くの人材を集め、
やがて大国の雄になることができたということです。

また、人物の迫力さでは、
どうみても劉備より曹操の方が上手で
先見性や洞察力に優れた孔明はとうに
曹操か劉備のどちらが天下を取るか予測できたはずだし、
曹操も孔明に自分の部下となるよう使者を出していたのに
孔明が曹操を選択しなかった、というのは
劉備の人間としての魅力や人徳によるものでしょう。

しのぶコーヒー111108.JPG
 品種名が不明のため、仮称「しのぶコーヒー」。
 しのぶというのは名護市の果樹栽培者の名前です。
 このコーヒーは昨秋買い、コーヒー山の南側尾根に植えたのですが、
 3度の台風の厳しい暴風にも不思議に耐え抜いています。


今日のテーマ「晴耕雨読」とは、
単に
「晴れれば畑を耕し、雨降れば読書で時を過ごす」
「世の流れに左右されず、自分の思うままに生きる悠々自適生活」
という意味だけにとらわれず、
中庸の境地(平常心)ととらえたり、
あるいは、老子や荘子の無為自然の
「あるがままに生きる」
と考えると、
「晴耕雨読」
という言葉の重さ、深さを感じます。

徒然草 第三十八段「物欲、名誉欲について」の冒頭、
「名誉欲、金銭欲にこきつかわれてあくせくし、
 閑寂を楽しむいとまもなく、一生を苦しんで送るのは、
 まことに愚かなことだ。」

途中を省略して、この段の最後、
「また、いかなるものを「善」というべきか。
 これについても、絶対的な判断は存在しない。
 それらを超越した真の人間とは、
 智もなく、徳もなく、功もなく、名もない人であろう。
 だから、それらの真実の存在は、人にも知られない。
 誰がそれを知り、誰が伝えることができようか。
 これは、わざと徳を隠したり、愚をよそおっているのではない。
 もともと、賢愚・得失といった境地を超越した存在なのだ。
 人間が迷いの心をもって、名誉や利益を求めるというのは、
 かくのごとくつまらないことである。
 言うに足りない、願うに足りないものにすぎない。」

鎌倉時代末期から南北朝へかけての
社会不安、政情不安、金銭のあくなき追求を知り尽くし、
見尽くしてきた吉田兼好の、物質欲、名誉欲の否定は、
老子、荘子の思想に強く影響されています。

老子の読み方111108.JPG
 名護市図書館で借りた本です。
 孔孟思想や老荘思想の本も多数あり
 何度も読んでいるうちに、
 最初はチンプンカンプンだったのが、
 少しだけ解かるような気がしてきました。



『孔孟の教え(儒教)』

『老荘の教え(道教)』
の最大の違いは、
「人間の努力や営為(日々の営み)」
を肯定的に捉えるのか否定的に捉えるのか、
というところにありそうです。
老荘思想は
「人間の欲望・知識・意志」
を否定的に認識して
無為自然(何も行動しないことの道徳性)を説いていますから、
若い頃は孔孟思想を学び、実践して
晩年にさしかかって、出世を求めず
人生の集大成をまとめる頃になったら老荘思想、
というのが良さそうです。
これが逆だと、
若者がへんな悟りを開いて仙人のようになってしまいますからね。

posted by COFFEE CHERRY at 19:26| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーから学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月02日

バッハの「コーヒー・カンタータ」を聞く@

今はどうだかわかりませんが
私が小中学校時代の音楽室の肖像画というと、
 ・バッハ
 ・ハイドン
 ・モーツァルト
 ・ベートーヴェン
 ・シューベルト
 ・ショパン

と並んできたように記憶しています。


米国のヴァイオリニストHilary Hahnによる
 パルティータ第3番より「ガヴォット」BWV1006


バロック時代のバッハからモーツァルトまでがかつらだったとは
私がまだ純真だった当時はそんなことは知らずに、
カール状の不思議なヘアースタイルに
違和感をもって見上げていたものです。

バロック音楽というのは
「宮廷音楽」
「教会音楽」
らしいですが、
フランス革命以前の時代の音楽家は、
貴族に召抱えられた使用人の一人として冷遇され
当時はかつらは貴族の正装であり、
貴族たちの前で演奏する音楽家も
かつらを被らなければならなかったようです。
身だしなみであり、マナーだったということですね。

召使扱いですから音楽活動においても当然自由はなく、
宮廷の慰み、あるいは宗教儀式のための添え物、
つまり刺身のつま程度の扱いで、
貴族の要望に合わせて音楽を作り演奏するものだったのです。


2つのヴァイオリンのための協奏曲 第1楽章 BWN1043

バッハが音楽室の最初に登場しているのは、
そういう不自由な音楽を、
宮廷だけでなく世間の人々を喜ばすような
独創的な作曲に専念したことにありそうです。

また、明治以後、
日本における文化はドイツが中心で、
たとえば医学では
 ・コッホの細菌学
 ・フロイトの精神医学
 ・ゼンメルヴァイスの衛生学
 ・フィルヒョーの細胞病理学

等々のドイツ医学の進歩に伴い、
それを日本に伝えたドイツ人医学博士ベルツ、
そういえばカルテやヘルツ(心臓)、マーゲン(胃)もドイツ語ですし、
法学では大日本帝国憲法はプロイセン憲法がモデルとか
コピーといわれています。
大学の第ニ外国語の履修科目に
国連公用語でもないドイツ語があることも、
明治時代の教育の名残だという考え方もあるでしょう。


マタイ受難曲BWV244
Wikipediaによると
「マタイ受難曲(Matthäus-Passion)とは、
新約聖書「マタイによる福音書」の
26、27章のキリストの受難を題材にした受難曲である。」
と書かれています。
受難曲(PASSION)とは,ユダの裏切りからイエス・キリストの逮捕,
裁判,十字架上の死という一連の出来事を物語風に歌った劇音楽なので、
明るくて楽しい楽曲であるはずはなく、とても重苦しく深い楽曲ですが、
バッハの最も偉大な教会音楽と評された
バッハの代表作のひとつでもあります。
キリスト教や聖書が理解できていないこともあって、
その偉大さや深さは私にはどうもよく判りません。



音楽も例外ではなく、
音楽用語は
 ・Adagio(アダージョ、ゆるやかに)
 ・Andante(アンダンテ、歩くような速さで)
 ・da capo(ダ・カーポ、最初から)
 ・forte(フォルテ、強く)

など、
ほとんどがイタリア語なのに、
主たる教育輸入先がドイツであれば、
学校で習う音楽も自動的にドイツ音楽になる、
だから
「バッハが肖像画の最初」
というのは、
少しこじつけ的な発想でしょうか。
(自信はまったくありませんもうやだ〜(悲しい顔)

ちなみに、ライプツィヒの聖ト−マス教会でのリハーサル中に、
バッハはミスしたオルガン奏者に対し
「きみは靴屋になるべきだった!むかっ(怒り)
と激怒して、
かつらを投げ飛ばしたのだそうです。
かつらを取ったバッハの姿も見てみたいものですね。


 J.S.バッハ/メヌエット ト長調 BWN114 

NASAが1977年に打ち上げた2機の
ボイジャー(1号、2号)無人探査機には
「Voyager Golden Record」
という、電子的なメッセージ、
つまり一種のタイムカプセルが積載されています。

この中には、地球の生命や文化の存在を伝える音や画像が納められていて、
地球外知的生命体や未来の人類が見つけて
解読してくれることを期待しているものなのです。
具体的には
 ・波
 ・風
 ・雷
 ・鳥
 ・鯨

など自然や動物の鳴き声などの多くの自然音や、
さらに様々な文化や時代の音楽や
55種類の言語の挨拶(あいさつ)が含まれています。

地球の音として選ばれたものは、
東洋や西洋のクラシックを含む様々な伝統文化の音楽が選ばれています。

バッハは
「ブランデンブルク協奏曲」


 ブランデンブルグ協奏曲第2番ヘ長調BWV1047 第1楽章

および
「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」
が選出されています。

バッハ以外では
ベートーヴェンの「交響曲第五番」、「弦楽四重奏曲第13番」
モーツァルトの「魔笛」
イーゴリ・ストラヴィンスキーの「春の祭典」
や、
ルイ・アームストロングの「Melancholy Blues」
チャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」
も入っていて、
日本の曲では尺八の古典本曲
「鶴の巣籠り(別名:巣鶴鈴慕)」
という、
私も日本人でありながら聞いたことがない曲まで選出されています。


今、モーツァルトの本を読んでいて
彼がたいへんなコーヒー好きだったことを知りましたが、
モーツァルトより70年前のバッハが
コーヒーハウスで演奏会を開いていた、
という記述から、
バッハの本も読むようになりました。


トッカータとフーガ ニ短調 BWV565
サスペンスドラマの中で
「やむにやまれず殺人を犯してしまった」とか
「ついに禁じ手を使ってしまった」とかの場面で
よく使われる楽曲ですね。



バッハとコーヒーの関係を顕著に示す
「バッハとコーヒー・カンタータ」
というと、
特にカフェ関係のWebで書かれていますが、
どうも簡略に書かれているために、
どういう曲なのかイメージも湧かないので
自分で聞いてみることにしたのです。


ローマ帝国というと、
ジュリアス・シーザー(カエサル)が活躍した
紀元前からの古代ローマをイメージしがちですが、
中世の神聖ローマ帝国は、
現在のドイツ、オーストリア、チェコ、
イタリア北部を中心に存在していた、
帝国というよりは実質的に大小の国家連合体で首都はなく、
この中から、十字軍から帰還したドイツ騎士団領プロイセン公国が
プロイセン王国に台頭したり、
ハプスブルク家が支配するオーストリア帝国が成長していきました。


「G線上のアリア」は管弦楽組曲第3番」のうち
「アリア」楽章に付けられた愛称で、
正しくは「管弦楽組曲第3番BWV1068」のようです。


“ローマ”という名前は紛らわしいですが、
ローマは支配地域に入っていません。
962年に東フランク王国のオットー1世が
ローマ教皇から「ローマ皇帝」の冠をもらっただけですから
神聖ローマ帝国といっても
“ローマ”は貸し看板のようなものなのです。

神聖ローマ帝国で、
フランス、スウェーデン、スペイン、オーストリア、
イタリア、デンマーク、ドイツ諸州という西欧諸国のほとんどを巻き込み、
カトリックVSプロテスタント
というより、
ハプスブルク家VS反ハプスブルク家
という構図で
特にドイツを荒廃させた30年戦争の終結37年後(1685年)に
バッハは神聖ローマ帝国のThüringen(テューリンゲン州、現ドイツ中部)で
音楽家の末っ子として生まれています。

バッハが生まれた1685年は、
フランス国王ルイ14世が国内の宗教をカトリックに統一するために
ナントの勅令を廃止「フォンテーヌブローの勅令」を発布したことで、
旧教徒は信仰の自由を再び奪われ、
産業の中堅役として経済を支えていた
多くのプロテスタント信者が国外へ逃亡し、
フランスにすさまじい騒乱と緊張をもたらし、
不満が高まって、ついにはフランス革命へとつながることになるのです。

また、バッハ誕生の1685年(貞永3年)の日本では
松尾芭蕉が東海道〜中山道〜甲州街道から
江戸深川の芭蕉庵に帰宅した年が1685年で、
紀行文「野ざらし紀行」を執筆し始めながら
自宅で
「古池や かはづ飛び込む 水の音」
を詠んでいます。
また、この2年後の1687年には
江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が生類憐みの令を発令し、
この翌年から江戸バブル期の元禄時代に入ります。
そういう年にバッハは誕生しました。

バッハは少年時代に両親を亡くし、
10歳の時から14歳年上の教会オルガン奏者の兄に引き取られ、
30年戦争後にドイツに義務教育制度が始まったことで、
ラテン語学校に5年間通い、
落ち着かない兄宅から15歳の時に
200km以上離れたドイツ北部のリューネブルクの
聖ミカエル教会の朝課聖歌隊に
ボーイ・ソプラノとして就職しながら学校を卒業し、
それ以降は
・ヴァイマル公ヨハン・エルンストの
宮廷楽団のバイオリニスト(15〜17歳の2年)
・アルンシュタットの新教会のオルガニスト(18〜22歳の4年)
・ミュールハウゼン、聖ブラジウス教会の
オルガニスト(22〜23歳の2年)
・ヴァイマルのヴィルヘルム・エルンスト公付宮廷楽団の
音楽家兼宮廷オルガニスト(23〜32歳の9年)
・アンハルト・ケーテン公の宮廷楽長(32〜38歳の6年)

と常習的に貪欲に、条件の良い仕事に切り替えて
1723年、バッハが38歳の時に、
当時ハンブルグに次いで輝かしい近代的生活が営まれていた
人口3万人の大都市ライプツィヒで、
ライプツィヒ聖トーマス教会の
「カントル(kantor)」
という訳職に就任します。
カントルは「音楽監督」と説明されている本やWebが多いのですが、
単に音楽監督というだけでは、どれだけすごいのか?
土木工事の現場監督との違いが、どうも明確ではないので
もう少し詳しく調べてみると、
「中世的な幅広い教養を身につけ、音楽、法律、神学、修辞学、
詩、数学、外国語に通じている」

優れた知識や人格が求められ、
「ライプツィヒの最も重要な教会(トーマス教会、ニコライ教会)において、
あるいは他の公式の機会に教会礼拝に必要な楽曲の創作・上演をはじめ
ライプツィヒ市の音楽活動への参画をする

という、
当時のドイツ音楽界屈指の
Commissioner的な名誉ある要職が「カントル」で、
バッハは25年以上にわたってこの要職に就き、
この期間に彼の最高の宗教曲の多くを書きました。


ヴィヴァルディはバッハより7歳年上のイタリア・ヴェツィア出身の
バッハと同世代のバロック時代の音楽家ですが、
バッハとは面識はなく、バッハはむしろヴィヴァルディの楽曲を
いち早く集めていたようです。
当時は著作権はなく、バッハは多くの音楽家の曲の譜面を集め
バッハが手直しして完成された楽曲も相当数あるようです。
“盗作”というより、それだけ貪欲な勉強家だったということでしょう。


バッハは生涯オペラは作曲していませんが、
ライプツィヒでの「カントル」採用条件に
「教会音楽は長すぎてはならず、
オペラ的性格を持たない性質のものであるよう配慮すべきである」

と規定した一項が含まれていたように、
バッハはハンブルグでオペラを知って以来オペラヲタク化して
暇があれば100kmも離れたドレスデンのオペラ劇場の公演に
出かけていたようで、
24曲の世俗カンタータのほとんどがオペラ的性格を示していて、
その中の1つが
「コーヒー・カンタータBWV211」
なのです。

これはバッハの友人ピカンダー
(作詞家兼郵便局員、物品税課職員)が歌詞を書き、
バッハが47歳の時に曲をつけたようです。

コーヒーは当時ヨーロッパで流行した高価な飲料で
(バッハが亡くなって71年後に生まれたモーツァルトの時代では
今でいう1杯約5000円と換算されていますから、もっと高価だったのかも)
コーヒーハウスも盛んに店開きし、
階級を問わずあらゆる人々で飲まれていたようです。
また、コーヒーハウスの流行は、
今ならテレビや新聞、ネットなどで情報がいくらでも入りますが
当時はコーヒーハウスが情報交換の場であり、
ここに来ることで真偽はともかく世相を知ることが出来たようで
そのために当時珍しいコーヒーとともに流行していったようです。

「コーヒー・カンタータKaffee-KantateBWV211」
は、
シュレンドリアンというライプツィヒ市民の頑固親父が
リースヒェンというコーヒーにはまった娘から
コーヒー熱を冷まさせようと、
「コーヒーを止めないと嫁のもらい手がないぞ」
と娘を脅し、
娘は
「それなら、好きなだけコーヒーを飲ませてくれる男としか
絶対に結婚をしない」

と言い返し、
娘はコーヒーを止めない、という結論で終わっています。

和訳歌詞全文は、こちらのブログがとても詳しいのでご覧ください。
「楽曲解説 カンタータ211番 BWV211」



 この楽曲が「コーヒー・カンタータBWV211」です。
 上記の和訳歌詞もそうですが、音楽自体もなんだか…。
「この音楽がライプツィヒのコーヒーハウスで上演され、
喝采を浴びていたんだな」
と感慨深く聞くことは出来ましたが
私にはどうも音楽のセンスがないので、
不謹慎ですが、あくびが出るのを抑えてしまいました。
それでもKaffeeというのだけは聞き取れましたからまぁいいかな。



バッハとヘンデルというとバロック後期の2大巨匠ですが、
二人の生涯は奇妙な符合があります。

二人はドイツの、お互いから約130kmしか離れていない土地で
誕生日もヘンデルが約1か月早いだけですし、
二人とも幼少時期から音楽の訓練を充分に受けて
ともにすぐれたオルガニストになり、
以降、後世に残る楽曲を作り出しました。


 ヘンデルの水上の音楽

二人は晩年に白内障や緑内障の手術が失敗して視力を失い、
それがもとで翌年亡くなるのですが、
その手術を執刀したのが同じペテン師系のやぶ医者でした。

このやぶ医者はイギリス人のジョン・テイラーといって、
ロンドンで診療所を開設して、以降欧州大陸を転々としていて
たまたまライプツィヒに来たところで
バッハが運悪く知り合ってしまったようです。

バッハ時代の白内障手術は
「水晶体転位術」
と呼ばれ、
麻酔無しで鋭く厚い針を眼に突き刺し、
その針で水晶体が見つかるまで探り、
それから針を眼球内部のガラスのようなゼラチン膜に押し込む、
というような手順のようで、
まさに残虐な拷問といった感じで行われたようで、
スペイン出身で角膜移植を確立したカストロビエホ(Castroviejo)教授が
1974年1月に発表した論文によると
「この手術は患者と外科医の双方にとって悪夢のようなものだったに違いない。
この地獄の苦しみは、外科医の助手たちが加わることで初めて達成できた。
患者を力ずくで押さえつけ、特にその頭部とまぶたを動かせないように
患者を固定するのが彼らの役目だった。
そして外科医は、患者が激痛が伴うことで、患者が暴れ出し、
手術が不首尾に終わらないうちに、出来るだけ迅速に
手術を済ます、という超人的ともいえる器用さを求められた。…」

と書かれていますから、
1750年4月1日、バッハがテーラーから受けた手術はこんな
おぞましい感じだったのでしょう。
しかもバッハは、このやぶに2回も手術を受けているのです。

テーラーは
「瞳孔の動き、光など、状況はすべて良好だった」
と自分の失敗をバッハのコンディションのせいにしていたようです。
最低なヤツですね。

テーラーの2度に及ぶ手術失敗のおかげで
バッハは組織全部が悪くなり失明しただけでなく
健康も損なわれて最初の手術失敗から
4か月目に亡くなってしまうのです。


 ヘンデルの「王宮の花火の音楽」

このテーラーは、ロンドンに戻っても多くの人々を失明させ、
1758年、74歳になったヘンデル(42歳の時にイギリスに帰化)の
緑内障手術を行い、これもまた見事に失敗し、
ヘンデルはこの後遺症で翌年亡くなっています。

テーラーには多くの称号があったといわれていますが、
肩書きなんかよりも、
星の王子さまの21章、
キツネが王子さまと別れるときに言った
「心で見ないと物事はよく見えないってことさ。
肝心なことは目には見えないんだよ」

ということの方がよほど大事なことだと
改めて思い知らされました。

posted by COFFEE CHERRY at 20:21| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | コーヒーから学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月30日

バナナ園の防風対策作業でヤンバルクイナのゆんたく場所を発見

我が家に隣接するバナナ園は、
昨年の8月末の台風や、
今年3度襲来した台風のために
収穫間近いバナナが次々と倒壊されてしまいました。

コーヒー山作業のかたわらに、
バナナ園の防風対策の必要性も高まり、
東側を50cm以上高くした土塀(土盛り)を作り、
その上に防風林を植えて、その根で土盛りも抑え、
しかも防風効果も高まる、という期待を込めて
ヨイトマケを行っています。

東側の土塀作り111030.JPG
 画像の右側が東になります。
 海までは直線距離で約1kmです。
 沖縄本島の台風では特に北東方面からの風を
 抑えないといけません。
 竹を支柱にして、その内側に廃材を並べ、
 その中に土を入れていくという
 重機で行えば半日もかからない作業を
 スコップと一輪車で私ひとりで行う完全手作りです。



さらにその手作り土塀の、
上記画像でいえば土塀左側には
ハイビスカス(アカバナー)での防風林を
7m置きに縦、横に植え付けして
防風強度を上げるようにしました。
これは恩納村の山城武徳先生の方式を
応用したものです。

ハイビスカスの防風林111030.JPG
 南風原(はえばる)町のテスト圃場時代では
 ハイビスカスの樹高を早く2m以上にしたかったので、
 剪定をほとんどせず放任にしたのですが、
 この方法だと柳のように枝が伸びるだけで
 防風に役立たないことを体験していますので、
 今回は、時間がかかったとしても
 剪定しながら樹高を高めていこうと考えています。


この画像のさらに左奥、つまりバナナ園の西側ですが、
こちらは土塀が出来ていますが雑草に覆われているだけなので、
雑草の草刈りをして、防風林を植える準備をしていたら、
ヤンバルクイナの休憩所が現れました。

ヤンバルクイナのゆんたく場所111030-1.JPG

ヤンバルクイナのゆんたく場所111030-2.JPG


なぜヤンバルクイナのゆんたく場所だと判るのかというと、
バナナ園にやんばるの腐葉土を撒いたり、
バナナ園の雑草を刈ると、
彼らがミミズなどを食べに必ずやってきて
腐葉土を突いたり、払ったりしていますし、
バナナ園の特定の未開地(雑草で荒れ放題のエリア)から
彼らの声が聞こえてくるからです。
また彼らが草むらに逃げ込んでいるエリアでもあるのです。

バナナ園に撒いた腐葉土111030.JPG
 ヤンバルクイナは、ヤンバルの腐葉土に紛れ込んでいる虫や
 ミミズを突いて食べています。


ヤンバルクイナが掘り出した穴111030.JPG
 ヤンバルクイナは地面の上を覆っている枯れた雑草を払いのけて、
 地面付近にいる虫やミミズも突きます。
 画像のバナナの下の赤茶部分は
 ヤンバルクイナが開けた国頭(国頭)マージという酸性土壌が
 露出した部分です。
 この中で少し濃い草っぽいのは、海岸で拾い集めた海藻です。
 海藻にはカリウム成分が多いですから、
 バナナには良いはずだと撒いています。



昨年7月にコーヒー山やバナナ園を見学に来た
神奈川県の、当時小学2年生のかずくんに
バナナ園のバナナ2本をあげると約束したのですが、
バナナ園の防風対策がされていないために
房が出来て収穫に期待すると台風で倒されることが
繰り返されていることで、
バナナ園の防風対策の必要性が迫られていたのです。

かずくんバナナ111030.JPG
 昨年7月にかずくんが選んだバナナは
 収穫直前の台風で倒壊しましたが、
 その子株が生育し、今月開花しました。
 このバナナの収穫までの様子と
 バナナ学についてのブログも先月作成し、  
 おそらくかずくんも見ていると思います。
 期待してるかな?
 「今度もダメだろう」って思っているのかな?



ヤンバルクイナの話に戻りますが
バナナ園の草刈り後、地面が掘り返されることがたびたびあり、
 ・イヌ
 ・ネコ
 ・ブタ
 ・イノシシ
 ・ヤギ
 ・カラス
 ・マングース
 ・ヒト

などの犯行説を想定したのですが、
どれも決定打に欠けていたところ、
三本足や口ばしの跡が地面に残っていたことで、
被疑者に至ったのです。
カカオのタネ植えでも彼らにタネを食べられてしまっています。

とはいっても、
このエリアはもともと彼らの生息域で
私たちが勝手に入り込んでいるわけですから、
仲良く共存共生していかなければいけないのです。
posted by COFFEE CHERRY at 23:19| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | バナナの栽培 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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